宇宙の百合
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#2 紅潮する病
何故こうも百合川ヒイラギと過ごす時間が増えているのか、夕凪マトイは全くわからなかった。ある日を境にヒイラギから一緒に帰ろうと誘われ、それ以降彼と一緒に帰ったり、放課後図書室で本を読んだりしている。彼を見つめる時間が増えることは喜ばしいし、望んでいたはずだが、マトイの意思とは関係ないところで突然接点が増えると困惑もする。
今日もヒイラギと一緒に放課後の図書室にいた。各々本を読み、夕暮れが地平線の彼方に消えてしまう前に寮に戻る。無論そのときも一緒に帰る。一日のうちに占める時間でいうとわずかなものだが、心を占める割合はかなりものだ。ヒイラギも同じように思っているのだろうか。斜め前に座るヒイラギは頬杖をついて静かにページをめくっていた。黒く艶のあるぬばたまの髪、長い睫毛に彩られた灰色がかった水色の瞳、華奢なシルエットだが骨張って男性らしさを忘れさせない美しい手、そのどれもがマトイの脳髄を痺れさせてため息をつく。うっかり綺麗だ、と漏らしたとき、そんなことは初めて言われたと驚いていたが、この美しさに誰も目を留めずに素通りしていたというのだろうか。信じられないが、どうもそういうことらしい。
―――じゃあ、百合川くんが綺麗なことを知っているのは、私だけかな?
そんな少し驕った考えが浮かんでいた。マトイは本を開いてはいるものの、視線はヒイラギから動かせない。元よりマトイは彼の美しさに目を奪われていた人間である、彼がすぐ近くにいるこの状況、視線を注がずにはいられなかった。
「……あ」
彼に魅入っていてすっかり忘れていたが、読みたい本があった。ずっと誰かに借りられていたが、ようやく返却されたらしい。また誰かの手に渡る前に、さっさと確保しなければ。マトイは静かに立ち上がり、本棚の迷宮に足を踏み入れる。
指で背表紙をなぞりながら、目で追っていく。見つかった。だが、
「あぁー……」
よりによって高い場所に収納されていた。背伸びして思いきり手を伸ばしてみるが、背表紙を撫でるだけで終わってしまった。確かどこかに脚立があったはずだ。きょろきょろ見回していると、
「どうしたの、夕凪さん」
片手に本を持つヒイラギに声をかけられた。改めて彼の全身が視界に映る。すらりと細く長い手足を、濃紺に咲く白百合が彩っている。斜陽に染まる彼は赤く神秘的に輝いていた。思わず見惚れてしまって押し黙ってしまい、ヒイラギは小さく首を傾げた。
「夕凪さん?」
そして小さな靴音とともに、ヒイラギが一歩距離を詰めてきた。ぐっと彼の顔が眼前に突き出される。
「どうしたの、ぼーっとして。体調悪い?」
「あ、えと、そうじゃなくて…大丈夫!」
妙に上ずった声が出て、猛烈に恥ずかしくなった。
「そう?辛かったら、ちゃんと言ってね?すぐ帰るからさ」
すっと近すぎたヒイラギの顔が離れていく。まだ心臓がうるさい。彼の美しさに触れる時間が増えても、心踊るのは変わらない。緊張もする。マトイは鼓動が早い心臓を宥めるように深く息をした。
「夕凪さん、あの本、取りたいんじゃないの?」
ヒイラギがある一冊を指さして言う。まさにマトイが背表紙を撫でるに留まった本だった。
「あ、そうなの。脚立持ってこようと思って探してて」
「脚立?いいよ」
ヒイラギは口元に緩やかな笑みを浮かべると、手を伸ばした。長身の彼は容易くその本を取り、マトイに差し出してきた。
「ほら」
優しく笑む彼は神々しかった。マトイは呆然としながら本を受け取り、
「あ、ありがとう」
きっといつまでもこの美しさに心を奪われ続けるのだろうと確信した。受け取った本がほんのりと温かいような気がした。
今日は朝から体調が悪かった。マトイは熱っぽい額に手を当てて、ぼんやりと息をしていた。風邪を引いただろうか。授業を受けられないほどではないので朝から通常どおり登校していたが、昼を過ぎたあたりから熱が上がってきた。あまりにも集中できないため、担任に事情を説明して保健室で放課後まで休むことになった。数日前、ヒイラギに体調が悪くないかと尋ねられたが、本当にそうだったらしい。
「たぶん風邪だね〜。ちょっと熱が高いから、薬を飲んで休んで、放課後になったら帰るといいよ」
「はい、ありがとうございます…」
「テストも近づいてきたし、お大事にね〜」
保健室の先生は解熱剤をマトイに手渡し、ひらひらと手を振った。遠慮なく薬を飲み、白いベッドに横たわる。先生は優しく笑って寝ている様子が見えないように衝立を立ててくれた。それで安心したのか、マトイはするりと眠りの世界へと誘われ、次に目を覚ました頃には、放課後の喧騒が遠くで聞こえる時間になっていた。
マトイはぱちぱちと何度か瞬きをして、眼球を動かした。保健室の白い天井、簡易に空間を区切った衝立が視界に入る。窓から差し込む光は昼間の明るさはなく、気怠い夕陽になりかけの太陽が頬を照らした。よく眠っていた。マトイは半身を起こし、大きく伸びをした。薬を飲んでぐっすり眠ったおかげで歩いて帰れるくらいには回復した。でももう少し休んでいたいかな。マトイはそんなことを考えながら息をついた。
今日は久しぶりに百合川くんと会えない日かな。一抹の物足りなさを感じていると、からら、と軽い音がして、保健室の引き戸が開いた。誰か入ってきた気配がする。小さな足音がマトイのいるベッドに近づいてくる。ぴたりと衝立の前で足音が止まった。
「夕凪さん、いる?」
その声に驚いた。
「百合川くん?」
「そうだよ。ねえ、入っていいかな?」
「いいよ」
衝立が少し動き、できた隙間を通って百合川ヒイラギが現れた。鞄を肩にかけた彼は、黒い髪を微かに揺らして優しく微笑んだ。
「起きててよかった。体調悪そうだったけど、大丈夫?」
「うん。よく寝たから、だいぶ元気になったよ。心配してくれたの?」
「もちろん」
少し冗談めかして聞いたら、あっさりの即答だった。こうも真っ直ぐ言われると照れくさくなる。マトイは頬を触りながら、少し熱い顔を逸らした。
ヒイラギが腰を折り、マトイの目線の高さに顔を合わせ、じっと覗き込んできた。澄んだ瞳がマトイを見つめている。
「でも、ちょっと顔が赤いよ?まだ熱があるんじゃない?」
少しいい?とヒイラギに聞かれ、よくわからないまま頷くと、ヒイラギの手が額に当たり、マトイの前髪を上げた。剥き出しになった額に、ヒイラギの額を当ててきた。
「僕より熱いよ。熱があるんじゃないかな」
吐息がかかる至近距離、熱の原因はきっとひとつだけではないと思う。マトイはあまりにも近すぎて息を止めてしまった。ヒイラギの顔が離れても数秒息を止めてしまい、ようやく呼吸を始めた頃には軽い酸欠に陥っていた。
「熱、あるかもね…?」
マトイの唇から滑り落ちたのは、そんなよくわからない言葉だった。心地よい熱に冒されている。
「夕凪さん、風邪なら僕にうつしたらいいよ。人にうつしたらすぐ治るって言うよね」
悪戯っぽく笑いながら、彼は言う。
「そんなの駄目だよ、百合川くんが体調悪くなるから」
「僕はいいよ?たまには保健室でのんびりするのも悪くないから。……ねえ、夕凪さん」
「なに?」
ヒイラギを見ると、骨張った両手が伸びてきた。マトイの熱を帯びた頬を両手で包み込まれる。目を逸らしたくても逸らせない。鼻先が触れ合うような距離で言葉もなく見つめられると、どう反応していいかわからなくなる。
「君の風邪、僕にうつして?」
そう言いながら、ヒイラギの顔が近づいてくる。やがて距離がなくなり、無防備な唇にヒイラギの唇が押し当てられた。柔らかな感触が密着し、数秒吸い付き、名残惜しそうに離れていった。
「………えっ?」
今、何をされた?マトイは呆然とヒイラギを凝視していた。マトイは無意識に指先で唇をなぞった。少しだけ湿った感触がある。先ほどまで何か潤いのあるものが密着していたような、そんな感触がある。
「何で、え?百合川くん?」
あまりにも混乱するとろくな言葉が出てこないらしい。マトイは何か言おうと口を金魚のように動かすが、それ以上何も言えなかった。
「君が体調悪いならうつしたらいいって、本当に思ってるから」
そう囁くヒイラギの声が二人だけの保健室に染み渡り、マトイの鼓膜をいつまでも震わせていた。
百合川ヒイラギはめでたく体調を崩し、保健室どころか登校できず、寮の自室で横になっていた。放課後の保健室でマトイに口付けたあの日。その数日後、おそらくはマトイと同じ、倦怠感と発熱により授業を受けられなくなってしまった。寝込むヒイラギとは裏腹に、マトイは日毎に回復していったように見え、マトイの風邪をうつして治させるという目的は達したようだった。その代わり学園を休むほどに体調を崩すことになるとは思わなかったが。
ヒイラギは買い込んでいたゼリー飲料を口にしながら、数日前の保健室での出来事に思いを馳せた。顔色の悪いマトイが授業を休んだのを見て、きっと保健室にいるだろうと覗いたら、彼女がいた。少し熱っぽい顔の彼女を見て、不謹慎極まりないとは思いながらも、触れたいと感じることを止められなかった。ヒイラギにうつして治せばいいと思ったのは本当だ。ただそれは後付けの理由に過ぎないことを、ヒイラギは知っている。あのときはそんな取ってつけた理由に縋ってまで、マトイを独占したかった。
無事彼女が元気になったのなら、あの口付けも言葉通りの意味があったに違いない。そう思っておかないと、彼女の同意も得ぬまま唇を奪った最低な男になってしまう。後ろめたい気持ちもあるが、あの唇の感触が忘れられなくて、今でも鮮明に思い出して心臓が高鳴っている。もしかして自分は倫理感をどこかに置いてきた変態なのではないかと疑いの眼を向けてしまう程度には。
遠慮なくベッドに潜り込み、何度も浅く眠っては起きを繰り返しながら、時間がとろけるように過ぎていく。夢の中でもマトイに触れたり口付けており、割と重症ではないかと感じるが、仕方がない。それがヒイラギの隠さぬ気持ちなのだから。
平日の寮は静かだ。おそらくヒイラギ以外は誰もいないだろう。昼も夕方もほぼ無音に近い空間。いくらでも思考の海にまどろんでいける時間を切り裂く、ノック音が聞こえた。コンコン、と控えめにドアを叩かれている。誰だろう。ヒイラギの部屋がどこにあるか知っている人間など、そういないはずだが。そう思いながら、髪を手櫛で整えながらドアを開けた。
「百合川くん、こんにちは。大丈夫?」
制服姿のマトイが立っていた。一瞬呆けて意識が飛んだが、マトイに見つめられてはっと我に返る。
「え、あ、こんにちは」
「ちょっとお見舞いに、と思って…しんどかったらすぐに帰るから」
「え、お見舞いに?……部屋、汚いけど、よかったら」
「ほんと?お邪魔します」
マトイはにっこりと笑いながら、部屋に入ってきた。ヒイラギは珍しく混乱している。
「百合川くんの部屋、前に1回しか来たことなかったからちょっと迷ったけど、着いてよかった」
ヒイラギはマトイに椅子を勧めると、ベッドに座った。朝と比べると体調は落ち着いてきたものの、まだ本調子ではない。布団を下半身にかけてマトイを見た。
「栄養ドリンクとか、買ってきたの。もしよかったら飲んでね」
マトイは中身の詰まったビニール袋を見せると、机に置いた。
「ありがとう。わざわざ来てくれて」
「ううん。ほら、百合川くんはこの前、保健室に会いにきてくれたでしょ?だから私もお見舞いしようと思っただけだから」
穏やかな笑みを見せる彼女を、今すぐ抱き寄せたくなる。マトイは椅子から立ち上がり、ベッドに近づいてくる。いつかヒイラギがしたように腰を折り、ヒイラギと目線を合わせてきた。
「本当に私の風邪、うつっちゃったね。ごめんね」
「いいんだ。そのぶん、君が元気になってくれたから」
ごく素直に答えると、マトイは困ったように笑いながら、頬を赤らめた。その紅潮が病によるものでなければ、それでいい。
「百合川くん」
名前を呼ばれて、マトイの両手がヒイラギの頬を包み込んだ。柔らかくほっそりとした白い手。ヒイラギのものとは違う、清楚な手だ。
「夕凪さん?」
すぐ近くに彼女の顔がある。彼女の髪がヒイラギの顔に触れる。さらさらと髪が揺れ、マトイがゆっくりと動いた。さらに距離を詰めてくる。反射的に目を閉じたとき、唇にふに、と柔らかな感触が伝わった。唇を塞がれたのはほんの一瞬で、掌も離れていく。
「この前のお返し」
マトイは恥ずかしそうに笑みながら、ヒイラギの瞳を射抜いてくる。先ほどの感触は夢ではなかったようだ。
「私は1回風邪引いてるから、百合川くんの風邪をもらっても大丈夫だからね」
「……そう、だね?」
さすがのヒイラギも困惑していた。自分から距離を詰めて行動を起こすのは問題ないが、いざ彼女からことを起こされると認識が遅れ、戸惑ってしまう。数秒置いて、彼女に唇を奪われた事実がじわじわと全身に沁みてくる。
「百合川くん、ありがとう。お大事にね」
マトイはヒイラギの言及を避けるようにふわりと距離を取り、手を振って部屋を出ていった。あとに残されたのは、ほんのりと香る花の香りと、唇に押し当てられた血の通った感触だった。
何故こうも百合川ヒイラギと過ごす時間が増えているのか、夕凪マトイは全くわからなかった。ある日を境にヒイラギから一緒に帰ろうと誘われ、それ以降彼と一緒に帰ったり、放課後図書室で本を読んだりしている。彼を見つめる時間が増えることは喜ばしいし、望んでいたはずだが、マトイの意思とは関係ないところで突然接点が増えると困惑もする。
今日もヒイラギと一緒に放課後の図書室にいた。各々本を読み、夕暮れが地平線の彼方に消えてしまう前に寮に戻る。無論そのときも一緒に帰る。一日のうちに占める時間でいうとわずかなものだが、心を占める割合はかなりものだ。ヒイラギも同じように思っているのだろうか。斜め前に座るヒイラギは頬杖をついて静かにページをめくっていた。黒く艶のあるぬばたまの髪、長い睫毛に彩られた灰色がかった水色の瞳、華奢なシルエットだが骨張って男性らしさを忘れさせない美しい手、そのどれもがマトイの脳髄を痺れさせてため息をつく。うっかり綺麗だ、と漏らしたとき、そんなことは初めて言われたと驚いていたが、この美しさに誰も目を留めずに素通りしていたというのだろうか。信じられないが、どうもそういうことらしい。
―――じゃあ、百合川くんが綺麗なことを知っているのは、私だけかな?
そんな少し驕った考えが浮かんでいた。マトイは本を開いてはいるものの、視線はヒイラギから動かせない。元よりマトイは彼の美しさに目を奪われていた人間である、彼がすぐ近くにいるこの状況、視線を注がずにはいられなかった。
「……あ」
彼に魅入っていてすっかり忘れていたが、読みたい本があった。ずっと誰かに借りられていたが、ようやく返却されたらしい。また誰かの手に渡る前に、さっさと確保しなければ。マトイは静かに立ち上がり、本棚の迷宮に足を踏み入れる。
指で背表紙をなぞりながら、目で追っていく。見つかった。だが、
「あぁー……」
よりによって高い場所に収納されていた。背伸びして思いきり手を伸ばしてみるが、背表紙を撫でるだけで終わってしまった。確かどこかに脚立があったはずだ。きょろきょろ見回していると、
「どうしたの、夕凪さん」
片手に本を持つヒイラギに声をかけられた。改めて彼の全身が視界に映る。すらりと細く長い手足を、濃紺に咲く白百合が彩っている。斜陽に染まる彼は赤く神秘的に輝いていた。思わず見惚れてしまって押し黙ってしまい、ヒイラギは小さく首を傾げた。
「夕凪さん?」
そして小さな靴音とともに、ヒイラギが一歩距離を詰めてきた。ぐっと彼の顔が眼前に突き出される。
「どうしたの、ぼーっとして。体調悪い?」
「あ、えと、そうじゃなくて…大丈夫!」
妙に上ずった声が出て、猛烈に恥ずかしくなった。
「そう?辛かったら、ちゃんと言ってね?すぐ帰るからさ」
すっと近すぎたヒイラギの顔が離れていく。まだ心臓がうるさい。彼の美しさに触れる時間が増えても、心踊るのは変わらない。緊張もする。マトイは鼓動が早い心臓を宥めるように深く息をした。
「夕凪さん、あの本、取りたいんじゃないの?」
ヒイラギがある一冊を指さして言う。まさにマトイが背表紙を撫でるに留まった本だった。
「あ、そうなの。脚立持ってこようと思って探してて」
「脚立?いいよ」
ヒイラギは口元に緩やかな笑みを浮かべると、手を伸ばした。長身の彼は容易くその本を取り、マトイに差し出してきた。
「ほら」
優しく笑む彼は神々しかった。マトイは呆然としながら本を受け取り、
「あ、ありがとう」
きっといつまでもこの美しさに心を奪われ続けるのだろうと確信した。受け取った本がほんのりと温かいような気がした。
今日は朝から体調が悪かった。マトイは熱っぽい額に手を当てて、ぼんやりと息をしていた。風邪を引いただろうか。授業を受けられないほどではないので朝から通常どおり登校していたが、昼を過ぎたあたりから熱が上がってきた。あまりにも集中できないため、担任に事情を説明して保健室で放課後まで休むことになった。数日前、ヒイラギに体調が悪くないかと尋ねられたが、本当にそうだったらしい。
「たぶん風邪だね〜。ちょっと熱が高いから、薬を飲んで休んで、放課後になったら帰るといいよ」
「はい、ありがとうございます…」
「テストも近づいてきたし、お大事にね〜」
保健室の先生は解熱剤をマトイに手渡し、ひらひらと手を振った。遠慮なく薬を飲み、白いベッドに横たわる。先生は優しく笑って寝ている様子が見えないように衝立を立ててくれた。それで安心したのか、マトイはするりと眠りの世界へと誘われ、次に目を覚ました頃には、放課後の喧騒が遠くで聞こえる時間になっていた。
マトイはぱちぱちと何度か瞬きをして、眼球を動かした。保健室の白い天井、簡易に空間を区切った衝立が視界に入る。窓から差し込む光は昼間の明るさはなく、気怠い夕陽になりかけの太陽が頬を照らした。よく眠っていた。マトイは半身を起こし、大きく伸びをした。薬を飲んでぐっすり眠ったおかげで歩いて帰れるくらいには回復した。でももう少し休んでいたいかな。マトイはそんなことを考えながら息をついた。
今日は久しぶりに百合川くんと会えない日かな。一抹の物足りなさを感じていると、からら、と軽い音がして、保健室の引き戸が開いた。誰か入ってきた気配がする。小さな足音がマトイのいるベッドに近づいてくる。ぴたりと衝立の前で足音が止まった。
「夕凪さん、いる?」
その声に驚いた。
「百合川くん?」
「そうだよ。ねえ、入っていいかな?」
「いいよ」
衝立が少し動き、できた隙間を通って百合川ヒイラギが現れた。鞄を肩にかけた彼は、黒い髪を微かに揺らして優しく微笑んだ。
「起きててよかった。体調悪そうだったけど、大丈夫?」
「うん。よく寝たから、だいぶ元気になったよ。心配してくれたの?」
「もちろん」
少し冗談めかして聞いたら、あっさりの即答だった。こうも真っ直ぐ言われると照れくさくなる。マトイは頬を触りながら、少し熱い顔を逸らした。
ヒイラギが腰を折り、マトイの目線の高さに顔を合わせ、じっと覗き込んできた。澄んだ瞳がマトイを見つめている。
「でも、ちょっと顔が赤いよ?まだ熱があるんじゃない?」
少しいい?とヒイラギに聞かれ、よくわからないまま頷くと、ヒイラギの手が額に当たり、マトイの前髪を上げた。剥き出しになった額に、ヒイラギの額を当ててきた。
「僕より熱いよ。熱があるんじゃないかな」
吐息がかかる至近距離、熱の原因はきっとひとつだけではないと思う。マトイはあまりにも近すぎて息を止めてしまった。ヒイラギの顔が離れても数秒息を止めてしまい、ようやく呼吸を始めた頃には軽い酸欠に陥っていた。
「熱、あるかもね…?」
マトイの唇から滑り落ちたのは、そんなよくわからない言葉だった。心地よい熱に冒されている。
「夕凪さん、風邪なら僕にうつしたらいいよ。人にうつしたらすぐ治るって言うよね」
悪戯っぽく笑いながら、彼は言う。
「そんなの駄目だよ、百合川くんが体調悪くなるから」
「僕はいいよ?たまには保健室でのんびりするのも悪くないから。……ねえ、夕凪さん」
「なに?」
ヒイラギを見ると、骨張った両手が伸びてきた。マトイの熱を帯びた頬を両手で包み込まれる。目を逸らしたくても逸らせない。鼻先が触れ合うような距離で言葉もなく見つめられると、どう反応していいかわからなくなる。
「君の風邪、僕にうつして?」
そう言いながら、ヒイラギの顔が近づいてくる。やがて距離がなくなり、無防備な唇にヒイラギの唇が押し当てられた。柔らかな感触が密着し、数秒吸い付き、名残惜しそうに離れていった。
「………えっ?」
今、何をされた?マトイは呆然とヒイラギを凝視していた。マトイは無意識に指先で唇をなぞった。少しだけ湿った感触がある。先ほどまで何か潤いのあるものが密着していたような、そんな感触がある。
「何で、え?百合川くん?」
あまりにも混乱するとろくな言葉が出てこないらしい。マトイは何か言おうと口を金魚のように動かすが、それ以上何も言えなかった。
「君が体調悪いならうつしたらいいって、本当に思ってるから」
そう囁くヒイラギの声が二人だけの保健室に染み渡り、マトイの鼓膜をいつまでも震わせていた。
百合川ヒイラギはめでたく体調を崩し、保健室どころか登校できず、寮の自室で横になっていた。放課後の保健室でマトイに口付けたあの日。その数日後、おそらくはマトイと同じ、倦怠感と発熱により授業を受けられなくなってしまった。寝込むヒイラギとは裏腹に、マトイは日毎に回復していったように見え、マトイの風邪をうつして治させるという目的は達したようだった。その代わり学園を休むほどに体調を崩すことになるとは思わなかったが。
ヒイラギは買い込んでいたゼリー飲料を口にしながら、数日前の保健室での出来事に思いを馳せた。顔色の悪いマトイが授業を休んだのを見て、きっと保健室にいるだろうと覗いたら、彼女がいた。少し熱っぽい顔の彼女を見て、不謹慎極まりないとは思いながらも、触れたいと感じることを止められなかった。ヒイラギにうつして治せばいいと思ったのは本当だ。ただそれは後付けの理由に過ぎないことを、ヒイラギは知っている。あのときはそんな取ってつけた理由に縋ってまで、マトイを独占したかった。
無事彼女が元気になったのなら、あの口付けも言葉通りの意味があったに違いない。そう思っておかないと、彼女の同意も得ぬまま唇を奪った最低な男になってしまう。後ろめたい気持ちもあるが、あの唇の感触が忘れられなくて、今でも鮮明に思い出して心臓が高鳴っている。もしかして自分は倫理感をどこかに置いてきた変態なのではないかと疑いの眼を向けてしまう程度には。
遠慮なくベッドに潜り込み、何度も浅く眠っては起きを繰り返しながら、時間がとろけるように過ぎていく。夢の中でもマトイに触れたり口付けており、割と重症ではないかと感じるが、仕方がない。それがヒイラギの隠さぬ気持ちなのだから。
平日の寮は静かだ。おそらくヒイラギ以外は誰もいないだろう。昼も夕方もほぼ無音に近い空間。いくらでも思考の海にまどろんでいける時間を切り裂く、ノック音が聞こえた。コンコン、と控えめにドアを叩かれている。誰だろう。ヒイラギの部屋がどこにあるか知っている人間など、そういないはずだが。そう思いながら、髪を手櫛で整えながらドアを開けた。
「百合川くん、こんにちは。大丈夫?」
制服姿のマトイが立っていた。一瞬呆けて意識が飛んだが、マトイに見つめられてはっと我に返る。
「え、あ、こんにちは」
「ちょっとお見舞いに、と思って…しんどかったらすぐに帰るから」
「え、お見舞いに?……部屋、汚いけど、よかったら」
「ほんと?お邪魔します」
マトイはにっこりと笑いながら、部屋に入ってきた。ヒイラギは珍しく混乱している。
「百合川くんの部屋、前に1回しか来たことなかったからちょっと迷ったけど、着いてよかった」
ヒイラギはマトイに椅子を勧めると、ベッドに座った。朝と比べると体調は落ち着いてきたものの、まだ本調子ではない。布団を下半身にかけてマトイを見た。
「栄養ドリンクとか、買ってきたの。もしよかったら飲んでね」
マトイは中身の詰まったビニール袋を見せると、机に置いた。
「ありがとう。わざわざ来てくれて」
「ううん。ほら、百合川くんはこの前、保健室に会いにきてくれたでしょ?だから私もお見舞いしようと思っただけだから」
穏やかな笑みを見せる彼女を、今すぐ抱き寄せたくなる。マトイは椅子から立ち上がり、ベッドに近づいてくる。いつかヒイラギがしたように腰を折り、ヒイラギと目線を合わせてきた。
「本当に私の風邪、うつっちゃったね。ごめんね」
「いいんだ。そのぶん、君が元気になってくれたから」
ごく素直に答えると、マトイは困ったように笑いながら、頬を赤らめた。その紅潮が病によるものでなければ、それでいい。
「百合川くん」
名前を呼ばれて、マトイの両手がヒイラギの頬を包み込んだ。柔らかくほっそりとした白い手。ヒイラギのものとは違う、清楚な手だ。
「夕凪さん?」
すぐ近くに彼女の顔がある。彼女の髪がヒイラギの顔に触れる。さらさらと髪が揺れ、マトイがゆっくりと動いた。さらに距離を詰めてくる。反射的に目を閉じたとき、唇にふに、と柔らかな感触が伝わった。唇を塞がれたのはほんの一瞬で、掌も離れていく。
「この前のお返し」
マトイは恥ずかしそうに笑みながら、ヒイラギの瞳を射抜いてくる。先ほどの感触は夢ではなかったようだ。
「私は1回風邪引いてるから、百合川くんの風邪をもらっても大丈夫だからね」
「……そう、だね?」
さすがのヒイラギも困惑していた。自分から距離を詰めて行動を起こすのは問題ないが、いざ彼女からことを起こされると認識が遅れ、戸惑ってしまう。数秒置いて、彼女に唇を奪われた事実がじわじわと全身に沁みてくる。
「百合川くん、ありがとう。お大事にね」
マトイはヒイラギの言及を避けるようにふわりと距離を取り、手を振って部屋を出ていった。あとに残されたのは、ほんのりと香る花の香りと、唇に押し当てられた血の通った感触だった。