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「刑事さん、私何も知りません。そんな人達の事も、事件の事も、そこで何が起きたのかも。私は何も分からない。でも、皆そうなんじゃないですか。殺された人だって、きっと犯人だって。皆分かっていないんです。自分が一体、何をして何を言っているのか。……ねえ、だから、刑事さん。絶対に信じては駄目なんです。今から私が言う事の全てを、貴方だけは疑ってくれないと」
自分が犯人だと偽証する人間は意外と多い。こいつもきっとその類なのだろう。確かにそう思ったのに、その女から目を逸らす事が出来なかった。奇妙な諦念を感じさせる暗い色の瞳。どこか異質な雰囲気を纏った女。逃亡者。ふとそんな言葉が脳裏に浮かぶ。この女は何かから逃げている。確信したあの瞬間を思い出し、真下悟は自嘲する。確かにあれが始まりだった、と。取調室で、苗字名前と対面した瞬間。あの言葉を聞いた瞬間から、自分とあの女は【かみあって】しまったのだろう。
誰の事も信じるな。常に疑え。あの人に叩き込まれたやり方は、芯となって今も残っている。もとよりそういう性質を持っていたのだろう。周囲の人間を常に観察し、嗅ぎまわらずにはいられない。綺麗に取り繕われた皮を剥ぎ、欺瞞に覆われた臓腑を切り分け、他人の秘密を引きずり出す。それは最早癖となって、思考の根本に根付いていた。真下悟は、そのことに疑問すらも抱かなかった。対象を疑い観察する。だからこそ足を取られたのだと今は分かる。何かから逃げ回る女。周囲に死の影が付きまとう女。無意識に、凄惨な気配を漂わせる女。
取調室で相対した苗字名前に、興味をそそられたのは事実だった。だからあの人の頼みを受け入れた。たまにでいいから様子を見てやってくれ。その言葉通り、真下は苗字名前の周囲を定期的に観察するようになった。女の周りで自殺やら殺人やらが頻発したことも、仕事の面では好都合だった。深入りはしない。ただ観察し、見定める。事件の気配があれば即動けるように。……本当にただ、それだけの筈だったのだ。
結局俺は、自分の事を過信しすぎていたんだろう。
真下悟は自嘲する。自嘲しながら、もう何度もなぞった思考をまたしても繰り返す。バランスを崩したのはあの夜の事だった。数年前の丁度この時期。捜査の帰りに偶然通りがかっただけの深夜の公園。そこであの女が酔いつぶれていた。あくまでも職業的な義務感から声をかけたら、苗字名前はけらけらと笑った。「お兄さんあの時の刑事さんでしょ。素敵。私の事まだ見張っててくれたんだね」取調室での態度と随分違うじゃないか。少々面食らったが、まあ、だから何という事もない。女は一方的に喋り倒した後、不意に黙り込んだ。それから泣きそうな眼をして、震える手で真下のコートを掴む。白い指先。何かに怯えているような視線。
「ねえ、帰らないでもう少しここに居てよ」懺悔するようなその声が今でも耳に残っている。自分の形が分からなくなるのだ。それが酷く恐ろしい。ろれつの回らない舌で話していたのは大体そんなような内容だった。勿論酔っぱらいの戯言に過ぎない。それなのに女の手を振りほどくことができなかった。ここで自分が手を放したら、きっとこいつは死ぬだろう。そんなおかしな錯覚に支配されたまま、女との交際はずるずると続いた。
良く喋る人間というのは二パターンに分けられる。自己開示に抵抗のない人間。もしくは、内心に踏み込まれないように慎重に自己開示らしきものを行う人間。苗字名前は後者だった。職場での出来事。幼少期の話。友人との雑談。全てを開示する様な素振りを見せながら、一定以上に踏み込もうとすると手ひどく拒絶する。別にそれでも不都合はなかった。あの人に言われたことを破る気もなかったし、何より真下にとってもそれは好都合な筈だったのだ。何も聞かない、代わりに踏み込ませない。体と(苗字名前に言わせれば)餌付けだけのシンプルな関係。
そもそも連絡を絶ったのはこちらなのだ。苗字名前の手元に残っていたのは、刑事だった頃の名刺とはしりがきの書置きのみ。死印の一件が解決した後、そのまま関係を終わらせる事だって出来た。それでもあの部屋に足を向けてしまったのは、今はもういないあの人への義務感からだろうか。よく分からないままその感情に蓋をした。曖昧なままの関係。それでも自分が傍に居ることで、こいつをこちら側に留めておけるかもしれない。そんな甘い期待とともに、中途半端な真似をしてきたツケが手ひどく返ってきたのだろう。本当は分かっていた。苗字名前の背後にはいつだって怪異の気配があった。恐らく本人も自覚できない程、存在の深くまでを怪異に侵食されている。
苗字名前の過去を調べていくうちに、その予感は確信に変わった。怪異と人間が混じり合ったような目をしている。八敷に告げられるまでもなく、随分と昔から真下悟はその事に気付いていたのだ。気付いていながら、目を逸らし続けていた。数十年前の事件。いかれているとしか思えない儀式。自殺者のリスト。かき集めた情報の何一つだって、本人に知らせてやる気はなかった。あいつは様々な境界の上に立っている。きっとほんの少し背を押すだけで、容易くあちら側に転落するだろう。そう直感したからだ。無様なものだと自分でも思う。義務感。同情心。もう居ない人間への思慕。恋愛感情。それらすべてが絡まり合って、自分でも手が付けられない有様だった。とにかくそれ程までにあの女に執着していたのだ。それを認めてしまうのは、随分と癇に障る作業だったが。
……つまりどうしたって、俺は苗字名前を切り捨てられない。うんざりするような事実を前に、真下悟はまたしてもため息を零した。どこか血腥い空気を漂わせる女。死の気配を漂わせる女。どうしてこんなことになった。そう自問自答せずにはいられない。顔はともかく、性格など何もかもが気に食わないにも関わらず。ごくまれにだが、放っておくと野垂れ死にそうな顔をされるのにもうんざりしていた。そのはずだった。ただ興味をそそられただけ。絡めとって正体を確かめる筈だったのに、こっちの方が足を取られた。そして厄介ごとに首を突っ込む羽目になっている。それなのに。
ああ酷い女に捕まった。そう呟いた自分の声が、微かに笑みを含んでいる。その事に気付いて舌打ちしたくなる。結局俺は自分の事を過信しすぎていた、と、真下悟は自嘲する。だがそれも、最早どうしようもない事なのかもしれなかった。取調室で苗字名前と対面した瞬間。あの声を聞いた瞬間から、自分とあいつは【かみあって】しまっていたのだから。
▽
「真下くん……わたし。
色々ありがとうね。八敷さんと大門先生にもよろしく伝えといて。あと長嶋くんにも。
長嶋くん良い子だね。真下くんの話とか会ってなかった間の事とか、結構色々聞いちゃった。何か嬉しかったよ。前までの真下くんは何て言うかこう、一人で突っ走って一人で野垂れ死にそうなとこあったから。でも、真下くんはいつもそんな感じなのに人に好かれるんだよね。何でなんだろうね。
ああ話がそれちゃった。……それでさ。
真下くんさあ、八敷さんと二人で何か危ない事してなかった?
私最近変なんだよね。変なときに幻覚が見える。実は今も見えちゃったんだけど。八敷さんと真下くんが、真っ青な部屋で倒れてる所。
いや、気のせいなら良いんだけどさ。多分気のせいじゃないよね。その場所、多分私の知ってる所。真下くん達を襲った何かの事も、多分私は知ってる。こういうのって何でわかっちゃうんだろうね。最近ずっとおかしかったんだよ。昔の事なんて一個も思い出せないのに変な物ばっか見えてさ。だから分かるんだけど、多分私がずっと呼んでたんだよ、そいつらの事を。
……うん。だからもういいよ、一人で何とか頑張ってみる。安岡先生も言ってたし。根源を絶たないと止まらない。その根源って、多分私の事だから。
怒ってる?怒ってるよね。色々とごめん。助けようとしてくれてありがとう。
でも私はさ、……自分が死ぬより、真下くんがいなくなっちゃうことの方がずっと困る。まあ死ぬつもりはないんだけどさ、一応。
でも念のため言っておくね。ずっとずっと大好きだったよ、真下くん。
ところで、最初に会った時に話した事覚えてるかな。覚えてるよね。
真下くんは、私の事を信じないでいてくれた。私をずっと疑っていてくれた。だからきっと、これは真下くんにしか頼めない。ね、一生のお願い。
……私があいつに飲み込まれたら、真下くんが私を殺して」
▽
「おいふざけるな今どこだ。……は? 何を訳の分からん事を言ってる。黙れ。やかましい、話を聞け質問に答えろ。……、ああもういい、貴様がその気なら俺が引きずり出してやる。もう大方の居場所は割れたから覚悟しておけ。精々首を洗ってそこで待ってろ。いいか、逃げられるなどと思うなよ」
この男、本当は元刑事ではなくヤクザか何かだったのではないだろうか。緊迫した状況にも関わらず、八敷一男はついそんなことを考えてしまう。助手席の真下悟の口ぶりから、その着信の主が苗字名前であることは察しがついた。かすかに絶え間なく聞こえる遠い声。携帯電話の小さなスピーカー越しでは、その会話の内容までは把握できなかった。しかし、どうやら電話は一方的に切れたらしかった。真下は何度目かも分からない舌打ちを漏らした後、明確な口ぶりで八敷に目的地を告げた。
「……行き先が決まった。市内だ。あの女の住んでたマンションに向かう」
「ああ。今の電話は」
「苗字名前からだった。あいつ、どうやら自分からあの怪異を呼んだらしい。本当にふざけやがって。こんなことなら手錠でもなんでもつけて鍵のかかった部屋にでも転がしておくべきだった」
「……お前、どんどん発言が物騒になるな。俺には常識をわきまえろとかなんだとか、好き勝手言うくせに」
「ああそうだな、俺が間抜けだったよ。貴様に偉そうな事を言ってた癖にこのザマだ」
「はは。だからあの時言ったんだよ。そう簡単に割り切れるもんじゃないんだ。俺も、お前も」
「……言ってろよ。だが俺は貴様のように、バケモノ相手に説得をやろうってわけじゃない。どれだけいかれてたとしても、所詮あの女は人間だ。だから手段はあるんだよ、幾らでもな」
「……そうか」
彼女は果たして完全な人間と言えるのか。
浮かんだ疑問を、口に出すことはしないでおいた。代りに「まあ、俺としては安心したよ。恋人を大事にできる程度には、真下にも人の心があったって事に」などと軽口をたたいてやる。真下悟は心底厭そうな顔をしたが、これくらいの意趣返しは許されるだろう。何せこれまで、散々この男には罵詈雑言を吐かれてきたのだ。数秒の沈黙。窓を細く開けて、真下が煙草に火をつけるのを視界の端でとらえる。それを深く吸い込み、紫煙を吐き出しながら男が呟く。「はあ。俺だってこんなのは想定外だったんだよ。……全く、酷い女に捕まった」その声がかすかに笑みを含んでいることに気付いて、八敷は何とも言えない気持ちになる。
言葉は呪いだ。つまりこれも呪いなのだ、と、八敷は思う。対象を形作る呪い。その対象に名前を付け、縛り、固定する。苗字名前は、真下の事を無条件に信頼しているように見えた。無条件に、そう、殆ど信仰と言っていいほどに。言葉は呪いだ。それを信じる者に、呪いは力を発揮する。だからこそきっと、苗字名前は人間なのだ。……少なくとも真下悟がそう定義する限り、彼女は人間の形で居続けられるのかもしれないのだから。
自分が犯人だと偽証する人間は意外と多い。こいつもきっとその類なのだろう。確かにそう思ったのに、その女から目を逸らす事が出来なかった。奇妙な諦念を感じさせる暗い色の瞳。どこか異質な雰囲気を纏った女。逃亡者。ふとそんな言葉が脳裏に浮かぶ。この女は何かから逃げている。確信したあの瞬間を思い出し、真下悟は自嘲する。確かにあれが始まりだった、と。取調室で、苗字名前と対面した瞬間。あの言葉を聞いた瞬間から、自分とあの女は【かみあって】しまったのだろう。
誰の事も信じるな。常に疑え。あの人に叩き込まれたやり方は、芯となって今も残っている。もとよりそういう性質を持っていたのだろう。周囲の人間を常に観察し、嗅ぎまわらずにはいられない。綺麗に取り繕われた皮を剥ぎ、欺瞞に覆われた臓腑を切り分け、他人の秘密を引きずり出す。それは最早癖となって、思考の根本に根付いていた。真下悟は、そのことに疑問すらも抱かなかった。対象を疑い観察する。だからこそ足を取られたのだと今は分かる。何かから逃げ回る女。周囲に死の影が付きまとう女。無意識に、凄惨な気配を漂わせる女。
取調室で相対した苗字名前に、興味をそそられたのは事実だった。だからあの人の頼みを受け入れた。たまにでいいから様子を見てやってくれ。その言葉通り、真下は苗字名前の周囲を定期的に観察するようになった。女の周りで自殺やら殺人やらが頻発したことも、仕事の面では好都合だった。深入りはしない。ただ観察し、見定める。事件の気配があれば即動けるように。……本当にただ、それだけの筈だったのだ。
結局俺は、自分の事を過信しすぎていたんだろう。
真下悟は自嘲する。自嘲しながら、もう何度もなぞった思考をまたしても繰り返す。バランスを崩したのはあの夜の事だった。数年前の丁度この時期。捜査の帰りに偶然通りがかっただけの深夜の公園。そこであの女が酔いつぶれていた。あくまでも職業的な義務感から声をかけたら、苗字名前はけらけらと笑った。「お兄さんあの時の刑事さんでしょ。素敵。私の事まだ見張っててくれたんだね」取調室での態度と随分違うじゃないか。少々面食らったが、まあ、だから何という事もない。女は一方的に喋り倒した後、不意に黙り込んだ。それから泣きそうな眼をして、震える手で真下のコートを掴む。白い指先。何かに怯えているような視線。
「ねえ、帰らないでもう少しここに居てよ」懺悔するようなその声が今でも耳に残っている。自分の形が分からなくなるのだ。それが酷く恐ろしい。ろれつの回らない舌で話していたのは大体そんなような内容だった。勿論酔っぱらいの戯言に過ぎない。それなのに女の手を振りほどくことができなかった。ここで自分が手を放したら、きっとこいつは死ぬだろう。そんなおかしな錯覚に支配されたまま、女との交際はずるずると続いた。
良く喋る人間というのは二パターンに分けられる。自己開示に抵抗のない人間。もしくは、内心に踏み込まれないように慎重に自己開示らしきものを行う人間。苗字名前は後者だった。職場での出来事。幼少期の話。友人との雑談。全てを開示する様な素振りを見せながら、一定以上に踏み込もうとすると手ひどく拒絶する。別にそれでも不都合はなかった。あの人に言われたことを破る気もなかったし、何より真下にとってもそれは好都合な筈だったのだ。何も聞かない、代わりに踏み込ませない。体と(苗字名前に言わせれば)餌付けだけのシンプルな関係。
そもそも連絡を絶ったのはこちらなのだ。苗字名前の手元に残っていたのは、刑事だった頃の名刺とはしりがきの書置きのみ。死印の一件が解決した後、そのまま関係を終わらせる事だって出来た。それでもあの部屋に足を向けてしまったのは、今はもういないあの人への義務感からだろうか。よく分からないままその感情に蓋をした。曖昧なままの関係。それでも自分が傍に居ることで、こいつをこちら側に留めておけるかもしれない。そんな甘い期待とともに、中途半端な真似をしてきたツケが手ひどく返ってきたのだろう。本当は分かっていた。苗字名前の背後にはいつだって怪異の気配があった。恐らく本人も自覚できない程、存在の深くまでを怪異に侵食されている。
苗字名前の過去を調べていくうちに、その予感は確信に変わった。怪異と人間が混じり合ったような目をしている。八敷に告げられるまでもなく、随分と昔から真下悟はその事に気付いていたのだ。気付いていながら、目を逸らし続けていた。数十年前の事件。いかれているとしか思えない儀式。自殺者のリスト。かき集めた情報の何一つだって、本人に知らせてやる気はなかった。あいつは様々な境界の上に立っている。きっとほんの少し背を押すだけで、容易くあちら側に転落するだろう。そう直感したからだ。無様なものだと自分でも思う。義務感。同情心。もう居ない人間への思慕。恋愛感情。それらすべてが絡まり合って、自分でも手が付けられない有様だった。とにかくそれ程までにあの女に執着していたのだ。それを認めてしまうのは、随分と癇に障る作業だったが。
……つまりどうしたって、俺は苗字名前を切り捨てられない。うんざりするような事実を前に、真下悟はまたしてもため息を零した。どこか血腥い空気を漂わせる女。死の気配を漂わせる女。どうしてこんなことになった。そう自問自答せずにはいられない。顔はともかく、性格など何もかもが気に食わないにも関わらず。ごくまれにだが、放っておくと野垂れ死にそうな顔をされるのにもうんざりしていた。そのはずだった。ただ興味をそそられただけ。絡めとって正体を確かめる筈だったのに、こっちの方が足を取られた。そして厄介ごとに首を突っ込む羽目になっている。それなのに。
ああ酷い女に捕まった。そう呟いた自分の声が、微かに笑みを含んでいる。その事に気付いて舌打ちしたくなる。結局俺は自分の事を過信しすぎていた、と、真下悟は自嘲する。だがそれも、最早どうしようもない事なのかもしれなかった。取調室で苗字名前と対面した瞬間。あの声を聞いた瞬間から、自分とあいつは【かみあって】しまっていたのだから。
▽
「真下くん……わたし。
色々ありがとうね。八敷さんと大門先生にもよろしく伝えといて。あと長嶋くんにも。
長嶋くん良い子だね。真下くんの話とか会ってなかった間の事とか、結構色々聞いちゃった。何か嬉しかったよ。前までの真下くんは何て言うかこう、一人で突っ走って一人で野垂れ死にそうなとこあったから。でも、真下くんはいつもそんな感じなのに人に好かれるんだよね。何でなんだろうね。
ああ話がそれちゃった。……それでさ。
真下くんさあ、八敷さんと二人で何か危ない事してなかった?
私最近変なんだよね。変なときに幻覚が見える。実は今も見えちゃったんだけど。八敷さんと真下くんが、真っ青な部屋で倒れてる所。
いや、気のせいなら良いんだけどさ。多分気のせいじゃないよね。その場所、多分私の知ってる所。真下くん達を襲った何かの事も、多分私は知ってる。こういうのって何でわかっちゃうんだろうね。最近ずっとおかしかったんだよ。昔の事なんて一個も思い出せないのに変な物ばっか見えてさ。だから分かるんだけど、多分私がずっと呼んでたんだよ、そいつらの事を。
……うん。だからもういいよ、一人で何とか頑張ってみる。安岡先生も言ってたし。根源を絶たないと止まらない。その根源って、多分私の事だから。
怒ってる?怒ってるよね。色々とごめん。助けようとしてくれてありがとう。
でも私はさ、……自分が死ぬより、真下くんがいなくなっちゃうことの方がずっと困る。まあ死ぬつもりはないんだけどさ、一応。
でも念のため言っておくね。ずっとずっと大好きだったよ、真下くん。
ところで、最初に会った時に話した事覚えてるかな。覚えてるよね。
真下くんは、私の事を信じないでいてくれた。私をずっと疑っていてくれた。だからきっと、これは真下くんにしか頼めない。ね、一生のお願い。
……私があいつに飲み込まれたら、真下くんが私を殺して」
▽
「おいふざけるな今どこだ。……は? 何を訳の分からん事を言ってる。黙れ。やかましい、話を聞け質問に答えろ。……、ああもういい、貴様がその気なら俺が引きずり出してやる。もう大方の居場所は割れたから覚悟しておけ。精々首を洗ってそこで待ってろ。いいか、逃げられるなどと思うなよ」
この男、本当は元刑事ではなくヤクザか何かだったのではないだろうか。緊迫した状況にも関わらず、八敷一男はついそんなことを考えてしまう。助手席の真下悟の口ぶりから、その着信の主が苗字名前であることは察しがついた。かすかに絶え間なく聞こえる遠い声。携帯電話の小さなスピーカー越しでは、その会話の内容までは把握できなかった。しかし、どうやら電話は一方的に切れたらしかった。真下は何度目かも分からない舌打ちを漏らした後、明確な口ぶりで八敷に目的地を告げた。
「……行き先が決まった。市内だ。あの女の住んでたマンションに向かう」
「ああ。今の電話は」
「苗字名前からだった。あいつ、どうやら自分からあの怪異を呼んだらしい。本当にふざけやがって。こんなことなら手錠でもなんでもつけて鍵のかかった部屋にでも転がしておくべきだった」
「……お前、どんどん発言が物騒になるな。俺には常識をわきまえろとかなんだとか、好き勝手言うくせに」
「ああそうだな、俺が間抜けだったよ。貴様に偉そうな事を言ってた癖にこのザマだ」
「はは。だからあの時言ったんだよ。そう簡単に割り切れるもんじゃないんだ。俺も、お前も」
「……言ってろよ。だが俺は貴様のように、バケモノ相手に説得をやろうってわけじゃない。どれだけいかれてたとしても、所詮あの女は人間だ。だから手段はあるんだよ、幾らでもな」
「……そうか」
彼女は果たして完全な人間と言えるのか。
浮かんだ疑問を、口に出すことはしないでおいた。代りに「まあ、俺としては安心したよ。恋人を大事にできる程度には、真下にも人の心があったって事に」などと軽口をたたいてやる。真下悟は心底厭そうな顔をしたが、これくらいの意趣返しは許されるだろう。何せこれまで、散々この男には罵詈雑言を吐かれてきたのだ。数秒の沈黙。窓を細く開けて、真下が煙草に火をつけるのを視界の端でとらえる。それを深く吸い込み、紫煙を吐き出しながら男が呟く。「はあ。俺だってこんなのは想定外だったんだよ。……全く、酷い女に捕まった」その声がかすかに笑みを含んでいることに気付いて、八敷は何とも言えない気持ちになる。
言葉は呪いだ。つまりこれも呪いなのだ、と、八敷は思う。対象を形作る呪い。その対象に名前を付け、縛り、固定する。苗字名前は、真下の事を無条件に信頼しているように見えた。無条件に、そう、殆ど信仰と言っていいほどに。言葉は呪いだ。それを信じる者に、呪いは力を発揮する。だからこそきっと、苗字名前は人間なのだ。……少なくとも真下悟がそう定義する限り、彼女は人間の形で居続けられるのかもしれないのだから。