蜜月
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「……どいつもこいつも木偶ばっか集まりやがって…」
地を這うみたいに不機嫌な声が、唸るみたいな調子で呟くのを聞いた。むくりと布団から起き上がった基次さまがぼんやりと私を見上げて一秒、二秒、三秒、
「………」
「あ、」
罪悪感と安堵感がごちゃ混ぜになってしまってとっさに言葉が出なかった。
基次さまが立ち上がろうとする物だから、どうにかして押し止めようと両肩を掴んで。掴んでしまってからその後どうしてよいのか分からなくなって。深刻な表情だけをぶら下げたまま考え込む私を、カマドウマかなんかを見るみたいな視線が降り注ぐ。
「…………」
「…………」
「…………」
何て声をかけたらいいのか、分からない。よかったです、ごめんなさい、お帰りなさいませ、無理しないで下さい。言いたいことは色々ある筈なのに、その中の一つだって声に出すことができなかった。こういうときはどうしたらいいんだっけ。真っ白になった頭を何とか落ち着かせようと、とるべき行動を考える。3日も食べてないんだから、お粥か何か作らないと。でもその前にお薬をお持ちしないと、ああそうだお医者様を呼んだんだった。
そこまで考えてとりあえず、もう一度布団に押し戻そうと手に力を込めた。せめてお医者様に見てもらうまでは寝ていていただかないと。相変わらず言葉は出ないので、代わりに力一杯基次さまを押し倒すことにする。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………くっ…」
おかしい。思いっきり押している筈なのに、基次さまのほうはびくとも動いていない。何か言おうと口を開いてまた閉じて。かれこれ十分位続いた沈黙は、ため息混じりの不機嫌な声で破られた。
「これはまあ随分と慎みのないことで」
「えっ?」
「まさか君に押し倒される羽目になるとかさあ。思わないよねえ普通」
「………」
「…ああ、あと何でしたっけ?破廉恥は悪、でしたっけ?そんなようなこと言ってましたよねえ君。この間さあ。まあ今となっちゃどの口がって感じですけ、ど」
いつもの嫌みったらしい口調と、聞き取れないくらいの早口と。久しぶりに聞いた声を、多分私は何回も頭のなかで反芻していた。不機嫌な声がいきなり途切れたのが不思議で顔を上げたら、びっくりしたような慌てたような顔の基次さまがいた。
「……いやおかしいでしょ何で今泣くんですか」
その言葉がきっかけで、いよいよ涙は止まらなくなった。さっきまでにじむ程度だった視界は完全にぼやけてなにも見えない。不意を突けたのか、彼を無理矢理に布団に倒すのに成功した後で漸く言葉を絞り出した。
「お帰りなさいませ、……あと、ごめんなさい」
基次様と一緒に布団に倒れこんだ体制のまま、みっともない泣き顔をさらす訳にもいかなくて顔はあげられない。涙が着物を汚す前に起き上がろうとしたら、ぎこちない手つきで頭を撫でられる。「……もう、お目覚めにならなかったらどうしようかと、」情けないくらいの涙声。やっぱり間の抜けた沈黙の後で、基次さまがぽつりと呟いた。
「…………馬鹿じゃないんですか、本当に」
それから。ただいま帰りました、と、微かに聞こえたのは気のせいだったかもしれない。私の涙は半刻たった今も止まらなくて、そのあいだに基次さまはすっかりいつもの調子に戻っていた。
「いい加減泣き止んでくれませんかねえ、鬱陶しいんですけどねえ」
辛辣な言葉とめんどくさそうな視線。ここに来たばかりの時は怖いとしか思えなかったのに、それが少しだけ嬉しく思えるようになるなんて考えもしなかった。
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