夢の話

※キノさんが泣くシーンがあります
―――

 草原の一本道を、一台のモトラドが走っていた。
 モトラド──エルメスには、二人の人間が乗っていた。
 運転席に座ってハンドルを握っているのは、背の高い、茶色いコートを着た人間──、“キノ”だった。
 ×××××は、その後ろに乗っている。キャリアに横向きに座り、“キノ”の腰に手を回していた。黒く長い髪が風で好き勝手に弄ばれているが、不思議と気にならなかった。
 天気はよく晴れていて、太陽が地上にあるもの全てを包み込むように照らし、暖めていた。二人と一台の頭上には、雲一つない青い空が広がっている。草原もまた果てしなく、そこに伸びる一本の道は、地平線の向こうまで走り続ける。
 “キノ”が楽しそうに何かを言って、エルメスが冗談を重ねる。×××××はそれに笑った。
 エンジン音と共に流れていく景色の中で、コートに包まれた細い背中の体温がすぐそばにある。
 吸い込んだ息が胸をくすぐる。疑いようもなく楽しいのに、同時になぜか切ないような感覚があった。
 そして、

「…………」
 そして、キノが目を覚ますと、そこは夜の森の中だった。
 キノは大きな木の幹に座り、寄りかかっている。木々の間から差す月明かりが、周囲を青白く照らしていた。焚き火の跡があって、その向こう側にエルメスが止まっていた。
 それはいつもと同じ野営の光景だったが、目を覚ました直後のキノは一瞬、なぜここに彼がいないのかと思った。それからすぐに、自分が今まで夢を見ていたことに気がついた。
 夜の冷たい空気が頬を刺す。
 先ほどまであった、抱きついた背中の感触と体温は目覚めと共に掻き消えて、永遠に戻ってこなかった。
 毛布代わりにしていた茶色のコートが、キノの体に被さっていた。キノの体格には大きすぎてぶかぶかの、彼のコートだった。
「…………」
 キノは無言でそれを眺めた。そのコートに、ぽたぽたと落ちるものがあった。
 感情が頭の中で言葉になるより先に、キノは泣き出していた。キノは目元を拭ったが、涙はそれで止まらなかった。溢れた雫がジャケットの袖を濡らし、頬を次々に伝い落ちる。堪えきれなかった嗚咽が、喉から小さく漏れた。
「キノ?」
 いつの間に起きたのか、それともずっと起きていたのか、エルメスの声が聞こえた。
「だいじょうぶ? 怖い夢でも見たの?」
 うつむいたままで、違う、とキノは首を振った。
「違うんだ。……いい夢だった。楽しくて……、幸せな夢だった」
 絞り出した声が震えた。キノはどうにか声を紡ごうとして、
「でも──、だから──……」
 その先は言葉にならなかった。込み上げてくる涙がそのまま溢れて、ぽろぽろと落ちては、音もなくコートへと吸い込まれていく。鼻がつんと痛かった。
「キノ。こっちにおいで」
 エルメスの声がした。いつもより静かで、やわらかい声だった。
「胸も肩も貸せないけど、どこでも好きなところ使っていいよ」
 キノは顔を上げた。涙でぼやけた視界の中に、エルメスがいた。
「それに、噛みつかないからさ」
 少し声のトーンを上げてエルメスが言って、
「知ってるよ」
 キノは泣きながら笑った。弾みで、涙がまた一粒落ちていった。

 キノは肩にコートを羽織って、ゆっくりと立ち上がる。焚き火跡の横を通り抜けて、エルメスの元に辿り着く。
「来たよ」
「うん。いらっしゃい」
 キノは、エルメスのすぐそばに座り込んだ。頭をタンクにこてんと預ける。
 額に冷たく硬い感触があって、
「……エルメスだ」
「そうだよ、キノ」
 すぐ近くからエルメスの声が聞こえた。出会った時からずっと変わらない、自分をキノと呼ぶ声だった。
 その途端、どうしようもない安心感と一緒に、再び涙が込み上げてくる。
 ぶかぶかのコートを背に羽織って、エルメスに縋りながら、キノは子供のように、しばらくの間ぼろぼろ泣いていた。エルメスは黙って、何よりもそばにいてくれた。

「……ああ、久々にこんなに泣いた気がする」
「うん、久々にキノがこんなに泣いてるところを見た気がする。いつ以来だろ? お師匠さんにコテンパンにされた時以来かな?」
「そんなには泣いてないよ」
「えー、泣いてたよ」
 泣くだけ泣くと落ち着いて、キノはエルメスに寄りかかったままで話している。エルメスも、いつもと同じ口調だった。空気だけが、どこかゆったりと緩んでいる。
「キノ。冷やさないと、目元が腫れるんじゃない?」
「エルメスしか見ないだろうから、いい」
「そ。まあ、こんな森だし、人には会わないか」
「あと、冷やすための水がもったいない」
「さいで。相変わらずびんぼーしょーだねえ、キノは」
 呆れたようにエルメスが言って、キノは小さく笑う。なんてことのない言葉の一つ一つが、染みこむように心地よかった。

 泣き疲れた瞼の重さに任せて、キノは目を閉じた。いつの間にか、眠気が全身を包んでいる。
 夢で感じたぬくもりの記憶は、もはや朧気だった。閉じた視界の中、身を預けたエルメスの感触だけが、確かなものとして存在している。冷たい金属の車体は硬く、オイルの匂いがする。眠る場所としては相応しくなかったが、キノにとって相応しい居場所はここだった。
「エルメス」
「なあに、キノ」
「ありがとう」
「ん? 何に?」
 とぼけたようなエルメスの声に、微睡みながらキノは微笑む。
「全部」
 眠気で思考がほどけていて、返事は端的なものになった。
「どういたしまして」
 嬉しそうな声が聞こえる。
 目を閉じていても、夜の気配は伝わってくる。風が森の木々をざわめかせたが、コートのおかげで寒くはなかった。
 エルメスが、囁くように小さな声で、何よりも近くからキノに言う。
「おやすみ、キノ」
 まるでエルメスの声に手を引かれるかのように、キノは眠りへと落ちていく。凪いだ海のように静かで、穏やかな眠りだった。