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車に乗り込むなり分厚いファイルを投げつけられ、八敷一男は閉口した。これは何かと訪ねる前に、運転席の真下がミラー越しに一瞥をくれる。「例の教団の資料だ。苗字名前が巻き込まれた事件についても纏めてある。到着までに目を通せ」いっそ清々しいほどの命令口調だ。こちらの返事も待たずに車を発進させてから、探偵は忌々し気に息を吐く。「教団の関係者にお偉いさんが居たらしい。おかげで手間をかけさせられたが」新聞のスクラップ。週刊誌の切り抜き。事件で死亡した者の解剖記録。当時の物らしき取り調べの記録。パラパラとページを捲る八敷の手が、ふと止まる。これは教団内部の文書のコピーだろうか。【■■賛美交神式】と印刷された文字の一部は掠れて不明瞭だ。【オシルシサマを■に触れさせぬよう清め閉じ込め、■■の血肉を以て■と見做し】そこに綴られていたのは、決め事も方式もでたらめな交霊術らしき儀式の手順だった。しかし手順は殆ど欠落しており、これだけでは全容がつかめない。
「ああ、結構な趣味を持った連中だったようだな。ガキを使った儀式とやらで何か呼び出そうとしたらしい」無感動と言っていいほど落ち着き払った声。真下の言う【ガキ】が誰を指すのかなど、確認せずとも明白だった。オシルシサマ。怪異に取りつかれた安岡都和子が、苗字名前をそう呼んでいた。その人間の性質が噛みあってしまう。そうして厄介なものを呼び寄せる。安岡都和子のーーいや、安岡都和子の口を借りた、【何か】の言葉を思い出す。
「……こいつらは。何を呼び出したんだ、一体」
「知るかよ。それを今から調べに行くんだろうが。怪異の根源は十中八九あの教団の跡地だろう。儀式だか何だか知らないが、そいつを再現して奴を引きずり出す」
存在するものは当然殺すことも出来るはずだ。かつて放った言葉を、この男は覚えているだろうか。八敷の思考を先回りするように、淡々と真下は言葉を紡いでいく。
「例の怪異は、苗字名前に深く関係すると見て良いだろう。殺して済むならそれでもかまわん。……が、奴を排除することであの女の心身に影響が出る可能性も考えられる」
「資料の内容は、彼女には伝えたのか」
「そもそも依頼の範疇を超えた捜査だ、あいつに参考情報を教えてやる道理はない。それに、思い出さずに済むならそれに越したことはないだろう。その方が俺にとっても都合が良い」
「……真下、お前」
「やかましい」
「お前、自分の彼女にだけは意外と優し」
「黙れ」
心底面倒臭そうな舌打ち。車は当てつけのように急ハンドルを切り、バランスを崩した八敷はそのまま窓ガラスに頭をぶつけた。先ほどの言葉を否定しないのは、この男にとって苗字名前が特別な存在であるからか。八敷の生ぬるい視線をミラー越しに受け、開き直ったかのように真下はため息を吐く。
「貴様はこういった事に妙に鼻が利く。説得でもなんでもして、怪異を鎮められるならそうしろ。だが最悪の場合は俺に構わず逃げて良い」
「……、は?」
「冷静さを欠いている自覚はある。結局、俺は苗字名前を切り捨てられなかった。私情を捨てきれない人間の判断など当てにならん。だから八敷、貴様は見誤るな。俺が手温い真似をしてしくじったら、その時は構わず逃げろ」
「真下」
「……」
「お前、大丈夫か? 今日という今日は本当に様子が妙だぞ。具合でも悪いなら運転を変わろうか?」
「……とりあえずな。心底うんざりしてるよ。貴様らが余計な事ばかり言いやがるせいで」
舌打ちとともに、またしても急ハンドル。運転荒いぞ、という八敷のぼやきは無視された。窓の外を、殺風景な暗闇が流れていく。奇妙な静寂が訪れた車内で八敷一男は思考に耽る。呪いの作法。鈴。カミサマ。呼ばれないと来ないという、何か。舗装されていない道に出たのだろう。ガタガタと車体が揺れるたびに、思考までばらばらと散漫になる。窓の外の空気は湿度を増していく。いつの間にか、パラパラと雨が車を打つのが聞こえだす。やれやれ、また雨か。呟いた八敷の言葉には、勿論返事などなかった。
▽
廃墟となって二十年以上経つとはとても思えない。教会然としたその建物は、不思議なほどに当時の外観を保っていた。扉を開いた瞬間に目に入って来るのは、異様な空間だった。びっしりと、壁面を埋め尽くすように括りつけられた鈴。ーーまるで、壁一面に眼球が張り付いているかのような。グロテスクな連想を打ち消し、八敷は聖堂の中に足を進める。めくれ上がった絨毯。半ば腐りかけたまま並んでいる長椅子。備え付けのパイプオルガン。いつものように手当たり次第に調べては、出てきた物を鞄に突っ込んでいく。
祭壇の上に置かれたままだった杯は、恐らく【儀式】に使用した物だろう。床を汚す赤い染みは血痕だろうか。……余り考えたくはないが。祭壇の下に倒れていたボトルにはまだ赤い液体が残っていた。キリスト教ではワインを神の血に見立てるが、ここの連中もそうだったのだろう。壊れかけのまま放置されていた天使の像は、何かの代用に使用できるかもしれない。
ホール内には大量に、当時の痕跡が残されている。ここに置いてある物をかき集めれば、【儀式】の手順は実行できるのだろう。しかし手順の後半部分が欠落している状態では、完全な再現は難しい。静まり返った空間。割れたステンドグラスの向こうに、ぽっかりと暗闇が口を開けている。家探しを始めてどのくらいの時間が経ったのか。鍵となる最後の手掛かりは、案外あっさりと見つかった。
それが見つかったのは、【懺悔室】と書かれた部屋の中だった。扉を開けた瞬間に目に飛び込んできたのは、青いガラスがはめ込まれた大きな窓だった。昼間であれば、この空間は真っ青に染まるに違いない。ちょうど、海の中のように。その場所は、半ば異界のようになっているのかもしれなかった。足を踏み入れた途端に周囲から一切の音が消え失せる。風の音も、雨の音すらも聞こえない。「同じだ、あの時と」呟いた八敷に、真下は「そうか」と乾いた声を返す。椅子もテーブルもない小さな部屋。その中心には日に焼けた冊子がぽつんと置いてあった。【■■賛美交神式】と記載されたそれは、恐らく報告書にあったコピーの原本なのだろう。
大方予想はしていたが、【儀式】の詳細は異様なものだった。教祖の子供である巫女ーー【オシルシサマ】を使った交霊術。【オシルシサマ】と呼ばれる存在を、外界から遮断させ閉じ込める。信者の血を混ぜたワインを大量に摂取させ、巫女の意識を酩酊させる。この手の宗教団体にはありがちな事だ。世間から隔絶された空間に閉じこもり、常人には考えられない理屈で内部の人間をも犠牲にする。感情を押し殺してページを捲る。書かれている内容を確認し、咀嚼する。実に興味深いな。八敷の手元をのぞき込んだ真下がそう吐き捨てる。四方を鈴で取り囲んだ空間。霊的に隔離する目的もあるのだろうか。鈴の音に誘われて降りてきた何かは子供の身に憑依し、更に別の何かとも交じり合う。おそらく苗字名前は、そういったものに噛み合いやすいーー親和性の高い体質なのだろう。安岡の声が脳裏に蘇る。呪い。呼ばれないと来ない。根源を絶たないと止まらない。……つまりこれは。
「……神降ろしと言うよりも、呪いだ。だから、受けた行為が理不尽であればあるほど効力が増す」
「訳が分からん。何か分かったなら順を追って説明しろ」
「……すまん」
人間の狂気にも、グロテスクな儀式にも、いつの間にか慣れてしまった。だがここで犠牲になったのは、自分の知っている人間だ。その事を思うと酷く胃が重くなる。自分の中ではじき出された結論を、目の前の男に告げたくはなかった。しかし一瞬の逡巡の跡、八敷は重い口を開く。
「……呪詛の媒介として、動物や虫を使う方法がある。虫を共食いさせ最後に残った一匹を使う。嬲り殺しにした動物の死骸でも良い。それが理不尽であればあるほど呪力は増す。
こいつらは、彼女を【入れ物】にしたんだろう。彼女の中に降ろした何かを、混じり合わせ強化するために。……つまり、これは呪いだ。苗字名前を媒介にして、今も活動を続けている」
「要するに、連中は何かを呪う為にガキを痛めつけたと。……良くある話だな」
儀式は失敗した。二十年前に起きた集団自殺事件。呪詛は失敗し、呪いは術者に跳ね返った。そして、【媒介】である苗字名前だけが無傷で生き残った。だが、彼女の中に【降りてきた】何かは消えなかった。だとしたらそいつらは、呪いを成就させる日を待っているのだろうか。この場所で、……あるいは、彼女の【中】で? 八敷は再び思い出す。苗字名前と対面した時の、奇妙な印象。怪異と混ざり合ったような空気。どこか脆い、不安定な部分を持った女。死んだ人間が生きている奴に手を出そうとする事自体が間違いだ。いつか言われた言葉を、もう一度反芻する。生者と怪異とは相いれない。だからいずれ選ぶ日が来る。真下悟はあの日、自分にそう告げた。……だが、生きている人間が怪異たり得るのだとしたら?
「……だから、最初から言っているだろう。無様なもんだよな。ここまで分かっても、俺はあいつを切り捨てられない」淡々と事実を並べるかの如くそれだけ言って、真下は踵を返す。「……手順は揃ったんだろ。さっさと【儀式】を再現するぞ」その声に無言で同意し、八敷は男の背中を追う。
▽
一度手順が分かってしまえば、儀式を行うのにそれほどの手間はかからなかった。ひび割れた天使像を【オシルシサマ】に見立て、祈りの言葉を読み上げる。ワインに血を混ぜ、天使の像に注ぐ。その口の中に鈴を入れ、目を塞ぐ。あらゆる宗教を中途半端に混ぜ合わせたかのようなやり方だ。それらは儀式というよりも、悪趣味なオカルトマニアが行う【おまじない】の類と似たような物に思えた。素人が行う交霊術など殆どが意味をなさない。だが、この場ではそんな常識は通用しないのだろう。手順を行いながら、周囲の空気が陰鬱さを増していくのが分かった。どこからともなく漂う甘く饐えた匂い。最早嗅ぎ慣れてしまったそれは、死の匂いなのだろうと八敷は思う。聖書の一説らしき文句の最後の言葉を唱え終えるのと、ほぼ同時に【それ】は起きた。
ひたり。
一切の音が遮断された空間で、その足音はいやに大きく聞こえる。濡れた地面を裸足で歩く時のような不快な音。ひたり。視線、のようなものが、身体中にまとわりつく。ひたり。
「ーー■■」
暗闇の中、かすかな声が呼びかける。聞きなれない、妙な節のついた声。もしかしたら歌の一説なのかもしれない。
「■■■■■■■■■■■」
「■■■■」
手の中の蛍光灯が、汗でぬるついているのが分かった。振り返ってはいけない。いや、振り返らなくては。振り返って確かめなくては。ここの連中が一体何を呼び出したのか。彼女を蝕む【呪い】の正体が、一体何であるのかを。ひたり。また足音。「■なるかな」今度はずっと近い。「聖なるかな」すぐ後ろから聞こえる声。音は少しずつ声の形に変わる。「万軍の神なる主」八敷は己を鼓舞しながら、後ろにいる【何か】に神経を集中し、振り返る。
「君、は」思わず漏れた声に口をふさぐ。懐中電灯に照らされた先。そこに立っていたのは、この空間に相応しくないモノーー言葉を覚えて間もないような顔の、幼い少女の姿だった。
「ほざんな」
「ほざ、んな」
「てん、の。いと、たかき、ところに」
覚えたてのオウムのようにたどたどしく、祈りの言葉を繰り返す少女。その目は、何もとらえてはいなかった。声は、古びた録音テープを連想させた。教団の信者たちの声を再生しているのだろうか。複数人の音声が入り混じったような、不鮮明な声。そこに感情は読み取れない。一見して、彼女が人間ではないことは明らかだった。それなのに、八敷は奇妙に確信していた。目の前にある【これ】は、苗字名前の一部なのだと。
「ほざんな」流れ落ちる黒い液体。それは血だろうか。八敷達の目の前で、少女はドロドロと変形して姿を変えた。眼窩から流れ落ちる眼球。血とも内臓ともつかない何かが溢れて床を汚す。人間の姿を保てないのか。泥の塊のような姿に崩れたそれは、音を発しながら膨張していく。壁に写り込んだ影が蠢く。饐えた匂い。死の匂い。今まで見てきた怪異の性質とは、何かが決定的に違う。こちらへの敵意でも悪意でもない、数多の【死】の記憶。降り積もる膨大な記憶は、八敷の脳内に入り込み意識を塗りつぶしていく。
説得でもなんでもして鎮められるならと、そう思っていた。だがこいつらは。安岡都和子の言う通り、確かにそれは呪いだった。意思のない膨大なエネルギーの塊。こちらの言葉とは無関係に動く、ただの歯車。無差別に対象を定め縊り殺す。じわじわと喉が締め上げられているように、呼吸が苦しくなっていく。そうかーー教団の奴らもこうして死んだのか。そう朧げに理解する。骨のきしむ音。息ができない。このままではーーそう思った矢先、不意に空気が揺らいだ。
遠くから、鈴の音が聞こえた。その音に反応するかのように、【それ】は動きを停止させ踵を返す。
「ーー■■■■」
人間の言葉のような音階。何を言っているのかは理解できなかった。しかし、本能的に理解する。呪いの対象が、自分たちから切り換わった。気が付いたら、饐えた匂いも消えてなくなった。溺れて息を吹き返した人間のように、八敷はただその場で呼吸を繰り返している。助かったーーだが。勿論、安心など出来る訳がなかった。【あれ】が戻ってくるかもしれない。開け放たれた扉の向こうから。割れたままの窓の向こうから。
磔にされたように立ち尽くしてどのくらい経過しただろうか。静寂を破ったのは、真下の携帯電話だった。無機質な着信音。それは、この空間では妙に浮いて聞こえた。異界にあって、それだけが妙に現実の気配を纏っている。着信に答える同行者の声を、八敷はぼんやりと聞き流す。ぼそぼそと苛立たし気に続くやり取り。ややあって電話は切れ、真下悟は小さく悪態を漏らした。
「ああクソ。……あの女ふざけやがって」
嫌な予感がする。真下は呼びかけても顔を上げようとはせず、黒い画面に目を落としたままだ。彼女に何かあったのか。そう八敷の方から聞く前に、目つきの悪い探偵が口を開く。いっそ殺気立っていると言っていいくらいの、今までに見た中で一番と言っていいほどの人相の悪さで。
「ウチのバイトから連絡が入った。あの女……苗字名前が、九条館から消えた」
「ああ、結構な趣味を持った連中だったようだな。ガキを使った儀式とやらで何か呼び出そうとしたらしい」無感動と言っていいほど落ち着き払った声。真下の言う【ガキ】が誰を指すのかなど、確認せずとも明白だった。オシルシサマ。怪異に取りつかれた安岡都和子が、苗字名前をそう呼んでいた。その人間の性質が噛みあってしまう。そうして厄介なものを呼び寄せる。安岡都和子のーーいや、安岡都和子の口を借りた、【何か】の言葉を思い出す。
「……こいつらは。何を呼び出したんだ、一体」
「知るかよ。それを今から調べに行くんだろうが。怪異の根源は十中八九あの教団の跡地だろう。儀式だか何だか知らないが、そいつを再現して奴を引きずり出す」
存在するものは当然殺すことも出来るはずだ。かつて放った言葉を、この男は覚えているだろうか。八敷の思考を先回りするように、淡々と真下は言葉を紡いでいく。
「例の怪異は、苗字名前に深く関係すると見て良いだろう。殺して済むならそれでもかまわん。……が、奴を排除することであの女の心身に影響が出る可能性も考えられる」
「資料の内容は、彼女には伝えたのか」
「そもそも依頼の範疇を超えた捜査だ、あいつに参考情報を教えてやる道理はない。それに、思い出さずに済むならそれに越したことはないだろう。その方が俺にとっても都合が良い」
「……真下、お前」
「やかましい」
「お前、自分の彼女にだけは意外と優し」
「黙れ」
心底面倒臭そうな舌打ち。車は当てつけのように急ハンドルを切り、バランスを崩した八敷はそのまま窓ガラスに頭をぶつけた。先ほどの言葉を否定しないのは、この男にとって苗字名前が特別な存在であるからか。八敷の生ぬるい視線をミラー越しに受け、開き直ったかのように真下はため息を吐く。
「貴様はこういった事に妙に鼻が利く。説得でもなんでもして、怪異を鎮められるならそうしろ。だが最悪の場合は俺に構わず逃げて良い」
「……、は?」
「冷静さを欠いている自覚はある。結局、俺は苗字名前を切り捨てられなかった。私情を捨てきれない人間の判断など当てにならん。だから八敷、貴様は見誤るな。俺が手温い真似をしてしくじったら、その時は構わず逃げろ」
「真下」
「……」
「お前、大丈夫か? 今日という今日は本当に様子が妙だぞ。具合でも悪いなら運転を変わろうか?」
「……とりあえずな。心底うんざりしてるよ。貴様らが余計な事ばかり言いやがるせいで」
舌打ちとともに、またしても急ハンドル。運転荒いぞ、という八敷のぼやきは無視された。窓の外を、殺風景な暗闇が流れていく。奇妙な静寂が訪れた車内で八敷一男は思考に耽る。呪いの作法。鈴。カミサマ。呼ばれないと来ないという、何か。舗装されていない道に出たのだろう。ガタガタと車体が揺れるたびに、思考までばらばらと散漫になる。窓の外の空気は湿度を増していく。いつの間にか、パラパラと雨が車を打つのが聞こえだす。やれやれ、また雨か。呟いた八敷の言葉には、勿論返事などなかった。
▽
廃墟となって二十年以上経つとはとても思えない。教会然としたその建物は、不思議なほどに当時の外観を保っていた。扉を開いた瞬間に目に入って来るのは、異様な空間だった。びっしりと、壁面を埋め尽くすように括りつけられた鈴。ーーまるで、壁一面に眼球が張り付いているかのような。グロテスクな連想を打ち消し、八敷は聖堂の中に足を進める。めくれ上がった絨毯。半ば腐りかけたまま並んでいる長椅子。備え付けのパイプオルガン。いつものように手当たり次第に調べては、出てきた物を鞄に突っ込んでいく。
祭壇の上に置かれたままだった杯は、恐らく【儀式】に使用した物だろう。床を汚す赤い染みは血痕だろうか。……余り考えたくはないが。祭壇の下に倒れていたボトルにはまだ赤い液体が残っていた。キリスト教ではワインを神の血に見立てるが、ここの連中もそうだったのだろう。壊れかけのまま放置されていた天使の像は、何かの代用に使用できるかもしれない。
ホール内には大量に、当時の痕跡が残されている。ここに置いてある物をかき集めれば、【儀式】の手順は実行できるのだろう。しかし手順の後半部分が欠落している状態では、完全な再現は難しい。静まり返った空間。割れたステンドグラスの向こうに、ぽっかりと暗闇が口を開けている。家探しを始めてどのくらいの時間が経ったのか。鍵となる最後の手掛かりは、案外あっさりと見つかった。
それが見つかったのは、【懺悔室】と書かれた部屋の中だった。扉を開けた瞬間に目に飛び込んできたのは、青いガラスがはめ込まれた大きな窓だった。昼間であれば、この空間は真っ青に染まるに違いない。ちょうど、海の中のように。その場所は、半ば異界のようになっているのかもしれなかった。足を踏み入れた途端に周囲から一切の音が消え失せる。風の音も、雨の音すらも聞こえない。「同じだ、あの時と」呟いた八敷に、真下は「そうか」と乾いた声を返す。椅子もテーブルもない小さな部屋。その中心には日に焼けた冊子がぽつんと置いてあった。【■■賛美交神式】と記載されたそれは、恐らく報告書にあったコピーの原本なのだろう。
大方予想はしていたが、【儀式】の詳細は異様なものだった。教祖の子供である巫女ーー【オシルシサマ】を使った交霊術。【オシルシサマ】と呼ばれる存在を、外界から遮断させ閉じ込める。信者の血を混ぜたワインを大量に摂取させ、巫女の意識を酩酊させる。この手の宗教団体にはありがちな事だ。世間から隔絶された空間に閉じこもり、常人には考えられない理屈で内部の人間をも犠牲にする。感情を押し殺してページを捲る。書かれている内容を確認し、咀嚼する。実に興味深いな。八敷の手元をのぞき込んだ真下がそう吐き捨てる。四方を鈴で取り囲んだ空間。霊的に隔離する目的もあるのだろうか。鈴の音に誘われて降りてきた何かは子供の身に憑依し、更に別の何かとも交じり合う。おそらく苗字名前は、そういったものに噛み合いやすいーー親和性の高い体質なのだろう。安岡の声が脳裏に蘇る。呪い。呼ばれないと来ない。根源を絶たないと止まらない。……つまりこれは。
「……神降ろしと言うよりも、呪いだ。だから、受けた行為が理不尽であればあるほど効力が増す」
「訳が分からん。何か分かったなら順を追って説明しろ」
「……すまん」
人間の狂気にも、グロテスクな儀式にも、いつの間にか慣れてしまった。だがここで犠牲になったのは、自分の知っている人間だ。その事を思うと酷く胃が重くなる。自分の中ではじき出された結論を、目の前の男に告げたくはなかった。しかし一瞬の逡巡の跡、八敷は重い口を開く。
「……呪詛の媒介として、動物や虫を使う方法がある。虫を共食いさせ最後に残った一匹を使う。嬲り殺しにした動物の死骸でも良い。それが理不尽であればあるほど呪力は増す。
こいつらは、彼女を【入れ物】にしたんだろう。彼女の中に降ろした何かを、混じり合わせ強化するために。……つまり、これは呪いだ。苗字名前を媒介にして、今も活動を続けている」
「要するに、連中は何かを呪う為にガキを痛めつけたと。……良くある話だな」
儀式は失敗した。二十年前に起きた集団自殺事件。呪詛は失敗し、呪いは術者に跳ね返った。そして、【媒介】である苗字名前だけが無傷で生き残った。だが、彼女の中に【降りてきた】何かは消えなかった。だとしたらそいつらは、呪いを成就させる日を待っているのだろうか。この場所で、……あるいは、彼女の【中】で? 八敷は再び思い出す。苗字名前と対面した時の、奇妙な印象。怪異と混ざり合ったような空気。どこか脆い、不安定な部分を持った女。死んだ人間が生きている奴に手を出そうとする事自体が間違いだ。いつか言われた言葉を、もう一度反芻する。生者と怪異とは相いれない。だからいずれ選ぶ日が来る。真下悟はあの日、自分にそう告げた。……だが、生きている人間が怪異たり得るのだとしたら?
「……だから、最初から言っているだろう。無様なもんだよな。ここまで分かっても、俺はあいつを切り捨てられない」淡々と事実を並べるかの如くそれだけ言って、真下は踵を返す。「……手順は揃ったんだろ。さっさと【儀式】を再現するぞ」その声に無言で同意し、八敷は男の背中を追う。
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一度手順が分かってしまえば、儀式を行うのにそれほどの手間はかからなかった。ひび割れた天使像を【オシルシサマ】に見立て、祈りの言葉を読み上げる。ワインに血を混ぜ、天使の像に注ぐ。その口の中に鈴を入れ、目を塞ぐ。あらゆる宗教を中途半端に混ぜ合わせたかのようなやり方だ。それらは儀式というよりも、悪趣味なオカルトマニアが行う【おまじない】の類と似たような物に思えた。素人が行う交霊術など殆どが意味をなさない。だが、この場ではそんな常識は通用しないのだろう。手順を行いながら、周囲の空気が陰鬱さを増していくのが分かった。どこからともなく漂う甘く饐えた匂い。最早嗅ぎ慣れてしまったそれは、死の匂いなのだろうと八敷は思う。聖書の一説らしき文句の最後の言葉を唱え終えるのと、ほぼ同時に【それ】は起きた。
ひたり。
一切の音が遮断された空間で、その足音はいやに大きく聞こえる。濡れた地面を裸足で歩く時のような不快な音。ひたり。視線、のようなものが、身体中にまとわりつく。ひたり。
「ーー■■」
暗闇の中、かすかな声が呼びかける。聞きなれない、妙な節のついた声。もしかしたら歌の一説なのかもしれない。
「■■■■■■■■■■■」
「■■■■」
手の中の蛍光灯が、汗でぬるついているのが分かった。振り返ってはいけない。いや、振り返らなくては。振り返って確かめなくては。ここの連中が一体何を呼び出したのか。彼女を蝕む【呪い】の正体が、一体何であるのかを。ひたり。また足音。「■なるかな」今度はずっと近い。「聖なるかな」すぐ後ろから聞こえる声。音は少しずつ声の形に変わる。「万軍の神なる主」八敷は己を鼓舞しながら、後ろにいる【何か】に神経を集中し、振り返る。
「君、は」思わず漏れた声に口をふさぐ。懐中電灯に照らされた先。そこに立っていたのは、この空間に相応しくないモノーー言葉を覚えて間もないような顔の、幼い少女の姿だった。
「ほざんな」
「ほざ、んな」
「てん、の。いと、たかき、ところに」
覚えたてのオウムのようにたどたどしく、祈りの言葉を繰り返す少女。その目は、何もとらえてはいなかった。声は、古びた録音テープを連想させた。教団の信者たちの声を再生しているのだろうか。複数人の音声が入り混じったような、不鮮明な声。そこに感情は読み取れない。一見して、彼女が人間ではないことは明らかだった。それなのに、八敷は奇妙に確信していた。目の前にある【これ】は、苗字名前の一部なのだと。
「ほざんな」流れ落ちる黒い液体。それは血だろうか。八敷達の目の前で、少女はドロドロと変形して姿を変えた。眼窩から流れ落ちる眼球。血とも内臓ともつかない何かが溢れて床を汚す。人間の姿を保てないのか。泥の塊のような姿に崩れたそれは、音を発しながら膨張していく。壁に写り込んだ影が蠢く。饐えた匂い。死の匂い。今まで見てきた怪異の性質とは、何かが決定的に違う。こちらへの敵意でも悪意でもない、数多の【死】の記憶。降り積もる膨大な記憶は、八敷の脳内に入り込み意識を塗りつぶしていく。
説得でもなんでもして鎮められるならと、そう思っていた。だがこいつらは。安岡都和子の言う通り、確かにそれは呪いだった。意思のない膨大なエネルギーの塊。こちらの言葉とは無関係に動く、ただの歯車。無差別に対象を定め縊り殺す。じわじわと喉が締め上げられているように、呼吸が苦しくなっていく。そうかーー教団の奴らもこうして死んだのか。そう朧げに理解する。骨のきしむ音。息ができない。このままではーーそう思った矢先、不意に空気が揺らいだ。
遠くから、鈴の音が聞こえた。その音に反応するかのように、【それ】は動きを停止させ踵を返す。
「ーー■■■■」
人間の言葉のような音階。何を言っているのかは理解できなかった。しかし、本能的に理解する。呪いの対象が、自分たちから切り換わった。気が付いたら、饐えた匂いも消えてなくなった。溺れて息を吹き返した人間のように、八敷はただその場で呼吸を繰り返している。助かったーーだが。勿論、安心など出来る訳がなかった。【あれ】が戻ってくるかもしれない。開け放たれた扉の向こうから。割れたままの窓の向こうから。
磔にされたように立ち尽くしてどのくらい経過しただろうか。静寂を破ったのは、真下の携帯電話だった。無機質な着信音。それは、この空間では妙に浮いて聞こえた。異界にあって、それだけが妙に現実の気配を纏っている。着信に答える同行者の声を、八敷はぼんやりと聞き流す。ぼそぼそと苛立たし気に続くやり取り。ややあって電話は切れ、真下悟は小さく悪態を漏らした。
「ああクソ。……あの女ふざけやがって」
嫌な予感がする。真下は呼びかけても顔を上げようとはせず、黒い画面に目を落としたままだ。彼女に何かあったのか。そう八敷の方から聞く前に、目つきの悪い探偵が口を開く。いっそ殺気立っていると言っていいくらいの、今までに見た中で一番と言っていいほどの人相の悪さで。
「ウチのバイトから連絡が入った。あの女……苗字名前が、九条館から消えた」