蜜月
名前変換
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布団の上で正座して、一体どのくらいたったんだろう。待てど暮らせど基次さまは現れなくて、緊張でガチガチだった脳みそも解れてきて、だんだん退屈してきて、そのうち眠くなってきて、気がついたら。
「……………」
気がついたら、朝だった。私は正座がそのまま横に倒れたみたいな妙な体型で眠りこけていた。明け方には、小さな頃に兄様が髪を撫でてくれた時の夢を見ていた気がする。どれだけ姉川に帰りたいんだろう、私は。自分で自分が情けない。
誰がかけてくれたんだか、からだの上にはきちんと掛け布団が乗っかっている。ぼんやりと起き上がったのと同時くらいに、襖の向こうから声をかけられた。
「奥方様、おはようございます」
「…へっ?、ああ、はあ…おはようございます…」
奥方様、なんて呼ばれたことは一度もなかったから、一瞬誰の事かわからなかった。朝餉を持ってきてくれたらしい女中さんは、にこにこと嬉しそうに笑いかけてくれる。私も笑い返してみたら、堰を切ったみたいにペラペラと話しかけられた。
「よかったわあ奥方様がこんな、まともそうなお方で」
「えっ?…あ、ありがとうございます」
「心配してたんですよおあの又兵衛様がお選びになるお方なんて、見当もつかないもんですから」
「は、はあ」
「でもとっても仲睦まじいご様子で何よりですわあ、これで又兵衛様も少しはまともになればいいんですけど」
「…えーと、あのお……はい。」
私と基次さまの、一体何を見て仲睦まじいなんて言うんだろう。よくわからないけど同意しておいたら、彼女はやっぱり嬉しそうににこにこと笑った。
「今朝だってねえ、疲れてるんだから寝かせておいてやれって」
「えっ、ど、どちら様が、ですか」
「又兵衛様が、に決まってるじゃないですか。本当によろしゅうございます、仲睦まじいご様子で」
「あ、ありがとうございます…」
…実際は女中さんが想像しているような事実は、一切存在しないんだけど。実はまともに名前すら呼んでもらえてないんだけど(そして私もまともにお名前すら呼べてないんだけど)そんな事はわざわざ言う必要もないので黙っておいた。彼女の言う通りだとすると、待てど暮らせど基次さまは現れなかった、というのは嘘で、実際は夜遅くにはここに来ていたらしい。
…私、布団の真ん中を陣取っちゃってたけど、基次さまはどこで寝たんだろう。とか、じゃああの布団は基次さまがかけてくれたんだろうか。とか、初夜に旦那様を差し置いて寝るなんて、失礼にも程があるんじゃないだろうか。とか色んな疑問やら後悔やらが頭を回る。
「あのっ、も、基次さまはどちらに」
「ああ、軍議だとかで早くにお出掛けになりましたよ、お帰りは遅くなるとか」
「そう、です、か…」
ほっとしたような残念なような後々怖いような。複雑な気持ちで味噌汁を啜った。女中さんは、やっぱり非常に嬉しそうに笑う。
「先に寝ていて構わない、と仰せでしたよ。私ここにつとめて三年になりますけど、又兵衛さまにこんなお優しい所があるなんて思いませんでしたわ」
…私もです。内心でそう付け加えた。女中さんが話す基次さまと、昨日私をカマドウマでも見るみたいな目で見ていた基次さまとでは、かなりの隔たりがあるような気がする。なんだか訳がわからないような気分になりながら、とりあえず今日は、基次さまがお帰りになるまできちんと起きていようと肝に命じておいた。
*
夜。どこかで鐘が十鳴ったくらいまでは覚えていたんだけど、そのあとは眠くて数える余裕なんてなくなってしまった。だから昼間、屋敷を歩き回っている間に見つけた中庭で、眠気覚ましに風にあたることに、したんだけど。
「……あっ、」
「……………」
先客がいた。というか、基次さまがいた。猫背の背中は振り向いてすらくれなくて、興味がない、とでも言いたげだ。それでも勇気を奮い立たせて隣に座ってみた。何もいってくれないかわりに拒否もされないので、少しだけ安心した。
「あの、も、基次さま!」
「…はあ、何ですかあ?」
「…あ、えーと、その」
胡座をかいて、頬杖をついている横顔。目が、面倒くさそうに私を見ている。勢い込んで話しかけたものの話題もなくて慌てる。どうしよう何か言わなきゃ。そうして、咄嗟に飛び出た言葉がよりによって。
「…つ、月が、綺麗ですね…」
「曇ってますけどぉ」
「…あ、はは、仰る通りです」
「……」
「いっ、いつお帰りになられたんですか?」
「………」
「……昨日は失礼しました、私、うっかり寝てたみたいで」
「ああ、布団の真ん中で堂々と、ねえ。俺様を差し置いてねえ。」
「…ほ、本当に失礼しました。次からは絶対、このようなことがないように」
「ああでも待たれても鬱陶しいだけなんですけどねえ」
「うっ、うう…じ、じゃあなるべく隅っこで目立たないようにしておきます…」
…やっぱり、辛辣でとりつく島もない。これ以上続けるとなきそうなので、とりあえず話題を変えてみることにした。
「あの、この木、桜、ですか?」
「桜以外の何に見えるんですかねえ」
「…お、大きいですよね、春なんか凄そう」
姉川でも桜、綺麗だったっけ。なんて思い出す。例えば、ここでお花見なんかできたら楽しいかもしれない。一瞬だけ雰囲気にそぐわないことを考えていたら、基次さまのハサミムシを見るような目と目が合った。
「…ああ、これ、ねぇ。切ろうと思ってるんですよお鬱陶しいから」
「え、鬱陶しい、ですか」
「うざったいんですよねえ、これがあるせいで花見だなんだって群がってくるんですよねえ阿呆官が」
「い、良いじゃないですかお花見、私は好きですよ」
「アナタが好きだから何だって言うんですか、」
「だ、だから、切るなんて仰らないで…花見、しましょうよ。…できれば、一緒に」
「…なぁんで俺様が」
「いやだって、せっかくじゃないですか、」
こんなに会話が続いたのははじめてかもしれない。思いながら、頑張って目をそらさずに微笑んでみた。相変わらず虫を見るみたいな目で見られるけど、今は恐怖心もなく会話できる気がする。
「私、甘味なら自信あるんです。花見団子と、か、」
桜餅とか。と、言葉を続けようとしたところで唐突に何かを被せられて目の前が見えなくなった。何これ、羽織?軽く混乱しながらもがいていたら、頭上で基次さまの声が聞こえた。
「…名前さん、」
「へ、はっ、はい?」
「俺様暇じゃないんでえ、そろそろ寝てもらえます?」
「え?、…えー、と?」
「ちゃんとそれ着て寝てくださいよ、風邪とか引かれても鬱陶しいんで」
「…あ、えーとその…」
「はっきり喋れないんですかあ、ねえ。俺様面倒くさいの嫌いなんですよねえ」
辛辣な言葉を浴びせられながら羽織をきちんと肩にかけられて、風で乱れた髪の毛を撫で付けられる。鬱陶しいとか面倒くさいとか言う割にやっぱり手つきは優しくて。
訳がわからないけど実は優しい方なんだろうなと思ったのは次の日の朝の事だった。その時の私は、なんだか訳がわからないままお休みなさいとかなんとか挨拶をして、部屋に戻ってから重要な事に気がついた。…そういえば、初めて名前呼んでもらえたな。