宇宙の百合
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#8 宇宙のリ・ブラン
百合川ヒイラギと夕凪マトイが恋人同士になってから、およそ1ヶ月が過ぎた。学園、学生寮、休日までもほぼずっと一緒にいられる環境が揃い、甘い時間をぴったり寄り添って過ごしていた。いつもどおりの朝を迎え、ヒイラギが学園の下駄箱を開くと、見慣れない何か薄っぺらいものが入っていることに気がついた。手に取ると可愛らしい封筒だった。封筒のフタの部分に赤いハートのシールが貼ってある。持ってみると中に紙が入っている感触がある。手紙だ。そしてこれがどういう意図を持った手紙なのか、開けずとも何となく想像がついた。
ヒイラギは冷め切った眼差しで封筒を裏返して確認したが、特に差出人の名前は書かれていない。フタの部分に指を滑り込ませて開くと、赤いハートのシールが上下に割れるように破れた。中にはふんわりとした色合いの便箋が1枚、二つ折りになっている。開くと、
「今日の放課後、屋上で待っています」
とたった一文、書いてあった。やはりこちらにも差出人の名前はない。ずいぶんと独りよがりで不親切な手紙だった。
「…………」
名前すら書かずに不躾な約束を取り付けようとする人間なんて、無視しても構わないと思っている。しかし今のヒイラギにはマトイがいる。この手紙がどういうものなのか大体予想はつくが、マトイという恋人がいることを相手が知っている場合、約束をすっぽかしたらマトイに何か嫌がらせをする可能性がある。ヒイラギ一人なら大した被害はないが、マトイに累が及ぶことは避けたい。面倒だが、足を運び手紙の主にはっきり現実を突きつけてやる必要があるだろう。こんなくだらない手紙のためにマトイとの時間が削られることは腹立たしいが、煩わしい芽は摘んでおくに限る。ヒイラギは手紙を無造作に学生鞄に突っ込み、靴を履き替えた。
「ごめん、マトイ。今日はちょっと野暮用があって。先に帰ってて」
放課後、いつものようにヒイラギと一緒に帰ろうとしたが、珍しく断られた。
「そっか。わかった。先に帰るね」
マトイはひとまず頷いて教室を出ていくヒイラギの背中を見送ったが、何だか嫌な予感がした。真っ直ぐ学生寮に戻る気になれなかった。マトイは少し距離を置き、黙ってヒイラギの後ろをついていくことにした。ヒイラギは迷いのない足取りで歩いていき、帰り道を逸れてどんどん階段を上っていく。不思議に思っていると、屋上に着く階段を上っていった。放課後に屋上に行く必要がある野暮用とは一体何なのだろう。そう思いながら、マトイも階段を上っていく。ヒイラギはすでに屋上に着いたようで、屋上に続く扉は閉まっている。追いかけようか迷って扉の前に立ち、ノブを持ったまま硬直していると、扉の向こうから話し声が聞こえてきた。盗み聞きなんて後ろめたいけれどどうしても気になり、扉に耳を寄せて聴覚を研ぎ澄ませた。
「あ……百合川くん」
女生徒の声が聞こえた。しかもヒイラギに呼びかけている。自分以外の異性と彼氏が、おそらくは二人きり。マトイの全身に緊張が走った。
「この手紙、君のかな?」
どことなく嬉しそうだった女生徒の声とは対照的に、ヒイラギの声は平坦そのもの。マトイも聞いたことがない、心底興味のない対象に向けそうな声だった。
「そうだよ。読んでくれたのね」
「読まなかったらこんなところに来ないよ。それで?何の用かな?」
「百合川くんのことが好きなの。付き合ってください」
単刀直入、何の飾りもない直球の言葉が響いた。マトイは扉の向こうから通り抜けてきた言葉に、身を硬くした。女生徒の言葉自体は簡潔だったが、少し声が震えていた。マトイ自身も、ヒイラギにどうやって想いを伝えようかやきもきしていた時期があるだけに、女生徒の声の震えにだけは同情した。だがそれよりも恋人の反応が気になって、耳を澄ませる。盗み聞きをしている罪悪感はとっくに消え失せていた。
「僕には大切な彼女がいるんだ。だから君の気持ちには応えられない」
女生徒の言葉が終わるのとほぼ同時、ヒイラギの返答が紡がれる。その言葉に揺らぎはなく、ヒイラギの本心から構成されたものだと容易にわかる。
「え……百合川くん、彼女いるの!?」
驚いた女生徒の声を聞いて、そういえば自分たちが恋人同士だと知っているのは、タオくらいしかいないのではないかと思った。マトイは誰にも話したことがなく、ヒイラギもぺらぺらと喋るようには見えなかった。
「うん」
「……っ、でも!私、百合川くんのこと、ずっと好きだった!だから、」
「『だから』、なに?」
背筋が凍るような冷たい声が耳を震わせた。マトイですらそうなのだから、女生徒の恐怖はいかばかりか察するに余りある。
「君がどう思ってるかなんて関係ないよ。僕は彼女以外に興味ないんだ。君と付き合うつもりはさらさらない」
「……ッ!!」
扉が外れるのではないかと心配するほど大きな音を立てて扉が開き、女生徒が飛び出してくる。扉の前にいたマトイにぶつかるが、女生徒はマトイに目もくれず走り去っていった。突然吹き抜けた疾風にマトイのスカートが激しく揺れ、階段に尻餅をついた。マトイは走り去る女生徒を呆然と目で追っていたが、閉まりそうな屋上の扉が何者かによって再び開く。
「マトイ!」
見ると、ヒイラギが扉を開いて立っていた。屋上を染めるオレンジ色の夕陽を背負ったヒイラギが、手を差し伸べている。逆光に照らされてオレンジ色に縁取られた彼の、翡翠の瞳がやけに目立つ。
「大丈夫?」
「あ、ありがとう」
彼の手を取って立ち上がり、屋上に二人で佇む。重苦しい音を立てて扉が閉まる。隣にいる彼は心配そうにマトイを見つめていた。
「さっき、ぶつかったよね?怪我してない?」
「大丈夫だよ。心配してくれたんだね、ありがとう」
「よかったよ……」
ヒイラギは息をついた。ほっと胸を撫で下ろしたように見える。
「マトイ。さっきの話、どこまで聞いてた?」
「あ……ああ、えー、と……」
黙ってこっそり聞いていたことを改めて自覚してしまい、マトイの目が泳いだ。夕陽が綺麗だなんて現実逃避しても、ヒイラギの視線は明確にマトイを捉えている。
「……ごめんね、全部聞いてた」
「そっか」
ヒイラギは照れくさそうに笑うと、マトイの手を引いて優しく抱き寄せた。頭に彼の掌が置かれ、ゆっくり撫でられる。
「僕、君のこと大好きだから」
「うん」
ヒイラギの言葉が脳裏に蘇る。大切な彼女がいる。その言葉はじんわりとマトイの脳髄に染み渡り、きっと一生消えない喜びになる。折に触れて思い返しては噛み締めるような、そんな輝きを持つ言葉になると確信した。
「私もヒイラギくんのこと、大好きだよ」
「ありがとう」
ぎゅっと抱きしめ合って、自然と唇が重なっていた。さもそれが当然と言わんばかりに。触れるだけのささやかなキスを交わして向かい合うと、互いに緩やかに笑った。照れているように、あるいは喜びを共有するように。
「ああ、ちょっとごめんね。お邪魔してもいいかな?」
お互い見つめ合っていると、不意に声が響いた。ヒイラギによく似た声。声がした方を向くと、ヒイラギに瓜二つの少年が屋上の柵にもたれかかり佇んでいた。左右非対称な髪型、麗しい黒髪、長い睫毛に縁取られた大きな双眸。似ているどころか、生き写しといって差し支えない。その瞳が金色に輝いていることが、ヒイラギとの唯一の差異だった。少年は黄金の瞳を妖しく細め、唇に薄く笑みを浮かべている。丸く輝く紅鏡を従えて笑む彼は、神のような神秘的な美しさを纏っている。
「……どうしても今じゃないと駄目かな?」
ヒイラギが露骨に嫌そうな顔をして答えると、少年は唇を尖らせた。
「キスが終わるまで待っていてあげたんだから、そう言わないでよ」
「え、と……二人とも、知り合い……?」
顔貌がそっくりな二人が話していると混乱する。マトイの問いに、
「ああ、マトイは初対面だね。覚えてるかな。宇宙と話したことがあるって言ったよね」
「えーと……言ってたね」
「彼が宇宙さんだよ」
ヒイラギが答えると、少年――宇宙らしい――は、ひらひらと手を振って微笑んだ。
「そうそう、僕が噂の大宇宙さんだよ。初めまして、夕凪マトイ。百合川ヒイラギは久しぶりだね」
「は、初めまして」
意外ときちんと挨拶してくるから、慌てて頭を下げながら挨拶を返した。
「彼氏とそっくりの姿をしてるからちょっと変な感じがすると思うけど、我慢してね。僕、この姿が一番落ち着くから」
「は、はあ……」
ヒイラギから宇宙と話したことがあると聞いたときには、神話に出てくるような尊大な存在を想像していた。が、目の前の少年からは、そういった人ならざるものらしい空気は感じられない。金色に輝く双眸だけが、少し人と異なる雰囲気を醸し出している。
「久しぶりに君に会えたのは嬉しいけど、なんで今なの?」
ヒイラギが問いかけると、少年は子供っぽく笑った。
「ちょうど君たち二人だけの空間だったからね。他に誰もいない方が話しやすそうだったから」
少年は屋上の柵に体重を預け、顔だけ柵の向こうに向けた。眼下に広がる縄印学園、東京の景色を眩しそうに目を細めて見つめている。
「ここから見ただけでも人間がたくさんいる。ねえ知ってる?この宇宙には、人間という花が腐るほど咲いてるんだ」
少年の口調が、先ほどまでの軽いものからやや平坦な事務的なものに変わる。
「花はひとつひとつ見つめたら綺麗だけどね……あまりにたくさんあると、ただの色にしか見えないんだ。一面綺麗な色が広がってるだけ」
少年が寄り添うヒイラギとマトイに向き直る。少年の黒い髪がオレンジ色の風に揺れる。
「でも、君たちは違う。君たちは僕にとって、どんな花の中でも埋もれない、白い百合みたいなものだよ。……まあ、百合に見えるのはその制服のせいなんだけどね?」
マトイは少年の言葉がよく理解できなかった。しかしその口調から、彼がマトイとヒイラギに何か特別な思い入れがあることだけは伝わってきた。屋上の風に優しく溶けていく言葉は、耳に穏やかに響いて心地よい。
「今日はよかったよ。君たちが幸せそうにしてたから」
一瞬目を閉じてもう一度目を開けた少年は、懐の深い笑顔を浮かべていた。マトイと同年代の少年に見える彼だが、その笑みはずいぶんと大人っぽい。達観した落ち着きを感じさせる。その笑顔を見て初めて、たとえ少年がヒイラギと瓜二つであっても、少年とヒイラギは全く別の存在であることを実感した。
「そうだ、せっかく会えたんだ。君にはちゃんとお礼を言っておきたかったんだ」
静かに少年の言葉を聞いていたヒイラギが、ゆっくりと唇を動かす。ヒイラギは笑みを浮かべた。マトイに向ける笑顔とは違う、竹馬の友に向けるような笑顔だった。
「ありがとう。君のおかげで僕は踏ん切りがついたんだよ」
少年は肩を竦めると、おどけるように笑った。
「そう?礼には及ばないよ。単なる大宇宙のお節介だから」
「確かにお節介かもね。でも、それで僕は助かったから。ちゃんと伝えておきたかったんだ」
「律儀だね」
やれやれとでも言いたげに少年は首を振って、再び二人に向き直った。オレンジ色の夕陽が少しずつ西に傾き、高いビルの陰に隠れようとしている。
「そうそう、最後に二人に言っておきたいことがあるんだ」
少年は二人に向かって歩いてきた。握手できるような距離で改めて少年を見ると、綺麗な面立ちをしている。左右非対称の前髪から覗く金色の瞳が、朝陽のように爛々と輝く。その瞳は何もかも知っているような、不思議な輝きを放っていた。ヒイラギとはまた違う意味で目を惹く、麗しい人ならざる少年。
「どうかお幸せに。前の宇宙で幸せになれなかった分、一生ね」
少年の神妙な声は、夕暮れの屋上に穏やかな響きをもって聞こえた。前の宇宙、という言葉はマトイには理解できなかったが、隣にいるヒイラギは何故か泣きそうな顔をしている。
「じゃ、僕はそろそろ消えようかな。君たちが幸せにしていたら、僕はもう満足だよ。たぶんもう会うことはないよ」
「そっか。……うん、ありがとう」
「なにそれ?礼はもういいよ。じゃあね。お幸せに」
ヒイラギの言葉に少年はけらけらと笑って手を振った。その瞬間、彼は夕陽に伸びていた影ごと消えた。瞬きの間に綺麗に消え去っていて、何だか不安になった。実は夢を見ていたのではないか、とマトイは頬をつねった。ごく普通に痛い。
「どうしたの、マトイ」
「急にいなくなったから……夢かなと思って」
「夢じゃないよ。前に会ったときも、あんな風に突然いなくなったんだ。初めて見たらびっくりするかもね。……マトイ」
ヒイラギに少し強い声で名前を呼ばれる。隣にいた彼を見ると、ヒイラギがぐっと顔を近づけてきた。額同士が密着した、あと数ミリで唇を奪える甘い距離感。
「これからも、僕と一緒にいてね」
「うん」
即答すると、ヒイラギは優しく笑み、唇を重ねてきた。互いの柔い唇の温度と感触を感じる、刹那の口付け。唇を離して見た彼は、穏やかな笑顔を浮かべている。
「日が暮れてきたね。帰ろうか」
「うん」
彼が差し出した白い手は、黄昏時の中でもはっきり見えた。マトイはぴったりと掌を合わせて指を絡めた。触れ合った掌から、ゆるゆるとあたたかい温度が伝わってくる。掌だけでなく心さえもあたためて溶かしていく温度を感じ、マトイはヒイラギと歩き始めた。今日だけでなく、明日も。これからもずっと、こうやって彼と歩いていくのだろう。そう思うと嬉しくなって、マトイはぎゅっと強く、手を握った。
健やかなるときも、病めるときも、いついかなる状況であっても日は沈み、いずれまた日が昇る。ヒイラギは人生で何度目かわからない朝を迎え、縄印学園に向かう。待ち合わせ場所に行くとマトイがいて、彼女と手を繋いで歩いていく。当初は少しばかり気恥ずかしい想いもあったが、二人の関係を暗に示すことは悪いことばかりじゃないと思っている。タオやユヅルにも自分たちの関係は知れ渡り、揶揄われたり見守られたりしながら過ごしている。タオとユヅルもそういう関係らしく、二人からおすすめのデートスポットを教えてもらったりして、大いに役立っている。ユヅル、マトイ、ヒイラギの三人で初めて勉強会を開いたときはあんなに苛立っていたのに、何がどう転がるかなんて、誰にもわからないものである。
宇宙を名乗る少年は、言葉どおりあの夕陽がきらめく屋上で会ったときを最後に、ついぞ現れなかった。
――どうかお幸せに。前の宇宙で幸せになれなかった分、一生ね。
彼と最後に会ったときから数ヶ月経つが、まだヒイラギの脳裏に残っている。ヒイラギの感知できない前の宇宙の記憶を語る彼は、どこか寂しそうに見えた。この宇宙では、ヒイラギとマトイは赤い糸に導かれて手を繋いでいる。一生離したくない。
「マトイ」
「ん?なに?」
縄印学園に伸びる道を、手を繋いで歩く。立ち止まって彼女の名前を呼ぶと、彼女は柔らかく笑っている。輝く朝陽に負けない眩さを放つ彼女。
「僕、幸せだよ」
言いながら再び歩き始めると、マトイは照れくさそうに笑った。
「なに、どうしたの?急に」
「こうして君といられるのは幸せだなって、噛み締めてただけ」
「そうなの?私も幸せだよ」
手を繋いだまま見つめ合って微笑み合うと、こんなにも心が安らぐ。今日もきっといい一日が始まる。
下駄箱で彼女と別れて小さな扉を開くと、靴だけがある。平穏な日常を脅かす手紙はもうない。仮にあったとしても、また同じように対処すればいいだけだ。
今日もまた、マトイと同じ教室にいる時間が始まる。あの日、ヒイラギがマトイに一緒に帰ろうと言わなければ、きっと二人はただのクラスメイトのままだった。運命のような何かに導かれたあの日の気まぐれが、二人の関係を大きく変えた。退屈な授業も変わらない日々も、マトイがいれば至福になる。彼女と二人で、代わり映えしない平穏をずっと抱きしめて生きていく。学園を卒業してもいつまでも続く平穏を願いながら、ヒイラギは教室の席につき、頬杖をついた。窓の外は、明るく輝く朝陽できらめいていた。
百合川ヒイラギと夕凪マトイが恋人同士になってから、およそ1ヶ月が過ぎた。学園、学生寮、休日までもほぼずっと一緒にいられる環境が揃い、甘い時間をぴったり寄り添って過ごしていた。いつもどおりの朝を迎え、ヒイラギが学園の下駄箱を開くと、見慣れない何か薄っぺらいものが入っていることに気がついた。手に取ると可愛らしい封筒だった。封筒のフタの部分に赤いハートのシールが貼ってある。持ってみると中に紙が入っている感触がある。手紙だ。そしてこれがどういう意図を持った手紙なのか、開けずとも何となく想像がついた。
ヒイラギは冷め切った眼差しで封筒を裏返して確認したが、特に差出人の名前は書かれていない。フタの部分に指を滑り込ませて開くと、赤いハートのシールが上下に割れるように破れた。中にはふんわりとした色合いの便箋が1枚、二つ折りになっている。開くと、
「今日の放課後、屋上で待っています」
とたった一文、書いてあった。やはりこちらにも差出人の名前はない。ずいぶんと独りよがりで不親切な手紙だった。
「…………」
名前すら書かずに不躾な約束を取り付けようとする人間なんて、無視しても構わないと思っている。しかし今のヒイラギにはマトイがいる。この手紙がどういうものなのか大体予想はつくが、マトイという恋人がいることを相手が知っている場合、約束をすっぽかしたらマトイに何か嫌がらせをする可能性がある。ヒイラギ一人なら大した被害はないが、マトイに累が及ぶことは避けたい。面倒だが、足を運び手紙の主にはっきり現実を突きつけてやる必要があるだろう。こんなくだらない手紙のためにマトイとの時間が削られることは腹立たしいが、煩わしい芽は摘んでおくに限る。ヒイラギは手紙を無造作に学生鞄に突っ込み、靴を履き替えた。
「ごめん、マトイ。今日はちょっと野暮用があって。先に帰ってて」
放課後、いつものようにヒイラギと一緒に帰ろうとしたが、珍しく断られた。
「そっか。わかった。先に帰るね」
マトイはひとまず頷いて教室を出ていくヒイラギの背中を見送ったが、何だか嫌な予感がした。真っ直ぐ学生寮に戻る気になれなかった。マトイは少し距離を置き、黙ってヒイラギの後ろをついていくことにした。ヒイラギは迷いのない足取りで歩いていき、帰り道を逸れてどんどん階段を上っていく。不思議に思っていると、屋上に着く階段を上っていった。放課後に屋上に行く必要がある野暮用とは一体何なのだろう。そう思いながら、マトイも階段を上っていく。ヒイラギはすでに屋上に着いたようで、屋上に続く扉は閉まっている。追いかけようか迷って扉の前に立ち、ノブを持ったまま硬直していると、扉の向こうから話し声が聞こえてきた。盗み聞きなんて後ろめたいけれどどうしても気になり、扉に耳を寄せて聴覚を研ぎ澄ませた。
「あ……百合川くん」
女生徒の声が聞こえた。しかもヒイラギに呼びかけている。自分以外の異性と彼氏が、おそらくは二人きり。マトイの全身に緊張が走った。
「この手紙、君のかな?」
どことなく嬉しそうだった女生徒の声とは対照的に、ヒイラギの声は平坦そのもの。マトイも聞いたことがない、心底興味のない対象に向けそうな声だった。
「そうだよ。読んでくれたのね」
「読まなかったらこんなところに来ないよ。それで?何の用かな?」
「百合川くんのことが好きなの。付き合ってください」
単刀直入、何の飾りもない直球の言葉が響いた。マトイは扉の向こうから通り抜けてきた言葉に、身を硬くした。女生徒の言葉自体は簡潔だったが、少し声が震えていた。マトイ自身も、ヒイラギにどうやって想いを伝えようかやきもきしていた時期があるだけに、女生徒の声の震えにだけは同情した。だがそれよりも恋人の反応が気になって、耳を澄ませる。盗み聞きをしている罪悪感はとっくに消え失せていた。
「僕には大切な彼女がいるんだ。だから君の気持ちには応えられない」
女生徒の言葉が終わるのとほぼ同時、ヒイラギの返答が紡がれる。その言葉に揺らぎはなく、ヒイラギの本心から構成されたものだと容易にわかる。
「え……百合川くん、彼女いるの!?」
驚いた女生徒の声を聞いて、そういえば自分たちが恋人同士だと知っているのは、タオくらいしかいないのではないかと思った。マトイは誰にも話したことがなく、ヒイラギもぺらぺらと喋るようには見えなかった。
「うん」
「……っ、でも!私、百合川くんのこと、ずっと好きだった!だから、」
「『だから』、なに?」
背筋が凍るような冷たい声が耳を震わせた。マトイですらそうなのだから、女生徒の恐怖はいかばかりか察するに余りある。
「君がどう思ってるかなんて関係ないよ。僕は彼女以外に興味ないんだ。君と付き合うつもりはさらさらない」
「……ッ!!」
扉が外れるのではないかと心配するほど大きな音を立てて扉が開き、女生徒が飛び出してくる。扉の前にいたマトイにぶつかるが、女生徒はマトイに目もくれず走り去っていった。突然吹き抜けた疾風にマトイのスカートが激しく揺れ、階段に尻餅をついた。マトイは走り去る女生徒を呆然と目で追っていたが、閉まりそうな屋上の扉が何者かによって再び開く。
「マトイ!」
見ると、ヒイラギが扉を開いて立っていた。屋上を染めるオレンジ色の夕陽を背負ったヒイラギが、手を差し伸べている。逆光に照らされてオレンジ色に縁取られた彼の、翡翠の瞳がやけに目立つ。
「大丈夫?」
「あ、ありがとう」
彼の手を取って立ち上がり、屋上に二人で佇む。重苦しい音を立てて扉が閉まる。隣にいる彼は心配そうにマトイを見つめていた。
「さっき、ぶつかったよね?怪我してない?」
「大丈夫だよ。心配してくれたんだね、ありがとう」
「よかったよ……」
ヒイラギは息をついた。ほっと胸を撫で下ろしたように見える。
「マトイ。さっきの話、どこまで聞いてた?」
「あ……ああ、えー、と……」
黙ってこっそり聞いていたことを改めて自覚してしまい、マトイの目が泳いだ。夕陽が綺麗だなんて現実逃避しても、ヒイラギの視線は明確にマトイを捉えている。
「……ごめんね、全部聞いてた」
「そっか」
ヒイラギは照れくさそうに笑うと、マトイの手を引いて優しく抱き寄せた。頭に彼の掌が置かれ、ゆっくり撫でられる。
「僕、君のこと大好きだから」
「うん」
ヒイラギの言葉が脳裏に蘇る。大切な彼女がいる。その言葉はじんわりとマトイの脳髄に染み渡り、きっと一生消えない喜びになる。折に触れて思い返しては噛み締めるような、そんな輝きを持つ言葉になると確信した。
「私もヒイラギくんのこと、大好きだよ」
「ありがとう」
ぎゅっと抱きしめ合って、自然と唇が重なっていた。さもそれが当然と言わんばかりに。触れるだけのささやかなキスを交わして向かい合うと、互いに緩やかに笑った。照れているように、あるいは喜びを共有するように。
「ああ、ちょっとごめんね。お邪魔してもいいかな?」
お互い見つめ合っていると、不意に声が響いた。ヒイラギによく似た声。声がした方を向くと、ヒイラギに瓜二つの少年が屋上の柵にもたれかかり佇んでいた。左右非対称な髪型、麗しい黒髪、長い睫毛に縁取られた大きな双眸。似ているどころか、生き写しといって差し支えない。その瞳が金色に輝いていることが、ヒイラギとの唯一の差異だった。少年は黄金の瞳を妖しく細め、唇に薄く笑みを浮かべている。丸く輝く紅鏡を従えて笑む彼は、神のような神秘的な美しさを纏っている。
「……どうしても今じゃないと駄目かな?」
ヒイラギが露骨に嫌そうな顔をして答えると、少年は唇を尖らせた。
「キスが終わるまで待っていてあげたんだから、そう言わないでよ」
「え、と……二人とも、知り合い……?」
顔貌がそっくりな二人が話していると混乱する。マトイの問いに、
「ああ、マトイは初対面だね。覚えてるかな。宇宙と話したことがあるって言ったよね」
「えーと……言ってたね」
「彼が宇宙さんだよ」
ヒイラギが答えると、少年――宇宙らしい――は、ひらひらと手を振って微笑んだ。
「そうそう、僕が噂の大宇宙さんだよ。初めまして、夕凪マトイ。百合川ヒイラギは久しぶりだね」
「は、初めまして」
意外ときちんと挨拶してくるから、慌てて頭を下げながら挨拶を返した。
「彼氏とそっくりの姿をしてるからちょっと変な感じがすると思うけど、我慢してね。僕、この姿が一番落ち着くから」
「は、はあ……」
ヒイラギから宇宙と話したことがあると聞いたときには、神話に出てくるような尊大な存在を想像していた。が、目の前の少年からは、そういった人ならざるものらしい空気は感じられない。金色に輝く双眸だけが、少し人と異なる雰囲気を醸し出している。
「久しぶりに君に会えたのは嬉しいけど、なんで今なの?」
ヒイラギが問いかけると、少年は子供っぽく笑った。
「ちょうど君たち二人だけの空間だったからね。他に誰もいない方が話しやすそうだったから」
少年は屋上の柵に体重を預け、顔だけ柵の向こうに向けた。眼下に広がる縄印学園、東京の景色を眩しそうに目を細めて見つめている。
「ここから見ただけでも人間がたくさんいる。ねえ知ってる?この宇宙には、人間という花が腐るほど咲いてるんだ」
少年の口調が、先ほどまでの軽いものからやや平坦な事務的なものに変わる。
「花はひとつひとつ見つめたら綺麗だけどね……あまりにたくさんあると、ただの色にしか見えないんだ。一面綺麗な色が広がってるだけ」
少年が寄り添うヒイラギとマトイに向き直る。少年の黒い髪がオレンジ色の風に揺れる。
「でも、君たちは違う。君たちは僕にとって、どんな花の中でも埋もれない、白い百合みたいなものだよ。……まあ、百合に見えるのはその制服のせいなんだけどね?」
マトイは少年の言葉がよく理解できなかった。しかしその口調から、彼がマトイとヒイラギに何か特別な思い入れがあることだけは伝わってきた。屋上の風に優しく溶けていく言葉は、耳に穏やかに響いて心地よい。
「今日はよかったよ。君たちが幸せそうにしてたから」
一瞬目を閉じてもう一度目を開けた少年は、懐の深い笑顔を浮かべていた。マトイと同年代の少年に見える彼だが、その笑みはずいぶんと大人っぽい。達観した落ち着きを感じさせる。その笑顔を見て初めて、たとえ少年がヒイラギと瓜二つであっても、少年とヒイラギは全く別の存在であることを実感した。
「そうだ、せっかく会えたんだ。君にはちゃんとお礼を言っておきたかったんだ」
静かに少年の言葉を聞いていたヒイラギが、ゆっくりと唇を動かす。ヒイラギは笑みを浮かべた。マトイに向ける笑顔とは違う、竹馬の友に向けるような笑顔だった。
「ありがとう。君のおかげで僕は踏ん切りがついたんだよ」
少年は肩を竦めると、おどけるように笑った。
「そう?礼には及ばないよ。単なる大宇宙のお節介だから」
「確かにお節介かもね。でも、それで僕は助かったから。ちゃんと伝えておきたかったんだ」
「律儀だね」
やれやれとでも言いたげに少年は首を振って、再び二人に向き直った。オレンジ色の夕陽が少しずつ西に傾き、高いビルの陰に隠れようとしている。
「そうそう、最後に二人に言っておきたいことがあるんだ」
少年は二人に向かって歩いてきた。握手できるような距離で改めて少年を見ると、綺麗な面立ちをしている。左右非対称の前髪から覗く金色の瞳が、朝陽のように爛々と輝く。その瞳は何もかも知っているような、不思議な輝きを放っていた。ヒイラギとはまた違う意味で目を惹く、麗しい人ならざる少年。
「どうかお幸せに。前の宇宙で幸せになれなかった分、一生ね」
少年の神妙な声は、夕暮れの屋上に穏やかな響きをもって聞こえた。前の宇宙、という言葉はマトイには理解できなかったが、隣にいるヒイラギは何故か泣きそうな顔をしている。
「じゃ、僕はそろそろ消えようかな。君たちが幸せにしていたら、僕はもう満足だよ。たぶんもう会うことはないよ」
「そっか。……うん、ありがとう」
「なにそれ?礼はもういいよ。じゃあね。お幸せに」
ヒイラギの言葉に少年はけらけらと笑って手を振った。その瞬間、彼は夕陽に伸びていた影ごと消えた。瞬きの間に綺麗に消え去っていて、何だか不安になった。実は夢を見ていたのではないか、とマトイは頬をつねった。ごく普通に痛い。
「どうしたの、マトイ」
「急にいなくなったから……夢かなと思って」
「夢じゃないよ。前に会ったときも、あんな風に突然いなくなったんだ。初めて見たらびっくりするかもね。……マトイ」
ヒイラギに少し強い声で名前を呼ばれる。隣にいた彼を見ると、ヒイラギがぐっと顔を近づけてきた。額同士が密着した、あと数ミリで唇を奪える甘い距離感。
「これからも、僕と一緒にいてね」
「うん」
即答すると、ヒイラギは優しく笑み、唇を重ねてきた。互いの柔い唇の温度と感触を感じる、刹那の口付け。唇を離して見た彼は、穏やかな笑顔を浮かべている。
「日が暮れてきたね。帰ろうか」
「うん」
彼が差し出した白い手は、黄昏時の中でもはっきり見えた。マトイはぴったりと掌を合わせて指を絡めた。触れ合った掌から、ゆるゆるとあたたかい温度が伝わってくる。掌だけでなく心さえもあたためて溶かしていく温度を感じ、マトイはヒイラギと歩き始めた。今日だけでなく、明日も。これからもずっと、こうやって彼と歩いていくのだろう。そう思うと嬉しくなって、マトイはぎゅっと強く、手を握った。
健やかなるときも、病めるときも、いついかなる状況であっても日は沈み、いずれまた日が昇る。ヒイラギは人生で何度目かわからない朝を迎え、縄印学園に向かう。待ち合わせ場所に行くとマトイがいて、彼女と手を繋いで歩いていく。当初は少しばかり気恥ずかしい想いもあったが、二人の関係を暗に示すことは悪いことばかりじゃないと思っている。タオやユヅルにも自分たちの関係は知れ渡り、揶揄われたり見守られたりしながら過ごしている。タオとユヅルもそういう関係らしく、二人からおすすめのデートスポットを教えてもらったりして、大いに役立っている。ユヅル、マトイ、ヒイラギの三人で初めて勉強会を開いたときはあんなに苛立っていたのに、何がどう転がるかなんて、誰にもわからないものである。
宇宙を名乗る少年は、言葉どおりあの夕陽がきらめく屋上で会ったときを最後に、ついぞ現れなかった。
――どうかお幸せに。前の宇宙で幸せになれなかった分、一生ね。
彼と最後に会ったときから数ヶ月経つが、まだヒイラギの脳裏に残っている。ヒイラギの感知できない前の宇宙の記憶を語る彼は、どこか寂しそうに見えた。この宇宙では、ヒイラギとマトイは赤い糸に導かれて手を繋いでいる。一生離したくない。
「マトイ」
「ん?なに?」
縄印学園に伸びる道を、手を繋いで歩く。立ち止まって彼女の名前を呼ぶと、彼女は柔らかく笑っている。輝く朝陽に負けない眩さを放つ彼女。
「僕、幸せだよ」
言いながら再び歩き始めると、マトイは照れくさそうに笑った。
「なに、どうしたの?急に」
「こうして君といられるのは幸せだなって、噛み締めてただけ」
「そうなの?私も幸せだよ」
手を繋いだまま見つめ合って微笑み合うと、こんなにも心が安らぐ。今日もきっといい一日が始まる。
下駄箱で彼女と別れて小さな扉を開くと、靴だけがある。平穏な日常を脅かす手紙はもうない。仮にあったとしても、また同じように対処すればいいだけだ。
今日もまた、マトイと同じ教室にいる時間が始まる。あの日、ヒイラギがマトイに一緒に帰ろうと言わなければ、きっと二人はただのクラスメイトのままだった。運命のような何かに導かれたあの日の気まぐれが、二人の関係を大きく変えた。退屈な授業も変わらない日々も、マトイがいれば至福になる。彼女と二人で、代わり映えしない平穏をずっと抱きしめて生きていく。学園を卒業してもいつまでも続く平穏を願いながら、ヒイラギは教室の席につき、頬杖をついた。窓の外は、明るく輝く朝陽できらめいていた。