なでなで

「ちょっとキノ、ここで寝ないでよ……」
 エルメスが、困った声と表情で呟きました。キノからの返事はありません。
 人間になったエルメスの膝の上には、黒い柴犬となったキノが、体を丸めて寝ていました。キノは、エルメスのあぐらを組んだ足の間にすっぽりと収まっていました。目を閉じて、気持ちよさそうに寝息を立てています。
 エルメスとキノ、そして人間になった陸と犬になったシズ、ティーの一行は、あの不思議な森を抜け、近くにあった国に辿り着いていました。なんとか入国審査をクリアし、どうにかホテルを見つけて泊まることに成功しました。そして、エルメス達、陸達でそれぞれ一部屋ずつ部屋を宛がわれて、今夜は休むことになったのです。
 なったのですが、この部屋で休んでいるのはキノだけで、エルメスはまったく休めていませんでした。──エルメスの膝の上でキノがすっかり寝入っていて、身動きが取れないからです。
「まったくもう」
 小さな声で呟きながら、エルメスはキノを見下ろしていました。
 エルメスの視線の先で、黒い柴犬が穏やかに眠っています。毛で覆われたお腹が、呼吸の度に膨らんでは戻る動きを繰り返していました。
「…………」
 モトラドだった時はそう思ったことはなかったのに、目の前の犬に触れてみたくなったのは──、エルメスが人間になったからなのか、相手がキノだからなのか、あるいはその両方か。
 エルメスは手を伸ばして、キノの背中に触れてみました。そっと撫でると、毛の感触越しに、人間の時より高くなった体温を感じました。思わず手を離すのが惜しくなるような、ふわふわした手触りと、温かい、生きているという熱。
「…………」
 いつぞやの、あの犬を楽しそうに撫でていたキノの気持ちが、少し分かるような気がしないでもありませんでした。
 ──もしも犬になったのがこっちで、キノが人間のままだったら、今頃、あんな風に喜んで撫でてくれていたかな?
 エルメスの中にふとそんな疑問が浮かびましたが、答えは分かりませんでした。
「……ん」
 起こさないように気をつけていたつもりでしたが、さすがに犬の感覚は鋭いのか、撫でているうちにキノの耳がぴくりと動きました。目を開けたキノが、エルメスの方を見ました。
「あ、ごめんキノ。起こしちゃった」
 慌てて撫でていた手を離したエルメスに、
「……エルメス」
 まだ少し眠そうな声で、キノが言います。
「寝ている犬を撫でるのは良くないよ。安眠の妨害になる」
「あ、うん。ごめん」
「他の犬にはしないようにね。噛まれるよ」
「うん──、うん?」
 頷きかけたエルメスが、首を傾げました。
「“他の犬には”って……、キノならいいの?」
「いいよ。ボクは噛まないから。相手がエルメスなら、絶対」
 キノが言いました。エルメスは数度瞳を瞬いて、それから、
「……じゃあ、失礼して」
「どうぞ」
 キノの体に再び手を触れて、黒い毛並みを撫で始めました。
 大人しく撫でられているキノがぽつりと、
「意外だ」
「何が? キノ」
「こんな風に撫でてくるのが。エルメスは、前に“犬は嫌いだ”って言っていたから。陸君とも口喧嘩していたし」
「そりゃあ、“犬”にはあんまりいい思い出はないよ」
 でも、とエルメスは続けて、
「なんか、キノが寝てるのを見たら、触りたくなっちゃって」
 それを聞いたキノが、合点がいったという風に頷きました。
「エルメスも、やっと犬の魅力が分かったか」
「いや、そうじゃなくてね……。まあいいや」
 エルメスがキノの顎の下を撫でてみると、キノが心地よさそうに目を閉じました。
 機嫌がいいのか、リラックスしているのか、その両方か。ゆったりとした動きで、尻尾が左右に振られています。
「エルメスに撫でられるのも、いいものだね。もう、ずっと犬のままでもいいかな」
「キノがよくても、こっちは早く元に戻りたいんだけど」
「エルメスがモトラドに戻っても、ボクが犬のままだったら、もうどうしようもないね」
「恐ろしいこと言わないでよ。……でも」
「でも?」
「もう少しくらいは、このままでもいいかな。キノを撫でられるのは、結構いいものだし」
「分かる。犬を撫でるのはいいよね」
「うーん。そうだけど、そうじゃなくてね」
 エルメスの膝の上でくつろぐキノと、そんなキノを撫で続けるエルメスは、だらだらと会話を交わします。
 結局身動きできないままでいるエルメスの足がしびれるまで、あと少しなのでした。