月と花のはざま
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#1 月花のかんばせ
越水ハヤオは美丈夫だ。それに異論を唱える者はいないだろう。天宮ミズキも彼の魅力に骨抜きにされている一人だった。
ミズキはベテル日本支部に所属する研究員兼越水ハヤオの秘書である。神造魔人アオガミのメンテナンスを担当していたが、当のアオガミが帰還していない現状、ほぼ越水の秘書として毎日を過ごしている。ゆえにミズキが越水と過ごす時間は長く、彼の美貌にため息をつく時間も相応に長い。
越水は多忙の身であり、その彼に付き従うミズキも必然的に忙しく日々を過ごしている。そんな中、彼は仕事が終わった後、よくミズキを食事に連れ出してくれていた。遅くまで自らの職務に付き合わせることに罪悪感でもあるのだろうか、越水が7割ほど払ってくれている。一度完全な割り勘を提案したこともあるが、これは君に対する労いだから、と越水が7割支払うことで落ち着いた。正直いえば申し訳ない気持ちもあるが、越水と食事に行けるだけでも僥倖なのだから、ミズキはそれでよかった。
今夜も越水と食事に出かけていた。ミズキ一人では到底行きつかない、落ち着いた料亭。優雅に食事をする越水を向かい合って見つめていると、料理の味がよくわからなくなる。美味しいのだが、舌に広がる繊細な刺激よりも、見慣れているはずの、向かい側にいる越水の美しい佇まいに脳髄が痺れる。
「どうした、天宮君。疲れているのか」
箸を止め、越水の切れ長の瞳がミズキを見据えてくる。その眼差しは冷たく見えるが、ほんの少し柔らかいものを向けてくれていることを、ミズキは知っている。長く彼を観察しているミズキだからこそわかる、表情の変化が見えづらい彼の些細な機微だった。
「……?疲れているように見えますか?」
「箸の進みが遅いように見える。声にも覇気がない」
「そうですか?ありがとうございます、心配してくださって」
見た目にまで気を配った繊細な料理、それに合わせる酒も当然ながら美味。ミズキはちびちびと酒を啜るように口にしながら、軽く会釈した。ベテル日本支部の長官、つまりは職場の最高権力者に配慮されるなど、これ以上ない誉である。
当たり障りのない雑談を交わしながらつつがなく食事は終わり、取り決めどおりの支払を済ませて外に出る。東京の冴えた夜気に身を晒した瞬間、眩暈がした。ふらふらと不安定なミズキは、何か硬い、だがあたたかい壁にぶつかった。顔を上げると越水の体にしなだれかかる格好になっていて、あまりの無礼に背筋が凍った。
「申し訳ありません、長官!」
そう言って彼の胸から離れるが、やはり頭が揺れて立っていられない。よろめくミズキの肩を越水の手が掴み、ぐいと抱き寄せられる。
「無理をするな」
「あ……でも……」
秘書として彼を支える立場のミズキが、越水に支えられては世話がない。もう一度彼から離れようと試みるも、ミズキの肩を抱く力が弱まる気配はない。越水のやや厳しい視線がミズキを見つめていた。
「今日は送っていく」
その言葉は文字どおり捉えれば、ミズキの家に送り届けるという意味だろう。当然の発想だが、満足できる提案ではなかった。もしも少し甘えることができるなら。
「私、長官の家がいいです」
今なら酒で判断力が鈍っているからとか、体調が悪くて誰かにいてほしいからとか、それなりに納得できる理由がある気がする。ミズキは越水に詰め寄りはっきりと口にした。越水の目が見開く。驚いている。あの冷静沈着な越水ハヤオが。
「自宅の方が心置きなく休めると思うが?」
「長官と一緒にいたいです……」
頭の中に浮かんでいたそれらしい理由が吹き飛んで、これ以上ないほど直接的な懇願が滑り落ちた。越水の瞳に見つめられると、小賢しい小細工が通用しない気がして、あまりにも飾らない言葉になってしまった。口にしてから沈黙が場を支配し、ミズキは唇を噛み締めた。少しも躊躇しなかったわけではないが、黙って見つめ合っていると口にした後悔が滲んでくる。
「……その様子だと、意地でも自宅に帰りそうにないな」
「はい。わかっていただけて大変嬉しいです」
「……仕方ない。私の家に連れていく」
ため息をつきながら言った越水の言葉は、福音に等しかった。我を通したことに後ろめたさを覚えても、それを遥かに凌駕する喜びがあった。彼ともう少し一緒にいたいという些細な、だが重大な望みが叶うなど思いもしなかった。
そして越水の呼んだタクシーに乗り、二人は越水の自宅に辿り着く。タクシーの車内で隣り合って座っていたときは、気が気でなかった。越水と何か二言三言交わした気がするが、もはや何を話したのか覚えていない。
タクシーから降りる際、さも当然のように越水に手を取られ、どぎまぎして硬直した。越水に視線を遣ると、彼は普段どおりの平坦な口調で、
「ふらついていた。もし転びでもすれば大事だ」
「あ、はい……ありがとうございます……」
事実、越水の手を取らなければよろめいていただろうから、至極的確な判断だった。優雅でスマートな所作、越水の大きな掌に握られた手。冷静でいろという方が難しい。急激に早鐘を打つ心臓を宥めるので手一杯だった。
「失礼します……」
促されるままに家に入る。ミズキの部屋とは比べ物にならない広く小洒落た空間を目の当たりにし、思っていたとおりの家だなあと感心した。広々としたリビングダイニング、そこに置かれた黒いソファーに二人で座る。越水とは握り拳ふたつ分くらい距離を空けて座っている。もう少し近寄ってもいいだろうか。そう思いながら、拳ひとつ分の距離を詰めて座る。越水は静かに視線を寄越してくるが、特に何も言わなかった。承諾されたものとしてそのまま座っていると、少し気持ち悪くなってきた。
「天宮君、大丈夫か」
「長官……」
越水の押しつけがましくない優しさに、甘えてしまいたくなる。無理を言って彼の自宅に連れてきてもらった手前、これ以上要望を伝えるのは心苦しい。そう思いながら床の一点を見つめていると、越水の手がミズキの肩に伸びた。そのまま優しく抱かれ、自然とミズキの頭が越水の肩に寄りかかる。驚いて彼を見遣ると、
「寄りかかるといい」
低く落ち着いた声で言われ、ミズキの頬が紅潮した。
「はい……ありがとうございます」
顔が熱い。いや顔だけでなく、全身が熱い。彼に肩を抱かれて寄り添うように座っているこの状況、心臓がどうにかなってしまいそうだ。妙に体が強張ってしまう。何とかこの珍妙な肉体の不自然さを誤魔化したくて、ミズキは口を開いた。
「あの、私、そんなにわかりやすいですか?」
「わかりやすい、とは?」
「いえ、その……私が何を考えているかとか、体調とか……全部、わかってらっしゃるような気がして」
もしも。もしも、越水がミズキの奥底に仕舞いこんでいる感情さえも読み取れる人間なら。ミズキの胸を焦がす想いまでも、わかってしまう男性なら。そんな戯言まで脳裏によぎり、少しだけ切なくなった。
「無論、全てがわかるなどありはしないが……君の様子を見ていれば、ある程度は読み取れる」
「私の様子?」
「秘書の様子がある程度わかるのは当然だろう」
「はい……そうですね」
その言葉に肩を落とす自分がいた。ミズキが越水の秘書を務めてそれなりに時間が経過している、ミズキは越水の細かな変化には聡い自信がある。越水もミズキに関しては同様なのだろう。それは容易に理解ができる。理解できるが、あくまでも「上司と秘書」の関係の域を出ない話であることに、もどかしさを覚えている。
「あの……長官……」
今更ながら、酒がぐるぐると回っているような気がする。酒が染み込み鈍った頭の中に、伝えたい想いが滲み出る。普段は越水を見つめる視線にしか現れない、慎ましいながらも熱を持つ感情。見つめているだけでいいなんて、やっぱり嘘だった。こんなに近くに越水がいたら、酒の勢いを借りてでも言いたいことがある。
「私……長官のこと、好きです……」
甘く潤んだ瞳で越水を見上げた。時間が止まる。越水がミズキの言葉を吟味し噛み締める沈黙が流れる。越水はしばらくミズキを黙して見つめた後、
「……今日の君は少しばかり不安定になっているのではないか?」
些か困惑が混じった声で呟いた。この返答は、どう解釈したらよいのだろう。酒に惑わされるミズキの頭では、100万年考えたところで答えが出そうになかった。眩暈がする。視界がぼやける。何も考えられない。
「長官……すみません、あの……横になってもいいですか?」
越水の言葉の意味を考える余裕もなく、疲労が押し寄せてきた。しかしどこかで、口にするのも憚られる邪悪な欲も湧き上がる。
「ベッドがいいか?」
「え……いいんですか?」
「構わない。女性をソファーに寝かせるほど悪趣味ではないからな」
再び優雅に手を取られ、寝室に導かれる。キングサイズのふかふかのベッドがあった。綺麗にベッドメイクされており、入浴も着替えもしていない状態で寝転ぶのを躊躇う理性もあったが、倒れこみたい衝動の方が勝った。しかしさすがに無遠慮に飛び込む真似はせず、丁寧に一度座ってから横になった。越水は寝転がるミズキを見下ろしていた。灰色の双眸にほんの少しの心配が見え隠れしている。
「眠りたいならそのまま眠るといい。私は別の部屋で寝る」
「あ……すみません、長官。寝床、奪ってしまって……」
「気にするな。体調が優れない者が優先だ」
体調が優れない、と聞いて胸がちくりと痛んだ。体調が良くないのは事実だが、寝室に行けばもしかしたらそういう関係になったりしないか、とほんの一瞬頭をよぎった。だが彼は真摯にミズキを案じ気遣ってくれて、己とのあまりの落差に涙が出そうになる。そして同時に、彼の誠実さに胸が高鳴るのが止められない。
「ありがとうございます」
今は、越水の優しさに浸っておこう。そう思うと、自然と笑みが零れた。越水は表情を変えないままではあるが、頷いてくれた。
今日はミズキの気分が優れないようだ。いつからその兆候があったのか正確にはわからないが、少なくとも食事が進むにつれ顔色が悪くなっていったのは見て取れた。今夜は彼女を食事に誘うべきではなかったのかもしれない。そう悔やみながら、越水は自宅のベッドで眠っているミズキを見下ろしていた。
彼女の方から越水の家に行きたいなどと、妙な提案があった。一人では真っ直ぐ歩けずふらついていた彼女だったが、越水と一緒にいたいと告げる瞳は真剣だった。その力強さに根負けして、ミズキを連れてきた次第である。そして今、彼女は越水のベッドで眠りについている。穏やかな寝息を立てており、安心しきっているように見える。初めて訪れる男性の家で、そんなに心を預けられるものだろうか。
「好き……か」
ミズキは確かに越水のことが好きだと言った。人間がわざわざ他者に好意を告げるとき、そこに大なり小なり特別な意味合いが込められていることは、これまでの長い経験で知っている。彼女の言う「好き」がどのような意味を含んでいるものなのか、言われるまでもなく理解していた。
越水は永遠の命を持つ神、彼女はごく普通の人間。両者の間には越えられない壁がある。越水は何度か女性に言い寄られたことがあるが、一度たりとも靡いたことはなかった。神たる己が人間の一時の感情に付き合ってやる義理はなく、恋愛感情が面倒な事態を引き起こすことは神々の間でもよくあることだ。後々大きな火事を起こす可能性のある火種を自ら手にするほど越水は愚かではなかったし、越水の理性を突き崩すような存在が現れることもなかった。
ゆえにミズキが越水を好きだと言ってくるのも、一笑に付すものだった。くだらない。彼女はそれなりの期間、越水の秘書として務めてくれている存在ではあるが、それ以上でもそれ以下でもない。越水が彼女に気を回すのも、彼女がいないと仕事に支障をきたすから。それだけだった。――本当にそれだけだろうか。それだけなら、自宅に連れてくるだろうか。ほんの少し脳裏を掠めた疑問には、首を突っ込まないことにした。
翌朝。ソファーで就寝した越水はごく自然に目を覚まし、一瞬ミズキが同じ家にいることを完全に忘れていた。何故ソファーで寝ていたのか思いを巡らせて初めて思い出した。今越水の寝室には、ミズキがいるはずだ。昨晩の彼女の顔色を思い返し、様子を見るべきだという結論に至る。越水は寝室のドアをノックした。返事はない。おそらくまだ眠っているのだろうと解釈し、扉を開けた。何回も、それこそ何千回も開けたドアだが、今回ばかりは緊張感を持ってノブを回した。
開いた扉の先、見慣れた寝室。ベッドの中央が人の形に盛り上がっている。近寄って見下ろすと、ミズキが眠っていた。通常であれば越水が見ることはまずない、無防備な寝顔。規則的に聞こえてくる寝息といい、よく眠れているようだ。ほっと胸を撫で下ろし、壁の時計を見た。今日はごく普通に、職務を全うせねばならない日だ。それはミズキも同じで、彼女もベテル日本支部に出勤する必要があるが、もうこのままにしておくことに決めた。もし彼女が欠勤したとしても、事後申請の有給休暇を認めようとさえ思った。彼女が目を覚ます前に着替えを済まそうと思い、クローゼットに視線を動かした瞬間、
「ん……んん……」
ミズキが寝返りを打ち、声を上げた。単なる生理的な呻き声かと思ったが、うっすら目を開けている。
「ん……?」
何度か瞬きをして怪訝な顔をするミズキを見下ろし、
「おはよう。天宮君」
「おはようございます……?」
挨拶をすると律儀に挨拶が返ってくる。ぼんやりとした、何故越水が自分を見下ろしているのか把握しかねている顔をしていたミズキだったが、数秒後目を見開き、
「ああああああの、長官っ!?」
寝室を切り裂く素っ頓狂な声を上げた。がばっと勢いよく身を起こし、混乱した顔できょろきょろと寝室を見回している。そしてミズキの顔が真っ赤に染まった。見ている分には滑稽だが、当のミズキは心慌意乱の様相だった。
「なんだ、天宮君」
「申し訳ありません!昨日私がわがままを言ったせいで、長官の家にお邪魔して、ベッドにまで……!!」
「案ずる必要はない。私がいいと思ったから君を連れてきた。それより、体調はどうだ」
「え?ええと……だいぶよくなりました」
「そうか。出勤できそうか?」
「出勤……でき、ます」
少し考えた後頷いたミズキは、昨晩よりもずいぶん顔色がよくなっていた。越水の見慣れた彼女に戻ったことを確信する。そして二人はそれぞれ身支度を整えて、越水の運転する車でベテル日本支部に出勤した。車中での彼女は気まずいのか一言も話さなかったが、越水も特に追及しなかった。
今日はいつもどおりの日常とはならなかった。ベテル日本支部が総力を上げて生み出した神造魔人アオガミが、縄印学園の生徒を伴って魔界より帰還した。ベテル日本支部は騒然とし、滅多なことでは表情が動かない越水でさえ、眉根が動いた。失われたとばかり思われていたアオガミが戻ってくるなど、越水も想像がつかなかったことだ。何か事態が大きく動こうとしている。越水はミズキにアオガミのメンテナンスを命じ、アオガミとともに魔界から生還した少年――百合川ヒイラギと相見えた。
不規則に揺れる艶やかな黒髪、白百合が咲く縄印学園の制服。大きな瞳と長い睫毛は女性的な美しさを纏っているが、彼のその瞳は、初対面の神である越水を真正面から射抜いてきた。アオガミと合一したという彼。見た目はごく普通の人間だが、少しばかり匂いが違う気がした。百合川ヒイラギが越水の何かを突き崩すきっかけになると、越水は本能的に感じていた。
「アオガミがまさか帰ってくるなんて……」
久しぶりに足を踏み入れた研究室、たった一人でミズキはぽつりと呟いた。すっかり忘れていたが、ミズキは元々アオガミのメンテナンスを担当していた身である。アオガミをメンテナンスポッドに入れて、滞りなく始まるメンテナンスの様子を固唾を飲んで見守る。越水のもとを離れて作業をするなどずいぶんと久しぶりだ。アオガミを見たとき、越水に酷似していて心臓が誤作動を起こした。越水とアオガミは顔貌が似ているものの全くの別人で、そもそもアオガミは人間ではない。そんなことわかりきっているのに、越水に似た無機質な瞳で見つめられると、冷静さの一部を損なってしまう。
研究室の扉が開いた。ここに足を踏み入れる人間は限られている。きっと越水だろうと振り返ると、そこには見知らぬ少年が立っていた。
「あの、すみません」
少年の涼やかな声が響く。一歩彼が足を踏み出すと、彼の左右非対称の黒髪が揺れる。百合の花が描かれた特徴的な学ランに身を包んだ細身の彼は、躊躇いながらもミズキに近寄ってきた。
「アオガミの様子が気になって、入れてもらいました」
「じゃあ、あなたがアオガミと一緒に魔界から帰ってきたっていう?」
越水から一応、簡単に経緯は聞いている。少年は頷き、
「はい。百合川ヒイラギです」
明瞭に名乗った。線の細い優美な少年だが、声には力強い意思を感じる。少年――百合川ヒイラギは、周囲を注意深く見回している。
「アオガミは、どこにいるんですか?」
「あの床の中、ポッドの中に入っています。ごめんなさい、ポッドの様子は部外者にはわからないようになっているの。でも、大丈夫です。私たちベテル日本支部が責任を持ってメンテナンスをします」
床を指差して答えると、ヒイラギはミズキを見つめ、
「そうですか……ありがとうございます」
頭を下げた。命の危険がある魔界から戻り、一介の学生には知り得ぬベテルや悪魔の存在を聞かされきっと混乱しているだろうに、気を強く持っている。ミズキはこの美しい少年に、単なる麗しさだけではない芯の強さを見出した。
「すみません。ええと……天宮さん、ですか?」
ヒイラギはミズキの胸元のネームプレートを一瞥し、呼びかけてくる。
「はい。天宮ミズキです」
「天宮さん。メンテナンスが終わったら、呼んでくれませんか。様子が気になるので」
「わかりました」
「ありがとうございます、天宮さん。じゃあ、また」
どこか落ち着かない様子のヒイラギに笑いかけると、ヒイラギは再び頭を下げて礼を言い、足早に研究室を去っていった。見慣れぬ場所で初対面の人間、それも同年代ではなく年上と接するとあらば、緊張して当然だ。ミズキは彼の置かれた境遇に同情しながら、メンテナンスポッドの中にいるアオガミのメンテナンス状況を表す画面を見つめた。せめてアオガミのメンテナンスは問題なく終え、彼を少しでも安心させてやりたかった。
百合川ヒイラギは天宮ミズキのいた研究室から出ると、何かに背を押されるように早足で歩き、誰もいないベテル日本支部会議室に身を滑り込ませた。壁にもたれて座り込む。一気に緊張の糸が切れ、立っていられなくなった。座り込んだヒイラギは、頬に手を当てた。熱い。頬が、顔全体が、いや全身が、感じたことのない熱を帯びている。
あの研究室を訪れたのは、アオガミの身を案じてのことだった。彼は魔界で生き残るにあたり欠かせない存在だったし、心細くてどうにかなりそうだった自分を励ましてくれた。そんな彼の様子が気になったのは、ごく自然な成り行き。だが研究室に足を踏み入れて感じたのは、天宮ミズキという女性に対する何か得体の知れない感情だった。彼女に何故研究室に来たのか説明のためアオガミのことを話したが、ミズキを視界に入れるたびに胸がざわめき、普通に言葉を交わすだけで手一杯だった。かつて感じたことのない熱い感情のうねり、逆らえない奔流にヒイラギ自身が戸惑っていた。
何とかもう一度彼女と会う理由が欲しくて、メンテナンスが終わったら呼んでほしいと告げた。我ながら不自然ではない、それなりに納得できる理由を伝えることができたと思う。アオガミが気にかかるのは事実だ。だがその事実を塗り替えてしまう、甘く迸る胸の高鳴り。ああ早く、メンテナンスが終わってほしい。彼女に会いたい。百合川ヒイラギは、心臓が鷲掴みにされた衝撃に翻弄されながらも身を委ねていた。もう一度天宮ミズキを見たい、たったそれだけの願いを胸に焼きつけながら。
越水ハヤオは美丈夫だ。それに異論を唱える者はいないだろう。天宮ミズキも彼の魅力に骨抜きにされている一人だった。
ミズキはベテル日本支部に所属する研究員兼越水ハヤオの秘書である。神造魔人アオガミのメンテナンスを担当していたが、当のアオガミが帰還していない現状、ほぼ越水の秘書として毎日を過ごしている。ゆえにミズキが越水と過ごす時間は長く、彼の美貌にため息をつく時間も相応に長い。
越水は多忙の身であり、その彼に付き従うミズキも必然的に忙しく日々を過ごしている。そんな中、彼は仕事が終わった後、よくミズキを食事に連れ出してくれていた。遅くまで自らの職務に付き合わせることに罪悪感でもあるのだろうか、越水が7割ほど払ってくれている。一度完全な割り勘を提案したこともあるが、これは君に対する労いだから、と越水が7割支払うことで落ち着いた。正直いえば申し訳ない気持ちもあるが、越水と食事に行けるだけでも僥倖なのだから、ミズキはそれでよかった。
今夜も越水と食事に出かけていた。ミズキ一人では到底行きつかない、落ち着いた料亭。優雅に食事をする越水を向かい合って見つめていると、料理の味がよくわからなくなる。美味しいのだが、舌に広がる繊細な刺激よりも、見慣れているはずの、向かい側にいる越水の美しい佇まいに脳髄が痺れる。
「どうした、天宮君。疲れているのか」
箸を止め、越水の切れ長の瞳がミズキを見据えてくる。その眼差しは冷たく見えるが、ほんの少し柔らかいものを向けてくれていることを、ミズキは知っている。長く彼を観察しているミズキだからこそわかる、表情の変化が見えづらい彼の些細な機微だった。
「……?疲れているように見えますか?」
「箸の進みが遅いように見える。声にも覇気がない」
「そうですか?ありがとうございます、心配してくださって」
見た目にまで気を配った繊細な料理、それに合わせる酒も当然ながら美味。ミズキはちびちびと酒を啜るように口にしながら、軽く会釈した。ベテル日本支部の長官、つまりは職場の最高権力者に配慮されるなど、これ以上ない誉である。
当たり障りのない雑談を交わしながらつつがなく食事は終わり、取り決めどおりの支払を済ませて外に出る。東京の冴えた夜気に身を晒した瞬間、眩暈がした。ふらふらと不安定なミズキは、何か硬い、だがあたたかい壁にぶつかった。顔を上げると越水の体にしなだれかかる格好になっていて、あまりの無礼に背筋が凍った。
「申し訳ありません、長官!」
そう言って彼の胸から離れるが、やはり頭が揺れて立っていられない。よろめくミズキの肩を越水の手が掴み、ぐいと抱き寄せられる。
「無理をするな」
「あ……でも……」
秘書として彼を支える立場のミズキが、越水に支えられては世話がない。もう一度彼から離れようと試みるも、ミズキの肩を抱く力が弱まる気配はない。越水のやや厳しい視線がミズキを見つめていた。
「今日は送っていく」
その言葉は文字どおり捉えれば、ミズキの家に送り届けるという意味だろう。当然の発想だが、満足できる提案ではなかった。もしも少し甘えることができるなら。
「私、長官の家がいいです」
今なら酒で判断力が鈍っているからとか、体調が悪くて誰かにいてほしいからとか、それなりに納得できる理由がある気がする。ミズキは越水に詰め寄りはっきりと口にした。越水の目が見開く。驚いている。あの冷静沈着な越水ハヤオが。
「自宅の方が心置きなく休めると思うが?」
「長官と一緒にいたいです……」
頭の中に浮かんでいたそれらしい理由が吹き飛んで、これ以上ないほど直接的な懇願が滑り落ちた。越水の瞳に見つめられると、小賢しい小細工が通用しない気がして、あまりにも飾らない言葉になってしまった。口にしてから沈黙が場を支配し、ミズキは唇を噛み締めた。少しも躊躇しなかったわけではないが、黙って見つめ合っていると口にした後悔が滲んでくる。
「……その様子だと、意地でも自宅に帰りそうにないな」
「はい。わかっていただけて大変嬉しいです」
「……仕方ない。私の家に連れていく」
ため息をつきながら言った越水の言葉は、福音に等しかった。我を通したことに後ろめたさを覚えても、それを遥かに凌駕する喜びがあった。彼ともう少し一緒にいたいという些細な、だが重大な望みが叶うなど思いもしなかった。
そして越水の呼んだタクシーに乗り、二人は越水の自宅に辿り着く。タクシーの車内で隣り合って座っていたときは、気が気でなかった。越水と何か二言三言交わした気がするが、もはや何を話したのか覚えていない。
タクシーから降りる際、さも当然のように越水に手を取られ、どぎまぎして硬直した。越水に視線を遣ると、彼は普段どおりの平坦な口調で、
「ふらついていた。もし転びでもすれば大事だ」
「あ、はい……ありがとうございます……」
事実、越水の手を取らなければよろめいていただろうから、至極的確な判断だった。優雅でスマートな所作、越水の大きな掌に握られた手。冷静でいろという方が難しい。急激に早鐘を打つ心臓を宥めるので手一杯だった。
「失礼します……」
促されるままに家に入る。ミズキの部屋とは比べ物にならない広く小洒落た空間を目の当たりにし、思っていたとおりの家だなあと感心した。広々としたリビングダイニング、そこに置かれた黒いソファーに二人で座る。越水とは握り拳ふたつ分くらい距離を空けて座っている。もう少し近寄ってもいいだろうか。そう思いながら、拳ひとつ分の距離を詰めて座る。越水は静かに視線を寄越してくるが、特に何も言わなかった。承諾されたものとしてそのまま座っていると、少し気持ち悪くなってきた。
「天宮君、大丈夫か」
「長官……」
越水の押しつけがましくない優しさに、甘えてしまいたくなる。無理を言って彼の自宅に連れてきてもらった手前、これ以上要望を伝えるのは心苦しい。そう思いながら床の一点を見つめていると、越水の手がミズキの肩に伸びた。そのまま優しく抱かれ、自然とミズキの頭が越水の肩に寄りかかる。驚いて彼を見遣ると、
「寄りかかるといい」
低く落ち着いた声で言われ、ミズキの頬が紅潮した。
「はい……ありがとうございます」
顔が熱い。いや顔だけでなく、全身が熱い。彼に肩を抱かれて寄り添うように座っているこの状況、心臓がどうにかなってしまいそうだ。妙に体が強張ってしまう。何とかこの珍妙な肉体の不自然さを誤魔化したくて、ミズキは口を開いた。
「あの、私、そんなにわかりやすいですか?」
「わかりやすい、とは?」
「いえ、その……私が何を考えているかとか、体調とか……全部、わかってらっしゃるような気がして」
もしも。もしも、越水がミズキの奥底に仕舞いこんでいる感情さえも読み取れる人間なら。ミズキの胸を焦がす想いまでも、わかってしまう男性なら。そんな戯言まで脳裏によぎり、少しだけ切なくなった。
「無論、全てがわかるなどありはしないが……君の様子を見ていれば、ある程度は読み取れる」
「私の様子?」
「秘書の様子がある程度わかるのは当然だろう」
「はい……そうですね」
その言葉に肩を落とす自分がいた。ミズキが越水の秘書を務めてそれなりに時間が経過している、ミズキは越水の細かな変化には聡い自信がある。越水もミズキに関しては同様なのだろう。それは容易に理解ができる。理解できるが、あくまでも「上司と秘書」の関係の域を出ない話であることに、もどかしさを覚えている。
「あの……長官……」
今更ながら、酒がぐるぐると回っているような気がする。酒が染み込み鈍った頭の中に、伝えたい想いが滲み出る。普段は越水を見つめる視線にしか現れない、慎ましいながらも熱を持つ感情。見つめているだけでいいなんて、やっぱり嘘だった。こんなに近くに越水がいたら、酒の勢いを借りてでも言いたいことがある。
「私……長官のこと、好きです……」
甘く潤んだ瞳で越水を見上げた。時間が止まる。越水がミズキの言葉を吟味し噛み締める沈黙が流れる。越水はしばらくミズキを黙して見つめた後、
「……今日の君は少しばかり不安定になっているのではないか?」
些か困惑が混じった声で呟いた。この返答は、どう解釈したらよいのだろう。酒に惑わされるミズキの頭では、100万年考えたところで答えが出そうになかった。眩暈がする。視界がぼやける。何も考えられない。
「長官……すみません、あの……横になってもいいですか?」
越水の言葉の意味を考える余裕もなく、疲労が押し寄せてきた。しかしどこかで、口にするのも憚られる邪悪な欲も湧き上がる。
「ベッドがいいか?」
「え……いいんですか?」
「構わない。女性をソファーに寝かせるほど悪趣味ではないからな」
再び優雅に手を取られ、寝室に導かれる。キングサイズのふかふかのベッドがあった。綺麗にベッドメイクされており、入浴も着替えもしていない状態で寝転ぶのを躊躇う理性もあったが、倒れこみたい衝動の方が勝った。しかしさすがに無遠慮に飛び込む真似はせず、丁寧に一度座ってから横になった。越水は寝転がるミズキを見下ろしていた。灰色の双眸にほんの少しの心配が見え隠れしている。
「眠りたいならそのまま眠るといい。私は別の部屋で寝る」
「あ……すみません、長官。寝床、奪ってしまって……」
「気にするな。体調が優れない者が優先だ」
体調が優れない、と聞いて胸がちくりと痛んだ。体調が良くないのは事実だが、寝室に行けばもしかしたらそういう関係になったりしないか、とほんの一瞬頭をよぎった。だが彼は真摯にミズキを案じ気遣ってくれて、己とのあまりの落差に涙が出そうになる。そして同時に、彼の誠実さに胸が高鳴るのが止められない。
「ありがとうございます」
今は、越水の優しさに浸っておこう。そう思うと、自然と笑みが零れた。越水は表情を変えないままではあるが、頷いてくれた。
今日はミズキの気分が優れないようだ。いつからその兆候があったのか正確にはわからないが、少なくとも食事が進むにつれ顔色が悪くなっていったのは見て取れた。今夜は彼女を食事に誘うべきではなかったのかもしれない。そう悔やみながら、越水は自宅のベッドで眠っているミズキを見下ろしていた。
彼女の方から越水の家に行きたいなどと、妙な提案があった。一人では真っ直ぐ歩けずふらついていた彼女だったが、越水と一緒にいたいと告げる瞳は真剣だった。その力強さに根負けして、ミズキを連れてきた次第である。そして今、彼女は越水のベッドで眠りについている。穏やかな寝息を立てており、安心しきっているように見える。初めて訪れる男性の家で、そんなに心を預けられるものだろうか。
「好き……か」
ミズキは確かに越水のことが好きだと言った。人間がわざわざ他者に好意を告げるとき、そこに大なり小なり特別な意味合いが込められていることは、これまでの長い経験で知っている。彼女の言う「好き」がどのような意味を含んでいるものなのか、言われるまでもなく理解していた。
越水は永遠の命を持つ神、彼女はごく普通の人間。両者の間には越えられない壁がある。越水は何度か女性に言い寄られたことがあるが、一度たりとも靡いたことはなかった。神たる己が人間の一時の感情に付き合ってやる義理はなく、恋愛感情が面倒な事態を引き起こすことは神々の間でもよくあることだ。後々大きな火事を起こす可能性のある火種を自ら手にするほど越水は愚かではなかったし、越水の理性を突き崩すような存在が現れることもなかった。
ゆえにミズキが越水を好きだと言ってくるのも、一笑に付すものだった。くだらない。彼女はそれなりの期間、越水の秘書として務めてくれている存在ではあるが、それ以上でもそれ以下でもない。越水が彼女に気を回すのも、彼女がいないと仕事に支障をきたすから。それだけだった。――本当にそれだけだろうか。それだけなら、自宅に連れてくるだろうか。ほんの少し脳裏を掠めた疑問には、首を突っ込まないことにした。
翌朝。ソファーで就寝した越水はごく自然に目を覚まし、一瞬ミズキが同じ家にいることを完全に忘れていた。何故ソファーで寝ていたのか思いを巡らせて初めて思い出した。今越水の寝室には、ミズキがいるはずだ。昨晩の彼女の顔色を思い返し、様子を見るべきだという結論に至る。越水は寝室のドアをノックした。返事はない。おそらくまだ眠っているのだろうと解釈し、扉を開けた。何回も、それこそ何千回も開けたドアだが、今回ばかりは緊張感を持ってノブを回した。
開いた扉の先、見慣れた寝室。ベッドの中央が人の形に盛り上がっている。近寄って見下ろすと、ミズキが眠っていた。通常であれば越水が見ることはまずない、無防備な寝顔。規則的に聞こえてくる寝息といい、よく眠れているようだ。ほっと胸を撫で下ろし、壁の時計を見た。今日はごく普通に、職務を全うせねばならない日だ。それはミズキも同じで、彼女もベテル日本支部に出勤する必要があるが、もうこのままにしておくことに決めた。もし彼女が欠勤したとしても、事後申請の有給休暇を認めようとさえ思った。彼女が目を覚ます前に着替えを済まそうと思い、クローゼットに視線を動かした瞬間、
「ん……んん……」
ミズキが寝返りを打ち、声を上げた。単なる生理的な呻き声かと思ったが、うっすら目を開けている。
「ん……?」
何度か瞬きをして怪訝な顔をするミズキを見下ろし、
「おはよう。天宮君」
「おはようございます……?」
挨拶をすると律儀に挨拶が返ってくる。ぼんやりとした、何故越水が自分を見下ろしているのか把握しかねている顔をしていたミズキだったが、数秒後目を見開き、
「ああああああの、長官っ!?」
寝室を切り裂く素っ頓狂な声を上げた。がばっと勢いよく身を起こし、混乱した顔できょろきょろと寝室を見回している。そしてミズキの顔が真っ赤に染まった。見ている分には滑稽だが、当のミズキは心慌意乱の様相だった。
「なんだ、天宮君」
「申し訳ありません!昨日私がわがままを言ったせいで、長官の家にお邪魔して、ベッドにまで……!!」
「案ずる必要はない。私がいいと思ったから君を連れてきた。それより、体調はどうだ」
「え?ええと……だいぶよくなりました」
「そうか。出勤できそうか?」
「出勤……でき、ます」
少し考えた後頷いたミズキは、昨晩よりもずいぶん顔色がよくなっていた。越水の見慣れた彼女に戻ったことを確信する。そして二人はそれぞれ身支度を整えて、越水の運転する車でベテル日本支部に出勤した。車中での彼女は気まずいのか一言も話さなかったが、越水も特に追及しなかった。
今日はいつもどおりの日常とはならなかった。ベテル日本支部が総力を上げて生み出した神造魔人アオガミが、縄印学園の生徒を伴って魔界より帰還した。ベテル日本支部は騒然とし、滅多なことでは表情が動かない越水でさえ、眉根が動いた。失われたとばかり思われていたアオガミが戻ってくるなど、越水も想像がつかなかったことだ。何か事態が大きく動こうとしている。越水はミズキにアオガミのメンテナンスを命じ、アオガミとともに魔界から生還した少年――百合川ヒイラギと相見えた。
不規則に揺れる艶やかな黒髪、白百合が咲く縄印学園の制服。大きな瞳と長い睫毛は女性的な美しさを纏っているが、彼のその瞳は、初対面の神である越水を真正面から射抜いてきた。アオガミと合一したという彼。見た目はごく普通の人間だが、少しばかり匂いが違う気がした。百合川ヒイラギが越水の何かを突き崩すきっかけになると、越水は本能的に感じていた。
「アオガミがまさか帰ってくるなんて……」
久しぶりに足を踏み入れた研究室、たった一人でミズキはぽつりと呟いた。すっかり忘れていたが、ミズキは元々アオガミのメンテナンスを担当していた身である。アオガミをメンテナンスポッドに入れて、滞りなく始まるメンテナンスの様子を固唾を飲んで見守る。越水のもとを離れて作業をするなどずいぶんと久しぶりだ。アオガミを見たとき、越水に酷似していて心臓が誤作動を起こした。越水とアオガミは顔貌が似ているものの全くの別人で、そもそもアオガミは人間ではない。そんなことわかりきっているのに、越水に似た無機質な瞳で見つめられると、冷静さの一部を損なってしまう。
研究室の扉が開いた。ここに足を踏み入れる人間は限られている。きっと越水だろうと振り返ると、そこには見知らぬ少年が立っていた。
「あの、すみません」
少年の涼やかな声が響く。一歩彼が足を踏み出すと、彼の左右非対称の黒髪が揺れる。百合の花が描かれた特徴的な学ランに身を包んだ細身の彼は、躊躇いながらもミズキに近寄ってきた。
「アオガミの様子が気になって、入れてもらいました」
「じゃあ、あなたがアオガミと一緒に魔界から帰ってきたっていう?」
越水から一応、簡単に経緯は聞いている。少年は頷き、
「はい。百合川ヒイラギです」
明瞭に名乗った。線の細い優美な少年だが、声には力強い意思を感じる。少年――百合川ヒイラギは、周囲を注意深く見回している。
「アオガミは、どこにいるんですか?」
「あの床の中、ポッドの中に入っています。ごめんなさい、ポッドの様子は部外者にはわからないようになっているの。でも、大丈夫です。私たちベテル日本支部が責任を持ってメンテナンスをします」
床を指差して答えると、ヒイラギはミズキを見つめ、
「そうですか……ありがとうございます」
頭を下げた。命の危険がある魔界から戻り、一介の学生には知り得ぬベテルや悪魔の存在を聞かされきっと混乱しているだろうに、気を強く持っている。ミズキはこの美しい少年に、単なる麗しさだけではない芯の強さを見出した。
「すみません。ええと……天宮さん、ですか?」
ヒイラギはミズキの胸元のネームプレートを一瞥し、呼びかけてくる。
「はい。天宮ミズキです」
「天宮さん。メンテナンスが終わったら、呼んでくれませんか。様子が気になるので」
「わかりました」
「ありがとうございます、天宮さん。じゃあ、また」
どこか落ち着かない様子のヒイラギに笑いかけると、ヒイラギは再び頭を下げて礼を言い、足早に研究室を去っていった。見慣れぬ場所で初対面の人間、それも同年代ではなく年上と接するとあらば、緊張して当然だ。ミズキは彼の置かれた境遇に同情しながら、メンテナンスポッドの中にいるアオガミのメンテナンス状況を表す画面を見つめた。せめてアオガミのメンテナンスは問題なく終え、彼を少しでも安心させてやりたかった。
百合川ヒイラギは天宮ミズキのいた研究室から出ると、何かに背を押されるように早足で歩き、誰もいないベテル日本支部会議室に身を滑り込ませた。壁にもたれて座り込む。一気に緊張の糸が切れ、立っていられなくなった。座り込んだヒイラギは、頬に手を当てた。熱い。頬が、顔全体が、いや全身が、感じたことのない熱を帯びている。
あの研究室を訪れたのは、アオガミの身を案じてのことだった。彼は魔界で生き残るにあたり欠かせない存在だったし、心細くてどうにかなりそうだった自分を励ましてくれた。そんな彼の様子が気になったのは、ごく自然な成り行き。だが研究室に足を踏み入れて感じたのは、天宮ミズキという女性に対する何か得体の知れない感情だった。彼女に何故研究室に来たのか説明のためアオガミのことを話したが、ミズキを視界に入れるたびに胸がざわめき、普通に言葉を交わすだけで手一杯だった。かつて感じたことのない熱い感情のうねり、逆らえない奔流にヒイラギ自身が戸惑っていた。
何とかもう一度彼女と会う理由が欲しくて、メンテナンスが終わったら呼んでほしいと告げた。我ながら不自然ではない、それなりに納得できる理由を伝えることができたと思う。アオガミが気にかかるのは事実だ。だがその事実を塗り替えてしまう、甘く迸る胸の高鳴り。ああ早く、メンテナンスが終わってほしい。彼女に会いたい。百合川ヒイラギは、心臓が鷲掴みにされた衝撃に翻弄されながらも身を委ねていた。もう一度天宮ミズキを見たい、たったそれだけの願いを胸に焼きつけながら。