夜のこと


「眠れない……」
 仰向けで横たわったキノが、テントの天井を見ながらぽつりと呟くと、
「だろうねえ」
 外からエルメスの声が聞こえてきました。小さな囁きでしたが、はっきりと聞こえる不思議な声です。
 夜の森の中で、キノとエルメスは野営をしています。木々の少ない開けた場所にテントを張って、その近くにエルメスが止められていました。時折聞こえるフクロウの鳴き声や、風が木々を揺らすざわめきの作り出す静謐さが、その空間を包んでいます。
 いつもならもう寝ている時間ですし、今も寝る準備は万端なのですが、しかし、キノの目はぱっちりと冴えてしまっています。
「どうして、今日はこんなに寝つきが悪いんだろうか……」
 キノがぼやいて、エルメスがバッサリと返します。
「そりゃあ、たっぷり昼寝したからでしょ。ハンモックで何時間も。あれはさすがに寝過ぎだよ、キノ」
「まあ、ハンモックで寝るのは気持ちがいいし」
「モトラドで走るより?」
「そういうのは、比べられるものじゃないさ。どっちも好きだよ」
「ふーん。あっそう」
「…………。エルメス、なんかいじけてる?」
「べっつにー。せっかくいい天気だったのにあんまり走れなくて不満とか、全然思ってないよーだ」
「…………」
 エルメスがあまりにも駄々っ子みたいな言い方をしたので、キノは知らず知らずのうちに、小さく笑みを浮かべました。
「……それは、エルメスには悪いことをしたなあ。だったら、明日はその分たくさん走ろう」
「ホントっ?」
 キノが言うと、たちまち弾けるようなエルメスの声が返ってきます。どうやら機嫌が直ったようです。
「約束だからね、キノ」
「ああ。約束だよ」
「絶対だからね。指切りげんまんしておく?」
「エルメスの指って、どこ?」
 夜の帳が下ろされた森で、キノとエルメスは囁き声での会話を続けます。
「というわけで、明日のために寝なくちゃいけないんだけど……、眠くならないなあ。朝起きられなくなってしまう」
「もういっそのこと、明日は寝坊しちゃえば? キノはいつも真面目に早起きしてるんだし、たまには寝過ごしたっていいんじゃない?」
「そういうわけにはいかないよ。朝は、エルメスを叩き起こす大仕事があるから」
「たまにはサボったっていいんじゃない?」
「エルメスが自分で起きてくれれば、ボクも毎朝あんな苦労はしなくていいんだけどね」
「モトラドにも向き不向きってものがあるんだよ、キノ。慣れないことはしない方が無難だよね」
「まったく。早く起きないエルメスは……、置いていこうかな」
「嘘をつくのは向いてないねえ、キノは」
「じゃあ、横倒しにしようかな」
「キノー! やめてー!」
「あはは」
 エルメスが小声のまま悲鳴を上げて、キノも小声で笑います。それから、ふっと息を吐き出して、
「ダメだなあ……。エルメスと話していると楽しくて、ますます眠れなくなる」
「お、嬉しいお言葉。ねえキノ、このまま一晩中語り明かしちゃう?」
「しないよ。寝たいんだから」
「ま、運転手の睡眠不足はこっちも困るからねえ。──そんじゃ、お喋りの代わりに、子守唄でも歌ってあげようか? キノがよーく眠れるように。怖い夢を見ないように」
「……エルメス、ボクを子供扱いしてない?」
「してないしてなーい。キノはいつでもキノ扱いだよ」
「それなら、いいけど」
「では歌います、“キノおやすみの歌”。初公開のニューシングルだよ」
「……その“キノなんとかの歌”は落ち着かないから、やめてほしいなあ」
「ええー」
 夜は更けていきます。
「子守唄がダメなら、羊でも数える? よく言うじゃん、“眠れない時は羊を数えればいい”って」
 テントの中の薄暗闇で、キノが渋い顔をします。
「羊は……、やめておきたいな……」
「どして? ──あ、いつぞやの、草原で追いかけられたことを思い出しちゃうとか?」
「それもあるけれど、それよりも──」
「それよりも?」
「お腹がすいて、余計に眠れなくなるから」
「そっちかーい!」
 呆れたような、楽しそうなエルメスの声。次いで、
「じゃあキノ、羊以外のものを数えてみたらどう? お腹がすかないやつをさ」
 そう提案されました。
「羊以外か……。分かった」
 キノはエルメスに返事をして、目を閉じます。さて何を数えようかとキノは少し考えて、
「…………」
 エルメスでいいか。
 そう思ったキノのまぶたの裏に、見慣れたモトラドの姿がぽんと浮かびました。
『キノ』
 しかも声付きでした。エルメスが一台。
『おはよう、キノ』
 また、ぽんと音を立てて、エルメスが増えます。エルメスが二台。
『おやすみ、キノ』
 エルメスが三台。
『おかえり、キノ』
 エルメスが四台。
『ねえキノ──』
 エルメスが五台──。
「…………」
 頭の中で量産されては喋り始めるエルメス達にいよいよ耐えきれなくなり、キノが目を開けました。そして言います。
「エルメスがうるさくて眠れない」
「なんでっ?」
 素っ頓狂な声が、テントの向こうからキノの耳へと届きました。さっきまで脳内で騒がしく響いていて、でも実際は、キノが数えている間、ちゃんと静かにしてくれていた声でした。
 なんとなく声の主の姿を確かめたいような気がしてきて、キノは体を起こしました。テントの出入口のファスナーを開くと、冷たい夜の空気がテントの中になだれ込んできます。
 キノは開いたテントから顔を出しました。
 もはや探すまでもなく、一台のモトラドの姿がキノの目に入りました。月明かりに照らされた銀色のパーツがぼんやり光っていて、少し綺麗でした。
「おや、夜更かしのキノ。──あれ? なんで笑ってるの?」
 エルメスが訊ねてきて、そんなエルメスに笑顔を向けたまま、キノは答えます。
「うん。──エルメスは一台だけで充分だなと思って」
「はい?」
 エルメスが、心底不思議そうに言いました。