月と花のはざま
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#8 花とわらべ唄(1/2)
ミズキの胸から背中を蝕む痛みは徐々に引いていき、もう少し様子を見てリハビリを始めてはどうかという段階に至っていた。痛み止めを飲む頻度が減り、ほんの少しではあるが一日のうちに歩く時間もできてきた。ミズキは医務室の窓際に飾った花の箱と、その隣に置いた花瓶に視線を移した。
「ミズキさん、お花が好きなんですね。受け取ってください」
花瓶に挿してあるのは生命力に溢れる赤い花。ヒイラギが花の箱を見てすぐに持ってきたものだ。越水からもらった箱だと告げた瞬間露骨に唇を尖らせていた。やはり二人は仲が悪いのだろうか。年の差も立場の違いもあるだろうが、どちらも誠実で気遣いのできる人間のようだから不思議だった。何となくどちらにも聞きづらくて追及はしていない。世の中知らなくていいこともあるだろう。
今日は医務室で安静にしているようにと言われていた。昨日越水に職場を見てみたいと告げ、二人で少しばかり歩いてみたところ、ものの数分で動けなくなってしまった。越水からは労われ焦らなくていいと言われたが、落ち着かない心地だった。思いどおりに動かない体にもどかしさを覚えるが、今は耐える時期だ。……暇だ。ミズキは越水とヒイラギが差し入れてくれた本を手に取った。白い部屋のベッドに座りページをめくる静かな時間、心が凪いだ水面のように落ち着いていく。
そうしてしばらく文字の世界に浸っていると、スマートフォンが震えた。百合川ヒイラギだ。
「今から会いに行きますね」
表示された文章は端的。初めのうちは「会いに行ってもいいですか」だったが、どうせ暇だからいつでもいいですよと答えた途端、遠慮がなくなった。それでも予告なく部屋に来ることはない、ミズキは微笑んだ。
「ミズキさん!」
彼が通っている学園はベテル日本支部にほど近いようで、メッセージの数分後に彼は現れる。真っ直ぐ駆け寄ってくる彼の前髪が忙しなく揺れていた。
「こんにちは、ヒイラギ君」
「こんにちは。……あ」
ヒイラギの翡翠の瞳が窓際に向かった。
「お花、飾ってくれたんですね。嬉しいな」
「ええ、せっかくいただいたので。ありがとうございます。お花は綺麗でいいですね」
ヒイラギはベッドそばの椅子に座り、ミズキと目を合わせた。長い睫毛に縁取られた美しい瞳は、ミズキを見据えながらも優しい空気をまとっている。
「最近、少しずつですけど歩くようになってきたんですよ。昨日はちょっと無理をしてしまいましたけど」
「無理?今は大丈夫なんですか?」
「だから今日はお休みです。ヒイラギ君が会いに来てくれてよかったです。ここにずっとひとりでいると寂しいですから」
「ミズキさんのこと、心配です……大怪我をしたんですから、無理しないでください」
「ありがとう」
彼が純粋に心配してくれていることは、声音から十二分に伝わる。学園生活もあるだろうにありがたいことだ。
「おかげさまで、体は良くなってきました。でも、あなたのことはまだ思い出せなくて……。ごめんなさい、ヒイラギ君」
「いえ、それは……ミズキさんが僕といてくれるだけで十分です。もちろん思い出してくれたら嬉しいですけど、でも……構いません」
彼の瞳は優美な力強さを持ち、ミズキを安心させる。鋭いようで柔らかな越水の眼差しとは正反対だ。……越水を思うと、愛など謳いそうにない唇から紡がれた言葉を思い出してしまう。
ふと医務室に暗い影が落ちた。窓に目を向けると、曇りでもないのに空……いや、空間そのものが暗かった。医務室の中は電気がつき明るいからこそ、突然の外の暗さが気にかかってしまう。医務室の窓に向かって何か赤っぽい影が向かってくるのが見えた。ミズキが宙に浮く赤?と不思議に思い目を凝らすと、流線形の何かが窓に迫っていた。思っていたよりも速い。
「……!!ミズキさん!!」
鋭いヒイラギの声が響いた瞬間、ミズキはヒイラギに腕を引かれ抱きしめられていた。驚く刹那に窓ガラスが割れるけたたましい音が耳を裂き、赤い人の形をした何かが窓から医務室に飛び込んできた。人間の男に似た体躯、両手に刀を持ち交錯させる様はまさしく命を刈り取る鋏。鬼か悪魔かと言わんばかりの外見、ミズキは言葉を失った。鬼のようなそれは二本の角が伸びた赤い仮面を張り付けたような顔面で、仮面の隙間から覗く眼光は鋭く、ミズキは身慄いした。
「ニンゲンだな、魂をよこせェ……!!」
妙にくぐもった声を上げながら、鬼のような何かはミズキを抱きしめるヒイラギの左腕に刀を突き刺した。血飛沫が上がり、紺色の学ランがみるみるうちに赤く染まっていく。
「アオガミ!!」
空を裂く凛としたヒイラギの声の後、ミズキは青い髪の青年に抱きしめられていた。青年は右手の先から天色の剣に似た輝きを放ち、鬼を突き刺した。鬼のつんざく悲鳴が数秒医務室を震わせたが、やがて力尽き消える。青年の左腕に突き刺さった刀が抜け、からん、と乾いた音を立て血の斑を床に描く。ひ、とミズキは怯え、青年の腕の中で震えていた。青年の右手がミズキの背中を撫でている。ミズキが顔を上げると、青年は微笑む。
「ミズキさん、怪我はない?」
「だ、だいじょうぶ、ですけど、あなたは」
「ヒイラギだよ」
「ヒイラギ、君……?」
「うん」
学ランに包まれた線の細さとは違う筋肉質でしなやかな体、青く麗しい髪に金色の瞳。百合川ヒイラギという少年を想起させるのは難しい外見だが、その穏やかな声と優しい触れ方はきっと彼だろうと信じさせてくれる。
「今のは、なんですか」
「悪魔です。東京にも来てるのは薄々感じてたけど、ベテルを襲ってくるなんて……ミズキさん、僕から離れないで」
耳慣れない恐ろしい単語が聞こえた気がするが、ミズキはただ恐れ、ヒイラギに縋りつくことしかできなかった。そして耳鳴りがする。頭の奥から、封じられた光景が浮かぶ。
血。崩れそうなビル。白い異形。鉄塊に似た剣のような何か。刺さる。痛い。いたいいたいいたい。
ミズキは頭を抱えてうずくまった。頭の中を駆け抜けていく断片的な色、光景はどれも恐怖や不快感を煽るもので既視感がある。これが失った記憶の一部?頭が痛い。頭を揺らす耳鳴りが止まらない。そばにいるはずのヒイラギのことを感知している余裕がない。もしかしたらあの鬼のような悪魔がまたここを襲っているのかもしれないが、今のミズキには周囲の音や状況を把握できなかった。越水は「一度は体に穴が空いた」と言っていた。胸と背中が痛かった。きっと私は、あの鉄塊に似た何かで貫かれて、血が、痛みが、溢れて……。ミズキは血の気が引き、冷たい血液が全身を巡っているのを感じた。
「天宮君」
気がつくとミズキは再び医務室の白いベッドに座り、そばには越水がいた。窓の外では月と星が踊る夜、あの不自然な暗さはない。窓際に置いていた花の箱と花瓶がない。ふと床に目を落とすと花びらが数枚落ちている。あの襲撃で落としてしまい、片付けられたのだろう。良くも悪くも白く清潔な空間に戻っていた。
「越水さん……?あの、ヒイラギ君は、悪魔は」
「彼は負傷していた、治療のためこの部屋を離れているが無事だ」
「よかった……」
ほっと胸を撫で下ろした。せめて一言だけでも礼を言いたいが、彼が戻ってくるまでお預けだろう。ミズキの脳内にあの刀を持った赤い悪魔がちらつき、体が震えた。越水の冷静な声が響く。
「君は酷く怯えた様子だった。今は大丈夫なのか」
「怯えた……?ええと、あまり覚えていませんが……今は大丈夫です」
「そうか」
越水が小さく息を吐いた。安堵しているように見えた。
「今回襲ってきた悪魔たちだが、殲滅した。しかし療養中の君にまで命の危険が及んだのは事実だ。すまなかった。百合川ヒイラギがいなければ後手に回っていた。守りを強化する必要があるな」
「あの……越水さん。悪魔のことなんですけど」
「何だ」
「もしかして、悪魔が集まっている別の場所があったりしませんか?」
尋ねた瞬間、越水の眉がぴくりと動いた。腕を組んだ彼の人差し指が、とんとんと落ち着きなく腕を叩いている。
「魔界のことか?何か思い出したのか」
「私はここじゃないどこかで、白い不気味なものに刺されて怪我をした、そうじゃないですか?」
「……そのとおりだ」
越水は苦虫を噛み潰したような顔で答えた。
「越水さん、悪魔や魔界について教えてください。何か思い出せそうな気がするんです。魔界に行けば、何か掴めるかもしれません」
「魔界に?先ほど君も見たはずだが、あのような悪魔たちが蔓延る危険な場所だ。君が怪我を負った場所でもある。まだ体調が万全でない……いや、万全であったとしても連れていくべきではない」
越水の言うことは正しいだろう。ミズキは息を吸った。悪魔、確かに怖かった。殺されるかもと考えた。しかし医務室で燻り続けるのは本意ではない、虎穴に飛び入る覚悟が求められる時機のはずだ。
「お願いします、越水さん。思い出したいんです」
「…………」
越水は押し黙り、目を細めてミズキを見つめた。普段から鋭い灰色の瞳に咎めるような色が混じる。それでもミズキは譲れなかった。負けじと越水の切れ長の目を見つめ返す。互いに何も言わずじっと見つめ合う沈黙が訪れた。白い医務室に緊迫感が漂う。
「君は私の言葉を覚えているか」
「え?」
「君が愛おしいと言ったはずだ」
「は、はい」
越水は恥じらいも躊躇もなくあっさりと口にするが、ミズキはかえって意識してしまった。頬に熱が集まるミズキとは裏腹に、越水には表情の変化が見られない。
「君が負傷し記憶を失うことになったのは、悪魔と私のせいだ。その悪魔に接触させるなど、いくら君の頼みでもできることではない」
「今すぐにとは言いません。今はまだ、体がうまく動きませんから……私が歩けるようになったらでいいんです。どうしても無理だと仰るなら、せめて悪魔や魔界のことを教えてください」
「…………そうか」
ミズキの視線を逸らすことなく受け止め、越水は重く頷いた。
「君の希望は理解した。魔界に行くか否かは保留する。ただ、悪魔や魔界に関わる資料を見るのは構わぬだろう。天宮君、思い出したいということ、そのものは素晴らしいが、急いてはことを仕損じる」
彼の声は重苦しく響いた。しかしミズキを否定しない言葉に涙が溢れそうになった。
ミズキの胸から背中を蝕む痛みは徐々に引いていき、もう少し様子を見てリハビリを始めてはどうかという段階に至っていた。痛み止めを飲む頻度が減り、ほんの少しではあるが一日のうちに歩く時間もできてきた。ミズキは医務室の窓際に飾った花の箱と、その隣に置いた花瓶に視線を移した。
「ミズキさん、お花が好きなんですね。受け取ってください」
花瓶に挿してあるのは生命力に溢れる赤い花。ヒイラギが花の箱を見てすぐに持ってきたものだ。越水からもらった箱だと告げた瞬間露骨に唇を尖らせていた。やはり二人は仲が悪いのだろうか。年の差も立場の違いもあるだろうが、どちらも誠実で気遣いのできる人間のようだから不思議だった。何となくどちらにも聞きづらくて追及はしていない。世の中知らなくていいこともあるだろう。
今日は医務室で安静にしているようにと言われていた。昨日越水に職場を見てみたいと告げ、二人で少しばかり歩いてみたところ、ものの数分で動けなくなってしまった。越水からは労われ焦らなくていいと言われたが、落ち着かない心地だった。思いどおりに動かない体にもどかしさを覚えるが、今は耐える時期だ。……暇だ。ミズキは越水とヒイラギが差し入れてくれた本を手に取った。白い部屋のベッドに座りページをめくる静かな時間、心が凪いだ水面のように落ち着いていく。
そうしてしばらく文字の世界に浸っていると、スマートフォンが震えた。百合川ヒイラギだ。
「今から会いに行きますね」
表示された文章は端的。初めのうちは「会いに行ってもいいですか」だったが、どうせ暇だからいつでもいいですよと答えた途端、遠慮がなくなった。それでも予告なく部屋に来ることはない、ミズキは微笑んだ。
「ミズキさん!」
彼が通っている学園はベテル日本支部にほど近いようで、メッセージの数分後に彼は現れる。真っ直ぐ駆け寄ってくる彼の前髪が忙しなく揺れていた。
「こんにちは、ヒイラギ君」
「こんにちは。……あ」
ヒイラギの翡翠の瞳が窓際に向かった。
「お花、飾ってくれたんですね。嬉しいな」
「ええ、せっかくいただいたので。ありがとうございます。お花は綺麗でいいですね」
ヒイラギはベッドそばの椅子に座り、ミズキと目を合わせた。長い睫毛に縁取られた美しい瞳は、ミズキを見据えながらも優しい空気をまとっている。
「最近、少しずつですけど歩くようになってきたんですよ。昨日はちょっと無理をしてしまいましたけど」
「無理?今は大丈夫なんですか?」
「だから今日はお休みです。ヒイラギ君が会いに来てくれてよかったです。ここにずっとひとりでいると寂しいですから」
「ミズキさんのこと、心配です……大怪我をしたんですから、無理しないでください」
「ありがとう」
彼が純粋に心配してくれていることは、声音から十二分に伝わる。学園生活もあるだろうにありがたいことだ。
「おかげさまで、体は良くなってきました。でも、あなたのことはまだ思い出せなくて……。ごめんなさい、ヒイラギ君」
「いえ、それは……ミズキさんが僕といてくれるだけで十分です。もちろん思い出してくれたら嬉しいですけど、でも……構いません」
彼の瞳は優美な力強さを持ち、ミズキを安心させる。鋭いようで柔らかな越水の眼差しとは正反対だ。……越水を思うと、愛など謳いそうにない唇から紡がれた言葉を思い出してしまう。
ふと医務室に暗い影が落ちた。窓に目を向けると、曇りでもないのに空……いや、空間そのものが暗かった。医務室の中は電気がつき明るいからこそ、突然の外の暗さが気にかかってしまう。医務室の窓に向かって何か赤っぽい影が向かってくるのが見えた。ミズキが宙に浮く赤?と不思議に思い目を凝らすと、流線形の何かが窓に迫っていた。思っていたよりも速い。
「……!!ミズキさん!!」
鋭いヒイラギの声が響いた瞬間、ミズキはヒイラギに腕を引かれ抱きしめられていた。驚く刹那に窓ガラスが割れるけたたましい音が耳を裂き、赤い人の形をした何かが窓から医務室に飛び込んできた。人間の男に似た体躯、両手に刀を持ち交錯させる様はまさしく命を刈り取る鋏。鬼か悪魔かと言わんばかりの外見、ミズキは言葉を失った。鬼のようなそれは二本の角が伸びた赤い仮面を張り付けたような顔面で、仮面の隙間から覗く眼光は鋭く、ミズキは身慄いした。
「ニンゲンだな、魂をよこせェ……!!」
妙にくぐもった声を上げながら、鬼のような何かはミズキを抱きしめるヒイラギの左腕に刀を突き刺した。血飛沫が上がり、紺色の学ランがみるみるうちに赤く染まっていく。
「アオガミ!!」
空を裂く凛としたヒイラギの声の後、ミズキは青い髪の青年に抱きしめられていた。青年は右手の先から天色の剣に似た輝きを放ち、鬼を突き刺した。鬼のつんざく悲鳴が数秒医務室を震わせたが、やがて力尽き消える。青年の左腕に突き刺さった刀が抜け、からん、と乾いた音を立て血の斑を床に描く。ひ、とミズキは怯え、青年の腕の中で震えていた。青年の右手がミズキの背中を撫でている。ミズキが顔を上げると、青年は微笑む。
「ミズキさん、怪我はない?」
「だ、だいじょうぶ、ですけど、あなたは」
「ヒイラギだよ」
「ヒイラギ、君……?」
「うん」
学ランに包まれた線の細さとは違う筋肉質でしなやかな体、青く麗しい髪に金色の瞳。百合川ヒイラギという少年を想起させるのは難しい外見だが、その穏やかな声と優しい触れ方はきっと彼だろうと信じさせてくれる。
「今のは、なんですか」
「悪魔です。東京にも来てるのは薄々感じてたけど、ベテルを襲ってくるなんて……ミズキさん、僕から離れないで」
耳慣れない恐ろしい単語が聞こえた気がするが、ミズキはただ恐れ、ヒイラギに縋りつくことしかできなかった。そして耳鳴りがする。頭の奥から、封じられた光景が浮かぶ。
血。崩れそうなビル。白い異形。鉄塊に似た剣のような何か。刺さる。痛い。いたいいたいいたい。
ミズキは頭を抱えてうずくまった。頭の中を駆け抜けていく断片的な色、光景はどれも恐怖や不快感を煽るもので既視感がある。これが失った記憶の一部?頭が痛い。頭を揺らす耳鳴りが止まらない。そばにいるはずのヒイラギのことを感知している余裕がない。もしかしたらあの鬼のような悪魔がまたここを襲っているのかもしれないが、今のミズキには周囲の音や状況を把握できなかった。越水は「一度は体に穴が空いた」と言っていた。胸と背中が痛かった。きっと私は、あの鉄塊に似た何かで貫かれて、血が、痛みが、溢れて……。ミズキは血の気が引き、冷たい血液が全身を巡っているのを感じた。
「天宮君」
気がつくとミズキは再び医務室の白いベッドに座り、そばには越水がいた。窓の外では月と星が踊る夜、あの不自然な暗さはない。窓際に置いていた花の箱と花瓶がない。ふと床に目を落とすと花びらが数枚落ちている。あの襲撃で落としてしまい、片付けられたのだろう。良くも悪くも白く清潔な空間に戻っていた。
「越水さん……?あの、ヒイラギ君は、悪魔は」
「彼は負傷していた、治療のためこの部屋を離れているが無事だ」
「よかった……」
ほっと胸を撫で下ろした。せめて一言だけでも礼を言いたいが、彼が戻ってくるまでお預けだろう。ミズキの脳内にあの刀を持った赤い悪魔がちらつき、体が震えた。越水の冷静な声が響く。
「君は酷く怯えた様子だった。今は大丈夫なのか」
「怯えた……?ええと、あまり覚えていませんが……今は大丈夫です」
「そうか」
越水が小さく息を吐いた。安堵しているように見えた。
「今回襲ってきた悪魔たちだが、殲滅した。しかし療養中の君にまで命の危険が及んだのは事実だ。すまなかった。百合川ヒイラギがいなければ後手に回っていた。守りを強化する必要があるな」
「あの……越水さん。悪魔のことなんですけど」
「何だ」
「もしかして、悪魔が集まっている別の場所があったりしませんか?」
尋ねた瞬間、越水の眉がぴくりと動いた。腕を組んだ彼の人差し指が、とんとんと落ち着きなく腕を叩いている。
「魔界のことか?何か思い出したのか」
「私はここじゃないどこかで、白い不気味なものに刺されて怪我をした、そうじゃないですか?」
「……そのとおりだ」
越水は苦虫を噛み潰したような顔で答えた。
「越水さん、悪魔や魔界について教えてください。何か思い出せそうな気がするんです。魔界に行けば、何か掴めるかもしれません」
「魔界に?先ほど君も見たはずだが、あのような悪魔たちが蔓延る危険な場所だ。君が怪我を負った場所でもある。まだ体調が万全でない……いや、万全であったとしても連れていくべきではない」
越水の言うことは正しいだろう。ミズキは息を吸った。悪魔、確かに怖かった。殺されるかもと考えた。しかし医務室で燻り続けるのは本意ではない、虎穴に飛び入る覚悟が求められる時機のはずだ。
「お願いします、越水さん。思い出したいんです」
「…………」
越水は押し黙り、目を細めてミズキを見つめた。普段から鋭い灰色の瞳に咎めるような色が混じる。それでもミズキは譲れなかった。負けじと越水の切れ長の目を見つめ返す。互いに何も言わずじっと見つめ合う沈黙が訪れた。白い医務室に緊迫感が漂う。
「君は私の言葉を覚えているか」
「え?」
「君が愛おしいと言ったはずだ」
「は、はい」
越水は恥じらいも躊躇もなくあっさりと口にするが、ミズキはかえって意識してしまった。頬に熱が集まるミズキとは裏腹に、越水には表情の変化が見られない。
「君が負傷し記憶を失うことになったのは、悪魔と私のせいだ。その悪魔に接触させるなど、いくら君の頼みでもできることではない」
「今すぐにとは言いません。今はまだ、体がうまく動きませんから……私が歩けるようになったらでいいんです。どうしても無理だと仰るなら、せめて悪魔や魔界のことを教えてください」
「…………そうか」
ミズキの視線を逸らすことなく受け止め、越水は重く頷いた。
「君の希望は理解した。魔界に行くか否かは保留する。ただ、悪魔や魔界に関わる資料を見るのは構わぬだろう。天宮君、思い出したいということ、そのものは素晴らしいが、急いてはことを仕損じる」
彼の声は重苦しく響いた。しかしミズキを否定しない言葉に涙が溢れそうになった。