宇宙の百合
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#1 茜色の恋
百合川ヒイラギは浮かれていた。それはもう、心がふわふわと躍って勝手にどこかに散歩に行きそうなくらいに、浮かれ切っていた。
夕凪マトイに一緒に帰ろうと声をかけて喫茶店、ヒイラギの部屋で時間を過ごした。時間はあっという間に過ぎ去るもので、気がつくと夜になったので彼女は寮の自室へと帰っていった。控えめに手を振りながら帰っていくその姿をはっきりと覚えている。
ヒイラギはマトイがいなくなった部屋で落ち着きなく椅子に座っていた。机に置いてある鏡を見る。生まれたときから幾度となく見た自身の顔が映っている。
「綺麗……」
ぽつりと呟いた。それは彼女から言われた言葉だ。百合川くんは、綺麗だよ。そう言ってくれた。綺麗だなんて言われたのは初めてで、何度自分の顔を見ても綺麗だとは思えないが、マトイにそう言われると面映い。頬杖をついて鏡の中の自分と目を合わせた。マトイが綺麗だ、と言ってくれた言葉がぐるぐると頭の中で何度も巡って、気がつけば口元がだらしなく緩んでいる。普段であれば夜となると疲れが溜まり、どことなく髪から艶が失われるが、今は妙に艶々と輝いていた。戯れに髪に手を通してみる。さらさらと櫛を通した後のような、滑らかな手触り。彼女に少し褒められたくらいで、体にまで弾んだ気持ちが影響するらしい。
夕凪マトイ。同じ教室の右斜め後ろに座っているクラスメイトだ。彼女のことが気になって仕方がなくなり、今日初めてまともに声をかけ、ともに時間を過ごした。思っていたよりもはるかに楽しい時間を過ごし、驚いている。不意に生まれた懐かしいような気持ちに従って、試しに彼女と過ごしてみただけなのに、彼女に対する思い入れが強くなっていくのを感じる。またマトイと会いたい。一目見たい。見るだけでは飽き足らない。もっと一緒に過ごしたい。
「なんか変だな、僕……」
机に頬を付けて突っ伏した。ひんやりと冷たい机の温度が、やや熱を持った頬を冷ましていく。体は冷えても、心の温度は一向に下がる気配を見せない。他人とあまり関わりを持とうとしてこなかったヒイラギではあるが、マトイだけは別のようだ。
「でも……」
目を閉じると、脳裏に先ほどまで部屋にいたマトイを思い出す。嗅覚が研ぎ澄まされ、部屋の中に普段なら漂わぬ香りがふんわりと残っていることに気づく。マトイのシャンプーの香りだろうか。柔らかく穏やかな、花のような香りだ。もう少しこの香りに浸っていたいが、それもやがて消えてしまうのだろうと思うと切ない。
明日も彼女と一緒に帰ろう。声をかけよう。ヒイラギはそう決意した。
百合川ヒイラギは悶々としていた。それはもう、心の中に溜まった爆発的なエネルギーを抑えるのに必死になる程度には。
彼女と一緒に帰ろう、声をかけようと決意したヒイラギであったが、下校までの時間が長過ぎてとにかく落ち着かなかった。彼女を一目見たくとも、右斜め後ろの彼女を見るには振り返る形になり不自然だ。彼女と話をしたいが、今までろくに話をしてこなかった間柄だ、休み時間に話しかける用もなく、どうにも足踏みをしてしまう。クラスメイトなのだから周りの皆がしているように、気楽に話しかけて雑談をしてもいいと頭ではわかっている。わかっているが、これまでのヒイラギにはない行動パターンで、どうすればよいのかわからない。彼女も特に用がないのでヒイラギに話しかけてくることもない。ヒイラギが見る限り、彼女の態度はごく普通のクラスメイトに対するもので、昨日少し一緒に帰った程度で大きく態度が変わるわけがないのだが、それがどうにも寂しかった。こんなに意識しているのはヒイラギだけなのか。
傍目には、ただ単に同じ教室で授業を受けるクラスメイト。ヒイラギとマトイはその範疇を出ない、淡白な関係性だ。そこを飛び越えて別の関係に発展させたいと、そんなことまで望んでいるのかもしれない。
元々ヒイラギにとって学園の授業は退屈そのものだったが、放課後を心待ちにしている今のヒイラギにとっては障害といっても差し支えなかった。朝から夕方までだらだらとくだらない話を聞いている時間がもったいない。窓の外を見ながら、時折真面目にノートを取ったりしながら、ただ時が過ぎ行くのを待ち続ける。
そうして放課後を知らせる鐘が鳴る。今日はホームルームが手短に終わった。彼女に声をかけようと振り返る。
マトイは用があるのか、迷いなく立ち上がるとついと教室から出て行った。声をかける間もなかった。当てが外れて呆然としてしまったが、昨夜から今まで待ちに待ったのに何も成果がないのは物寂しい。さすがに声をかけるくらいはしたい。
逡巡したが、彼女を追いかけることにした。足早に真っ直ぐどこかに歩いていく彼女の後ろを追いかける。思ったよりも足が速い彼女は、馴染みのある場所に向かっていた。
マトイが消えていったのは、図書室だった。読書が趣味のヒイラギにとっては第二の家といっても差し支えない、幾度となく通った場所だ。物憂げな夕陽の色に染まった図書室には、マトイとヒイラギしかいない。マトイは四人がけの机の片隅に座り、じっと本を読み始めた。本の世界に浸ることが好きなヒイラギには、読書を中断される苦しみは理解できる。だが彼女を間近で見たい。脳内で思いが交錯する。
ヒイラギは意を決して歩みを進めた。その一歩一歩が妙に重く感じる。マトイが座っているところに近づいていく。何年も行った日常動作だが、彼女に近づくたびに胸が高鳴る。マトイはヒイラギの接近には全く気付いていないようで、本に目を落とし、ページをめくっている。
そっと彼女の斜め前の椅子を引き、座った。窓に背を向けて座っている彼女は本の世界に完全に浸っているらしく、ヒイラギが斜め前に座っても本を読み続けている。ヒイラギも読書に熱中すると肩でも叩かれない限り気が付かないので、特に無視されているとは思わなかった。むしろ彼女の読書を邪魔することなく、その姿を観察できる良い機会だ。
ヒイラギは両手を組み肘をつき、手の上に顎を乗せて彼女をじっくり見つめた。窓から差し込む夕陽を一身に受けたマトイは、茜色に縁取りされて神秘的な輝きを放っている。机に置いた本を見つめる伏し目がちの睫毛は長く、ページをめくる動作は穏やかだ。ぴんと伸びた背筋、揃えた足、品行方正な佇まいに見ていて心が落ち着く。彼女も読書が好きなのだろうか。もしそうなら、何か話すきっかけになりそうである。放課後の図書室にやって来る生徒はあまりいないし、他人の目を気にすることなくマトイと時間を過ごせるかもしれない。
ヒイラギはマトイが読書を終えるのを待つことにした。声をかけようかとも思ったが、せっかく本を読んでいるのだから楽しんでほしい。放課後すぐに図書室に来るくらいだから、余程楽しみにしていたのだろう。ヒイラギも本を読もうかと文庫本を取り出す。最近買ったばかりのものだ。あまり読めていなかったし、ちょうどよかったかもしれない。
マトイと同じように栞を挟んだページを開き、いつものように読み始めた。しかしどうもうまくいかない。文字が上滑りする。文字を目で追うことはできるし、意味も理解できる。だが集中できない。本に目を落としているはずなのに、視界の隅にマトイがちらつく。その姿が見えてしまうともう駄目だ。顔をちらちらと上げてしまう。一度読書し始めると数時間はそのままの体勢で読み続けられるヒイラギだったが、この日ばかりはそうもいかなかった。
諦めよう。ヒイラギは早々に結論を出し、本を閉じた。本ならいつでも読める。寝る前にでも読めばいい。マトイが同じ空間にいる時間は貴重だ。
空の茜色が占める面積がやや下方に偏ってきた頃合いに、マトイはゆっくりと顔を上げた。じっと彼女を見つめていたヒイラギと目が合う。彼女はヒイラギを認識した途端、完全に体を硬直させ、不自然な体勢で固まった。まるで彼女の時間だけ止まってしまったような状態であったが、ヒイラギはにっこりと微笑んだ。
「こんにちは、夕凪さん」
「え?あ……こ、こんにちは、百合川くん」
マトイはぎこちない所作で本を閉じ、ヒイラギを見たり視線を少し逸らしたりと忙しない。一人で本を読んでいると思ったら斜め前に人がいた、となれば慌てるのも当然だろうか。
「どうしたの、百合川くん」
「一緒に帰ろうと思って」
「私と?」
「うん」
二人しかいない図書室に、それぞれの声がじんわりと広がっていく。マトイは不思議そうな顔をしていた。
「もしかして、私を待ってたの?」
「うん。読書の邪魔したら悪いじゃない」
「え!……ごめんなさい」
マトイはばつが悪い顔をして俯いた。しまった、気を遣わせただろうか。ヒイラギはゆるゆると首を振った。
「いいんだ、約束していたわけじゃないし。僕が君と一緒に帰りたいから、待ってただけだよ」
「そう、なの?」
「そうだよ」
彼女に気負わせたくない思いもあるが、本心だった。マトイと話せるこのときをどれほど待ち焦がれていたか、彼女は知らない。
「君さえよければ、一緒に帰ろうよ」
「私はいいよ」
「よかった」
おそらく断られることはないだろうと思っていたが、実際に承諾の返事を聞けると安心する。きっとだらけた笑顔を浮かべていると思う。マトイはごそごそと本を鞄にしまい、ゆっくりと立ち上がっていた。ヒイラギも立ち上がる。鞄が軽い。物理的にはそこまで軽くないが、軽く感じる。
「帰ろうか、夕凪さん」
「うん」
声をかけるとマトイは控えめに頷き、隣を歩き始める。静謐な図書室を出て廊下を歩いていく。グラウンドで部活に励む声が遠く聞こえる。
「夕凪さんは本を読むの、好きなの?」
隣を歩くマトイに尋ねた。マトイは頷くと、
「うん。好き」
端的な答えが返ってくる。思っていたとおりの答えにヒイラギは嬉しくなり、声が弾んだ。
「図書室でよく本を読んでるの?」
「うん、たまに。図書室って静かで好きなの」
「確かに、静かでいいよね。さっきは何を読んでたの?」
「芥川龍之介。最近読み始めて面白いなーって思って」
「そうなんだ。昔の文豪が好きなの?」
「最近はそうかも。やっぱり昔から名作って言われてるものって面白いのかなって、思って」
「ねえ、夕凪さん」
校舎の出口に近づいていく。ヒイラギは大きく息を吸った。はっきり告げたいことがあるときは、心の準備が必要だ。
「もしも君がよければ、これから僕と一緒に帰らない?君と一緒に図書室にも行きたいな」
「え……私と?」
マトイが困惑した様子でヒイラギを見た。眉根を寄せてこちらを見つめるその眼差しは、どうにも愛らしかった。
「昨日、君にとても興味があるって、話したと思うんだけど」
「…うん」
「昨日君と話してみて、その気持ちがどんどん強くなっていってるんだ。君ともっと話してみたい」
ヒイラギは気がつくと立ち止まっていた。マトイの顔をじっと見つめる。彼女はきょろきょろと落ち着きなく視線を動かし、少し俯いてから、
「……うん。いいよ。私も百合川くんとは、お話してみたいから」
やや小さい声だったが、はっきりと答えた。その言葉はヒイラギの耳に、脳に明瞭に刻み込まれていく。
「ありがとう。嬉しいよ、夕凪さん」
ヒイラギが笑って頷くと、マトイは恥ずかしそうに笑みを返した。夕陽と夜の境目で佇むその笑顔をヒイラギはきっと忘れないだろう。彼女とこれから過ごす時間が増える喜びに満たされ、ヒイラギの足取りは異様なほど軽かった。
百合川ヒイラギは浮かれていた。それはもう、心がふわふわと躍って勝手にどこかに散歩に行きそうなくらいに、浮かれ切っていた。
夕凪マトイに一緒に帰ろうと声をかけて喫茶店、ヒイラギの部屋で時間を過ごした。時間はあっという間に過ぎ去るもので、気がつくと夜になったので彼女は寮の自室へと帰っていった。控えめに手を振りながら帰っていくその姿をはっきりと覚えている。
ヒイラギはマトイがいなくなった部屋で落ち着きなく椅子に座っていた。机に置いてある鏡を見る。生まれたときから幾度となく見た自身の顔が映っている。
「綺麗……」
ぽつりと呟いた。それは彼女から言われた言葉だ。百合川くんは、綺麗だよ。そう言ってくれた。綺麗だなんて言われたのは初めてで、何度自分の顔を見ても綺麗だとは思えないが、マトイにそう言われると面映い。頬杖をついて鏡の中の自分と目を合わせた。マトイが綺麗だ、と言ってくれた言葉がぐるぐると頭の中で何度も巡って、気がつけば口元がだらしなく緩んでいる。普段であれば夜となると疲れが溜まり、どことなく髪から艶が失われるが、今は妙に艶々と輝いていた。戯れに髪に手を通してみる。さらさらと櫛を通した後のような、滑らかな手触り。彼女に少し褒められたくらいで、体にまで弾んだ気持ちが影響するらしい。
夕凪マトイ。同じ教室の右斜め後ろに座っているクラスメイトだ。彼女のことが気になって仕方がなくなり、今日初めてまともに声をかけ、ともに時間を過ごした。思っていたよりもはるかに楽しい時間を過ごし、驚いている。不意に生まれた懐かしいような気持ちに従って、試しに彼女と過ごしてみただけなのに、彼女に対する思い入れが強くなっていくのを感じる。またマトイと会いたい。一目見たい。見るだけでは飽き足らない。もっと一緒に過ごしたい。
「なんか変だな、僕……」
机に頬を付けて突っ伏した。ひんやりと冷たい机の温度が、やや熱を持った頬を冷ましていく。体は冷えても、心の温度は一向に下がる気配を見せない。他人とあまり関わりを持とうとしてこなかったヒイラギではあるが、マトイだけは別のようだ。
「でも……」
目を閉じると、脳裏に先ほどまで部屋にいたマトイを思い出す。嗅覚が研ぎ澄まされ、部屋の中に普段なら漂わぬ香りがふんわりと残っていることに気づく。マトイのシャンプーの香りだろうか。柔らかく穏やかな、花のような香りだ。もう少しこの香りに浸っていたいが、それもやがて消えてしまうのだろうと思うと切ない。
明日も彼女と一緒に帰ろう。声をかけよう。ヒイラギはそう決意した。
百合川ヒイラギは悶々としていた。それはもう、心の中に溜まった爆発的なエネルギーを抑えるのに必死になる程度には。
彼女と一緒に帰ろう、声をかけようと決意したヒイラギであったが、下校までの時間が長過ぎてとにかく落ち着かなかった。彼女を一目見たくとも、右斜め後ろの彼女を見るには振り返る形になり不自然だ。彼女と話をしたいが、今までろくに話をしてこなかった間柄だ、休み時間に話しかける用もなく、どうにも足踏みをしてしまう。クラスメイトなのだから周りの皆がしているように、気楽に話しかけて雑談をしてもいいと頭ではわかっている。わかっているが、これまでのヒイラギにはない行動パターンで、どうすればよいのかわからない。彼女も特に用がないのでヒイラギに話しかけてくることもない。ヒイラギが見る限り、彼女の態度はごく普通のクラスメイトに対するもので、昨日少し一緒に帰った程度で大きく態度が変わるわけがないのだが、それがどうにも寂しかった。こんなに意識しているのはヒイラギだけなのか。
傍目には、ただ単に同じ教室で授業を受けるクラスメイト。ヒイラギとマトイはその範疇を出ない、淡白な関係性だ。そこを飛び越えて別の関係に発展させたいと、そんなことまで望んでいるのかもしれない。
元々ヒイラギにとって学園の授業は退屈そのものだったが、放課後を心待ちにしている今のヒイラギにとっては障害といっても差し支えなかった。朝から夕方までだらだらとくだらない話を聞いている時間がもったいない。窓の外を見ながら、時折真面目にノートを取ったりしながら、ただ時が過ぎ行くのを待ち続ける。
そうして放課後を知らせる鐘が鳴る。今日はホームルームが手短に終わった。彼女に声をかけようと振り返る。
マトイは用があるのか、迷いなく立ち上がるとついと教室から出て行った。声をかける間もなかった。当てが外れて呆然としてしまったが、昨夜から今まで待ちに待ったのに何も成果がないのは物寂しい。さすがに声をかけるくらいはしたい。
逡巡したが、彼女を追いかけることにした。足早に真っ直ぐどこかに歩いていく彼女の後ろを追いかける。思ったよりも足が速い彼女は、馴染みのある場所に向かっていた。
マトイが消えていったのは、図書室だった。読書が趣味のヒイラギにとっては第二の家といっても差し支えない、幾度となく通った場所だ。物憂げな夕陽の色に染まった図書室には、マトイとヒイラギしかいない。マトイは四人がけの机の片隅に座り、じっと本を読み始めた。本の世界に浸ることが好きなヒイラギには、読書を中断される苦しみは理解できる。だが彼女を間近で見たい。脳内で思いが交錯する。
ヒイラギは意を決して歩みを進めた。その一歩一歩が妙に重く感じる。マトイが座っているところに近づいていく。何年も行った日常動作だが、彼女に近づくたびに胸が高鳴る。マトイはヒイラギの接近には全く気付いていないようで、本に目を落とし、ページをめくっている。
そっと彼女の斜め前の椅子を引き、座った。窓に背を向けて座っている彼女は本の世界に完全に浸っているらしく、ヒイラギが斜め前に座っても本を読み続けている。ヒイラギも読書に熱中すると肩でも叩かれない限り気が付かないので、特に無視されているとは思わなかった。むしろ彼女の読書を邪魔することなく、その姿を観察できる良い機会だ。
ヒイラギは両手を組み肘をつき、手の上に顎を乗せて彼女をじっくり見つめた。窓から差し込む夕陽を一身に受けたマトイは、茜色に縁取りされて神秘的な輝きを放っている。机に置いた本を見つめる伏し目がちの睫毛は長く、ページをめくる動作は穏やかだ。ぴんと伸びた背筋、揃えた足、品行方正な佇まいに見ていて心が落ち着く。彼女も読書が好きなのだろうか。もしそうなら、何か話すきっかけになりそうである。放課後の図書室にやって来る生徒はあまりいないし、他人の目を気にすることなくマトイと時間を過ごせるかもしれない。
ヒイラギはマトイが読書を終えるのを待つことにした。声をかけようかとも思ったが、せっかく本を読んでいるのだから楽しんでほしい。放課後すぐに図書室に来るくらいだから、余程楽しみにしていたのだろう。ヒイラギも本を読もうかと文庫本を取り出す。最近買ったばかりのものだ。あまり読めていなかったし、ちょうどよかったかもしれない。
マトイと同じように栞を挟んだページを開き、いつものように読み始めた。しかしどうもうまくいかない。文字が上滑りする。文字を目で追うことはできるし、意味も理解できる。だが集中できない。本に目を落としているはずなのに、視界の隅にマトイがちらつく。その姿が見えてしまうともう駄目だ。顔をちらちらと上げてしまう。一度読書し始めると数時間はそのままの体勢で読み続けられるヒイラギだったが、この日ばかりはそうもいかなかった。
諦めよう。ヒイラギは早々に結論を出し、本を閉じた。本ならいつでも読める。寝る前にでも読めばいい。マトイが同じ空間にいる時間は貴重だ。
空の茜色が占める面積がやや下方に偏ってきた頃合いに、マトイはゆっくりと顔を上げた。じっと彼女を見つめていたヒイラギと目が合う。彼女はヒイラギを認識した途端、完全に体を硬直させ、不自然な体勢で固まった。まるで彼女の時間だけ止まってしまったような状態であったが、ヒイラギはにっこりと微笑んだ。
「こんにちは、夕凪さん」
「え?あ……こ、こんにちは、百合川くん」
マトイはぎこちない所作で本を閉じ、ヒイラギを見たり視線を少し逸らしたりと忙しない。一人で本を読んでいると思ったら斜め前に人がいた、となれば慌てるのも当然だろうか。
「どうしたの、百合川くん」
「一緒に帰ろうと思って」
「私と?」
「うん」
二人しかいない図書室に、それぞれの声がじんわりと広がっていく。マトイは不思議そうな顔をしていた。
「もしかして、私を待ってたの?」
「うん。読書の邪魔したら悪いじゃない」
「え!……ごめんなさい」
マトイはばつが悪い顔をして俯いた。しまった、気を遣わせただろうか。ヒイラギはゆるゆると首を振った。
「いいんだ、約束していたわけじゃないし。僕が君と一緒に帰りたいから、待ってただけだよ」
「そう、なの?」
「そうだよ」
彼女に気負わせたくない思いもあるが、本心だった。マトイと話せるこのときをどれほど待ち焦がれていたか、彼女は知らない。
「君さえよければ、一緒に帰ろうよ」
「私はいいよ」
「よかった」
おそらく断られることはないだろうと思っていたが、実際に承諾の返事を聞けると安心する。きっとだらけた笑顔を浮かべていると思う。マトイはごそごそと本を鞄にしまい、ゆっくりと立ち上がっていた。ヒイラギも立ち上がる。鞄が軽い。物理的にはそこまで軽くないが、軽く感じる。
「帰ろうか、夕凪さん」
「うん」
声をかけるとマトイは控えめに頷き、隣を歩き始める。静謐な図書室を出て廊下を歩いていく。グラウンドで部活に励む声が遠く聞こえる。
「夕凪さんは本を読むの、好きなの?」
隣を歩くマトイに尋ねた。マトイは頷くと、
「うん。好き」
端的な答えが返ってくる。思っていたとおりの答えにヒイラギは嬉しくなり、声が弾んだ。
「図書室でよく本を読んでるの?」
「うん、たまに。図書室って静かで好きなの」
「確かに、静かでいいよね。さっきは何を読んでたの?」
「芥川龍之介。最近読み始めて面白いなーって思って」
「そうなんだ。昔の文豪が好きなの?」
「最近はそうかも。やっぱり昔から名作って言われてるものって面白いのかなって、思って」
「ねえ、夕凪さん」
校舎の出口に近づいていく。ヒイラギは大きく息を吸った。はっきり告げたいことがあるときは、心の準備が必要だ。
「もしも君がよければ、これから僕と一緒に帰らない?君と一緒に図書室にも行きたいな」
「え……私と?」
マトイが困惑した様子でヒイラギを見た。眉根を寄せてこちらを見つめるその眼差しは、どうにも愛らしかった。
「昨日、君にとても興味があるって、話したと思うんだけど」
「…うん」
「昨日君と話してみて、その気持ちがどんどん強くなっていってるんだ。君ともっと話してみたい」
ヒイラギは気がつくと立ち止まっていた。マトイの顔をじっと見つめる。彼女はきょろきょろと落ち着きなく視線を動かし、少し俯いてから、
「……うん。いいよ。私も百合川くんとは、お話してみたいから」
やや小さい声だったが、はっきりと答えた。その言葉はヒイラギの耳に、脳に明瞭に刻み込まれていく。
「ありがとう。嬉しいよ、夕凪さん」
ヒイラギが笑って頷くと、マトイは恥ずかしそうに笑みを返した。夕陽と夜の境目で佇むその笑顔をヒイラギはきっと忘れないだろう。彼女とこれから過ごす時間が増える喜びに満たされ、ヒイラギの足取りは異様なほど軽かった。