月夜の夜想曲
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#6 決意は花の如く
ハルカの宣言どおり、彼女の体調不良は続いていた。なかなか熱が下がらず、彼女とともに自宅に篭るようになり三日が経つ。その間越水は分身を召喚し一人でベテル日本支部に向かわせており、業務に滞りはなかった。むしろ、普通の人間であるハルカの体調不良がここまで続くことの方が心配だった。人間はときにふとしたことで死んでしまうとも言われている。まさかそんなことはないだろうが、と越水は気もそぞろだった。
「長官、すみません……長く体調を崩してしまって」
ハルカの部屋、ベッドそばにホットミルクと果物の缶詰を持っていくと、彼女は赤い顔のまま越水に頭を下げた。ベッドそばの椅子に座った越水は、首を横に振った。
「無理もない。夜遅くまで勉強していた時期もあり、アオガミたちが戻ってきてからは多忙だった。君は私と違い普通の人間なのだ、体調くらい崩して当然だ」
「でも……」
「でもも何もない。ちょうどよい、心ゆくまで休んで英気を養うといい」
「……はい。ありがとうございます」
ベッドの上で半身を起こしたハルカは手を伸ばし、ホットミルクを口にした。食欲不振が続いているようだが、越水の作ったホットミルクには手をつけてくれていた。当初は薄い膜が張った不恰好なものを作っていたが、何度も作っているうちに慣れハルカと遜色ないものを作れるようになった。内政型の神造魔人としては一切必要のない技術といえるが、彼女がよりよいものを摂取できるようになったのは成長だ。越水は脳内で一人頷いていた。ハルカはゆっくり果物の缶詰を開け、食べながら心配そうな顔をしていた。
「お仕事は大丈夫ですか?ずっと分身さんにお願いしているんですよね」
「分身とは逐一通信を行い、情報の共有を行っている。分身から緊急事態との連絡もない、問題ないだろう。君は仕事のことなど気にしなくてよい」
「ありがとうございます、長官。ずっと私のそばにいてくださって」
その言葉に越水は膝の上で小さく拳を握った。
「私自ら希望して君のそばにいるのだ。君は目を離すとすぐ無理をしようとする、私がついていないと回復もおぼつかないだろう」
ふふ、とハルカは笑ってみせた。少し申し訳なさそうな顔をしていた。
「そうかもしれませんね。長官、大変ですね。秘書兼メイドの監視やお世話までしなくちゃいけないなんて。……でも、ありがとうございます。一人だと心細かったと思います」
「ならやはり私がいて正解だったようだな。食べたいもの等あれば言ってくれ。善処する」
「はい、ありがとうございます。長官の作ってくれたホットミルク、とっても美味しいです」
彼女は頬が赤いながらも微笑み、ホットミルクと果物の缶詰を完食した。寝転んだハルカは、布団から越水に向かって手を伸ばす。
「長官、少しだけわがままを聞いてください」
「何だ?」
「手、握ってください」
何故そんなことを、と以前の越水なら思ったかもしれない。しかし越水は差し出された手を優しく握りしめた。彼女の手は熱く、まだ病魔に冒されていることを示している。
「ありがとうございます、長官。長官の手、ちょっと冷たくて心地いいですね。なんだかよく眠れそうです」
「そうか。とにかく休みたまえ」
「はい……」
閉じかけていたハルカの瞼が閉じ、やがてすやすやと寝息が聞こえてくる。だらりと力の抜けたハルカの手を布団に戻し、越水はマグカップと空の缶詰を持って立ち上がった。越水の頭には分身に看病を任せるなどという選択肢は思い浮かばなかった。彼女の体調不良が治るまでそばにいるのが当然だと思っていた。
「長官!もうすっかりよくなりました!ありがとうございます!」
数日後、ハルカの熱が下がりすっかり元どおりになっていた。臥せっていたハルカは元気いっぱいに越水に宣言し、深々と頭を下げた。
「そうか、よかった。ところで十六夜君、『今度の休みはデートに行く』ことになっていたな」
「え?あ、はい、そうでしたね」
「では本日、デートに行くとしよう。無論君は病み上がりなのだから軽くではあるが」
「え!?」
越水の提案にハルカは目を丸くした。慌てて身振り手振りで何事かを伝えようとしてくる。
「で、でも一週間くらい分身さんに働いてもらっていて、長官に付き添ってもらっていたじゃないですか」
「そうだな」
「ですからそろそろベテルに戻らないと」
黒のパンツスーツに着替えようとするハルカに越水は首を振った。かくいう越水は以前ハルカと一緒に買った私服に袖を通しサングラスを持っている、今日ベテルに行くつもりはさらさらなかった。
「今日はデートの日だ。元気になった君と過ごしたいと思っていた。君がよければ少し出かけよう」
「長官……」
はっきり言うと、ハルカは少し戸惑っていた様子だったがすぐに笑った。
「わかりました。長官と元々約束してましたもんね。私、着替えてきますね!」
ぱたぱたと部屋に戻る彼女の後ろ姿を見、越水はほっと安堵していた。
私服に着替えたハルカと越水は公園に出かけていた。越水はハルカが似合うと言っていた薄い茶色のレンズのサングラスをかけている。外に出る際は霊力を纏い偽装しているため不要なのだが、彼女に、
「やっぱり似合ってますね、そのサングラス!」
と言われたため外す理由がなかった。
病み上がりということもあり、ハルカの歩く速度は普段よりも遅かった。彼女に合わせてゆっくり歩き、木々の間を風が吹き抜けていく音を楽しむ。頭上で梢が揺れ、ざわざわと葉がざわめいた。息を吸うと緑の香りが駆け抜けていく。買い物以外自宅に篭ったままだった越水にとっては心地よい刺激だった。
分身からベテル日本支部がどのような状況かは聞いている。悪魔たちの襲撃をやり過ごした後、魔界に攫われた生徒たちを救出に向かっているところだった。アオガミと合一した少年がよく働いてくれ分身も滞りなく職務をこなしているようで、心配することは何もない。
「少し休もう」
越水がベンチを指差すと、二人は自然とベンチに腰を落ち着けた。爽やかな風が吹き、二人の間に心地よい沈黙が流れる。
「体調に問題はないか」
越水は言いながら、さらりとハルカの手を取った。耳を澄ませると、脈拍や呼吸音等体調を測るために重要な情報が流れてくる。ハルカの頬に紅が差しているのを見、越水は尋ねた。
「少し顔が赤いな。脈拍も速い……歩くのが負担だったか」
「あ、違います!その……越水さんに手を握られるとドキドキしちゃって」
「?以前、君の方から手を握るよう言ってきたではないか」
「そ、それは……あのときは体調が悪くて心細かったですから」
どうにも歯切れの悪い返答だった。普段明朗な彼女が言い淀むのは珍しく、かえって越水の心配を煽る。越水がハルカの顔を覗き込むと、彼女は真っ直ぐ越水を見据えはっきりと尋ねた。
「あの、越水さん。私たち、どういう関係なんでしょう?」
いつぞやも尋ねられたことのある言葉だった。あのときは迷いなく答えたが、今度はどう答えたものかと越水は悩んだ。
「単なる上司と部下に収まるものではないと考えている」
「え……それは、どういう意味ですか?」
ハルカの瞳に不思議な輝きが満ちた。何かを期待する目だった。越水はかつてないほど素直に答える。
「ベテルが襲撃されたとき、君を守らねばと自然に考えた。体調不良の君を放っておけないと思った。ただ私が君の上司だから、というだけではない……私は君に離れてほしくない。君にそばにいてほしい」
ぎゅ、とハルカの手が越水の手を握った。掌の体温は高く、ハルカの興奮が伝わってくるようだった。
「越水さん……私、そんな風に言ってもらえてとても嬉しいです。私もあなたのそばにいたいです。秘書兼メイドじゃなくても、です」
「……ハルカ」
越水は彼女の名前を呼び、彼女の肩を抱き寄せた。こつんと彼女の半身が越水にもたれかかってくる。ハルカの頬は相変わらず赤かった。
「越水さんがそう呼んでくれるなら、私もハヤオさん、って呼んだ方がいいですね」
「ああ、そうだな。呼び方の違いで関係が変わる……君が教えてくれたことだ」
二人はベンチで寄り添い、しばし道ゆく人々を眺めながら過ごした。ベテルのことなどすっかり忘れた、穏やかで優しい時間だった。
分身に仕事を任せていたのを終え、越水はハルカとともにベテル日本支部に復帰することとなった。ハルカは黒のパンツスーツを身に纏い、早速秘書として辣腕を振るっていた。
縄印学園及びベテル日本支部の襲撃を無事やり過ごし、魔界にさらわれた生徒たちも救出したが、東京には不可思議な病が蔓延していた。悪魔や人間が突然塩の結晶と化してしまう事象が起こり、同時期にアグラと名乗る女占い師が現れ、アグラの占いを受けた者はもれなく体調不良に陥る事象も同時に起こっていた。
何やら大きく事態が動こうとしている――執務室で越水は深いため息をついた。一難去ってまた一難、アオガミが帰還してからベテル日本支部はこれまでなかった事態に苛まれてばかりだった。
「ハヤオさん、険しいお顔をしてますよ」
執務室の机に座っていると、ハルカに顔を覗き込まれた。すっかり元気になった彼女は朗らかに笑っていて、越水の胸にある澱を清らかに流していく気がする。越水は立ち上がると、ハルカをそっと抱きしめた。彼女の体の柔さとぬくもりに身を委ねる。
「ハヤオさん……?」
「知ってのとおり、今東京は未曾有の事態に陥っている。人間が塩化する、謎の占い師が暗躍する等不審なことばかりだ。ハルカ、私のそばを離れるな。私が必ず守ってみせる」
越水の言葉に、ハルカはぎゅっと抱きついてきて胸に顔を埋めた。すりすりと頬擦りをする様子は猫のようで愛らしく、越水は口元を綻ばせた。
「はい、おそばにおります。ハヤオさん、無理をしないでくださいね。私が支えますから」
そう言ってくれるハルカの頭を撫で、越水は額に唇を寄せた。ハルカの額はほんの少し熱く、腕の中の彼女はくすぐったそうに身を捩った。越水の中で決意が花のように咲いた瞬間だった。
ハルカの宣言どおり、彼女の体調不良は続いていた。なかなか熱が下がらず、彼女とともに自宅に篭るようになり三日が経つ。その間越水は分身を召喚し一人でベテル日本支部に向かわせており、業務に滞りはなかった。むしろ、普通の人間であるハルカの体調不良がここまで続くことの方が心配だった。人間はときにふとしたことで死んでしまうとも言われている。まさかそんなことはないだろうが、と越水は気もそぞろだった。
「長官、すみません……長く体調を崩してしまって」
ハルカの部屋、ベッドそばにホットミルクと果物の缶詰を持っていくと、彼女は赤い顔のまま越水に頭を下げた。ベッドそばの椅子に座った越水は、首を横に振った。
「無理もない。夜遅くまで勉強していた時期もあり、アオガミたちが戻ってきてからは多忙だった。君は私と違い普通の人間なのだ、体調くらい崩して当然だ」
「でも……」
「でもも何もない。ちょうどよい、心ゆくまで休んで英気を養うといい」
「……はい。ありがとうございます」
ベッドの上で半身を起こしたハルカは手を伸ばし、ホットミルクを口にした。食欲不振が続いているようだが、越水の作ったホットミルクには手をつけてくれていた。当初は薄い膜が張った不恰好なものを作っていたが、何度も作っているうちに慣れハルカと遜色ないものを作れるようになった。内政型の神造魔人としては一切必要のない技術といえるが、彼女がよりよいものを摂取できるようになったのは成長だ。越水は脳内で一人頷いていた。ハルカはゆっくり果物の缶詰を開け、食べながら心配そうな顔をしていた。
「お仕事は大丈夫ですか?ずっと分身さんにお願いしているんですよね」
「分身とは逐一通信を行い、情報の共有を行っている。分身から緊急事態との連絡もない、問題ないだろう。君は仕事のことなど気にしなくてよい」
「ありがとうございます、長官。ずっと私のそばにいてくださって」
その言葉に越水は膝の上で小さく拳を握った。
「私自ら希望して君のそばにいるのだ。君は目を離すとすぐ無理をしようとする、私がついていないと回復もおぼつかないだろう」
ふふ、とハルカは笑ってみせた。少し申し訳なさそうな顔をしていた。
「そうかもしれませんね。長官、大変ですね。秘書兼メイドの監視やお世話までしなくちゃいけないなんて。……でも、ありがとうございます。一人だと心細かったと思います」
「ならやはり私がいて正解だったようだな。食べたいもの等あれば言ってくれ。善処する」
「はい、ありがとうございます。長官の作ってくれたホットミルク、とっても美味しいです」
彼女は頬が赤いながらも微笑み、ホットミルクと果物の缶詰を完食した。寝転んだハルカは、布団から越水に向かって手を伸ばす。
「長官、少しだけわがままを聞いてください」
「何だ?」
「手、握ってください」
何故そんなことを、と以前の越水なら思ったかもしれない。しかし越水は差し出された手を優しく握りしめた。彼女の手は熱く、まだ病魔に冒されていることを示している。
「ありがとうございます、長官。長官の手、ちょっと冷たくて心地いいですね。なんだかよく眠れそうです」
「そうか。とにかく休みたまえ」
「はい……」
閉じかけていたハルカの瞼が閉じ、やがてすやすやと寝息が聞こえてくる。だらりと力の抜けたハルカの手を布団に戻し、越水はマグカップと空の缶詰を持って立ち上がった。越水の頭には分身に看病を任せるなどという選択肢は思い浮かばなかった。彼女の体調不良が治るまでそばにいるのが当然だと思っていた。
「長官!もうすっかりよくなりました!ありがとうございます!」
数日後、ハルカの熱が下がりすっかり元どおりになっていた。臥せっていたハルカは元気いっぱいに越水に宣言し、深々と頭を下げた。
「そうか、よかった。ところで十六夜君、『今度の休みはデートに行く』ことになっていたな」
「え?あ、はい、そうでしたね」
「では本日、デートに行くとしよう。無論君は病み上がりなのだから軽くではあるが」
「え!?」
越水の提案にハルカは目を丸くした。慌てて身振り手振りで何事かを伝えようとしてくる。
「で、でも一週間くらい分身さんに働いてもらっていて、長官に付き添ってもらっていたじゃないですか」
「そうだな」
「ですからそろそろベテルに戻らないと」
黒のパンツスーツに着替えようとするハルカに越水は首を振った。かくいう越水は以前ハルカと一緒に買った私服に袖を通しサングラスを持っている、今日ベテルに行くつもりはさらさらなかった。
「今日はデートの日だ。元気になった君と過ごしたいと思っていた。君がよければ少し出かけよう」
「長官……」
はっきり言うと、ハルカは少し戸惑っていた様子だったがすぐに笑った。
「わかりました。長官と元々約束してましたもんね。私、着替えてきますね!」
ぱたぱたと部屋に戻る彼女の後ろ姿を見、越水はほっと安堵していた。
私服に着替えたハルカと越水は公園に出かけていた。越水はハルカが似合うと言っていた薄い茶色のレンズのサングラスをかけている。外に出る際は霊力を纏い偽装しているため不要なのだが、彼女に、
「やっぱり似合ってますね、そのサングラス!」
と言われたため外す理由がなかった。
病み上がりということもあり、ハルカの歩く速度は普段よりも遅かった。彼女に合わせてゆっくり歩き、木々の間を風が吹き抜けていく音を楽しむ。頭上で梢が揺れ、ざわざわと葉がざわめいた。息を吸うと緑の香りが駆け抜けていく。買い物以外自宅に篭ったままだった越水にとっては心地よい刺激だった。
分身からベテル日本支部がどのような状況かは聞いている。悪魔たちの襲撃をやり過ごした後、魔界に攫われた生徒たちを救出に向かっているところだった。アオガミと合一した少年がよく働いてくれ分身も滞りなく職務をこなしているようで、心配することは何もない。
「少し休もう」
越水がベンチを指差すと、二人は自然とベンチに腰を落ち着けた。爽やかな風が吹き、二人の間に心地よい沈黙が流れる。
「体調に問題はないか」
越水は言いながら、さらりとハルカの手を取った。耳を澄ませると、脈拍や呼吸音等体調を測るために重要な情報が流れてくる。ハルカの頬に紅が差しているのを見、越水は尋ねた。
「少し顔が赤いな。脈拍も速い……歩くのが負担だったか」
「あ、違います!その……越水さんに手を握られるとドキドキしちゃって」
「?以前、君の方から手を握るよう言ってきたではないか」
「そ、それは……あのときは体調が悪くて心細かったですから」
どうにも歯切れの悪い返答だった。普段明朗な彼女が言い淀むのは珍しく、かえって越水の心配を煽る。越水がハルカの顔を覗き込むと、彼女は真っ直ぐ越水を見据えはっきりと尋ねた。
「あの、越水さん。私たち、どういう関係なんでしょう?」
いつぞやも尋ねられたことのある言葉だった。あのときは迷いなく答えたが、今度はどう答えたものかと越水は悩んだ。
「単なる上司と部下に収まるものではないと考えている」
「え……それは、どういう意味ですか?」
ハルカの瞳に不思議な輝きが満ちた。何かを期待する目だった。越水はかつてないほど素直に答える。
「ベテルが襲撃されたとき、君を守らねばと自然に考えた。体調不良の君を放っておけないと思った。ただ私が君の上司だから、というだけではない……私は君に離れてほしくない。君にそばにいてほしい」
ぎゅ、とハルカの手が越水の手を握った。掌の体温は高く、ハルカの興奮が伝わってくるようだった。
「越水さん……私、そんな風に言ってもらえてとても嬉しいです。私もあなたのそばにいたいです。秘書兼メイドじゃなくても、です」
「……ハルカ」
越水は彼女の名前を呼び、彼女の肩を抱き寄せた。こつんと彼女の半身が越水にもたれかかってくる。ハルカの頬は相変わらず赤かった。
「越水さんがそう呼んでくれるなら、私もハヤオさん、って呼んだ方がいいですね」
「ああ、そうだな。呼び方の違いで関係が変わる……君が教えてくれたことだ」
二人はベンチで寄り添い、しばし道ゆく人々を眺めながら過ごした。ベテルのことなどすっかり忘れた、穏やかで優しい時間だった。
分身に仕事を任せていたのを終え、越水はハルカとともにベテル日本支部に復帰することとなった。ハルカは黒のパンツスーツを身に纏い、早速秘書として辣腕を振るっていた。
縄印学園及びベテル日本支部の襲撃を無事やり過ごし、魔界にさらわれた生徒たちも救出したが、東京には不可思議な病が蔓延していた。悪魔や人間が突然塩の結晶と化してしまう事象が起こり、同時期にアグラと名乗る女占い師が現れ、アグラの占いを受けた者はもれなく体調不良に陥る事象も同時に起こっていた。
何やら大きく事態が動こうとしている――執務室で越水は深いため息をついた。一難去ってまた一難、アオガミが帰還してからベテル日本支部はこれまでなかった事態に苛まれてばかりだった。
「ハヤオさん、険しいお顔をしてますよ」
執務室の机に座っていると、ハルカに顔を覗き込まれた。すっかり元気になった彼女は朗らかに笑っていて、越水の胸にある澱を清らかに流していく気がする。越水は立ち上がると、ハルカをそっと抱きしめた。彼女の体の柔さとぬくもりに身を委ねる。
「ハヤオさん……?」
「知ってのとおり、今東京は未曾有の事態に陥っている。人間が塩化する、謎の占い師が暗躍する等不審なことばかりだ。ハルカ、私のそばを離れるな。私が必ず守ってみせる」
越水の言葉に、ハルカはぎゅっと抱きついてきて胸に顔を埋めた。すりすりと頬擦りをする様子は猫のようで愛らしく、越水は口元を綻ばせた。
「はい、おそばにおります。ハヤオさん、無理をしないでくださいね。私が支えますから」
そう言ってくれるハルカの頭を撫で、越水は額に唇を寄せた。ハルカの額はほんの少し熱く、腕の中の彼女はくすぐったそうに身を捩った。越水の中で決意が花のように咲いた瞬間だった。