蜜月
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その夜は一睡もしなかったので夜明けと同時に起き出した。今まではどう頼んでも女中さんが起こしてくれなかったので(無理に起こすと基次さまが怒るらしい、正直信じられない)、旦那さまのお見送り、なんて妻だったら当然みたいな事もやったことがなかった。基次さまがいつ家を出ているのか全くの謎で、いままではいくら早く起きても既に屋敷を出たあとだった。…まあ、いくらなんでも夜明け前に家を出るなんて事はないだろうし。だから、私が基次さまを起こしにいってもいいか、一応、女中さんにお伺いをたててみたんだけど。
「それは、…お、お止めになったほうが」
「あの、やっぱり私だと、…駄目なんでしょうか…」
「いえ、奥方さまが、というよりですね、なんというか又兵衛さまは、」
寝起きは物凄く機嫌が悪いらしい。それはもう、毎朝誰が起こしにいくかで女中さん同士の真剣な諍いに発展するくらいに。舌打ちとか皮肉とかで済めばいい方で、悪くすると例の武器が鼻先を掠めていくのだとか。…そういえば、この屋敷に始めてきた日にそんなこと、あったなあ。たった一週間前の事なのにまるで遠い昔の事みたいだ。
「あ、でも大丈夫です私、寝汚いひとなれてるんで」
マリア姉さまも、寝起きの機嫌は悪魔みたいに悪かった。まさかあれ以上恐ろしいって事もないと思う。女中さんは何だかんだと止めてはくれたけど、そこまで言われるほど寝起きが悪いなんて逆に気になってしまう。大丈夫です任せてください、と繰り返したら今度は、女中さんはなにも言わずに鍋を貸してくれた。万が一の時のの防御に使ってください、なんて言葉にほんの一瞬だけ後悔する。…やっぱりやめておけばよかったかな。
*
こちらです、と連れてこられたのは中庭を挟んだ北側の部屋だった。こんな部屋があったんですね、と呟いたら女中さんが困った顔で教えてくれる。「又兵衛さまの書斎なんです、ちゃんと寝室で休んで頂ければいいんですけど」いままでも、寝室ではなくてこの部屋でお休みになっていたらしい。…なんだか、私が布団を独り占めしてしまっているみたいで申し訳ないなあ。
基次さまがご不在のときはこちらがわに立ち入らないようにと言い付けられてしまっていたので、私もこの部屋に入るのは初めてだった。ここに来て怖じ気づいてしまって女中さんを振り向いた、ら、彼女は既に廊下の向こう側へ避難していた。素早い。「お目覚めになったら、朝餉の用意が出来ているとお伝えください」女中さんは遠くからそれだけ言ってあとは去り際に、「奥方さまならおできになると私、信じております」なんて激励してくれる。一々行動が迅速すぎてそれがまた恐怖感を煽ってくる。…そんなにこわいの?
…どうしようやっぱ、やめとけばよかった。
半ば後悔しながら襖を引いたら、ひんやりとした空気が流れてきた。…なんでこんなに日当たりの悪い場所に書斎があるんだろう。考えながらおっかなびっくり、部屋に足を踏み入れて、辺りを見回した。
書物が積み上げられた部屋。書類も、きちんと纏まってはいるけれど量が多すぎて足の踏み場もない。基次さまはといえば、書類に埋もれるみたいにして文机に突っ伏していた。…風邪、引くんじゃないかな。こんな寝かただと。足音を立てないようにして、とりあえず近くまで来て座ってみる。
「も、基次さま…?」
声をかけるべきが揺さぶってみるべきか。鍋を傍らにおいて考え込む。だらりと力なく伸ばされた右手が、まるで死んだ人みたいに白くて不安になる。こっそり触ってみたらちゃんと暖かくて安心した。
「…おはようございます、あ、朝ですよー…」
「……」
大きな声を出すのは怖いので小声でぼそぼそと話しかける。基次さまは本当にぴくりともしないので、いつもの物騒な雰囲気は欠片もない。いつもならこんなことはできないんだけど何だか好奇心に負けて、そのまま軽く、本当に軽く、手を握ってみた。
初めて見る、男のひとの手(兄のことはこの際、数には入れない)。骨ばって指の長い手は私よりも大分大きくて、いつのまにか当初の目的も忘れて見入ってしまっていた。武家の人にしては、随分と綺麗な手だと思う。兄の手には剣ダコなんかが沢山あったような気がするけど、この人の手はそんなものも見当たらない。傷ひとつない、綺麗な手。それでも、多分この手で人を殺めたりもするんだから何だか不思議だった。…そういえば昨日、基次さまはなんであんなに辛そうな顔をしていたんだろう、
何の気はなしに指を絡めて、少しだけ力を込めてみる。ここで目を覚まされたら、怖いな。どきどきしながら視線を落としたら機嫌の悪そうな基次さまと目があった。…え?目があっ、た、
「……っ…!」
「………」
目があった。合っている。最高潮に不機嫌そうな目が私を見る。驚きすぎて悲鳴も出なかったのは不幸中の幸いだった。訳もわからずに口を開いても訳のわからない言葉しかでてこない。
「おは、おはようございます私が布団を、じ、女中さまが朝ですよと朝ごはんをその、一睡もできませんで早く起きたものですから、わ、私がたまには」
「………」
「…たまには、その」
「………」
「た、たまには、……たまには。お布団でお休みになってください、体を痛めます…」
「……はあ」
違う。おはようございます朝ですよ、と言いたかっただけなんです。冷や汗をかきながら大混乱する私を眺めているうちに、基次さまの方は目が覚めたらしい。体を起こした彼に、絶対皮肉を言われると思ったら、「おはようございます」なんて案外普通の言葉が返ってきて驚いた。
「あっ、朝ごはん、召し上がりますよね?」
「………」
「…も、基次、さま?」
「………名前さん」
かすれた声。あれ、今、私の名前呼んだ?、と、驚いてまた反応が遅れる。握っていた手を、いきなり強めの力で握り返されて何も言えなくなる。基次さまは不機嫌なような朦朧としているような、とにかくだるそうな表情で私を見る。あれ、何か、違いませんかいつもとは。
「あの」
「……手。汚れるって言ったじゃないですかあ…ねえ、俺さあ、汚れたら困るって昨日、」
「えっ、あの、」
「よく触る気になったもんですよ、馬鹿じゃないんですかきみは、…本当に、…」
「…も、基次、さま…?」
体を退こうとした瞬間に、捕まれていた手に一瞬だけ柔らかいなにかが触れる。…あれ、唇?なんか前にマリア姉さまが『殿方はねえ、みいんな妾の手に口づけるのよ。例属の証としてね』とか教えてくれたことがあったっけ。…懐かしいな、マリア姉さま、元気かな。
訳のわからない事態に、関係のないことを考えた。今さら捕まれた手が熱くて(最初は私がつかんでいたはずなのに今は完全に立場が逆だ)、顔も熱くて頭のなかも沸騰しそうで、我に返ったときには基次さまは再び机に沈んでいた。
今度は叩いても揺すぶっても今度こそ起きてくれなくて、手も握ったまま離してくれなくて。遅いのを見かねた女中さんが見に来てくれるまで私は、そのままの姿勢で固まっていた。
「あらあらよろしゅうございますね本当に、仲睦まじいこと」
「…は、はあ…」
眠りこける基次さま(しかも全然、起きない)に手を握られたままの私、散乱した書類、転がった鍋。朝から訳のわからない混乱が続くけれどとりあえず、基次さまは暫くそのまま寝ていてもらうことにした。