ながいともだちのはなし

 目覚めた時、モトラドの視界にはいろいろな色が映りました。
 どんよりと曇った空の灰色。
 石畳に染み込んでいく血の赤い色。
 倒れた旅人の胸に突き刺さった包丁の銀色。
 でも、何よりも近くにあって、真っ先に見えた色は、黒でした。
 少女の背中をすっぽり覆ってしまえるほどに長く長く伸ばされた、髪の色でした。



「エルメス、後ろ変じゃない?」
 うなじの上あたりの髪に触れながら、キノがエルメスに訊ねてきます。
 キノはエルメスに背中を向けていて、表情は分かりません。黒くて短い髪に包まれた、丸っこい後頭部が見えています。
 キノとエルメスは、草原にいました。近くには細く流れる川があって、せせらぎが聞こえてきます。見上げれば、気持ちよく晴れた蒼い空が広がっています。モトラド日和です。走りたいです。
「うんうん、変じゃない変じゃなーい。だいじょぶだいじょぶー」
 エルメスが答えると、キノが振り向きました。なんだか不満そうな顔でした。
「…………。すごく適当に聞こえるよ、エルメス」
「いやあ、正直、キノの髪型なんてなんでもいいし」
「む」
「はいはい、拗ねないの。別に悪い意味で言ったんじゃないんだよ? 髪が長くても短くても、なんなら茶髪や金髪に染めたとしても、こっちにとってキノはキノで、変わりはないんだってことで」
「それらしいことを言っているけれど、本当は?」
 キノの質問に、
「いい天気だしー、早く走りたいなあ。そろそろ待ちくたびれて錆びちゃいそうなんだもん」
 エルメスは子供っぽく、語尾にハートマークが付きそうなくらい甘えた口調で返しました。媚び媚びです。
 それがやや面白かったのか、キノが表情を少し和らげて、
「錆びるのは困る。──エルメスから見て変じゃないなら、いいか。片付けるから、もう少し待っていて」
 キノは鋏を置くと、肩にかけていたタオルを取りました。切った髪が服にかからないよう、散髪用のケープがわりにしていたものです。そのタオルを両手で持ち、バサバサと扇ぐように動かして、細かい髪の毛を落とします。それからタオルを畳んで片付けて、髪を切るのに使った鋏や鏡を、エルメスの後輪脇の箱にしまいました。
 少しだけ短くなった髪とシャツの襟の間から細い首が覗いていて、エルメスはなんとなく、あの長かった髪に鋏が入った時のことを思い出しました。
 国を目指す道中、ハンドルを握るキノの手に力が入っていたこと。
 小さな部屋で、ベッドに寝かされたキノが起きるのを待っていたこと。
 コートを着たキノと一緒に、森の中のログハウスへ帰ったこと──。
 キノと出会ってからのことは、この先たくさん時間を重ねたとしても、錆びて朽ちてしまうまでは、エルメスはずっと覚えているのでしょう。だってエルメスはモトラドで、記憶力はいいですから。そして何よりも、エルメスはキノの相棒なのですから。
 キノが、いつもエルメスに乗る時にするグローブを両手に嵌めました。次に帽子を被って、ゴーグルを着けます。その際、額にかかる髪がゴーグルのレンズの内側に入らないよう、指で払いました。また、ゴーグルのバンドで挟んでしまわないように、耳の横の髪もバンドの外に出します。払われた勢いで、短い髪がふわりと舞いました。
 そんな一連の仕草を見ながら、
「ねえ、キノ」
「なんだい、エルメス。実は髪が変だったとか?」
「変じゃないってば。あのね──」
 エルメスは言いたいと思ったことを言います。
「長い時の“しっぽ”も悪くなかったけど、やっぱり髪は短い方が、キノって感じがするね。うっかりくる気がする」
「……“しっくりくる”?」
「そうそれ!」
「……ん?」
 キノが怪訝そうな顔で首を傾げました。短い髪が少しだけ頬に被さります。
「──あ……」
 何か考えていたキノが思い当たることを見つけたらしく、ぱっと顔を上げてエルメスを見ました。見開かれた大きな目がまん丸くて、なんだかあどけなく見えます。
 ゴーグル越しにエルメスを見るキノの瞳が、やがてやわらかく細められました。
「……懐かしいね。エルメス、覚えていたんだ」
「そりゃあ、覚えてるよ。キノのことだもん。キノ検定があれば一級だよ?」
「それは凄い。……ところで、“しっぽ”って何?」
「ほら、キノ、髪が長かった時、よく頭の後ろで一つに結んでたでしょ? あれのこと。キノが動く度にぴょこぴょこ跳ねててさ、まさに馬のしっぽみたいだったんだよ」
「へえ……」
 キノが、頭の後ろへ手を持っていきました。
「エルメスは、ボクのことをよく見てくれているんだね」
「まあねー。でも、キノだって、エルメス検定は一級じゃないの? 過ごした時間は同じなんだからさ」
 エルメスが訊ねると、キノは神妙な面持ちで首を横に振りました。
「いいや……。ボクはまだまだだよ」
「あれ? どして?」
「だって──、こんなに一緒にいるのに、どうすればエルメスが朝早く起きてくれるのか、まだ分からないから」
「あー、それなら分かんなくてもいいよ。こっちだってずっと分かんないから!」
 エルメスがとてもとても朗らかに言いました。キノが神妙な顔を崩して、ふっと微笑みます。
「……エルメスはしょうがないなあ。いつになったら、自分で早起きできるようになるのかな?」
「さあねえ。だから──」
「だから?」
「それまでは、キノが起こしてくれればいいよ。今までみたいに、これからもね」
 そう伝えると、エルメスを見下ろすキノの笑みがますます深くなって、
「言われなくても、そうするよ」
 嬉しそうな声が降ってくると同時に、両手がハンドルを包みました。初めて一緒に走った時からずっとそうしてきた、誰よりも馴染んだ手のひらでした。