月と花のはざま
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#2 花とすれ違い(1/2)
ベテル日本支部会議室。百合川ヒイラギが片膝を立てて座り込んでいる姿が、青白いモニターの光にぼんやりと照らされていた。天宮ミズキがいた研究室を離れて、どれくらい時間が経ったのだろう。同じ姿勢でずっと座っていたから、体が痛い。そろそろ立ち上がってもいい頃合いだろう。そう思って項垂れていた首を起こそうとしたとき、ふとヒイラギに人の形をした影がかかった。
「百合川君、大丈夫ですか!?」
――聞こえた声に心臓が一瞬止まった。ごくりと空気の塊を飲み込んで顔を上げると、血相を変えたミズキがいた。膝を折ってヒイラギの顔を覗き込んでくる。彼女が自分を心配してくれたと思って心が跳ねたが、会議室に一人でうずくまっている人間がいたら、十中八九体調が悪いと考えるだろう。ヒイラギだから心配したのではない、そういうシチュエーションだから心配しただけだ。そう思うとため息も出る。
「大丈夫です」
「立てますか?」
ミズキの白くなめらかな手が差し出される。青白いモニターの色に飲み込まれない、健康的な白さ。本当は自分一人で立てるが、ヒイラギは彼女の掌に自らの掌を重ねた。彼女の掌、柔らかい人肌を感じる。ミズキの体温を感じながら立ち上がったこの瞬間に、何か特別な意味があるような気がした。
「ありがとうございます、天宮さん」
「いえ、それはいいんですけど……体調が悪いのではないですか?もし辛いなら、医務室で休んでいったらどうですか?」
「……」
ヒイラギは少し言葉を飲み込んで、数秒の間に邪な計算をした。もしかしたら、とんでもない幸運を掴み取れるかもしれない。
「はい、そうします。……あの……お願いがあるんです」
「何ですか?」
「天宮さんも少しでいいので、いてくれませんか?」
そう言うと、ミズキは不思議そうに目を見開いた。
「え?私ですか?」
「はい」
ヒイラギは意識して眉根を寄せ、やや上目遣いでミズキを見つめた。
「僕、色んな話を突然聞かされて、混乱してて……誰かにそばにいてほしいんです。一人だと色々考えてしまって落ち着かないので……本当に、少しで構いません」
声のトーンを少し落とすと、ミズキは眉を顰めてヒイラギを見つめた。心配、同情、不安。そういったものを感じさせる表情の変化に、ヒイラギは内心喜んでいた。
「わかりました。医務室に行きましょう。大丈夫ですか?歩けますか?」
「はい。……ゆっくりなら」
本当は彼女の歩く速さなど追い越してしまえるが、でも。ヒイラギを慮ってゆっくり歩くミズキの斜め後ろを歩いていく。ミズキの髪が揺れる様子も、横顔も、響くヒールの音も、全部ヒイラギが独占している。本来の速度で歩いたら、それら全てを味わうことができない。少しでも、たった数秒でも、彼女と同じ空間を歩く時間を延ばしたかった。
ミズキがある部屋の前で立ち止まる。暗い廊下に半ば溶け込んでいたドアが横に滑り、医務室らしい真白が目に飛び込んでくる。ミズキの後をついて入った医務室は、縄印学園の医務室と似た真っ白い部屋だった。薬品棚に清潔なベッド、ベッドそばの簡易な仕切り。誰もいない、静かな空間だった。ベテル日本支部は全体的に暗い場所が多く、突然の白さが眩しい。
「よかった、誰もいないですね。ほら、百合川君」
ミズキに促され、ベッドに寝転がった。体調に異変はないと思っていたが、寝転ぶと途端に体が重く感じた。生きるか死ぬかの戦いの中で魔界を駆け抜けてきたことは、知らず知らずのうちにヒイラギを蝕んでいたのかもしれない。瞼が重くなってきた。目を閉じると寝てしまいそうだ。このまま眠ってしまったら、嘘を吐いてまでミズキと一緒にやって来た意味がない。
「眠そうですね、百合川君」
ベッドのそばにあるパイプ椅子にミズキは座り、穏やかな視線をヒイラギに向けている。近所の子供を見るときのような、慈愛に満ちた眼差しだ。その眼差しは嬉しいが、単純に喜べるものではない。ヒイラギは密かに唇を噛んだ。やっぱり自分が年下で学生だから、対等に見てもらえないのか。
「はい……でも、天宮さんにせっかく来てもらったから、少しお話したいです」
「わかりました」
ミズキは柔らかく笑んだ。大人の女性らしい余裕と包容力に満ちた微笑みに、ヒイラギは傾慕の吐息を漏らした。先ほど感じた苛立ちが、さらさらと砂になって溶けていく。
「ああ、そういえば、アオガミのメンテナンスのことですけど」
胸の前で手を合わせ、ミズキは言う。
「ちゃんと終わりましたから、安心してください。特におかしなところはありませんでした。アオガミも連れてきたらよかったですね」
「あ、はい。ありがとうございます」
ミズキとこうして話しているのは、アオガミのメンテナンスが切っ掛けだったことを今更思い出した。彼女が気を利かせなくてよかったと心から安堵する。
「それと、百合川君」
ミズキの声色が変わった。背筋をぴんと伸ばし、真剣な眼差しでヒイラギを見つめている。何か空気が変わったことを察し、ヒイラギは困惑しながらも押し黙った。
「ごめんなさい」
ミズキは深々と頭を下げた。もし立っている状態なら90度の礼をしていたと思われる、それくらい真摯な謝罪だった。当のヒイラギは謝られる心当たりがなく、ただただ戸惑っていた。たっぷり十数秒頭を下げていたミズキが、顔を上げる。
「あなたや敦田君、太宰君のような学生に、悪魔と戦わせることになって……」
その言葉を聞いてようやく納得する。納得はしたが、ヒイラギがアオガミと合一することになったのは偶然で、ベテル日本支部で戦うことに決めたのも、ほぼ強制ではあるもののヒイラギの意思によるものだ。ミズキがヒイラギに謝罪する謂れはどこにもない。
「天宮さんが気にすることじゃありません。越水さんから聞きました。アオガミと合一した僕に選択権はないと」
卑怯な言い方をした。誠実な彼女が自ら背負った重荷を、最高権力者に少しばかり持たせてやればいい。そう思った。嘘は言っていないし、ヒイラギに罪悪感はなかった。
「……そうですか、長官が……」
ミズキはヒイラギから目を逸らし、苦しそうに顔を歪めた。数秒目を閉じたミズキが次に目を開けたときには、苦笑いを浮かべていた。
「……たとえ長官が選択権はないと仰ったとしても、未来ある学生に悪魔と戦わせることを、完全に良しとはしていないと思います。だから……長官のこと、恨まないでください」
思っていなかった反応が返ってきた。越水をかばう言葉に、ヒイラギの心の奥がざわめく。
ヒイラギの脳内に、会議室に佇んでいた越水の姿が浮かんだ。黒いスーツに身を包み他者に威圧感を与える佇まい、黒髪に灰色の瞳の精悍な顔立ち。日本国内閣総理大臣かつベテル日本支部長官という肩書きに負けない、重厚な人物。まだ学生で細身のヒイラギとは正反対といっても差し支えない。先ほどのミズキの言葉は、ただ上司をかばっているだけには聞こえなかった。言葉の裏にほんの少し香る艶かしい感情を、ヒイラギは敏感に感じ取った。顔を顰めたヒイラギを見て、ミズキは表情を曇らせる。
「百合川君、ごめんなさい。……変な話になってしまって」
「いえ、天宮さんのせいじゃないんです。僕こそごめんなさい、変なことを言って。でも、戦うのは僕が決めたことです。だから、天宮さんのせいじゃありません。本当に気にしないでください」
白い空間に漂う重苦しい空気にヒイラギは慌てた。ミズキと話したかったが、曇った顔を見たいわけではない。この空気を何とかしたい一心で、ヒイラギは問いかける。
「天宮さん、聞きたいことがあるんです」
「何ですか?」
「彼氏はいますか?」
考えがまとまらないまま口を動かすと、単純にヒイラギが気になって仕方がない質問をぶつける形になった。完全に予想外だったらしく、ミズキはぽかんとして硬直した。
「え?彼氏、ですか?」
「はい」
怪訝な顔をされるが、一度尋ねてしまったからには明瞭な返答がほしい。ヒイラギにとっては至極重要な問いだ。もしもミズキに恋人がいたら、医務室の枕を濡らすことになるだろう。
「いませんよ?」
訝しまれながらも、返答自体はさらりと返ってきた。彼女の声が音として耳から脳に流れ、言葉の意味を理解した瞬間、脳内でヒイラギは柄にもなく狂喜乱舞した。
「よかったです」
そして無意識に、ヒイラギの唇からぽろりと本音が零れ落ちた。大きな声ではないが、二人きりの医務室、それなりに近い距離にいるミズキに聞こえないはずがない。ミズキは困ったように笑っている。ああ、彼女の顔から曇りが取れた。とても、嬉しい。
「どういう意味ですか?それは」
「嬉しいんです。だって」
ヒイラギは半身を起こし、ミズキの顔を真正面から見据えた。
「僕にもチャンスがあるってことじゃないですか」
「チャンス?」
不思議そうな顔をするミズキの瞳を、ここぞとばかりにじっと射抜くように見つめた。ヒイラギの翡翠の瞳に真剣なきらめきが宿る。目は口ほどに物を言うというが、この気持ち、彼女に届いているだろうか。
「……百合川君、大人をからかうのはほどほどにしてくださいね」
届きはしたが、言葉にこめた情熱を受け取ってもらえなかったらしい。ミズキは愛想笑いを浮かべてヒイラギの両肩にそっと手を置き、
「ほら、寝ましょう?色々あって疲れたんですよ、きっと」
ヒイラギの上半身をベッドに寝かせた。寝かせる力は優しく、彼女がヒイラギに気を配ってくれていることはよく伝わってくる。それだけに、先ほどの熱のこもった言葉が受け流されてしまったことが歯痒い。
くぐもった何かが振動する音が聞こえ、ミズキはポケットからスマートフォンを取り出した。画面を見て彼女は申し訳なさそうにヒイラギを見た。
「ごめんなさい、百合川君。もうそろそろ仕事に戻らないといけないんです」
「あ、はい……」
「医務室の扉は開けておきますから、元気になったら帰って大丈夫ですよ」
パイプ椅子から立ち上がる彼女を見つめることしかできなくて、ヒイラギは一気に心が冷えた。咄嗟にミズキに向かって手を伸ばしそうになったが、やめた。彼女が医務室まで来てくれただけでも奇跡だったのだから、これ以上を求めるのはさすがに酷というもの。
「天宮さん」
医務室を出ようとするミズキを呼び止める。髪を靡かせて振り返った彼女にやはり目を奪われる。一瞬空気が喉に詰まり、伝えるべき言葉が飲み込まれそうになった。
「ありがとうございました」
何とか伝えると、ミズキは穏やかに笑い、
「どういたしまして。百合川君、お大事にね」
優雅な仕草で手を振って、静かに去っていった。スライド式の自動ドアは数秒、ミズキがいなくなっても開いていたが、やがて閉まっていく。ミズキの足音が遠ざかっていく。ヒイラギは先ほどまでミズキが座っていたパイプ椅子に目を遣った。彼女が座っている幻影が一瞬浮かび、瞬きをした次の瞬間にはその幻すら綺麗に消えて、ただのパイプ椅子が視界に入る。
「はあ……」
息をつき、左手の甲を額に当てた。ミズキがいなくなった途端、不愉快な気怠さが全身を包んだ。吐き出した息は重く、深い。白いベッドに沈むヒイラギは人生に悩む哲学者のようにも、原因不明の病に侵された重病人のようにも見える。
今は休もう。ヒイラギは自然と目を閉じた。瞼を閉ざして生まれた暗闇の奥に、天宮ミズキが立っている。脳内で微笑むミズキに少しだけ安らぎを覚えながら、ヒイラギは徐々に意識を手放していった。
ベテル日本支部会議室。百合川ヒイラギが片膝を立てて座り込んでいる姿が、青白いモニターの光にぼんやりと照らされていた。天宮ミズキがいた研究室を離れて、どれくらい時間が経ったのだろう。同じ姿勢でずっと座っていたから、体が痛い。そろそろ立ち上がってもいい頃合いだろう。そう思って項垂れていた首を起こそうとしたとき、ふとヒイラギに人の形をした影がかかった。
「百合川君、大丈夫ですか!?」
――聞こえた声に心臓が一瞬止まった。ごくりと空気の塊を飲み込んで顔を上げると、血相を変えたミズキがいた。膝を折ってヒイラギの顔を覗き込んでくる。彼女が自分を心配してくれたと思って心が跳ねたが、会議室に一人でうずくまっている人間がいたら、十中八九体調が悪いと考えるだろう。ヒイラギだから心配したのではない、そういうシチュエーションだから心配しただけだ。そう思うとため息も出る。
「大丈夫です」
「立てますか?」
ミズキの白くなめらかな手が差し出される。青白いモニターの色に飲み込まれない、健康的な白さ。本当は自分一人で立てるが、ヒイラギは彼女の掌に自らの掌を重ねた。彼女の掌、柔らかい人肌を感じる。ミズキの体温を感じながら立ち上がったこの瞬間に、何か特別な意味があるような気がした。
「ありがとうございます、天宮さん」
「いえ、それはいいんですけど……体調が悪いのではないですか?もし辛いなら、医務室で休んでいったらどうですか?」
「……」
ヒイラギは少し言葉を飲み込んで、数秒の間に邪な計算をした。もしかしたら、とんでもない幸運を掴み取れるかもしれない。
「はい、そうします。……あの……お願いがあるんです」
「何ですか?」
「天宮さんも少しでいいので、いてくれませんか?」
そう言うと、ミズキは不思議そうに目を見開いた。
「え?私ですか?」
「はい」
ヒイラギは意識して眉根を寄せ、やや上目遣いでミズキを見つめた。
「僕、色んな話を突然聞かされて、混乱してて……誰かにそばにいてほしいんです。一人だと色々考えてしまって落ち着かないので……本当に、少しで構いません」
声のトーンを少し落とすと、ミズキは眉を顰めてヒイラギを見つめた。心配、同情、不安。そういったものを感じさせる表情の変化に、ヒイラギは内心喜んでいた。
「わかりました。医務室に行きましょう。大丈夫ですか?歩けますか?」
「はい。……ゆっくりなら」
本当は彼女の歩く速さなど追い越してしまえるが、でも。ヒイラギを慮ってゆっくり歩くミズキの斜め後ろを歩いていく。ミズキの髪が揺れる様子も、横顔も、響くヒールの音も、全部ヒイラギが独占している。本来の速度で歩いたら、それら全てを味わうことができない。少しでも、たった数秒でも、彼女と同じ空間を歩く時間を延ばしたかった。
ミズキがある部屋の前で立ち止まる。暗い廊下に半ば溶け込んでいたドアが横に滑り、医務室らしい真白が目に飛び込んでくる。ミズキの後をついて入った医務室は、縄印学園の医務室と似た真っ白い部屋だった。薬品棚に清潔なベッド、ベッドそばの簡易な仕切り。誰もいない、静かな空間だった。ベテル日本支部は全体的に暗い場所が多く、突然の白さが眩しい。
「よかった、誰もいないですね。ほら、百合川君」
ミズキに促され、ベッドに寝転がった。体調に異変はないと思っていたが、寝転ぶと途端に体が重く感じた。生きるか死ぬかの戦いの中で魔界を駆け抜けてきたことは、知らず知らずのうちにヒイラギを蝕んでいたのかもしれない。瞼が重くなってきた。目を閉じると寝てしまいそうだ。このまま眠ってしまったら、嘘を吐いてまでミズキと一緒にやって来た意味がない。
「眠そうですね、百合川君」
ベッドのそばにあるパイプ椅子にミズキは座り、穏やかな視線をヒイラギに向けている。近所の子供を見るときのような、慈愛に満ちた眼差しだ。その眼差しは嬉しいが、単純に喜べるものではない。ヒイラギは密かに唇を噛んだ。やっぱり自分が年下で学生だから、対等に見てもらえないのか。
「はい……でも、天宮さんにせっかく来てもらったから、少しお話したいです」
「わかりました」
ミズキは柔らかく笑んだ。大人の女性らしい余裕と包容力に満ちた微笑みに、ヒイラギは傾慕の吐息を漏らした。先ほど感じた苛立ちが、さらさらと砂になって溶けていく。
「ああ、そういえば、アオガミのメンテナンスのことですけど」
胸の前で手を合わせ、ミズキは言う。
「ちゃんと終わりましたから、安心してください。特におかしなところはありませんでした。アオガミも連れてきたらよかったですね」
「あ、はい。ありがとうございます」
ミズキとこうして話しているのは、アオガミのメンテナンスが切っ掛けだったことを今更思い出した。彼女が気を利かせなくてよかったと心から安堵する。
「それと、百合川君」
ミズキの声色が変わった。背筋をぴんと伸ばし、真剣な眼差しでヒイラギを見つめている。何か空気が変わったことを察し、ヒイラギは困惑しながらも押し黙った。
「ごめんなさい」
ミズキは深々と頭を下げた。もし立っている状態なら90度の礼をしていたと思われる、それくらい真摯な謝罪だった。当のヒイラギは謝られる心当たりがなく、ただただ戸惑っていた。たっぷり十数秒頭を下げていたミズキが、顔を上げる。
「あなたや敦田君、太宰君のような学生に、悪魔と戦わせることになって……」
その言葉を聞いてようやく納得する。納得はしたが、ヒイラギがアオガミと合一することになったのは偶然で、ベテル日本支部で戦うことに決めたのも、ほぼ強制ではあるもののヒイラギの意思によるものだ。ミズキがヒイラギに謝罪する謂れはどこにもない。
「天宮さんが気にすることじゃありません。越水さんから聞きました。アオガミと合一した僕に選択権はないと」
卑怯な言い方をした。誠実な彼女が自ら背負った重荷を、最高権力者に少しばかり持たせてやればいい。そう思った。嘘は言っていないし、ヒイラギに罪悪感はなかった。
「……そうですか、長官が……」
ミズキはヒイラギから目を逸らし、苦しそうに顔を歪めた。数秒目を閉じたミズキが次に目を開けたときには、苦笑いを浮かべていた。
「……たとえ長官が選択権はないと仰ったとしても、未来ある学生に悪魔と戦わせることを、完全に良しとはしていないと思います。だから……長官のこと、恨まないでください」
思っていなかった反応が返ってきた。越水をかばう言葉に、ヒイラギの心の奥がざわめく。
ヒイラギの脳内に、会議室に佇んでいた越水の姿が浮かんだ。黒いスーツに身を包み他者に威圧感を与える佇まい、黒髪に灰色の瞳の精悍な顔立ち。日本国内閣総理大臣かつベテル日本支部長官という肩書きに負けない、重厚な人物。まだ学生で細身のヒイラギとは正反対といっても差し支えない。先ほどのミズキの言葉は、ただ上司をかばっているだけには聞こえなかった。言葉の裏にほんの少し香る艶かしい感情を、ヒイラギは敏感に感じ取った。顔を顰めたヒイラギを見て、ミズキは表情を曇らせる。
「百合川君、ごめんなさい。……変な話になってしまって」
「いえ、天宮さんのせいじゃないんです。僕こそごめんなさい、変なことを言って。でも、戦うのは僕が決めたことです。だから、天宮さんのせいじゃありません。本当に気にしないでください」
白い空間に漂う重苦しい空気にヒイラギは慌てた。ミズキと話したかったが、曇った顔を見たいわけではない。この空気を何とかしたい一心で、ヒイラギは問いかける。
「天宮さん、聞きたいことがあるんです」
「何ですか?」
「彼氏はいますか?」
考えがまとまらないまま口を動かすと、単純にヒイラギが気になって仕方がない質問をぶつける形になった。完全に予想外だったらしく、ミズキはぽかんとして硬直した。
「え?彼氏、ですか?」
「はい」
怪訝な顔をされるが、一度尋ねてしまったからには明瞭な返答がほしい。ヒイラギにとっては至極重要な問いだ。もしもミズキに恋人がいたら、医務室の枕を濡らすことになるだろう。
「いませんよ?」
訝しまれながらも、返答自体はさらりと返ってきた。彼女の声が音として耳から脳に流れ、言葉の意味を理解した瞬間、脳内でヒイラギは柄にもなく狂喜乱舞した。
「よかったです」
そして無意識に、ヒイラギの唇からぽろりと本音が零れ落ちた。大きな声ではないが、二人きりの医務室、それなりに近い距離にいるミズキに聞こえないはずがない。ミズキは困ったように笑っている。ああ、彼女の顔から曇りが取れた。とても、嬉しい。
「どういう意味ですか?それは」
「嬉しいんです。だって」
ヒイラギは半身を起こし、ミズキの顔を真正面から見据えた。
「僕にもチャンスがあるってことじゃないですか」
「チャンス?」
不思議そうな顔をするミズキの瞳を、ここぞとばかりにじっと射抜くように見つめた。ヒイラギの翡翠の瞳に真剣なきらめきが宿る。目は口ほどに物を言うというが、この気持ち、彼女に届いているだろうか。
「……百合川君、大人をからかうのはほどほどにしてくださいね」
届きはしたが、言葉にこめた情熱を受け取ってもらえなかったらしい。ミズキは愛想笑いを浮かべてヒイラギの両肩にそっと手を置き、
「ほら、寝ましょう?色々あって疲れたんですよ、きっと」
ヒイラギの上半身をベッドに寝かせた。寝かせる力は優しく、彼女がヒイラギに気を配ってくれていることはよく伝わってくる。それだけに、先ほどの熱のこもった言葉が受け流されてしまったことが歯痒い。
くぐもった何かが振動する音が聞こえ、ミズキはポケットからスマートフォンを取り出した。画面を見て彼女は申し訳なさそうにヒイラギを見た。
「ごめんなさい、百合川君。もうそろそろ仕事に戻らないといけないんです」
「あ、はい……」
「医務室の扉は開けておきますから、元気になったら帰って大丈夫ですよ」
パイプ椅子から立ち上がる彼女を見つめることしかできなくて、ヒイラギは一気に心が冷えた。咄嗟にミズキに向かって手を伸ばしそうになったが、やめた。彼女が医務室まで来てくれただけでも奇跡だったのだから、これ以上を求めるのはさすがに酷というもの。
「天宮さん」
医務室を出ようとするミズキを呼び止める。髪を靡かせて振り返った彼女にやはり目を奪われる。一瞬空気が喉に詰まり、伝えるべき言葉が飲み込まれそうになった。
「ありがとうございました」
何とか伝えると、ミズキは穏やかに笑い、
「どういたしまして。百合川君、お大事にね」
優雅な仕草で手を振って、静かに去っていった。スライド式の自動ドアは数秒、ミズキがいなくなっても開いていたが、やがて閉まっていく。ミズキの足音が遠ざかっていく。ヒイラギは先ほどまでミズキが座っていたパイプ椅子に目を遣った。彼女が座っている幻影が一瞬浮かび、瞬きをした次の瞬間にはその幻すら綺麗に消えて、ただのパイプ椅子が視界に入る。
「はあ……」
息をつき、左手の甲を額に当てた。ミズキがいなくなった途端、不愉快な気怠さが全身を包んだ。吐き出した息は重く、深い。白いベッドに沈むヒイラギは人生に悩む哲学者のようにも、原因不明の病に侵された重病人のようにも見える。
今は休もう。ヒイラギは自然と目を閉じた。瞼を閉ざして生まれた暗闇の奥に、天宮ミズキが立っている。脳内で微笑むミズキに少しだけ安らぎを覚えながら、ヒイラギは徐々に意識を手放していった。