いっしょになれない

 熱に浮かされているような、もしくは、夢を見ているような気分だった。
 目に映る何もかもが輝いていて、肌に触れる感触のすべてが心地良い。幸せだった。“こうなって”からずっと、幸福感に包まれた世界にいる。辛いことも悲しいこともなく、“みんな”と繋がっていられる。この素晴らしい感覚に、誰かを誘いたかった。大切な、ずっと一緒にいたい、誰かを。
 何かを探すように当てもなく歩いていて、
「……キノ?」
 ふいに、一際心地よく感じる声を聞いた。
 声の方向を見る。銀色と黒い金属でできた存在が、陽光を受けて鈍く光っていた。白い光に満ちた世界の中で、それは一層、綺麗に見えた。その光に吸い寄せられるように歩いていった。
 そばにやってきて、膝をつく。
 この幸せを、他の誰かと分かち合うための方法がある。誰に教えられたわけでもないのに、本能がその行為を知っていた。
 口を大きく開いて、目の前の体で一番細くて噛みつきやすそうな、両側に二つ伸びているうちの片方に噛みつく。硬く冷たい感触が口の中に広がった。ぐっと歯を立てる。
「ちょっと、やめなよ」
 これだけ噛みついているのに、なぜだか変化が起きない。自分と同じ仲間になったという感覚が、“繋がった”感じがしない。
 それなら──。
 より強く歯を立てて、力を入れる。噛みちぎって、飲み込んでしまおうとする。なのに、この体は硬くて、いくら力を込めて噛んでも、歯はそれ以上沈まない。肉は破れず、血も出ない。とても噛み切れそうにない硬質な感触に、歯を押しとどめられてしまう。
「無理だよ。歯が折れるよ」
 その声に、拒むような響きはなかった。ただ、この行動に意味がないということを、淡々と伝えてくる。
 噛んでも、仲間にならない。
 食べて自分の中に取り込もうとしても、できない。
 ──いっしょに、なれない?
 ふわふわとした幸福感の中に、一滴の疑問が落とされて、不安に形を変えてじわじわと広がっていく。
 目の前の存在が自分と同じにならないことが、なぜだかとても悲しかった。
「……そんなに噛みつかれても、モトラドは仲間にはなれないよ、キノ」

***

「…………」
 そしてキノは、だしぬけに目を覚ました。
 少し身じろいだ拍子に、体全体がゆったりと揺られた。背中が涼しい。ハンモックの上に横たわっていた。
 顔の上にかぶせていた帽子を取ると、ハンモックを吊るした木の枝葉越しに、陽の光が降り注いでくる。穏やかな、晴れた午後だった。
「おや、起きた?」
 すぐそばから、エルメスの声がした。
 ハンモックをひっくり返さないようにしながら、キノは上半身を起こして、声の方向を見た。
 昼寝をする前から何も変わらずに、エルメスがそこにいた。木々の開けた場所で、陽だまりの中に佇んでいる。
 その姿を見ながら、キノはぼんやりと口を開く。
「……ねえ、エルメス」
「なーに? キノ」
「ボクって、エルメスのハンドルに噛みついたことあったっけ」
「ええっ? ないよ!」
「だよね。変な夢を見たから」
「どしたの? モトラドを食べる夢でも見た? 食いしん坊にもほどがあるよ、キノ」
「うーん、お腹がすいて食べようとしたわけじゃないけど……」
 キノはふと目を逸らした。枝葉の隙間から見える空を仰ぎながら、夢の内容をなぞる。
「なんか──、一緒になりたくて」
「はい?」

 それからキノはエルメスに、自分がさっき見た夢の話をした。
 自分が、以前訪れた国で見た“生きる死人”になっていて──、
 エルメスを仲間にしようと、ハンドルに噛みつく夢のことを。

「変な夢だねえ」
 聞き終えたエルメスが一言、感想を言った。キノも頷く。
「うん。あの時のエルメスの話が印象に残っていたからだと思うけど……」
「わりと影響を受けやすいねえ、キノは。いつだったか本を読んだ時も、変な夢見たって言ってたし」
「そうかもね」
 いつもと同じ軽い口調で話すエルメスを見ながら、キノは知らず知らず微笑んだ。
 倒れた時、起こすのに苦労する重くて大きな車体。幾度か交換したタイヤ。押して歩くと中の燃料が波打つ音のするタンク。いつも座っている、そして毎朝叩いているシート。──キノにとっての、“モトラド”という言葉そのものの形。
 あの国を出た時に交わした会話を、キノはふいに思い出した。

“もしボクがああなってしまったら──、モトラドには乗れなくなるよね?”
“当然、そうだね”

「──エルメス」
「うん?」
「今、すごく……、走りたい気分だ」
「おっ、奇遇だねえ、キノ。こっちも同じ気持ちだよ」
「エルメスはいつもじゃない?」
「ま、モトラドだからね。──キノが走りたがると思って、待ってる間に太陽でシートを温めておきました」
「あはは」

 キノは、ほどいたハンモックを手に持って、木陰から歩み出た。たった数歩で、暖かな陽だまりとエルメスがキノを出迎える。
 ハンモックを片づけ、帽子を被り、ゴーグルを装着する。両手に愛用の手袋をはめて、キノは走り出す準備を終えた。
 エルメスのハンドルを握る前に、手袋越しの指先でその表面を軽く撫でてみる。それからふと思い立って、
「えい」
 そのハンドルを、手でパクパクと食べるような仕草をした。エルメスが反応する。
「ちょいとキノ、今噛んだ?」
「うん、噛んだ」
「知ってると思うけど、それ、モトラドには効かないよ?」
「知ってる。でも、ちょっとやりたかった」
 キノは答えながら、いつも通りにハンドルを握り直す。馴染んだ感触が、手袋に包まれた手のひらに伝わる。
 そのまま跨ろうとした時、下からエルメスが言った。
「ねえキノ。わざわざ噛みついて仲間にしなくてもさ──」
「ん?」
「こうして一緒にいるから、それでいいでしょ?」
 呆れたような、当然そうな、それでいてどこか照れたような、そんな口調だった。
「……そうだね」
 キノはふっと笑って、エルメスのシートに跨る。陽光を浴びているために、エルメスが言ったとおり、ほんのりと温かい。
 エンジンをかけると、キノにとって耳慣れた排気音が生まれる。
「じゃあ、行こうか。エルメス」
「行こう、キノ」
 騒々しいエンジン音と、一人と一台の声が、晴れた世界へと溶けていった。