月夜の夜想曲
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#3 君との時間は緩やかに
越水は最近、気怠い疲れを感じることがあった。これまでどおりベテル日本支部長官及び日本国内閣総理大臣を兼任でこなしており、特に仕事量が増えたわけでもない。だが、妙に倦怠感を覚えている。
「長官、大丈夫ですか?最近少しお疲れのようです。以前も分身さんに仕事をお願いしてお休みしてましたよね」
秘書兼メイドのハルカにはあっさり察せられてしまったようで、彼女は心配している様子だった。これまで疲労らしい疲労を感じてこなかったはずだが何故だろう。これは分析と改善が必要だ。ある夜、越水は自宅でハルカの作ったホットミルクを飲みながら思案していた。向かい合って座るハルカの視線を感じ、越水はふと顔を上げた。微笑む彼女と目が合う。
「長官、私思うんですけれど」
「何だ?」
「最近の長官はお疲れのようですが、本当はずっと前からお疲れだったんじゃないですか?」
「……どういうことだ?」
越水はホットミルクを口にした。ほんのりと甘い優しい味が体に染み渡っていく。ハルカはホットミルクの入ったカップを両手で持ち、穏やかな顔をしていた。
「きっと長官は今まで気を張っていらっしゃったから、お疲れを感じる暇もなかったのですよ。今は少し気が緩んで、お疲れをきちんと感じられるようになったのだと思います」
「……気の緩み?だとするとよくないな」
彼女の言葉に少し思い当たる節もあった。秘書が不在だった間、業務は全て自身でこなしていた。その間疲れを感じたことはなかった。ハルカと過ごすようになってから緩んでいる気がする。ベテル日本支部長官、日本国内閣総理大臣としてあるべき姿ではない――越水は咄嗟にそう思った。
「いいえ、よいことですよ」
ハルカはゆるゆると首を横に振った。ふと彼女に目をやると、全てを包み込むような懐の深い笑みを浮かべている。
「四六時中気を張るなんてできませんが、長官は気を張る時間が長いでしょうから、疲労も誤魔化されていたんですよ。ちゃんと疲れを自覚されるまで気が緩むなんて素敵なことです。緩むときは緩みましょう。私がサポートします」
ハルカの言葉とともに、越水の体から程よく力が抜けていくのを感じた。ホットミルクを飲むときでさえ妙に力が入っていたらしい。肩の凝りがほどけ、口からはため息が漏れる。その様子を見ていたハルカはくすくすと笑った。
「長官の気が緩んだところなんて、私しか見られないんじゃないですか?」
「ああ、そうだろうな。少なくともベテル日本支部ではそんな姿は見せられない」
「光栄です。ありがとうございます、長官」
ぺこりと頭を下げるハルカに何と言っていいのかわからなかった。自身の気の緩んだ姿がどのようなものなのか、越水自身ですらよくわからない。今の自分がハルカにはどう映っているのか、少しばかり気にはなった。問いただすことはしないが。
「そうだ、気の緩みついでに長官」
ハルカはホットミルクを一口飲むと、カップをテーブルに置いた。微笑む彼女と目が合う。
「明日はお休みですよね。もしよろしければ、私とお出かけでもしませんか。もっと気が緩んでちょうどいい感じになるかもしれませんよ」
「お出かけ……?」
ハルカがやって来るまでは、越水は必要最低限の買い物くらいしかしてこなかった。彼女がやって来てからもそれは変わらなかった。そして今、特に買い物をする必要はない。何をするのだろうと単純に疑問が湧いた。
「有体に言えばデートですね。どうですか?長官」
デート。新鮮を通り越して初めて聞く響きだった。あくまで知識として知っている言葉で実際に体験したことはない。ハルカとデート、する必要があるかと言われればそんな必要はない。だが断る必要もない。無言でハルカを見つめ返す越水に、彼女は愉快そうに笑った。
「黙っておられますけど、それは行ってもいいってことですか?長官」
「ああ。……そうかもしれない」
率直な言葉を返すとハルカは嬉しそうに顔を綻ばせた。
冷静に考えなくとも服がない。普段どおり黒いスーツを着た越水は、これまた普段どおりパンツスーツを着たハルカとお出かけと相成った。さすがにメイド服で出かけるという発想はなかったようで、越水は心の底からほっとしていた。
「なんだかお出かけというより出張みたいですね」
彼女を車に乗せて走り出す。どこに行くのかと尋ねてみたところ、私に任せてくださいと言われ行き先は完全にハルカ任せだった。
「そういえば長官」
ハルカの声が静かな車内に響いた。運転席の越水を覗き込むような仕草をしている、ちらと視線を彼女に向けた。
「いくらなんでも私的なお出かけなのに『長官』という呼び方は相応しくないと思うんですよ。なんてお呼びしましょうか」
「君に任せる。呼び方など些細なことだ」
「え、じゃあハヤオさん、とか呼んじゃってもいいんですか!?」
何故か急にはしゃぐハルカに越水は冷静に返した。
「君が呼びたければそれでも構わないが」
「いえ、さすがにそれはちょっと。越水さん、にしておきますね」
……相変わらず彼女の感性は謎だ。越水はふうと息をついた。呼び方一つでここまでアップダウンが生じるのも珍しい。
そうこうしているうちに最初の目的地に着いた。種々様々なサングラスや眼鏡を売っている店だ。ハルカは眼鏡をかけていないが、目が悪くなったのだろうか。それはそれで心配だ。
「越水さん、眼鏡かサングラスを買いましょう!」
「突然どうしたのだ?視力低下が著しいのか?」
「いいえ!私じゃありません!越水さんのです!」
二人並んで洒落た陳列をされた眼鏡たちを眺める。フレームもレンズの色も思っていたより百花繚乱、興味深いが何故越水が?と思っているのが顔に出たのか、ハルカはびしっと越水を指差した。
「日本国内閣総理大臣がそのままのお顔を晒して私用でお出かけなんてよろしくないですよ!やっぱり変装といえば眼鏡かサングラスです!」
「霊力を纏って君以外には別人に見せている、必要はないと思うが」
越水はこれでも有名人かつ重要人物という自覚はある。普段私用で外出する際は周りの認識を乱す霊力を纏い、越水には見えないように偽装している。現在もそのようにしており、ハルカにも説明はしていたのだが何が不満なのだろうか。よほど高位の霊力を持っていないとこの術を見破ることはできない、事実これまで特に問題はなかった。
「越水さん、やっぱり物事には形から入らなくては!あと単純に眼鏡とかサングラスが似合いそうですよね!」
「……そうなのか?」
自身のものを買うわけでもないのに、ハルカは妙にうきうきとした様子だった。やはり彼女の感性はよくわからない。越水は適当に一番近くにあったサングラスを手に取った。薄い茶色のレンズに細めの黒いフレーム、すっきりとした見た目のサングラスだった。試しにかけてみると、ハルカは胸の前で手を合わせ、
「わあ、よく似合ってますよ!なんだか重鎮って感じですね!」
と褒めているのかそうでないのかよくわからない感想を口にした。
結局ハルカの勧めるままにサングラスを買い、越水は早速身につけていた。こんなことをせずとも霊力の弱い一般人を誤魔化すことなど容易なのだが、ハルカは何度も越水の顔を覗き込みニコニコと笑っていた。
そんな彼女とやってきたのは喫茶店だった。明るい日差しが差し込む窓際の席で彼女と向かい合っている。二人でコーヒーを頼みゆっくりと口に含むと、喫茶店内の心地よい雑音も相まってゆったりとした時間が流れる。二人きりの自宅とはまた違う趣を感じさせる時間だった。
「ここのコーヒー、酸味が強すぎなくて好きなんですよ。美味しいですか?」
ハルカが尋ねてくる。越水は飾らない本音を伝えた。
「そうだな。君が淹れてくれるコーヒーとはまた違う。これも美味だ」
「ふふ、そうですよね。よかった」
サングラスを通して見るハルカは普段と色味が異なるが、可憐な笑みを浮かべていることには変わりがなかった。越水はブラックコーヒーを口にしていたが、少しばかり気まぐれが働いた。砂糖の入った容器を引き寄せ、砂糖を一杯溶かしてみる。スプーンとカップが擦れる涼やかな音が響いた。コーヒーをかき混ぜる越水を見たハルカは少しばかり目を丸くした。
「あら、珍しいですね。今日はお砂糖の気分なんですか」
「普段と違うコーヒーだからな。砂糖が合うような気がしただけだ」
「そうですね、意外と合うかもしれません。私もミルクを入れてみようかな」
ハルカはミルクの入った小瓶を取り、少しばかり垂らした。黒い水面に白い渦が立ち、やがて混ざり合いカフェオレのような色に変わった。
「この喫茶店、好きなんですよ」
ハルカは椅子にもたれかかり、窓の外を眺めていた。明るい日差しの中街を行き交う人々が目に入る。店内では耳に心地よく響くざわめきとジャズが聞こえる。店内を見回すとおしゃべりに興ずる者、新聞や本を読む者、勉強をする者と様々な人々が見えた。
「うるさすぎず、コーヒーも美味しくて。ケーキやサンドイッチも美味しいんですよ」
「空腹なのか」
越水が尋ねるとハルカは身を縮め一瞬俯いたが、ちらりと可愛らしい上目遣いを見せた。
「なんでわかったんですか」
「……君はわかりやすすぎる」
メニューを彼女に手渡すと、うーん、と唸るように悩んでいた。越水はコーヒーを一口含んだ。苦味の前にやってくる砂糖の甘味に口元が綻んだ。
喫茶店で小腹を満たした二人がやってきたのは公園だった。どこまでも続く並木道、二人のそばを様々な人々が行き交う。恋人同士や家族連れ、複数人の笑顔の群れ。越水は頭上を見上げた。日を透かす緑色の葉がざわめき、耳に優しい旋律を奏でる。吹き抜ける風に梢が揺れ、葉が複雑に揺れ動く模様が見えた。二人は密着しないものの離れもしない、絶妙な距離を保って歩いていた。ハルカは踊るように歩きながら越水に笑いかけた。
「ここ、好きなんですよ。疲れたらよく散歩に来ます。そういえば越水さんって趣味とかないんですか?」
「趣味?……趣味……」
越水は顎に手を当て思案した。この身は東京の繁栄と安寧のために捧げるもの、自らの時間を豊かにするという観点が抜けている越水には思い当たるものがなかった。正直に答える。
「特にない」
「そうなんですね。最近趣味がない人が増えてるって言いますけど、越水さんもそうなんですね」
じゃあ、と言いつつハルカは越水の前に立ち顔を覗き込んだ。サングラスの薄い色がついた視界の中でも、彼女の笑顔は眩いほどだった。
「お疲れのときは私と一緒にお出かけとかお散歩しませんか?疲れも軽減するかもしれません。というか、今体の具合はどうですか?」
「外出してより疲労が溜まらないかと心配だったが、意外とそうではないようだ」
越水は少し腕を回してみた。岩のように硬かった肩周りが少しほぐれた……気がする。ここのところ寝つきがよくなかったが、今夜はよく眠れそうな気がしていた。
「ふふ、ですよね。ちょっと気分転換を図った方が心地よく過ごせますよ」
そう言いながら軽い足取りで歩く彼女は、表情とは裏腹に黒いスーツ姿だ。越水自身も執務のときと変わらない服装。さすがに少し場の空気にそぐわないのではないかと思った。
「十六夜君」
「はい、何でしょう?」
「男女が出かける際、どちらもスーツを着るというのはよくあることなのか」
正直に尋ねるとハルカは苦笑いを零し、首を横に振った。
「お仕事でもなければ、どっちもスーツなんてそうそうないと思いますよ」
「やはりそうなのか」
「ふふ、越水さんもデートとはどういうものかわかってきたみたいですね!」
したり顔のハルカがびしりと人差し指を立てて笑っていた。越水はくいと服の袖をハルカに引っ張られていた。思ったよりも力が強く、前のめりになってしまう。
「じゃあ越水さん、スーツじゃない服を買いに行きましょう!」
この話の流れで拒否する言葉は思い浮かばず、越水はハルカに引きずられるようにして歩いていった。
スーツでもメイド服でもない、オフィスカジュアルを少し崩した程度の服装に収まった二人が越水宅に帰ってきたのは夜だった。越水は着慣れない服とかけ慣れないサングラスの自分を玄関の姿見で眺め、ため息をついた。似合っているのかそうでないのか自分では全く判断がつかない。ハルカ曰く、
「よく似合ってますよ!」
とのことだったが。
「長官、今日はありがとうございました」
早々にメイド服に着替えたハルカが越水を出迎えた。越水の眉が動いたのを敏感に察知したハルカは、
「どうしたんですか、長官」
と尋ねてきた。越水はサングラスを外し答えた。
「いや……いつもの服に戻ってしまうのだなと思っただけだ」
「あー!長官、さっきの服がよかったですか?今日はデートでしたものね、失念してました!」
……やはり彼女といると調子が狂う。越水は二度目のため息をついた。重めの息をついた口には、少し甘いものがほしい。
「十六夜君、ホットミルクを入れてくれないか」
「はい、わかりました。少々お待ちくださいね」
ぱたぱたと歩いていく彼女の後ろ姿を見送り、越水はテーブルに座った。サングラスをテーブルに置くと、今日過ごした非日常を思い出す。彼女が秘書兼メイドになったからには、これがいずれは日常になるのだろうか。
「できました。どうぞ」
「ありがとう」
コト、と小さな音とともにホットミルクの入ったカップが置かれる。ハルカは越水の対面に座ると、カップを両手で持ち優しく笑った。
「長官、今日一日いかがでしたか」
「心地よい疲れがある。このまま寝ると疲労回復によさそうだ」
「ですよね!よかったです」
ちびちびとホットミルクを飲む彼女を眺め、越水も一口。舌を撫でていくほのかな甘み、越水の吐いた息さえも甘く香った。
越水はこれまで休日を誰かと過ごしたことはなかった。これからは一人の時間がハルカとの時間に置き換わっていく。それがどのような意味を持つのか、今の越水には想像もつかなかった。
越水は最近、気怠い疲れを感じることがあった。これまでどおりベテル日本支部長官及び日本国内閣総理大臣を兼任でこなしており、特に仕事量が増えたわけでもない。だが、妙に倦怠感を覚えている。
「長官、大丈夫ですか?最近少しお疲れのようです。以前も分身さんに仕事をお願いしてお休みしてましたよね」
秘書兼メイドのハルカにはあっさり察せられてしまったようで、彼女は心配している様子だった。これまで疲労らしい疲労を感じてこなかったはずだが何故だろう。これは分析と改善が必要だ。ある夜、越水は自宅でハルカの作ったホットミルクを飲みながら思案していた。向かい合って座るハルカの視線を感じ、越水はふと顔を上げた。微笑む彼女と目が合う。
「長官、私思うんですけれど」
「何だ?」
「最近の長官はお疲れのようですが、本当はずっと前からお疲れだったんじゃないですか?」
「……どういうことだ?」
越水はホットミルクを口にした。ほんのりと甘い優しい味が体に染み渡っていく。ハルカはホットミルクの入ったカップを両手で持ち、穏やかな顔をしていた。
「きっと長官は今まで気を張っていらっしゃったから、お疲れを感じる暇もなかったのですよ。今は少し気が緩んで、お疲れをきちんと感じられるようになったのだと思います」
「……気の緩み?だとするとよくないな」
彼女の言葉に少し思い当たる節もあった。秘書が不在だった間、業務は全て自身でこなしていた。その間疲れを感じたことはなかった。ハルカと過ごすようになってから緩んでいる気がする。ベテル日本支部長官、日本国内閣総理大臣としてあるべき姿ではない――越水は咄嗟にそう思った。
「いいえ、よいことですよ」
ハルカはゆるゆると首を横に振った。ふと彼女に目をやると、全てを包み込むような懐の深い笑みを浮かべている。
「四六時中気を張るなんてできませんが、長官は気を張る時間が長いでしょうから、疲労も誤魔化されていたんですよ。ちゃんと疲れを自覚されるまで気が緩むなんて素敵なことです。緩むときは緩みましょう。私がサポートします」
ハルカの言葉とともに、越水の体から程よく力が抜けていくのを感じた。ホットミルクを飲むときでさえ妙に力が入っていたらしい。肩の凝りがほどけ、口からはため息が漏れる。その様子を見ていたハルカはくすくすと笑った。
「長官の気が緩んだところなんて、私しか見られないんじゃないですか?」
「ああ、そうだろうな。少なくともベテル日本支部ではそんな姿は見せられない」
「光栄です。ありがとうございます、長官」
ぺこりと頭を下げるハルカに何と言っていいのかわからなかった。自身の気の緩んだ姿がどのようなものなのか、越水自身ですらよくわからない。今の自分がハルカにはどう映っているのか、少しばかり気にはなった。問いただすことはしないが。
「そうだ、気の緩みついでに長官」
ハルカはホットミルクを一口飲むと、カップをテーブルに置いた。微笑む彼女と目が合う。
「明日はお休みですよね。もしよろしければ、私とお出かけでもしませんか。もっと気が緩んでちょうどいい感じになるかもしれませんよ」
「お出かけ……?」
ハルカがやって来るまでは、越水は必要最低限の買い物くらいしかしてこなかった。彼女がやって来てからもそれは変わらなかった。そして今、特に買い物をする必要はない。何をするのだろうと単純に疑問が湧いた。
「有体に言えばデートですね。どうですか?長官」
デート。新鮮を通り越して初めて聞く響きだった。あくまで知識として知っている言葉で実際に体験したことはない。ハルカとデート、する必要があるかと言われればそんな必要はない。だが断る必要もない。無言でハルカを見つめ返す越水に、彼女は愉快そうに笑った。
「黙っておられますけど、それは行ってもいいってことですか?長官」
「ああ。……そうかもしれない」
率直な言葉を返すとハルカは嬉しそうに顔を綻ばせた。
冷静に考えなくとも服がない。普段どおり黒いスーツを着た越水は、これまた普段どおりパンツスーツを着たハルカとお出かけと相成った。さすがにメイド服で出かけるという発想はなかったようで、越水は心の底からほっとしていた。
「なんだかお出かけというより出張みたいですね」
彼女を車に乗せて走り出す。どこに行くのかと尋ねてみたところ、私に任せてくださいと言われ行き先は完全にハルカ任せだった。
「そういえば長官」
ハルカの声が静かな車内に響いた。運転席の越水を覗き込むような仕草をしている、ちらと視線を彼女に向けた。
「いくらなんでも私的なお出かけなのに『長官』という呼び方は相応しくないと思うんですよ。なんてお呼びしましょうか」
「君に任せる。呼び方など些細なことだ」
「え、じゃあハヤオさん、とか呼んじゃってもいいんですか!?」
何故か急にはしゃぐハルカに越水は冷静に返した。
「君が呼びたければそれでも構わないが」
「いえ、さすがにそれはちょっと。越水さん、にしておきますね」
……相変わらず彼女の感性は謎だ。越水はふうと息をついた。呼び方一つでここまでアップダウンが生じるのも珍しい。
そうこうしているうちに最初の目的地に着いた。種々様々なサングラスや眼鏡を売っている店だ。ハルカは眼鏡をかけていないが、目が悪くなったのだろうか。それはそれで心配だ。
「越水さん、眼鏡かサングラスを買いましょう!」
「突然どうしたのだ?視力低下が著しいのか?」
「いいえ!私じゃありません!越水さんのです!」
二人並んで洒落た陳列をされた眼鏡たちを眺める。フレームもレンズの色も思っていたより百花繚乱、興味深いが何故越水が?と思っているのが顔に出たのか、ハルカはびしっと越水を指差した。
「日本国内閣総理大臣がそのままのお顔を晒して私用でお出かけなんてよろしくないですよ!やっぱり変装といえば眼鏡かサングラスです!」
「霊力を纏って君以外には別人に見せている、必要はないと思うが」
越水はこれでも有名人かつ重要人物という自覚はある。普段私用で外出する際は周りの認識を乱す霊力を纏い、越水には見えないように偽装している。現在もそのようにしており、ハルカにも説明はしていたのだが何が不満なのだろうか。よほど高位の霊力を持っていないとこの術を見破ることはできない、事実これまで特に問題はなかった。
「越水さん、やっぱり物事には形から入らなくては!あと単純に眼鏡とかサングラスが似合いそうですよね!」
「……そうなのか?」
自身のものを買うわけでもないのに、ハルカは妙にうきうきとした様子だった。やはり彼女の感性はよくわからない。越水は適当に一番近くにあったサングラスを手に取った。薄い茶色のレンズに細めの黒いフレーム、すっきりとした見た目のサングラスだった。試しにかけてみると、ハルカは胸の前で手を合わせ、
「わあ、よく似合ってますよ!なんだか重鎮って感じですね!」
と褒めているのかそうでないのかよくわからない感想を口にした。
結局ハルカの勧めるままにサングラスを買い、越水は早速身につけていた。こんなことをせずとも霊力の弱い一般人を誤魔化すことなど容易なのだが、ハルカは何度も越水の顔を覗き込みニコニコと笑っていた。
そんな彼女とやってきたのは喫茶店だった。明るい日差しが差し込む窓際の席で彼女と向かい合っている。二人でコーヒーを頼みゆっくりと口に含むと、喫茶店内の心地よい雑音も相まってゆったりとした時間が流れる。二人きりの自宅とはまた違う趣を感じさせる時間だった。
「ここのコーヒー、酸味が強すぎなくて好きなんですよ。美味しいですか?」
ハルカが尋ねてくる。越水は飾らない本音を伝えた。
「そうだな。君が淹れてくれるコーヒーとはまた違う。これも美味だ」
「ふふ、そうですよね。よかった」
サングラスを通して見るハルカは普段と色味が異なるが、可憐な笑みを浮かべていることには変わりがなかった。越水はブラックコーヒーを口にしていたが、少しばかり気まぐれが働いた。砂糖の入った容器を引き寄せ、砂糖を一杯溶かしてみる。スプーンとカップが擦れる涼やかな音が響いた。コーヒーをかき混ぜる越水を見たハルカは少しばかり目を丸くした。
「あら、珍しいですね。今日はお砂糖の気分なんですか」
「普段と違うコーヒーだからな。砂糖が合うような気がしただけだ」
「そうですね、意外と合うかもしれません。私もミルクを入れてみようかな」
ハルカはミルクの入った小瓶を取り、少しばかり垂らした。黒い水面に白い渦が立ち、やがて混ざり合いカフェオレのような色に変わった。
「この喫茶店、好きなんですよ」
ハルカは椅子にもたれかかり、窓の外を眺めていた。明るい日差しの中街を行き交う人々が目に入る。店内では耳に心地よく響くざわめきとジャズが聞こえる。店内を見回すとおしゃべりに興ずる者、新聞や本を読む者、勉強をする者と様々な人々が見えた。
「うるさすぎず、コーヒーも美味しくて。ケーキやサンドイッチも美味しいんですよ」
「空腹なのか」
越水が尋ねるとハルカは身を縮め一瞬俯いたが、ちらりと可愛らしい上目遣いを見せた。
「なんでわかったんですか」
「……君はわかりやすすぎる」
メニューを彼女に手渡すと、うーん、と唸るように悩んでいた。越水はコーヒーを一口含んだ。苦味の前にやってくる砂糖の甘味に口元が綻んだ。
喫茶店で小腹を満たした二人がやってきたのは公園だった。どこまでも続く並木道、二人のそばを様々な人々が行き交う。恋人同士や家族連れ、複数人の笑顔の群れ。越水は頭上を見上げた。日を透かす緑色の葉がざわめき、耳に優しい旋律を奏でる。吹き抜ける風に梢が揺れ、葉が複雑に揺れ動く模様が見えた。二人は密着しないものの離れもしない、絶妙な距離を保って歩いていた。ハルカは踊るように歩きながら越水に笑いかけた。
「ここ、好きなんですよ。疲れたらよく散歩に来ます。そういえば越水さんって趣味とかないんですか?」
「趣味?……趣味……」
越水は顎に手を当て思案した。この身は東京の繁栄と安寧のために捧げるもの、自らの時間を豊かにするという観点が抜けている越水には思い当たるものがなかった。正直に答える。
「特にない」
「そうなんですね。最近趣味がない人が増えてるって言いますけど、越水さんもそうなんですね」
じゃあ、と言いつつハルカは越水の前に立ち顔を覗き込んだ。サングラスの薄い色がついた視界の中でも、彼女の笑顔は眩いほどだった。
「お疲れのときは私と一緒にお出かけとかお散歩しませんか?疲れも軽減するかもしれません。というか、今体の具合はどうですか?」
「外出してより疲労が溜まらないかと心配だったが、意外とそうではないようだ」
越水は少し腕を回してみた。岩のように硬かった肩周りが少しほぐれた……気がする。ここのところ寝つきがよくなかったが、今夜はよく眠れそうな気がしていた。
「ふふ、ですよね。ちょっと気分転換を図った方が心地よく過ごせますよ」
そう言いながら軽い足取りで歩く彼女は、表情とは裏腹に黒いスーツ姿だ。越水自身も執務のときと変わらない服装。さすがに少し場の空気にそぐわないのではないかと思った。
「十六夜君」
「はい、何でしょう?」
「男女が出かける際、どちらもスーツを着るというのはよくあることなのか」
正直に尋ねるとハルカは苦笑いを零し、首を横に振った。
「お仕事でもなければ、どっちもスーツなんてそうそうないと思いますよ」
「やはりそうなのか」
「ふふ、越水さんもデートとはどういうものかわかってきたみたいですね!」
したり顔のハルカがびしりと人差し指を立てて笑っていた。越水はくいと服の袖をハルカに引っ張られていた。思ったよりも力が強く、前のめりになってしまう。
「じゃあ越水さん、スーツじゃない服を買いに行きましょう!」
この話の流れで拒否する言葉は思い浮かばず、越水はハルカに引きずられるようにして歩いていった。
スーツでもメイド服でもない、オフィスカジュアルを少し崩した程度の服装に収まった二人が越水宅に帰ってきたのは夜だった。越水は着慣れない服とかけ慣れないサングラスの自分を玄関の姿見で眺め、ため息をついた。似合っているのかそうでないのか自分では全く判断がつかない。ハルカ曰く、
「よく似合ってますよ!」
とのことだったが。
「長官、今日はありがとうございました」
早々にメイド服に着替えたハルカが越水を出迎えた。越水の眉が動いたのを敏感に察知したハルカは、
「どうしたんですか、長官」
と尋ねてきた。越水はサングラスを外し答えた。
「いや……いつもの服に戻ってしまうのだなと思っただけだ」
「あー!長官、さっきの服がよかったですか?今日はデートでしたものね、失念してました!」
……やはり彼女といると調子が狂う。越水は二度目のため息をついた。重めの息をついた口には、少し甘いものがほしい。
「十六夜君、ホットミルクを入れてくれないか」
「はい、わかりました。少々お待ちくださいね」
ぱたぱたと歩いていく彼女の後ろ姿を見送り、越水はテーブルに座った。サングラスをテーブルに置くと、今日過ごした非日常を思い出す。彼女が秘書兼メイドになったからには、これがいずれは日常になるのだろうか。
「できました。どうぞ」
「ありがとう」
コト、と小さな音とともにホットミルクの入ったカップが置かれる。ハルカは越水の対面に座ると、カップを両手で持ち優しく笑った。
「長官、今日一日いかがでしたか」
「心地よい疲れがある。このまま寝ると疲労回復によさそうだ」
「ですよね!よかったです」
ちびちびとホットミルクを飲む彼女を眺め、越水も一口。舌を撫でていくほのかな甘み、越水の吐いた息さえも甘く香った。
越水はこれまで休日を誰かと過ごしたことはなかった。これからは一人の時間がハルカとの時間に置き換わっていく。それがどのような意味を持つのか、今の越水には想像もつかなかった。