宇宙の百合
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#4 急転直下の濡れ鴉
「ねえ、夕凪さん」
ある日の放課後。一人の女生徒がマトイのもとにやって来た。輝く黒髪を揺らしながら微笑む彼女は、磯野上タオ。生き生きとした明るい表情、水色のジャージがよく似合う健康的な美人。マトイはタオと同じクラスになったことがなく、とんでもない美人がいると噂に聞くだけで彼女とは何の接点もない。タオに話しかけられるような覚えがまるでなく、
「え…?あ、はい」
呼び止められて妙に堅い返答をしてしまった。タオは全く意に介さず、人好きのする笑顔を浮かべている。
「ユヅルくんに聞いたの。百合川くんと一緒にテスト勉強してるんだよね」
「え?うん」
言われてふと思い至ったが、気がつくとユヅル、ヒイラギ、マトイの3人で放課後集まってテスト勉強することが習慣と化していた。今日も集まる予定だった。それがどうしたというのだろうか。
「私も一緒に勉強してもいい?」
「えっ?」
タオの唐突にもほどがある言葉にマトイは硬直してしまった。ヒイラギが頭をよぎる。おそらくは彼も知っているだろう磯野上タオ。彼女は間近で見るとぱっちりと大きな瞳が印象的で、初対面の相手に対しても気さくに接する態度といい、彼女が噂になる理由も推し量れるものだ。同性のマトイでさえ、磯野上さんは美人だなと少しぼんやりしてしまうくらい、タオは輝いて見えた。
「……それは」
不意に、やや低い声が割って入ってくる。マトイの左斜め前の席、ヒイラギが振り返ってタオとマトイに目配せしていた。
「それは、敦田くんも了承しているのかな?」
「ユヅルくんには私から話しておいたよ?百合川くんと夕凪さんがいいって言ったら構わない、って言ってたから、聞いておこうと思って」
ヒイラギの問いに、眩しい夏の太陽のような笑顔でタオは答える。マトイは思わずヒイラギを見た。正直なところ、少なくともマトイには断る理由がない。もともと想定していなかった勉強会なのだから、今更一人増えたところで単なる誤差に過ぎない。過ぎないのだが、
(……まさか、百合川くんが目当てだったり、しないよね……?)
何故突然タオが現れたのかという疑問は拭えない。もしも彼女がヒイラギとともに過ごす時間を目的にしてやって来たとすれば、彼女は恋敵になる。こんなに綺麗な髪をした明るい美人。マトイには勝てる要素が見つからない。ヒイラギがタオに惹かれてしまったらもうマトイの出る幕はなく、ここまで積み上げてきた彼との時間の重なりが儚い砂状に崩れてしまう。本当なら断りたい。タオには一緒にいてほしくない。だがそれを正当化する理由がない。
「僕は構わないよ。夕凪さんは?」
「あ……」
即答する彼に、マトイは言葉に詰まった。タオとヒイラギ、二人分の視線が刺さる。時間を稼いだところで、マトイの口から溢れる結論は同じだった。
「私も……いいよ」
かくしてヒイラギ、マトイ、ユヅル、タオの4人での勉強会が始まっていた。マトイは気もそぞろに落ち着かず、コツコツとシャープペンの頭を叩き続けていた。定期テストは刻一刻と近づいており、成績から考えるとマトイは到底無為に過ごしている場合ではないのだが、どうしても集中できない。
机を並べている教室の窓の外がより濃い暮色に包まれる頃、
「ちょっと休憩しよっか。私、飲み物買ってくるよ」
タオの明朗な声が響いた。立ち上がったタオはマトイを見下ろし、
「夕凪さん、一緒に行こう」
「えっ?あ、うん」
あまりにも自然に呼びかけるものだから、マトイもつられて立ち上がり、軽やかに歩いていくタオの後ろ姿を追う羽目になった。こっちこっち、と迷いなく手招きするタオに導かれ、校舎の外に設置してある自販機までやって来る。沈みかけた夕陽は最後の抵抗のように地平線を強烈な色に染め、地平線から遠く離れた空は輪郭が不明瞭に暗くなっていく。遠くで鴉が鳴き、校舎に人はまばらだ。定期テストが近いためか部活に勤しむ生徒も少ない。タオとマトイだけが、沈みゆく夕陽の中自販機を前に二人佇んでいる。
「あの、磯野上さん」
自販機に硬貨を入れるタオに声をかけた。
「なに?」
タオがこちらに顔を向けてくる。鮮烈な夕陽に照らされた顔はいっそ神々しいほど可愛らしく、言葉を見失いそうになる。だが、彼女とマトイしかいないこの空間だからこそ聞きたいことがあった。
「どうしてこの勉強会に参加したいって思ったの?」
聞いてから少し棘のある言い方だったかと後悔したが、
「ユヅルくんがいるから」
タオは特に気にならなかったらしく、さも当然と言わんばかりの顔で返された。至極あっさりとした、マトイの覚悟が押し流されそうなほど軽い返答だった。
「……敦田くんが?」
「うん」
タオの指が自販機のボタンを押す。ガコン、と物憂げな暮色に無機質な音が響く。
「もしかして、夕凪さん」
タオは2本の缶ジュースを手にしていた。こちらに渡す気配はない。
「私が百合川くんを目当てにしてたって思ってたの?」
「………」
マトイはタオの不思議そうな顔を直視できず、目を逸らして頷いた。疑って不躾な質問をした自分が恥ずかしくなった。
「そっか。だから私が参加してもいいか聞いたとき、ちょっと言い淀んでたんだ」
「……その……ごめんなさい」
「どうして謝るの?夕凪さんは何も悪いことしてないよ」
おそらくタオが買ったのはタオとユヅルの二人分だろうと解釈して、マトイも自販機の前に立った。硬貨を入れる。仄暗く光った自販機のボタンを前に、そういえば百合川くんは飲み物、何がいいんだろうとふと考えを巡らせた。
「じゃあ夕凪さん。私も聞いていい?」
「うん」
「夕凪さん、百合川くんのこと好きなの?」
ふらふらと空中でどのボタンを押すか悩んでいた指が、意図せず強い力で手近なボタンを押した。ガタン、と自販機が缶ジュースを吐き出す。もはやどのボタンを押したかわからない。
「えっ、あ、え?」
周章狼狽。マトイはタオを見つめて硬直してしまった。タオはその様子を見て何を思ったのか微笑んでいる。
「な、何で?」
口をついて出たのはわずか4文字だった。何とか硬直が解けて自販機から缶ジュースを取り出した。普段飲まない炭酸の栄養ドリンクじみたジュースだった。ヒイラギが飲んでいる姿も想像がつかない。
「何で、って……何となくわかるよ。百合川くんのこと、ちらちら見てたし。私に勉強会に参加した理由なんて、普通聞かないもの」
「……そっか……」
意味のない相槌を打ちながら、マトイは深呼吸をして自販機のボタンを押した。無難なお茶だ。先ほど出た栄養ドリンクは自分が飲むことにして、お茶をヒイラギに渡そう。
「夕凪さん、ちょうどよかった。提案があるの」
「提案?」
「定期テストが終わったら、4人でダブルデート、しない?」
「ダブルデート……?」
辛うじて言葉だけ聞いたことがあるし理解もできる。タオはユヅルと、マトイはヒイラギとより接近することを目的に遊びに興じようと、つまりそういうことだろう。マトイだけなら一生思いつきもしない妙案に素直に心から感心しながら、一度も飲んだことのない栄養ドリンクの蓋に指を引っ掛けて開けた。ぷしゅ、と炭酸が抜ける音が聞こえる。
「どこに遊びに行くかは後で考えるとして……ダブルデート、どう?これなら私も夕凪さんもお得でしょ?」
人差し指を立てて笑うタオに、マトイも笑みを返した。
「うん。ダブルデート、してみたい」
「じゃあ、決まりね!定期テスト、お互い頑張ろうね!」
タオの笑顔を見ながら飲んだ栄養ドリンクは、強烈な炭酸とロイヤルゼリーを思わせる強い甘味でマトイの舌を痺れさせた。
ヒイラギ、マトイ、ユヅル、タオの4人で勉強会を開くことになり、各々の知恵を出し合いながら勉強し合い、無事に定期テストが終了した。各人赤点を免れ、定期テストの圧力から解放されて喜んでいた頃、予定通りダブルデートが決行されることになった。場所は遊園地。複数人で遊ぶには確かにうってつけだろう。マトイは大人数で遊びに行くなんて久しぶりだと思いながら、ヒイラギの私服姿が楽しみでたまらなかった。あの白百合の学ランが似合いすぎて私服が全く想像できないが、きっとどんな服でも一定以上の着こなしを見せてくれるだろう。
浮かれた思いで待ち合わせ場所の遊園地に赴くと、もう3人とも到着していた。タオが大きく手を振っていて、慌てて駆け寄る。ふと視界に入ったヒイラギは、灰色の大きめのパーカーにスキニージーンズ、ハイカットのスニーカーというラフな格好だった。灰色のパーカーの前面には、雪だるまに手足が生えたような白いキャラクターがプリントされている。少し意外な組み合わせだったが、すらりと背が高い彼の足のラインが美しく映え、パーカーの腹部にあるポケットに両手を突っ込んでいる様子も物珍しくて視線を奪われる。こっそり私服姿の写真を撮って一生保存したい、なんて犯罪めいた考えも浮かんできてマトイはため息をついた。
4人で巡る遊園地は思ったよりもはるかに愉快で、久しぶりに遊園地という非日常を訪れたことも手伝って、マトイは年甲斐もなくはしゃいでいた。ヒイラギも遊園地の雰囲気に飲まれたのか、年相応の少年らしい笑顔を浮かべていて、綺麗なだけではない可愛らしさを感じた。様々なアトラクションを体験して疲れが見えてきた頃、土産物が置いてあるショップに立ち寄った。商品の陳列もあり4人で固まって行動するスペースはなく、自然とユヅルとヒイラギ、タオとマトイの2組に分かれていた。ずらりと並ぶ菓子類、キーホルダーなど小さなものからぬいぐるみのような大きなものまで、見ているだけでも飽きない品揃えを眺めていると、タオがそっとマトイに耳打ちした。
「夕凪さん」
「なに?」
「夕凪さんって、百合川くんと二人でデートしたことある?」
「……まだないなぁ」
尋ねられて思い返すと、図書室で本を読んだり学生寮で雑談したりしたことはあっても、あくまで学園の範疇でしかないことに気付く。ヒイラギと二人きりのデート。いつかはしてみたい、甘美な響き。
「これ」
言いながらタオがスマートフォンの画面を見せてきた。3段のケーキスタンドに小さなケーキやサンドイッチ、果物等が載っている。美味しそう、よりも先に可愛い、お洒落といった感想が思い浮かぶ、アフタヌーンティーの光景だった。
「この前ユヅルくんと行ってきたの。そんなに遠くないし、デートにはぴったりじゃない?」
タオはもうすでに意中の彼とデートを済ませているのか。マトイよりも遥かに先を行っている。活動的な印象がある彼女だが、恋愛面でも積極的なようだ。見習うべきだと脳内で頷きながら、マトイは画面に映るアフタヌーンティーに思いを馳せた。そういえばヒイラギとは喫茶店に行ったこともある。彼が甘いものを好んで食べる印象はないが、いちご味のポッキーを普通に食べていたことも考えると、店の選択が悪くて断られる心配はなさそうだ。目を閉じて思考を一通り巡らせた後、マトイはタオの手を取り、
「ありがとう磯野上さん!とっても助かる!」
大袈裟なまでに声を上げた。彼女が勉強会に参加すると言い出したときは肝を冷やしたが、禍福は糾える縄のようだと今更ながらに実感した。
暮れなずむ空を背景に、最後までとっておいた観覧車が大きく高く鎮座している。タオの提案でタオとユヅル、ヒイラギとマトイにそれぞれ分かれて乗ることになった。ヒイラギはマトイの手を取り、優雅に二人、ゴンドラに入った。ゴンドラは狭く、二人向かい合って座ると膝が触れ合いそうになる。行儀良く座るマトイはどこか緊張した面持ちで、膝の上に両手を置いている。ヒイラギは初めて学生寮の部屋にマトイを招待したときを思い出して、くすりと笑みを漏らした。夕暮れの色に染まる彼女は儚く、可愛らしい。今すぐ抱きしめて離したくないくらいには。
「あの、百合川くん」
「どうしたの?」
「連絡先、教えてください!」
何故か敬語で声を張り上げた彼女が、拙い手つきでスマートフォンを取り出した。何を言うかと思えば、そんなに張り詰めた顔をして言うことではないだろう。ヒイラギも素直にスマートフォンを取り出した。
「いいよ。ほら」
連絡先交換に使うQRコードを表示させて、マトイに見せた。マトイはあっさりヒイラギが応じたことに拍子抜けしたのか、
「あ、うん、ありがとう」
妙にぎこちない声で答えながら、粛々と連絡先を交換した。彼女に言われるまで連絡先交換という当たり前のことが、頭から綺麗に抜け落ちていた。毎日学園で顔を合わせるのだからそのときに何かあれば言えばいい。それはそうだが、マトイのプライベートのひとかけらを手にすることは重要だ。
「急にどうしたの?そんな縮こまっちゃって」
マトイの様子がおかしいことは手に取るようにわかる。冗談めかして尋ねると、スマートフォンが震えた。先ほど交換したマトイのアドレスから、画像が送られていた。3段のケーキスタンドに所狭しと菓子が並んでいる写真。可愛らしく、お洒落な写真だ。
「今日、磯野上さんから教えてもらったの。いい雰囲気のカフェがあるって……私と一緒に行ってください!」
なるほどデートのお誘いか。ヒイラギは瞬時に察し、彼女が妙に堅くなっていた理由も自ずと理解できた。さぞかし勇気を必要とする行動だっただろう。ヒイラギも似たようなことを考えていた頃合いだったが、彼女に先を越された。だがマトイから直接誘われるのは最高の気分で、今すぐこのゴンドラから飛び降りても構わないくらいだった。
「僕が君のお誘いを断るとでも思ったの?もちろん、一緒に行くよ。僕も気になる。一緒に行きたい」
そう返すと、目の前の彼女は顔を輝かせて大袈裟に喜んでみせた。
「ほんと!?ありがとう!」
彼女の中では断られるかもしれない、という仮定があったのだろうか。だとすれば心外だ。ヒイラギが彼女と過ごしたいと思う慕情が、あまり伝わっていないのかもしれない。あるいは、彼女はとても軽く考えているのかもしれない。わざわざヒイラギがマトイに声をかけ、一緒に時を過ごそうとしている、その意味を。
「ねえ、見て。夕凪さん」
表情がころころと変わるマトイを見つめて顔を綻ばせながら、ヒイラギはすいと視線をゴンドラの外に向けた。ゴンドラは頂上付近まで高く上っており、普段歩いていく東京のビルで埋め尽くされた景色が小さく、はるか遠くまで広がっていた。鮮烈な光を放つ夕陽に照らされて何もかも漆黒の影に沈み、高いビル群の影絵と晩景の空がコントラストをなす。
「綺麗だね」
「うん」
あまりの美しさにろくな言葉が出ず、各々ゴンドラの外を見つめていた。ヒイラギはちらりと横目でマトイを見つめる。眼下に広がる景色を吸い込まれるように見ている横顔は、新しい玩具を見つけた子供のようで、ずっと見ていても飽きない。ヒイラギの視線に気付いたのか、マトイがヒイラギに顔を向け、
「どうしたの?」
と聞いてくる。その顔も邪念がなく純粋で、ヒイラギの心の奥に刺さって抜けなくなる。彼女は知っているのだろうか。マトイの一挙手一投足が、ヒイラギの心を捉えて離してくれないことを。ああ、今すぐ―――今すぐ、この心を埋め尽くす大きな思いを、伝えてしまいたくなる。学園から離れた二人きりの空間だからこそ、外れる箍もある。
「夕凪さん」
ヒイラギが唇を開いたそのとき、ゴンドラが大きく揺れた。思わず椅子を掴んで踏ん張ると、ぴたりとゴンドラの動きが止まり、空中で静止する。ほどなくして、ゴンドラを動かすシステムに異常を発見したので急停止したこと、動き出すまで少し待ってほしい旨のアナウンスが流れた。見ると、マトイが泣きそうな顔をして震えていることに気付く。
「夕凪さん、怖い?」
声を出すこともできないのか、首肯だけが返ってくる。現在二人が乗るゴンドラは頂上で止まっている。地上から数十メートル、もしかすると100メートルを超えているかもしれない。ゴンドラは景観を楽しむため周りがよく見えるようにできている、つまりは自分たちが高所に留まっていることが嫌でもわかる。ただゆっくり通り過ぎるだけなら恐怖もないが、突然の揺れとともにこの高さに取り残されたら、恐れ慄くのも無理はない。
「夕凪さん、隣、いい?」
彼女の隣を指さして問うと、再び頷かれる。ヒイラギは揺らさないように慎重に立ち上がり、マトイの隣に座った。マトイがこちらを見つめてくる。捨てられた子犬のような不安げな瞳。
「大丈夫」
ヒイラギはマトイの肩に手を回し、抱き寄せた。マトイの頭がヒイラギの肩にしなだれかかり、髪が揺れる。マトイは驚いた様子でヒイラギを見上げていた。
「僕がいるから。怖いなら、外は見なくていいよ」
囁きながら、マトイの顔に唇が重なるほど顔を寄せた。色がついたリップクリームを塗っているのか、彼女の唇は淡く赤く色づいている。その瑞々しい唇を見ていると、奪いたくなる。
「僕だけ見ていて」
許可を得る必要はない気がした。だからヒイラギはマトイの後頭部に優しく手を添えて、口付けた。ふっくらとした弾む感触に、ゴンドラに閉じ込められた状況であることを忘れて、長く、永遠とも思える数十秒をかけてマトイの唇を味わった。名残惜しいが唇を離すと、夢見心地の彼女と目が合う。無防備で隙だらけの、愛しい彼女。先ほど言おうとした言葉がするりと零れ落ちそうになったが、押し止まった。彼女に受け止める余裕がないかもしれない。大切な思いを伝えるならば、相手の状況を思いやる必要があるだろう。
「大丈夫?」
「うん……ありがとう」
尋ねると、マトイはうっすらと頬を赤らめてヒイラギの胸に顔を埋めてきた。マトイと触れ合う箇所が熱い。ふわふわとあたたかいマトイの感触にとろけそうになる。いっそこのまま時間を止められたら至上の幸福かもしれないなんて、そんな寝言が頭をよぎった。ヒイラギはマトイの肩を抱きながら、ゴンドラの外に目をやった。少しずつ夕陽が沈んでいく。地平線の橙が濃くなるにつれて、空は暗闇を背負っていく。暗くなっていく空に合わせて観覧車自体がライトアップされて明るい輝きを放つ。ああ、綺麗だ。とても。そう感じるのは、客観的に美しいだけでなく、マトイの存在が大きいのだろうと思う。彼女の体温と鼓動を感じながら見つめる景色は、ヒイラギを落ち着かせる。
「大変お待たせしました。システムが復旧しましたので、ゴンドラの運転を再開いたします」
無機質なアナウンスとともに、止まっていた歯車が再び動き出した。頂上に留まっていたヒイラギたちは、ゆっくり地上へと下りていく。
「動くみたいだね」
「うん、よかった……」
安堵の息をつきながら、胸元でマトイは笑顔を咲かせてヒイラギを見上げていた。そんな顔をされるとまた唇に挨拶したくなる。だが今そうすると深く独占してしまってゴンドラを降りられなくなりそうだ。ヒイラギは彼女の頬に口付けて、ゆるりと笑むに留めた。くすぐったそうに微笑む彼女の姿を自分だけが見つめていることに、この上ない喜びを覚えていた。
ダブルデートの興奮が冷めやらぬまま、ヒイラギは学生寮に戻った。今日は遅いのでマトイとはそのまま別れ、一人で戻る。外は夜、当然ながら部屋は真っ暗。ごく自然に電気をつけた。
「やあ、『百合川ヒイラギ』くん」
誰もいないはずの自室に、少年がいた。少年は鴉の羽根のように黒い髪を左右非対称に切り揃え、白百合が咲く学ランを着ている。その外見はヒイラギと瓜二つ、鏡に映った自分が実像を持ったかのようだが、唯一違うのは、その双眸が黄金に輝いている。吐き気がするほど自分に似ているその少年は、椅子に座って足を組み、挑戦的な視線を寄越している。
「待ってたよ。さあ、ちょっとばかりお話しようか」
前髪を揺らして妖しく微笑む彼に、ヒイラギはごくりと唾を飲んだ。彼が何者で何のためにここにいるのか、その一切がわからず、ヒイラギはただ警戒することしかできなかった。
「ねえ、夕凪さん」
ある日の放課後。一人の女生徒がマトイのもとにやって来た。輝く黒髪を揺らしながら微笑む彼女は、磯野上タオ。生き生きとした明るい表情、水色のジャージがよく似合う健康的な美人。マトイはタオと同じクラスになったことがなく、とんでもない美人がいると噂に聞くだけで彼女とは何の接点もない。タオに話しかけられるような覚えがまるでなく、
「え…?あ、はい」
呼び止められて妙に堅い返答をしてしまった。タオは全く意に介さず、人好きのする笑顔を浮かべている。
「ユヅルくんに聞いたの。百合川くんと一緒にテスト勉強してるんだよね」
「え?うん」
言われてふと思い至ったが、気がつくとユヅル、ヒイラギ、マトイの3人で放課後集まってテスト勉強することが習慣と化していた。今日も集まる予定だった。それがどうしたというのだろうか。
「私も一緒に勉強してもいい?」
「えっ?」
タオの唐突にもほどがある言葉にマトイは硬直してしまった。ヒイラギが頭をよぎる。おそらくは彼も知っているだろう磯野上タオ。彼女は間近で見るとぱっちりと大きな瞳が印象的で、初対面の相手に対しても気さくに接する態度といい、彼女が噂になる理由も推し量れるものだ。同性のマトイでさえ、磯野上さんは美人だなと少しぼんやりしてしまうくらい、タオは輝いて見えた。
「……それは」
不意に、やや低い声が割って入ってくる。マトイの左斜め前の席、ヒイラギが振り返ってタオとマトイに目配せしていた。
「それは、敦田くんも了承しているのかな?」
「ユヅルくんには私から話しておいたよ?百合川くんと夕凪さんがいいって言ったら構わない、って言ってたから、聞いておこうと思って」
ヒイラギの問いに、眩しい夏の太陽のような笑顔でタオは答える。マトイは思わずヒイラギを見た。正直なところ、少なくともマトイには断る理由がない。もともと想定していなかった勉強会なのだから、今更一人増えたところで単なる誤差に過ぎない。過ぎないのだが、
(……まさか、百合川くんが目当てだったり、しないよね……?)
何故突然タオが現れたのかという疑問は拭えない。もしも彼女がヒイラギとともに過ごす時間を目的にしてやって来たとすれば、彼女は恋敵になる。こんなに綺麗な髪をした明るい美人。マトイには勝てる要素が見つからない。ヒイラギがタオに惹かれてしまったらもうマトイの出る幕はなく、ここまで積み上げてきた彼との時間の重なりが儚い砂状に崩れてしまう。本当なら断りたい。タオには一緒にいてほしくない。だがそれを正当化する理由がない。
「僕は構わないよ。夕凪さんは?」
「あ……」
即答する彼に、マトイは言葉に詰まった。タオとヒイラギ、二人分の視線が刺さる。時間を稼いだところで、マトイの口から溢れる結論は同じだった。
「私も……いいよ」
かくしてヒイラギ、マトイ、ユヅル、タオの4人での勉強会が始まっていた。マトイは気もそぞろに落ち着かず、コツコツとシャープペンの頭を叩き続けていた。定期テストは刻一刻と近づいており、成績から考えるとマトイは到底無為に過ごしている場合ではないのだが、どうしても集中できない。
机を並べている教室の窓の外がより濃い暮色に包まれる頃、
「ちょっと休憩しよっか。私、飲み物買ってくるよ」
タオの明朗な声が響いた。立ち上がったタオはマトイを見下ろし、
「夕凪さん、一緒に行こう」
「えっ?あ、うん」
あまりにも自然に呼びかけるものだから、マトイもつられて立ち上がり、軽やかに歩いていくタオの後ろ姿を追う羽目になった。こっちこっち、と迷いなく手招きするタオに導かれ、校舎の外に設置してある自販機までやって来る。沈みかけた夕陽は最後の抵抗のように地平線を強烈な色に染め、地平線から遠く離れた空は輪郭が不明瞭に暗くなっていく。遠くで鴉が鳴き、校舎に人はまばらだ。定期テストが近いためか部活に勤しむ生徒も少ない。タオとマトイだけが、沈みゆく夕陽の中自販機を前に二人佇んでいる。
「あの、磯野上さん」
自販機に硬貨を入れるタオに声をかけた。
「なに?」
タオがこちらに顔を向けてくる。鮮烈な夕陽に照らされた顔はいっそ神々しいほど可愛らしく、言葉を見失いそうになる。だが、彼女とマトイしかいないこの空間だからこそ聞きたいことがあった。
「どうしてこの勉強会に参加したいって思ったの?」
聞いてから少し棘のある言い方だったかと後悔したが、
「ユヅルくんがいるから」
タオは特に気にならなかったらしく、さも当然と言わんばかりの顔で返された。至極あっさりとした、マトイの覚悟が押し流されそうなほど軽い返答だった。
「……敦田くんが?」
「うん」
タオの指が自販機のボタンを押す。ガコン、と物憂げな暮色に無機質な音が響く。
「もしかして、夕凪さん」
タオは2本の缶ジュースを手にしていた。こちらに渡す気配はない。
「私が百合川くんを目当てにしてたって思ってたの?」
「………」
マトイはタオの不思議そうな顔を直視できず、目を逸らして頷いた。疑って不躾な質問をした自分が恥ずかしくなった。
「そっか。だから私が参加してもいいか聞いたとき、ちょっと言い淀んでたんだ」
「……その……ごめんなさい」
「どうして謝るの?夕凪さんは何も悪いことしてないよ」
おそらくタオが買ったのはタオとユヅルの二人分だろうと解釈して、マトイも自販機の前に立った。硬貨を入れる。仄暗く光った自販機のボタンを前に、そういえば百合川くんは飲み物、何がいいんだろうとふと考えを巡らせた。
「じゃあ夕凪さん。私も聞いていい?」
「うん」
「夕凪さん、百合川くんのこと好きなの?」
ふらふらと空中でどのボタンを押すか悩んでいた指が、意図せず強い力で手近なボタンを押した。ガタン、と自販機が缶ジュースを吐き出す。もはやどのボタンを押したかわからない。
「えっ、あ、え?」
周章狼狽。マトイはタオを見つめて硬直してしまった。タオはその様子を見て何を思ったのか微笑んでいる。
「な、何で?」
口をついて出たのはわずか4文字だった。何とか硬直が解けて自販機から缶ジュースを取り出した。普段飲まない炭酸の栄養ドリンクじみたジュースだった。ヒイラギが飲んでいる姿も想像がつかない。
「何で、って……何となくわかるよ。百合川くんのこと、ちらちら見てたし。私に勉強会に参加した理由なんて、普通聞かないもの」
「……そっか……」
意味のない相槌を打ちながら、マトイは深呼吸をして自販機のボタンを押した。無難なお茶だ。先ほど出た栄養ドリンクは自分が飲むことにして、お茶をヒイラギに渡そう。
「夕凪さん、ちょうどよかった。提案があるの」
「提案?」
「定期テストが終わったら、4人でダブルデート、しない?」
「ダブルデート……?」
辛うじて言葉だけ聞いたことがあるし理解もできる。タオはユヅルと、マトイはヒイラギとより接近することを目的に遊びに興じようと、つまりそういうことだろう。マトイだけなら一生思いつきもしない妙案に素直に心から感心しながら、一度も飲んだことのない栄養ドリンクの蓋に指を引っ掛けて開けた。ぷしゅ、と炭酸が抜ける音が聞こえる。
「どこに遊びに行くかは後で考えるとして……ダブルデート、どう?これなら私も夕凪さんもお得でしょ?」
人差し指を立てて笑うタオに、マトイも笑みを返した。
「うん。ダブルデート、してみたい」
「じゃあ、決まりね!定期テスト、お互い頑張ろうね!」
タオの笑顔を見ながら飲んだ栄養ドリンクは、強烈な炭酸とロイヤルゼリーを思わせる強い甘味でマトイの舌を痺れさせた。
ヒイラギ、マトイ、ユヅル、タオの4人で勉強会を開くことになり、各々の知恵を出し合いながら勉強し合い、無事に定期テストが終了した。各人赤点を免れ、定期テストの圧力から解放されて喜んでいた頃、予定通りダブルデートが決行されることになった。場所は遊園地。複数人で遊ぶには確かにうってつけだろう。マトイは大人数で遊びに行くなんて久しぶりだと思いながら、ヒイラギの私服姿が楽しみでたまらなかった。あの白百合の学ランが似合いすぎて私服が全く想像できないが、きっとどんな服でも一定以上の着こなしを見せてくれるだろう。
浮かれた思いで待ち合わせ場所の遊園地に赴くと、もう3人とも到着していた。タオが大きく手を振っていて、慌てて駆け寄る。ふと視界に入ったヒイラギは、灰色の大きめのパーカーにスキニージーンズ、ハイカットのスニーカーというラフな格好だった。灰色のパーカーの前面には、雪だるまに手足が生えたような白いキャラクターがプリントされている。少し意外な組み合わせだったが、すらりと背が高い彼の足のラインが美しく映え、パーカーの腹部にあるポケットに両手を突っ込んでいる様子も物珍しくて視線を奪われる。こっそり私服姿の写真を撮って一生保存したい、なんて犯罪めいた考えも浮かんできてマトイはため息をついた。
4人で巡る遊園地は思ったよりもはるかに愉快で、久しぶりに遊園地という非日常を訪れたことも手伝って、マトイは年甲斐もなくはしゃいでいた。ヒイラギも遊園地の雰囲気に飲まれたのか、年相応の少年らしい笑顔を浮かべていて、綺麗なだけではない可愛らしさを感じた。様々なアトラクションを体験して疲れが見えてきた頃、土産物が置いてあるショップに立ち寄った。商品の陳列もあり4人で固まって行動するスペースはなく、自然とユヅルとヒイラギ、タオとマトイの2組に分かれていた。ずらりと並ぶ菓子類、キーホルダーなど小さなものからぬいぐるみのような大きなものまで、見ているだけでも飽きない品揃えを眺めていると、タオがそっとマトイに耳打ちした。
「夕凪さん」
「なに?」
「夕凪さんって、百合川くんと二人でデートしたことある?」
「……まだないなぁ」
尋ねられて思い返すと、図書室で本を読んだり学生寮で雑談したりしたことはあっても、あくまで学園の範疇でしかないことに気付く。ヒイラギと二人きりのデート。いつかはしてみたい、甘美な響き。
「これ」
言いながらタオがスマートフォンの画面を見せてきた。3段のケーキスタンドに小さなケーキやサンドイッチ、果物等が載っている。美味しそう、よりも先に可愛い、お洒落といった感想が思い浮かぶ、アフタヌーンティーの光景だった。
「この前ユヅルくんと行ってきたの。そんなに遠くないし、デートにはぴったりじゃない?」
タオはもうすでに意中の彼とデートを済ませているのか。マトイよりも遥かに先を行っている。活動的な印象がある彼女だが、恋愛面でも積極的なようだ。見習うべきだと脳内で頷きながら、マトイは画面に映るアフタヌーンティーに思いを馳せた。そういえばヒイラギとは喫茶店に行ったこともある。彼が甘いものを好んで食べる印象はないが、いちご味のポッキーを普通に食べていたことも考えると、店の選択が悪くて断られる心配はなさそうだ。目を閉じて思考を一通り巡らせた後、マトイはタオの手を取り、
「ありがとう磯野上さん!とっても助かる!」
大袈裟なまでに声を上げた。彼女が勉強会に参加すると言い出したときは肝を冷やしたが、禍福は糾える縄のようだと今更ながらに実感した。
暮れなずむ空を背景に、最後までとっておいた観覧車が大きく高く鎮座している。タオの提案でタオとユヅル、ヒイラギとマトイにそれぞれ分かれて乗ることになった。ヒイラギはマトイの手を取り、優雅に二人、ゴンドラに入った。ゴンドラは狭く、二人向かい合って座ると膝が触れ合いそうになる。行儀良く座るマトイはどこか緊張した面持ちで、膝の上に両手を置いている。ヒイラギは初めて学生寮の部屋にマトイを招待したときを思い出して、くすりと笑みを漏らした。夕暮れの色に染まる彼女は儚く、可愛らしい。今すぐ抱きしめて離したくないくらいには。
「あの、百合川くん」
「どうしたの?」
「連絡先、教えてください!」
何故か敬語で声を張り上げた彼女が、拙い手つきでスマートフォンを取り出した。何を言うかと思えば、そんなに張り詰めた顔をして言うことではないだろう。ヒイラギも素直にスマートフォンを取り出した。
「いいよ。ほら」
連絡先交換に使うQRコードを表示させて、マトイに見せた。マトイはあっさりヒイラギが応じたことに拍子抜けしたのか、
「あ、うん、ありがとう」
妙にぎこちない声で答えながら、粛々と連絡先を交換した。彼女に言われるまで連絡先交換という当たり前のことが、頭から綺麗に抜け落ちていた。毎日学園で顔を合わせるのだからそのときに何かあれば言えばいい。それはそうだが、マトイのプライベートのひとかけらを手にすることは重要だ。
「急にどうしたの?そんな縮こまっちゃって」
マトイの様子がおかしいことは手に取るようにわかる。冗談めかして尋ねると、スマートフォンが震えた。先ほど交換したマトイのアドレスから、画像が送られていた。3段のケーキスタンドに所狭しと菓子が並んでいる写真。可愛らしく、お洒落な写真だ。
「今日、磯野上さんから教えてもらったの。いい雰囲気のカフェがあるって……私と一緒に行ってください!」
なるほどデートのお誘いか。ヒイラギは瞬時に察し、彼女が妙に堅くなっていた理由も自ずと理解できた。さぞかし勇気を必要とする行動だっただろう。ヒイラギも似たようなことを考えていた頃合いだったが、彼女に先を越された。だがマトイから直接誘われるのは最高の気分で、今すぐこのゴンドラから飛び降りても構わないくらいだった。
「僕が君のお誘いを断るとでも思ったの?もちろん、一緒に行くよ。僕も気になる。一緒に行きたい」
そう返すと、目の前の彼女は顔を輝かせて大袈裟に喜んでみせた。
「ほんと!?ありがとう!」
彼女の中では断られるかもしれない、という仮定があったのだろうか。だとすれば心外だ。ヒイラギが彼女と過ごしたいと思う慕情が、あまり伝わっていないのかもしれない。あるいは、彼女はとても軽く考えているのかもしれない。わざわざヒイラギがマトイに声をかけ、一緒に時を過ごそうとしている、その意味を。
「ねえ、見て。夕凪さん」
表情がころころと変わるマトイを見つめて顔を綻ばせながら、ヒイラギはすいと視線をゴンドラの外に向けた。ゴンドラは頂上付近まで高く上っており、普段歩いていく東京のビルで埋め尽くされた景色が小さく、はるか遠くまで広がっていた。鮮烈な光を放つ夕陽に照らされて何もかも漆黒の影に沈み、高いビル群の影絵と晩景の空がコントラストをなす。
「綺麗だね」
「うん」
あまりの美しさにろくな言葉が出ず、各々ゴンドラの外を見つめていた。ヒイラギはちらりと横目でマトイを見つめる。眼下に広がる景色を吸い込まれるように見ている横顔は、新しい玩具を見つけた子供のようで、ずっと見ていても飽きない。ヒイラギの視線に気付いたのか、マトイがヒイラギに顔を向け、
「どうしたの?」
と聞いてくる。その顔も邪念がなく純粋で、ヒイラギの心の奥に刺さって抜けなくなる。彼女は知っているのだろうか。マトイの一挙手一投足が、ヒイラギの心を捉えて離してくれないことを。ああ、今すぐ―――今すぐ、この心を埋め尽くす大きな思いを、伝えてしまいたくなる。学園から離れた二人きりの空間だからこそ、外れる箍もある。
「夕凪さん」
ヒイラギが唇を開いたそのとき、ゴンドラが大きく揺れた。思わず椅子を掴んで踏ん張ると、ぴたりとゴンドラの動きが止まり、空中で静止する。ほどなくして、ゴンドラを動かすシステムに異常を発見したので急停止したこと、動き出すまで少し待ってほしい旨のアナウンスが流れた。見ると、マトイが泣きそうな顔をして震えていることに気付く。
「夕凪さん、怖い?」
声を出すこともできないのか、首肯だけが返ってくる。現在二人が乗るゴンドラは頂上で止まっている。地上から数十メートル、もしかすると100メートルを超えているかもしれない。ゴンドラは景観を楽しむため周りがよく見えるようにできている、つまりは自分たちが高所に留まっていることが嫌でもわかる。ただゆっくり通り過ぎるだけなら恐怖もないが、突然の揺れとともにこの高さに取り残されたら、恐れ慄くのも無理はない。
「夕凪さん、隣、いい?」
彼女の隣を指さして問うと、再び頷かれる。ヒイラギは揺らさないように慎重に立ち上がり、マトイの隣に座った。マトイがこちらを見つめてくる。捨てられた子犬のような不安げな瞳。
「大丈夫」
ヒイラギはマトイの肩に手を回し、抱き寄せた。マトイの頭がヒイラギの肩にしなだれかかり、髪が揺れる。マトイは驚いた様子でヒイラギを見上げていた。
「僕がいるから。怖いなら、外は見なくていいよ」
囁きながら、マトイの顔に唇が重なるほど顔を寄せた。色がついたリップクリームを塗っているのか、彼女の唇は淡く赤く色づいている。その瑞々しい唇を見ていると、奪いたくなる。
「僕だけ見ていて」
許可を得る必要はない気がした。だからヒイラギはマトイの後頭部に優しく手を添えて、口付けた。ふっくらとした弾む感触に、ゴンドラに閉じ込められた状況であることを忘れて、長く、永遠とも思える数十秒をかけてマトイの唇を味わった。名残惜しいが唇を離すと、夢見心地の彼女と目が合う。無防備で隙だらけの、愛しい彼女。先ほど言おうとした言葉がするりと零れ落ちそうになったが、押し止まった。彼女に受け止める余裕がないかもしれない。大切な思いを伝えるならば、相手の状況を思いやる必要があるだろう。
「大丈夫?」
「うん……ありがとう」
尋ねると、マトイはうっすらと頬を赤らめてヒイラギの胸に顔を埋めてきた。マトイと触れ合う箇所が熱い。ふわふわとあたたかいマトイの感触にとろけそうになる。いっそこのまま時間を止められたら至上の幸福かもしれないなんて、そんな寝言が頭をよぎった。ヒイラギはマトイの肩を抱きながら、ゴンドラの外に目をやった。少しずつ夕陽が沈んでいく。地平線の橙が濃くなるにつれて、空は暗闇を背負っていく。暗くなっていく空に合わせて観覧車自体がライトアップされて明るい輝きを放つ。ああ、綺麗だ。とても。そう感じるのは、客観的に美しいだけでなく、マトイの存在が大きいのだろうと思う。彼女の体温と鼓動を感じながら見つめる景色は、ヒイラギを落ち着かせる。
「大変お待たせしました。システムが復旧しましたので、ゴンドラの運転を再開いたします」
無機質なアナウンスとともに、止まっていた歯車が再び動き出した。頂上に留まっていたヒイラギたちは、ゆっくり地上へと下りていく。
「動くみたいだね」
「うん、よかった……」
安堵の息をつきながら、胸元でマトイは笑顔を咲かせてヒイラギを見上げていた。そんな顔をされるとまた唇に挨拶したくなる。だが今そうすると深く独占してしまってゴンドラを降りられなくなりそうだ。ヒイラギは彼女の頬に口付けて、ゆるりと笑むに留めた。くすぐったそうに微笑む彼女の姿を自分だけが見つめていることに、この上ない喜びを覚えていた。
ダブルデートの興奮が冷めやらぬまま、ヒイラギは学生寮に戻った。今日は遅いのでマトイとはそのまま別れ、一人で戻る。外は夜、当然ながら部屋は真っ暗。ごく自然に電気をつけた。
「やあ、『百合川ヒイラギ』くん」
誰もいないはずの自室に、少年がいた。少年は鴉の羽根のように黒い髪を左右非対称に切り揃え、白百合が咲く学ランを着ている。その外見はヒイラギと瓜二つ、鏡に映った自分が実像を持ったかのようだが、唯一違うのは、その双眸が黄金に輝いている。吐き気がするほど自分に似ているその少年は、椅子に座って足を組み、挑戦的な視線を寄越している。
「待ってたよ。さあ、ちょっとばかりお話しようか」
前髪を揺らして妖しく微笑む彼に、ヒイラギはごくりと唾を飲んだ。彼が何者で何のためにここにいるのか、その一切がわからず、ヒイラギはただ警戒することしかできなかった。