ドレスの背中の紐が結べないキノさん
キノが、ドレスを纏っていた。
背中を大きく露出したデザインの、黒いドレスだった。スカート部分の丈は短く、布が幾重にも重ねられ、まるで黒い花が咲いているかのように見える。ボリュームのあるスカートとのコントラストを作るかのように、ドレスの上半身部分は薄いレース素材がふんだんに使われ、キノの華奢な体のラインにぴったりと沿っていた。
いつもの旅の服装とはまるで違う装いは、キノを華やかに彩っていたが──、
「…………」
当の本人は今、ドレスの背中にある紐を自分で上手く結ぶことができず、だいぶ困っていた。
キノとエルメスが訪れた国では、滞在二日目となる今日、ちょうど建国記念のパーティーが開催されるところだった。
キノ達が入国した昨日、さほど大きくないこの国では、旅人の来訪という珍しいニュースはすぐさま知れ渡った。滞在期間とのタイミングが合うこともあり、キノは案内人を通して国長からパーティーに招待され、あれよあれよと参加することになったのだった。
パーティーは、国の中央にある大きな迎賓館で行われる。参加者は正装を求められるが、服は貸し出され、飲食も自由、そして無料となれば、キノに断る理由はなかった。
ちなみに、モトラドはパーティー会場には入れないので控え室で待機することになると言われ、
「ふんだ」
エルメスは拗ねていた。
そして今日、パーティー当日。迎賓館の控え室にて──、
「まだ結べないの? キノ」
ドレスアップという概念とは無縁かつ、これからこの部屋で留守番する予定のエルメスが、キノに話しかけた。
キノとエルメスは、“旅人さん用控え室”として宛がわれた個室にいる。壁際に全身鏡が置かれていて、キノはそれに背を向けていた。キノの顔は背中越しに振り返っていて、
「今、やってるところ……」
「さっきからずっとやってるじゃん」
鏡の中に映る自分の背中と、その背中を飾るはずの紐と、その紐をなんとか結ぼうとしている自分の手を見ていた。
キノが借りたドレスは、背中のストラップ──黒く細い紐を肩甲骨の上で結ぶデザインだった。ドレスに袖を通し、紐を結ぶ段階になってからずっと、キノはこの控え室で静かな格闘を続けていた。腕を背中に回して紐を手繰るのはやりづらく、思うように結べない。作業は難航を極めていた。
キノは何度目かの挑戦をして、
「ぬぬ……」
何度目かの唸り声を出した。鏡の中で、キノがどうにか作った結び目は、美しいとはとても言えない出来になっていた。蝶結びの左右のバランスは悪く、結ばれてピンと張るはずの紐も途中でねじれている。
「はあ……。難しいな……」
キノがため息をついて、嘆くように言った。
「やっぱり、その位置の紐を自分で綺麗に結ぼうなんて無謀だよ、キノ。誰かに手伝ってもらったら?」
エルメスが口を出したが、キノは苦々しそうに答える。
「それは、なんか負けた気がする……」
「誰に?」
「このドレスを選んだ、ボク自身に」
「はあ。ドレス、違うのにしてきたら? まだ時間は大丈夫でしょ」
「負けた気がする……」
「やれやれ。相変わらず、負けず嫌いだねえ」
エルメスが、呆れと親しみの混ざった口調で言った。
キノは両手を再び背中に回して、紐の端を掴んで引く。残念な結び目がするりと解け、紐が垂れ下がった。もう一度結び直そうとして、
「…………」
ふいに、キノの表情が緩んだ。ふうっと息を吐いて、目を閉じる。そして、自分に言い聞かせるように、静かに唱えた。
「“落ち着きなさい、キノ。常に冷静に”……」
──修行中にお師匠さんから叩き込まれた言葉だけど、今使うような場面じゃなくない?
エルメスは思ったが、キノが真剣なので黙っていた。
目を開けたキノは、落ち着いた様子で、背中の紐へと手を伸ばす。ねじれないように紐を指で挟んで伸ばしてから、一度肩甲骨の上の位置で軽く結んだ。端の左右の長さを調整して揃え、蝶結びへと移行する。焦らず慎重に、そして迷いなく、丁寧に紐を結んでいく。
そして、
「…………」
何か手応えを感じたように、キノが顔を上げた。紐から手を離す。改めて、鏡に映る自分の背中を見た。
「──できた」
キノが満足げに言った。視線の先で、鏡の中のキノの背中を、しっかりと整った蝶結びが飾っていた。
「なんとまあ。やればできるもんだねえ」
一連の流れを見守っていたエルメスが、感心したように言った。
「ああ、腕が疲れた」
言葉に反して清々しい口調で、キノが言う。それから、身支度の続きに取りかかる。
キノは、首に黒いリボンのチョーカーを巻いた。短い髪の襟足から覗く首を、花の形をしたリボンの飾りが彩る。
次に、ドレスと一緒に借りた靴──黒のヒールを履く。キノには履き慣れないヒールだが、鍛えられた体幹のおかげか、歩くのに支障はなさそうだった。
最後に、ドレスと揃いのレース素材で作られた手袋をはめる。それは、指先から手の甲の半分までの長さしかないハーフグローブだった。繊細なレースに爪を引っかけないよう、丁寧に指を通していく。
全ての準備を終えて、
「……よし」
キノはおかしなところがないかを目の前の全身鏡で確認したのち、振り返ってエルメスにも見せる。
「どう?」
感想を求められたエルメスが、しみじみと言う。
「うん、いいね。似合うよ、キノ。相棒の欲目もあるかもしれないけど」
「エルメス……」
「すっごく格好いいよ。──こんなキノがさっきまで意地になって紐と悪戦苦闘していたなんて、誰も思わないんじゃない?」
「エルメス」
レースの手袋に包まれた拳をエルメス目がけて振り上げたキノだったが、
「おっとキノ、その手袋も借り物でしょ? もし破りでもしたら弁償だよ?」
「くっ……」
エルメスのその言葉に、悔しそうな顔をして腕を下ろした。握った拳をゆるゆると開く。
「ほらほら、せっかく綺麗な格好してるんだから、そんな顔してたら台無しだよ、キノ」
「誰のせいで……」
「背中の紐のせい。もしくは、そんなドレスを選んだ自分のせい」
「…………」
顔に悔しさを滲ませながら黙ったキノだが、やがて、すっと表情を取り繕った。壁の時計を見る。
「……まあ、結局はなんとかなったから良しとする」
「さいで」
「そろそろ時間だ。行ってくるよ」
「はいはい。楽しんできてね、キノ」
「ああ。美味しい料理をたくさん食べてくる」
「食べすぎて、ドレスを破っちゃわないようにね」
「気をつけるよ」
控え室から出て行くキノを、エルメスが見送る。
歩き去るキノの背中で、きっちりと綺麗に結ばれた例の紐が、先ほどまでの格闘を感じさせない涼やかさで揺れていた。
背中を大きく露出したデザインの、黒いドレスだった。スカート部分の丈は短く、布が幾重にも重ねられ、まるで黒い花が咲いているかのように見える。ボリュームのあるスカートとのコントラストを作るかのように、ドレスの上半身部分は薄いレース素材がふんだんに使われ、キノの華奢な体のラインにぴったりと沿っていた。
いつもの旅の服装とはまるで違う装いは、キノを華やかに彩っていたが──、
「…………」
当の本人は今、ドレスの背中にある紐を自分で上手く結ぶことができず、だいぶ困っていた。
キノとエルメスが訪れた国では、滞在二日目となる今日、ちょうど建国記念のパーティーが開催されるところだった。
キノ達が入国した昨日、さほど大きくないこの国では、旅人の来訪という珍しいニュースはすぐさま知れ渡った。滞在期間とのタイミングが合うこともあり、キノは案内人を通して国長からパーティーに招待され、あれよあれよと参加することになったのだった。
パーティーは、国の中央にある大きな迎賓館で行われる。参加者は正装を求められるが、服は貸し出され、飲食も自由、そして無料となれば、キノに断る理由はなかった。
ちなみに、モトラドはパーティー会場には入れないので控え室で待機することになると言われ、
「ふんだ」
エルメスは拗ねていた。
そして今日、パーティー当日。迎賓館の控え室にて──、
「まだ結べないの? キノ」
ドレスアップという概念とは無縁かつ、これからこの部屋で留守番する予定のエルメスが、キノに話しかけた。
キノとエルメスは、“旅人さん用控え室”として宛がわれた個室にいる。壁際に全身鏡が置かれていて、キノはそれに背を向けていた。キノの顔は背中越しに振り返っていて、
「今、やってるところ……」
「さっきからずっとやってるじゃん」
鏡の中に映る自分の背中と、その背中を飾るはずの紐と、その紐をなんとか結ぼうとしている自分の手を見ていた。
キノが借りたドレスは、背中のストラップ──黒く細い紐を肩甲骨の上で結ぶデザインだった。ドレスに袖を通し、紐を結ぶ段階になってからずっと、キノはこの控え室で静かな格闘を続けていた。腕を背中に回して紐を手繰るのはやりづらく、思うように結べない。作業は難航を極めていた。
キノは何度目かの挑戦をして、
「ぬぬ……」
何度目かの唸り声を出した。鏡の中で、キノがどうにか作った結び目は、美しいとはとても言えない出来になっていた。蝶結びの左右のバランスは悪く、結ばれてピンと張るはずの紐も途中でねじれている。
「はあ……。難しいな……」
キノがため息をついて、嘆くように言った。
「やっぱり、その位置の紐を自分で綺麗に結ぼうなんて無謀だよ、キノ。誰かに手伝ってもらったら?」
エルメスが口を出したが、キノは苦々しそうに答える。
「それは、なんか負けた気がする……」
「誰に?」
「このドレスを選んだ、ボク自身に」
「はあ。ドレス、違うのにしてきたら? まだ時間は大丈夫でしょ」
「負けた気がする……」
「やれやれ。相変わらず、負けず嫌いだねえ」
エルメスが、呆れと親しみの混ざった口調で言った。
キノは両手を再び背中に回して、紐の端を掴んで引く。残念な結び目がするりと解け、紐が垂れ下がった。もう一度結び直そうとして、
「…………」
ふいに、キノの表情が緩んだ。ふうっと息を吐いて、目を閉じる。そして、自分に言い聞かせるように、静かに唱えた。
「“落ち着きなさい、キノ。常に冷静に”……」
──修行中にお師匠さんから叩き込まれた言葉だけど、今使うような場面じゃなくない?
エルメスは思ったが、キノが真剣なので黙っていた。
目を開けたキノは、落ち着いた様子で、背中の紐へと手を伸ばす。ねじれないように紐を指で挟んで伸ばしてから、一度肩甲骨の上の位置で軽く結んだ。端の左右の長さを調整して揃え、蝶結びへと移行する。焦らず慎重に、そして迷いなく、丁寧に紐を結んでいく。
そして、
「…………」
何か手応えを感じたように、キノが顔を上げた。紐から手を離す。改めて、鏡に映る自分の背中を見た。
「──できた」
キノが満足げに言った。視線の先で、鏡の中のキノの背中を、しっかりと整った蝶結びが飾っていた。
「なんとまあ。やればできるもんだねえ」
一連の流れを見守っていたエルメスが、感心したように言った。
「ああ、腕が疲れた」
言葉に反して清々しい口調で、キノが言う。それから、身支度の続きに取りかかる。
キノは、首に黒いリボンのチョーカーを巻いた。短い髪の襟足から覗く首を、花の形をしたリボンの飾りが彩る。
次に、ドレスと一緒に借りた靴──黒のヒールを履く。キノには履き慣れないヒールだが、鍛えられた体幹のおかげか、歩くのに支障はなさそうだった。
最後に、ドレスと揃いのレース素材で作られた手袋をはめる。それは、指先から手の甲の半分までの長さしかないハーフグローブだった。繊細なレースに爪を引っかけないよう、丁寧に指を通していく。
全ての準備を終えて、
「……よし」
キノはおかしなところがないかを目の前の全身鏡で確認したのち、振り返ってエルメスにも見せる。
「どう?」
感想を求められたエルメスが、しみじみと言う。
「うん、いいね。似合うよ、キノ。相棒の欲目もあるかもしれないけど」
「エルメス……」
「すっごく格好いいよ。──こんなキノがさっきまで意地になって紐と悪戦苦闘していたなんて、誰も思わないんじゃない?」
「エルメス」
レースの手袋に包まれた拳をエルメス目がけて振り上げたキノだったが、
「おっとキノ、その手袋も借り物でしょ? もし破りでもしたら弁償だよ?」
「くっ……」
エルメスのその言葉に、悔しそうな顔をして腕を下ろした。握った拳をゆるゆると開く。
「ほらほら、せっかく綺麗な格好してるんだから、そんな顔してたら台無しだよ、キノ」
「誰のせいで……」
「背中の紐のせい。もしくは、そんなドレスを選んだ自分のせい」
「…………」
顔に悔しさを滲ませながら黙ったキノだが、やがて、すっと表情を取り繕った。壁の時計を見る。
「……まあ、結局はなんとかなったから良しとする」
「さいで」
「そろそろ時間だ。行ってくるよ」
「はいはい。楽しんできてね、キノ」
「ああ。美味しい料理をたくさん食べてくる」
「食べすぎて、ドレスを破っちゃわないようにね」
「気をつけるよ」
控え室から出て行くキノを、エルメスが見送る。
歩き去るキノの背中で、きっちりと綺麗に結ばれた例の紐が、先ほどまでの格闘を感じさせない涼やかさで揺れていた。
