月と花のはざま
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#3 月が刺さる
越水ハヤオは気が気でなかった。帰還したアオガミの分析は思いの外時間がかかり、終わりが見えない。ミズキを筆頭とする研究班は懸命に作業をしているが、合一という初めての事象からか多数の例外が生じているらしい。越水は毎日時間を見つけては分析を行う研究室に足を運んでいた。
「あ、長官!お疲れ様です!」
研究室に足を踏み入れると、真っ先にミズキが顔を上げて駆け寄ってくる。彼女はこの研究班のリーダーであり、研究室に来れば自然と彼女と言葉を交わすことになる。
「天宮君、調子はどうだ」
「はい、今日また例のない数値を観測しまして……分析事項が増えました」
アオガミの肉体面、精神面を数値化したデータの羅列。ミズキが指差すモニターには、わからぬ者には一切理解できない数字がずらりと並んでいる。越水は彼女の説明を聞きながら心のどこかで物思いに耽っていた。
――何故自分はわざわざこの研究室に足を運んでいるのだろうか。
ベテル日本支部の最高権力者である越水が直々に下したこの分析業務、その重要性は誰よりもミズキが理解しているはずだ。彼女なら、越水がわざわざここに来ずとも自ら報告しに来るだろう。多忙な越水は報告を待っていても全く支障はない。むしろその方が自然だ。なのに何故。何故一手間かけて研究室に来て、真っ先にミズキのもとに行く?神らしからぬ非効率なことをする?分析にかまけてミズキが報告に来ないかもしれないと疑っているから?それか、あるいは――……。
「長官?」
遠くで聞こえていたミズキの声が至近距離で響き、急速に現実に引き戻される。気付くと、ミズキが心配そうにこちらを見ていた。
「あの、お体の具合が悪いんですか?ぼーっとしてましたよ」
「いや、そうではないが……すまない」
「あ、はい……詳しい報告はまた後日にしますね。長官、毎日見に来てくださってありがとうございます」
ミズキは頭を下げ、にこりと笑った。おそらく越水の体調が悪いと察したのだろう、嫌味のない態度だ。彼女の笑顔を見ていると何かが綻ぶ気がする。越水本人に自覚はないが、ほんの少し口元が柔らかく動いた。
「君には苦労をかける。不明なことも多く時間はかかるだろうが、よろしく頼む」
「はい!ありがとうございます!」
労いの言葉にミズキの顔がぱっと輝く。秘書として長く時間を共にしたこともあるが、それを差し引いても彼女はわかりやすい。特に越水に誉められた際には非常にわかりやすく喜ぶ。そこまで喜ばれると声をかける甲斐もあるものだ。
分析の進捗報告を受けるという本来の目的を達成できていないにもかかわらず、越水はもう満足していた。踵を返し出口に向かうと、研究室の扉が開いた。
「……あ」
開いた扉の先に立っていたのは、百合川ヒイラギ。紺色に白百合が咲いた学ラン、不機嫌そうな翡翠の瞳が目に入る。少しばかり越水の心がざらついた。越水が研究室を訪れると、たまに彼の姿を目にする。彼の方が先に来ていてミズキと話をしているところを見たこともある。今日もここに来たのか。一応ヒイラギにも研究室を訪れる理由はある。彼はアオガミと合一しなければ戦えない身の上、いつ再び合一できる状態になるのか、アオガミの状態は良好なのか、気になるのは当然といえば当然だ。しかしだからといって、足繁く通う必要性までは感じられない。分析の進捗状況なら他の研究員でも答えられるし、毎日確認せねばならぬことでもあるまい。彼の行動は問題なく説明できるように見えるが違和感が残る。
「百合川ヒイラギか。君はここのところよく研究室に来ているな」
「……それが何か?」
ヒイラギの前に立ち塞がり尋ねると、隠そうともしない棘が刺さる言葉が返ってきた。ヒイラギが越水を見上げる視線は鋭く、翡翠の瞳には一切の容赦がない。
「アオガミのことが気にかかるのは理解する。気になることがあるならば私が聞いておく。君には学園生活があるだろう」
「僕が来たいから来ているだけです。越水さんから許可は得ていると、天宮さんから聞きましたけど?」
もはやヒイラギの眼差しは睨んでいるといって差し支えないほどの力があった。薄暗い研究室で爛々と輝く翡翠は臆することなく越水を見据えて離そうとしない。確かにミズキから話はあった。アオガミの状態が気になるから研究室に行ってもいいか、百合川ヒイラギから言われたと。許可をしたのも間違いなく越水だった。そのときはアオガミと合一するのだから気になって当然だろう、くらいの軽い推測で承諾したが、それにしてはやたらと研究室に来たがる。彼はナホビノになれることを除けばごく普通の高校生、こんな薄暗い研究室よりも興味を惹くものなど腐るほどあるはずだ。アオガミのことなどただの言い訳で、他に何か理由があると勘繰ってしまう。
「……そうだな。確かに許可はした。アオガミが気にかかるだろうと配慮してのことだ。ここに来るのは構わぬ。だが、天宮君たちは業務中だ。君にあまり時間を割いてはいられない。君の好奇心に付き合う義理もない。ゆめゆめ忘れぬことだな」
「……わかりました」
一応言葉上は納得したらしいがヒイラギの視線は訝しげで、越水の言葉どおりの行動は期待できそうにない。越水とて、気に入らない行動をとるただの高校生を力ずくでどうこうしようとは思っていない。思ってはいないが、不愉快だった。ヒイラギとすれ違う際、鋭く睨んだ。彼は越水の視線を受け流し研究室に入っていく。ミズキのもとに行こうとしている。それはわかっていたが越水自身が立ち入ることを許可し、許可を取り消す格別の理由もない現状、ヒイラギの歩みを止めることはできない。越水は無意識のうちに軽く拳を握りしめていた。
「ふー……」
天宮ミズキは薄暗い研究室で息を吐きながら大きく伸びをした。ずっと研究室にこもり地道な作業をしていたからか、肩と首が凝り固まっている。アオガミの分析を始めて早数日が経過した。すぐ終わるかもと期待していたが、見たことのないデータを次々観測してしまい、もうしばらく時間がかかることは明白だった。ミズキ以外の研究員は少し前に帰っていったが、ミズキはもう少し残ろうか悩んでいた。スマートフォンを取り出す。二十一時を少しまわっている。思っていたよりも時間が経っていた。帰る前に休憩室で休んでいこう。ミズキはしばらくぶりに立ち上がり、あくびを噛み殺しながら休憩室に向かった。
ミズキがぼんやりと考えているのは越水のこと。以前越水に好意を伝えたが、酒が入り体調も良くなかった状況だったからか、あまり真剣に受け取ってもらえなかった気がする。告白には返事があって然るべきだと思うが越水からは特に言及もなく、もうなかったことにされているも同然だった。迂闊だった。酒混じりに言うんじゃなかったと後悔している。今度こそちゃんと告白して彼の返事を聞きたかった。告白するならアオガミの分析が終わってからの方がいいだろうが、いつ終わるのだろう。そう思うと少し暗い気分になるが、仕方がない。越水がミズキを指名してきた仕事だ、手を抜くわけにはいかない。
決意も新たに自販機で冷たい缶コーヒーを買い、テーブルに座った。その瞬間、
「あ、天宮さん。いたんですね」
休憩室の入口に百合川ヒイラギが立っていた。彼はよく研究室に来ているが、休憩室で顔を合わせるのは初めてだ。この時間になっても学ランを着ている。どう考えてもベテル日本支部に用はない時間だと思うが、何故彼がここにいるのだろうか。
「百合川君?こんな時間にどうしたんですか?」
「天宮さんに会いたいなって思って。遅くまで残ってるって他の人から聞いて、休憩室の場所を教えてもらったんです」
「アオガミのことがそんなに気になるんですか?」
彼がミズキをわざわざ探してとなると、それくらいしか理由が思いつかない。もしや周辺に悪魔が現れているから戦えないと支障があるといった、切迫した事情でもあるのだろうか。もしそうなら今日はもう少し残った方がいいかもしれない。
「いえ、違うんです」
ヒイラギはかぶりを振り、ミズキと同じテーブルに座った。テーブルを挟んでミズキの斜め前、遠いとも近いとも言い難い距離にいる。
「ただあなたに会いたいだけなんです」
「……えっ?」
真っ直ぐミズキを見据えながら言われた言葉に硬直する。完全に思ってもみない言葉だった。
「アオガミのことはもちろん心配ですけど、でも……それだけじゃありません。言いましたよね、僕にもチャンスがあるって」
「え?ああ、言ってましたね」
「チャンスをものにしたいですから」
そう言ってにっこりと笑う彼は、子供のようでいて大人でもあった。率直に思いを告げる彼の真っ直ぐさに、自らの行いを反省する。やはり恋愛に小狡い手は不要だ。越水に誠意をもってこの思いを伝えなければ。
「でも僕、あなたのことが好きだからわかるんです。天宮さん、好きな人いますよね?」
「……!」
出会ってから大して時間が経っていないヒイラギに見透かされる恋心。大人が抱えるにしてはあまりに幼稚な気もするが、隠せていないのならどうしようもない。というより、彼はミズキのどこを見てそう判断したのだろう。
「図星ですね、その感じだと」
「どうしてわかったんですか?」
「わかりますよ。だって越水さんと話しているときだけ表情が違いますから」
「あ……」
相手までしっかりバレている。岡目八目とはいうがヒイラギにここまで把握されているのなら、当の越水もとっくの昔に気付いているかもしれない。越水は私情を挟まない人だろうから、気付いていてもミズキから言わない限り何の反応もなくても不思議ではないが。
「天宮さん」
ヒイラギは両肘をテーブルにつき両手を組んでその上に顎を乗せ、ねだるような甘えた、しかし強い輝きを放つ眼差しで見つめてきた。
「天宮さんが他の人を好きなのは、僕にはどうしようもありません。もし天宮さんが越水さんとお付き合いすることになったら、悔しいですけど幸せになってほしいです。でも、もし……もし、辛いことや悲しいことがあったら僕を頼ってください」
「頼る?」
「はい。話を聞くくらい、僕にだってできます」
彼は驚くほど懐の深い笑顔を浮かべてミズキを見つめている。彼は高校生。ミズキとそれなりに年が離れており、チャンスがあると言っていたのも彼が弱っていたときで、単なる気の迷いだと思っていた。ミズキが認識しているよりも彼の思いは強いのかもしれない。
「そうですか、ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。私は大人ですから」
認識を少し改めたところで、ミズキからすれば彼は庇護下に置くべき存在だ。大人が守るべき相手に寄りかかっていては世話ない。気持ちだけはありがたく受け取ることにする。
「…………はい」
長い沈黙の後、ヒイラギの相槌が返ってきた。彼は口を尖らせている。
「百合川君、そろそろ帰りませんか?高校生が夜遊びしてはいけませんよ」
立ち上がると、ヒイラギの名残惜しそうな視線が追いかけてくる。もう四捨五入すると二十二時になる。ヒイラギが通う縄印学園は全寮制、門限もあるだろう。それと知っていてなお彼をここに拘束するのは大人として問題がある。
「門限までまだ少し時間はあります」
「そうかもしれませんけど、制服着てるから高校生だってわかってしまうでしょう?補導されても文句は言えませんよ。ちゃんと帰りましょう」
補導と言われてようやく心が動いたらしく、ヒイラギは渋々といった様子で立ち上がった。休憩室から出て行く直前、彼は背中を見送るミズキに振り返った。
「さよなら、天宮さん。また明日」
「はい、また明日」
手を振って笑いかけると、ヒイラギも唇の端を少し緩めて手を振った。あの様子だと寄り道せずに帰ってくれそうだ。ミズキは一安心とばかりに息を吐き、すっかり存在を忘れていた缶コーヒーを手に取った。ぐっと一気に飲み干す。ぬるくなった甘味と苦味が一気に喉を駆け下りていく。さあ、自分も後片付けをして帰るとしよう。ミズキは小さく拳を作って自らを鼓舞した。
アオガミの分析がようやく終わった。長かった。未知のデータが多く手間と時間がかかったが、彼の身に起きた変化をようやく詳らかにすることができた。越水からもよくやったと労われ、ミズキはただただ喜んでいた。
「天宮君、ご苦労だった。予定どおり君には秘書に戻ってもらうことになるが、それでよいか?」
「はい!また秘書として長官をお支えします!」
研究室で越水にかけられた言葉には、分析により生じた苦労がすべて吹き飛ぶ威力があった。また彼のそばにいられる。そう思うと喜びで体が弾け飛びそうだった。
「今夜、時間はあるか」
「はい」
「君さえよければ、食事に行かないか。君の労苦を労いたい」
「はい!喜んでご一緒させていただきます!」
思ったとおりの展開だった。ミズキは越水に返事をしながら、脳内で狂喜乱舞していた。ついに彼に思いを伝えるときがきた。もう一度、彼を真っ直ぐ見つめて真摯に告げたい。越水とともに食事をするのは久しぶりだが、単に食事をし時間を共にする喜びだけでなく、胸に秘めたものを伝える緊張を帯びている。越水にはミズキが普段と違うように映ったらしく、
「天宮君、体調はどうだ?随分遅くまで残っていたようだが」
料亭の座敷で開口一番そう聞かれた。ヒイラギに恋心を見抜かれたことといい、前回体調が悪いことを指摘されたことといい、自分は思っていたよりも感情が表に出ているらしい。ミズキは苦笑いを漏らした。
「体調は問題ないです。大切な仕事が終わったので、気が抜けたんだと思います」
「そうか。問題がなければよいが」
淡々と箸を進めながらもミズキを気遣ってくれる優しさ、そういうところに惹かれてたまらない。やっぱり私はこの人が好きだ。上司と秘書に留まらない関係性が欲しい。越水から気遣われるたび、少し自惚れてしまう。もしかしたら彼も、ミズキほどではないにせよ私情があるのではないかと。見分けがつきづらい彼の微かな表情の変化に気付くミズキだからこそ生じる思い込みなのかもしれないが、僅かな可能性に賭けてみたい。
相変わらずこの料亭の料理は美味しい。昂るミズキの心を落ち着かせる、穏やかな味がする。そうだ、少し落ち着かなければならない。酒を飲んでいなくとも感情が昂りすぎては相手に伝えるべきことが伝わらない。食事が終わりに近付くにつれ、ミズキの心臓は鼓動の音が聞こえてきそうなほどに跳ねていた。掌がしっとり湿ってきていることを自覚する。そろそろ頃合いだろう。
「長官」
食事を終え、落ち着くための小休止の時間。空になった食器は下げられ、誰かが入ってくることはない。完全に二人だけの時間だ。ここを逃したらもう二度と言えない気がしていた。ミズキは両手を正座の上に置き、決意も新たに越水をじっと見据えた。越水が見返してくる。ミズキの様子が変わったことを察したのか、
「どうした、天宮君」
尋ねられる。どう告げるかちゃんと考えてきたのに、いざ越水の灰色の眼差しに見つめられると言葉を失う。彼に気取られないように深めに息を吸い、吐く。少し落ち着いた。大丈夫。言える。私はちゃんと伝えられる。
「私、長官が好きです」
いつぞや酒の力を借りて零した言葉とよく似た言葉をもう一度、今度は越水と向かい合って告げる。沈黙。越水の表情は揺らがない――決死の覚悟をどう受け取ったのだろうか。
「好きとはどういう意味だ?」
気まずい沈黙の後返ってきた言葉はあまりにも淡白だった。暗雲が立ち込めているのを敏感に感じ今すぐにでも逃げ出したいような気持ちになるが、一石を投じたのはミズキ自身だ。誠意ある対応をせねば。
「ひとりの男性として、長官のことが好きです」
端的に事実を伝える。越水は灰色の双眸を鋭く細めた。睨まれるまではいかないが、決して友好的な視線ではない。
「……なるほど。君の気持ちは理解した。だが、その気持ちには応えられない」
「え?」
ミズキは凍りついた。応えられない。その言葉だけが脳内で耳鳴りのように響いている。応えられない?
「君は私と男女の関係になりたいと考えている。つまりそういう理解で差し支えないか?」
「はい、そうです」
「ならばやはり君の気持ちには応えられない」
「…………」
頭から冷水をぶちまけられた気分だ。半開きの唇が震える。膝の上で握った拳が細かく痙攣している。体温が一気に失われていく。ミズキは押し黙ることしかできなかった。この冷えた空間をどうにか温める言葉など持ち合わせていない。冴えた黙を破る越水の声が響く。
「君はあくまで秘書だ。私と過ごす時間が長い故、何か勘違いさせてしまったかもしれない。もしそうであれば謝罪する」
「長官は、私のことを……どう思っているのですか?」
「有能な秘書だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「じゃあ、私に色々気を遣ってくださったのは……こうして食事に連れ出してくださるのは……」
「円滑なコミュニケーションのためだ。多忙な秘書の業務を全うする君を労う意図だったが、それが要らぬ感情を生んだのかもしれぬ」
要らぬ感情――その言葉が的確にミズキの胸に突き刺さる。ミズキはもう何も言えなかった。ただの勘違いだった。越水は確かに優しい人だが、あくまでも仕事上のことだった。全部勘違いした自分が悪い。不必要なことを告げた自分が悪い――そう罰していると泣きそうになる。これ以上越水と向き合っていられなかった。
「長官、申し訳ありませんでした。出過ぎた真似をしました。もし、もしも長官が私の秘書としての能力を買ってくださるなら、これからも秘書として置いてください。……もう、余計なことは言いませんから」
本当は越水の目を見て言わなければならないことだろうが、俯いた顔を上げることができなかった。望んだ関係にはなれずとも、越水に思いを寄せるのはきっと変わらない。せめて彼のそばにはいたかった。秘書を続けることがその言い訳になるなら、続けたい。これからはただ単に見つめるだけ、彼を支えるだけ。今までと変わらぬ上司と秘書の関係を続けるだけ。そう、言い聞かせる。
「……そうか。君の能力は素晴らしい。これからも秘書として働いてくれるのならば、私としては助かる」
「はい、秘書としてお支えします」
越水の隣にいられるならそれでいいと思った。でも、今だけは涙が出そうになる。上司の前で情けない姿を見せるわけにはいかない。ミズキは財布を取り出し、そっと食事代を差し出した。
「ごめんなさい、長官。少し用を思い出しまして……お金は置いていきます。たぶん足りると思いますから、これで払ってください。申し訳ありません、お先に失礼します」
越水が何かを言う前に立ち上がり、素早く身を翻して料亭を出た。外は東京のビル街。濃紺の夜空に月はなく、晴れ渡っているのに鮮烈な東京の夜の明かりに隠れて星も見えない。ミズキを慰めてくれる美しさは夜空に存在しない。ミズキは俯き加減にただ夜の東京を駆けた。走っていく中で、何か雫が横向きに流れていく。拭い取るより早く帰りたいと思っていたが、はたと足を止めた。コンビニが見えた。品川駅近く、どこにでもあるコンビニ。人間の気配を感じる人工的な明るさ、コンビニに吸い込まれていく仕事終わりと思しき人々を見て、そうだ酒でも飲もうと思いついた。安くて酔える酒を飲んで呑まれて今日だけでもいい、現実から逃れよう。幸いにも明日は休日、ミズキ一人酔い潰れたところで困る人間もいない。さっきの食事で酒を飲んでいなくてよかったと思いながら、目尻に浮かぶ雫を拭ってコンビニに足を踏み入れた。自動ドアをくぐり抜けて店内を見回す。酒が置いてある冷蔵の棚に向かって真っ直ぐ歩いていると、
「天宮さん」
後ろから声をかけられた。立ち止まり振り返る。
「……百合川君?」
百合川ヒイラギが、立っていた。
越水ハヤオは気が気でなかった。帰還したアオガミの分析は思いの外時間がかかり、終わりが見えない。ミズキを筆頭とする研究班は懸命に作業をしているが、合一という初めての事象からか多数の例外が生じているらしい。越水は毎日時間を見つけては分析を行う研究室に足を運んでいた。
「あ、長官!お疲れ様です!」
研究室に足を踏み入れると、真っ先にミズキが顔を上げて駆け寄ってくる。彼女はこの研究班のリーダーであり、研究室に来れば自然と彼女と言葉を交わすことになる。
「天宮君、調子はどうだ」
「はい、今日また例のない数値を観測しまして……分析事項が増えました」
アオガミの肉体面、精神面を数値化したデータの羅列。ミズキが指差すモニターには、わからぬ者には一切理解できない数字がずらりと並んでいる。越水は彼女の説明を聞きながら心のどこかで物思いに耽っていた。
――何故自分はわざわざこの研究室に足を運んでいるのだろうか。
ベテル日本支部の最高権力者である越水が直々に下したこの分析業務、その重要性は誰よりもミズキが理解しているはずだ。彼女なら、越水がわざわざここに来ずとも自ら報告しに来るだろう。多忙な越水は報告を待っていても全く支障はない。むしろその方が自然だ。なのに何故。何故一手間かけて研究室に来て、真っ先にミズキのもとに行く?神らしからぬ非効率なことをする?分析にかまけてミズキが報告に来ないかもしれないと疑っているから?それか、あるいは――……。
「長官?」
遠くで聞こえていたミズキの声が至近距離で響き、急速に現実に引き戻される。気付くと、ミズキが心配そうにこちらを見ていた。
「あの、お体の具合が悪いんですか?ぼーっとしてましたよ」
「いや、そうではないが……すまない」
「あ、はい……詳しい報告はまた後日にしますね。長官、毎日見に来てくださってありがとうございます」
ミズキは頭を下げ、にこりと笑った。おそらく越水の体調が悪いと察したのだろう、嫌味のない態度だ。彼女の笑顔を見ていると何かが綻ぶ気がする。越水本人に自覚はないが、ほんの少し口元が柔らかく動いた。
「君には苦労をかける。不明なことも多く時間はかかるだろうが、よろしく頼む」
「はい!ありがとうございます!」
労いの言葉にミズキの顔がぱっと輝く。秘書として長く時間を共にしたこともあるが、それを差し引いても彼女はわかりやすい。特に越水に誉められた際には非常にわかりやすく喜ぶ。そこまで喜ばれると声をかける甲斐もあるものだ。
分析の進捗報告を受けるという本来の目的を達成できていないにもかかわらず、越水はもう満足していた。踵を返し出口に向かうと、研究室の扉が開いた。
「……あ」
開いた扉の先に立っていたのは、百合川ヒイラギ。紺色に白百合が咲いた学ラン、不機嫌そうな翡翠の瞳が目に入る。少しばかり越水の心がざらついた。越水が研究室を訪れると、たまに彼の姿を目にする。彼の方が先に来ていてミズキと話をしているところを見たこともある。今日もここに来たのか。一応ヒイラギにも研究室を訪れる理由はある。彼はアオガミと合一しなければ戦えない身の上、いつ再び合一できる状態になるのか、アオガミの状態は良好なのか、気になるのは当然といえば当然だ。しかしだからといって、足繁く通う必要性までは感じられない。分析の進捗状況なら他の研究員でも答えられるし、毎日確認せねばならぬことでもあるまい。彼の行動は問題なく説明できるように見えるが違和感が残る。
「百合川ヒイラギか。君はここのところよく研究室に来ているな」
「……それが何か?」
ヒイラギの前に立ち塞がり尋ねると、隠そうともしない棘が刺さる言葉が返ってきた。ヒイラギが越水を見上げる視線は鋭く、翡翠の瞳には一切の容赦がない。
「アオガミのことが気にかかるのは理解する。気になることがあるならば私が聞いておく。君には学園生活があるだろう」
「僕が来たいから来ているだけです。越水さんから許可は得ていると、天宮さんから聞きましたけど?」
もはやヒイラギの眼差しは睨んでいるといって差し支えないほどの力があった。薄暗い研究室で爛々と輝く翡翠は臆することなく越水を見据えて離そうとしない。確かにミズキから話はあった。アオガミの状態が気になるから研究室に行ってもいいか、百合川ヒイラギから言われたと。許可をしたのも間違いなく越水だった。そのときはアオガミと合一するのだから気になって当然だろう、くらいの軽い推測で承諾したが、それにしてはやたらと研究室に来たがる。彼はナホビノになれることを除けばごく普通の高校生、こんな薄暗い研究室よりも興味を惹くものなど腐るほどあるはずだ。アオガミのことなどただの言い訳で、他に何か理由があると勘繰ってしまう。
「……そうだな。確かに許可はした。アオガミが気にかかるだろうと配慮してのことだ。ここに来るのは構わぬ。だが、天宮君たちは業務中だ。君にあまり時間を割いてはいられない。君の好奇心に付き合う義理もない。ゆめゆめ忘れぬことだな」
「……わかりました」
一応言葉上は納得したらしいがヒイラギの視線は訝しげで、越水の言葉どおりの行動は期待できそうにない。越水とて、気に入らない行動をとるただの高校生を力ずくでどうこうしようとは思っていない。思ってはいないが、不愉快だった。ヒイラギとすれ違う際、鋭く睨んだ。彼は越水の視線を受け流し研究室に入っていく。ミズキのもとに行こうとしている。それはわかっていたが越水自身が立ち入ることを許可し、許可を取り消す格別の理由もない現状、ヒイラギの歩みを止めることはできない。越水は無意識のうちに軽く拳を握りしめていた。
「ふー……」
天宮ミズキは薄暗い研究室で息を吐きながら大きく伸びをした。ずっと研究室にこもり地道な作業をしていたからか、肩と首が凝り固まっている。アオガミの分析を始めて早数日が経過した。すぐ終わるかもと期待していたが、見たことのないデータを次々観測してしまい、もうしばらく時間がかかることは明白だった。ミズキ以外の研究員は少し前に帰っていったが、ミズキはもう少し残ろうか悩んでいた。スマートフォンを取り出す。二十一時を少しまわっている。思っていたよりも時間が経っていた。帰る前に休憩室で休んでいこう。ミズキはしばらくぶりに立ち上がり、あくびを噛み殺しながら休憩室に向かった。
ミズキがぼんやりと考えているのは越水のこと。以前越水に好意を伝えたが、酒が入り体調も良くなかった状況だったからか、あまり真剣に受け取ってもらえなかった気がする。告白には返事があって然るべきだと思うが越水からは特に言及もなく、もうなかったことにされているも同然だった。迂闊だった。酒混じりに言うんじゃなかったと後悔している。今度こそちゃんと告白して彼の返事を聞きたかった。告白するならアオガミの分析が終わってからの方がいいだろうが、いつ終わるのだろう。そう思うと少し暗い気分になるが、仕方がない。越水がミズキを指名してきた仕事だ、手を抜くわけにはいかない。
決意も新たに自販機で冷たい缶コーヒーを買い、テーブルに座った。その瞬間、
「あ、天宮さん。いたんですね」
休憩室の入口に百合川ヒイラギが立っていた。彼はよく研究室に来ているが、休憩室で顔を合わせるのは初めてだ。この時間になっても学ランを着ている。どう考えてもベテル日本支部に用はない時間だと思うが、何故彼がここにいるのだろうか。
「百合川君?こんな時間にどうしたんですか?」
「天宮さんに会いたいなって思って。遅くまで残ってるって他の人から聞いて、休憩室の場所を教えてもらったんです」
「アオガミのことがそんなに気になるんですか?」
彼がミズキをわざわざ探してとなると、それくらいしか理由が思いつかない。もしや周辺に悪魔が現れているから戦えないと支障があるといった、切迫した事情でもあるのだろうか。もしそうなら今日はもう少し残った方がいいかもしれない。
「いえ、違うんです」
ヒイラギはかぶりを振り、ミズキと同じテーブルに座った。テーブルを挟んでミズキの斜め前、遠いとも近いとも言い難い距離にいる。
「ただあなたに会いたいだけなんです」
「……えっ?」
真っ直ぐミズキを見据えながら言われた言葉に硬直する。完全に思ってもみない言葉だった。
「アオガミのことはもちろん心配ですけど、でも……それだけじゃありません。言いましたよね、僕にもチャンスがあるって」
「え?ああ、言ってましたね」
「チャンスをものにしたいですから」
そう言ってにっこりと笑う彼は、子供のようでいて大人でもあった。率直に思いを告げる彼の真っ直ぐさに、自らの行いを反省する。やはり恋愛に小狡い手は不要だ。越水に誠意をもってこの思いを伝えなければ。
「でも僕、あなたのことが好きだからわかるんです。天宮さん、好きな人いますよね?」
「……!」
出会ってから大して時間が経っていないヒイラギに見透かされる恋心。大人が抱えるにしてはあまりに幼稚な気もするが、隠せていないのならどうしようもない。というより、彼はミズキのどこを見てそう判断したのだろう。
「図星ですね、その感じだと」
「どうしてわかったんですか?」
「わかりますよ。だって越水さんと話しているときだけ表情が違いますから」
「あ……」
相手までしっかりバレている。岡目八目とはいうがヒイラギにここまで把握されているのなら、当の越水もとっくの昔に気付いているかもしれない。越水は私情を挟まない人だろうから、気付いていてもミズキから言わない限り何の反応もなくても不思議ではないが。
「天宮さん」
ヒイラギは両肘をテーブルにつき両手を組んでその上に顎を乗せ、ねだるような甘えた、しかし強い輝きを放つ眼差しで見つめてきた。
「天宮さんが他の人を好きなのは、僕にはどうしようもありません。もし天宮さんが越水さんとお付き合いすることになったら、悔しいですけど幸せになってほしいです。でも、もし……もし、辛いことや悲しいことがあったら僕を頼ってください」
「頼る?」
「はい。話を聞くくらい、僕にだってできます」
彼は驚くほど懐の深い笑顔を浮かべてミズキを見つめている。彼は高校生。ミズキとそれなりに年が離れており、チャンスがあると言っていたのも彼が弱っていたときで、単なる気の迷いだと思っていた。ミズキが認識しているよりも彼の思いは強いのかもしれない。
「そうですか、ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ。私は大人ですから」
認識を少し改めたところで、ミズキからすれば彼は庇護下に置くべき存在だ。大人が守るべき相手に寄りかかっていては世話ない。気持ちだけはありがたく受け取ることにする。
「…………はい」
長い沈黙の後、ヒイラギの相槌が返ってきた。彼は口を尖らせている。
「百合川君、そろそろ帰りませんか?高校生が夜遊びしてはいけませんよ」
立ち上がると、ヒイラギの名残惜しそうな視線が追いかけてくる。もう四捨五入すると二十二時になる。ヒイラギが通う縄印学園は全寮制、門限もあるだろう。それと知っていてなお彼をここに拘束するのは大人として問題がある。
「門限までまだ少し時間はあります」
「そうかもしれませんけど、制服着てるから高校生だってわかってしまうでしょう?補導されても文句は言えませんよ。ちゃんと帰りましょう」
補導と言われてようやく心が動いたらしく、ヒイラギは渋々といった様子で立ち上がった。休憩室から出て行く直前、彼は背中を見送るミズキに振り返った。
「さよなら、天宮さん。また明日」
「はい、また明日」
手を振って笑いかけると、ヒイラギも唇の端を少し緩めて手を振った。あの様子だと寄り道せずに帰ってくれそうだ。ミズキは一安心とばかりに息を吐き、すっかり存在を忘れていた缶コーヒーを手に取った。ぐっと一気に飲み干す。ぬるくなった甘味と苦味が一気に喉を駆け下りていく。さあ、自分も後片付けをして帰るとしよう。ミズキは小さく拳を作って自らを鼓舞した。
アオガミの分析がようやく終わった。長かった。未知のデータが多く手間と時間がかかったが、彼の身に起きた変化をようやく詳らかにすることができた。越水からもよくやったと労われ、ミズキはただただ喜んでいた。
「天宮君、ご苦労だった。予定どおり君には秘書に戻ってもらうことになるが、それでよいか?」
「はい!また秘書として長官をお支えします!」
研究室で越水にかけられた言葉には、分析により生じた苦労がすべて吹き飛ぶ威力があった。また彼のそばにいられる。そう思うと喜びで体が弾け飛びそうだった。
「今夜、時間はあるか」
「はい」
「君さえよければ、食事に行かないか。君の労苦を労いたい」
「はい!喜んでご一緒させていただきます!」
思ったとおりの展開だった。ミズキは越水に返事をしながら、脳内で狂喜乱舞していた。ついに彼に思いを伝えるときがきた。もう一度、彼を真っ直ぐ見つめて真摯に告げたい。越水とともに食事をするのは久しぶりだが、単に食事をし時間を共にする喜びだけでなく、胸に秘めたものを伝える緊張を帯びている。越水にはミズキが普段と違うように映ったらしく、
「天宮君、体調はどうだ?随分遅くまで残っていたようだが」
料亭の座敷で開口一番そう聞かれた。ヒイラギに恋心を見抜かれたことといい、前回体調が悪いことを指摘されたことといい、自分は思っていたよりも感情が表に出ているらしい。ミズキは苦笑いを漏らした。
「体調は問題ないです。大切な仕事が終わったので、気が抜けたんだと思います」
「そうか。問題がなければよいが」
淡々と箸を進めながらもミズキを気遣ってくれる優しさ、そういうところに惹かれてたまらない。やっぱり私はこの人が好きだ。上司と秘書に留まらない関係性が欲しい。越水から気遣われるたび、少し自惚れてしまう。もしかしたら彼も、ミズキほどではないにせよ私情があるのではないかと。見分けがつきづらい彼の微かな表情の変化に気付くミズキだからこそ生じる思い込みなのかもしれないが、僅かな可能性に賭けてみたい。
相変わらずこの料亭の料理は美味しい。昂るミズキの心を落ち着かせる、穏やかな味がする。そうだ、少し落ち着かなければならない。酒を飲んでいなくとも感情が昂りすぎては相手に伝えるべきことが伝わらない。食事が終わりに近付くにつれ、ミズキの心臓は鼓動の音が聞こえてきそうなほどに跳ねていた。掌がしっとり湿ってきていることを自覚する。そろそろ頃合いだろう。
「長官」
食事を終え、落ち着くための小休止の時間。空になった食器は下げられ、誰かが入ってくることはない。完全に二人だけの時間だ。ここを逃したらもう二度と言えない気がしていた。ミズキは両手を正座の上に置き、決意も新たに越水をじっと見据えた。越水が見返してくる。ミズキの様子が変わったことを察したのか、
「どうした、天宮君」
尋ねられる。どう告げるかちゃんと考えてきたのに、いざ越水の灰色の眼差しに見つめられると言葉を失う。彼に気取られないように深めに息を吸い、吐く。少し落ち着いた。大丈夫。言える。私はちゃんと伝えられる。
「私、長官が好きです」
いつぞや酒の力を借りて零した言葉とよく似た言葉をもう一度、今度は越水と向かい合って告げる。沈黙。越水の表情は揺らがない――決死の覚悟をどう受け取ったのだろうか。
「好きとはどういう意味だ?」
気まずい沈黙の後返ってきた言葉はあまりにも淡白だった。暗雲が立ち込めているのを敏感に感じ今すぐにでも逃げ出したいような気持ちになるが、一石を投じたのはミズキ自身だ。誠意ある対応をせねば。
「ひとりの男性として、長官のことが好きです」
端的に事実を伝える。越水は灰色の双眸を鋭く細めた。睨まれるまではいかないが、決して友好的な視線ではない。
「……なるほど。君の気持ちは理解した。だが、その気持ちには応えられない」
「え?」
ミズキは凍りついた。応えられない。その言葉だけが脳内で耳鳴りのように響いている。応えられない?
「君は私と男女の関係になりたいと考えている。つまりそういう理解で差し支えないか?」
「はい、そうです」
「ならばやはり君の気持ちには応えられない」
「…………」
頭から冷水をぶちまけられた気分だ。半開きの唇が震える。膝の上で握った拳が細かく痙攣している。体温が一気に失われていく。ミズキは押し黙ることしかできなかった。この冷えた空間をどうにか温める言葉など持ち合わせていない。冴えた黙を破る越水の声が響く。
「君はあくまで秘書だ。私と過ごす時間が長い故、何か勘違いさせてしまったかもしれない。もしそうであれば謝罪する」
「長官は、私のことを……どう思っているのですか?」
「有能な秘書だ。それ以上でもそれ以下でもない」
「じゃあ、私に色々気を遣ってくださったのは……こうして食事に連れ出してくださるのは……」
「円滑なコミュニケーションのためだ。多忙な秘書の業務を全うする君を労う意図だったが、それが要らぬ感情を生んだのかもしれぬ」
要らぬ感情――その言葉が的確にミズキの胸に突き刺さる。ミズキはもう何も言えなかった。ただの勘違いだった。越水は確かに優しい人だが、あくまでも仕事上のことだった。全部勘違いした自分が悪い。不必要なことを告げた自分が悪い――そう罰していると泣きそうになる。これ以上越水と向き合っていられなかった。
「長官、申し訳ありませんでした。出過ぎた真似をしました。もし、もしも長官が私の秘書としての能力を買ってくださるなら、これからも秘書として置いてください。……もう、余計なことは言いませんから」
本当は越水の目を見て言わなければならないことだろうが、俯いた顔を上げることができなかった。望んだ関係にはなれずとも、越水に思いを寄せるのはきっと変わらない。せめて彼のそばにはいたかった。秘書を続けることがその言い訳になるなら、続けたい。これからはただ単に見つめるだけ、彼を支えるだけ。今までと変わらぬ上司と秘書の関係を続けるだけ。そう、言い聞かせる。
「……そうか。君の能力は素晴らしい。これからも秘書として働いてくれるのならば、私としては助かる」
「はい、秘書としてお支えします」
越水の隣にいられるならそれでいいと思った。でも、今だけは涙が出そうになる。上司の前で情けない姿を見せるわけにはいかない。ミズキは財布を取り出し、そっと食事代を差し出した。
「ごめんなさい、長官。少し用を思い出しまして……お金は置いていきます。たぶん足りると思いますから、これで払ってください。申し訳ありません、お先に失礼します」
越水が何かを言う前に立ち上がり、素早く身を翻して料亭を出た。外は東京のビル街。濃紺の夜空に月はなく、晴れ渡っているのに鮮烈な東京の夜の明かりに隠れて星も見えない。ミズキを慰めてくれる美しさは夜空に存在しない。ミズキは俯き加減にただ夜の東京を駆けた。走っていく中で、何か雫が横向きに流れていく。拭い取るより早く帰りたいと思っていたが、はたと足を止めた。コンビニが見えた。品川駅近く、どこにでもあるコンビニ。人間の気配を感じる人工的な明るさ、コンビニに吸い込まれていく仕事終わりと思しき人々を見て、そうだ酒でも飲もうと思いついた。安くて酔える酒を飲んで呑まれて今日だけでもいい、現実から逃れよう。幸いにも明日は休日、ミズキ一人酔い潰れたところで困る人間もいない。さっきの食事で酒を飲んでいなくてよかったと思いながら、目尻に浮かぶ雫を拭ってコンビニに足を踏み入れた。自動ドアをくぐり抜けて店内を見回す。酒が置いてある冷蔵の棚に向かって真っ直ぐ歩いていると、
「天宮さん」
後ろから声をかけられた。立ち止まり振り返る。
「……百合川君?」
百合川ヒイラギが、立っていた。