月と花のはざま
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#4 花とたまゆら(1/2)
夜の東京は好きだ。ざわざわした音の中を通り抜けて、キラキラ輝く人工的な明るさと透き通るような夜空の美しさを楽しめるから。百合川ヒイラギは人が行き交う眠らない都市、東京をあてもなく歩いていた。明日は学園が休み。縄印学園は全寮制で門限もあるが、外泊届を出しさえすれば門限を過ぎて帰っても誰も何も言わない。遠慮なく外泊届を出し、ヒイラギは夜の街を歩いた。歩くといってもあまり遠くまで足を伸ばすのは疲れるから、品川駅のあたりを適当にぶらついている。今夜は新月のようで月は見えない。代わりにどこまでも深い晴れた濃紺の夜空が広がっている。
――天宮さんに見つかったら高校生が夜遊びして、って言われるかなあ。
正直なところ、運よく天宮ミズキと会えたりしないかなんて思っていた。彼女はベテル日本支部に勤務しており、最寄り駅は品川。最近アオガミの分析で遅くまで残っていることが多いみたいだから、幸運の女神が微笑みかけてくれないかと期待はしていた。しかしそこはやはり東京、人が多すぎる。こうして立ち止まっていても周囲を歩き過ぎていく通行人は数えきれない。この中に仮にミズキがいたとしても、見逃してしまうだろう。うーん、やっぱりなかなか幸運って訪れないものだよね。
ふうとため息をつき、ヒイラギは品川駅のコンビニに歩いていく。品川駅まで歩いてきたら、ほぼ必ずこのコンビニに立ち寄っていた。特に何があるわけでもないが、雑誌を立ち読みしてもいいし何かお菓子を買ってもいいし、コンビニには何でもある。とりあえず立ち寄るにはちょうどいい場所だった。今夜もいつもどおり、特に意識することなくコンビニに入っていく。さて今日はどうしようか。雑誌の棚を見たが興味は惹かれず通路に視線を移した瞬間、女性が一人歩いていく後ろ姿が見えた。
「天宮さん」
すぐに誰かわかった。研究室ではないから白衣を着ていないしネームプレートもないが、それでも瞬時に理解した。たった一目でも見たくて会いたくて堪らない女性の姿。
「……百合川君?」
振り返った彼女は酷い有様だった。目は腫れぼったく、化粧をした頬に何か液体が垂れた跡が残っている。マスカラと思しき黒っぽい色が目の周りに滲み、くたびれた陰気な空気を漂わせている。彼女は自らの状態を把握はしているのか、ヒイラギを一瞬見た後気まずそうに目を逸らした。あまり見てほしくないと言わんばかりの仕草に、ヒイラギは言葉を失った。ミズキに会えて弾んだ心が一瞬で急降下していくが、ヒイラギは迷いなく彼女との距離を詰めた。
「天宮さん。……どうしたんですか」
「…………」
以前の彼女なら高校生がこんな時間に、とでも返してきそうなものだが、返事は沈黙。俯かれてしまい彼女の顔が見えなくなる。
「天宮さん。何があったのかは知りません。でも、僕でよければ話を聞きます」
「……私は大人ですから……あなたに頼るのは……」
こんな状態でも子供だと暗に言われてしまい一瞬心に亀裂が走るが、勝手に口が動いた。
「今の天宮さん、放っておける感じじゃないです。お願いします。僕を頼ってください」
二人の間の言葉が途切れた。その間にもコンビニの喧騒は止まらず、かえって二人を包む沈黙が際立つ。
「…………百合川君」
「はい」
「門限は大丈夫ですか?」
「外泊届出してます」
「そう、ですか……」
ミズキは深い、海の底まで沈みそうなため息をつき、一瞬天井に目を向けるとヒイラギを見た。少しだけ笑っている。力のない弱々しい笑顔ではあるが。
「……わかりました。少しだけ、頼らせてください」
その言葉に涙が出そうになるほど喜んだ。気がつくとミズキはコンビニで何かを買っていて、ごく普通にヒイラギについてくるように言った。どこに行くのだろうと不思議に思っていたらマンションの一室の前。……え?
「あの、ここって……」
「私の部屋です。……ごめんなさい、散らかってますけど」
「え、え?あの、いいんですか?」
慌てるヒイラギに、ドアを開けようとする姿勢のままミズキは振り返った。
「いいですよ。他にいい場所が思いつかなかったですし」
こともなげに彼女は言い、ヒイラギは絶句した。彼女は男子高校生を自室に招き入れるような人間にはとても見えない。やや投げやりに聞こえるミズキの口調も手伝い、やはり今の彼女は普通ではないと実感する。ドアを開け彼女が入っていく。ヒイラギは閉まったドアを凝視し、大きく息を吐いた。この状況を役得と思える小狡さを持ち合わせていないヒイラギは、ただただ緊張していた。ここはごく普通のマンションだがドアの先は思い人の部屋。ヒイラギは緊張感をもってドアを開いた。
「お邪魔します」
靴を綺麗に脱ぎ、一歩足を踏み入れる。一人暮らしの人間に最適なワンルーム。学生寮もワンルームだが、それより広くゆとりがある。彼女は散らかっていると言っていたがとんでもない、むしろ片付いた綺麗な部屋だ。小さなベッドにローテーブル、彼女が使っているだろうクッション。ミズキらしいシンプルな部屋だ。
「百合川君、好きに座ってくださいね」
当のミズキはコンビニの袋をテーブルに放り出し、ベッドに仰向けに寝転んでいた。疲れきって倒れ込んだといった様相で、その姿をヒイラギに見られているが特に気にした様子はない。ヒイラギに構う余裕がないといったところだろうか。いくら彼女が心配だったとはいえ、無理を言ったかもしれない。ヒイラギは気まずい思いとともに少し後悔した。
所在なく立ち尽くしていたが、ベッドに寝転んでため息をつく彼女を立って見下ろすのも気分が良くない。座れそうな場所はクッションしかなく、ヒイラギはベッドの方に体を向けクッションの上に座った。自然と正座で彼女を見つめていた。ヒイラギの視線に気付き、天井をぼんやりと見つめていたミズキは半身を起こし、ベッドの縁に腰掛けた。見るからに気怠そうな動作に、
「天宮さん、体調が悪そうですし、寝たままでも」
「いえ、あなたが座っているのに私が寝ているわけにはいきません」
気遣ったものの、ミズキはゆるゆると首を振って微笑んだ。無理をしていることが手に取るようにわかる。逆に心配になる笑顔だった。
「あ、あの……」
「あ、ごめんなさい……私、酷い顔してますね……ちょっとお化粧落としてきます。百合川君、待っていてください」
恥ずかしそうに顔を背け、ミズキは立ち上がった。ふらふらと洗面台の方に歩いていく。大丈夫だろうか。ヒイラギは腰を浮かせて彼女を見送ったが、化粧を落とす様子など見られたくないだろうし、結局はまた座り込んだ。ヒイラギは正座して縮こまり、ぎゅっと拳を握りしめた。一体自分は何をしているのだろう。ただミズキに気を遣わせているだけのような気がする。彼女の役に立ちたいのに。
しばらく座っていると、ミズキがマグカップをひとつ持ってやって来た。ふわりと湯気が漂い、紅茶の落ち着いた香りがする。
「ごめんなさい、紅茶しかなくて」
「え、あ、僕は……」
「せっかく来てもらったんですから、お茶くらい飲んでいってください」
言いながらミズキはローテーブルにマグカップを置き、再びベッドの縁に座った。化粧を落としたミズキは綺麗だった。本来なら思い人の素顔を見て喜ぶところだが、どこかやつれた心身の不調を感じさせる顔を見ても喜びなど浮かばない。
「……あの、天宮さん」
ヒイラギは正座のままミズキを見上げた。ミズキの穏やかな視線が降ってくる。
「話してくれませんか?何かあったんでしょう」
ミズキの双眸を見つめて切り出すと、彼女の息を呑む音が聞こえた。ミズキの呼吸に合わせた体の動きが一瞬完全に止まり、ヒイラギを強張った顔で見つめている。図星だ。間違いない。
「……」
ミズキはヒイラギの視線から目を逸らし、口を噤んでいた。ヒイラギは急かすような真似はしない。真っ直ぐミズキを見つめて口を閉ざす。男女が同じ部屋にいて見つめあっているというのに、色っぽさは皆無。そこにあるのはただ気まずさだけだった。
「……百合川君。私が長官のことを好きだって、わかってるんでしたよね」
「え?……はい」
長官。ベテル日本支部長官、越水ハヤオ。研究室で彼とミズキが言葉を交わしている場面を何度か見た。ミズキの表情が彼に対してだけ明らかに違うのが、出会って日が浅いヒイラギにもはっきり理解できた。ミズキの口からはっきり越水が好き、と言われると胸が苦しくなる。ヒイラギは何とか眉を顰めるに留めた。
「振られちゃいました」
「……えっ?」
頬をかきながら言ったミズキの言葉にヒイラギは硬直した。振られる。誰が?ミズキが、越水に?
「私はただの秘書だから……。気持ちには応えられないって……」
乾いた笑いを浮かべていたミズキが徐々に言葉を失っていく。ヒイラギが黙って聞いている間にミズキの顔から笑みが消え、憂苦に歪んで暗く沈む。そしてミズキはばふ、とベッドに仰向けに倒れ込んだ。ぶらぶらと足を動かしながら、
「私の気のせいだったんですね。長官が私に優しくしてくださったのは単にお仕事お疲れ様という意味で……私個人をどうこう思っていたわけではないみたいです」
妙に明るい声音で言う。その言葉はヒイラギに向けているようで、ミズキ自身を責めているように聞こえる。医務室でのやり取りを思い出した。彼女は白い二人きりの空間で、真っ先にヒイラギに謝罪した。戦わせて申し訳ないと。あのときと同じ――真っ先に自身を責め、ゆえに余計に苦しんでいる。思わせぶりな行動をした越水が悪いと怒りを覚えてもいい立場なのに、その怒りはすべてミズキ本人に向かっている。
ヒイラギは知らない。越水とミズキの間にどんな言葉があり、どんな積み重ねがあったのかなど、知る由もない。ただヒイラギが把握しているのは、思いが実らず苦悶に揺れるミズキのことだけ。ヒイラギは鼻のあたりがつんとするのを感じながら立ち上がった。ミズキの隣、ベッドの縁に腰掛ける。寝転んだミズキに視線を落とすと、透明な真珠が目元に浮かんでいた。ミズキはヒイラギと目が合うと、乱暴に目元を拭った。雫が消え去っても赤らんだ目元はそのままで痛々しい。
「……天宮さん」
ヒイラギはベッドに腰掛けたまま上半身を捻り、ミズキの顔の真上に自らの顔を合わせた。ミズキの顔の横に手をつく。自分の形の影に染まっているミズキを見ると、ほんの少し彼女に近付けたような気がする。
「僕を選んでください」
愛しい人に囁く。声は微かに震えながらも切なく響いた。ミズキはぽかんと間抜けな顔をして、
「……ええと、どういうことですか?」
見つめ返してくる。男女が二人、その気になれば口付けも抱擁もできる体勢と距離。今すぐ奪いたい唇を前にヒイラギは衝動を抑えながら、何とか言葉を紡ぐ。
「あなたのことを好きになってくれない人なんて、もういいじゃないですか。天宮さんが泣く必要なんてないんです。僕なら、あなたを悲しませたりしません」
ヒイラギを占めるのは、天宮ミズキという女性に笑っていてほしいという願い。そして彼女を笑顔にできるのが百合川ヒイラギなら、もっと嬉しい。……あの肩書きと体格が立派な男はミズキの思いに応えることなく、あまつさえ泣かせた。誰かに告白する権利があるように、断る権利もあることは重々わかっている。しかし目の前で涙を隠そうとするミズキを見ていると、そんな冷静な考えは吹き飛ばされてしまう。
「ねえ、天宮さん。僕はあなたが好きです。僕を、選んでください」
ヒイラギの言いたいことは十二分に伝わったらしく、ミズキは顔全体を赤らめ驚愕に固まっている。え、あ、と言葉にならない困惑の声がミズキの唇から漏れている。天宮さんってこんな顔するんだ。ベテルではあんなに理知的で綺麗なのに。今は子供みたいな顔をしている。とても、とても可愛い。
「……百合川君の気持ちは、わかりました。ありがとうございます」
ミズキの視線はゆらゆらと波を描くように揺れ、ヒイラギを見つめたりヒイラギから逸れたりする。落ち着きのない彼女は珍しい。
「返事が必要だと思いますけど……すぐにはできません。……ごめんなさい」
今すぐヒイラギに甘えて都合のいい慰めを享受してもおかしくないのに、やっぱり彼女は真面目な人だった。ヒイラギはふふ、と笑みを零した。
「謝らないでください。天宮さんならそう言うだろうと思ってました。大丈夫です。ちゃんと待ちます。よく考えて、それで僕を選んでくれたら……とっても嬉しいです」
小首を傾げてミズキに微笑みかけると、ミズキは困惑しながらも微笑み返してくれた。ようやく笑ってくれた。無理の少ない彼女本来の優しい笑顔を見ることができ、ヒイラギの心に柔らかな灯がともる。それだけでもよかった。あなたが笑ってくれて嬉しいとでも言って大人しく帰れば、さぞ紳士だろう。だが今の状況ならもう一歩踏み出してもいい気がした。
「天宮さん。明日お仕事はお休みですか?」
「え?はい……休みですよ」
「明日、僕とデートしませんか」
「え」
再びミズキが凍りついて動かなくなった。予想外のことを言われたときのミズキはわかりやすい。大人の女性にある弱いところをくすぐったような気がして、ヒイラギは優越感を覚えていた。
「天宮さんが一人になりたいっていうなら無理強いはしません。でも辛いことがあった次の日ですよ?誰かと一緒にいた方が気が紛れませんか?それに天宮さんが僕を選ぶか考えるときの検討材料にもなると思います。どうですか?悪い提案じゃないと思うんですけど」
あまりにも素晴らしい提案を口にする際は早口になる。ヒイラギは人生で最も滑らかに言葉を発した。この機を逃したくない。
「……百合川君」
「はい」
「行きたいところがあるんです。……明日、ついてきてください」
「はい!」
ミズキが明日のお供にヒイラギを選んでくれた。それだけでヒイラギは心躍り、歓喜する。少しでも頼られたら、対等な人間として見られたら、たとえミズキの特別な存在にはなれなくともいい――そう思ってしまいそうになった。
「天宮さん」
ヒイラギはミズキから離れ、ベッドから立ち上がった。スマートフォンを取り出す。
「僕の連絡先、入れておきます。スマホ、貸してください」
ミズキもつられて起き上がり、スマートフォンを差し出した。ミズキのメッセージアプリにIDを送っておく。ヒイラギのスマートフォンにミズキのIDを送る真似はしない。……彼女に連絡できる状態になったら、学生寮に帰った瞬間鬱陶しい頻度で連絡してしまいそうだから。ミズキにスマートフォンを返したとき、微かに指と指が触れた。ほんの一瞬感じたミズキの柔らかな感触に心臓が跳ねた。反射的に手を握りしめそうになった。
「また明日、連絡してください。飛んでいきますから」
本当はこの部屋で夜を過ごしたいが、さすがにそこまで言える関係性ではないだろう。ミズキから乞われれば別だが、彼女がそんなことを言うとは思えない。今ヒイラギを見つめているミズキが少し寂しそうに見えるのは、きっと気のせいだ。
「今日は帰ります。天宮さん、おやすみなさい。また明日」
「おやすみなさい……気をつけて帰ってくださいね」
手を振るミズキに背を向けるのが、この上なく惜しかった。もっと視界に入れていたいが今夜は帰る。その代わり、明日の連絡を待つのだ。
夜の東京は好きだ。ざわざわした音の中を通り抜けて、キラキラ輝く人工的な明るさと透き通るような夜空の美しさを楽しめるから。百合川ヒイラギは人が行き交う眠らない都市、東京をあてもなく歩いていた。明日は学園が休み。縄印学園は全寮制で門限もあるが、外泊届を出しさえすれば門限を過ぎて帰っても誰も何も言わない。遠慮なく外泊届を出し、ヒイラギは夜の街を歩いた。歩くといってもあまり遠くまで足を伸ばすのは疲れるから、品川駅のあたりを適当にぶらついている。今夜は新月のようで月は見えない。代わりにどこまでも深い晴れた濃紺の夜空が広がっている。
――天宮さんに見つかったら高校生が夜遊びして、って言われるかなあ。
正直なところ、運よく天宮ミズキと会えたりしないかなんて思っていた。彼女はベテル日本支部に勤務しており、最寄り駅は品川。最近アオガミの分析で遅くまで残っていることが多いみたいだから、幸運の女神が微笑みかけてくれないかと期待はしていた。しかしそこはやはり東京、人が多すぎる。こうして立ち止まっていても周囲を歩き過ぎていく通行人は数えきれない。この中に仮にミズキがいたとしても、見逃してしまうだろう。うーん、やっぱりなかなか幸運って訪れないものだよね。
ふうとため息をつき、ヒイラギは品川駅のコンビニに歩いていく。品川駅まで歩いてきたら、ほぼ必ずこのコンビニに立ち寄っていた。特に何があるわけでもないが、雑誌を立ち読みしてもいいし何かお菓子を買ってもいいし、コンビニには何でもある。とりあえず立ち寄るにはちょうどいい場所だった。今夜もいつもどおり、特に意識することなくコンビニに入っていく。さて今日はどうしようか。雑誌の棚を見たが興味は惹かれず通路に視線を移した瞬間、女性が一人歩いていく後ろ姿が見えた。
「天宮さん」
すぐに誰かわかった。研究室ではないから白衣を着ていないしネームプレートもないが、それでも瞬時に理解した。たった一目でも見たくて会いたくて堪らない女性の姿。
「……百合川君?」
振り返った彼女は酷い有様だった。目は腫れぼったく、化粧をした頬に何か液体が垂れた跡が残っている。マスカラと思しき黒っぽい色が目の周りに滲み、くたびれた陰気な空気を漂わせている。彼女は自らの状態を把握はしているのか、ヒイラギを一瞬見た後気まずそうに目を逸らした。あまり見てほしくないと言わんばかりの仕草に、ヒイラギは言葉を失った。ミズキに会えて弾んだ心が一瞬で急降下していくが、ヒイラギは迷いなく彼女との距離を詰めた。
「天宮さん。……どうしたんですか」
「…………」
以前の彼女なら高校生がこんな時間に、とでも返してきそうなものだが、返事は沈黙。俯かれてしまい彼女の顔が見えなくなる。
「天宮さん。何があったのかは知りません。でも、僕でよければ話を聞きます」
「……私は大人ですから……あなたに頼るのは……」
こんな状態でも子供だと暗に言われてしまい一瞬心に亀裂が走るが、勝手に口が動いた。
「今の天宮さん、放っておける感じじゃないです。お願いします。僕を頼ってください」
二人の間の言葉が途切れた。その間にもコンビニの喧騒は止まらず、かえって二人を包む沈黙が際立つ。
「…………百合川君」
「はい」
「門限は大丈夫ですか?」
「外泊届出してます」
「そう、ですか……」
ミズキは深い、海の底まで沈みそうなため息をつき、一瞬天井に目を向けるとヒイラギを見た。少しだけ笑っている。力のない弱々しい笑顔ではあるが。
「……わかりました。少しだけ、頼らせてください」
その言葉に涙が出そうになるほど喜んだ。気がつくとミズキはコンビニで何かを買っていて、ごく普通にヒイラギについてくるように言った。どこに行くのだろうと不思議に思っていたらマンションの一室の前。……え?
「あの、ここって……」
「私の部屋です。……ごめんなさい、散らかってますけど」
「え、え?あの、いいんですか?」
慌てるヒイラギに、ドアを開けようとする姿勢のままミズキは振り返った。
「いいですよ。他にいい場所が思いつかなかったですし」
こともなげに彼女は言い、ヒイラギは絶句した。彼女は男子高校生を自室に招き入れるような人間にはとても見えない。やや投げやりに聞こえるミズキの口調も手伝い、やはり今の彼女は普通ではないと実感する。ドアを開け彼女が入っていく。ヒイラギは閉まったドアを凝視し、大きく息を吐いた。この状況を役得と思える小狡さを持ち合わせていないヒイラギは、ただただ緊張していた。ここはごく普通のマンションだがドアの先は思い人の部屋。ヒイラギは緊張感をもってドアを開いた。
「お邪魔します」
靴を綺麗に脱ぎ、一歩足を踏み入れる。一人暮らしの人間に最適なワンルーム。学生寮もワンルームだが、それより広くゆとりがある。彼女は散らかっていると言っていたがとんでもない、むしろ片付いた綺麗な部屋だ。小さなベッドにローテーブル、彼女が使っているだろうクッション。ミズキらしいシンプルな部屋だ。
「百合川君、好きに座ってくださいね」
当のミズキはコンビニの袋をテーブルに放り出し、ベッドに仰向けに寝転んでいた。疲れきって倒れ込んだといった様相で、その姿をヒイラギに見られているが特に気にした様子はない。ヒイラギに構う余裕がないといったところだろうか。いくら彼女が心配だったとはいえ、無理を言ったかもしれない。ヒイラギは気まずい思いとともに少し後悔した。
所在なく立ち尽くしていたが、ベッドに寝転んでため息をつく彼女を立って見下ろすのも気分が良くない。座れそうな場所はクッションしかなく、ヒイラギはベッドの方に体を向けクッションの上に座った。自然と正座で彼女を見つめていた。ヒイラギの視線に気付き、天井をぼんやりと見つめていたミズキは半身を起こし、ベッドの縁に腰掛けた。見るからに気怠そうな動作に、
「天宮さん、体調が悪そうですし、寝たままでも」
「いえ、あなたが座っているのに私が寝ているわけにはいきません」
気遣ったものの、ミズキはゆるゆると首を振って微笑んだ。無理をしていることが手に取るようにわかる。逆に心配になる笑顔だった。
「あ、あの……」
「あ、ごめんなさい……私、酷い顔してますね……ちょっとお化粧落としてきます。百合川君、待っていてください」
恥ずかしそうに顔を背け、ミズキは立ち上がった。ふらふらと洗面台の方に歩いていく。大丈夫だろうか。ヒイラギは腰を浮かせて彼女を見送ったが、化粧を落とす様子など見られたくないだろうし、結局はまた座り込んだ。ヒイラギは正座して縮こまり、ぎゅっと拳を握りしめた。一体自分は何をしているのだろう。ただミズキに気を遣わせているだけのような気がする。彼女の役に立ちたいのに。
しばらく座っていると、ミズキがマグカップをひとつ持ってやって来た。ふわりと湯気が漂い、紅茶の落ち着いた香りがする。
「ごめんなさい、紅茶しかなくて」
「え、あ、僕は……」
「せっかく来てもらったんですから、お茶くらい飲んでいってください」
言いながらミズキはローテーブルにマグカップを置き、再びベッドの縁に座った。化粧を落としたミズキは綺麗だった。本来なら思い人の素顔を見て喜ぶところだが、どこかやつれた心身の不調を感じさせる顔を見ても喜びなど浮かばない。
「……あの、天宮さん」
ヒイラギは正座のままミズキを見上げた。ミズキの穏やかな視線が降ってくる。
「話してくれませんか?何かあったんでしょう」
ミズキの双眸を見つめて切り出すと、彼女の息を呑む音が聞こえた。ミズキの呼吸に合わせた体の動きが一瞬完全に止まり、ヒイラギを強張った顔で見つめている。図星だ。間違いない。
「……」
ミズキはヒイラギの視線から目を逸らし、口を噤んでいた。ヒイラギは急かすような真似はしない。真っ直ぐミズキを見つめて口を閉ざす。男女が同じ部屋にいて見つめあっているというのに、色っぽさは皆無。そこにあるのはただ気まずさだけだった。
「……百合川君。私が長官のことを好きだって、わかってるんでしたよね」
「え?……はい」
長官。ベテル日本支部長官、越水ハヤオ。研究室で彼とミズキが言葉を交わしている場面を何度か見た。ミズキの表情が彼に対してだけ明らかに違うのが、出会って日が浅いヒイラギにもはっきり理解できた。ミズキの口からはっきり越水が好き、と言われると胸が苦しくなる。ヒイラギは何とか眉を顰めるに留めた。
「振られちゃいました」
「……えっ?」
頬をかきながら言ったミズキの言葉にヒイラギは硬直した。振られる。誰が?ミズキが、越水に?
「私はただの秘書だから……。気持ちには応えられないって……」
乾いた笑いを浮かべていたミズキが徐々に言葉を失っていく。ヒイラギが黙って聞いている間にミズキの顔から笑みが消え、憂苦に歪んで暗く沈む。そしてミズキはばふ、とベッドに仰向けに倒れ込んだ。ぶらぶらと足を動かしながら、
「私の気のせいだったんですね。長官が私に優しくしてくださったのは単にお仕事お疲れ様という意味で……私個人をどうこう思っていたわけではないみたいです」
妙に明るい声音で言う。その言葉はヒイラギに向けているようで、ミズキ自身を責めているように聞こえる。医務室でのやり取りを思い出した。彼女は白い二人きりの空間で、真っ先にヒイラギに謝罪した。戦わせて申し訳ないと。あのときと同じ――真っ先に自身を責め、ゆえに余計に苦しんでいる。思わせぶりな行動をした越水が悪いと怒りを覚えてもいい立場なのに、その怒りはすべてミズキ本人に向かっている。
ヒイラギは知らない。越水とミズキの間にどんな言葉があり、どんな積み重ねがあったのかなど、知る由もない。ただヒイラギが把握しているのは、思いが実らず苦悶に揺れるミズキのことだけ。ヒイラギは鼻のあたりがつんとするのを感じながら立ち上がった。ミズキの隣、ベッドの縁に腰掛ける。寝転んだミズキに視線を落とすと、透明な真珠が目元に浮かんでいた。ミズキはヒイラギと目が合うと、乱暴に目元を拭った。雫が消え去っても赤らんだ目元はそのままで痛々しい。
「……天宮さん」
ヒイラギはベッドに腰掛けたまま上半身を捻り、ミズキの顔の真上に自らの顔を合わせた。ミズキの顔の横に手をつく。自分の形の影に染まっているミズキを見ると、ほんの少し彼女に近付けたような気がする。
「僕を選んでください」
愛しい人に囁く。声は微かに震えながらも切なく響いた。ミズキはぽかんと間抜けな顔をして、
「……ええと、どういうことですか?」
見つめ返してくる。男女が二人、その気になれば口付けも抱擁もできる体勢と距離。今すぐ奪いたい唇を前にヒイラギは衝動を抑えながら、何とか言葉を紡ぐ。
「あなたのことを好きになってくれない人なんて、もういいじゃないですか。天宮さんが泣く必要なんてないんです。僕なら、あなたを悲しませたりしません」
ヒイラギを占めるのは、天宮ミズキという女性に笑っていてほしいという願い。そして彼女を笑顔にできるのが百合川ヒイラギなら、もっと嬉しい。……あの肩書きと体格が立派な男はミズキの思いに応えることなく、あまつさえ泣かせた。誰かに告白する権利があるように、断る権利もあることは重々わかっている。しかし目の前で涙を隠そうとするミズキを見ていると、そんな冷静な考えは吹き飛ばされてしまう。
「ねえ、天宮さん。僕はあなたが好きです。僕を、選んでください」
ヒイラギの言いたいことは十二分に伝わったらしく、ミズキは顔全体を赤らめ驚愕に固まっている。え、あ、と言葉にならない困惑の声がミズキの唇から漏れている。天宮さんってこんな顔するんだ。ベテルではあんなに理知的で綺麗なのに。今は子供みたいな顔をしている。とても、とても可愛い。
「……百合川君の気持ちは、わかりました。ありがとうございます」
ミズキの視線はゆらゆらと波を描くように揺れ、ヒイラギを見つめたりヒイラギから逸れたりする。落ち着きのない彼女は珍しい。
「返事が必要だと思いますけど……すぐにはできません。……ごめんなさい」
今すぐヒイラギに甘えて都合のいい慰めを享受してもおかしくないのに、やっぱり彼女は真面目な人だった。ヒイラギはふふ、と笑みを零した。
「謝らないでください。天宮さんならそう言うだろうと思ってました。大丈夫です。ちゃんと待ちます。よく考えて、それで僕を選んでくれたら……とっても嬉しいです」
小首を傾げてミズキに微笑みかけると、ミズキは困惑しながらも微笑み返してくれた。ようやく笑ってくれた。無理の少ない彼女本来の優しい笑顔を見ることができ、ヒイラギの心に柔らかな灯がともる。それだけでもよかった。あなたが笑ってくれて嬉しいとでも言って大人しく帰れば、さぞ紳士だろう。だが今の状況ならもう一歩踏み出してもいい気がした。
「天宮さん。明日お仕事はお休みですか?」
「え?はい……休みですよ」
「明日、僕とデートしませんか」
「え」
再びミズキが凍りついて動かなくなった。予想外のことを言われたときのミズキはわかりやすい。大人の女性にある弱いところをくすぐったような気がして、ヒイラギは優越感を覚えていた。
「天宮さんが一人になりたいっていうなら無理強いはしません。でも辛いことがあった次の日ですよ?誰かと一緒にいた方が気が紛れませんか?それに天宮さんが僕を選ぶか考えるときの検討材料にもなると思います。どうですか?悪い提案じゃないと思うんですけど」
あまりにも素晴らしい提案を口にする際は早口になる。ヒイラギは人生で最も滑らかに言葉を発した。この機を逃したくない。
「……百合川君」
「はい」
「行きたいところがあるんです。……明日、ついてきてください」
「はい!」
ミズキが明日のお供にヒイラギを選んでくれた。それだけでヒイラギは心躍り、歓喜する。少しでも頼られたら、対等な人間として見られたら、たとえミズキの特別な存在にはなれなくともいい――そう思ってしまいそうになった。
「天宮さん」
ヒイラギはミズキから離れ、ベッドから立ち上がった。スマートフォンを取り出す。
「僕の連絡先、入れておきます。スマホ、貸してください」
ミズキもつられて起き上がり、スマートフォンを差し出した。ミズキのメッセージアプリにIDを送っておく。ヒイラギのスマートフォンにミズキのIDを送る真似はしない。……彼女に連絡できる状態になったら、学生寮に帰った瞬間鬱陶しい頻度で連絡してしまいそうだから。ミズキにスマートフォンを返したとき、微かに指と指が触れた。ほんの一瞬感じたミズキの柔らかな感触に心臓が跳ねた。反射的に手を握りしめそうになった。
「また明日、連絡してください。飛んでいきますから」
本当はこの部屋で夜を過ごしたいが、さすがにそこまで言える関係性ではないだろう。ミズキから乞われれば別だが、彼女がそんなことを言うとは思えない。今ヒイラギを見つめているミズキが少し寂しそうに見えるのは、きっと気のせいだ。
「今日は帰ります。天宮さん、おやすみなさい。また明日」
「おやすみなさい……気をつけて帰ってくださいね」
手を振るミズキに背を向けるのが、この上なく惜しかった。もっと視界に入れていたいが今夜は帰る。その代わり、明日の連絡を待つのだ。