おやすみ

「ああ……、ベッドだ……」
「ベッドだねえ」
 ホテルの部屋のドアを開け、何よりも先にベッドを見つけて感慨深く言ったキノに、エルメスはそう返した。

 この国に向かう途中、昨日の朝のこと。
 キノとエルメスは、草原で凶暴な羊の群れに襲われた。
 エルメスの提案で、キノだけが羊たちから逃れた。一人で一晩を過ごしたキノは、朝になって羊の犠牲者の車を見つけると、体勢を整えてエルメスの元へ向かった。羊たちを轢いたり燃やしたり撃ったり──そんな豪快な手段でエルメスを奪還したのが、今日の昼のことだった。
 それから草原を全速力で走り続け、夕方、ようやく国に辿り着き、すぐにホテルを探して、今に至る。

「ああ、早く寝たい……」
 そのままベッドに飛び込みたいのをどうにか堪えてジャケットのベルトを外しているキノに、エルメスが話しかける。
「キノ。昨夜、あんまり眠れなかったの?」
「眠れなかった。羊が恐かったし。ちょっとした物音ですぐ目が覚めた」
「おやまあ。ご愁傷様」
「エルメスはどうだった?」
「メーメーうるさい以外は大丈夫だったかな。でも、日が昇ってからは羊の枕にされてたよ。車体が日光であったまってたからね」
「へえ……。寝心地いいのかな?」
 キノが軽く興味を抱いた様子で言う。ホルスターとポーチが連なるベルトを外し終えた。テーブルの上に置くと、ホルスターの中の『カノン』と『森の人』が硬質な音を立てる。それぞれ本体に弾丸はなく、ポーチの中の交換弾倉までも撃ち切って、今は文鎮の状態だった。続いて、キノはジャケットを脱ぎ始める。
「キノも試してみる? 意外とよく眠れるかもよ」
 冗談を言ったエルメスを見て、キノがふっと微笑んだ。
「じゃあ──、少し試してみようかな」
 脱いだジャケットを椅子の背もたれにかけて、シャツ姿のキノが、エルメスの脇に膝をつく。両腕を組んで顔を突っ伏すようにして、タンクに上半身をもたれさせた。
「硬い。冷たい」
 キノの声が、何よりも近いエルメスに当たって跳ね返る。
「そりゃそうだよ。モトラドだもん」
 エルメスが言って、
「…………」
 キノからの返事はなかった。
 エルメスのタンクへ顔を突っ伏して黙るキノに、エルメスが訊ねる。
「キノ? 寝てないよね?」
「まだ寝てないよ」
 エルメスのタンクに、触れているキノの体温が伝わってくる。シャツの袖に包まれた細い腕。その温もりが、じわじわと金属の冷たさを溶かしていく。
 エンジンの熱もすっかり冷めた金属の車体は、体温を奪いはすれど、与えることはない。
 疲れと安堵の混ざった揺らいだ声で、キノがぽつりと呟いた。
「……正直、もうダメかと思った」
「まあねえ。今までの旅の中でも、かなりのピンチだったねえ」
「羊がトラウマになりそうだ……」
「じゃあ、今度から野生の羊見つけても、狩って食べるのやめる?」
「いや、それとこれとは別。お腹がすいたら食べさせてもらう」
「さいで」
 いつもの口調でエルメスが返すと、キノが顔を伏せたまま、小さく笑う気配がした。
 それからしばらくの間、誰も話さない静かな時間が流れる。
 穏やかな呼吸音を聞き続けていたエルメスが、控えめに聞く。
「キノ? ……寝ちゃった?」
 少しの間があって、
「……あ、ちょっと寝てた」
 キノが答えた。
「ホントにモトラドを枕にしないでよ。このまま寝たら、たぶん首とか背中とかが痛くなるよ。ベッドで寝るんでしょ?」
「うん……」
 キノがエルメスのタンクに両手をついて、ゆっくりと立ち上がる。どこか名残惜しそうにも見える動作だった。
 狭い部屋の短い距離を歩いて、キノはベッドに辿り着く。白いシーツに身を横たえて、心の底から幸せそうな声を出す。
「ベッドだ……。嬉しい……」
「よかったねえ、キノ」
 ゆったりと体を弛緩させて、すぐにでも寝入りそうなキノに、エルメスが言う。
「おやすみ、キノ。昨夜の分も」
 エルメスの言葉に、キノが寝返りを打って、体をエルメスに向ける。
 緩んだ表情をより柔らかく綻ばせて、眠そうな、安らいだ声で返した。
「おやすみ、エルメス。──また明日」