月と花のはざま
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#6 月花の怒り
天宮ミズキが恋破れてはや二週間と少し。百合川ヒイラギは越水ハヤオに宣言したとおり、堂々とベテル日本支部に足を運び傷心のミズキと時間を過ごしていた。とはいっても彼女の仕事が終わってから門限までのわずかな時間にお茶を飲む程度ではあるのだが、ヒイラギにとっては大切な時間だった。
「百合川君、いつもありがとうございます。誘ってくれて」
今夜もベテル日本支部の休憩室で声をかけると、ミズキはごく自然な微笑みを浮かべた。振られた直後のぎこちない笑顔とは明らかに異なる趣がある。ヒイラギもつられて唇の端が緩んだ。
「僕が会いたいだけですよ」
「ふふ、そうですね……。百合川君、差し支えなければですけど、今夜は私の部屋でケーキでも食べませんか」
「……えっ!?」
驚愕に声が上ずった。以前の投げやりな様子ではなさそうだが……問題ないのだろうか。
「この前来てもらったときは、ろくにおもてなしもできなかったですからね。そのお詫びです。美味しいケーキが買えたんですよ、どうですか?」
「天宮さんがいいなら、行きたいです」
「じゃあ、決まりですね」
詫び、の言葉に肩が落ちたが仕方ない。少しばかり邪な気配を纏っているのはヒイラギだけのようだ。訪れるのは二回目、特別なマンションの扉を開ける。前回よりは緊張しないが、それでもドアノブを回す一瞬に息を呑む。ミズキの後を追って入った彼女の部屋、前回は感じなかった柔らかな香りに気が付いた。香水、柔軟剤、シャンプー……香りをもたらすものは多々あるが、人工的な匂いとは違う自然で嫌味のない香り。もしかしなくともミズキの匂いだろうか。そう思うと不自然にならない程度にこの香りを堪能したくなる。
「どうぞ、楽にしていてください。お茶とケーキ、持ってきますから」
「あ、はい」
ミズキがキッチンで立ち止まるのとすれ違い、奥へ。シングルベッドにローテーブル、クッション。以前入ったときと変わらない風景。クッションにとりあえず座り、キッチンに立つミズキの背中を見守った。帰るなりベッドに倒れ込んだ彼女はいない、少なくとも今、後ろ姿からは立ち上る暗い雰囲気は感じられない。女性の部屋に二人きり、彼女がお茶を淹れてくれるのを待っているというシチュエーション。世の中には同棲している恋人同士というものがいるらしいが、もしこの部屋でミズキと暮らしていたらこんな毎日を送るのだろうか。ふわふわ漂う空想はヒイラギを甘い夢に誘う。
「百合川君、お待たせしました」
「えっ!?あ、いえ、待ってません」
「どうしたんですか?何だか変な顔してますよ」
思わずヒイラギは頬の辺りを触った。だらしなく緩んでいる。ほんのり甘い夢に浸っているところを見られた。今すぐどこかに隠れたい。ヒイラギは無言で斜め下に視線を逸らした。ミズキが用意してくれたケーキと紅茶が見え、すぐそばに穏やかに笑う愛しい人。……ヒイラギの口から言葉が溢れた。
「……天宮さん、僕が今から何を言っても笑わないって約束してくれますか」
「ええ。笑いませんよ。何ですか?」
「……もし天宮さんと同棲したらこんな感じなのかなって思ってました」
「…………」
顔は斜め下を向いたまま目だけミズキに向けると、向かい側に座っている彼女は硬直していた。
「妄想ですよ。でも、そんな風になったらって思って、何だか……その、ごめんなさい。変なこと言って」
「いえ、いいですよ。……たまに百合川君って可愛いことを言いますよね」
可愛い。心弾む響きと心沈む響きがガトーショコラのような甘さと苦さを伴ってヒイラギに纏わりつく。ちょうどヒイラギの前に置かれているのはガトーショコラ。甘すぎるものが苦手なヒイラギに配慮してくれたのが見て取れるケーキに、フォークを持つ手が少し重い。が、ミズキがショートケーキを食べる様子を見ているとやっぱり食べたくなる。今目の前にあるのはただのガトーショコラではないのだから。フォークを刺すと柔らかな感触が返ってくる。小さなガトーショコラを口に含むと、ほろ苦い中にほんのり甘さが広がり、ヒイラギの好みそのものの味だった。
黙ってショートケーキを食べる彼女は唇の端が綻んでいる。大人の女性が一息ついた瞬間を間近で見ていると、心の奥底からあたたかい思いが溢れて止まらなくなった。ヒイラギはそっとミズキの背後に腰を下ろし、後ろから抱きしめた。彼女の髪が揺れて鼻先をかすめ、シャンプーのいい匂いが漂った。
「え?百合川君?」
振り返った彼女は大きく目を見開いている。隙だらけの表情。普段の責任感に満ちた真面目な表情も好きだが、ふとした瞬間に現れるこういう顔がたまらない。
「天宮さんが可愛くて、つい。わかってます。そういう間柄じゃないって……でも僕も男です。天宮さんと二人きりだから抑えきれなくて」
すぐ近くにあるベッドも、ヒイラギの忍ばせた欲望に火をつけそうになる。今すぐどうこうしたくなる思いを奥歯を噛み締めて我慢する。後ろから見たミズキの体のライン、胸の膨らみや白い首筋もヒイラギを煽ってくるが何とか堪えている。
「百合川君、ごめんなさい。私のせいですね。……私がきちんと返事をしないから」
「違うんです!責めたいわけじゃなくて……」
そっとミズキの手がヒイラギの両腕を床に垂らし、抱擁から逃れる。向かい合って座る状況に変わりミズキの仕草がよく見えるが、密着していた先程より遠い。
「ごめんなさい、百合川君。あなたがいてくれて話を聞いてくれて、気を遣ってくれて……本当に嬉しいんです。でも、はっきり返事をできなくて……」
彼女とヒイラギの間に越えられない一線があるらしいことは、ヒイラギが一番よく理解していた。いつかは彼女に越えてきてほしい。彼女の心を掴み取り離したくない。
「いえ、あなたのせいじゃないです。まだ振られて一ヶ月も経ってませんから当然です。僕は待ちます。大丈夫です」
彼女よりも自分に言い聞かせながら、ヒイラギは笑みを咲かせた。
傲岸不遜にも神の周囲をうろつく鼠がいる。越水ハヤオは火のついていない煙草を指先でへし折りながら、孤独な執務室で奥歯を噛み締めていた。今夜は月が見えない漆黒。執務が終わり、天宮ミズキは退勤している。……百合川ヒイラギを伴って。
「僕は天宮さんが好きです。ひとりの女性として。だから、これからたくさん天宮さんと会いますし、いっぱいお話もします」
そう言っていたヒイラギはミズキが退勤するタイミングを見計らって毎日のようにベテル日本支部を訪れ、ミズキと何事かを話しながら消えていく。越水と目が合えば不敵に笑う。天宮ミズキは自分のものだとでも言いたげな、高慢極まりない態度。彼が直接越水に言葉をぶつけてきたのは以前執務室を訪れたときのみで、それ以降越水とは言葉を交わしていない。ヒイラギの視線が雄弁に語る思いが越水を逆撫でする。越水の握りしめた拳が自然と壁を殴っていた。鋭い痛みがやがてじわじわ蝕む鈍い痛みに変わっていく。
ミズキが告白してくる前は、彼女とよく食事に行った。それもあの夜の食事が最後で、執務が終わり越水が逡巡している間にヒイラギがさらっていってしまう。また彼女自身も断る様子はなく、ごく自然に笑いながら「長官、お疲れ様です」などと言いながら去っていく。ヒイラギとともに。
狭い喫煙室、越水しか使わない灰皿の中にへし折れた煙草が何本も刺さっている。火をつける手間も惜しく煙の出ない塵芥を量産してしまったが、少し頭を冷やさねば。越水は煙草を一本取り出し口に咥えた。ジッポの揺らめく火を煙草に押し付けると白い煙が立ち上っていく。天を目指し低い天井にぶち当たる煙を何となしに見つめながら、深く息を吸う。肺に満ちていく体を病ませる煙、頭が冴える。紫煙に浸りながら頭に浮かぶのは、天宮ミズキ。彼女は変わらず秘書を務めており勤務時間中はほぼずっとそばにいるものの、告白前とは態度が違うのを感じていた。時間とともに不安定な様子はほとんど消え去り落ち着いたようだが、避けられている……とまではいかずとも、距離があるのを感じる。それだけなら憂慮に値しないだろうが、彼女に纏わりつく鼠がいるだけに不穏だ。
神は鼠を叩き潰さない。その気になれば潰せるが、東京を守る使命を考えれば百合川ヒイラギと敵対するのは得策ではない。ならば、離れていく彼女に何かしら手を加える必要がある。
「魔界の調査……ですか?」
善は急げ。越水は早速ミズキに提案した。
「そうだ。まだ百合川ヒイラギや敦田ユヅルには話していないが、この東京を守るため、いずれは創世の王座に辿り着く必要がある。まだ王座を見つけられていない、より詳細な調査が必要だ」
「魔界の全容がわかってませんから、調査が必要なのはわかりますが……でも、何故私と長官の二人で?調査チームは別にありますし、今だって調査をしていますよね」
それは当然の疑問だった。越水が右手を挙げると、巨大な鎌が現れる。二人の間に流れる空気と疑問を裂き冷たい刃がきらめく。ミズキが強張るのがわかった。
「調査チームの戦力は悪魔召喚プログラムに頼っているが、あのプログラムで呼び出せる悪魔はさほど力を持たない。より高位の悪魔がいる地域には調査に向かえていないのが現状だ。私は戦える、私が調査に行った方が早い」
「え……あの、戦える……?」
「私は天津神ツクヨミだ。……君に話すのは初めてだったか」
「はい……ええ、と……長官……?ツクヨミ……様?」
露骨にうろたえ声が小さくなるミズキにふ、と越水の唇の端が緩んだ。
「長官でいい」
「あ、はい……私がご一緒していいのですか?私は戦えませんが……」
「君一人守るなど造作もない。それに、君は私の秘書だろう」
「……はい!」
彼女が嬉しそうに笑うのを久しぶりに見た気がする。その笑顔、もしや百合川ヒイラギにも見せているのだろうか。柔らかくなった心に重苦しい霧が立ち込め越水の目が鋭くなった。……忌々しい。
二人で訪れた魔界は荒廃していた。トウキョウ議事堂の転移装置、その外は乾いた風が吹き荒ぶ砂漠地帯。ミズキは不安そうな顔で辺りを見回していた。議事堂内部に悪魔はいないが、一歩外に出ると不穏な気配が渦巻いている。戦えなくともその空気を敏感に感じているのだろう。
「天宮君。私のそばを離れるな」
「はい……そうします……!?」
少し震えているように見える彼女の肩に手を置き、抱き寄せる。越水の胸板に自然とミズキが寄りかかる形になる。見上げてくる彼女の視線は躊躇い一色。
「震えている。……案ずるな。私がいる」
「は、はい……でも、長官、その……私、また勘違いしてしまいそうで……」
そう言いながらも、ミズキは越水に体重を預けてくる。完全に身を預けてしなだれかかるわけではないが、頼られている実感がある。彼女が越水の近くに控えているのは秘書なのだから当然。だが、百合川ヒイラギにかき乱されている現状ではこれ以上ないほど貴重なように思えた。
「……勘違いではない」
「え?」
ミズキに一番伝えたかったかもしれない言葉はあまりに小さな声で、砂混じりの風に乗って消えていってしまった。
「いや、何もない。天宮君に支障がなければ調査を開始するが、問題ないか?」
「は、はい」
かくしてミズキを伴う調査が始まった。様々な横槍が入る可能性のあるベテル日本支部での執務とは異なり、二人きりの魔界では逆に障害が少ない。時折寄ってくる身の程知らずな悪魔どもを鎌で斬り捨てる必要はあるが、単に倒すだけで済むなら楽なものだ。
「あの、長官……私、長官のことを全然知らなかったんですね」
「どういう意味だ?」
「長官のこと人間だと思ってましたし、煙草を吸うことも知りませんでしたし……長官をだいぶ理解していたつもりだったんですけど、まだまだでしたね」
「君のせいではない。……私が言わなかったからな」
神が自ら秘匿していたことを、人間のミズキは知る由もない。が、ミズキはどこか寂しそうに笑っていた。
「天宮君。私も君について知らないことがある。聞いてよいか」
「はい、何でしょう?」
「百合川ヒイラギのことをどう思っている?」
ミズキが立ち止まった。越水が振り返ると、彼女は立ちすくみ無言で越水を見つめている。
「……それは、どういう意味ですか?」
「文字どおりの意味で構わぬ。君は最近、百合川ヒイラギとよく接しているな。彼をどう思う」
「優しい、子です」
ぽつりと呟いたミズキの言葉が、殺風景な砂の海に流れていく。ミズキの声は小さく、風と砂に埋もれそうな気配がある。
「私が弱っていたら気にかけてくれて……今も私を気遣ってくれるんです。優しい子です」
優しい子、その言葉だけを聞けば特に他意はないように聞こえる。しかしミズキの顔は後ろめたい何かを隠す気まずいものに見え、越水の焦りに火をつける。
「……そうか」
そのときの越水は一言しか返せなかったが、決意した。ミズキと調査に出向く……いや、ミズキと二人きりになる時間が必要だと確信した。
それから幾度となくミズキを伴い調査の名目で魔界に降り立った。一応調査もそれなりに行い、広大な砂漠が広がる港区から廃墟と化したビルが乱立する千代田区に移動している。空は暗く、いつどこから悪魔が襲ってきてもおかしくない緊張感が漂っている。
「魔界は砂漠しかないと思っていましたが、そんなことはないんですね」
「そのようだ。この付近は港区よりも高位の悪魔がいるようだな」
「あの……長官」
「どうした?」
「私の勘違いだったら申し訳ないのですが……長官、調査と言っていますが何か他の目的があるのではないですか?」
「何故そう思う?」
「いえ……ただの調査にしては私とよくお話されてますから……何だか、その……お食事に誘っていただいたときみたいだなって思って……」
越水としては顔に出していないつもりだったが、厳格な執務の皮を被りきれていなかったらしい。気取られてしまったようなら仕方ない、取り繕う必要もないだろう。廃墟の壁にミズキを追いやり、壁に手をついた。越水はミズキよりも背が高い、越水の影の形にミズキが染まる。
「あ、あの、長官……?」
「怖がらせるつもりはない。ただ君と……二人きりになりたかっただけだ」
「え……ですが、ベテルでも二人じゃないですか、わざわざ魔界に来なくても……」
「ベテルだと百合川ヒイラギの邪魔が入るからな。君と二人で話したかった」
「あ……そう、なんですね。……話、ですか?私と?」
一瞬納得して素通りしたミズキが目を見開く。その後すぐに不安そうな弱々しい顔に変わる。何を言われるのか戦々恐々といったところか。以前なら、告白される前の関係なら、もっと自然に会話ができただろうにと越水は歯軋りした。
「君は今でも私のことを好きか?」
ミズキに逡巡が走った。唇が中途半端に動き、吐息と言葉の中間くらいの躊躇いを吐き出している。やがて一度唇を結んだ彼女は、
「……はい」
静かに返事をした。ミズキが越水に振られてから約一ヶ月、その程度の時間で薄れる思いではないだろうと踏んでいたがそのとおりだった。思っていたとおりだったとしても、越水は拳を握りしめていた。
「私は、君を……」
次の言葉を紡ぎ始めたとき、ミズキの顔が怯えに震えた。恐怖に濡れたミズキの視線は、越水ではなく背後に向かっている。
「長官!」
ミズキの鋭い声とともに尋常ではない力で腕を引かれ、越水は一瞬ミズキに抱きしめられたような気がしたが、すれ違う。すぐにミズキが一歩踏み出し越水をかばうように前に出た。振り返った越水が見たのは、悪魔の剣が刺さったミズキの背中だった。白衣を着た背中を無骨な黒い剣が貫き、赤い血飛沫が上がる。越水の頬に生温かい液体がこびりつき、理性が飛んだ。剣が抜かれ倒れるミズキを左手で抱き止め、右手に鎌を持つ。越水の前に立つのは白い悪魔、ミシャグジ。その手には鮮血で濡れた鉄塊に似た剣が握られている。抱き止めたミズキの血溜まりを感じながら、越水は冴えた鎌の一閃を放った。ミシャグジの首がごろりと転がり落ちたのを確認し、越水は腕の中のミズキに視線を落とした。
「天宮君、一度ベテルに戻る。すまない、それまで我慢してくれ」
「……」
ミズキから返事はなかったが、息はある。己の迂闊さを呪いながら越水はミズキを背負い歩き出した。
ベテル日本支部医務室。清浄な白い空間にミズキは寝かされていた。
「ひとまず傷は塞ぎました。ただ出血が酷かったですし傷が開くといけませんから、しばらくは安静にしていないといけませんね」
「……そうか」
研究員の言葉は越水の耳には届いたが、ろくに頭に入ってこなかった。ミズキは意識を失っているものの穏やかな表情だった。本来なら悪魔に使用する回復術を使用したからこそ、体に空いた穴がすぐに塞がった。ベテル日本支部の技術力にこれほど感謝した日もない。
「助かった。彼女が目覚めるまでそばにいさせてくれ」
「はい、わかりました。何かあればまたお呼びください。失礼します」
研究員が一礼とともに退出し、ミズキと越水の二人きりになる。二人きりだが彼女は意思疎通ができる状態ではない。本当なら抱きしめたいが胸から背中にかけてに大きな傷を負った人間には酷だ。放り出された手を握るに留める。
背後の自動ドアが開く音が聞こえ、荒れた足音が近付いてくる。越水が入り口の方に目を向けたとき、胸倉を掴まれ無理矢理立たされた。激情で歪んだ百合川ヒイラギの顔が見えた途端、頬に痛みが走った。予想外の衝撃に床に尻餅をつき、その拍子にベッドそばの椅子が倒れる。ヒイラギに頬を殴られたと理解したのは数秒後だった。越水の薄い唇の端が切れ、口内に鉄錆の味が広がる。
膝をつく越水を見下ろすヒイラギは、無言ながらも並の者なら怯むほどの威圧感を放っていた。翡翠の瞳が燃やす憎悪を睨み返していると、再び胸倉を掴まれヒイラギの顔が至近距離に迫った。
「天宮さん、大怪我したらしいですね。あなたをかばって怪我したって聞きましたよ」
「そのとおりだ」
「そのとおりだ、なんてよく言えますね!あなたがついていたのにどういうことですか!」
ヒイラギの顔から沸騰した血の温度が伝わってくる。美しい相貌を染める人間臭い厭悪、それを間近で受け止める越水はかえって頭が冴えていた。頬の痛みも大したことではない、今ばかりは彼の激情も理解できた。
「見損ないました。好きだって言ってくれる人を守ることもできないんですね」
胸倉を掴む手が離れ、軽蔑の眼差しが刺さる。越水は乱れた襟を整え、立ち上がった。倒れた椅子を元の位置に戻す。至近距離で大きな音がしたはずだが、ミズキは目を閉じたまま何の反応も示さない。
「出ていきたまえ」
「……!?」
越水はヒイラギを睥睨し告げると、訝しげな顔の彼の肩に手を置き、力を込めた。思いきり、容赦なく。学ランの生地が波打ち、ヒイラギの美しい顔が痛みに歪む。
「君の言うことはもっともだ。だがここは医務室だ。天宮君は意識を失っている、私には彼女を安静にさせる義務がある。君がいてはそれも叶わない」
「でも!」
「これは命令だ。今すぐ出ていきたまえ」
合一していないヒイラギがごく普通の高校生であることを忘れ、肩を掴む手に力を込めた。ヒイラギは苦悶しながらも越水の手を振り払った。一瞬ベッドのミズキを心配そうに見つめ、
「……また来ます」
それだけ言うとヒイラギは踵を返した。納得できないと背中が語っているが、薄暗い廊下に消えていく。
「……すまない、天宮君」
再び椅子に腰掛け呟いた言葉には、やはり何の反応も返ってこなかった。
越水が医務室でミズキの覚醒を待ち数日。越水の体は重く砂に沈み、精神も錆びついていく心地がした。己の力に慢心し、周囲への警戒を怠った自分を殺してやりたくなる。人間の命は儚いもの、ミズキが目覚めない未来が頭をよぎり拳を握るばかりであった。あのとき言えなかった言葉を彼女に紡ぐ必要があるのに。
今日も越水はミズキの傍らに佇んでいる。越水がいるから回復するなどと非合理的なことを言うつもりはない、ただ彼女の様子を見守っていないと気が済まない。放り出された彼女の手、その指先がほんの少し動いたように見えた。もしやと思いながらもじっと待つ。神の心臓がざわめき始めた。
「う……ん……」
ミズキの声が聞こえた。その声を聞くのは随分と久しぶりのように思えた。数秒かけてゆっくり目を開いたミズキと目が合う。目覚めたばかりの焦点の合わなかった彼女の目に少しずつ光が宿っていく。
「天宮君、体調はどうだ。痛みはないか」
「…………」
ミズキはどこか不安そうな、落ち着きのない顔で医務室を見回していた。数日意識を失っていたのだから当然の反応だろう。尋ねたいことは数え切れないほどあるが、今は彼女の言葉を待つ。数十秒の長い沈黙の後、彼女が口を開いた。
「……あの……すみません、あなたは誰ですか?」
天宮ミズキが恋破れてはや二週間と少し。百合川ヒイラギは越水ハヤオに宣言したとおり、堂々とベテル日本支部に足を運び傷心のミズキと時間を過ごしていた。とはいっても彼女の仕事が終わってから門限までのわずかな時間にお茶を飲む程度ではあるのだが、ヒイラギにとっては大切な時間だった。
「百合川君、いつもありがとうございます。誘ってくれて」
今夜もベテル日本支部の休憩室で声をかけると、ミズキはごく自然な微笑みを浮かべた。振られた直後のぎこちない笑顔とは明らかに異なる趣がある。ヒイラギもつられて唇の端が緩んだ。
「僕が会いたいだけですよ」
「ふふ、そうですね……。百合川君、差し支えなければですけど、今夜は私の部屋でケーキでも食べませんか」
「……えっ!?」
驚愕に声が上ずった。以前の投げやりな様子ではなさそうだが……問題ないのだろうか。
「この前来てもらったときは、ろくにおもてなしもできなかったですからね。そのお詫びです。美味しいケーキが買えたんですよ、どうですか?」
「天宮さんがいいなら、行きたいです」
「じゃあ、決まりですね」
詫び、の言葉に肩が落ちたが仕方ない。少しばかり邪な気配を纏っているのはヒイラギだけのようだ。訪れるのは二回目、特別なマンションの扉を開ける。前回よりは緊張しないが、それでもドアノブを回す一瞬に息を呑む。ミズキの後を追って入った彼女の部屋、前回は感じなかった柔らかな香りに気が付いた。香水、柔軟剤、シャンプー……香りをもたらすものは多々あるが、人工的な匂いとは違う自然で嫌味のない香り。もしかしなくともミズキの匂いだろうか。そう思うと不自然にならない程度にこの香りを堪能したくなる。
「どうぞ、楽にしていてください。お茶とケーキ、持ってきますから」
「あ、はい」
ミズキがキッチンで立ち止まるのとすれ違い、奥へ。シングルベッドにローテーブル、クッション。以前入ったときと変わらない風景。クッションにとりあえず座り、キッチンに立つミズキの背中を見守った。帰るなりベッドに倒れ込んだ彼女はいない、少なくとも今、後ろ姿からは立ち上る暗い雰囲気は感じられない。女性の部屋に二人きり、彼女がお茶を淹れてくれるのを待っているというシチュエーション。世の中には同棲している恋人同士というものがいるらしいが、もしこの部屋でミズキと暮らしていたらこんな毎日を送るのだろうか。ふわふわ漂う空想はヒイラギを甘い夢に誘う。
「百合川君、お待たせしました」
「えっ!?あ、いえ、待ってません」
「どうしたんですか?何だか変な顔してますよ」
思わずヒイラギは頬の辺りを触った。だらしなく緩んでいる。ほんのり甘い夢に浸っているところを見られた。今すぐどこかに隠れたい。ヒイラギは無言で斜め下に視線を逸らした。ミズキが用意してくれたケーキと紅茶が見え、すぐそばに穏やかに笑う愛しい人。……ヒイラギの口から言葉が溢れた。
「……天宮さん、僕が今から何を言っても笑わないって約束してくれますか」
「ええ。笑いませんよ。何ですか?」
「……もし天宮さんと同棲したらこんな感じなのかなって思ってました」
「…………」
顔は斜め下を向いたまま目だけミズキに向けると、向かい側に座っている彼女は硬直していた。
「妄想ですよ。でも、そんな風になったらって思って、何だか……その、ごめんなさい。変なこと言って」
「いえ、いいですよ。……たまに百合川君って可愛いことを言いますよね」
可愛い。心弾む響きと心沈む響きがガトーショコラのような甘さと苦さを伴ってヒイラギに纏わりつく。ちょうどヒイラギの前に置かれているのはガトーショコラ。甘すぎるものが苦手なヒイラギに配慮してくれたのが見て取れるケーキに、フォークを持つ手が少し重い。が、ミズキがショートケーキを食べる様子を見ているとやっぱり食べたくなる。今目の前にあるのはただのガトーショコラではないのだから。フォークを刺すと柔らかな感触が返ってくる。小さなガトーショコラを口に含むと、ほろ苦い中にほんのり甘さが広がり、ヒイラギの好みそのものの味だった。
黙ってショートケーキを食べる彼女は唇の端が綻んでいる。大人の女性が一息ついた瞬間を間近で見ていると、心の奥底からあたたかい思いが溢れて止まらなくなった。ヒイラギはそっとミズキの背後に腰を下ろし、後ろから抱きしめた。彼女の髪が揺れて鼻先をかすめ、シャンプーのいい匂いが漂った。
「え?百合川君?」
振り返った彼女は大きく目を見開いている。隙だらけの表情。普段の責任感に満ちた真面目な表情も好きだが、ふとした瞬間に現れるこういう顔がたまらない。
「天宮さんが可愛くて、つい。わかってます。そういう間柄じゃないって……でも僕も男です。天宮さんと二人きりだから抑えきれなくて」
すぐ近くにあるベッドも、ヒイラギの忍ばせた欲望に火をつけそうになる。今すぐどうこうしたくなる思いを奥歯を噛み締めて我慢する。後ろから見たミズキの体のライン、胸の膨らみや白い首筋もヒイラギを煽ってくるが何とか堪えている。
「百合川君、ごめんなさい。私のせいですね。……私がきちんと返事をしないから」
「違うんです!責めたいわけじゃなくて……」
そっとミズキの手がヒイラギの両腕を床に垂らし、抱擁から逃れる。向かい合って座る状況に変わりミズキの仕草がよく見えるが、密着していた先程より遠い。
「ごめんなさい、百合川君。あなたがいてくれて話を聞いてくれて、気を遣ってくれて……本当に嬉しいんです。でも、はっきり返事をできなくて……」
彼女とヒイラギの間に越えられない一線があるらしいことは、ヒイラギが一番よく理解していた。いつかは彼女に越えてきてほしい。彼女の心を掴み取り離したくない。
「いえ、あなたのせいじゃないです。まだ振られて一ヶ月も経ってませんから当然です。僕は待ちます。大丈夫です」
彼女よりも自分に言い聞かせながら、ヒイラギは笑みを咲かせた。
傲岸不遜にも神の周囲をうろつく鼠がいる。越水ハヤオは火のついていない煙草を指先でへし折りながら、孤独な執務室で奥歯を噛み締めていた。今夜は月が見えない漆黒。執務が終わり、天宮ミズキは退勤している。……百合川ヒイラギを伴って。
「僕は天宮さんが好きです。ひとりの女性として。だから、これからたくさん天宮さんと会いますし、いっぱいお話もします」
そう言っていたヒイラギはミズキが退勤するタイミングを見計らって毎日のようにベテル日本支部を訪れ、ミズキと何事かを話しながら消えていく。越水と目が合えば不敵に笑う。天宮ミズキは自分のものだとでも言いたげな、高慢極まりない態度。彼が直接越水に言葉をぶつけてきたのは以前執務室を訪れたときのみで、それ以降越水とは言葉を交わしていない。ヒイラギの視線が雄弁に語る思いが越水を逆撫でする。越水の握りしめた拳が自然と壁を殴っていた。鋭い痛みがやがてじわじわ蝕む鈍い痛みに変わっていく。
ミズキが告白してくる前は、彼女とよく食事に行った。それもあの夜の食事が最後で、執務が終わり越水が逡巡している間にヒイラギがさらっていってしまう。また彼女自身も断る様子はなく、ごく自然に笑いながら「長官、お疲れ様です」などと言いながら去っていく。ヒイラギとともに。
狭い喫煙室、越水しか使わない灰皿の中にへし折れた煙草が何本も刺さっている。火をつける手間も惜しく煙の出ない塵芥を量産してしまったが、少し頭を冷やさねば。越水は煙草を一本取り出し口に咥えた。ジッポの揺らめく火を煙草に押し付けると白い煙が立ち上っていく。天を目指し低い天井にぶち当たる煙を何となしに見つめながら、深く息を吸う。肺に満ちていく体を病ませる煙、頭が冴える。紫煙に浸りながら頭に浮かぶのは、天宮ミズキ。彼女は変わらず秘書を務めており勤務時間中はほぼずっとそばにいるものの、告白前とは態度が違うのを感じていた。時間とともに不安定な様子はほとんど消え去り落ち着いたようだが、避けられている……とまではいかずとも、距離があるのを感じる。それだけなら憂慮に値しないだろうが、彼女に纏わりつく鼠がいるだけに不穏だ。
神は鼠を叩き潰さない。その気になれば潰せるが、東京を守る使命を考えれば百合川ヒイラギと敵対するのは得策ではない。ならば、離れていく彼女に何かしら手を加える必要がある。
「魔界の調査……ですか?」
善は急げ。越水は早速ミズキに提案した。
「そうだ。まだ百合川ヒイラギや敦田ユヅルには話していないが、この東京を守るため、いずれは創世の王座に辿り着く必要がある。まだ王座を見つけられていない、より詳細な調査が必要だ」
「魔界の全容がわかってませんから、調査が必要なのはわかりますが……でも、何故私と長官の二人で?調査チームは別にありますし、今だって調査をしていますよね」
それは当然の疑問だった。越水が右手を挙げると、巨大な鎌が現れる。二人の間に流れる空気と疑問を裂き冷たい刃がきらめく。ミズキが強張るのがわかった。
「調査チームの戦力は悪魔召喚プログラムに頼っているが、あのプログラムで呼び出せる悪魔はさほど力を持たない。より高位の悪魔がいる地域には調査に向かえていないのが現状だ。私は戦える、私が調査に行った方が早い」
「え……あの、戦える……?」
「私は天津神ツクヨミだ。……君に話すのは初めてだったか」
「はい……ええ、と……長官……?ツクヨミ……様?」
露骨にうろたえ声が小さくなるミズキにふ、と越水の唇の端が緩んだ。
「長官でいい」
「あ、はい……私がご一緒していいのですか?私は戦えませんが……」
「君一人守るなど造作もない。それに、君は私の秘書だろう」
「……はい!」
彼女が嬉しそうに笑うのを久しぶりに見た気がする。その笑顔、もしや百合川ヒイラギにも見せているのだろうか。柔らかくなった心に重苦しい霧が立ち込め越水の目が鋭くなった。……忌々しい。
二人で訪れた魔界は荒廃していた。トウキョウ議事堂の転移装置、その外は乾いた風が吹き荒ぶ砂漠地帯。ミズキは不安そうな顔で辺りを見回していた。議事堂内部に悪魔はいないが、一歩外に出ると不穏な気配が渦巻いている。戦えなくともその空気を敏感に感じているのだろう。
「天宮君。私のそばを離れるな」
「はい……そうします……!?」
少し震えているように見える彼女の肩に手を置き、抱き寄せる。越水の胸板に自然とミズキが寄りかかる形になる。見上げてくる彼女の視線は躊躇い一色。
「震えている。……案ずるな。私がいる」
「は、はい……でも、長官、その……私、また勘違いしてしまいそうで……」
そう言いながらも、ミズキは越水に体重を預けてくる。完全に身を預けてしなだれかかるわけではないが、頼られている実感がある。彼女が越水の近くに控えているのは秘書なのだから当然。だが、百合川ヒイラギにかき乱されている現状ではこれ以上ないほど貴重なように思えた。
「……勘違いではない」
「え?」
ミズキに一番伝えたかったかもしれない言葉はあまりに小さな声で、砂混じりの風に乗って消えていってしまった。
「いや、何もない。天宮君に支障がなければ調査を開始するが、問題ないか?」
「は、はい」
かくしてミズキを伴う調査が始まった。様々な横槍が入る可能性のあるベテル日本支部での執務とは異なり、二人きりの魔界では逆に障害が少ない。時折寄ってくる身の程知らずな悪魔どもを鎌で斬り捨てる必要はあるが、単に倒すだけで済むなら楽なものだ。
「あの、長官……私、長官のことを全然知らなかったんですね」
「どういう意味だ?」
「長官のこと人間だと思ってましたし、煙草を吸うことも知りませんでしたし……長官をだいぶ理解していたつもりだったんですけど、まだまだでしたね」
「君のせいではない。……私が言わなかったからな」
神が自ら秘匿していたことを、人間のミズキは知る由もない。が、ミズキはどこか寂しそうに笑っていた。
「天宮君。私も君について知らないことがある。聞いてよいか」
「はい、何でしょう?」
「百合川ヒイラギのことをどう思っている?」
ミズキが立ち止まった。越水が振り返ると、彼女は立ちすくみ無言で越水を見つめている。
「……それは、どういう意味ですか?」
「文字どおりの意味で構わぬ。君は最近、百合川ヒイラギとよく接しているな。彼をどう思う」
「優しい、子です」
ぽつりと呟いたミズキの言葉が、殺風景な砂の海に流れていく。ミズキの声は小さく、風と砂に埋もれそうな気配がある。
「私が弱っていたら気にかけてくれて……今も私を気遣ってくれるんです。優しい子です」
優しい子、その言葉だけを聞けば特に他意はないように聞こえる。しかしミズキの顔は後ろめたい何かを隠す気まずいものに見え、越水の焦りに火をつける。
「……そうか」
そのときの越水は一言しか返せなかったが、決意した。ミズキと調査に出向く……いや、ミズキと二人きりになる時間が必要だと確信した。
それから幾度となくミズキを伴い調査の名目で魔界に降り立った。一応調査もそれなりに行い、広大な砂漠が広がる港区から廃墟と化したビルが乱立する千代田区に移動している。空は暗く、いつどこから悪魔が襲ってきてもおかしくない緊張感が漂っている。
「魔界は砂漠しかないと思っていましたが、そんなことはないんですね」
「そのようだ。この付近は港区よりも高位の悪魔がいるようだな」
「あの……長官」
「どうした?」
「私の勘違いだったら申し訳ないのですが……長官、調査と言っていますが何か他の目的があるのではないですか?」
「何故そう思う?」
「いえ……ただの調査にしては私とよくお話されてますから……何だか、その……お食事に誘っていただいたときみたいだなって思って……」
越水としては顔に出していないつもりだったが、厳格な執務の皮を被りきれていなかったらしい。気取られてしまったようなら仕方ない、取り繕う必要もないだろう。廃墟の壁にミズキを追いやり、壁に手をついた。越水はミズキよりも背が高い、越水の影の形にミズキが染まる。
「あ、あの、長官……?」
「怖がらせるつもりはない。ただ君と……二人きりになりたかっただけだ」
「え……ですが、ベテルでも二人じゃないですか、わざわざ魔界に来なくても……」
「ベテルだと百合川ヒイラギの邪魔が入るからな。君と二人で話したかった」
「あ……そう、なんですね。……話、ですか?私と?」
一瞬納得して素通りしたミズキが目を見開く。その後すぐに不安そうな弱々しい顔に変わる。何を言われるのか戦々恐々といったところか。以前なら、告白される前の関係なら、もっと自然に会話ができただろうにと越水は歯軋りした。
「君は今でも私のことを好きか?」
ミズキに逡巡が走った。唇が中途半端に動き、吐息と言葉の中間くらいの躊躇いを吐き出している。やがて一度唇を結んだ彼女は、
「……はい」
静かに返事をした。ミズキが越水に振られてから約一ヶ月、その程度の時間で薄れる思いではないだろうと踏んでいたがそのとおりだった。思っていたとおりだったとしても、越水は拳を握りしめていた。
「私は、君を……」
次の言葉を紡ぎ始めたとき、ミズキの顔が怯えに震えた。恐怖に濡れたミズキの視線は、越水ではなく背後に向かっている。
「長官!」
ミズキの鋭い声とともに尋常ではない力で腕を引かれ、越水は一瞬ミズキに抱きしめられたような気がしたが、すれ違う。すぐにミズキが一歩踏み出し越水をかばうように前に出た。振り返った越水が見たのは、悪魔の剣が刺さったミズキの背中だった。白衣を着た背中を無骨な黒い剣が貫き、赤い血飛沫が上がる。越水の頬に生温かい液体がこびりつき、理性が飛んだ。剣が抜かれ倒れるミズキを左手で抱き止め、右手に鎌を持つ。越水の前に立つのは白い悪魔、ミシャグジ。その手には鮮血で濡れた鉄塊に似た剣が握られている。抱き止めたミズキの血溜まりを感じながら、越水は冴えた鎌の一閃を放った。ミシャグジの首がごろりと転がり落ちたのを確認し、越水は腕の中のミズキに視線を落とした。
「天宮君、一度ベテルに戻る。すまない、それまで我慢してくれ」
「……」
ミズキから返事はなかったが、息はある。己の迂闊さを呪いながら越水はミズキを背負い歩き出した。
ベテル日本支部医務室。清浄な白い空間にミズキは寝かされていた。
「ひとまず傷は塞ぎました。ただ出血が酷かったですし傷が開くといけませんから、しばらくは安静にしていないといけませんね」
「……そうか」
研究員の言葉は越水の耳には届いたが、ろくに頭に入ってこなかった。ミズキは意識を失っているものの穏やかな表情だった。本来なら悪魔に使用する回復術を使用したからこそ、体に空いた穴がすぐに塞がった。ベテル日本支部の技術力にこれほど感謝した日もない。
「助かった。彼女が目覚めるまでそばにいさせてくれ」
「はい、わかりました。何かあればまたお呼びください。失礼します」
研究員が一礼とともに退出し、ミズキと越水の二人きりになる。二人きりだが彼女は意思疎通ができる状態ではない。本当なら抱きしめたいが胸から背中にかけてに大きな傷を負った人間には酷だ。放り出された手を握るに留める。
背後の自動ドアが開く音が聞こえ、荒れた足音が近付いてくる。越水が入り口の方に目を向けたとき、胸倉を掴まれ無理矢理立たされた。激情で歪んだ百合川ヒイラギの顔が見えた途端、頬に痛みが走った。予想外の衝撃に床に尻餅をつき、その拍子にベッドそばの椅子が倒れる。ヒイラギに頬を殴られたと理解したのは数秒後だった。越水の薄い唇の端が切れ、口内に鉄錆の味が広がる。
膝をつく越水を見下ろすヒイラギは、無言ながらも並の者なら怯むほどの威圧感を放っていた。翡翠の瞳が燃やす憎悪を睨み返していると、再び胸倉を掴まれヒイラギの顔が至近距離に迫った。
「天宮さん、大怪我したらしいですね。あなたをかばって怪我したって聞きましたよ」
「そのとおりだ」
「そのとおりだ、なんてよく言えますね!あなたがついていたのにどういうことですか!」
ヒイラギの顔から沸騰した血の温度が伝わってくる。美しい相貌を染める人間臭い厭悪、それを間近で受け止める越水はかえって頭が冴えていた。頬の痛みも大したことではない、今ばかりは彼の激情も理解できた。
「見損ないました。好きだって言ってくれる人を守ることもできないんですね」
胸倉を掴む手が離れ、軽蔑の眼差しが刺さる。越水は乱れた襟を整え、立ち上がった。倒れた椅子を元の位置に戻す。至近距離で大きな音がしたはずだが、ミズキは目を閉じたまま何の反応も示さない。
「出ていきたまえ」
「……!?」
越水はヒイラギを睥睨し告げると、訝しげな顔の彼の肩に手を置き、力を込めた。思いきり、容赦なく。学ランの生地が波打ち、ヒイラギの美しい顔が痛みに歪む。
「君の言うことはもっともだ。だがここは医務室だ。天宮君は意識を失っている、私には彼女を安静にさせる義務がある。君がいてはそれも叶わない」
「でも!」
「これは命令だ。今すぐ出ていきたまえ」
合一していないヒイラギがごく普通の高校生であることを忘れ、肩を掴む手に力を込めた。ヒイラギは苦悶しながらも越水の手を振り払った。一瞬ベッドのミズキを心配そうに見つめ、
「……また来ます」
それだけ言うとヒイラギは踵を返した。納得できないと背中が語っているが、薄暗い廊下に消えていく。
「……すまない、天宮君」
再び椅子に腰掛け呟いた言葉には、やはり何の反応も返ってこなかった。
越水が医務室でミズキの覚醒を待ち数日。越水の体は重く砂に沈み、精神も錆びついていく心地がした。己の力に慢心し、周囲への警戒を怠った自分を殺してやりたくなる。人間の命は儚いもの、ミズキが目覚めない未来が頭をよぎり拳を握るばかりであった。あのとき言えなかった言葉を彼女に紡ぐ必要があるのに。
今日も越水はミズキの傍らに佇んでいる。越水がいるから回復するなどと非合理的なことを言うつもりはない、ただ彼女の様子を見守っていないと気が済まない。放り出された彼女の手、その指先がほんの少し動いたように見えた。もしやと思いながらもじっと待つ。神の心臓がざわめき始めた。
「う……ん……」
ミズキの声が聞こえた。その声を聞くのは随分と久しぶりのように思えた。数秒かけてゆっくり目を開いたミズキと目が合う。目覚めたばかりの焦点の合わなかった彼女の目に少しずつ光が宿っていく。
「天宮君、体調はどうだ。痛みはないか」
「…………」
ミズキはどこか不安そうな、落ち着きのない顔で医務室を見回していた。数日意識を失っていたのだから当然の反応だろう。尋ねたいことは数え切れないほどあるが、今は彼女の言葉を待つ。数十秒の長い沈黙の後、彼女が口を開いた。
「……あの……すみません、あなたは誰ですか?」