蜜月
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『余りに間の抜けた顔で寝ていらしたので、起こすのが馬鹿馬鹿しくなりました。帰りは遅くなります。
追伸ー食い汚いのも程々にしたらいかがですか?』
何故か、顔の上に乗っていた半紙には、お手本みたいに綺麗な字でそんなことが書いてあった。…確かに、うっすらと栗饅頭の夢を見た記憶があるけど。まさか、またうっかり寝言でも言っていたんだろうか。文字をなぞりながら、ぼんやりと思う。…起こすのが馬鹿馬鹿しくなるくらい、間抜けな寝顔って、何。
*
姉が見たら『恋文』とか言いそうな…、いや、そんな甘い言葉なんて何一つないけど。それでも、男の人から手紙をもらうのなんて初めてで、だからそれだけで特別な気がしてしまう。
手紙の、お手本みたいに綺麗な字を指でなぞって、この間こっそり触った(あれ、何か変態みたいだ)基次さまの手を思い出したりもした。…手が綺麗な人はきっと、字も綺麗なんだろう。そういえば、お兄様は字が汚かったな。止めと跳ねを強調しすぎて、いかにも力が入ってます、とでも言わんばかりの。そこまで考えてまた、ひっそり笑う。『いい加減兄離れしたらいかがですか』なんて、基次さまが言いそうだなあ。
一人で笑ったり手紙を眺めたり、また笑ったり。そんな私を、女中さん達が不気味そうに眺めているのに気づいて我に返った。
「あの、…奥方様、その紙、」その紙、なんですか?と言いたげに、彼女は首をかしげる。基次さまに頂いたんです、とか言って自慢してもよかったんだけど、それも何だか勿体ない。思いきって「秘密です」と笑ってみることにした。たかだか半紙一枚を大事そうに眺めているのが不思議なのか、相変わらず不審な目で見られるけれどもう気にならない。「いい天気ですねえ」なんて当たり障りない言葉を吐きながら、頭の中では全く別のことを考えていた。…お返事、なんて書こうかな。
日が沈む前に便箋を引っ張り出してきて、基次さまの手紙(誰がなんと言おうとこれは手紙だ)とにらめっこする。なんて書けばいいんだろう。硯に筆を浸しては持ち上げて、考え込んで筆を戻す。そんなことをどのくらい繰り返したかももうわからない。
『お手紙ありがとうございます。私、殿方からお手紙なんて頂いたことがないのでうれしいです。そういえば、私の小さい頃にお兄様が』
…いや、これは駄目だな。また兄離れできてないとか言われそう。その上、『殿方からお手紙なんて頂いたことがないのでうれしいです』なんて書いたらいかにも田舎者な感じで恥ずかしい。じゃあいっそ、『私、寝言で何て言ってましたか』とか書いたらいいかな。…いや、そんなことを書いたら思いっきり嫌みで返されそうな。
…で、結局。筆をとって数時間、悩みに悩んだ挙げ句に気のきいたことは思い付かなくて。私はいつのまにか手紙なんだか書き置きなんだか分からない文章を便箋に書き付けていた。
『字、おきれいですね』
その日も縁側で待ってみようと思ったんだけど女中さん達に固く止められて(又兵衛さまからのお言いつけです、だそうで)、布団の上で正座で待つべきかどうか悩んでいるうちにあっさりと寝てしまった。どこに置こうか迷った挙げ句に握りしめたままにしてしまった手紙は、朝にはなくなっていて。代わりに私が握っていたのは『馬鹿じゃないんですか』とだけかかれた紙だった。
それはやっぱりお手本みたいに、綺麗な筆跡で。
馬鹿じゃないんですか、なんて書かれた紙を大事そうに抱えている自分は、傍から見ると本当にバカみたいかもしれない。でも仕方ない、なんだか無性に嬉しいんだから。きれいな字はどっちかというと正義ですよね、となんとなく頭のなかで兄に語りかけてからもらった紙を眺める。
…お返事もらえて嬉しいです、なんて書いたらまた『馬鹿じゃないんですか』なんて帰ってくるんだろうか。でも、できれば今日はその言葉、直に顔を見て言われたい気分です、基次さま。