宇宙の百合
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#3 苺色の嘘
高校3年生ともなれば、定期テストは慣れたものだ。毎年同じ時期に行われ、毎年同じように対策をして、赤点を取らないように力を出し切る。百合川ヒイラギも慣れてはいたが、だからといって定期テストが好ましいかと言われれば、好きではなかった。ああ、また勉強しないといけないな……。定期テストが近づくたびにそう思う。今回も同じように考えてため息をついていた。無論それは他の生徒も同様で、どことなくピリピリとした気が抜けない雰囲気が漂い始めていた。
そういえば、とふと閃いた。ヒイラギは夕凪マトイとそれなりに仲良くなってきた自負がある。彼女も対策をしなければならないことに変わりはない。では、一緒に勉強しないかと誘ってみてはどうだろうか?不自然ではない理由をつけて、彼女と一緒にいられる時間が増える。さらに定期テストの対策ができれば一石二鳥だ。素晴らしい。今日のヒイラギは頭が冴えている。盛大な自画自賛をし、心のどこかで期待する笑みを噛み殺しながら、ヒイラギは放課後を迎える。
さあマトイに声をかけようと振り向いたところ、彼女はすぐに立ち上がって教室を飛び出していた。もう心に決めた目的地があると言わんばかりの速度だ。ヒイラギは呆気に取られながらも、いつぞやもこんなことがあったなと思いながら、彼女の後を追いかけた。マトイはある教室の前で立ち止まり、廊下に佇む一人の男子生徒に声をかけていた。まだ距離があるので何を話しているかも、相手が誰かもよくわからないが、ヒイラギの心に黒い靄が立ち込めるのを感じていた。思わず眉を顰める。苛立ちをそのまま歩みに反映させると、足音が大きくなる。ヒイラギが真っ直ぐ二人に近づいていくと、放課後のざわめきに紛れた二人の声がはっきりと聞こえてきた。
「お願い!敦田くん!勉強教えてください!」
マトイは大袈裟な身振りで両手を合わせ、頭を下げながら男子生徒―――敦田ユヅルに頼み込んでいた。対するユヅルはため息をつきながら、
「夕凪……前のテストで僕に頼るのはこれが最後だ、と言ってなかったか?」
「言った……言いました」
両手を合わせたまま、マトイが顔を上げる。冗談めかしてはいるが、許しを乞うような視線だ。それを受け、ユヅルは呆れたように笑っている。
「……仕方ないな。報酬は?」
「ポッキーで!ポッキーで許してください!」
「ああ、わかった」
随分と気安い空気だ。マトイはごく自然に破顔し、冗談めかした可愛らしい物言いをしている。対するユヅルも自然体で対応しており、二人の間にそれなりに過ごした時間や関係性があることを感じさせる。ヒイラギは無意識に拳を握りしめていた。あまりにも強く握りすぎて、握り込んだ爪が掌に食い込んでいる。一瞬で考えたくもない様々な想像が脳内を駆け巡った。
―――もしやヒイラギが知らないだけで二人は恋人同士だったりするのか。そうでなくても、ヒイラギとマトイの間よりも仲が良さそうに見える。彼女がヒイラギに声をかけることは少ないのに、理由があるとはいえさも当然のように彼女の方から話しかけている。しかも相手は敦田ユヅル、才色兼備の優等生。マトイのこととあらばたとえ相手が敦田ユヅルでも負けたくない。そもそも負けるとは一体何に?ぐるぐると脳内をかき混ぜる渦をどうにかすることをできないままに、ヒイラギは一歩踏み出し、マトイとユヅルの間に強引に割って入った。
「敦田くん」
ヒイラギの唇から零れた声は思っていたよりもはるかに怒気がこもっていた。突然間に入ってきたヒイラギを、ユヅルもマトイも呆然とした顔で見つめている。
「……百合川か?」
ユヅルは困惑した声で名前を呼ぶ。ああもう、気安く呼ぶな。ヒイラギは仕留める勢いの鋭い視線をユヅルにぶつけた。
「悪いけど、夕凪さんは僕と一緒に勉強する約束があるんだ」
咄嗟に口をついて出たのは、一瞬で否定されそうな嘘だった。
「ねえ、夕凪さん?」
後ろを振り向くと、突然呼びかけられて肩をすくめるマトイが視界に入った。
「えっ?あ、え?ええと…」
当然だがそんな約束はしていないため肯定はされないが、ヒイラギの剣幕に負けてたじろいでいるのか反論もされなかった。
「そうか?夕凪からそんな話は聞いていないが……ああ、そうだ」
ユヅルは平時の状態に戻ってきたらしく、眼鏡をくいと指先で押し上げながら、
「じゃあ、僕たち3人で勉強しないか?それならちょうどいいだろう?」
爽やかな嫌味のない笑みを浮かべて言った。こういうところが人気者たる所以なのだろう。腹立たしいくらい、いい笑顔だった。
「……それなら、いいけど」
敦田ユヅルという邪魔者がいるものの、マトイがいるならいいだろう。そう思って答えた声は、未だ低い底から戻って来れていなかった。何ならユヅルに対する激情も収まらず、鋭い視線を投げつけていた。当のユヅルは気づいているのかいないのか、先程マトイと話していたときと同じように自然な状態で視線を受け止めている。余裕を感じる。
今日開かれるはずのなかった3人での勉強会が始まる教室へ、ヒイラギは足を踏み入れた。床板を踏みしめる力は通常よりもやや強く、ぎしりと軋んだ音を立てた。
「敦田くんも百合川くんも、急だったのにありがとう」
そろそろ学園から人がいなくなる夕陽が眩い頃合い、マトイが恥ずかしそうに顔を綻ばせた。勉強会は思ったよりもはるかに有意義で、ヒイラギにとっても収穫が多かった。やはりというかユヅルは頭の回転が早く、的確にわからない箇所を把握して理解しやすく教えてくれる。悔しいが、マトイでなくとも頼りたくなるのはわかる。
「いいや、構わない。百合川も突然で悪かったな」
ユヅルは甘いマスクに笑みを浮かべながら立ち上がった。マトイに向き直り、
「遅くなったから、報酬は明日でいいから。僕は用事があるから、先に帰らせてもらう」
手を振りながら去っていった。黄昏に染まる教室に、ヒイラギとマトイだけが残される。3人で帰ることになるのだろうと思っていただけに、これは役得だ。
「あ、百合川くん」
「なに?」
「帰る前に、購買部に寄ってもいい?ポッキー、買わなきゃ」
ああ、そういえばそんなことも言っていた気がする。未だ完全にユヅルの影が消えないことに、ヒイラギは奥歯を噛み締めた。だが当然のように彼女はヒイラギと一緒に帰ることを前提として会話しており、それは一歩前進だ。二人は侘しい教室を出て、部活終わりの生徒の喧騒で満ちた購買部に立ち寄った。ヒイラギはあまり来ることのない場所だけに、興味深い。一日の終わりが近いからか、商品棚には思い出したかのようにぽつぽつと商品が置いてある状態だった。
「えっと…あ、あった」
マトイは真っ直ぐ菓子類の棚に歩いていき、見慣れたパッケージを手に取る。その迷いのない手つき、ユヅルに勉強を教えてもらって返礼を買いにくることは一度や二度ではないのだろう。そういう何気ないところで垣間見える二人の時間の積み重ねに、ヒイラギは心を乱される。ユヅルを喜ばせるためのものを持っているマトイに、ヒイラギは情念がざわつくのを止められなかった。
「夕凪さん、いちご、好き?」
「え?うん、好きだよ」
「そっか」
ポッキーの棚に残っていた最後のひとつは、甘酸っぱいピンクに染まったいちごのパッケージ。ヒイラギは迷いなく手に取り、会計を済ませると、彼女に差し出した。
「あげる」
「…え?何で?」
ヒイラギといちごのポッキーを二度見して、マトイは間の抜けた声で聞いた。
「本当は約束なんてなかったのに、嘘ついたから」
「え?ああ、そういえば…私、百合川くんと勉強する約束してなかったよね?本当は約束してて、私だけ綺麗に忘れちゃったのかと思っちゃった」
「そうだよ。約束なんてしてなかった。……嘘、ついた」
「何であんな嘘ついたの?」
それはいつかぶつけられるだろう疑問だった。彼女が不思議に思うのは当然だ。敦田ユヅルにもさぞ不審がられただろう。本音を言っていいものか迷った。ヒイラギの視線が珍しく泳ぐ。彼女を直視できない。だが、本音を覆い隠せる適当な理由が思いつかない。ええい、言ってしまえ。
「……君と敦田くんが二人きりになるのが嫌だったから」
大きな声では言えないけれど、小さな声では聞こえない。マトイは首を傾げて、
「ごめんね、もう一回言って?よく聞こえなくて」
意地悪でも何でもなく、きっと本当に聞こえなかったのだろう顔で聞いてくる。ヒイラギの顔に熱が集まってくる。もう一度言いたいが、この購買部の喧騒にかき消されない声で言うのは苦しい。
「……ここで言うのもなんだから……部屋に、来てくれない?」
「?いいよ」
どうしてもここで聞きたいと言われないことに、心から安堵した。
彼女を学生寮の部屋に招き入れること、それ自体は喜ばしいことだが、この日ばかりはヒイラギも緊張していた。きっともう一度聞かれる。二人しかいない空間ならもう一度言えると思ったが、妙に心が研ぎ澄まされて落ち着けない。二人で通り過ぎていく廊下は放課後の音に満ちてざわついている。窓から差し込む黄昏の光が物憂げな色に学生寮を染めている。
マトイはベッドに、ヒイラギは椅子に腰掛ける。ドア一枚隔てただけで、ざわついた人の声が随分と小さくなる。それだけ互いの声がよく聞こえるということだ。
「それで、百合川くん」
スカートを丁寧に撫でつけながら座り、マトイは純粋な瞳でヒイラギを見つめている。
「さっき、何て言ってたの?」
小首を傾げると彼女の髪がさらりと揺れて線を描く。ああ綺麗だなんて現実逃避しようにも、マトイに先を促す視線で見つめられると黙ってはいられない。いられないのだが、あまりにも綺麗なその瞳に自分の矮小な考えが似つかわしくなくて、言葉が出てこなくなる。それでもじっと黙って待たれ、ドアの先の呑気なざわめきが聞こえて居た堪れなくなる。
「君と敦田くんが二人きりになるのが嫌だったから、嘘ついた」
何とか絞り出した言葉が波紋になり部屋を満たす。大して広くないワンルーム、膝を突き合わせた距離にいる彼女には十分に聞こえただろう。マトイはヒイラギの言葉をじっくり咀嚼するようにしばらく硬直して、
「……え?どういうこと?」
無慈悲な疑問が返ってきた。できれば、というよりこの言葉で察してほしかったが、彼女には引っかかってしまったらしい。
「えーと……わかって、くれないかな」
少し困った顔で彼女を見上げたが、マトイの疑問符を浮かべた顔は変わらなかった。どうやら言わないと納得してくれないらしい。彼女を真っ直ぐ見つめることができなくて、斜め下に視線を逸らしながら、
「僕と一緒にいてほしかった」
意を決して言葉にした。二人きりの空間でも大きな声では言えないけれど、ここならはっきり聞こえただろう。
「………」
この言葉を彼女はどう解したのか、少し驚いたように目を見開いている。そうして一度ヒイラギから目を逸らして考え込んだ後、まだ目を合わせられないヒイラギに向き直った。
「私も百合川くんと一緒にいたいよ?」
顔を上げると、照れくさそうに笑っているマトイが視界に映る。ああもう、彼女はどうしてこんなに顔が赤くなるような笑顔を見せるのだろう。
「……ねえ、夕凪さん?」
「どうしたの?」
「聞いていい?君と、敦田くんのこと」
「敦田くんの?うん、なに?」
二人を見てもやもやと心と脳内に広がった黒く翳った霧。ちょうどいい機会だから、今ここで綺麗に払っておきたい。
「敦田くんとは、どういう関係なの」
「友達だよ」
それなりの覚悟を持って尋ねたのだが、返ってきた言葉は軽い上に即答だった。重大な響きは一切ない、雑談の延長に過ぎないたわいない音の連なり。
「今は違うクラスだけど、1年と2年のときに同じクラスだったの。それで仲良くなって。敦田くん、勉強教えるの上手だから、今まで結構甘えちゃってて」
あはは、とマトイは笑ってみせる。誤魔化しのない、明るい笑顔だ。
「今日も無理言って勉強教えてもらったから、明日ちゃんとお礼言わなきゃ」
そう言って、マトイはユヅルのために買ったポッキーの箱を握りしめていた。特に彼女は意識した仕草ではないのだろうが、少しでも他の異性の影がちらつく所作はヒイラギの脳内にざらついたノイズを生む。敦田ユヅルはヒイラギも認めざるを得ない魅力の持ち主だ。いつかマトイの視線がヒイラギからユヅルに向かったとき、その視線を取り戻せなくなるかもしれない。
「夕凪さん」
何とか話を逸らそうとして、机に置いたピンクのパッケージを手に取る。今の今まで綺麗に忘れていたが、
「これ、あげる」
いちごが弾ける明るい色を彼女に差し出す。ユヅルに対する精一杯の抵抗だった。
「あ、そういえばくれるって言ってたね。本当にもらっていいの?」
「大した値段じゃないし、気にしないで」
「ありがとう!いちごのポッキー久しぶりに見たなぁ」
にこにことマトイは笑んで受け取ってくれた。それを見てほっとする。彼女の心に何か少しでも、ユヅルを上書きできるものがあってほしい。
「百合川くん」
ぱき、とポッキーの箱の上蓋を外し、ぺりぺりと内部包装の上部を剥がすと、マトイは中から1本取り出し、
「食べる?」
チョコレートがたっぷりついた方を差し出してくる。見るからにいちご味のピンク色のチョコレートと小麦色のプレッツェルは、柔らかな印象をもたらす。
「え?夕凪さんに食べてほしくて買ったから、僕は……」
「私一人で食べてもつまらないし、せっかく今百合川くんもいるんだし。一緒に食べよう?」
ね?と言いながら破顔する彼女に、ヒイラギは根負けした。口を開けてポッキーの先端を口に含み、歯で噛み砕いた。ぽき、と軽い音がして口の中で折れて甘い味が広がる。甘酸っぱいいちご味のチョコレートがとろけて、その下の簡素なプレッツェルは香ばしい。
「あ、そう食べるの?てっきり受け取ってくれると思ったんだけど」
ヒイラギに食べられて少し短くなったポッキーを持ったまま、マトイは困ったように眉根を寄せた。
「それこそせっかくだから、夕凪さんに食べさせてほしいよね?」
ヒイラギは唇についたチョコレートを舐め取りながら、マトイをあえて少し下から上目遣いで見つめた。マトイは急に息が詰まったかのように体を硬くしている。
「え、えーと…?百合川くん、あーんして…?」
おずおずと告げられた言葉のとおり、ヒイラギは口を開けた。そこにマトイの持つポッキーが差し込まれ、口を閉じた。ぽきりと折れて口の中で儚く細かく咀嚼されていく。美味しい。菓子類をあまり食べないヒイラギではあるが、いちごの甘酸っぱさも相まってしつこくなく、もう少し食べたくなる。ごくんと飲み込んでまた口を開ける。差し込まれる。咀嚼する。繰り返してすっかり短くなったポッキーをマトイから受け取って、ひょいと口に放り込んだ。チョコレートがない、シンプルなプレッツェルもなかなか美味しい。最後まで遠慮なく咀嚼して飲み下したヒイラギは、たった1本のポッキーを食べただけだが途方もない幸福感に満ちていた。
「美味しかった。ありがとう、夕凪さん」
「うん、よかった」
マトイが別の1本を手に取ったので、そっと手を添えて静止する。おそらく普通に食べようとしていたところ、
「食べさせてあげる」
さらりと奪ってマトイに1本、差し出した。マトイはポッキーとヒイラギの間で視線を忙しなく動かして、
「え?私は、」
「僕にしてくれたんだから、僕にもさせてよ」
言いかけた言葉を笑顔と静かな、しかし強い口調で封殺する。マトイは何を言ってもヒイラギがやめてくれないだろうことを察したのか、恥ずかしそうに口を開いた。彼女がしてくれたようにポッキーを適度な長さ、口の中に差し入れる。彼女が口を閉じると軽やかな破裂音が響き、もぐもぐと咀嚼している。それをじっと見つめる。小動物が必死に食事をしている様を見ているようで、何だか微笑ましい。
「美味しい?」
「美味しい」
尋ねると、マトイはうっすらと顔を赤らめて答えた。その表情を見ていると理性の箍が外れそうになる。ごくりと彼女の喉が動くのを待つくらいは辛うじてできた。ヒイラギは空いている片手をマトイの頬に添えた。マトイは呆けた顔でヒイラギを見つめている。
「キス、していい?」
恋人同士でもないのにどうしてこんなことを言っているのだろう、と思うこともある。しかしもうすでに彼女とは二度唇を重ねている。三度目だからといって、何がいけないのだろう。
「え、あ……」
マトイは落ち着きなく目線が泳いでいたが、数秒すると俯き、やがて沈黙とともに首肯した。彼女が承諾しているのだから、迷う理由などない。
俯いた顔を頬に添えた手で優しく上向かせ、ヒイラギは彼女の唇に自らの唇を重ねた。柔らかくあたたかな感触とともに、ふわりといちごの甘酸っぱい香りが弾ける。たった数秒のキスでも上擦るのを止められない。マトイの双眸を至近距離で見つめて柔らかく笑むと、マトイも笑い返してくれた。
高校3年生ともなれば、定期テストは慣れたものだ。毎年同じ時期に行われ、毎年同じように対策をして、赤点を取らないように力を出し切る。百合川ヒイラギも慣れてはいたが、だからといって定期テストが好ましいかと言われれば、好きではなかった。ああ、また勉強しないといけないな……。定期テストが近づくたびにそう思う。今回も同じように考えてため息をついていた。無論それは他の生徒も同様で、どことなくピリピリとした気が抜けない雰囲気が漂い始めていた。
そういえば、とふと閃いた。ヒイラギは夕凪マトイとそれなりに仲良くなってきた自負がある。彼女も対策をしなければならないことに変わりはない。では、一緒に勉強しないかと誘ってみてはどうだろうか?不自然ではない理由をつけて、彼女と一緒にいられる時間が増える。さらに定期テストの対策ができれば一石二鳥だ。素晴らしい。今日のヒイラギは頭が冴えている。盛大な自画自賛をし、心のどこかで期待する笑みを噛み殺しながら、ヒイラギは放課後を迎える。
さあマトイに声をかけようと振り向いたところ、彼女はすぐに立ち上がって教室を飛び出していた。もう心に決めた目的地があると言わんばかりの速度だ。ヒイラギは呆気に取られながらも、いつぞやもこんなことがあったなと思いながら、彼女の後を追いかけた。マトイはある教室の前で立ち止まり、廊下に佇む一人の男子生徒に声をかけていた。まだ距離があるので何を話しているかも、相手が誰かもよくわからないが、ヒイラギの心に黒い靄が立ち込めるのを感じていた。思わず眉を顰める。苛立ちをそのまま歩みに反映させると、足音が大きくなる。ヒイラギが真っ直ぐ二人に近づいていくと、放課後のざわめきに紛れた二人の声がはっきりと聞こえてきた。
「お願い!敦田くん!勉強教えてください!」
マトイは大袈裟な身振りで両手を合わせ、頭を下げながら男子生徒―――敦田ユヅルに頼み込んでいた。対するユヅルはため息をつきながら、
「夕凪……前のテストで僕に頼るのはこれが最後だ、と言ってなかったか?」
「言った……言いました」
両手を合わせたまま、マトイが顔を上げる。冗談めかしてはいるが、許しを乞うような視線だ。それを受け、ユヅルは呆れたように笑っている。
「……仕方ないな。報酬は?」
「ポッキーで!ポッキーで許してください!」
「ああ、わかった」
随分と気安い空気だ。マトイはごく自然に破顔し、冗談めかした可愛らしい物言いをしている。対するユヅルも自然体で対応しており、二人の間にそれなりに過ごした時間や関係性があることを感じさせる。ヒイラギは無意識に拳を握りしめていた。あまりにも強く握りすぎて、握り込んだ爪が掌に食い込んでいる。一瞬で考えたくもない様々な想像が脳内を駆け巡った。
―――もしやヒイラギが知らないだけで二人は恋人同士だったりするのか。そうでなくても、ヒイラギとマトイの間よりも仲が良さそうに見える。彼女がヒイラギに声をかけることは少ないのに、理由があるとはいえさも当然のように彼女の方から話しかけている。しかも相手は敦田ユヅル、才色兼備の優等生。マトイのこととあらばたとえ相手が敦田ユヅルでも負けたくない。そもそも負けるとは一体何に?ぐるぐると脳内をかき混ぜる渦をどうにかすることをできないままに、ヒイラギは一歩踏み出し、マトイとユヅルの間に強引に割って入った。
「敦田くん」
ヒイラギの唇から零れた声は思っていたよりもはるかに怒気がこもっていた。突然間に入ってきたヒイラギを、ユヅルもマトイも呆然とした顔で見つめている。
「……百合川か?」
ユヅルは困惑した声で名前を呼ぶ。ああもう、気安く呼ぶな。ヒイラギは仕留める勢いの鋭い視線をユヅルにぶつけた。
「悪いけど、夕凪さんは僕と一緒に勉強する約束があるんだ」
咄嗟に口をついて出たのは、一瞬で否定されそうな嘘だった。
「ねえ、夕凪さん?」
後ろを振り向くと、突然呼びかけられて肩をすくめるマトイが視界に入った。
「えっ?あ、え?ええと…」
当然だがそんな約束はしていないため肯定はされないが、ヒイラギの剣幕に負けてたじろいでいるのか反論もされなかった。
「そうか?夕凪からそんな話は聞いていないが……ああ、そうだ」
ユヅルは平時の状態に戻ってきたらしく、眼鏡をくいと指先で押し上げながら、
「じゃあ、僕たち3人で勉強しないか?それならちょうどいいだろう?」
爽やかな嫌味のない笑みを浮かべて言った。こういうところが人気者たる所以なのだろう。腹立たしいくらい、いい笑顔だった。
「……それなら、いいけど」
敦田ユヅルという邪魔者がいるものの、マトイがいるならいいだろう。そう思って答えた声は、未だ低い底から戻って来れていなかった。何ならユヅルに対する激情も収まらず、鋭い視線を投げつけていた。当のユヅルは気づいているのかいないのか、先程マトイと話していたときと同じように自然な状態で視線を受け止めている。余裕を感じる。
今日開かれるはずのなかった3人での勉強会が始まる教室へ、ヒイラギは足を踏み入れた。床板を踏みしめる力は通常よりもやや強く、ぎしりと軋んだ音を立てた。
「敦田くんも百合川くんも、急だったのにありがとう」
そろそろ学園から人がいなくなる夕陽が眩い頃合い、マトイが恥ずかしそうに顔を綻ばせた。勉強会は思ったよりもはるかに有意義で、ヒイラギにとっても収穫が多かった。やはりというかユヅルは頭の回転が早く、的確にわからない箇所を把握して理解しやすく教えてくれる。悔しいが、マトイでなくとも頼りたくなるのはわかる。
「いいや、構わない。百合川も突然で悪かったな」
ユヅルは甘いマスクに笑みを浮かべながら立ち上がった。マトイに向き直り、
「遅くなったから、報酬は明日でいいから。僕は用事があるから、先に帰らせてもらう」
手を振りながら去っていった。黄昏に染まる教室に、ヒイラギとマトイだけが残される。3人で帰ることになるのだろうと思っていただけに、これは役得だ。
「あ、百合川くん」
「なに?」
「帰る前に、購買部に寄ってもいい?ポッキー、買わなきゃ」
ああ、そういえばそんなことも言っていた気がする。未だ完全にユヅルの影が消えないことに、ヒイラギは奥歯を噛み締めた。だが当然のように彼女はヒイラギと一緒に帰ることを前提として会話しており、それは一歩前進だ。二人は侘しい教室を出て、部活終わりの生徒の喧騒で満ちた購買部に立ち寄った。ヒイラギはあまり来ることのない場所だけに、興味深い。一日の終わりが近いからか、商品棚には思い出したかのようにぽつぽつと商品が置いてある状態だった。
「えっと…あ、あった」
マトイは真っ直ぐ菓子類の棚に歩いていき、見慣れたパッケージを手に取る。その迷いのない手つき、ユヅルに勉強を教えてもらって返礼を買いにくることは一度や二度ではないのだろう。そういう何気ないところで垣間見える二人の時間の積み重ねに、ヒイラギは心を乱される。ユヅルを喜ばせるためのものを持っているマトイに、ヒイラギは情念がざわつくのを止められなかった。
「夕凪さん、いちご、好き?」
「え?うん、好きだよ」
「そっか」
ポッキーの棚に残っていた最後のひとつは、甘酸っぱいピンクに染まったいちごのパッケージ。ヒイラギは迷いなく手に取り、会計を済ませると、彼女に差し出した。
「あげる」
「…え?何で?」
ヒイラギといちごのポッキーを二度見して、マトイは間の抜けた声で聞いた。
「本当は約束なんてなかったのに、嘘ついたから」
「え?ああ、そういえば…私、百合川くんと勉強する約束してなかったよね?本当は約束してて、私だけ綺麗に忘れちゃったのかと思っちゃった」
「そうだよ。約束なんてしてなかった。……嘘、ついた」
「何であんな嘘ついたの?」
それはいつかぶつけられるだろう疑問だった。彼女が不思議に思うのは当然だ。敦田ユヅルにもさぞ不審がられただろう。本音を言っていいものか迷った。ヒイラギの視線が珍しく泳ぐ。彼女を直視できない。だが、本音を覆い隠せる適当な理由が思いつかない。ええい、言ってしまえ。
「……君と敦田くんが二人きりになるのが嫌だったから」
大きな声では言えないけれど、小さな声では聞こえない。マトイは首を傾げて、
「ごめんね、もう一回言って?よく聞こえなくて」
意地悪でも何でもなく、きっと本当に聞こえなかったのだろう顔で聞いてくる。ヒイラギの顔に熱が集まってくる。もう一度言いたいが、この購買部の喧騒にかき消されない声で言うのは苦しい。
「……ここで言うのもなんだから……部屋に、来てくれない?」
「?いいよ」
どうしてもここで聞きたいと言われないことに、心から安堵した。
彼女を学生寮の部屋に招き入れること、それ自体は喜ばしいことだが、この日ばかりはヒイラギも緊張していた。きっともう一度聞かれる。二人しかいない空間ならもう一度言えると思ったが、妙に心が研ぎ澄まされて落ち着けない。二人で通り過ぎていく廊下は放課後の音に満ちてざわついている。窓から差し込む黄昏の光が物憂げな色に学生寮を染めている。
マトイはベッドに、ヒイラギは椅子に腰掛ける。ドア一枚隔てただけで、ざわついた人の声が随分と小さくなる。それだけ互いの声がよく聞こえるということだ。
「それで、百合川くん」
スカートを丁寧に撫でつけながら座り、マトイは純粋な瞳でヒイラギを見つめている。
「さっき、何て言ってたの?」
小首を傾げると彼女の髪がさらりと揺れて線を描く。ああ綺麗だなんて現実逃避しようにも、マトイに先を促す視線で見つめられると黙ってはいられない。いられないのだが、あまりにも綺麗なその瞳に自分の矮小な考えが似つかわしくなくて、言葉が出てこなくなる。それでもじっと黙って待たれ、ドアの先の呑気なざわめきが聞こえて居た堪れなくなる。
「君と敦田くんが二人きりになるのが嫌だったから、嘘ついた」
何とか絞り出した言葉が波紋になり部屋を満たす。大して広くないワンルーム、膝を突き合わせた距離にいる彼女には十分に聞こえただろう。マトイはヒイラギの言葉をじっくり咀嚼するようにしばらく硬直して、
「……え?どういうこと?」
無慈悲な疑問が返ってきた。できれば、というよりこの言葉で察してほしかったが、彼女には引っかかってしまったらしい。
「えーと……わかって、くれないかな」
少し困った顔で彼女を見上げたが、マトイの疑問符を浮かべた顔は変わらなかった。どうやら言わないと納得してくれないらしい。彼女を真っ直ぐ見つめることができなくて、斜め下に視線を逸らしながら、
「僕と一緒にいてほしかった」
意を決して言葉にした。二人きりの空間でも大きな声では言えないけれど、ここならはっきり聞こえただろう。
「………」
この言葉を彼女はどう解したのか、少し驚いたように目を見開いている。そうして一度ヒイラギから目を逸らして考え込んだ後、まだ目を合わせられないヒイラギに向き直った。
「私も百合川くんと一緒にいたいよ?」
顔を上げると、照れくさそうに笑っているマトイが視界に映る。ああもう、彼女はどうしてこんなに顔が赤くなるような笑顔を見せるのだろう。
「……ねえ、夕凪さん?」
「どうしたの?」
「聞いていい?君と、敦田くんのこと」
「敦田くんの?うん、なに?」
二人を見てもやもやと心と脳内に広がった黒く翳った霧。ちょうどいい機会だから、今ここで綺麗に払っておきたい。
「敦田くんとは、どういう関係なの」
「友達だよ」
それなりの覚悟を持って尋ねたのだが、返ってきた言葉は軽い上に即答だった。重大な響きは一切ない、雑談の延長に過ぎないたわいない音の連なり。
「今は違うクラスだけど、1年と2年のときに同じクラスだったの。それで仲良くなって。敦田くん、勉強教えるの上手だから、今まで結構甘えちゃってて」
あはは、とマトイは笑ってみせる。誤魔化しのない、明るい笑顔だ。
「今日も無理言って勉強教えてもらったから、明日ちゃんとお礼言わなきゃ」
そう言って、マトイはユヅルのために買ったポッキーの箱を握りしめていた。特に彼女は意識した仕草ではないのだろうが、少しでも他の異性の影がちらつく所作はヒイラギの脳内にざらついたノイズを生む。敦田ユヅルはヒイラギも認めざるを得ない魅力の持ち主だ。いつかマトイの視線がヒイラギからユヅルに向かったとき、その視線を取り戻せなくなるかもしれない。
「夕凪さん」
何とか話を逸らそうとして、机に置いたピンクのパッケージを手に取る。今の今まで綺麗に忘れていたが、
「これ、あげる」
いちごが弾ける明るい色を彼女に差し出す。ユヅルに対する精一杯の抵抗だった。
「あ、そういえばくれるって言ってたね。本当にもらっていいの?」
「大した値段じゃないし、気にしないで」
「ありがとう!いちごのポッキー久しぶりに見たなぁ」
にこにことマトイは笑んで受け取ってくれた。それを見てほっとする。彼女の心に何か少しでも、ユヅルを上書きできるものがあってほしい。
「百合川くん」
ぱき、とポッキーの箱の上蓋を外し、ぺりぺりと内部包装の上部を剥がすと、マトイは中から1本取り出し、
「食べる?」
チョコレートがたっぷりついた方を差し出してくる。見るからにいちご味のピンク色のチョコレートと小麦色のプレッツェルは、柔らかな印象をもたらす。
「え?夕凪さんに食べてほしくて買ったから、僕は……」
「私一人で食べてもつまらないし、せっかく今百合川くんもいるんだし。一緒に食べよう?」
ね?と言いながら破顔する彼女に、ヒイラギは根負けした。口を開けてポッキーの先端を口に含み、歯で噛み砕いた。ぽき、と軽い音がして口の中で折れて甘い味が広がる。甘酸っぱいいちご味のチョコレートがとろけて、その下の簡素なプレッツェルは香ばしい。
「あ、そう食べるの?てっきり受け取ってくれると思ったんだけど」
ヒイラギに食べられて少し短くなったポッキーを持ったまま、マトイは困ったように眉根を寄せた。
「それこそせっかくだから、夕凪さんに食べさせてほしいよね?」
ヒイラギは唇についたチョコレートを舐め取りながら、マトイをあえて少し下から上目遣いで見つめた。マトイは急に息が詰まったかのように体を硬くしている。
「え、えーと…?百合川くん、あーんして…?」
おずおずと告げられた言葉のとおり、ヒイラギは口を開けた。そこにマトイの持つポッキーが差し込まれ、口を閉じた。ぽきりと折れて口の中で儚く細かく咀嚼されていく。美味しい。菓子類をあまり食べないヒイラギではあるが、いちごの甘酸っぱさも相まってしつこくなく、もう少し食べたくなる。ごくんと飲み込んでまた口を開ける。差し込まれる。咀嚼する。繰り返してすっかり短くなったポッキーをマトイから受け取って、ひょいと口に放り込んだ。チョコレートがない、シンプルなプレッツェルもなかなか美味しい。最後まで遠慮なく咀嚼して飲み下したヒイラギは、たった1本のポッキーを食べただけだが途方もない幸福感に満ちていた。
「美味しかった。ありがとう、夕凪さん」
「うん、よかった」
マトイが別の1本を手に取ったので、そっと手を添えて静止する。おそらく普通に食べようとしていたところ、
「食べさせてあげる」
さらりと奪ってマトイに1本、差し出した。マトイはポッキーとヒイラギの間で視線を忙しなく動かして、
「え?私は、」
「僕にしてくれたんだから、僕にもさせてよ」
言いかけた言葉を笑顔と静かな、しかし強い口調で封殺する。マトイは何を言ってもヒイラギがやめてくれないだろうことを察したのか、恥ずかしそうに口を開いた。彼女がしてくれたようにポッキーを適度な長さ、口の中に差し入れる。彼女が口を閉じると軽やかな破裂音が響き、もぐもぐと咀嚼している。それをじっと見つめる。小動物が必死に食事をしている様を見ているようで、何だか微笑ましい。
「美味しい?」
「美味しい」
尋ねると、マトイはうっすらと顔を赤らめて答えた。その表情を見ていると理性の箍が外れそうになる。ごくりと彼女の喉が動くのを待つくらいは辛うじてできた。ヒイラギは空いている片手をマトイの頬に添えた。マトイは呆けた顔でヒイラギを見つめている。
「キス、していい?」
恋人同士でもないのにどうしてこんなことを言っているのだろう、と思うこともある。しかしもうすでに彼女とは二度唇を重ねている。三度目だからといって、何がいけないのだろう。
「え、あ……」
マトイは落ち着きなく目線が泳いでいたが、数秒すると俯き、やがて沈黙とともに首肯した。彼女が承諾しているのだから、迷う理由などない。
俯いた顔を頬に添えた手で優しく上向かせ、ヒイラギは彼女の唇に自らの唇を重ねた。柔らかくあたたかな感触とともに、ふわりといちごの甘酸っぱい香りが弾ける。たった数秒のキスでも上擦るのを止められない。マトイの双眸を至近距離で見つめて柔らかく笑むと、マトイも笑い返してくれた。