ハグする話

 ホテル内にあるレストランでの夕食を終えて、キノは自分の部屋に戻ってきた。ドアを開くと、部屋の中で待っているエルメスの姿が見える。
「ただいま、エルメス」
「おかえりー、キノ」
 そこまではいつも通りのやりとりだったが、
「ねえキノ、ただいまのハグは?」
 突然いつもとは違う言葉を加えられて、キノは数度瞬きをした。
 目の前にあるエルメスの車体をまじまじと眺めて、そして聞く。
「…………。どの辺に?」
「んー、その辺に?」
 曖昧な返事だった。
 キノは、とりあえずエルメスの前まで歩み寄る。少し悩んだ後、その前輪の横、カーペットの床に膝をついた。いつもは立ったキノの腰の高さにあるエルメスのヘッドライトが、膝立ちの今は、ちょうど視線と近い位置にある。
 キノは身を乗り出すようにして、エルメスの前輪を支えるフロントフォークに両腕を回した。
「この辺でいいかい?」
「いいよー」
 エルメスの返事を聞いたキノが、両側から包むようにして、エルメスの車体を抱きしめた。
「ただいま」
「はいおかえりー。――冗談だったんだけどね」
 エルメスが言った。楽しそうな、どことなく嬉しそうにも聞こえる声だった。

 部屋を出る前からつけっぱなしにしていたテレビが、がやがやと人の話し声を流し続けている。
 それを聞くともなしに聞きながら、キノは手を動かして、エルメスの車体表面を意味もなく撫でた。触れた手のひらに、金属の硬さと冷たさを感じる。
「キノはあったかいねえ」
「エルメスは冷たいね。……それに、硬い。緊張でもしてる?」
 キノが少しおどけながら言うと、エルメスからも似たような響きの声が返ってくる。
「してるしてるー。もうガチガチだよ、ガチガチ」
「ガチガチなのか」
「キノがしばらくこのままでいてくれたら、ちょっとはほぐれるかもね」
「分かった」
 エルメスに答えた後、キノはふとテレビの画面を見た。キノが夕食に行く前に放送していたニュース番組は既に終わっていて、今はバラエティらしき番組が映っている。いろいろな雑学を紹介する番組のようだった。
「……ひょっとして、ボクが食べている間、変なテレビでも見た?」
「お、ご明察。“変な”ってほどでもないんだけどね、ハグをするとストレス軽減になるとか、リラックスできるとか言っていてね。キノが帰ってきたらやってみようと思ったんだよ」
「そうなんだ。……モトラドにも効果があるの?」
「そこまでは言ってなかったんだよねえ。分からないから、今こうして実験中」
「なるほど」
「キノの方は、どう? 相手がモトラドでも効果ある? リラックスできてる?」
「うーん……」
 訊ねられたキノは、いったん抱擁を解き、胸に手を当てて自分の様子を確かめた。ずっとエルメスに触れていた手が、じんわりと冷たい。
「…………。分からない」
「ありゃ」 
 やや残念そうな声を出したエルメスを、キノは両腕でもう一度抱きしめ直した。今度はヘッドライトにそっと頭を預けて、それから目を閉じる。
「キノ?」
 誰よりも聞き慣れた声が、何よりも近くから聞こえる。その声が不思議そうに名前を呼ぶのを、キノは微笑みながら聞いていた。
 だって、とキノが口を開く。
「エルメスの傍は、ボクにとって、もともと居心地がいいんだ。安心する。だから、今のこの気持ちが抱きしめた効果によるものなのか、ボクには区別がつかない」
「――そっかあ」
「うん」
 照れたような声音に、キノは頷いて返事をする。それから訊ねた。
「エルメスはどう? そろそろほぐれてきた?」
「そりゃあもう。フニャフニャだよ、フニャフニャ」
「フニャフニャなのか。感触は変わらないけれど」
「気分的にだよ!」