月と花のはざま
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#2 花とすれ違い(2/2)
「長官、申し訳ありません。遅くなりました」
ベテル日本支部、越水の執務室。限られた人間しか入れない場所だが、ミズキにとっては見慣れた場所だ。躊躇いのない足取りで机に座る越水の元へ急ぐ。越水は立ち上がり、灰色の眼差しを向けてきた。
「遅かったな、天宮君。メンテナンス中何かあったのか」
「いえ、メンテナンス自体は滞りなく、通常どおり終了しました。百合川君が体調が悪いと訴えまして、医務室まで付き添いに行っていました」
「百合川……アオガミと合一した少年だな」
「そうです」
言いながら、ミズキの脳裏にヒイラギの姿が浮かんだ。医務室のベッドに横になった途端、重い瞼を無理に開けて話しているように見えたが、今は眠りの中だろうか。
「百合川君、ごく普通に振る舞っているように見えましたけど、やはり疲れていたみたいで……一人だと落ち着かないからそばにいてほしいと言われまして、彼と少し話をしていました。遅くなったのは……申し訳ありません」
深く頭を下げた。つむじの辺りに越水の視線が刺さる。越水に対しては少しばかり職務放棄をしたことになるかもしれないが、ミズキは悪いことをしたとは思っていない。心の弱った人間に寄り添うことは、それなりに優先されるべき事柄だろうと思う。
「そうか。彼の様子はどうだ?問題なさそうか?」
「本当に少ししか話していませんから、何とも言えませんが……少なくとも、落ち込んだり取り乱したりといったことはないようでした。強い子ですね」
「そうか。……気の毒ではあるが彼はナホビノ、貴重な戦力だ。戦ってもらわねばならぬ」
「……そう、ですね……」
ミズキは目を伏せた。越水の口調は変わらず平坦で、灰色の瞳は無機質な光を放っている。まだ学生のヒイラギを戦わせることにミズキは胸を締め付けられるが、越水は淡々としている。ただ、彼の口から「気の毒だ」という言葉が出てきたことには安心した。越水の立場も考えると、必要以上にヒイラギに肩入れするわけにもいかないだろうから、越水の一見冷たい態度も為政者としては当然か。
「ところで、天宮君。君には新しい仕事を頼みたい」
越水は右手の人差し指を天に向けて立てると、低く落ち着いた声で言った。
「何ですか?」
「アオガミの分析だ」
「分析……ですか?」
「そうだ。アオガミはかの決戦以降、長く姿を見せていなかった。そして今回の合一……我々の知らぬ変化が起こっていても不思議ではない」
コツ、と冴えた足音を響かせて越水がミズキとの距離を詰める。その気になれば抱き合える距離に越水がいる。混じり気なしの仕事の話をしているというのに、距離の近さと自分を見下ろす灰色の瞳に胸がときめく。
「メンテナンスでは何もなかったようだが、あくまで表面的な話に過ぎぬだろう。幸い、悪魔たちも今は大人しい。本格的な戦いが始まる前に、アオガミに関するデータを蓄積しておく必要がある」
「わかりました。ですが……」
ベテル日本支部の長たる越水の命ならば、所詮ただの一研究員に過ぎないミズキは従うしかない。だが、秘書としての仕事はどうなるのだろうか。
「アオガミの分析が終わるまでは、君は秘書から外す。分析にどの程度時間と労力がかかるか未知数だからな。二足の草鞋は君に負担が大きい」
「……!」
秘書から外す、という言葉が脳天に刺さった。ミズキの能力不足によるものではないとわかってはいるが、深く刺さって抜けそうにない。アオガミの分析という大仕事を任せられ、ミズキに配慮した結果なのだから、むしろ信頼され気にかけられているくらいなのに、どうにも落ち着かない。
「早速今日から分析に取りかかってくれ。急がねばならない。悪魔たちもいつ活性化するかわからぬ」
「……はい、わかりました。拝命します。……長官、ひとつ聞いてもいいですか?」
「なんだ?」
「あの……」
胸の前で手を組み、越水を見つめた。組んだ指先が所在なく動く。
「…………」
聞きたいことは明白で言い淀むことではないのに、口から出てこない。望まぬ返事が返ってきたときのことを考えて、逡巡する。
「秘書のことであれば」
越水の言葉に、固唾を飲んだ。落ち着かなかった指先がようやく止まり、祈りの形に硬直する。
「分析が終わり次第、君には従前どおり秘書の業務に戻ってもらいたい。君がアオガミの研究に専念したいというのであれば、話は別だが」
「いえ!また秘書に戻ります!」
思わず少し身を乗り出して返答した。興奮のあまり大きな声を出してしまったが、特に越水は気にならなかったらしく、表情に変化は見られなかった。
「君のことは信頼している。力を発揮してほしい」
「はい!ありがとうございます!」
小躍りしそうになったが何とか踏みとどまり、ミズキは勢いよく一礼をした。テストでいい点を取って褒められた子供みたいだ、なんて思いながら顔を上げると、越水はほんの少しだけ、柔らかい視線を向けていた。
「では、早速分析に取りかかりますね!失礼します!」
弾む声を隠しきれないままに再度礼をして、執務室を出る。足早に廊下を歩きながら、ミズキは両手で頬を覆った。
――君のことは信頼している。
数十秒前に聞いた言葉が鮮明に脳内で谺する。あくまでも仕事上の話で、色っぽい意味など欠片もない。そう理解していても、沁みた。今夜はこの言葉を思い出すだけでよく眠れそうな気がする。いや、眠れないかもしれない。両手に触れている自らの頬は発熱している。研究室に行く前に、落ち着いた方がよさそうだ。ミズキは自販機が数台並ぶ休憩室にやって来た。簡素な椅子と小さなテーブルがいくつか並んでいるが、都合よく誰もいない。自販機で適当な缶ジュースを買い、手に取った。冷え切った缶の温度が火照りきった脳と体を冷ましていく。それで少し落ち着き、プルタブを開けながら椅子に座り、机に突っ伏すようにしながらジュースを口に含んだ。甘く透き通った味の炭酸飲料が喉を刺激する。喉をちりちりと刺してくる炭酸の刺激が、ミズキを急激に現実に戻していく。それでも脳内で、越水の低く甘い声で信頼していると告げる言葉が反響している。口元がだらしなく緩む。ああ、いけない。思い出したら変に笑ってしまうのが止められない。
ジュースを繰り返し飲みながら、白いテーブルに目を落とし、ふとヒイラギのことを思い出した。まだ医務室にいるだろうか。
「…………」
そういえば、彼から妙なことを言われた気がする。
――僕にもチャンスがあるってことじゃないですか。
彼の涼やかな声が鈴のように脳内で響いた。彼氏がいないと答えた後の言葉。どういう意味なのか理解はできるが、ミズキはふふ、と笑った。心が弱ったときに優しくされたら、少しばかりその人に心が傾くことがあったとしても、何ら不自然ではない。ヒイラギはまだ学生だから、そういった玉響の心の揺れ動きを、一生の想いではないかと勘違いしているだけなのだ。医務室にいてほしいと甘えたり、可愛いところがあるではないか。見目麗しく魔界を生き延びる芯の強さを持つヒイラギではあるが、やはり男子高校生ということだろう。ミズキはジュースの最後の一滴を飲み下し、缶をゴミ箱に捨てると立ち上がった。大きく伸びをする。医務室に少し寄っていこう。それくらいは越水も許してくれるだろう。
暗い廊下を歩き、医務室の前に立つ。扉がスライドして中に入ろうとした瞬間、誰かが立っているのが見えて慌てて立ち止まった。
「……!天宮さん」
ちょうど出ようとしたヒイラギと出くわしたらしい。彼は一瞬驚いた顔を見せたが、口元に柔らかい笑みを浮かべた。
「天宮さん、ありがとうございました。おかげでよく眠れました」
「そうですか、よかったです」
会釈する彼の黒髪が艶やかに揺れる。ミズキも微笑み、息をついた。これでひとつ懸念事項がなくなった。
「あ、そうだ、百合川君。アオガミのことなんですが」
「アオガミ?メンテナンスは終わったんですよね?」
「はい。終わったんですが、これから分析をすることになりました。しばらくアオガミとは会えなくなります。魔界にも行けませんし、学園生活を楽しんでください」
「分析ってどれくらい時間がかかるものなんですか?」
「わかりません。アオガミに何もなければすぐでしょうし、検出したことのないデータが出れば、相応に時間がかかります。数日はかかるでしょうね」
「そうですか……」
ヒイラギはミズキから一瞬目を逸らして何事か思案し、翡翠の瞳で再びミズキを見つめた。
「天宮さん。アオガミの様子、というか……その、分析の進捗は、僕も聞いても構いませんか?」
「あなたはアオガミと合一するから、気になるでしょう。一応長官に確認はしますが、構わないと思いますよ」
そう答えると、ヒイラギは顔を輝かせた。そんなに喜ぶようなことなのだろうか、と疑問に思うが、誰かが喜ぶ様子を見るのは悪いことではない。ミズキもつられて明るく笑んだ。
「ありがとうございます、天宮さん。じゃあ、また」
ヒイラギは頭を下げると、弾むような足取りで医務室から出て行った。ミズキはその背中を見送り、手を振った。ヒイラギとはこれからよく顔を合わせるのではないか、と根拠なく思った。
「長官、申し訳ありません。遅くなりました」
ベテル日本支部、越水の執務室。限られた人間しか入れない場所だが、ミズキにとっては見慣れた場所だ。躊躇いのない足取りで机に座る越水の元へ急ぐ。越水は立ち上がり、灰色の眼差しを向けてきた。
「遅かったな、天宮君。メンテナンス中何かあったのか」
「いえ、メンテナンス自体は滞りなく、通常どおり終了しました。百合川君が体調が悪いと訴えまして、医務室まで付き添いに行っていました」
「百合川……アオガミと合一した少年だな」
「そうです」
言いながら、ミズキの脳裏にヒイラギの姿が浮かんだ。医務室のベッドに横になった途端、重い瞼を無理に開けて話しているように見えたが、今は眠りの中だろうか。
「百合川君、ごく普通に振る舞っているように見えましたけど、やはり疲れていたみたいで……一人だと落ち着かないからそばにいてほしいと言われまして、彼と少し話をしていました。遅くなったのは……申し訳ありません」
深く頭を下げた。つむじの辺りに越水の視線が刺さる。越水に対しては少しばかり職務放棄をしたことになるかもしれないが、ミズキは悪いことをしたとは思っていない。心の弱った人間に寄り添うことは、それなりに優先されるべき事柄だろうと思う。
「そうか。彼の様子はどうだ?問題なさそうか?」
「本当に少ししか話していませんから、何とも言えませんが……少なくとも、落ち込んだり取り乱したりといったことはないようでした。強い子ですね」
「そうか。……気の毒ではあるが彼はナホビノ、貴重な戦力だ。戦ってもらわねばならぬ」
「……そう、ですね……」
ミズキは目を伏せた。越水の口調は変わらず平坦で、灰色の瞳は無機質な光を放っている。まだ学生のヒイラギを戦わせることにミズキは胸を締め付けられるが、越水は淡々としている。ただ、彼の口から「気の毒だ」という言葉が出てきたことには安心した。越水の立場も考えると、必要以上にヒイラギに肩入れするわけにもいかないだろうから、越水の一見冷たい態度も為政者としては当然か。
「ところで、天宮君。君には新しい仕事を頼みたい」
越水は右手の人差し指を天に向けて立てると、低く落ち着いた声で言った。
「何ですか?」
「アオガミの分析だ」
「分析……ですか?」
「そうだ。アオガミはかの決戦以降、長く姿を見せていなかった。そして今回の合一……我々の知らぬ変化が起こっていても不思議ではない」
コツ、と冴えた足音を響かせて越水がミズキとの距離を詰める。その気になれば抱き合える距離に越水がいる。混じり気なしの仕事の話をしているというのに、距離の近さと自分を見下ろす灰色の瞳に胸がときめく。
「メンテナンスでは何もなかったようだが、あくまで表面的な話に過ぎぬだろう。幸い、悪魔たちも今は大人しい。本格的な戦いが始まる前に、アオガミに関するデータを蓄積しておく必要がある」
「わかりました。ですが……」
ベテル日本支部の長たる越水の命ならば、所詮ただの一研究員に過ぎないミズキは従うしかない。だが、秘書としての仕事はどうなるのだろうか。
「アオガミの分析が終わるまでは、君は秘書から外す。分析にどの程度時間と労力がかかるか未知数だからな。二足の草鞋は君に負担が大きい」
「……!」
秘書から外す、という言葉が脳天に刺さった。ミズキの能力不足によるものではないとわかってはいるが、深く刺さって抜けそうにない。アオガミの分析という大仕事を任せられ、ミズキに配慮した結果なのだから、むしろ信頼され気にかけられているくらいなのに、どうにも落ち着かない。
「早速今日から分析に取りかかってくれ。急がねばならない。悪魔たちもいつ活性化するかわからぬ」
「……はい、わかりました。拝命します。……長官、ひとつ聞いてもいいですか?」
「なんだ?」
「あの……」
胸の前で手を組み、越水を見つめた。組んだ指先が所在なく動く。
「…………」
聞きたいことは明白で言い淀むことではないのに、口から出てこない。望まぬ返事が返ってきたときのことを考えて、逡巡する。
「秘書のことであれば」
越水の言葉に、固唾を飲んだ。落ち着かなかった指先がようやく止まり、祈りの形に硬直する。
「分析が終わり次第、君には従前どおり秘書の業務に戻ってもらいたい。君がアオガミの研究に専念したいというのであれば、話は別だが」
「いえ!また秘書に戻ります!」
思わず少し身を乗り出して返答した。興奮のあまり大きな声を出してしまったが、特に越水は気にならなかったらしく、表情に変化は見られなかった。
「君のことは信頼している。力を発揮してほしい」
「はい!ありがとうございます!」
小躍りしそうになったが何とか踏みとどまり、ミズキは勢いよく一礼をした。テストでいい点を取って褒められた子供みたいだ、なんて思いながら顔を上げると、越水はほんの少しだけ、柔らかい視線を向けていた。
「では、早速分析に取りかかりますね!失礼します!」
弾む声を隠しきれないままに再度礼をして、執務室を出る。足早に廊下を歩きながら、ミズキは両手で頬を覆った。
――君のことは信頼している。
数十秒前に聞いた言葉が鮮明に脳内で谺する。あくまでも仕事上の話で、色っぽい意味など欠片もない。そう理解していても、沁みた。今夜はこの言葉を思い出すだけでよく眠れそうな気がする。いや、眠れないかもしれない。両手に触れている自らの頬は発熱している。研究室に行く前に、落ち着いた方がよさそうだ。ミズキは自販機が数台並ぶ休憩室にやって来た。簡素な椅子と小さなテーブルがいくつか並んでいるが、都合よく誰もいない。自販機で適当な缶ジュースを買い、手に取った。冷え切った缶の温度が火照りきった脳と体を冷ましていく。それで少し落ち着き、プルタブを開けながら椅子に座り、机に突っ伏すようにしながらジュースを口に含んだ。甘く透き通った味の炭酸飲料が喉を刺激する。喉をちりちりと刺してくる炭酸の刺激が、ミズキを急激に現実に戻していく。それでも脳内で、越水の低く甘い声で信頼していると告げる言葉が反響している。口元がだらしなく緩む。ああ、いけない。思い出したら変に笑ってしまうのが止められない。
ジュースを繰り返し飲みながら、白いテーブルに目を落とし、ふとヒイラギのことを思い出した。まだ医務室にいるだろうか。
「…………」
そういえば、彼から妙なことを言われた気がする。
――僕にもチャンスがあるってことじゃないですか。
彼の涼やかな声が鈴のように脳内で響いた。彼氏がいないと答えた後の言葉。どういう意味なのか理解はできるが、ミズキはふふ、と笑った。心が弱ったときに優しくされたら、少しばかりその人に心が傾くことがあったとしても、何ら不自然ではない。ヒイラギはまだ学生だから、そういった玉響の心の揺れ動きを、一生の想いではないかと勘違いしているだけなのだ。医務室にいてほしいと甘えたり、可愛いところがあるではないか。見目麗しく魔界を生き延びる芯の強さを持つヒイラギではあるが、やはり男子高校生ということだろう。ミズキはジュースの最後の一滴を飲み下し、缶をゴミ箱に捨てると立ち上がった。大きく伸びをする。医務室に少し寄っていこう。それくらいは越水も許してくれるだろう。
暗い廊下を歩き、医務室の前に立つ。扉がスライドして中に入ろうとした瞬間、誰かが立っているのが見えて慌てて立ち止まった。
「……!天宮さん」
ちょうど出ようとしたヒイラギと出くわしたらしい。彼は一瞬驚いた顔を見せたが、口元に柔らかい笑みを浮かべた。
「天宮さん、ありがとうございました。おかげでよく眠れました」
「そうですか、よかったです」
会釈する彼の黒髪が艶やかに揺れる。ミズキも微笑み、息をついた。これでひとつ懸念事項がなくなった。
「あ、そうだ、百合川君。アオガミのことなんですが」
「アオガミ?メンテナンスは終わったんですよね?」
「はい。終わったんですが、これから分析をすることになりました。しばらくアオガミとは会えなくなります。魔界にも行けませんし、学園生活を楽しんでください」
「分析ってどれくらい時間がかかるものなんですか?」
「わかりません。アオガミに何もなければすぐでしょうし、検出したことのないデータが出れば、相応に時間がかかります。数日はかかるでしょうね」
「そうですか……」
ヒイラギはミズキから一瞬目を逸らして何事か思案し、翡翠の瞳で再びミズキを見つめた。
「天宮さん。アオガミの様子、というか……その、分析の進捗は、僕も聞いても構いませんか?」
「あなたはアオガミと合一するから、気になるでしょう。一応長官に確認はしますが、構わないと思いますよ」
そう答えると、ヒイラギは顔を輝かせた。そんなに喜ぶようなことなのだろうか、と疑問に思うが、誰かが喜ぶ様子を見るのは悪いことではない。ミズキもつられて明るく笑んだ。
「ありがとうございます、天宮さん。じゃあ、また」
ヒイラギは頭を下げると、弾むような足取りで医務室から出て行った。ミズキはその背中を見送り、手を振った。ヒイラギとはこれからよく顔を合わせるのではないか、と根拠なく思った。