月夜の夜想曲
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#5 君を癒したい
その日、ベテル日本支部に一大事が起こっていた。かの大戦で失われたとされていたアオガミが、知恵を持つ少年とともに帰還した。その事実は速やかに越水、ハルカ両名の耳に入り、珍しく越水も驚いていた。まさかもう戻ってこないと思っていたアオガミが戻り、さらにナホビノにまでなれるとは――……。越水は驚きを噛みしめながら哀れな少年たちに東京の真実を説明した。
突発的な事象に対処しているとあっという間に時間が過ぎ、夜。ハルカを伴い帰宅した越水は、帰るなりソファーに座り大きなため息をついた。足を組みソファーにもたれ、天井をぼんやりと眺めている。
「長官、お疲れのようですね。ホットミルクでも作りましょうか」
「ああ、そうしてもらえるか」
「わかりました」
今夜はメイド服に着替えるのも惜しく、ハルカはパンツスーツ姿のままホットミルク作りに取りかかった。彼のあの様子だと、今夜は蜂蜜を多めに加えてもいいかもしれない。手慣れた所作でホットミルクを二つ作り、ハルカはソファーに座った。
「どうぞ、長官。いつもより蜂蜜を多くしてみました。甘すぎたら言ってください、もう一度作ります」
「ああ、ありがとう」
越水はぐったりともたれた姿勢から居住いを正し、ホットミルクを口にした。彼の吐き出す息から甘い香りが漂った。
「ありがとう、十六夜君。今夜はこの甘さがちょうどよい」
「よかったです。長官、お疲れのようですから」
「そうだな……」
ふうと息をついた越水の瞳が鋭く細くなった。昼間の出来事を思い出すかのような視線、せっかく自宅に戻っても仕事モードから抜け出せないらしい。ハルカはため息をつきながらも尋ねた。
「アオガミが戻ってきたことって、そんなに重大なことなんですか?」
「アオガミが戻ってきたこともだが、ナホビノになれる人間が現れ事実ナホビノになっていたことの方が重大だ。法の神の秩序が壊れゆくあることを示しているのだろう」
「法の神の秩序……今私たちが暮らしている東京って、法の神が作った偽物の東京なんですよね。この偽物の東京がいつか壊れてしまうってことですか」
「そうだ」
越水が淡々と語る言葉は重く、ハルカの心にのしかかる気がした。ハルカはごく普通の一般人だが、ベテル日本支部で悪魔と触れ合い越水から悪魔と魔界について説明を受けた身だ。彼の言葉を荒唐無稽だと笑い飛ばせる立場ではなかった。
「しかし」
越水はホットミルクを一口飲むと、甘い香りの息を吐きながらハルカを真っ直ぐ見つめた。灰色の瞳は力強く、先ほどまでの希望のない言葉とは真逆の力を秘めている。
「ナホビノの禁が解かれたのは好都合だ。創世の王座にナホビノが辿り着くことができれば、新たな世界を創世することができる」
「じゃあ、長官がナホビノになれれば……」
「私が理想とする新たな世界が誕生するだろう。喜ばしいことだ。しかし課題は山積みだな」
一瞬喜びを見せた越水は、再び深いため息をついた。彼のホットミルクを飲む手は止まらず、どこか遠い目をしている。
「魔界の調査はまだ進んでいない。創世の王座の場所、王座に辿り着くまでの道のり……知らぬことは多い」
「長官……いえ、越水さん」
ハルカはあえて名を呼び、そっと彼の隣に寄り添った。気怠げな疲れが見える灰色の瞳に優しく微笑む。
「色々と気にしないといけないこと、やらないといけないことがあるのはわかります。でも、ご自宅では休んでください。いくら越水さんが神様でも、休めるときには休んでおかないと駄目ですよ。ほら、この前体調を崩したじゃないですか」
越水は言葉に詰まってしまった。確かに彼女の言うとおりで、無理をすれば神といえど悪影響がある。ベテル日本支部を照らす月である越水は、誰よりも自愛せねばならぬ立場であった。秘書兼メイドに説教をされるとは情けない。そう思いながらも彼女の言葉にはぬくもりを感じられ、越水は安堵の息をついていた。
「君の言うとおりだ。今は体を休めるときだろう。……すまないが、ホットミルクを作ってもらえるか」
すっかり空になったマグカップを差し出すと、ハルカは嬉しそうに笑っていた。
ナホビノになれる少年、悪魔召喚プログラムを扱う少年たち、そして悪魔祓いの聖女たち――新たな戦力を迎え入れたベテル日本支部はひとときの平和に浸っていた。少年少女たちは本来の居場所である縄印学園に戻り、学園生活を謳歌している。そんな中ハルカは越水とともに保護されたジャックフロストと会っていた。
「ヒホー!おねーさんとおにーさん!」
「こんにちは、元気そうですね、ジャックフロスト」
手を振り合うハルカとジャックフロストだったが、越水はそんな二人をあくまでも冷徹に見つめている。可愛らしい雪だるまであっても悪魔は悪魔、という態度を崩さない越水にハルカは苦笑した。ジャックフロストは二人の温度感には気付いていない様子だった。
「どうしたホ?またオイラと遊びたいホ?」
「ふふ、少し疲れたから休憩です。ね、長官」
屈んでジャックフロストの目線に合わせて話していると、越水は控えめながらもこくりと頷いた。越水はハルカのジャックフロストに会いたいという願いを毎回律儀に聞き入れてくれていた。彼自身もなんだかんだでジャックフロストと会うと落ち着いたりするのかな、とハルカはこっそり思っていた。越水本人には言わないが。
「十六夜君、少し待ってくれ。アオガミと合一した少年から通信が入った」
「え」
越水の言葉にハルカは硬直した。万が一のことがあっても対応できるよう、越水は少年たちと通信できるようにしている。和やかな研究室に緊張感が張り詰めた。わけがわかっていないジャックフロストだけがきょとんとしている。
「十六夜君、縄印学園が悪魔の襲撃を受けたようだ。ベテル日本支部も襲われる可能性がある。ジャックフロスト、君はここを離れぬように。十六夜君、私についてきてくれ」
「ヒホ!」
「は、はい!」
ジャックフロストを残し、ハルカは早足で歩いていく越水の後を追った。おそらく執務室に向かうのだろうと思っていると、
「あらぁ?美味しそうな匂いがするわ!」
上半身と下半身が分離した女の悪魔、マナナンガルが入り口ドアを破り雪崩れ込んできた。ハルカは思わずひ、と声を上げてしまった。純然たる「敵」である悪魔を目の当たりにするのは初めてだった。悪魔にとって人間は甘美なマガツヒを溜め込んだ肉塊。マナナンガルの捕食者の目線に捉えられ、ハルカは足が竦んで動けなくなった。
「十六夜君、決して私のそばから離れるな」
越水の低い声が響いた瞬間、彼の手には巨大な鎌が握られていた。死神が持つような不気味な得物だが、戦えないハルカにとっては頼もしいことこの上なかった。
「神の一柱が人間を守ったりするのね。面白いわ!」
マナナンガルは細長い舌を見せつけるように笑い、越水に飛びかかった。越水は臆することなく鎌を持ち、容赦なく刃を振るった。重い刃が縦一閃にきらめき、マナナンガルを斬り裂いた。マナナンガルは不敵な笑みを浮かべたまま倒れ伏し、そのままマガツヒの塵となって消えていく。
越水は破られた入り口ドアに手をかざした。その手から建物全体に青い光が立ち込める。青い光は柔らかく輝き、不思議と安心感があった。
「この建物自体に結界を張った。時間稼ぎになるはずだ。十六夜君、君は私が守る。そばを離れるな」
「は、はい!」
身の丈ほどの鎌を持った越水の後ろ姿はすらりとしつつも逞しく、悪魔が襲ってきたにもかかわらずハルカに不安はなかった。
縄印学園及びベテル日本支部への悪魔の襲撃は、少年少女たちや越水の活躍によりひとまず沈静化した。越水はひと段落ついた執務室で机に座り、ふうと息をついた。アオガミ及びナホビノになれる少年の帰還から一、二週間ほどしか経過していないが、電光石火の如く事態が急変し、越水は対応に追われていた。今日も久しぶりの実戦でハルカを守ることになり、神といえども少しばかり休息が必要な状態だった。机に肘をつき頭を抱える越水のもとに、ハルカがそっとやってきた。手には二つのマグカップ、ほんのりと甘い香りがする。机に置かれたマグカップの水面は白く、ホットミルクだと察せられた。
「長官、ありがとうございました」
ハルカに深々と頭を下げられ、越水は純粋に何のことやらと考えた。
「どうした、十六夜君」
「私を、ベテル日本支部を守ってくださったことです。長官がいなかったら大変なことになっていました」
「ああ、そのことか。戦えぬ秘書とベテルを守ることは私の義務だ。礼を言われるようなことではない」
「ええ、長官ならそう言うと思っていました。それでも、ありがとうございます」
再び一礼をして微笑むハルカは可憐で、越水の疲労しささくれた心に一滴の雫が零れた。少しあたたかいような……この気持ちは一体何だ?神の一柱として長く顕現した越水でも感じたことのない感情の揺れ動きだった。越水の手がマグカップに伸び、ホットミルクを一口。ほのかな甘みと優しい温度にほっと一息ついた。
「しかし今後もやらねばならぬことがある。どうやら縄印学園の生徒たちが魔界に攫われてしまったようだ」
「知恵を持つ人間がいることを知ったからでしょうか?」
「おそらくはそうだろう。ラフムのような原始の神に近い悪魔であれば、創世や王座のことを知っていてもおかしくない。ナホビノの禁が解けた今、足踏みをしている暇はなくなったな。一刻も早く創世の王座を見つけねば……」
ホットミルクのぬくもりで和らいだ越水の心に、ぴんと緊張感が走る。こうものんびりしてはいられない、と逸る心が口から飛び出そうだ。今、越水やベテル日本支部を取り巻く事態は目まぐるしく変化している。渦中にいる越水が頭を抱えるのも至極当然であった。
「長官」
越水を見守っていたハルカに呼ばれ、越水はついと視線を彼女に移動させた。パンツスーツの彼女は胸の前で拳を握り、妙に明るい声で言った。
「今度のお休み、デートしましょう!これは決定事項です!」
「……デート?この状況下で、か?」
「この状況下だからです!」
ハルカは立てた人差し指をびしりと越水に突きつけた。
「アオガミが見つかってから、長官はろくにお休みを取っておられません!切迫した状況なのは理解しますが、そろそろお休みが必要です!長官が一日お休みをしても回る組織にはなっているはずです。長官、少しは部下を信用し、あなた自身の休息に当ててください。私が付き添いいたします!」
「……」
普通の人間なら、この状況で越水に「休め」とはなかなか言えないだろう。秘書兼メイドとしてともに時間を過ごした彼女ゆえ言える言葉だった。そして彼女は最も近くで越水を観察及び補佐してきたからこそ、越水の体調について誰よりも知っていた。……彼女の助言には従うべきかもしれない。越水は口角が下がっていたが、ハルカを見ている間に少しばかり口角が上がっていた。
そして迎えた休日、ハルカは起きてこなかった。メイドとして越水よりも早く起きる彼女がまさか寝坊だろうか、なんとも珍しい。越水は以前購入した私服に着替え自宅リビングでコーヒーを飲んでいたが、家を出る時間になってもハルカがやってこないことにさすがに違和感を覚えた。コーヒーを飲む手を止め、越水は彼女の部屋の前にやってきた。扉一枚隔てた部屋の中は静かなものだった。嫌な予感を覚え、ノックをするより前に越水はドアノブを捻っていた。
「十六夜君」
声をかけながら部屋に入ると、ベッドがこんもりと丸く盛り上がっていた。とりあえず彼女がいるだろうことに安心し、越水はそっとベッドに近付いた。
「んん……」
ハルカが体を丸めて眠っていた。ごろりと寝返りを打ち仰向けになると、その顔が赤く染まっていることに気付く。越水は彼女の顔を覗き込み、
「十六夜君、少し触れさせてもらう」
「んん〜……?」
うっすら目を開いた彼女の額に右手を当て、自身の額に左手を当てた。明らかに右掌の温度が高い。
「熱があるな」
「ちょうかん……長官っ!?」
ぼんやりとしていたハルカは飛び起きる勢いで半身を起こした。汗を垂らしながら起き上がろうとする彼女の両肩に越水は手を添え、制止した。
「起きる必要はない。今日の予定はキャンセルだ」
「で、ででででも!長官の貴重な休日に約束したのに……!」
「どう見ても今の君は発熱している。体調不良の人間を連れ回すほど私は薄情ではない」
「長官……」
慌てふためいていた彼女が落ち着いた瞬間を見計らい、越水はそっと彼女をベッドに寝かせた。ハルカの申し訳なさそうな視線が刺さる。
「休日に体調を崩したこと、むしろ幸運だろう。仕事のことなど忘れてゆっくり休むといい。何か食べられそうか?」
そう尋ねると、ハルカは少し考え込んだ後、
「長官にお願いするなんて大変恐縮なんですけど……」
「この家には私と君しかいないのだ、遠慮なく言いたまえ」
「ホットミルク、飲みたいです。あと、よかったら果物とか」
上目遣いで越水の様子を窺いながら言ってきた。その姿は仕事をバリバリこなす普段の姿とは遠くかけ離れた、いかにもか弱い少女に見えた。
「了解した。少し待ってくれるか。用意する」
彼女の希望を脳内で反芻しながら越水はキッチンに戻り、はたと立ち止まってしまった。
――自分はまともに料理をしたことがない。
ハルカが来る前は外食等で食事を済ませ、ハルカが来てからは彼女に面倒を見てもらっていた。ホットミルクすら作ったことがないのが正直なところだ。というより、そもそもこの家の調理器具や食材がどうなっているのかほとんど把握していない。越水は呆れの息を吐き、キッチンを物色し始めた。冷蔵庫を開けて牛乳を発見したが、蜂蜜はどこに置いてあるのだろう。食器類は……。これは時間がかかりそうだ。
ハルカにホットミルクを所望されてからどのくらいの時間が経っただろうか。何とかホットミルクを作り、みつ豆の缶詰を見つけた越水はハルカの部屋を訪れた。
「長官、ありがとうございます」
ドアを開ける音でうつらうつらとしていたハルカは目を覚まし、越水に笑いかけた。彼女が眠くなる程度には時間がかかってしまったらしい。もう少し生活力というものが必要かもしれないと思いつつ越水はベッドそばの椅子に座り、サイドテーブルにマグカップと缶詰を置いた。
「わあ、美味しそう!長官、いただきますね」
マグカップを手に取った彼女がホットミルクを口にすると、唇にうっすら白い膜がついた。しまった、取り除いたつもりだったがまだ残っていたか。舌打ちしそうになる越水とは裏腹に、ハルカは嬉しそうに笑っていた。
「何か果物でも切れたらよかったのだが。すまない、さすがに鎌では切れなかった」
言いつつ缶詰を差し出すと、ハルカは目を丸くした。
「ええ!?鎌で果物を!?あれ、包丁、見つかりませんでした?」
「……使ったことがなくてな」
悪魔との戦いで包丁は不要、家で料理の経験がない越水が包丁を使う場面がなかった。神造魔人として悪魔の斬り裂き方はいくらも組み込まれているが、果物の切り方や包丁の扱い方はどこを探してもデータがなかった。みつ豆の缶詰を見つけることができ本当によかった、もしもなければリンゴをそのまま持ってくるところだった。
「……何というか長官って本当、不思議な方ですね。あんなにお仕事ができるのに」
「面目ない」
「じゃあ以前体調を崩されたときはどうしたのですか?あのときは私がいなかったじゃないですか」
「強制的に休眠状態に入り、回復させた」
「……はあ……すごいですね……」
ハルカはみつ豆を食べながら呆然としていた。自身が神造魔人であることはあまりにも当たり前すぎて意識していなかったが、ハルカといるといやでも意識せざるを得ない。ハルカ以外のベテル日本支部の人間は越水の真実を知らないだけに、余計に「差」を感じさせる。
「すみません、長官。私は長官のように急速に回復することとかできなくてですね……」
「いくら私でもそれくらいは理解している。十分に休息を取ることだ。もしも不安ならば業務は分身に任せ、私が看病に当たってもよい」
「ふふ」
ハルカはくすくすと笑い、ホットミルクを飲んだ。彼女の吐息は甘い香りを漂わせ、越水の心も甘く柔く溶ける気がした。
「私、長官の秘書兼メイドなのに長官に甘えちゃうんですね。もしも私が不安だからそばにいてください、って言ったらいてくださるのですか?」
「ああ、できる限り要望には応えよう」
「そうですか……じゃあ」
ハルカはマグカップをサイドテーブルに置くと、越水を見つめ悪戯っぽく笑った。
「じゃあ、明日もきっと体調不良だと思いますので、看病してください」
甘えた言葉に、越水は口元を綻ばせた。心にふわりと柔らかなぬくもりが広がる気がした。
その日、ベテル日本支部に一大事が起こっていた。かの大戦で失われたとされていたアオガミが、知恵を持つ少年とともに帰還した。その事実は速やかに越水、ハルカ両名の耳に入り、珍しく越水も驚いていた。まさかもう戻ってこないと思っていたアオガミが戻り、さらにナホビノにまでなれるとは――……。越水は驚きを噛みしめながら哀れな少年たちに東京の真実を説明した。
突発的な事象に対処しているとあっという間に時間が過ぎ、夜。ハルカを伴い帰宅した越水は、帰るなりソファーに座り大きなため息をついた。足を組みソファーにもたれ、天井をぼんやりと眺めている。
「長官、お疲れのようですね。ホットミルクでも作りましょうか」
「ああ、そうしてもらえるか」
「わかりました」
今夜はメイド服に着替えるのも惜しく、ハルカはパンツスーツ姿のままホットミルク作りに取りかかった。彼のあの様子だと、今夜は蜂蜜を多めに加えてもいいかもしれない。手慣れた所作でホットミルクを二つ作り、ハルカはソファーに座った。
「どうぞ、長官。いつもより蜂蜜を多くしてみました。甘すぎたら言ってください、もう一度作ります」
「ああ、ありがとう」
越水はぐったりともたれた姿勢から居住いを正し、ホットミルクを口にした。彼の吐き出す息から甘い香りが漂った。
「ありがとう、十六夜君。今夜はこの甘さがちょうどよい」
「よかったです。長官、お疲れのようですから」
「そうだな……」
ふうと息をついた越水の瞳が鋭く細くなった。昼間の出来事を思い出すかのような視線、せっかく自宅に戻っても仕事モードから抜け出せないらしい。ハルカはため息をつきながらも尋ねた。
「アオガミが戻ってきたことって、そんなに重大なことなんですか?」
「アオガミが戻ってきたこともだが、ナホビノになれる人間が現れ事実ナホビノになっていたことの方が重大だ。法の神の秩序が壊れゆくあることを示しているのだろう」
「法の神の秩序……今私たちが暮らしている東京って、法の神が作った偽物の東京なんですよね。この偽物の東京がいつか壊れてしまうってことですか」
「そうだ」
越水が淡々と語る言葉は重く、ハルカの心にのしかかる気がした。ハルカはごく普通の一般人だが、ベテル日本支部で悪魔と触れ合い越水から悪魔と魔界について説明を受けた身だ。彼の言葉を荒唐無稽だと笑い飛ばせる立場ではなかった。
「しかし」
越水はホットミルクを一口飲むと、甘い香りの息を吐きながらハルカを真っ直ぐ見つめた。灰色の瞳は力強く、先ほどまでの希望のない言葉とは真逆の力を秘めている。
「ナホビノの禁が解かれたのは好都合だ。創世の王座にナホビノが辿り着くことができれば、新たな世界を創世することができる」
「じゃあ、長官がナホビノになれれば……」
「私が理想とする新たな世界が誕生するだろう。喜ばしいことだ。しかし課題は山積みだな」
一瞬喜びを見せた越水は、再び深いため息をついた。彼のホットミルクを飲む手は止まらず、どこか遠い目をしている。
「魔界の調査はまだ進んでいない。創世の王座の場所、王座に辿り着くまでの道のり……知らぬことは多い」
「長官……いえ、越水さん」
ハルカはあえて名を呼び、そっと彼の隣に寄り添った。気怠げな疲れが見える灰色の瞳に優しく微笑む。
「色々と気にしないといけないこと、やらないといけないことがあるのはわかります。でも、ご自宅では休んでください。いくら越水さんが神様でも、休めるときには休んでおかないと駄目ですよ。ほら、この前体調を崩したじゃないですか」
越水は言葉に詰まってしまった。確かに彼女の言うとおりで、無理をすれば神といえど悪影響がある。ベテル日本支部を照らす月である越水は、誰よりも自愛せねばならぬ立場であった。秘書兼メイドに説教をされるとは情けない。そう思いながらも彼女の言葉にはぬくもりを感じられ、越水は安堵の息をついていた。
「君の言うとおりだ。今は体を休めるときだろう。……すまないが、ホットミルクを作ってもらえるか」
すっかり空になったマグカップを差し出すと、ハルカは嬉しそうに笑っていた。
ナホビノになれる少年、悪魔召喚プログラムを扱う少年たち、そして悪魔祓いの聖女たち――新たな戦力を迎え入れたベテル日本支部はひとときの平和に浸っていた。少年少女たちは本来の居場所である縄印学園に戻り、学園生活を謳歌している。そんな中ハルカは越水とともに保護されたジャックフロストと会っていた。
「ヒホー!おねーさんとおにーさん!」
「こんにちは、元気そうですね、ジャックフロスト」
手を振り合うハルカとジャックフロストだったが、越水はそんな二人をあくまでも冷徹に見つめている。可愛らしい雪だるまであっても悪魔は悪魔、という態度を崩さない越水にハルカは苦笑した。ジャックフロストは二人の温度感には気付いていない様子だった。
「どうしたホ?またオイラと遊びたいホ?」
「ふふ、少し疲れたから休憩です。ね、長官」
屈んでジャックフロストの目線に合わせて話していると、越水は控えめながらもこくりと頷いた。越水はハルカのジャックフロストに会いたいという願いを毎回律儀に聞き入れてくれていた。彼自身もなんだかんだでジャックフロストと会うと落ち着いたりするのかな、とハルカはこっそり思っていた。越水本人には言わないが。
「十六夜君、少し待ってくれ。アオガミと合一した少年から通信が入った」
「え」
越水の言葉にハルカは硬直した。万が一のことがあっても対応できるよう、越水は少年たちと通信できるようにしている。和やかな研究室に緊張感が張り詰めた。わけがわかっていないジャックフロストだけがきょとんとしている。
「十六夜君、縄印学園が悪魔の襲撃を受けたようだ。ベテル日本支部も襲われる可能性がある。ジャックフロスト、君はここを離れぬように。十六夜君、私についてきてくれ」
「ヒホ!」
「は、はい!」
ジャックフロストを残し、ハルカは早足で歩いていく越水の後を追った。おそらく執務室に向かうのだろうと思っていると、
「あらぁ?美味しそうな匂いがするわ!」
上半身と下半身が分離した女の悪魔、マナナンガルが入り口ドアを破り雪崩れ込んできた。ハルカは思わずひ、と声を上げてしまった。純然たる「敵」である悪魔を目の当たりにするのは初めてだった。悪魔にとって人間は甘美なマガツヒを溜め込んだ肉塊。マナナンガルの捕食者の目線に捉えられ、ハルカは足が竦んで動けなくなった。
「十六夜君、決して私のそばから離れるな」
越水の低い声が響いた瞬間、彼の手には巨大な鎌が握られていた。死神が持つような不気味な得物だが、戦えないハルカにとっては頼もしいことこの上なかった。
「神の一柱が人間を守ったりするのね。面白いわ!」
マナナンガルは細長い舌を見せつけるように笑い、越水に飛びかかった。越水は臆することなく鎌を持ち、容赦なく刃を振るった。重い刃が縦一閃にきらめき、マナナンガルを斬り裂いた。マナナンガルは不敵な笑みを浮かべたまま倒れ伏し、そのままマガツヒの塵となって消えていく。
越水は破られた入り口ドアに手をかざした。その手から建物全体に青い光が立ち込める。青い光は柔らかく輝き、不思議と安心感があった。
「この建物自体に結界を張った。時間稼ぎになるはずだ。十六夜君、君は私が守る。そばを離れるな」
「は、はい!」
身の丈ほどの鎌を持った越水の後ろ姿はすらりとしつつも逞しく、悪魔が襲ってきたにもかかわらずハルカに不安はなかった。
縄印学園及びベテル日本支部への悪魔の襲撃は、少年少女たちや越水の活躍によりひとまず沈静化した。越水はひと段落ついた執務室で机に座り、ふうと息をついた。アオガミ及びナホビノになれる少年の帰還から一、二週間ほどしか経過していないが、電光石火の如く事態が急変し、越水は対応に追われていた。今日も久しぶりの実戦でハルカを守ることになり、神といえども少しばかり休息が必要な状態だった。机に肘をつき頭を抱える越水のもとに、ハルカがそっとやってきた。手には二つのマグカップ、ほんのりと甘い香りがする。机に置かれたマグカップの水面は白く、ホットミルクだと察せられた。
「長官、ありがとうございました」
ハルカに深々と頭を下げられ、越水は純粋に何のことやらと考えた。
「どうした、十六夜君」
「私を、ベテル日本支部を守ってくださったことです。長官がいなかったら大変なことになっていました」
「ああ、そのことか。戦えぬ秘書とベテルを守ることは私の義務だ。礼を言われるようなことではない」
「ええ、長官ならそう言うと思っていました。それでも、ありがとうございます」
再び一礼をして微笑むハルカは可憐で、越水の疲労しささくれた心に一滴の雫が零れた。少しあたたかいような……この気持ちは一体何だ?神の一柱として長く顕現した越水でも感じたことのない感情の揺れ動きだった。越水の手がマグカップに伸び、ホットミルクを一口。ほのかな甘みと優しい温度にほっと一息ついた。
「しかし今後もやらねばならぬことがある。どうやら縄印学園の生徒たちが魔界に攫われてしまったようだ」
「知恵を持つ人間がいることを知ったからでしょうか?」
「おそらくはそうだろう。ラフムのような原始の神に近い悪魔であれば、創世や王座のことを知っていてもおかしくない。ナホビノの禁が解けた今、足踏みをしている暇はなくなったな。一刻も早く創世の王座を見つけねば……」
ホットミルクのぬくもりで和らいだ越水の心に、ぴんと緊張感が走る。こうものんびりしてはいられない、と逸る心が口から飛び出そうだ。今、越水やベテル日本支部を取り巻く事態は目まぐるしく変化している。渦中にいる越水が頭を抱えるのも至極当然であった。
「長官」
越水を見守っていたハルカに呼ばれ、越水はついと視線を彼女に移動させた。パンツスーツの彼女は胸の前で拳を握り、妙に明るい声で言った。
「今度のお休み、デートしましょう!これは決定事項です!」
「……デート?この状況下で、か?」
「この状況下だからです!」
ハルカは立てた人差し指をびしりと越水に突きつけた。
「アオガミが見つかってから、長官はろくにお休みを取っておられません!切迫した状況なのは理解しますが、そろそろお休みが必要です!長官が一日お休みをしても回る組織にはなっているはずです。長官、少しは部下を信用し、あなた自身の休息に当ててください。私が付き添いいたします!」
「……」
普通の人間なら、この状況で越水に「休め」とはなかなか言えないだろう。秘書兼メイドとしてともに時間を過ごした彼女ゆえ言える言葉だった。そして彼女は最も近くで越水を観察及び補佐してきたからこそ、越水の体調について誰よりも知っていた。……彼女の助言には従うべきかもしれない。越水は口角が下がっていたが、ハルカを見ている間に少しばかり口角が上がっていた。
そして迎えた休日、ハルカは起きてこなかった。メイドとして越水よりも早く起きる彼女がまさか寝坊だろうか、なんとも珍しい。越水は以前購入した私服に着替え自宅リビングでコーヒーを飲んでいたが、家を出る時間になってもハルカがやってこないことにさすがに違和感を覚えた。コーヒーを飲む手を止め、越水は彼女の部屋の前にやってきた。扉一枚隔てた部屋の中は静かなものだった。嫌な予感を覚え、ノックをするより前に越水はドアノブを捻っていた。
「十六夜君」
声をかけながら部屋に入ると、ベッドがこんもりと丸く盛り上がっていた。とりあえず彼女がいるだろうことに安心し、越水はそっとベッドに近付いた。
「んん……」
ハルカが体を丸めて眠っていた。ごろりと寝返りを打ち仰向けになると、その顔が赤く染まっていることに気付く。越水は彼女の顔を覗き込み、
「十六夜君、少し触れさせてもらう」
「んん〜……?」
うっすら目を開いた彼女の額に右手を当て、自身の額に左手を当てた。明らかに右掌の温度が高い。
「熱があるな」
「ちょうかん……長官っ!?」
ぼんやりとしていたハルカは飛び起きる勢いで半身を起こした。汗を垂らしながら起き上がろうとする彼女の両肩に越水は手を添え、制止した。
「起きる必要はない。今日の予定はキャンセルだ」
「で、ででででも!長官の貴重な休日に約束したのに……!」
「どう見ても今の君は発熱している。体調不良の人間を連れ回すほど私は薄情ではない」
「長官……」
慌てふためいていた彼女が落ち着いた瞬間を見計らい、越水はそっと彼女をベッドに寝かせた。ハルカの申し訳なさそうな視線が刺さる。
「休日に体調を崩したこと、むしろ幸運だろう。仕事のことなど忘れてゆっくり休むといい。何か食べられそうか?」
そう尋ねると、ハルカは少し考え込んだ後、
「長官にお願いするなんて大変恐縮なんですけど……」
「この家には私と君しかいないのだ、遠慮なく言いたまえ」
「ホットミルク、飲みたいです。あと、よかったら果物とか」
上目遣いで越水の様子を窺いながら言ってきた。その姿は仕事をバリバリこなす普段の姿とは遠くかけ離れた、いかにもか弱い少女に見えた。
「了解した。少し待ってくれるか。用意する」
彼女の希望を脳内で反芻しながら越水はキッチンに戻り、はたと立ち止まってしまった。
――自分はまともに料理をしたことがない。
ハルカが来る前は外食等で食事を済ませ、ハルカが来てからは彼女に面倒を見てもらっていた。ホットミルクすら作ったことがないのが正直なところだ。というより、そもそもこの家の調理器具や食材がどうなっているのかほとんど把握していない。越水は呆れの息を吐き、キッチンを物色し始めた。冷蔵庫を開けて牛乳を発見したが、蜂蜜はどこに置いてあるのだろう。食器類は……。これは時間がかかりそうだ。
ハルカにホットミルクを所望されてからどのくらいの時間が経っただろうか。何とかホットミルクを作り、みつ豆の缶詰を見つけた越水はハルカの部屋を訪れた。
「長官、ありがとうございます」
ドアを開ける音でうつらうつらとしていたハルカは目を覚まし、越水に笑いかけた。彼女が眠くなる程度には時間がかかってしまったらしい。もう少し生活力というものが必要かもしれないと思いつつ越水はベッドそばの椅子に座り、サイドテーブルにマグカップと缶詰を置いた。
「わあ、美味しそう!長官、いただきますね」
マグカップを手に取った彼女がホットミルクを口にすると、唇にうっすら白い膜がついた。しまった、取り除いたつもりだったがまだ残っていたか。舌打ちしそうになる越水とは裏腹に、ハルカは嬉しそうに笑っていた。
「何か果物でも切れたらよかったのだが。すまない、さすがに鎌では切れなかった」
言いつつ缶詰を差し出すと、ハルカは目を丸くした。
「ええ!?鎌で果物を!?あれ、包丁、見つかりませんでした?」
「……使ったことがなくてな」
悪魔との戦いで包丁は不要、家で料理の経験がない越水が包丁を使う場面がなかった。神造魔人として悪魔の斬り裂き方はいくらも組み込まれているが、果物の切り方や包丁の扱い方はどこを探してもデータがなかった。みつ豆の缶詰を見つけることができ本当によかった、もしもなければリンゴをそのまま持ってくるところだった。
「……何というか長官って本当、不思議な方ですね。あんなにお仕事ができるのに」
「面目ない」
「じゃあ以前体調を崩されたときはどうしたのですか?あのときは私がいなかったじゃないですか」
「強制的に休眠状態に入り、回復させた」
「……はあ……すごいですね……」
ハルカはみつ豆を食べながら呆然としていた。自身が神造魔人であることはあまりにも当たり前すぎて意識していなかったが、ハルカといるといやでも意識せざるを得ない。ハルカ以外のベテル日本支部の人間は越水の真実を知らないだけに、余計に「差」を感じさせる。
「すみません、長官。私は長官のように急速に回復することとかできなくてですね……」
「いくら私でもそれくらいは理解している。十分に休息を取ることだ。もしも不安ならば業務は分身に任せ、私が看病に当たってもよい」
「ふふ」
ハルカはくすくすと笑い、ホットミルクを飲んだ。彼女の吐息は甘い香りを漂わせ、越水の心も甘く柔く溶ける気がした。
「私、長官の秘書兼メイドなのに長官に甘えちゃうんですね。もしも私が不安だからそばにいてください、って言ったらいてくださるのですか?」
「ああ、できる限り要望には応えよう」
「そうですか……じゃあ」
ハルカはマグカップをサイドテーブルに置くと、越水を見つめ悪戯っぽく笑った。
「じゃあ、明日もきっと体調不良だと思いますので、看病してください」
甘えた言葉に、越水は口元を綻ばせた。心にふわりと柔らかなぬくもりが広がる気がした。