蜜月
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ちなみに言うと、基次さまが昼間にご在宅なのも初めてなんである。昼過ぎから書斎に閉じ籠ってしまったので(邪魔するな、なんてお達しと共に)何をしているのかはわからないけど 、もう夕方になる。大抵、家にいるときは朝からずっと、食事のとき以外は書斎に籠りっきりだそうで。「私、様子を見に行ってみます、お茶でも持って」なんて何のきもなしに口走ったら、女中さん達が大袈裟にざわめいて何だか不安になった。…あ、言わなきゃよかったかな。私の内心なんか知らず、昨日と同じ女中さんが言う。
「……奥方さまならきっと、おできになると信じてます」
…あのお、昨日も私、同じこと言われた気がします。湯のみが二つに、急須にお茶菓子をお盆(いざとなったらこのお盆で防御して、と言われた。いざってなんだろう)に載せて部屋の前。一応、声、かけてみようかな。深呼吸した瞬間になんの前触れもなく襖が開いて、喉の奥から変な声を出してしまった。それから何となく笑ってみたけれど、基次さまは何の反応も返してくれない。「あの、お茶、とかいかがかなーと、」吃りながら言い訳みたいに口に出して五秒。怠そうな声で漸く返事をくれた。
「…はあ、どうも」
そこに置いといてください、なんて興味なさげに言い放って、それから怪訝そうにこちらを見る。「まだ、何か用ですかあ?」…相変わらずとりつく島もない。
「用と、言いますか…あの、少し、休憩されたらいかがですか」
「君には関係ないと思いますけどねえ」
「いやあの、ほら、その、もうそろそろ夕方になりますし、」
「だから何だって仰るんですかあ」
「でも、折角、良い日和ですし」
「もう日、沈みますけど」
「……うう、」
…でも、朝からずっと書斎に詰めていらしたって、そもそも家の旦那さまは働きすぎだって、女中さんが言ってました。官兵衛さまだって心配されてたんですよ、寝食忘れるって。頭のなかでは色々と言えるけれど、それを口にしてしまって良いものか分からない。えーと、とかその、とか意味のない声で間を繋いで、苦し紛れに言ってみる。「このお茶菓子、美味しいんですよ。甘くて」
呆れたような視線を浴びて、またずれたことを言ったと後悔したけれど、今さら引っ込みがつかないので続けてみる。
「疲れたときには甘いものとも言いますし、あの、この玄米茶、こないだ実家から姉が寄越した物なんですけどわざわざ羽州から取り寄せたとかで、女中さんにも美味しいって物凄い評判で」
あれ、話がどんどんずれていく。なんだか基次さまの視線がいたい。一番最初にあったときの、カマキリを見るみたいなそれに戻っている気がする。焦り始めた矢先に、手にしていたお盆が奪われた。そのまま追い返されるのかと思ったら「汚されると困るんで」とだけ言って、彼はすたすたと歩いていく。廊下で私を振り返って言うことには、
「そこで突っ立ってないで、さっさとしてくれませんかねえ」
「…へっ、」
「アナタが言ったんじゃないですかあ、玄米茶が飲みたくてしかたがなくて死にそうだ、って、さあ」
いや私、そこまでは言ってないです。と反論する代わりに瞬きを数回。「仕方ねえから俺様が付き合ってやります」とだけ言って歩きだす背中を追いかける。ありがとうございます、と言ったけど返事はかえって来なくて 。振り返り際に注がれた視線はやっぱりカマドウマを見るみたいなそれだったけどな何だか照れ臭いような嬉しいような気になってこっそり笑いを噛み殺した。
*
生ぬるい西陽が、中庭を綺麗に照らす。いつもみたいに縁側の、桜の木が一番綺麗に見える位置に腰を下ろす。お日様の下にいる基次さまを見るのなんかほとんど初めてで、何だか物珍しい。さらに言うと、ものを食べている基次さまも珍しい。…何だか人間離れした雰囲気だけど(絶対言えないけれど、幽霊みたいだと思っていた。細いからだも、白すぎる肌も何だか生きた人間に思えない)、お茶菓子の栗饅頭をかじった彼はどう見ても普通の人間だ。
綺麗な指先が二つ目の栗饅頭を掴む。こうしてみるとやっぱり、この手で剣を握るなんて信じられないくらい細くてきれいだけど。そのまま指先を目で追っていたら基次さまと視線がかち合ってしまった。
「あまり気分の良いもんじゃないんですけどねえ」
「…へっ、」
「じろじろ見られるの嫌いなんですよねえ鬱陶しいから。何か珍しいことでもあるんですか」
そのとき私が考えていたのは昨日の事で、『汚れたら困る』なんて言葉の意味で、それは聞いてはいけないことのような気がしていて、だからつまりうまい言葉が繋げなかった。
珍しいことでもあるんですか、なんて図星を突かれたものだから慌ててしまってついうっかり、「手が、綺麗だなと、思って」なんて口走ってしまった。変にどもってしまったせいでその言葉だけが妙に浮いている。
俯いていたので彼の表情は分からなかった。「馬鹿じゃないんですか」なんて、言葉の割に優しい声が聞こえて。それから一瞬だけ、遠慮がちに手が、私の頬に触れた。誰の?…誰のって、ここにはひとりしか居ないんだけど。
「藪から棒に何言うかと思ったら」
「…………」
「手が綺麗だとかさあ、言われて喜ぶ馬鹿いないと思いますけど」
「…………」
「…聞いてますかあ、もしもし?」
まるで大事なものを慈しむみたいなやり方で、ものすごく昔に兄が、こんな風にして頭を撫でてくれたなあなんて思い出したりした。顔が赤くならなかったのが奇跡かもしれない。目の前でひらひらと手を振られて何でもないみたいな基次さまの声に我に帰ったら、彼は栗饅頭の最後の一個を手に取ったところだった。
「…私、栗饅頭、一個も食べてないです…」
漸くのことで口に出せたのはそれだけで。基次さまが勝ち誇ったみたいに「君さあ、随分と意地汚ない事言いますねえ」なんて言うのを聞きながしながらさっきの感触を反芻した。…何だろう、なんか、基次さまの顔が見られない。