蜜月
名前変換
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襖の向こうは静まり返っていた。不気味なくらい物音ひとつしない。廊下からは黒田さまと女中さんが顔を覗かせて、励ますように力強く頷いてくれる。「お前さんならできる!本当だってば」、と、投げ掛けられた言葉には返事ができなかった。…悪いけど全然、その応援には励まされないです…。
それでも、いつまでもここでぐずぐずしている訳にもいかない。息を吸ってついでにはいて、震える手で漸く襖に手をかける。「……寝不足不機嫌何するものか。刮目せよ、浅井の心ここにあり、……」景気付けのつもりで呟いた声はむなしいくらいに震えていた。
*
襖を開ける。中に入る。ここまでは完璧だ。問題は、基次さまがどこにいるのかわからないってことだけ。
恐る恐る踏みいった部屋の中には、本が散乱していた。踏んでしまわないように慎重に歩を進めながら、聞こえるか聞こえないかくらいの声量で声をかけてみる。「あのお、…」
…返事は、ない。
もう少し声を張ってみようかないやでも。頭の中でかっとうしだしたくらいで気がついた。なんか、声が聞こえる。
「そうじゃねえ、そうじゃねえんだよおこの木偶が、地上走れっつってんじゃねえだろうが地面掘れっつってんだよなんでそれができねぇんだ」
うず高く積み上げられた本の向こう側。覗いてみるとそこには、文机に凭れて頭を抱えている基次さまが、いた。
「…だから全体の重量がありすぎなんだよ大体、操舵席つけろなんて甘えたことぬかしてんじゃねえぞ木偶官…ああ?ここの寸法七尺じゃねえだろ誰だこんなふざけた製図したの……あ、俺か…」
ぶつぶつぶつぶつ、呟きながら筆をとって、図面らしきものに朱で何やら書き付けていく。隈は先日見たときよりも随分こくなっていたし、何よりなんだか更に痩せられた気がする。怯んだのは一瞬で、そのあと出した声は、自分でもびっくりするくらいしっかりしていた。
「基次さま」
「…だからここは鉄じゃ駄目なんだって…」
「基次さま、」
「…あ?だから今入ってくるな、って、」
…大丈夫じゃない。全然、大丈夫じゃない。寝食し忘れて三日なんて、大丈夫なわけがない。そもそも、家にいたってちゃんと寝てるのは見たことなかったのに。幽霊みたいに見えたって、この人だって人間なんだから。…この間しったことだけれど。
「名前さんなんで君がここに、」
でも今はむしろ、基次さまが、幽霊でも見るみたいな目で私を見ている。鳩が豆鉄砲食らったみたいな、そういう顔を見るのはもしかしたらはじめてかもしれない。いや、だからそんな事を考えている場合ではなくて。
「寝不足と少食は悪です寝食忘れるなんてもっての他です、帰りましょう寝てください、規則正しい睡眠こそが正義にきまってるんです」
捲し立てる私の言葉を聞いているんだかいないんだか。基次さまは茫然と私を見上げて、「あの、アホ官」とかなんとか呟いて、それから。
それから立ち上がろうとした矢先に、足元の筆を踏みつけて転倒したきり、強かに頭を打ち付けたようでピクリとも動かなくなってしまった。