宇宙の百合
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#6 とろけるパステルクルール
まさかパジャマを着てマトイの部屋を訪れることになろうとは、一片たりとも考えたことがなかった。何が起こるかわからないよね、人生って。そんな風に妙に達観しながら、百合川ヒイラギは夜の静寂が心地よい学生寮の廊下を歩き、教えてもらったマトイの部屋の前で立ち止まった。均一な学生寮の部屋は、部屋番号が書いてあるプレートがなければどこも同じで見分けがつかないが、今からヒイラギが足を踏み入れようとしている部屋は、特別な部屋だ。
ヒイラギは小さく息を吸って吐いて、心を整えた。この扉一枚隔てた先に、今日恋人になったばかりの夕凪マトイがいる。年頃の乙女の部屋に立ち入ることなど無論初めてで、人生で1、2を争うほど緊張している。下手をすると彼女に想いを伝えたときよりも、ずっと。
緩く拳を作り、手の甲で優しくノックする。夜の静けさの前では、乾いたノックの音が耳の奥まで谺する。硬質なノックの余韻に浸りながら数秒待っていると、
「こんばんは、百合川くん」
扉からマトイの顔だけ斜めに飛び出してきた。茂みから顔だけ出しているような、何だか不思議な動きだ。
「こんばんは。入っていい?」
「うん。いいよ、入って」
「お邪魔します」
彼女に続いて部屋に入る。彼女が歩いた軌跡をなぞるように歩くと、ふわりと自然な香りが鼻をくすぐる。柔らかな花に似た香り。部屋の間取りはヒイラギのものと全く同じで、狭いワンルームだが机とベッドが目立つくらいで整然としている。ところどころ置いてある文房具やマグカップといった小物が可愛らしい色合いで、マトイの趣味を感じさせる。彼女は白地に淡いパステルカラーの花を散らしたワンピースのパジャマを着ていて、普段の紺色の制服姿とは随分と趣の異なる、ふわふわとした穏やかな出で立ちだった。マトイは恥ずかしそうに頬をかきながら、
「掃除は……してみたんだけど……あんまり綺麗じゃないかも。ごめんね」
「ううん、綺麗な部屋だよ」
正直な感想を述べるとマトイは顔を赤らめながら、ばふ、とベッドに倒れ込んで端に寄って寝転んだ。一人で眠ることを想定した大きさのベッドだが、恋人同士で寝転がることも不可能ではない。
「来て、いいよ?」
ころんと寝転がったマトイが視線を寄越しながら呟く姿は、可愛らしい外見のはずなのに邪な気分を盛り上げるものだった。ヒイラギも男なので色々と期待してしまうところもあるのだが、少なくとも今夜はそういう夜ではないだろうと思っている。ヒイラギは再び落ち着くために息を吐き、ベッドに膝を乗せて横に寝ると、ベッドの上でマトイと向かい合った。
「ねえ、急にどうしたの?」
寝転がって視線を交わして早速、気になって仕方なかったことを尋ねた。マトイは不思議そうに目を丸くして、
「え?」
「だって、そうじゃない?泊まりに来てって言われるなんて、思ってなかったから」
「あ……あー、そうかもね……」
あまり意味のない相槌を返しながら、視線を泳がせた。絶妙にヒイラギと目が合わない。俯いてしばらく黙っていたと思ったら、マトイが顔を上げてヒイラギを真っ直ぐ見据えた。
「今日は帰ってほしくないって思ったの。せっかく彼氏になったんだから、ずっと一緒にいてほしいって……わがまま聞いてくれて、ありがとう」
マトイの声は小さく頼りないものだったが、二人だけの空間、囁き声さえも漏らさない夜の静寂の中で聞き逃すはずがなかった。ヒイラギはマトイの背中に腕を回し、抱きしめた。マトイが胸元で息をのむ気配がした。
「わがままなんかじゃないよ。仮にわがままだったとしても、それくらい何でもないよ」
「百合川くん」
「ね?」
上目遣いで見つめてくる彼女に笑みを返すと、マトイも泣きそうな顔で笑った。
「今夜はずっと一緒だよ。二人でずっと一緒って、とっても素敵だよね?」
「うん」
マトイが胸に顔を擦りつけてくるのが可愛くて、ヒイラギは頭を撫でた。天使の輪を作る滑らかな髪の感触に心が安らぐ。
「夕凪さん、単なる雑談なんだけど、聞いてくれる?」
「うん」
「夕凪さんは宇宙に会ったことある?」
「宇宙……?」
露骨に怪訝な声と顔でマトイに見られた。それはそうだろう。同じ質問をされたら、ヒイラギだって同じ反応をすると思う。苦笑して、言葉を続ける。
「君に告白する前に、自分は宇宙だって言う、僕にそっくりな人に会ったんだ。……うん、そんな顔になるのわかるよ。意味わからないよね?」
「百合川くん、たまに不思議なこと言うから……ほら、前に私とどこかで会った気がするって言ってたよね」
「あー、そういえばそんなことも言ったね。……宇宙のこと、あんまり聞かないんだね」
「百合川くんが言うなら、本当にあったことなんだろうって思って。理解できてるかと言われると微妙だけど」
「助かるよ。あー、えーと……それでね、その宇宙さんが僕の背中を押してくれたんだ」
「背中を?」
「うん」
目を閉じると、ヒイラギに瓜二つの少年から遠回しに幸せになれ、と発破をかけられたことを思い出す。彼の話は半分くらい理解できない内容だったが、ヒイラギのことを案じてくれているらしいとだけ理解できた。彼のおかげで今があると言っても、割と言い過ぎではない。
「君に告白しろって言われたんだ。もう少し様子を見ようかなって思ってたんだけど、背中を押してくれて助かったよ」
「そうなんだ。じゃあ私もその宇宙さんに感謝しないといけないね。百合川くんに告白されて、思ってたより早くこういう関係になったから」
「そうだね。また会えるかわからないけど、もし会えたらお礼を言っておくよ」
ヒイラギは言葉を紡ぎながらも、どこかで見えない視線を感じていた。大宇宙を名乗る彼なら、今この瞬間すらも彼の手中にあるのだろう。彼の気まぐれでまた姿を現してくれたら助かるのだけれど。
「百合川くん」
「なに?」
「百合川くんの手、見たいの。ほら、手、合わせて?」
マトイが右掌を見せてきた。ここに合わせろということか。ヒイラギは左掌を彼女の掌に合わせた。ぴったりと合わせると、ヒイラギの掌はマトイのものより少し大きく、指も長い。
「あ、やっぱり百合川くんの方が手、大きいんだね」
「まあ僕、男だからね」
「こういう細かいことを知ってるの、いかにも彼女っぽいよね。何だかドキドキしちゃう」
恥ずかしそうに笑っているマトイをすぐ近くで独占している。ヒイラギも自然と笑みを漏らした。ささやかなことを共有できる喜びは初めて味わうもので、これからもじっくり噛みしめたい。
「手、握っていい?」
今掌同士が触れ合っているだけでもいいのだが、せっかくなら指を絡めたい。ヒイラギが尋ねると、マトイは頷いた。いわゆる恋人繋ぎというものをやってみる。祈りの形のように触れあった掌、二人の異なる指が絡まりあうぬくもりは想像していたよりも心地よくて、思わずヒイラギはぎゅっと握りしめた。見るとマトイは顔を赤らめている。そんな可愛い反応をされると、少しばかり悪戯をしてみたくなる。
「キスよりも恥ずかしい?」
「……!うー……うん」
冷静に考えれば、恋人になるまでにキスだけは済ませている、少し普通とは違う状況だった。階段をひとつふたつ飛ばしている気がする。
「じゃあさ、夕凪さん」
絡めた指はそのままで、顔が赤い彼女の鼻先で囁いた。
「キス、しよ?」
吐息すら互いの顔にかかる距離、マトイは恥じらいながらも首肯した。言葉はなくとも、控えめながらも意思表示をする様はいじらしい。もう少し焦らしてみたくなる。瞳を閉じたマトイの額に額を合わせ、数十秒、じっくり彼女の顔を熟視する。艶やかな唇が赤く色づいてヒイラギを誘っている。時間だけが過ぎていくことに違和感を覚えたのだろう、マトイが薄く瞳を開き、
「しないの……?」
待ち侘びる色を帯びた眼差しで見つめてくる。しっとりと濡れた唇が動く様子にヒイラギの理性が決壊し、可憐な唇を奪った。触れて自らの唇を押しつけて、味わうように何度も唇を吸う。保健室では数秒。ヒイラギの部屋では触れるだけ。観覧車では数十秒。今までもキスはしたけれど、今回は回数を重ねたい。いくらでも唇を奪う時間はあるし、それを邪魔する要因は何もない。
「ん……」
口付けの合間に漏れ聞こえるマトイの吐息は官能的で、抑えている先を求める野生が疼く。ああでも、今夜は駄目だよ。今はそういう時間じゃない。
「何回もされると、恥ずかしい……」
唇を離して見つめた彼女は甘くとろけた視線をヒイラギと交わしながら、頬を赤らめていた。
「どうして?何回しても、1回だけでも、キスはキスでしょ?」
「何回もされるの、初めてだから……」
「じゃあ2回目は恥ずかしくないかもよ?ほら、夕凪さんの方からしてみて?」
「え」
マトイの動きが硬直した。耳まで赤くして黙り込んでいる。
「君からキスされたのって、1回しかないから。僕もキスされたい」
「え、あ、の……」
「大丈夫。目を閉じて待っててあげるから」
言った直後、ヒイラギは目を閉じた。自ら招いた暗闇に身を委ねると、しんと静まり返った空間を全身で感じる。衣擦れの微かな音が耳を震わせて、頬に柔らかなぬくもりを感じた。マトイの掌が頬に添えられている。そう理解した次の瞬間、唇に柔い感触が押しつけられた。唇同士が舐め合うように擦れ合って、マトイの体温が伝わってくる。マトイは大胆に何度も角度を変えて口付けながら、ぬるりと質量のある物体をヒイラギの唇に押しつけてきた。きっと彼女の舌だろうと思って歯列のカーテンを開き、入ってくる舌を受け入れる。おずおずと侵入する舌がヒイラギの舌に乗っかり、ざらついた感触を共有する。慰め合って肩を寄せ合うように舌同士を絡めて音を立てる時間に、ヒイラギもマトイも酔っているように思えた。
「ん、む……」
マトイの唇が離れて、密着していた温度が急激に失われる。ヒイラギが目を開くと、恨みがましい目でマトイが睨んできた。
「ずいぶんと大胆だったね?」
「びっくりさせたくて。……びっくりした?」
「驚いたよ、すごく」
そう言うと、マトイはしてやったりという顔で得意げに笑った。
「君のそういうところ、大好きだよ。マトイ」
「……え?あ、」
マトイが戸惑っている隙に、無防備な唇を奪ってしまう。驚きを提供されたら、それを上回るときめきを与えてやりたい。先ほど彼女にしたような、優しいキスなんてしてやらない。貪って舌を絡め取って音を立てて、少しばかり下品な、でも彼女を全部味わうようにキスをする。濡れて輝くマトイの口唇に吸いつくのが止められない。こんなに心地いいこと、やめられない。何度も刺激を与えられて少し腫れたマトイの唇を見て、これ以上はよくないかと思い直して唇を離した。
「あの、百合川くん」
「なに?」
「あの……急に名前、呼ばれてびっくりして……」
「ねえ、僕の下の名前、わかるよね?」
「う、うん」
「じゃあ、呼んでみて?」
莞爾としてマトイを見つめると、彼女はもごもごと口を動かすが声が出てこない様子だった。じっくりマトイの様子を一から十まで見守っていると、マトイははにかみながら口を開いた。
「ヒイラギ、くん……」
大きな声ではないが、この空間では明瞭に聞こえた。耳に届いた音の連なりが血流に乗って全身に広がるような心地がする。単に名前を呼ばれただけなのに、穏やかな熱が宿っていく。ヒイラギはマトイを抱きしめて彼女の頭を撫でながら、
「ありがとう。とっても嬉しいよ」
まだ耳の奥に残っている余韻を感じて笑みを零した。マトイはヒイラギの胸に顔を押しつけながら、上目遣いで見つめてきた。
「ねえ、百合川くん」
「ん?」
「恋人同士になったんだから、呼び方って変えた方がいいかな?」
「んー……」
ヒイラギは斜め上に視線を泳がせて思考を巡らせ、
「君は名前で呼ばれたい?」
「そう、かも。さっき名前で呼ばれてすごくドキドキしたから」
「そっか。ねえ、マトイ」
マトイの耳元で吐息混じりに囁いてみせる。くすぐったいのか少し震えるマトイの様子が可愛らしい。
「僕も名前で呼んでよ」
「……ヒイラギくん」
「うん、いいね。ありがとう」
マトイのさらさらの髪を撫でると、マトイは目を細めてあくびをした。
「眠い?」
「うん……百合川……じゃなかった、ヒイラギくんと一緒にいると安心しちゃって……」
「そっか。じゃあ、そろそろ寝ようか?」
「うん」
マトイが部屋の電気を消そうとリモコンに手を伸ばす。もうすぐ彼女の顔がよく見えなくなってしまうと思うと勿体無くて、ヒイラギは声をかけた。
「おやすみ、マトイ」
マトイはリモコンを持ったまま数秒硬直したが、
「おやすみ、ヒイラギくん」
微笑んで優しい声を返してくれた。電気が消えて暗闇が訪れても、すぐ近くに彼女の穏やかな熱源を感じて、気持ちが落ち着く。ヒイラギは無意識にマトイを抱き寄せて、瞳を閉じた。
「ん……」
ヒイラギは柔らかな朝の陽射しを感じて目を覚ました。閉じた瞼に朝の穏やかな熱を感じながら、瞼を開いた。暗闇を切り裂いて開いた視界いっぱいに、マトイの寝顔が広がる。規則正しい寝息を立てて、安心しきった顔で眠っている。彼女がすぐ近くにいる状況で眠りにつき、目覚めても彼女が手の届く距離にいる。少し前とは違う関係になったことを自覚する、素晴らしい瞬間だ。
ヒイラギは口元を綻ばせてマトイの髪を撫でた。さらりと流れて指の間を零れていく鮮やかな感触が心地よい。ヒイラギといるときにしか見せないだろう無防備な寝顔もたまらない。恋人になってほしいと強く願っていたが、恋人になってからも自分の腕の中だけに収めてしまいたくなる。
「う、ん……?」
マトイの唇が薄く開き、何度かゆっくりと瞬きをして、ヒイラギと目が合った。一瞬マトイは呆けた顔をしていたが、すぐに目尻を下げた。
「おはよう、マトイ。ごめんね、起こしちゃったね」
「ううん、気にしなくていいよ……今何時……?」
「えーっとね……11時だね」
「え!?」
マトイが大きな声を上げて目を見開いたが、すぐに普段の穏やかな眼差しに戻る。
「今日お休みだからいいか。ヒイラギくんは結構前から起きてたの?」
「ついさっき起きたばっかりだよ。自分でもびっくりしてる、昼前まで寝ることってあんまりないから」
ヒイラギはぴんと立てた人差し指をマトイの唇に当て、
「君と一緒だったからかな。マトイがいると寝過ぎちゃうみたい」
言いながら小首を傾げた。人差し指を離すと、マトイは小さく息を漏らす。
「私もヒイラギくんと一緒だから安心しちゃったみたい」
二人至近距離で見つめ合い、くすくすと笑った。ヒイラギはマトイのふっくら実った頬にキスをして、マトイと視線を交わした。
「今日はどうしようか。昨日みたいに出かけてもいいね。天気よさそうだ」
「うん、それもいいんだけど……ヒイラギくん」
「なに?」
「今日、このままゴロゴロしない?もっとヒイラギくんとくっつきたい」
「いいね」
少しはにかんで自己主張をする彼女に心が揺れ、ヒイラギはマトイを抱き寄せた。日付が変わっても彼女とずっと一緒。甘美な響きと抱きしめる彼女の柔らかい感触に心がとろける。このまま一生彼女と一緒にとろけてしまっても、きっと悔いはないだろう、そうヒイラギは確信した。
まさかパジャマを着てマトイの部屋を訪れることになろうとは、一片たりとも考えたことがなかった。何が起こるかわからないよね、人生って。そんな風に妙に達観しながら、百合川ヒイラギは夜の静寂が心地よい学生寮の廊下を歩き、教えてもらったマトイの部屋の前で立ち止まった。均一な学生寮の部屋は、部屋番号が書いてあるプレートがなければどこも同じで見分けがつかないが、今からヒイラギが足を踏み入れようとしている部屋は、特別な部屋だ。
ヒイラギは小さく息を吸って吐いて、心を整えた。この扉一枚隔てた先に、今日恋人になったばかりの夕凪マトイがいる。年頃の乙女の部屋に立ち入ることなど無論初めてで、人生で1、2を争うほど緊張している。下手をすると彼女に想いを伝えたときよりも、ずっと。
緩く拳を作り、手の甲で優しくノックする。夜の静けさの前では、乾いたノックの音が耳の奥まで谺する。硬質なノックの余韻に浸りながら数秒待っていると、
「こんばんは、百合川くん」
扉からマトイの顔だけ斜めに飛び出してきた。茂みから顔だけ出しているような、何だか不思議な動きだ。
「こんばんは。入っていい?」
「うん。いいよ、入って」
「お邪魔します」
彼女に続いて部屋に入る。彼女が歩いた軌跡をなぞるように歩くと、ふわりと自然な香りが鼻をくすぐる。柔らかな花に似た香り。部屋の間取りはヒイラギのものと全く同じで、狭いワンルームだが机とベッドが目立つくらいで整然としている。ところどころ置いてある文房具やマグカップといった小物が可愛らしい色合いで、マトイの趣味を感じさせる。彼女は白地に淡いパステルカラーの花を散らしたワンピースのパジャマを着ていて、普段の紺色の制服姿とは随分と趣の異なる、ふわふわとした穏やかな出で立ちだった。マトイは恥ずかしそうに頬をかきながら、
「掃除は……してみたんだけど……あんまり綺麗じゃないかも。ごめんね」
「ううん、綺麗な部屋だよ」
正直な感想を述べるとマトイは顔を赤らめながら、ばふ、とベッドに倒れ込んで端に寄って寝転んだ。一人で眠ることを想定した大きさのベッドだが、恋人同士で寝転がることも不可能ではない。
「来て、いいよ?」
ころんと寝転がったマトイが視線を寄越しながら呟く姿は、可愛らしい外見のはずなのに邪な気分を盛り上げるものだった。ヒイラギも男なので色々と期待してしまうところもあるのだが、少なくとも今夜はそういう夜ではないだろうと思っている。ヒイラギは再び落ち着くために息を吐き、ベッドに膝を乗せて横に寝ると、ベッドの上でマトイと向かい合った。
「ねえ、急にどうしたの?」
寝転がって視線を交わして早速、気になって仕方なかったことを尋ねた。マトイは不思議そうに目を丸くして、
「え?」
「だって、そうじゃない?泊まりに来てって言われるなんて、思ってなかったから」
「あ……あー、そうかもね……」
あまり意味のない相槌を返しながら、視線を泳がせた。絶妙にヒイラギと目が合わない。俯いてしばらく黙っていたと思ったら、マトイが顔を上げてヒイラギを真っ直ぐ見据えた。
「今日は帰ってほしくないって思ったの。せっかく彼氏になったんだから、ずっと一緒にいてほしいって……わがまま聞いてくれて、ありがとう」
マトイの声は小さく頼りないものだったが、二人だけの空間、囁き声さえも漏らさない夜の静寂の中で聞き逃すはずがなかった。ヒイラギはマトイの背中に腕を回し、抱きしめた。マトイが胸元で息をのむ気配がした。
「わがままなんかじゃないよ。仮にわがままだったとしても、それくらい何でもないよ」
「百合川くん」
「ね?」
上目遣いで見つめてくる彼女に笑みを返すと、マトイも泣きそうな顔で笑った。
「今夜はずっと一緒だよ。二人でずっと一緒って、とっても素敵だよね?」
「うん」
マトイが胸に顔を擦りつけてくるのが可愛くて、ヒイラギは頭を撫でた。天使の輪を作る滑らかな髪の感触に心が安らぐ。
「夕凪さん、単なる雑談なんだけど、聞いてくれる?」
「うん」
「夕凪さんは宇宙に会ったことある?」
「宇宙……?」
露骨に怪訝な声と顔でマトイに見られた。それはそうだろう。同じ質問をされたら、ヒイラギだって同じ反応をすると思う。苦笑して、言葉を続ける。
「君に告白する前に、自分は宇宙だって言う、僕にそっくりな人に会ったんだ。……うん、そんな顔になるのわかるよ。意味わからないよね?」
「百合川くん、たまに不思議なこと言うから……ほら、前に私とどこかで会った気がするって言ってたよね」
「あー、そういえばそんなことも言ったね。……宇宙のこと、あんまり聞かないんだね」
「百合川くんが言うなら、本当にあったことなんだろうって思って。理解できてるかと言われると微妙だけど」
「助かるよ。あー、えーと……それでね、その宇宙さんが僕の背中を押してくれたんだ」
「背中を?」
「うん」
目を閉じると、ヒイラギに瓜二つの少年から遠回しに幸せになれ、と発破をかけられたことを思い出す。彼の話は半分くらい理解できない内容だったが、ヒイラギのことを案じてくれているらしいとだけ理解できた。彼のおかげで今があると言っても、割と言い過ぎではない。
「君に告白しろって言われたんだ。もう少し様子を見ようかなって思ってたんだけど、背中を押してくれて助かったよ」
「そうなんだ。じゃあ私もその宇宙さんに感謝しないといけないね。百合川くんに告白されて、思ってたより早くこういう関係になったから」
「そうだね。また会えるかわからないけど、もし会えたらお礼を言っておくよ」
ヒイラギは言葉を紡ぎながらも、どこかで見えない視線を感じていた。大宇宙を名乗る彼なら、今この瞬間すらも彼の手中にあるのだろう。彼の気まぐれでまた姿を現してくれたら助かるのだけれど。
「百合川くん」
「なに?」
「百合川くんの手、見たいの。ほら、手、合わせて?」
マトイが右掌を見せてきた。ここに合わせろということか。ヒイラギは左掌を彼女の掌に合わせた。ぴったりと合わせると、ヒイラギの掌はマトイのものより少し大きく、指も長い。
「あ、やっぱり百合川くんの方が手、大きいんだね」
「まあ僕、男だからね」
「こういう細かいことを知ってるの、いかにも彼女っぽいよね。何だかドキドキしちゃう」
恥ずかしそうに笑っているマトイをすぐ近くで独占している。ヒイラギも自然と笑みを漏らした。ささやかなことを共有できる喜びは初めて味わうもので、これからもじっくり噛みしめたい。
「手、握っていい?」
今掌同士が触れ合っているだけでもいいのだが、せっかくなら指を絡めたい。ヒイラギが尋ねると、マトイは頷いた。いわゆる恋人繋ぎというものをやってみる。祈りの形のように触れあった掌、二人の異なる指が絡まりあうぬくもりは想像していたよりも心地よくて、思わずヒイラギはぎゅっと握りしめた。見るとマトイは顔を赤らめている。そんな可愛い反応をされると、少しばかり悪戯をしてみたくなる。
「キスよりも恥ずかしい?」
「……!うー……うん」
冷静に考えれば、恋人になるまでにキスだけは済ませている、少し普通とは違う状況だった。階段をひとつふたつ飛ばしている気がする。
「じゃあさ、夕凪さん」
絡めた指はそのままで、顔が赤い彼女の鼻先で囁いた。
「キス、しよ?」
吐息すら互いの顔にかかる距離、マトイは恥じらいながらも首肯した。言葉はなくとも、控えめながらも意思表示をする様はいじらしい。もう少し焦らしてみたくなる。瞳を閉じたマトイの額に額を合わせ、数十秒、じっくり彼女の顔を熟視する。艶やかな唇が赤く色づいてヒイラギを誘っている。時間だけが過ぎていくことに違和感を覚えたのだろう、マトイが薄く瞳を開き、
「しないの……?」
待ち侘びる色を帯びた眼差しで見つめてくる。しっとりと濡れた唇が動く様子にヒイラギの理性が決壊し、可憐な唇を奪った。触れて自らの唇を押しつけて、味わうように何度も唇を吸う。保健室では数秒。ヒイラギの部屋では触れるだけ。観覧車では数十秒。今までもキスはしたけれど、今回は回数を重ねたい。いくらでも唇を奪う時間はあるし、それを邪魔する要因は何もない。
「ん……」
口付けの合間に漏れ聞こえるマトイの吐息は官能的で、抑えている先を求める野生が疼く。ああでも、今夜は駄目だよ。今はそういう時間じゃない。
「何回もされると、恥ずかしい……」
唇を離して見つめた彼女は甘くとろけた視線をヒイラギと交わしながら、頬を赤らめていた。
「どうして?何回しても、1回だけでも、キスはキスでしょ?」
「何回もされるの、初めてだから……」
「じゃあ2回目は恥ずかしくないかもよ?ほら、夕凪さんの方からしてみて?」
「え」
マトイの動きが硬直した。耳まで赤くして黙り込んでいる。
「君からキスされたのって、1回しかないから。僕もキスされたい」
「え、あ、の……」
「大丈夫。目を閉じて待っててあげるから」
言った直後、ヒイラギは目を閉じた。自ら招いた暗闇に身を委ねると、しんと静まり返った空間を全身で感じる。衣擦れの微かな音が耳を震わせて、頬に柔らかなぬくもりを感じた。マトイの掌が頬に添えられている。そう理解した次の瞬間、唇に柔い感触が押しつけられた。唇同士が舐め合うように擦れ合って、マトイの体温が伝わってくる。マトイは大胆に何度も角度を変えて口付けながら、ぬるりと質量のある物体をヒイラギの唇に押しつけてきた。きっと彼女の舌だろうと思って歯列のカーテンを開き、入ってくる舌を受け入れる。おずおずと侵入する舌がヒイラギの舌に乗っかり、ざらついた感触を共有する。慰め合って肩を寄せ合うように舌同士を絡めて音を立てる時間に、ヒイラギもマトイも酔っているように思えた。
「ん、む……」
マトイの唇が離れて、密着していた温度が急激に失われる。ヒイラギが目を開くと、恨みがましい目でマトイが睨んできた。
「ずいぶんと大胆だったね?」
「びっくりさせたくて。……びっくりした?」
「驚いたよ、すごく」
そう言うと、マトイはしてやったりという顔で得意げに笑った。
「君のそういうところ、大好きだよ。マトイ」
「……え?あ、」
マトイが戸惑っている隙に、無防備な唇を奪ってしまう。驚きを提供されたら、それを上回るときめきを与えてやりたい。先ほど彼女にしたような、優しいキスなんてしてやらない。貪って舌を絡め取って音を立てて、少しばかり下品な、でも彼女を全部味わうようにキスをする。濡れて輝くマトイの口唇に吸いつくのが止められない。こんなに心地いいこと、やめられない。何度も刺激を与えられて少し腫れたマトイの唇を見て、これ以上はよくないかと思い直して唇を離した。
「あの、百合川くん」
「なに?」
「あの……急に名前、呼ばれてびっくりして……」
「ねえ、僕の下の名前、わかるよね?」
「う、うん」
「じゃあ、呼んでみて?」
莞爾としてマトイを見つめると、彼女はもごもごと口を動かすが声が出てこない様子だった。じっくりマトイの様子を一から十まで見守っていると、マトイははにかみながら口を開いた。
「ヒイラギ、くん……」
大きな声ではないが、この空間では明瞭に聞こえた。耳に届いた音の連なりが血流に乗って全身に広がるような心地がする。単に名前を呼ばれただけなのに、穏やかな熱が宿っていく。ヒイラギはマトイを抱きしめて彼女の頭を撫でながら、
「ありがとう。とっても嬉しいよ」
まだ耳の奥に残っている余韻を感じて笑みを零した。マトイはヒイラギの胸に顔を押しつけながら、上目遣いで見つめてきた。
「ねえ、百合川くん」
「ん?」
「恋人同士になったんだから、呼び方って変えた方がいいかな?」
「んー……」
ヒイラギは斜め上に視線を泳がせて思考を巡らせ、
「君は名前で呼ばれたい?」
「そう、かも。さっき名前で呼ばれてすごくドキドキしたから」
「そっか。ねえ、マトイ」
マトイの耳元で吐息混じりに囁いてみせる。くすぐったいのか少し震えるマトイの様子が可愛らしい。
「僕も名前で呼んでよ」
「……ヒイラギくん」
「うん、いいね。ありがとう」
マトイのさらさらの髪を撫でると、マトイは目を細めてあくびをした。
「眠い?」
「うん……百合川……じゃなかった、ヒイラギくんと一緒にいると安心しちゃって……」
「そっか。じゃあ、そろそろ寝ようか?」
「うん」
マトイが部屋の電気を消そうとリモコンに手を伸ばす。もうすぐ彼女の顔がよく見えなくなってしまうと思うと勿体無くて、ヒイラギは声をかけた。
「おやすみ、マトイ」
マトイはリモコンを持ったまま数秒硬直したが、
「おやすみ、ヒイラギくん」
微笑んで優しい声を返してくれた。電気が消えて暗闇が訪れても、すぐ近くに彼女の穏やかな熱源を感じて、気持ちが落ち着く。ヒイラギは無意識にマトイを抱き寄せて、瞳を閉じた。
「ん……」
ヒイラギは柔らかな朝の陽射しを感じて目を覚ました。閉じた瞼に朝の穏やかな熱を感じながら、瞼を開いた。暗闇を切り裂いて開いた視界いっぱいに、マトイの寝顔が広がる。規則正しい寝息を立てて、安心しきった顔で眠っている。彼女がすぐ近くにいる状況で眠りにつき、目覚めても彼女が手の届く距離にいる。少し前とは違う関係になったことを自覚する、素晴らしい瞬間だ。
ヒイラギは口元を綻ばせてマトイの髪を撫でた。さらりと流れて指の間を零れていく鮮やかな感触が心地よい。ヒイラギといるときにしか見せないだろう無防備な寝顔もたまらない。恋人になってほしいと強く願っていたが、恋人になってからも自分の腕の中だけに収めてしまいたくなる。
「う、ん……?」
マトイの唇が薄く開き、何度かゆっくりと瞬きをして、ヒイラギと目が合った。一瞬マトイは呆けた顔をしていたが、すぐに目尻を下げた。
「おはよう、マトイ。ごめんね、起こしちゃったね」
「ううん、気にしなくていいよ……今何時……?」
「えーっとね……11時だね」
「え!?」
マトイが大きな声を上げて目を見開いたが、すぐに普段の穏やかな眼差しに戻る。
「今日お休みだからいいか。ヒイラギくんは結構前から起きてたの?」
「ついさっき起きたばっかりだよ。自分でもびっくりしてる、昼前まで寝ることってあんまりないから」
ヒイラギはぴんと立てた人差し指をマトイの唇に当て、
「君と一緒だったからかな。マトイがいると寝過ぎちゃうみたい」
言いながら小首を傾げた。人差し指を離すと、マトイは小さく息を漏らす。
「私もヒイラギくんと一緒だから安心しちゃったみたい」
二人至近距離で見つめ合い、くすくすと笑った。ヒイラギはマトイのふっくら実った頬にキスをして、マトイと視線を交わした。
「今日はどうしようか。昨日みたいに出かけてもいいね。天気よさそうだ」
「うん、それもいいんだけど……ヒイラギくん」
「なに?」
「今日、このままゴロゴロしない?もっとヒイラギくんとくっつきたい」
「いいね」
少しはにかんで自己主張をする彼女に心が揺れ、ヒイラギはマトイを抱き寄せた。日付が変わっても彼女とずっと一緒。甘美な響きと抱きしめる彼女の柔らかい感触に心がとろける。このまま一生彼女と一緒にとろけてしまっても、きっと悔いはないだろう、そうヒイラギは確信した。