月と花のはざま
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
#5 月に刺さる
越水がミズキの告白を断ってから初めての平日が訪れた。二人きりの料亭で彼女の告白を断った後、ミズキはすぐに帰ってしまい休日を挟んだため、彼女と会うのが随分と久しぶりに感じられた。毎週幾度となく訪れる休日明けの出勤日。これまでは特に何の感情もなく受け入れてきたものだったが、越水の心は少しばかりざわついていた。あの夜のミズキは、越水の応えられないという言葉にただならぬ衝撃を受けていたようだった。もしも彼女が今日は出勤できないと言ってきたとしても仕方ないと思っていたが、
「おはようございます、長官」
ミズキは執務室に普段どおりやって来た。妙に力んだ不自然な歩き方。そうして越水と向かい合った彼女の視線は、どこか不安定なものだった。
「天宮君、体調が優れないようだが」
「いえ、大丈夫です」
ミズキは首を振り否定するがどう見ても顔色が悪く、胸に何か沈む思いを抱えているのは明らかだった。彼女は放っておけばこのまま勤務を続けるだろうが、途中で倒れてもおかしくないように見える。
「無理をするな。今日は外出の予定はない、私一人でも問題はない」
「……無理なんか、してません」
再度首を振ったミズキが、縋るような眼差しを越水に向けてくる。
「私は長官の秘書です。秘書の仕事はきちんとします。……だから、そんなこと言わないでください」
慈悲を求める視線を受けても越水の憂慮は消えない。彼女の真面目さは美点だが、あまりに自らを顧みない姿勢は目に余る。帰れと言っても素直に帰る彼女ではない、ではどうするか。
「今日は休みたまえ。私が見ていよう」
言葉とともに、向かい合う彼女に術をかける。心地よい眠りに誘う術。疲れ切った彼女に抵抗することなどできず、越水の胸に倒れ込んで意識を手放していた。すやすやと規則正しい寝息を立てる。越水はミズキを抱えると、執務室のベッドに彼女を寝かせた。本来は執務室に籠る越水が休むためのベッドだが、ミズキなら使っても構わない。正しくは医務室に連れていくべきなのかもしれないが……。医務室――ふと百合川ヒイラギを思い出した。魔界から帰還した直後、ミズキが彼を医務室に送り届けたという。思えば百合川ヒイラギは、そのときからミズキと接触していたのか。ここのところ二人が研究室で言葉を交わしているのを見て少なからずささくれだっていたが、新たな苛立ちの種を撒いてしまい越水は珍しく舌打ちしそうになった。
越水はベッドそばの椅子に座り、彼女の寝顔を眺めた。顔色の悪さはそのままだが、いくぶん穏やかな顔のように見える。少なくとも眠りにある間だけでも心穏やかであってほしい。
「長官……」
ミズキに乞うように呼ばれまさか起きているのかと思ったが、ただの寝言らしかった。目を閉じ眠りに落ちたまま、それでもぼそぼそと越水を呼び続けている。夢の中でも越水を追い求めているらしい。
「……私はここにいる」
ミズキは寝ている。越水の声など聞こえていないと理解しているが、眠っていても越水を呼ぶ声に返事せざるを得なかった。仰向けに眠る彼女の手がふと目に入る。迷いなく手を握る。冷たかった。彼女の手に触れるのは初めてだが、いつもこんなに冷たいのだろうか。越水もあまり手があたたかい方ではないが、彼女より大きい手ですっぽりと覆ってしまう。分け合うほどのぬくもりはないかもしれない。それでも、冷えた手に温度を分けたいと思った。
「……君は、それほどまでに……」
ミズキの決死の覚悟を切り捨てたことは少なからず彼女に影響を与えるだろうと思っていたが、まさかここまで心に傷を負わせるとは思わなかった。これまで越水に想いを伝えてきた女性は何人かいたが、玉砕した後は二度と越水に近寄ってこなかったし越水からも接触することはなかった。振られた後の女性の様子を具に見るのはミズキが初めてだ。彼女は冷酷に想いを両断されても秘書の責から逃げようとせず、現に今日出勤している。それをどう解釈するかは越水次第である。
「…………」
今日は外出する予定はない。それは本当だ。だが仕事がないわけではない、やらねばならぬことは山のように積み上がっている。しかしどうにも落ち着かず、冷えたミズキの手を離したくなかった。越水を呼び続ける彼女がどんな夢を見ているのか気になるが、知らぬが仏かもしれない。
目を閉じる。神の力でもう一人の越水が生まれる。目配せをすると分身は執務室の机に座り、黙々と淡々と執務を始めた。分身の方は気にしなくていい、越水は視線をベッドに戻した。今日はミズキを見守ろう。越水は息をつき、ミズキの手を少しだけ強く握った。
分身がパソコンを操作する音しか聞こえない、音の少ない執務室で越水は思案に沈む。ミズキをこんな間近で見守ることなどもう二度とないだろう。いい機会だ。少し――少しばかり考えねばならぬことがある。
越水はミズキの想いを一刀両断した。そこに迷いはなかった。越水はベテル日本支部長官、彼女はその秘書。固定された二人の関係を発展させる必要はなく、上司と秘書以外の名前も不要。越水が考えるべきは悪魔の脅威に晒される東京を如何に守り維持するか。その使命に個人に対する感情は必要ない。冷徹な越水が下した至極合理的な判断、それに誤りなどあるはずがない。
今越水がミズキに対して抱く思い。おそらく雨に濡れた捨て猫を見たときと同じ感情だろうと判断している。そう、これは一時的なもの。憐れなるものに憐れみを向けるのは神であっても当然で、越水は世界を見通す神ではあるが、偶然居合わせた弱った人間に優しさを向ける気まぐれだってある。越水の行いの結果でミズキは傷ついた、気になってしまうのも自明の理。きっとそう。あくまでも、一時的な……徒花だ。
「…………」
おそらく結論は出た。が、小さな針が刺さって抜けない感覚がある。越水は歯を食いしばりながら、ミズキの手を握っていない方の手でポケットを探った。四角く冷たい感触と薄いフィルムに包まれた小さな箱に指先が触れる。久々に吸いたくなった。煙草を吸わないミズキのそばで吸うのは忍びない。名残惜しいが握った手を離し立ち上がる。執務室内には小さな喫煙室がある。とんとご無沙汰だったが足を踏み入れた。越水一人しか入ることを想定していない狭い空間。壁に寄りかかり、煙草の箱を取り出す。随分前に吸いきって新しく買ったまま放置していた。フィルムを剥がし一本取り出し口に咥え、ジッポの蓋を指先で弾く。フリントホイールを回して点火、煙草の先端を近付けるとやわやわと煙が上がる。細くたなびく煙を目で追いながら大きく息を吸う。苦味と渋味、体に悪そうな味のする煙霧を咀嚼すると不思議と頭が冷える。胸に刺さった針がなくなるわけではないが、その痛みが紛れる。越水は斜め上を見つめて煙草を口から離し、細く息を吐いた。越水に淀む思いと濁った煙が吐き出される。指先で支える煙草の煙で視界が白く霞んできた。全身に煙草の匂いを纏っていたら、ミズキは何と言うだろうか。彼女が秘書になってから煙草を吸いたくなったことはなく、あまり想像できない。煙草臭いなんてデリカシーがないと嫌われてしまったら、それはそれで互いにとっていいのかもしれないと思ってため息をついた。ほんの一吸いしかしていないがもういい。置かれた灰皿に煙草を押し付けて越水は執務室に戻った。
「……ん……う……」
ちょうどミズキが目を覚ましたようだ。彼女には越水が神であることは話していない。二人越水がいる状況を見たら驚愕どころの話ではないだろう。越水は仕事をしていた分身を消し去り、再びベッドそばの椅子に座った。刹那の躊躇いの後、ミズキの手に触れた。眠った直後と比べると少し熱を持っている。ならばそれでよい、手を離す。
「あ……ええと……長官……?」
ミズキの眼球が不安そうに蠢き、唇からか弱い声が漏れる。
「おはよう、天宮君」
「おはようございます……?あれ……え……?私……」
「出勤してすぐ、君は意識を失った。ここは私の執務室だ。君は今まで寝ていたが、体調はどうだ」
まだ寝起きで頭が働かないのか、ミズキは神妙な顔で黙り込んでいた。やがて青ざめ、口を開く。
「え!?私、今まで寝て……!?申し訳ありません!ご迷惑をおかけして……!」
執務室に切実な声が反響し、勢いよく半身を起こしたミズキは深く頭を下げた。顔が完全に見えなくなる礼、ミズキの表情を隠す垂れ下がった前髪がこの上なく憎かった。
「迷惑などかかっていない。言ったはずだ。今日は私一人でも問題はないと」
「それは、そうかもしれませんが……」
ミズキが頭を上げた。越水と目が合った瞬間、ミズキは弾かれたように目を逸らした。
「長官の秘書を続けると自分から言っておいて……申し訳ありません」
「誰しも体調が優れないときがある。君のせいではない、だが」
越水はミズキに顔を近づけた。額が触れ合いそうな距離に、彼女は留まってくれなかった。少し後ろに身を引かれ、隔たりが生まれる。
「今日の君は勤務できる状態ではないだろう。有給休暇を取って休むといい。休むのも仕事だ」
「…………はい」
職場でいきなり意識を失ったと聞かされて、そのまま残ることはさすがにないようだ。じっと見つめるとミズキは頷き、ベッドから抜け出す。乱れたシーツを整えると、ミズキは再び越水に深々と礼をした。
「申し訳ありません。今日は帰らせていただきます」
「そうするといい」
「……あの、長官。ひとつだけ、聞いてもいいですか?」
「何だ?」
「長官って煙草吸うんですね。……私が吸わないから、合わせてくださったんですか?」
やはり彼女は気付いたらしい。たった一本、それも途中で吸うのをやめるくらいの短時間だったのだが。
「……今日、久しぶりに……たまたま吸っただけだ」
「そうですか。……ええと、すみません、よくわからないことを聞いて。……帰ります。お先に失礼します」
彼女が少し寂しそうに笑ったように見えたのは、気のせいだろうか。
縄印学園高等科。平日が来れば普段どおりに授業が始まる。百合川ヒイラギは頬杖をつきながら窓の外をぼんやり眺めていた。教師の声が環境音楽のように左右の耳を通り抜けていく。教科書を広げて最低限授業を聞いている風を装いながら、ヒイラギは全く別のことを考えていた。
天宮ミズキ――今日は彼女も仕事のはずだ。今でも彼女と神社に行ったときのことを覚えている。あのときは比較的元気そうに見えたが、今もそうだろうか。楽しい時間が終わった瞬間苦しくなるなんてよくあることだ、気になって仕方がなかった。
――僕から連絡していいかな……?一応連絡しようと思えばできるけど……。
机の中にこっそり手を入れて握りしめたスマートフォン。天宮ミズキとのトークルームを開いたままずっと硬直していた。神社に行ったときはミズキの方から声をかけてくれたし、少なくともヒイラギと一緒にいる間は普通にしているように見えたから、少しは役に立てたと思っている。だから……同じような辛いことがあったとき、またミズキに頼ってもらえるのではないか、なんて……そんな自惚れだってある。便りがないのはよい便りなんて言うけれど、本当にそうだろうか?
「…………」
今日は朝からずっと悩んでいた。一言大丈夫ですか、と尋ねればいいのに。ため息をついた瞬間、握ったスマートフォンが震えた。つまらないダイレクトメールか何かかと目を落とすと、開いたままのミズキとのトークルームに見たことのないメッセージがあった。……飛び上がりそうになった。比喩ではなく本当に。今が授業中だと思い至って何とか足が少し動くくらいで済んだ。誰もヒイラギのことなんか見ていないが、猛烈に恥ずかしくなった。顔が熱いのを感じつつ、気を取り直してスマートフォンに目を落とす。
『こんにちは、百合川君。お疲れ様です。今日、少しお話できますか?』
少しどころじゃないたくさんお話したい、むしろ学園なんてとっととサボってあなたに会いたい。そこまで一瞬で考えてフリック入力しそうになって踏みとどまった。今は五限目の途中、十三時半。仕事中じゃないのかなと思いながらゆっくり指を滑らせる。やけに誤入力が多い。何度も打っては直し打っては直しを繰り返しながら心の中で苦笑する。いやいや落ち着け、僕。いくらなんでもテンションが上がりすぎだ。落ち着かないと。
越水ハヤオの顔が浮かんだ。見るからに落ち着いた大人の男性。ミズキはああいうどっしりした器の大きさや余裕を感じさせる男性がタイプなのかもしれない。ミズキを振った奴のことを考えるなんて不愉快だが、彼女が越水ハヤオに惹かれたのは事実、一考の余地はあるだろう。苦虫を噛み潰しながら意図的に深く息を吸って吐く。ようやく落ち着いた。さあ、メッセージを返そう。
放課後になるまで長かった。適当に言い訳して早退しようと何度考えたかわからないが、そこはぐっと堪えた。校門を出て真っ直ぐ品川駅に向かう。溢れる人波、その中にミズキがいた。柱にもたれかかって立っている。手を振りながら駆け寄ると、ミズキも小さく手を振ってくれた。
「こんにちは、百合川君。学校お疲れ様です」
「こんにちは、天宮さん。天宮さんもお疲れ様です」
「私は……お疲れ様じゃないですよ」
寂しそうに笑うミズキに嫌な予感が纏わりつく。笑っているぶん、ミズキの部屋で見たときよりはマシな状態なのだろうが……心配は拭えない。
「突然呼び出してごめんなさいね。この間のお礼も兼ねて、少しお茶でもしましょう」
「あ、はい」
哀愁漂うミズキの横顔を見つめながら歩いていく。今日はどこにでもある全国チェーンのカフェに辿り着いた。よかった。またミズキの部屋を案内されたらどうしようかと思った。
「何でも頼みたいものを頼んでくださいね。払いますから」
「え?自分のは払いますよ」
「いいんです。神社に付き合ってもらったお礼も兼ねていますから、大人しくおごられてください」
「…………わかりました」
レジに並んで交わす会話に、ヒイラギは少し口を尖らせた。あのデートはミズキにとって「借り」になるようなことなのか。
「はい、どうぞ」
でもミズキから頼んだ飲み物を渡されると、まあいいのかなと納得してしまう。受け取ったときに互いの指先が触れて胸が高鳴っているのも、きっとヒイラギだけなのだろう。ヒイラギは気恥ずかしさに頬の熱を感じながら目を逸らした。
「ありがとうございます」
「あそこにしましょうか」
ミズキが指差したのはカフェの隅、小さなテーブルと片側がソファー、向かい側が椅子になっている二人席。頷き、ソファー側にミズキを促しヒイラギは椅子に座った。
「……ふう」
ミズキは息をつきながら、両手で大事そうに紙コップを包み込んでいる。視線が斜め下を向いている彼女をじっと観察した。今日は化粧が崩れていないし、一応は笑顔を見せているが、越水に振られる前の彼女とは雲泥の差があった。喜んでいいのか心配するべきなのか判断に困り、ヒイラギは黙ってミズキの言葉を待った。
「あ、百合川君、ごめんなさい。ため息なんかついて」
「いえ、それはいいんです。気にしてません」
「ふふ……百合川君は優しいですね」
儚げな笑顔でヒイラギを見つめるミズキに、胸の奥がもやもやと曇った。褒められて嬉しいだけではない陰りがヒイラギを暗く染めていく。
「ありがとうございます。……百合川君、あまり楽しい話ではないですが……聞いてくれますか?」
「はい」
「今日、職場で寝ちゃいました」
「え?寝る?」
ちょっとよくわからない話の切り出し方に思わず聞き返した。ぽかんとしているヒイラギに、ミズキは苦笑いを返す。
「そうなんですよ。結構早く寝たんですけどね、昨日。長官の話だと出勤してすぐに意識を失って、そのまましばらく寝てたらしくて……意味わからないですよね?私だって意味がわからないです。長官に帰って休んだ方がいいと言われて、そのまま帰ってしまって……」
「ああ、だからお昼にメッセージがあったんですね」
「そうです。……ごめんなさいね、百合川君。取り留めのない話で」
「天宮さんのお話を聞くのはいいんです。いいんですけど、病院とか行かなくて大丈夫ですか?……心配です」
「病院……ああ、そうですね。あまり続くようなら行った方がいいでしょうね」
自分のことなのに妙に他人事のような冷めた声音に、ヒイラギはますます不安になる。やっぱり今のミズキは変だ。泣いているとか見た目にわかりやすい異変はないが、どうにもしっくりこない。
「誰かに心配されたかったのかもしれません。……百合川君、ありがとうございます」
「はい……心配くらい、いつでもします。今だって……すごく心配ですよ」
好きな人の様子がおかしいのに、どうすればいいのかわからなくて歯痒い。できるならミズキの心の傷を全部ヒイラギが被りたい。
「もしも弟がいたら、こんな感じなのでしょうか」
「……えっ?」
思い悩んで眉を顰めたヒイラギに、ミズキの柔らかな声が返ってくる。弟。……弟?
「私はひとりっ子ですから、きょうだいがいたらってときどき思ってたんですよ。百合川君を見てると、年の離れた弟みたいで……百合川君?」
ヒイラギは膝の上で拳を握りしめていた。その拳が細かく震えている。全身に熱く煮えたぎった血液が流れていく。ミズキに突き刺さるほどの視線を向け、ヒイラギはテーブルに身を乗り出した。
「天宮さん」
無意識に、テーブルの上で紙コップを握りしめるミズキの手に手を重ねていた。ミズキがはっと息を飲み、黙り込んだ。二人の間にただならぬ空気が流れる。
「僕は弟じゃありません」
大きな声ではないが、溢れんばかりの意思がこもっていた。間近で聞いているミズキが思わず言葉を飲みこむほどの。
「天宮さん。僕、言いましたよね。あなたが好きだって。……もしかして、お姉さんとして好きだって思ってました?」
「……」
ミズキは今にも泣き出しそうな顔でヒイラギを凝視して黙りこくっている。いい機会だ。ちゃんと伝えなければ。誤解なく遅滞なく、この想いを。
「ひとりの女性として、天宮さんのことが好きです。弟じゃなくて、彼氏として選んでほしいんです。僕を……百合川ヒイラギを」
「百合川君……」
ミズキは涙を浮かべてはいないものの、苦しそうだった。頭を下げられる。
「……ごめんなさい。百合川君の気持ちは、ちゃんとわかっています。でも、その……ごめんなさい」
「……それは、僕を選べないってことですか?」
俯くミズキが首を振る。幕のように垂れ下がった前髪がゆらゆらと揺れた。
「違います。……ごめんなさい、まだ頭がぐちゃぐちゃで……答えられないんです。なのに、あなたには甘えてしまって……だから……」
ミズキの肩が細かく震えている。ここが人目につくカフェじゃなければ、抱きしめていた。ヒイラギは紙コップを握りしめるミズキの両手を柔らかく包んだ。手くらい……抱きしめてもいいだろう。
「僕もごめんなさい、感情的になって……僕は学生ですし、天宮さんより年下です。弟にしか見えないのも仕方ないかもしれません。男として見てほしいなんて、わがままですよ、僕の。でも」
ミズキの手をぎゅっと抱きしめて、ヒイラギは笑った。顔を上げたミズキと目が合う。不謹慎かもしれないが、涙できらめく彼女の瞳は夜空みたいで綺麗だった。
「男として見てもらえるようにしてみせますよ。だから甘えてください。受け止めます。天宮さんの荷物、ちょっとだけでも持たせてくださいよ」
「百合川君……」
「ね?」
微かに、でも確かにミズキは頷いてくれた。
天宮ミズキを途中で帰し迎えた夜。久しぶりの越水単独の夜だ。執務室に越水しかいない時間は珍しい。ミズキがいなければ執務室は痛いほどの静寂に包まれる。彼女は無事に帰っただろうか。真面目な彼女のことだから休養しているとは思うが気にかかる。もしかしたら長く不調が続くかもしれない。ミズキがいない状態での執務にも慣れておかねば……そんな風に思いながら機械的に執務をこなしていると、来客を知らせるブザーが鳴った。温かみのない無機質な音。この時間に執務室を訪れる者などミズキ以外考えられないが、まさか。机に設置されたタッチパネルを叩くと、執務室の外の廊下が映し出される。紺色の学ランに浮かび上がる白い百合。百合川ヒイラギが立っていた。何故彼が。一瞬思考が止まったが、越水はマイクを口元に近付けた。
「百合川ヒイラギだな。何の用だ」
「大事なお話があります」
ざらついたノイズ混じりでも、ヒイラギの声は明瞭に響いた。大事な話?越水に思い当たる節はない。
「二人で話したいんです」
「……今日はもう遅い。明日では」
「だめです」
「…………」
カメラの方を睨みつけながら即答のヒイラギに、越水は息をついた。タッチパネルを操作すると、扉が開く。百合川ヒイラギは全く躊躇なく執務室に入り、つかつかと真っ直ぐ越水に向かって歩いてきた。彼の全身からは気圧されるほどの威圧感が滲んでいる。越水は立ち上がり、ヒイラギと向かい合った。ヒイラギの翡翠のような瞳が殺気に似た鋭さを伴って越水を睨んでいる。
「越水さん、天宮さんの告白を断ったそうですね?」
挨拶もなく切り込んでくるヒイラギの言葉には容赦がない。何故彼が知っているのかと疑問に思う前に、越水の喉に空気が詰まった。冷えた執務室にヒイラギの声は鋭く響く。
「そのとおりだが、何故君がそれを知っている?」
「天宮さんから聞きました。……天宮さん、泣いてました」
「…………」
ミズキのことは全て知っていると思っていた。越水の与り知らぬところでミズキとヒイラギが言葉を交わしている。越水は拳を握った。
「告白を断るのは自由です。それを咎めたりしません。むしろ僕にとっては好都合です。僕、こそこそするのは好きじゃないんで、はっきり言います」
一瞬両目を閉じ、呼吸を整えたヒイラギが再び目を開く。翡翠の双眸が越水の灰色の瞳を射抜いた。
「僕は天宮さんが好きです。ひとりの女性として。だから、これからたくさん天宮さんと会いますし、いっぱいお話もします。もちろん天宮さんのお仕事の邪魔はしません。どうして僕が天宮さんの周りをうろちょろしてるんだ、なんて言われたくないですからね。先に言っておきます」
「……」
「僕が天宮さんをもらっていきます。恨まないでくださいね」
「……言いたいことはそれだけか?」
越水は冷徹な眼差しでヒイラギを見下ろし口にした。声は低く、獣の唸り声に似ている。ヒイラギはふふ、と笑った。余裕のある美しい笑み。
「ええ、これだけですよ。越水さんも言いたいことはそれだけですか?」
挑戦的な視線で迎えうつヒイラギは、とてもただの高校生には見えない。初めてヒイラギを見たときに感じた変化の予感が、明確な輪郭を持ち越水に迫ってくる。
「……それだけだ」
「そうですか。わかりました。じゃあ言いたいことを言えましたし、僕はこれで失礼しますね」
数秒前とはうってかわってにっこり笑い、ヒイラギは踵を返した。機嫌よさそうな足取りで執務室を出ていく。後に残された越水にのしかかるのは沈黙。越水は無言でジッポと煙草を取り出した。喫煙室まで行く数秒さえ惜しい。乱暴な仕草でジッポの蓋を開き点火。白い煙を見つめながら煙草を咥えた。吸い込んだ肺に満ちていく、苦味のある煙と濁った苛立ち。ふー……と息を吐き、再び煙草を咥えた。一吸いでは足りない。それどころか一本でも足りないかもしれない。越水は揺らめく煙を纏いながら歯を噛み締めていた。
越水がミズキの告白を断ってから初めての平日が訪れた。二人きりの料亭で彼女の告白を断った後、ミズキはすぐに帰ってしまい休日を挟んだため、彼女と会うのが随分と久しぶりに感じられた。毎週幾度となく訪れる休日明けの出勤日。これまでは特に何の感情もなく受け入れてきたものだったが、越水の心は少しばかりざわついていた。あの夜のミズキは、越水の応えられないという言葉にただならぬ衝撃を受けていたようだった。もしも彼女が今日は出勤できないと言ってきたとしても仕方ないと思っていたが、
「おはようございます、長官」
ミズキは執務室に普段どおりやって来た。妙に力んだ不自然な歩き方。そうして越水と向かい合った彼女の視線は、どこか不安定なものだった。
「天宮君、体調が優れないようだが」
「いえ、大丈夫です」
ミズキは首を振り否定するがどう見ても顔色が悪く、胸に何か沈む思いを抱えているのは明らかだった。彼女は放っておけばこのまま勤務を続けるだろうが、途中で倒れてもおかしくないように見える。
「無理をするな。今日は外出の予定はない、私一人でも問題はない」
「……無理なんか、してません」
再度首を振ったミズキが、縋るような眼差しを越水に向けてくる。
「私は長官の秘書です。秘書の仕事はきちんとします。……だから、そんなこと言わないでください」
慈悲を求める視線を受けても越水の憂慮は消えない。彼女の真面目さは美点だが、あまりに自らを顧みない姿勢は目に余る。帰れと言っても素直に帰る彼女ではない、ではどうするか。
「今日は休みたまえ。私が見ていよう」
言葉とともに、向かい合う彼女に術をかける。心地よい眠りに誘う術。疲れ切った彼女に抵抗することなどできず、越水の胸に倒れ込んで意識を手放していた。すやすやと規則正しい寝息を立てる。越水はミズキを抱えると、執務室のベッドに彼女を寝かせた。本来は執務室に籠る越水が休むためのベッドだが、ミズキなら使っても構わない。正しくは医務室に連れていくべきなのかもしれないが……。医務室――ふと百合川ヒイラギを思い出した。魔界から帰還した直後、ミズキが彼を医務室に送り届けたという。思えば百合川ヒイラギは、そのときからミズキと接触していたのか。ここのところ二人が研究室で言葉を交わしているのを見て少なからずささくれだっていたが、新たな苛立ちの種を撒いてしまい越水は珍しく舌打ちしそうになった。
越水はベッドそばの椅子に座り、彼女の寝顔を眺めた。顔色の悪さはそのままだが、いくぶん穏やかな顔のように見える。少なくとも眠りにある間だけでも心穏やかであってほしい。
「長官……」
ミズキに乞うように呼ばれまさか起きているのかと思ったが、ただの寝言らしかった。目を閉じ眠りに落ちたまま、それでもぼそぼそと越水を呼び続けている。夢の中でも越水を追い求めているらしい。
「……私はここにいる」
ミズキは寝ている。越水の声など聞こえていないと理解しているが、眠っていても越水を呼ぶ声に返事せざるを得なかった。仰向けに眠る彼女の手がふと目に入る。迷いなく手を握る。冷たかった。彼女の手に触れるのは初めてだが、いつもこんなに冷たいのだろうか。越水もあまり手があたたかい方ではないが、彼女より大きい手ですっぽりと覆ってしまう。分け合うほどのぬくもりはないかもしれない。それでも、冷えた手に温度を分けたいと思った。
「……君は、それほどまでに……」
ミズキの決死の覚悟を切り捨てたことは少なからず彼女に影響を与えるだろうと思っていたが、まさかここまで心に傷を負わせるとは思わなかった。これまで越水に想いを伝えてきた女性は何人かいたが、玉砕した後は二度と越水に近寄ってこなかったし越水からも接触することはなかった。振られた後の女性の様子を具に見るのはミズキが初めてだ。彼女は冷酷に想いを両断されても秘書の責から逃げようとせず、現に今日出勤している。それをどう解釈するかは越水次第である。
「…………」
今日は外出する予定はない。それは本当だ。だが仕事がないわけではない、やらねばならぬことは山のように積み上がっている。しかしどうにも落ち着かず、冷えたミズキの手を離したくなかった。越水を呼び続ける彼女がどんな夢を見ているのか気になるが、知らぬが仏かもしれない。
目を閉じる。神の力でもう一人の越水が生まれる。目配せをすると分身は執務室の机に座り、黙々と淡々と執務を始めた。分身の方は気にしなくていい、越水は視線をベッドに戻した。今日はミズキを見守ろう。越水は息をつき、ミズキの手を少しだけ強く握った。
分身がパソコンを操作する音しか聞こえない、音の少ない執務室で越水は思案に沈む。ミズキをこんな間近で見守ることなどもう二度とないだろう。いい機会だ。少し――少しばかり考えねばならぬことがある。
越水はミズキの想いを一刀両断した。そこに迷いはなかった。越水はベテル日本支部長官、彼女はその秘書。固定された二人の関係を発展させる必要はなく、上司と秘書以外の名前も不要。越水が考えるべきは悪魔の脅威に晒される東京を如何に守り維持するか。その使命に個人に対する感情は必要ない。冷徹な越水が下した至極合理的な判断、それに誤りなどあるはずがない。
今越水がミズキに対して抱く思い。おそらく雨に濡れた捨て猫を見たときと同じ感情だろうと判断している。そう、これは一時的なもの。憐れなるものに憐れみを向けるのは神であっても当然で、越水は世界を見通す神ではあるが、偶然居合わせた弱った人間に優しさを向ける気まぐれだってある。越水の行いの結果でミズキは傷ついた、気になってしまうのも自明の理。きっとそう。あくまでも、一時的な……徒花だ。
「…………」
おそらく結論は出た。が、小さな針が刺さって抜けない感覚がある。越水は歯を食いしばりながら、ミズキの手を握っていない方の手でポケットを探った。四角く冷たい感触と薄いフィルムに包まれた小さな箱に指先が触れる。久々に吸いたくなった。煙草を吸わないミズキのそばで吸うのは忍びない。名残惜しいが握った手を離し立ち上がる。執務室内には小さな喫煙室がある。とんとご無沙汰だったが足を踏み入れた。越水一人しか入ることを想定していない狭い空間。壁に寄りかかり、煙草の箱を取り出す。随分前に吸いきって新しく買ったまま放置していた。フィルムを剥がし一本取り出し口に咥え、ジッポの蓋を指先で弾く。フリントホイールを回して点火、煙草の先端を近付けるとやわやわと煙が上がる。細くたなびく煙を目で追いながら大きく息を吸う。苦味と渋味、体に悪そうな味のする煙霧を咀嚼すると不思議と頭が冷える。胸に刺さった針がなくなるわけではないが、その痛みが紛れる。越水は斜め上を見つめて煙草を口から離し、細く息を吐いた。越水に淀む思いと濁った煙が吐き出される。指先で支える煙草の煙で視界が白く霞んできた。全身に煙草の匂いを纏っていたら、ミズキは何と言うだろうか。彼女が秘書になってから煙草を吸いたくなったことはなく、あまり想像できない。煙草臭いなんてデリカシーがないと嫌われてしまったら、それはそれで互いにとっていいのかもしれないと思ってため息をついた。ほんの一吸いしかしていないがもういい。置かれた灰皿に煙草を押し付けて越水は執務室に戻った。
「……ん……う……」
ちょうどミズキが目を覚ましたようだ。彼女には越水が神であることは話していない。二人越水がいる状況を見たら驚愕どころの話ではないだろう。越水は仕事をしていた分身を消し去り、再びベッドそばの椅子に座った。刹那の躊躇いの後、ミズキの手に触れた。眠った直後と比べると少し熱を持っている。ならばそれでよい、手を離す。
「あ……ええと……長官……?」
ミズキの眼球が不安そうに蠢き、唇からか弱い声が漏れる。
「おはよう、天宮君」
「おはようございます……?あれ……え……?私……」
「出勤してすぐ、君は意識を失った。ここは私の執務室だ。君は今まで寝ていたが、体調はどうだ」
まだ寝起きで頭が働かないのか、ミズキは神妙な顔で黙り込んでいた。やがて青ざめ、口を開く。
「え!?私、今まで寝て……!?申し訳ありません!ご迷惑をおかけして……!」
執務室に切実な声が反響し、勢いよく半身を起こしたミズキは深く頭を下げた。顔が完全に見えなくなる礼、ミズキの表情を隠す垂れ下がった前髪がこの上なく憎かった。
「迷惑などかかっていない。言ったはずだ。今日は私一人でも問題はないと」
「それは、そうかもしれませんが……」
ミズキが頭を上げた。越水と目が合った瞬間、ミズキは弾かれたように目を逸らした。
「長官の秘書を続けると自分から言っておいて……申し訳ありません」
「誰しも体調が優れないときがある。君のせいではない、だが」
越水はミズキに顔を近づけた。額が触れ合いそうな距離に、彼女は留まってくれなかった。少し後ろに身を引かれ、隔たりが生まれる。
「今日の君は勤務できる状態ではないだろう。有給休暇を取って休むといい。休むのも仕事だ」
「…………はい」
職場でいきなり意識を失ったと聞かされて、そのまま残ることはさすがにないようだ。じっと見つめるとミズキは頷き、ベッドから抜け出す。乱れたシーツを整えると、ミズキは再び越水に深々と礼をした。
「申し訳ありません。今日は帰らせていただきます」
「そうするといい」
「……あの、長官。ひとつだけ、聞いてもいいですか?」
「何だ?」
「長官って煙草吸うんですね。……私が吸わないから、合わせてくださったんですか?」
やはり彼女は気付いたらしい。たった一本、それも途中で吸うのをやめるくらいの短時間だったのだが。
「……今日、久しぶりに……たまたま吸っただけだ」
「そうですか。……ええと、すみません、よくわからないことを聞いて。……帰ります。お先に失礼します」
彼女が少し寂しそうに笑ったように見えたのは、気のせいだろうか。
縄印学園高等科。平日が来れば普段どおりに授業が始まる。百合川ヒイラギは頬杖をつきながら窓の外をぼんやり眺めていた。教師の声が環境音楽のように左右の耳を通り抜けていく。教科書を広げて最低限授業を聞いている風を装いながら、ヒイラギは全く別のことを考えていた。
天宮ミズキ――今日は彼女も仕事のはずだ。今でも彼女と神社に行ったときのことを覚えている。あのときは比較的元気そうに見えたが、今もそうだろうか。楽しい時間が終わった瞬間苦しくなるなんてよくあることだ、気になって仕方がなかった。
――僕から連絡していいかな……?一応連絡しようと思えばできるけど……。
机の中にこっそり手を入れて握りしめたスマートフォン。天宮ミズキとのトークルームを開いたままずっと硬直していた。神社に行ったときはミズキの方から声をかけてくれたし、少なくともヒイラギと一緒にいる間は普通にしているように見えたから、少しは役に立てたと思っている。だから……同じような辛いことがあったとき、またミズキに頼ってもらえるのではないか、なんて……そんな自惚れだってある。便りがないのはよい便りなんて言うけれど、本当にそうだろうか?
「…………」
今日は朝からずっと悩んでいた。一言大丈夫ですか、と尋ねればいいのに。ため息をついた瞬間、握ったスマートフォンが震えた。つまらないダイレクトメールか何かかと目を落とすと、開いたままのミズキとのトークルームに見たことのないメッセージがあった。……飛び上がりそうになった。比喩ではなく本当に。今が授業中だと思い至って何とか足が少し動くくらいで済んだ。誰もヒイラギのことなんか見ていないが、猛烈に恥ずかしくなった。顔が熱いのを感じつつ、気を取り直してスマートフォンに目を落とす。
『こんにちは、百合川君。お疲れ様です。今日、少しお話できますか?』
少しどころじゃないたくさんお話したい、むしろ学園なんてとっととサボってあなたに会いたい。そこまで一瞬で考えてフリック入力しそうになって踏みとどまった。今は五限目の途中、十三時半。仕事中じゃないのかなと思いながらゆっくり指を滑らせる。やけに誤入力が多い。何度も打っては直し打っては直しを繰り返しながら心の中で苦笑する。いやいや落ち着け、僕。いくらなんでもテンションが上がりすぎだ。落ち着かないと。
越水ハヤオの顔が浮かんだ。見るからに落ち着いた大人の男性。ミズキはああいうどっしりした器の大きさや余裕を感じさせる男性がタイプなのかもしれない。ミズキを振った奴のことを考えるなんて不愉快だが、彼女が越水ハヤオに惹かれたのは事実、一考の余地はあるだろう。苦虫を噛み潰しながら意図的に深く息を吸って吐く。ようやく落ち着いた。さあ、メッセージを返そう。
放課後になるまで長かった。適当に言い訳して早退しようと何度考えたかわからないが、そこはぐっと堪えた。校門を出て真っ直ぐ品川駅に向かう。溢れる人波、その中にミズキがいた。柱にもたれかかって立っている。手を振りながら駆け寄ると、ミズキも小さく手を振ってくれた。
「こんにちは、百合川君。学校お疲れ様です」
「こんにちは、天宮さん。天宮さんもお疲れ様です」
「私は……お疲れ様じゃないですよ」
寂しそうに笑うミズキに嫌な予感が纏わりつく。笑っているぶん、ミズキの部屋で見たときよりはマシな状態なのだろうが……心配は拭えない。
「突然呼び出してごめんなさいね。この間のお礼も兼ねて、少しお茶でもしましょう」
「あ、はい」
哀愁漂うミズキの横顔を見つめながら歩いていく。今日はどこにでもある全国チェーンのカフェに辿り着いた。よかった。またミズキの部屋を案内されたらどうしようかと思った。
「何でも頼みたいものを頼んでくださいね。払いますから」
「え?自分のは払いますよ」
「いいんです。神社に付き合ってもらったお礼も兼ねていますから、大人しくおごられてください」
「…………わかりました」
レジに並んで交わす会話に、ヒイラギは少し口を尖らせた。あのデートはミズキにとって「借り」になるようなことなのか。
「はい、どうぞ」
でもミズキから頼んだ飲み物を渡されると、まあいいのかなと納得してしまう。受け取ったときに互いの指先が触れて胸が高鳴っているのも、きっとヒイラギだけなのだろう。ヒイラギは気恥ずかしさに頬の熱を感じながら目を逸らした。
「ありがとうございます」
「あそこにしましょうか」
ミズキが指差したのはカフェの隅、小さなテーブルと片側がソファー、向かい側が椅子になっている二人席。頷き、ソファー側にミズキを促しヒイラギは椅子に座った。
「……ふう」
ミズキは息をつきながら、両手で大事そうに紙コップを包み込んでいる。視線が斜め下を向いている彼女をじっと観察した。今日は化粧が崩れていないし、一応は笑顔を見せているが、越水に振られる前の彼女とは雲泥の差があった。喜んでいいのか心配するべきなのか判断に困り、ヒイラギは黙ってミズキの言葉を待った。
「あ、百合川君、ごめんなさい。ため息なんかついて」
「いえ、それはいいんです。気にしてません」
「ふふ……百合川君は優しいですね」
儚げな笑顔でヒイラギを見つめるミズキに、胸の奥がもやもやと曇った。褒められて嬉しいだけではない陰りがヒイラギを暗く染めていく。
「ありがとうございます。……百合川君、あまり楽しい話ではないですが……聞いてくれますか?」
「はい」
「今日、職場で寝ちゃいました」
「え?寝る?」
ちょっとよくわからない話の切り出し方に思わず聞き返した。ぽかんとしているヒイラギに、ミズキは苦笑いを返す。
「そうなんですよ。結構早く寝たんですけどね、昨日。長官の話だと出勤してすぐに意識を失って、そのまましばらく寝てたらしくて……意味わからないですよね?私だって意味がわからないです。長官に帰って休んだ方がいいと言われて、そのまま帰ってしまって……」
「ああ、だからお昼にメッセージがあったんですね」
「そうです。……ごめんなさいね、百合川君。取り留めのない話で」
「天宮さんのお話を聞くのはいいんです。いいんですけど、病院とか行かなくて大丈夫ですか?……心配です」
「病院……ああ、そうですね。あまり続くようなら行った方がいいでしょうね」
自分のことなのに妙に他人事のような冷めた声音に、ヒイラギはますます不安になる。やっぱり今のミズキは変だ。泣いているとか見た目にわかりやすい異変はないが、どうにもしっくりこない。
「誰かに心配されたかったのかもしれません。……百合川君、ありがとうございます」
「はい……心配くらい、いつでもします。今だって……すごく心配ですよ」
好きな人の様子がおかしいのに、どうすればいいのかわからなくて歯痒い。できるならミズキの心の傷を全部ヒイラギが被りたい。
「もしも弟がいたら、こんな感じなのでしょうか」
「……えっ?」
思い悩んで眉を顰めたヒイラギに、ミズキの柔らかな声が返ってくる。弟。……弟?
「私はひとりっ子ですから、きょうだいがいたらってときどき思ってたんですよ。百合川君を見てると、年の離れた弟みたいで……百合川君?」
ヒイラギは膝の上で拳を握りしめていた。その拳が細かく震えている。全身に熱く煮えたぎった血液が流れていく。ミズキに突き刺さるほどの視線を向け、ヒイラギはテーブルに身を乗り出した。
「天宮さん」
無意識に、テーブルの上で紙コップを握りしめるミズキの手に手を重ねていた。ミズキがはっと息を飲み、黙り込んだ。二人の間にただならぬ空気が流れる。
「僕は弟じゃありません」
大きな声ではないが、溢れんばかりの意思がこもっていた。間近で聞いているミズキが思わず言葉を飲みこむほどの。
「天宮さん。僕、言いましたよね。あなたが好きだって。……もしかして、お姉さんとして好きだって思ってました?」
「……」
ミズキは今にも泣き出しそうな顔でヒイラギを凝視して黙りこくっている。いい機会だ。ちゃんと伝えなければ。誤解なく遅滞なく、この想いを。
「ひとりの女性として、天宮さんのことが好きです。弟じゃなくて、彼氏として選んでほしいんです。僕を……百合川ヒイラギを」
「百合川君……」
ミズキは涙を浮かべてはいないものの、苦しそうだった。頭を下げられる。
「……ごめんなさい。百合川君の気持ちは、ちゃんとわかっています。でも、その……ごめんなさい」
「……それは、僕を選べないってことですか?」
俯くミズキが首を振る。幕のように垂れ下がった前髪がゆらゆらと揺れた。
「違います。……ごめんなさい、まだ頭がぐちゃぐちゃで……答えられないんです。なのに、あなたには甘えてしまって……だから……」
ミズキの肩が細かく震えている。ここが人目につくカフェじゃなければ、抱きしめていた。ヒイラギは紙コップを握りしめるミズキの両手を柔らかく包んだ。手くらい……抱きしめてもいいだろう。
「僕もごめんなさい、感情的になって……僕は学生ですし、天宮さんより年下です。弟にしか見えないのも仕方ないかもしれません。男として見てほしいなんて、わがままですよ、僕の。でも」
ミズキの手をぎゅっと抱きしめて、ヒイラギは笑った。顔を上げたミズキと目が合う。不謹慎かもしれないが、涙できらめく彼女の瞳は夜空みたいで綺麗だった。
「男として見てもらえるようにしてみせますよ。だから甘えてください。受け止めます。天宮さんの荷物、ちょっとだけでも持たせてくださいよ」
「百合川君……」
「ね?」
微かに、でも確かにミズキは頷いてくれた。
天宮ミズキを途中で帰し迎えた夜。久しぶりの越水単独の夜だ。執務室に越水しかいない時間は珍しい。ミズキがいなければ執務室は痛いほどの静寂に包まれる。彼女は無事に帰っただろうか。真面目な彼女のことだから休養しているとは思うが気にかかる。もしかしたら長く不調が続くかもしれない。ミズキがいない状態での執務にも慣れておかねば……そんな風に思いながら機械的に執務をこなしていると、来客を知らせるブザーが鳴った。温かみのない無機質な音。この時間に執務室を訪れる者などミズキ以外考えられないが、まさか。机に設置されたタッチパネルを叩くと、執務室の外の廊下が映し出される。紺色の学ランに浮かび上がる白い百合。百合川ヒイラギが立っていた。何故彼が。一瞬思考が止まったが、越水はマイクを口元に近付けた。
「百合川ヒイラギだな。何の用だ」
「大事なお話があります」
ざらついたノイズ混じりでも、ヒイラギの声は明瞭に響いた。大事な話?越水に思い当たる節はない。
「二人で話したいんです」
「……今日はもう遅い。明日では」
「だめです」
「…………」
カメラの方を睨みつけながら即答のヒイラギに、越水は息をついた。タッチパネルを操作すると、扉が開く。百合川ヒイラギは全く躊躇なく執務室に入り、つかつかと真っ直ぐ越水に向かって歩いてきた。彼の全身からは気圧されるほどの威圧感が滲んでいる。越水は立ち上がり、ヒイラギと向かい合った。ヒイラギの翡翠のような瞳が殺気に似た鋭さを伴って越水を睨んでいる。
「越水さん、天宮さんの告白を断ったそうですね?」
挨拶もなく切り込んでくるヒイラギの言葉には容赦がない。何故彼が知っているのかと疑問に思う前に、越水の喉に空気が詰まった。冷えた執務室にヒイラギの声は鋭く響く。
「そのとおりだが、何故君がそれを知っている?」
「天宮さんから聞きました。……天宮さん、泣いてました」
「…………」
ミズキのことは全て知っていると思っていた。越水の与り知らぬところでミズキとヒイラギが言葉を交わしている。越水は拳を握った。
「告白を断るのは自由です。それを咎めたりしません。むしろ僕にとっては好都合です。僕、こそこそするのは好きじゃないんで、はっきり言います」
一瞬両目を閉じ、呼吸を整えたヒイラギが再び目を開く。翡翠の双眸が越水の灰色の瞳を射抜いた。
「僕は天宮さんが好きです。ひとりの女性として。だから、これからたくさん天宮さんと会いますし、いっぱいお話もします。もちろん天宮さんのお仕事の邪魔はしません。どうして僕が天宮さんの周りをうろちょろしてるんだ、なんて言われたくないですからね。先に言っておきます」
「……」
「僕が天宮さんをもらっていきます。恨まないでくださいね」
「……言いたいことはそれだけか?」
越水は冷徹な眼差しでヒイラギを見下ろし口にした。声は低く、獣の唸り声に似ている。ヒイラギはふふ、と笑った。余裕のある美しい笑み。
「ええ、これだけですよ。越水さんも言いたいことはそれだけですか?」
挑戦的な視線で迎えうつヒイラギは、とてもただの高校生には見えない。初めてヒイラギを見たときに感じた変化の予感が、明確な輪郭を持ち越水に迫ってくる。
「……それだけだ」
「そうですか。わかりました。じゃあ言いたいことを言えましたし、僕はこれで失礼しますね」
数秒前とはうってかわってにっこり笑い、ヒイラギは踵を返した。機嫌よさそうな足取りで執務室を出ていく。後に残された越水にのしかかるのは沈黙。越水は無言でジッポと煙草を取り出した。喫煙室まで行く数秒さえ惜しい。乱暴な仕草でジッポの蓋を開き点火。白い煙を見つめながら煙草を咥えた。吸い込んだ肺に満ちていく、苦味のある煙と濁った苛立ち。ふー……と息を吐き、再び煙草を咥えた。一吸いでは足りない。それどころか一本でも足りないかもしれない。越水は揺らめく煙を纏いながら歯を噛み締めていた。