月と花のはざま
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#7 月の告白
「……あの……すみません、あなたは誰ですか?」
ミズキが冗談を言うなど珍しいと思った。しかしいくつか質問をするうちに、どうやら事実らしいと越水は悟った。
天宮ミズキは記憶を失っていた。ここがどこか、越水が誰か、ミズキがどんな仕事をしていたか、医務室に運ばれる前何があったか。それら一切を綺麗に忘れてしまったらしく、ミズキは医務室のベッドに座り、不安そうな表情を崩さなかった。
「君の名前は天宮ミズキだ。それは覚えているか?」
「天宮ミズキ……私は天宮ミズキ。それはわかります」
医務室で目を覚ましてから、初めて彼女は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「よかった……ちゃんとわかっていることもあるんですね。自分の名前だけでもわかって嬉しいです」
そう零す彼女はさながら雨に濡れる一輪の花。越水は考えるより前にミズキを抱きしめていた。
「え、あの……!?」
ミズキの困惑する気配が伝わってくる。おそらくは自身の名前しか覚えていない彼女に嘘をついても、何の疑問も持たず信じるだろう。越水の唇が怪しく動くが、漏れたのは吐息だけだった。神たるもの、必然性のない偽りを良しとするわけにはいかない。
「突然すまない。君は意識を失う前大怪我を負ったが、痛みはないか?」
「胸と背中が痛いです」
越水は両腕の力を緩めた。密着していた二人の間に拳ひとつ分の距離が開く。
「大怪我をした、って……何があったんですか?」
それは当然の疑問で、越水は唇が硬直するのを感じた。嫌でも……嫌でも、ミズキが悪魔の剣に貫かれる光景が脳裏に浮かぶ。
「君は私をかばって怪我をした」
「あなたを……」
仔細を話したところで疑問が増えるだけ。端的に答えると、ミズキは目を見開いている。それは何か思い出した顔なのだろうか。彼女がほとんど覚えていないのは由々しきことだが、忘れていてほしいこともある。
「そうですか……何があったのかわかりませんけど、それであなたが助かったのなら、よかったです」
「よかった、のか。少しでも処置が遅れていたら君は死んでいたかもしれなかった。現に長く意識を失ってもいたが」
「でも、助かってますから。よかったですよ」
ミズキの微笑みは白い医務室の中で、一本芯が通っているように見えた。意思を感じさせる眼差しに、越水は少し安心した。
「あの、ごめんなさい。あなたのことがわからなくて……お名前、教えてもらっていいですか?」
「ああ……すまない。私は越水ハヤオだ」
「えっと……越水さん、ですか?」
「それでいい」
耳慣れた呼び方ではないことに、不謹慎ながら新鮮味を感じてしまった。……本当に不謹慎だ。神らしからぬ思考ばかりが巡る。
「天宮君、君の怪我は思っているより重傷だ。傷を塞いだが、無理に動けばまた傷が開くだろう。癒えるまでひとまずここにいるといい。公務があるゆえずっとそばにはいられないが、様子を見に来る」
「はい、わかりました。ありがとうございます。色々教えてくださいね」
越水をかばう直前には見られなかった可憐な笑顔に、神の心もかき乱された。……少しばかり、忙しくなりそうだ。
「天宮さん!」
百合川ヒイラギはベテル日本支部の医務室を訪れた。昨日は越水に帰るよう命じられ大人しく謹慎していたが、今日は矢も盾もたまらず駆け出した。学園生活なんて放り出したかったが、それだけは何とか堪えた。
「あ」
ミズキが白いベッドに座っていた。彼女はヒイラギと目が合うと小さく会釈した。違和感がある。妙に他人行儀な、距離を感じる仕草だ。
「天宮さん、大丈夫ですか!?心配してました」
「あ……は、はい……」
駆け寄りベッドそばの椅子に腰掛けて見たミズキは、困惑していた。その表情にヒイラギこそ困惑した。
「天宮さん、どうしたんですか?何だか変ですよ」
「ええと、ごめんなさい。あなたのことがわからなくて……初めまして……じゃなさそうなんですけど」
「わからない?」
ヒイラギが柳眉を顰める様をミズキは申し訳なさそうに見つめている。その目は暗く、怪我をしているから、というだけではない翳りを感じさせる。
「はい……私、自分の名前しかわからなくて……」
「記憶喪失ってことですか?」
「そうみたいです。だから、あなたのことがわからなくて。まずはお名前から教えてもらえませんか?」
「百合川ヒイラギです」
「百合川ヒイラギさん……綺麗なお名前ですね。私、あなたのこと、何て呼んでました?」
小首を傾げたミズキの言葉に、滑らかに動いていたヒイラギの唇が凍りついた。記憶喪失。物語やドラマでしか見たことがないが、彼女が悪趣味な演技をするとも思えない、事実だろう。嘘をついてしまいたい衝動に突き動かされそうになる。
「……百合川君、って呼ばれてました」
目を伏せたヒイラギは、逡巡しながらも嘘をつけなかった。
「じゃあ、百合川君、って呼んだらいいでしょうか?」
「天宮さんがよければ、ヒイラギ君って呼んでほしいです」
「ヒイラギ君……ですか?ええ、構いませんよ」
ミズキの口から流れた音の連なりに、ヒイラギは顔を輝かせた。今だ。波に乗って言ってしまえ。
「じゃあ天宮さんのことも、ミズキさんって呼んでいいですか?」
「いいですよ。何だか嬉しそうですね、ヒイラギ君」
「はい……とっても」
ヒイラギに浮かんだのは心からの笑顔。呼び方が変わるだけで明るく照らされる心もある。関係性自体は変わらないのが悲しいところではあるが。
「ミズキさん、大丈夫ですか?痛いところとかないですか?せっかく来たんです、僕にできることがあったら何でも言ってください」
「そうですね……じゃあ、少し話し相手になってくれますか?しばらく安静にしてるよう言われてて、暇なんです」
一瞬天井を見つめてヒイラギに向き直った彼女は、そんな控えめなことを言ってきた。照れ笑いに似た笑顔を浮かべている、可愛らしい。
「ヒイラギ君と私って、どういう関係なんでしょう?」
「え?」
「ヒイラギ君は制服を着ていますし、学生ですよね?私とは結構な年の差があると思いますけど、どういう接点があったのかしら、と思ってしまって。もしかして私の弟だったりします?」
ヒイラギは二の句が継げなかった。彼女が冗談めかして言う「弟」という言葉は呪いに似ている。彼女はきっと、ヒイラギが返事を待っていることも忘却の彼方だろう。少しばかり怒りも覚えるが、それよりも伝えたいことがある。
「僕はあなたの味方です」
「?味方?」
「はい」
姉弟、友達、恋人、親友、この世には関係性に様々な名前がつけられている。きっと今は、そのどれでもない。ヒイラギは自らの胸に手を当て、ミズキの不思議そうな目を真っ直ぐ見つめた。
「あなたを大切にします。だから僕を頼ってください。僕は学生で年下ですし、できることなんてほとんどないかもしれません。でも、何があってもミズキさんの味方です」
「…………」
目を見開いたミズキは数秒ヒイラギと目を合わせ、やがて恥ずかしそうに目を逸らした。少し頬が赤らんでいる。沈黙の後、彼女は再び笑いかけてくれた。少しの当惑が見えるが穏やかな笑みだった。
「ありがとうございます、ヒイラギ君。あなたみたいな人がいてくれて、私は幸せですね。越水さんとはまた違ったお話が聞けそうですし、ヒイラギ君が会いに来てくれて嬉しいです」
越水さん。ヒイラギは聞き逃さなかった。確か彼女は「長官」と呼んでいなかったか。
「……越水さんとは、話はしたんですか」
「はい。私、あの人のもとで働いていたみたいですね。ちょっと怖い感じもありますけど、私のことを気にかけてくださって……優しい人ですね」
「優しい……?」
「ええ。ヒイラギ君、越水さんのこと知ってるんですか?」
「……知ってますよ」
思わず吐き捨ててしまった。彼女が怪我を負う原因になるだけでは飽き足らず、記憶喪失にもさせてしまうとは。とんでもない男だ、もう一発くらい殴ってやりたい。ヒイラギは膝の上で拳を握った。
「ヒイラギ君、越水さんと何かあったんですか?怖い顔してますよ」
「……いえ、なんでもないです。すみません、ミズキさん」
ヒイラギはゆるゆると首を振り、澱んだ思いを振り払った。ミズキを不安にさせるなど、その越水と似たようなことをしているではないか。自戒にため息をつき、ヒイラギは意識して笑った。
「そうだ、ミズキさん。えっと……ちょっと待ってくださいね」
ヒイラギは制服のポケットからスマートフォンを取り出し、メッセージアプリを起動させた。初期設定の画面から一切いじっていないホーム画面をミズキに見せる。簡素な画面だからこそ、丸いアイコンの下にある「百合川ヒイラギ」の字がよく目立つ。
「ミズキさん、僕の連絡先が入ってるはずです。よかったら連絡してください。暇だから来て、でも構いません。……連絡がなくても、毎日来ちゃうと思いますけど」
「ふふ、ありがとうございます。でも、いいんですか?ヒイラギ君も忙しいんじゃないですか?友達と遊んだりとか、部活とか」
「いいんです。僕はあなたが一番気になりますから」
「あら」
ミズキは口元に手を当て、目を細めた。空気が柔らかく解けたのを感じる。
「ドキドキすることを言うんですね。そういうのは、好きな女の子に言うものですよ?」
彼女の言葉に、ヒイラギの喉の奥から言葉が蠢き飛び出しそうになった。吐き出しそうになった言の葉を穏やかな空気とともに飲み込んだ。今彼女にぶつけるには重すぎる。
「ミズキさん、また来ますね」
溢れたのはそんな、無難な言葉だった。
「うーん……」
名前以外の記憶を喪失したミズキが目を覚ましてから、一週間。ミズキは今日も今日とてベテル日本支部の医務室、ベッドの上だった。胸と背中の痛みは未だそのままで、定期的に薬を飲み落ち着けている状態だ。服の上から触っても何の傷痕もなく負傷した状況を覚えていないが、越水の話によると胸から背中を貫かれる大怪我だったらしい。体に風穴が開いても綺麗に治るんだなあ、とぼんやり思っただけであまり現実味がなかった。
ミズキはベッドに座り、ノートに目を落とした。自らの名前以外綺麗に忘れ去ってしまったのだから、これから理解し覚えるべきことは膨大だ。凡人のミズキはノートに聞いた話を書き留めるようにしていた。ここはベテル日本支部、自分はベテル日本支部の研究員で、アオガミという人間?のメンテナンスを行っていたが、主な業務は越水の秘書である等々、たった一週間しか経過していないが情報量は多かった。今はこのノートに書いていることに何の実感も持てないが、いつかは全て思い出せるのだろうか。
ミズキはノートを閉じ、顔を上げた。傷が開くからという理由で安静に過ごし続け、実質この白い部屋がミズキの世界になりつつある。医務室だけあって真白で清潔、鼻をくすぐる薬品の匂いが「いかにも」だ。見慣れたを通り越して飽きてくる。越水から本を差し入れられたり、ヒイラギとメッセージアプリでやり取りしたりと変化がないわけではないが、景色が変わらないというのも味気ない。
自動ドアが開く音がした。足音を響かせて入ってきたのは、越水だった。黒い髪に灰色の瞳、何度見ても端正で精悍な人だ。見惚れてしまいそうになる。
「越水さん、こんにちは。来てくださってありがとうございます」
「本来なら、君の様子を毎日でも確認したいところだが……すまない」
「いえ、お仕事が大変そうですから。会いに来てくださるだけで嬉しいです」
「そうか……これを」
越水が差し出したのは、小さな花の箱だった。木目が美しい木の箱に、薄桃色や橙色の花が咲いている。限りなく生花に近い見た目だが、何の匂いもしない。黒いスーツを着込んだ越水が持つ華やかで可憐な花の箱、目を惹く鮮やかな対比だった。ミズキの掌に収まる大きさの小さな箱だが、可愛らしい存在感に一気に心が華やいだ。
「いただいていいんですか?」
「君に渡すためのものだ、医務室にずっといると気が滅入るだろう。少しでも慰めになれば幸いだ」
「ありがとうございます。早速置いてみますね」
窓際にそっと置いてみる。ともすれば殺風景な白い窓際に明るく嫌味のない色が咲く。陽光を浴びて薄く透ける花びらが綺麗だ。ふふ、とミズキは笑った。ほんの少しの彩りで心までも色付いていく心地だ。
「可愛くて綺麗ですね。ありがとうございます、越水さん」
「気に入ったようなら何よりだ」
かたん、と小さな音がして、越水がベッドそばの椅子に腰掛けた。背が高い彼と目線の高さが並ぶ。鋭い灰色の瞳も見慣れると、その奥から滲むあたたかさを感じられるようになった。今日もこの人は、鋭いようでやや柔い視線を向けてくれている。だからこそ、ミズキは頭を下げた。
「越水さん、ごめんなさい。本当なら、秘書の仕事をしていたんですよね。怪我をして何もわからなくて……私にはやるべきことがあるはずなんですよね」
「気にするな。君が今すべきことは体を休めることだ。一度は体に穴が開いたのだ、安静にせねばなるまい」
「……そう、ですけど……回復にどれくらい時間がかかるか……いつまでもこの部屋にいるのも……」
「天宮君」
白い掛け布団に置かれたミズキの手に、越水の手が重なった。ごつごつと隆起した、男性らしい大きな手。ぎゅっと握る厚かましさはなく、ふわりと被さっている。何かから守るような触れ方だった。
「君は記憶を失っていても真面目だな。異常事態なのだ、通常どおり考える必要はない。私の目と手の届く範囲にいたまえ。私はベテル日本支部の最高責任者だ、職員の健康を守るのも私の仕事のうちだ。それとも、ここにいるのが嫌か?」
「いえ、そんなことは……ただ、迷惑をかけてるなって……」
「迷惑をかけたのはむしろ私の方だ。君が傷を負い、記憶を失ったのは私が原因だからな。君がここにいてもいいと思うなら、ここにいてくれ。私には君を見守る義務がある」
「はい……ありがとうございます」
申し訳ないと思っているのは事実だが、きっと越水なら受け入れてくれるだろうとも思っていた。よかった。早くこの人の役に立ちたい。ミズキは軽く布団を握った。
ベッドに置いていたミズキのスマートフォンが震えた。暗く沈黙していた画面に、「百合川ヒイラギ」の名前とメッセージの一部が表示される。ちょうど授業が終わった頃合いだろうか。
「百合川ヒイラギと連絡を取り合っているのか」
「あ、はい。越水さんもヒイラギ君をご存知ですか」
「……『ヒイラギ君』?」
越水の眉が片方、鋭く跳ねた。彼の纏う空気が重く鋭くなる。
「……?どうしました?」
「百合川君、と呼んでいなかったか?」
「あ、そうらしいですね。ヒイラギ君って呼んでほしいって言われまして。何だか可愛いですよね、そういうのって」
ミズキの脳裏に懇願するヒイラギが思い浮かぶ。綺麗な顔の大人びた彼が子供っぽいことを言ってくるのが意外だったが、微笑ましい。思い出し笑いをするミズキとは対照的に、越水の顔は険しい。ミズキは体が冷えるのを感じた。
「天宮君」
ミズキの手を覆っていた越水の手が、ぎゅっと握ってきた。痛みを感じる力ではないが、ミズキの力で振り解けるようなものではない。越水が身を乗り出し、距離を詰めてくる。目と鼻の先に越水の灰色の双眸があり、直視されていた。
「君が愛おしい」
彼が息を吸い込んでから零した言葉は、心地いい低音とともに医務室に染み渡った。ミズキは数秒遅れ、
「……へっ!?え!?」
そんな声しか上げられなかった。当初は虚を突かれぼんやりと口を開けるに留まっていたが、言葉の意味を理解するにつれ全身に血が巡っていく。顔が急激に赤くなる。越水に握られた手に手汗が滲み、とにかく熱い。
「あ、の、あの……!?」
「君がそんなに慌てているのは初めて見るな」
ふ、と越水の唇から吐息が漏れ、肩を抱き寄せられた。手を握られ彼の胸板に体の一部を預けている。近い。密着している。抱き寄せられたまま見上げると、越水の灰色の視線に見下ろされていた。普段纏っている鋭さが和らぎ、穏やかに包む眼差しを感じる。
「え、と、その、愛おしいって、あの」
「意味はわかるな?」
「その……ええと……秘書だからとか、そういう意味ですよね?」
「違う」
越水は首を振った。
「好き。愛している。そう解釈してくれ。君をひとりの女性として愛おしく思っている。秘書であることは関係ない」
「…………」
たったひとつの真意を真剣にぶつけられ、ミズキは赤面した。愛を告げられている、それだけは混乱しつつも理解した。
「記憶を失くした今の君に言うべきではないかもしれない。それでも伝えるべきだと感じた」
「あ……はい……」
「すぐに返事をしろとは言わぬ。混乱しているだろう。まずは傷を癒すことだ。君が落ち着いたら、ゆっくり検討してほしい」
越水の声音は柔らかく、表情は大きく変わらないものの不思議と安心感があった。彼の大きな手に抱き寄せられていると、錯綜する感情がひとつずつほぐれていく気がする。
「越水さん」
「どうした?」
「もうちょっとだけ、このままでいてくれませんか。落ち着くんです」
「もう少しと言わず、永遠でも構わぬ」
「さすがにそれはちょっと……」
彼が冗談を言うなんて珍しい。ミズキは越水と顔を見合わせ、小さく笑った。彼の唇の端が綻んでいるように見えた。
「……あの……すみません、あなたは誰ですか?」
ミズキが冗談を言うなど珍しいと思った。しかしいくつか質問をするうちに、どうやら事実らしいと越水は悟った。
天宮ミズキは記憶を失っていた。ここがどこか、越水が誰か、ミズキがどんな仕事をしていたか、医務室に運ばれる前何があったか。それら一切を綺麗に忘れてしまったらしく、ミズキは医務室のベッドに座り、不安そうな表情を崩さなかった。
「君の名前は天宮ミズキだ。それは覚えているか?」
「天宮ミズキ……私は天宮ミズキ。それはわかります」
医務室で目を覚ましてから、初めて彼女は嬉しそうに顔を綻ばせた。
「よかった……ちゃんとわかっていることもあるんですね。自分の名前だけでもわかって嬉しいです」
そう零す彼女はさながら雨に濡れる一輪の花。越水は考えるより前にミズキを抱きしめていた。
「え、あの……!?」
ミズキの困惑する気配が伝わってくる。おそらくは自身の名前しか覚えていない彼女に嘘をついても、何の疑問も持たず信じるだろう。越水の唇が怪しく動くが、漏れたのは吐息だけだった。神たるもの、必然性のない偽りを良しとするわけにはいかない。
「突然すまない。君は意識を失う前大怪我を負ったが、痛みはないか?」
「胸と背中が痛いです」
越水は両腕の力を緩めた。密着していた二人の間に拳ひとつ分の距離が開く。
「大怪我をした、って……何があったんですか?」
それは当然の疑問で、越水は唇が硬直するのを感じた。嫌でも……嫌でも、ミズキが悪魔の剣に貫かれる光景が脳裏に浮かぶ。
「君は私をかばって怪我をした」
「あなたを……」
仔細を話したところで疑問が増えるだけ。端的に答えると、ミズキは目を見開いている。それは何か思い出した顔なのだろうか。彼女がほとんど覚えていないのは由々しきことだが、忘れていてほしいこともある。
「そうですか……何があったのかわかりませんけど、それであなたが助かったのなら、よかったです」
「よかった、のか。少しでも処置が遅れていたら君は死んでいたかもしれなかった。現に長く意識を失ってもいたが」
「でも、助かってますから。よかったですよ」
ミズキの微笑みは白い医務室の中で、一本芯が通っているように見えた。意思を感じさせる眼差しに、越水は少し安心した。
「あの、ごめんなさい。あなたのことがわからなくて……お名前、教えてもらっていいですか?」
「ああ……すまない。私は越水ハヤオだ」
「えっと……越水さん、ですか?」
「それでいい」
耳慣れた呼び方ではないことに、不謹慎ながら新鮮味を感じてしまった。……本当に不謹慎だ。神らしからぬ思考ばかりが巡る。
「天宮君、君の怪我は思っているより重傷だ。傷を塞いだが、無理に動けばまた傷が開くだろう。癒えるまでひとまずここにいるといい。公務があるゆえずっとそばにはいられないが、様子を見に来る」
「はい、わかりました。ありがとうございます。色々教えてくださいね」
越水をかばう直前には見られなかった可憐な笑顔に、神の心もかき乱された。……少しばかり、忙しくなりそうだ。
「天宮さん!」
百合川ヒイラギはベテル日本支部の医務室を訪れた。昨日は越水に帰るよう命じられ大人しく謹慎していたが、今日は矢も盾もたまらず駆け出した。学園生活なんて放り出したかったが、それだけは何とか堪えた。
「あ」
ミズキが白いベッドに座っていた。彼女はヒイラギと目が合うと小さく会釈した。違和感がある。妙に他人行儀な、距離を感じる仕草だ。
「天宮さん、大丈夫ですか!?心配してました」
「あ……は、はい……」
駆け寄りベッドそばの椅子に腰掛けて見たミズキは、困惑していた。その表情にヒイラギこそ困惑した。
「天宮さん、どうしたんですか?何だか変ですよ」
「ええと、ごめんなさい。あなたのことがわからなくて……初めまして……じゃなさそうなんですけど」
「わからない?」
ヒイラギが柳眉を顰める様をミズキは申し訳なさそうに見つめている。その目は暗く、怪我をしているから、というだけではない翳りを感じさせる。
「はい……私、自分の名前しかわからなくて……」
「記憶喪失ってことですか?」
「そうみたいです。だから、あなたのことがわからなくて。まずはお名前から教えてもらえませんか?」
「百合川ヒイラギです」
「百合川ヒイラギさん……綺麗なお名前ですね。私、あなたのこと、何て呼んでました?」
小首を傾げたミズキの言葉に、滑らかに動いていたヒイラギの唇が凍りついた。記憶喪失。物語やドラマでしか見たことがないが、彼女が悪趣味な演技をするとも思えない、事実だろう。嘘をついてしまいたい衝動に突き動かされそうになる。
「……百合川君、って呼ばれてました」
目を伏せたヒイラギは、逡巡しながらも嘘をつけなかった。
「じゃあ、百合川君、って呼んだらいいでしょうか?」
「天宮さんがよければ、ヒイラギ君って呼んでほしいです」
「ヒイラギ君……ですか?ええ、構いませんよ」
ミズキの口から流れた音の連なりに、ヒイラギは顔を輝かせた。今だ。波に乗って言ってしまえ。
「じゃあ天宮さんのことも、ミズキさんって呼んでいいですか?」
「いいですよ。何だか嬉しそうですね、ヒイラギ君」
「はい……とっても」
ヒイラギに浮かんだのは心からの笑顔。呼び方が変わるだけで明るく照らされる心もある。関係性自体は変わらないのが悲しいところではあるが。
「ミズキさん、大丈夫ですか?痛いところとかないですか?せっかく来たんです、僕にできることがあったら何でも言ってください」
「そうですね……じゃあ、少し話し相手になってくれますか?しばらく安静にしてるよう言われてて、暇なんです」
一瞬天井を見つめてヒイラギに向き直った彼女は、そんな控えめなことを言ってきた。照れ笑いに似た笑顔を浮かべている、可愛らしい。
「ヒイラギ君と私って、どういう関係なんでしょう?」
「え?」
「ヒイラギ君は制服を着ていますし、学生ですよね?私とは結構な年の差があると思いますけど、どういう接点があったのかしら、と思ってしまって。もしかして私の弟だったりします?」
ヒイラギは二の句が継げなかった。彼女が冗談めかして言う「弟」という言葉は呪いに似ている。彼女はきっと、ヒイラギが返事を待っていることも忘却の彼方だろう。少しばかり怒りも覚えるが、それよりも伝えたいことがある。
「僕はあなたの味方です」
「?味方?」
「はい」
姉弟、友達、恋人、親友、この世には関係性に様々な名前がつけられている。きっと今は、そのどれでもない。ヒイラギは自らの胸に手を当て、ミズキの不思議そうな目を真っ直ぐ見つめた。
「あなたを大切にします。だから僕を頼ってください。僕は学生で年下ですし、できることなんてほとんどないかもしれません。でも、何があってもミズキさんの味方です」
「…………」
目を見開いたミズキは数秒ヒイラギと目を合わせ、やがて恥ずかしそうに目を逸らした。少し頬が赤らんでいる。沈黙の後、彼女は再び笑いかけてくれた。少しの当惑が見えるが穏やかな笑みだった。
「ありがとうございます、ヒイラギ君。あなたみたいな人がいてくれて、私は幸せですね。越水さんとはまた違ったお話が聞けそうですし、ヒイラギ君が会いに来てくれて嬉しいです」
越水さん。ヒイラギは聞き逃さなかった。確か彼女は「長官」と呼んでいなかったか。
「……越水さんとは、話はしたんですか」
「はい。私、あの人のもとで働いていたみたいですね。ちょっと怖い感じもありますけど、私のことを気にかけてくださって……優しい人ですね」
「優しい……?」
「ええ。ヒイラギ君、越水さんのこと知ってるんですか?」
「……知ってますよ」
思わず吐き捨ててしまった。彼女が怪我を負う原因になるだけでは飽き足らず、記憶喪失にもさせてしまうとは。とんでもない男だ、もう一発くらい殴ってやりたい。ヒイラギは膝の上で拳を握った。
「ヒイラギ君、越水さんと何かあったんですか?怖い顔してますよ」
「……いえ、なんでもないです。すみません、ミズキさん」
ヒイラギはゆるゆると首を振り、澱んだ思いを振り払った。ミズキを不安にさせるなど、その越水と似たようなことをしているではないか。自戒にため息をつき、ヒイラギは意識して笑った。
「そうだ、ミズキさん。えっと……ちょっと待ってくださいね」
ヒイラギは制服のポケットからスマートフォンを取り出し、メッセージアプリを起動させた。初期設定の画面から一切いじっていないホーム画面をミズキに見せる。簡素な画面だからこそ、丸いアイコンの下にある「百合川ヒイラギ」の字がよく目立つ。
「ミズキさん、僕の連絡先が入ってるはずです。よかったら連絡してください。暇だから来て、でも構いません。……連絡がなくても、毎日来ちゃうと思いますけど」
「ふふ、ありがとうございます。でも、いいんですか?ヒイラギ君も忙しいんじゃないですか?友達と遊んだりとか、部活とか」
「いいんです。僕はあなたが一番気になりますから」
「あら」
ミズキは口元に手を当て、目を細めた。空気が柔らかく解けたのを感じる。
「ドキドキすることを言うんですね。そういうのは、好きな女の子に言うものですよ?」
彼女の言葉に、ヒイラギの喉の奥から言葉が蠢き飛び出しそうになった。吐き出しそうになった言の葉を穏やかな空気とともに飲み込んだ。今彼女にぶつけるには重すぎる。
「ミズキさん、また来ますね」
溢れたのはそんな、無難な言葉だった。
「うーん……」
名前以外の記憶を喪失したミズキが目を覚ましてから、一週間。ミズキは今日も今日とてベテル日本支部の医務室、ベッドの上だった。胸と背中の痛みは未だそのままで、定期的に薬を飲み落ち着けている状態だ。服の上から触っても何の傷痕もなく負傷した状況を覚えていないが、越水の話によると胸から背中を貫かれる大怪我だったらしい。体に風穴が開いても綺麗に治るんだなあ、とぼんやり思っただけであまり現実味がなかった。
ミズキはベッドに座り、ノートに目を落とした。自らの名前以外綺麗に忘れ去ってしまったのだから、これから理解し覚えるべきことは膨大だ。凡人のミズキはノートに聞いた話を書き留めるようにしていた。ここはベテル日本支部、自分はベテル日本支部の研究員で、アオガミという人間?のメンテナンスを行っていたが、主な業務は越水の秘書である等々、たった一週間しか経過していないが情報量は多かった。今はこのノートに書いていることに何の実感も持てないが、いつかは全て思い出せるのだろうか。
ミズキはノートを閉じ、顔を上げた。傷が開くからという理由で安静に過ごし続け、実質この白い部屋がミズキの世界になりつつある。医務室だけあって真白で清潔、鼻をくすぐる薬品の匂いが「いかにも」だ。見慣れたを通り越して飽きてくる。越水から本を差し入れられたり、ヒイラギとメッセージアプリでやり取りしたりと変化がないわけではないが、景色が変わらないというのも味気ない。
自動ドアが開く音がした。足音を響かせて入ってきたのは、越水だった。黒い髪に灰色の瞳、何度見ても端正で精悍な人だ。見惚れてしまいそうになる。
「越水さん、こんにちは。来てくださってありがとうございます」
「本来なら、君の様子を毎日でも確認したいところだが……すまない」
「いえ、お仕事が大変そうですから。会いに来てくださるだけで嬉しいです」
「そうか……これを」
越水が差し出したのは、小さな花の箱だった。木目が美しい木の箱に、薄桃色や橙色の花が咲いている。限りなく生花に近い見た目だが、何の匂いもしない。黒いスーツを着込んだ越水が持つ華やかで可憐な花の箱、目を惹く鮮やかな対比だった。ミズキの掌に収まる大きさの小さな箱だが、可愛らしい存在感に一気に心が華やいだ。
「いただいていいんですか?」
「君に渡すためのものだ、医務室にずっといると気が滅入るだろう。少しでも慰めになれば幸いだ」
「ありがとうございます。早速置いてみますね」
窓際にそっと置いてみる。ともすれば殺風景な白い窓際に明るく嫌味のない色が咲く。陽光を浴びて薄く透ける花びらが綺麗だ。ふふ、とミズキは笑った。ほんの少しの彩りで心までも色付いていく心地だ。
「可愛くて綺麗ですね。ありがとうございます、越水さん」
「気に入ったようなら何よりだ」
かたん、と小さな音がして、越水がベッドそばの椅子に腰掛けた。背が高い彼と目線の高さが並ぶ。鋭い灰色の瞳も見慣れると、その奥から滲むあたたかさを感じられるようになった。今日もこの人は、鋭いようでやや柔い視線を向けてくれている。だからこそ、ミズキは頭を下げた。
「越水さん、ごめんなさい。本当なら、秘書の仕事をしていたんですよね。怪我をして何もわからなくて……私にはやるべきことがあるはずなんですよね」
「気にするな。君が今すべきことは体を休めることだ。一度は体に穴が開いたのだ、安静にせねばなるまい」
「……そう、ですけど……回復にどれくらい時間がかかるか……いつまでもこの部屋にいるのも……」
「天宮君」
白い掛け布団に置かれたミズキの手に、越水の手が重なった。ごつごつと隆起した、男性らしい大きな手。ぎゅっと握る厚かましさはなく、ふわりと被さっている。何かから守るような触れ方だった。
「君は記憶を失っていても真面目だな。異常事態なのだ、通常どおり考える必要はない。私の目と手の届く範囲にいたまえ。私はベテル日本支部の最高責任者だ、職員の健康を守るのも私の仕事のうちだ。それとも、ここにいるのが嫌か?」
「いえ、そんなことは……ただ、迷惑をかけてるなって……」
「迷惑をかけたのはむしろ私の方だ。君が傷を負い、記憶を失ったのは私が原因だからな。君がここにいてもいいと思うなら、ここにいてくれ。私には君を見守る義務がある」
「はい……ありがとうございます」
申し訳ないと思っているのは事実だが、きっと越水なら受け入れてくれるだろうとも思っていた。よかった。早くこの人の役に立ちたい。ミズキは軽く布団を握った。
ベッドに置いていたミズキのスマートフォンが震えた。暗く沈黙していた画面に、「百合川ヒイラギ」の名前とメッセージの一部が表示される。ちょうど授業が終わった頃合いだろうか。
「百合川ヒイラギと連絡を取り合っているのか」
「あ、はい。越水さんもヒイラギ君をご存知ですか」
「……『ヒイラギ君』?」
越水の眉が片方、鋭く跳ねた。彼の纏う空気が重く鋭くなる。
「……?どうしました?」
「百合川君、と呼んでいなかったか?」
「あ、そうらしいですね。ヒイラギ君って呼んでほしいって言われまして。何だか可愛いですよね、そういうのって」
ミズキの脳裏に懇願するヒイラギが思い浮かぶ。綺麗な顔の大人びた彼が子供っぽいことを言ってくるのが意外だったが、微笑ましい。思い出し笑いをするミズキとは対照的に、越水の顔は険しい。ミズキは体が冷えるのを感じた。
「天宮君」
ミズキの手を覆っていた越水の手が、ぎゅっと握ってきた。痛みを感じる力ではないが、ミズキの力で振り解けるようなものではない。越水が身を乗り出し、距離を詰めてくる。目と鼻の先に越水の灰色の双眸があり、直視されていた。
「君が愛おしい」
彼が息を吸い込んでから零した言葉は、心地いい低音とともに医務室に染み渡った。ミズキは数秒遅れ、
「……へっ!?え!?」
そんな声しか上げられなかった。当初は虚を突かれぼんやりと口を開けるに留まっていたが、言葉の意味を理解するにつれ全身に血が巡っていく。顔が急激に赤くなる。越水に握られた手に手汗が滲み、とにかく熱い。
「あ、の、あの……!?」
「君がそんなに慌てているのは初めて見るな」
ふ、と越水の唇から吐息が漏れ、肩を抱き寄せられた。手を握られ彼の胸板に体の一部を預けている。近い。密着している。抱き寄せられたまま見上げると、越水の灰色の視線に見下ろされていた。普段纏っている鋭さが和らぎ、穏やかに包む眼差しを感じる。
「え、と、その、愛おしいって、あの」
「意味はわかるな?」
「その……ええと……秘書だからとか、そういう意味ですよね?」
「違う」
越水は首を振った。
「好き。愛している。そう解釈してくれ。君をひとりの女性として愛おしく思っている。秘書であることは関係ない」
「…………」
たったひとつの真意を真剣にぶつけられ、ミズキは赤面した。愛を告げられている、それだけは混乱しつつも理解した。
「記憶を失くした今の君に言うべきではないかもしれない。それでも伝えるべきだと感じた」
「あ……はい……」
「すぐに返事をしろとは言わぬ。混乱しているだろう。まずは傷を癒すことだ。君が落ち着いたら、ゆっくり検討してほしい」
越水の声音は柔らかく、表情は大きく変わらないものの不思議と安心感があった。彼の大きな手に抱き寄せられていると、錯綜する感情がひとつずつほぐれていく気がする。
「越水さん」
「どうした?」
「もうちょっとだけ、このままでいてくれませんか。落ち着くんです」
「もう少しと言わず、永遠でも構わぬ」
「さすがにそれはちょっと……」
彼が冗談を言うなんて珍しい。ミズキは越水と顔を見合わせ、小さく笑った。彼の唇の端が綻んでいるように見えた。