月夜の夜想曲
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#2 君とホットミルク
ハルカにメイド服が届いた翌日。ほんのり漂うコーヒーの香りで越水は目を覚ました。起き上がりリビングダイニングに向かうと、
「おはようございます、長官。朝食ができましたので、お召し上がりください」
黒のパンツスーツのハルカがコーヒーを淹れているところだった。テーブルの上には二人分の朝食。まともに朝食を摂るなどいつぶりだろうか。越水がテーブルに座ると、微笑んだハルカがコーヒーを置いてくれた。カップを持ち、何となしに彼女に目を遣る。向かい側に座った彼女は不思議そうに首を傾げていた。
「どうなさいました、長官」
「いや、あの服ではないのだなと思っただけだ」
「あの服?」
「昨日君宛に届いた服だ」
「ああ、メイド服ですね」
彼女は優雅にコーヒーを飲み、ごく自然に答えた。
「朝は出勤が近いですから、着替えが煩雑になりますので……でも、もし長官がメイド服をご所望でしたら、明日からそうしますよ」
……思っていなかった答えが返ってきた。彼女といると微妙にペースを崩される気がする。
「単に疑問に思っただけだ。君の都合のいいようにしてもらって構わない」
「そうですか。わかりました。明日から余力があれば、メイド服を着ることにしますね」
にこりと微笑んで返すその言葉は、やはりというか予想外の返事だった。
十六夜ハルカは優秀だった。魔界のことなど知らぬ一般人だったがすさまじい速度で知識を吸収し、ベテル日本支部長官の秘書として申し分のない能力を発揮している。またメイドとしても有能で、潤いのない越水の自宅をてきぱきと片付け、家事をこなしてしまう。黒のパンツスーツもモノトーンのメイド服もどちらも似合う女性だった。誰が秘書兼メイドを募集したのかわからないが、越水としてはおおいに助かるところだった。
彼女が秘書兼メイドとして勤務するようになり一週間。越水は深夜の自宅で目を覚ました。中途覚醒など滅多にない彼だが、今夜は喉が渇いた。越水は起き上がり寝室の扉を開けた。ふと廊下に目を遣ると、隣の部屋のドアの隙間から光が漏れていることに気がついた。隣はハルカの部屋だ。彼女も眠れないのだろうか、少し声をかけてみようか。気まぐれが働き、越水は隣のドアをノックした。深夜、物音のしない静寂の時間にノックの涼やかな音が響く。
「長官?どうされましたか?」
少し開いたドアの間隙からハルカが顔を覗かせた。彼女は目を少しばかり見開いている。
「部屋に明かりがついていたので気になっただけだ。眠れないのか」
「あ、ええ、と……少し勉強を……」
そう言って彼女は越水を部屋に招いた。簡易な机とベッド、クローゼットがあるだけの質素な部屋。机の上にはベテル日本支部で支給されている端末があった。魔界や悪魔、悪魔召喚プログラムについて等、ベテル日本支部の叡智と情報が詰まっている。
「もしや、君は毎晩勉強しているのか」
「ええ、まあ……魔界のことや悪魔のことを全然知らないので、ちゃんと知っておかないとと思いまして……」
どおりで彼女の知識量が多かったわけだ、と越水は納得した。昼間の彼女の活動だけでは到底追いつかぬことだ。彼女が勝手にしていること、そう切り捨てるのは簡単だが、ベテル日本支部職員の健康も預かる立場の越水としては放っておけない。
「十六夜君、勉強熱心なのはよいことだ。だが無理は禁物だ。今夜は……いや、今後、夜は休みたまえ」
「そうですね……お気遣いありがとうございます」
ふあ、とハルカはあくびをした。眠そうに目を擦る。ただでさえ彼女は秘書とメイド、二足の草鞋を履いている。そこに自主学習となると、かなりの負担になるだろう。眠いのも当然だ。
「長官、一緒にホットミルクでも飲みませんか」
「君が作るのか?私が作ってもよいが」
「いいえ、私はメイドですから。私が作ります」
そう言ってキッチンに向かう彼女の背中を見送る。しばらくするとガサゴソと物音が聞こえた。越水は息をつき、リビングダイニングに入っていく。
「どうぞ、長官」
二つカップを持ったハルカがテーブルに座った。カップは白い液体で満たされ、湯気からは甘い香りがする。越水が一口含むと、乳脂肪の優しさと蜂蜜の甘さが舌の上に広がった。向かい合って座る彼女はシンプルなパジャマを着ていて、秘書でもメイドでもない顔を見せていた。両手で大事そうにカップを持つ仕草は、大人の女性というよりは少女に近い。
「十六夜君、魔界や悪魔のことをもっと知りたいと思うか」
尋ねると、彼女はカップをテーブルに置いた。数秒液体の揺らめきを眺めていたが、顔を上げた。
「そうですね。仕事に必要というのもありますが、私自身もっと知りたいなと思ってまして」
その眼差しは真摯で、嘘や媚びは含まれていないと思われた。職務と誠実に向き合う姿勢は好ましい。越水は再びホットミルクを飲んだ。あたたかな甘さ、頭がふわりと浮いていく心地だった。
「では、こうしよう。今後は夜の勉強を取り止め、昼間私とともに勉強の時間を取るとしよう。あまり長時間は対応できかねるが、睡眠時間を削るよりはよほどよいだろう」
「えっ、でも……長官はお忙しいですし、それだと長官の負担が増すのでは?」
「君も秘書として勤務し気がついただろう?隙間時間を活用すればよい。もともと手持ち無沙汰だった時間だ、君と有効活用するのもよいだろう」
「ええと……それは……そうですね」
例えば会議までの待機時間、例えばちょっとした移動時間。これまでただの「時間」として消費していたものは多々見受けられる。思い当たる節があるのだろう、ハルカはカップを持つと微笑んだ。
「ありがとうございます、長官。本当に、お優しいのですね」
優しい。これまで言われることのなかった言葉に、越水の眉が片方かすかに動いた。
「ベテル日本支部長官として当然のことをするまでだ」
「ふふ」
事務的に返した越水にハルカの微笑みが返ってくる。彼女はホットミルクを飲み干すと、穏やかな笑みを浮かべていた。メイドでも秘書でもない、「十六夜ハルカ」としての笑みを初めて見たような気がした。
あの夜以降、越水はハルカと端末を見ながら「勉強」に付き合う時間が飛躍的に増えた。些細な隙間時間を活用し、彼女に秘書として、あるいはベテル日本支部職員として持つべき知識を教え込んでいく。彼女は素直で勤勉、教えたことをスポンジの如く吸収していく。その修得速度は目覚ましいものがあり、ほんの少し前まで何も知らぬ一般人だったとは思えぬ量の知識を頭に叩き込んでいった。
「長官、魔界に行く機会はないのですか?」
ある日の執務室でハルカに尋ねられた。彼女は端末に映る荒涼とした魔界の景色を興味深そうに眺めていた。
「魔界には適宜調査部隊を派遣している。常に誰かが魔界の調査に向かっている状況だ」
越水は答えつつ、頭の中で調査状況を描いていた。ベテル日本支部はお世辞にも魔界の全貌を把握しているとは言えない。凶悪な悪魔が跋扈する危険な場所は通常の調査部隊では探索できず、残念ながら未知の領域が多いと言わざるを得ない状況だ。戦闘能力を持つ者がもっといればよいのだが、生憎神造魔人は先の大戦で失われ、唯一残っているのが内政型の越水のみ、なかなか調査が進まないのも道理だった。
「私が調査に随行してはいけませんか?」
身を乗り出し提案するハルカの目には純粋な知的好奇心が輝いていた。魔界。人間の世界とは全く違う悪魔の世界、時折魅入られてしまう研究員がいるが、彼女もそうなのだろうか。越水はため息をついた。
「君は私の秘書だろう。秘書が私のもとを離れてどうする」
「あ……そういえばそうですね、申し訳ありません、長官」
少しばかり落ち込んだ様子のハルカに越水は咳払いをした。
「それに魔界は悪魔が蔓延る場所だ。戦闘能力のない者を派遣するわけにはいかない。君が調査に随行するなどもってのほかだ」
「そうですか……残念です。あ、では」
ハルカはぽんと手を叩いた。そして明るい声で笑う。
「長官と一緒なら大丈夫ですよね!長官、もしも魔界に行くことがあれば私も連れて行ってくださいね!秘書ですもの!」
……やはり彼女といると噛み合っていた歯車が少しズレるような感覚がある。越水はふう、と呆れたように息を吐きながらも慣れ始めている自分に驚きを隠せなかった。
ある朝越水が目を覚ますと、全身に倦怠感が巻き付くような感覚があった。ベッドの中でぱちりと目を覚ますが、起きることができない。しばしそのまま硬直していると、コンコン、とノックの音が響いた。
「長官、おはようございます。お目覚めでしょうか?」
ハルカの声だった。普段なら越水はリビングダイニングにいる時間だ、様子を見に来たというところか。越水は何とか声を出した。
「ああ、起きている」
「あ、おはようございます。入ってもよろしいですか?」
「構わぬ」
返事を返すと、失礼しますと言いながらハルカが入ってきた。黒のパンツスーツに身を包んだ彼女は、真っ直ぐに越水のもとにやって来た。身をかがめ、心配そうに越水を見下ろしている。
「長官、どうなさいました?あまり顔色がよくないようにお見受けしますが」
「ああ、体が怠く起き上がれないのだ」
ハルカは口元に手を当て、まあ、と声を上げた。
「体調が優れないのですね。今日はお休みしましょう」
「……駄目だ。十六夜君」
越水はハルカの手を掴み、少しばかり目を閉じ集中した。その瞬間、越水の分身が生み出される。ハルカは唐突に現れた分身と越水を交互に見遣り、ただただ言葉を失っていた。
「私の分身とともにベテル日本支部に向かってくれ。今日、君は分身と職務を行うように」
「え、で、ですが……体調が優れない長官をお一人にするのは……」
「ベテル日本支部の職務に穴を空ける方が重大だ。私は一人でも問題ない」
ハルカは困惑した様子だったが、越水の鋭い眼差しに射抜かれやがてため息とともに頷いた。
「わかりました。他ならぬ長官のご命令ですから従います。ですが」
ハルカは越水の手を握り、真剣な様子で言った。
「私の助けが必要であれば、すぐにご連絡ください。すぐに戻りますから」
「十六夜君、行くぞ」
分身に呼ばれ、ハルカは立ち上がり彼とともに部屋を出た。部屋を出る前、越水に会釈をした彼女は心配そうだった。
「ふう……」
ようやく一人になった越水は息をついた。玄関の扉が閉まる音がする。分身はハルカとともにベテル日本支部に向かったようだ。今日一日は分身がうまくことを回してくれるだろう。恐らく今夜はハルカから分身のことで質問を受けるはずだ。それまでにある程度肉体を回復させなくては……越水はようやく起き上がりリビングダイニングに向かった。
リビングダイニングのテーブルには、ハルカが用意した朝食が置き去りにされていた。まだほんのりとあたたかい。越水は小さく感謝しながらゆっくりと朝食を摂った。人間を模した肉体に栄養が染み渡る。食欲が減退する不調でなかったことに感謝すべきだろう。
越水はコーヒーを飲みながら、久しぶりに孤独な朝を迎えていた。少し前にハルカが現れて以降、朝は孤独な時間ではなくなった。彼女の挨拶で始まる朝が存外心地よかったことを思い出し、越水はコーヒー混じりの息をついた。誰かが隣にいる時間を経験した越水に、一人の時間はいささか荷が重かった。頭が重くなるのを感じた。
分身は問題なく責務を果たしているだろうか。ハルカとはどのように過ごしているだろうか。一人きりの時間に考えるのはハルカのこと。隙間時間に彼女の質問を受けともに勉強したことを懐かしく感じてしまう。越水はコーヒーを飲み干し、頭を抱えた。
「……不調というのも困りものだな」
体が睡眠を欲している。越水は大人しく寝室に戻ることにした。ベッドに潜り目を閉じた瞬間、ハルカの顔が脳内に滲んだ。
「えっと……長官……とお呼びすればよいのでしょうか」
ベテル日本支部長官執務室。そこに越水……の分身が鎮座している。ハルカは彼を何と呼べばいいのかわからなかった。分身は顔を上げ、ハルカに答える。
「君の呼びやすい呼び方でよい。私も越水ハヤオであることに間違いないのだから」
「わかりました。長官、あの……質問があるのですが」
「なんだ?魔界に関する質問か?」
ハルカは少し驚いた。越水に質問がある、というとほぼ上記の答えが返ってくる。目の前にいる分身も越水である、というのはあながち間違いではないようだ。
「いえ、違います。その……『分身』と仰っていたことについてです」
「何が聞きたい?」
ノートパソコンのキーボードを叩きながら分身はハルカに目を向けた。その切れ長の瞳、真一文字に結んだ唇は越水にそっくりで区別がつかない。ハルカは素朴極まりない質問を口にした。
「分身って何なのですか?ご自宅にも長官がいらっしゃいますよね?」
「そうだな。文字どおりの理解で構わない。越水ハヤオは一度に最大三体まで分身を作り、活動が可能だ。今日のようにな」
「ええと……あなたは長官の分身で……今ご自宅にいらっしゃるのが……」
「本体だ。私はあくまで分身、本体に吸収される定めだ」
「は、はあ……」
十六夜ハルカ、未知に対する吸収力はそれなりにあると自負していたが、早速頭が混乱していた。越水ハヤオはごく普通の人間だと思っていたがそうではないらしい。
「本体が体調不良等で職務を邁進できぬ場合、このように我ら分身が代わりに出勤することがあった。君を含めベテル日本支部の人間には知らせていない。分身のことを知ったのは君が初めてだ、十六夜君」
「そうなのですね。他の職員さんにはこのことは……」
「秘密にしてくれ」
「わかりました」
分身に頭を下げると、分身は満足そうに頷いた。その様子を見たハルカは思わずくすりと笑ってしまった。分身は怪訝そうな顔をする。
「どうした、十六夜君」
「いえ、長官と私の間で秘密ができるなんて思っていなかったので、つい。何だか特別な関係になったような気がしますね」
「……馬鹿なことを言っていないで、他に質問はないか」
ふう、と分身は呆れたように息をつく。そんな越水を見るのも新鮮で、ハルカは笑ってしまった。
「いいえ、ありません」
微笑みながらもハルカは心配していた。自宅に一人残った越水は問題なく過ごせているだろうか。不器用な分身とたわいもない会話をするのも風流だが、やはり越水本人が気になる。ハルカの脳裏に臥せっている越水がよぎった。
「ただいま戻りました、長官」
越水一人の自宅にハルカの声が響いたのは、夜も更けた頃だった。ひとまずの役目を終えた分身が消え、越水は分身の記憶を受け取った。分身とハルカは滞りなく本日の職務をこなしたようだ。
「長官、入ってもよろしいですか?」
コンコン、と控えめなノックが寝室に響いた。入ってもいい、と返事をすると、失礼しますと応答の後ハルカが入ってきた。
「長官、戻りました。お加減はいかがですか?」
ベッドそばにハルカが駆け寄ってくる。孤独で冷たい部屋にハルカの声がじんわりと沁みていく。越水は半身を起こし、彼女に目を向けた。黒いパンツスーツの彼女だが、その顔は秘書というよりは主人を案ずるメイドのものだった。
「ああ、臥せっていたおかげで随分とよくなった。礼を言う」
「いえ、むしろ長官のお世話ができずすみません」
ぺこりと頭を下げた彼女は穏やかに笑った。その笑顔は越水一人の空間では生まれえない優しいもので、見ていると不思議と心が落ち着く。
「十六夜君、少しいいか」
「はい、なんでしょう?」
「君とホットミルクが飲みたい。作ってくれるか」
そう言うと、ハルカは嬉しそうに手を合わせた。
「はい!お作りします、少々お待ちくださいね」
微笑む彼女は楽しそうな足取りで寝室を後にする。その楽しそうな姿を目で追い、越水は約一日振りにベッドから起き上がった。全身を包んでいた倦怠感が薄れ、本調子とまではいかずともひととおり動けそうではある。リビングに向かうと、蜂蜜と牛乳の甘い香りが漂ってきた。鼻歌を歌いながらマグカップを二つ持つ彼女は、妙に楽しそうに見えた。
「はい、ちょうどホットミルクが出来上がりました。どうぞ」
「ありがとう」
ハルカと向かい合って座り、マグカップに触れた。あたたかいが火傷を負わせる温度ではなく、手に馴染み心地よい。ホットミルクを一口飲むと、優しい味わいと甘味が広がっていく。ハルカはのんびりとホットミルクを飲みながら越水に柔らかな目を向けていた。
「……どうした、十六夜君。私をまじまじと見て」
「長官が私に甘えてくださったようで、とても嬉しいんです」
「私が、君に甘える?」
「ええ」
ハルカはマグカップを両手で大事そうに包み込み、穏やかな口調で語った。
「長官が私に何かしてほしいと言ってくださったの、今回が初めてではありませんか?メイドとして、秘書として、信頼していただけたのかなあと思いまして」
「……そう、だろうか」
越水は破顔するハルカを怪訝に見つめていた。ハルカが言うような考えがあって口にしたわけではないが、彼女が喜んでいるのを見るとそれでいいのではないかと納得する。越水はホットミルクを一口含んだ。あたたかいホットミルクは柔らかな甘味と口触りで安心感があった。
ハルカにメイド服が届いた翌日。ほんのり漂うコーヒーの香りで越水は目を覚ました。起き上がりリビングダイニングに向かうと、
「おはようございます、長官。朝食ができましたので、お召し上がりください」
黒のパンツスーツのハルカがコーヒーを淹れているところだった。テーブルの上には二人分の朝食。まともに朝食を摂るなどいつぶりだろうか。越水がテーブルに座ると、微笑んだハルカがコーヒーを置いてくれた。カップを持ち、何となしに彼女に目を遣る。向かい側に座った彼女は不思議そうに首を傾げていた。
「どうなさいました、長官」
「いや、あの服ではないのだなと思っただけだ」
「あの服?」
「昨日君宛に届いた服だ」
「ああ、メイド服ですね」
彼女は優雅にコーヒーを飲み、ごく自然に答えた。
「朝は出勤が近いですから、着替えが煩雑になりますので……でも、もし長官がメイド服をご所望でしたら、明日からそうしますよ」
……思っていなかった答えが返ってきた。彼女といると微妙にペースを崩される気がする。
「単に疑問に思っただけだ。君の都合のいいようにしてもらって構わない」
「そうですか。わかりました。明日から余力があれば、メイド服を着ることにしますね」
にこりと微笑んで返すその言葉は、やはりというか予想外の返事だった。
十六夜ハルカは優秀だった。魔界のことなど知らぬ一般人だったがすさまじい速度で知識を吸収し、ベテル日本支部長官の秘書として申し分のない能力を発揮している。またメイドとしても有能で、潤いのない越水の自宅をてきぱきと片付け、家事をこなしてしまう。黒のパンツスーツもモノトーンのメイド服もどちらも似合う女性だった。誰が秘書兼メイドを募集したのかわからないが、越水としてはおおいに助かるところだった。
彼女が秘書兼メイドとして勤務するようになり一週間。越水は深夜の自宅で目を覚ました。中途覚醒など滅多にない彼だが、今夜は喉が渇いた。越水は起き上がり寝室の扉を開けた。ふと廊下に目を遣ると、隣の部屋のドアの隙間から光が漏れていることに気がついた。隣はハルカの部屋だ。彼女も眠れないのだろうか、少し声をかけてみようか。気まぐれが働き、越水は隣のドアをノックした。深夜、物音のしない静寂の時間にノックの涼やかな音が響く。
「長官?どうされましたか?」
少し開いたドアの間隙からハルカが顔を覗かせた。彼女は目を少しばかり見開いている。
「部屋に明かりがついていたので気になっただけだ。眠れないのか」
「あ、ええ、と……少し勉強を……」
そう言って彼女は越水を部屋に招いた。簡易な机とベッド、クローゼットがあるだけの質素な部屋。机の上にはベテル日本支部で支給されている端末があった。魔界や悪魔、悪魔召喚プログラムについて等、ベテル日本支部の叡智と情報が詰まっている。
「もしや、君は毎晩勉強しているのか」
「ええ、まあ……魔界のことや悪魔のことを全然知らないので、ちゃんと知っておかないとと思いまして……」
どおりで彼女の知識量が多かったわけだ、と越水は納得した。昼間の彼女の活動だけでは到底追いつかぬことだ。彼女が勝手にしていること、そう切り捨てるのは簡単だが、ベテル日本支部職員の健康も預かる立場の越水としては放っておけない。
「十六夜君、勉強熱心なのはよいことだ。だが無理は禁物だ。今夜は……いや、今後、夜は休みたまえ」
「そうですね……お気遣いありがとうございます」
ふあ、とハルカはあくびをした。眠そうに目を擦る。ただでさえ彼女は秘書とメイド、二足の草鞋を履いている。そこに自主学習となると、かなりの負担になるだろう。眠いのも当然だ。
「長官、一緒にホットミルクでも飲みませんか」
「君が作るのか?私が作ってもよいが」
「いいえ、私はメイドですから。私が作ります」
そう言ってキッチンに向かう彼女の背中を見送る。しばらくするとガサゴソと物音が聞こえた。越水は息をつき、リビングダイニングに入っていく。
「どうぞ、長官」
二つカップを持ったハルカがテーブルに座った。カップは白い液体で満たされ、湯気からは甘い香りがする。越水が一口含むと、乳脂肪の優しさと蜂蜜の甘さが舌の上に広がった。向かい合って座る彼女はシンプルなパジャマを着ていて、秘書でもメイドでもない顔を見せていた。両手で大事そうにカップを持つ仕草は、大人の女性というよりは少女に近い。
「十六夜君、魔界や悪魔のことをもっと知りたいと思うか」
尋ねると、彼女はカップをテーブルに置いた。数秒液体の揺らめきを眺めていたが、顔を上げた。
「そうですね。仕事に必要というのもありますが、私自身もっと知りたいなと思ってまして」
その眼差しは真摯で、嘘や媚びは含まれていないと思われた。職務と誠実に向き合う姿勢は好ましい。越水は再びホットミルクを飲んだ。あたたかな甘さ、頭がふわりと浮いていく心地だった。
「では、こうしよう。今後は夜の勉強を取り止め、昼間私とともに勉強の時間を取るとしよう。あまり長時間は対応できかねるが、睡眠時間を削るよりはよほどよいだろう」
「えっ、でも……長官はお忙しいですし、それだと長官の負担が増すのでは?」
「君も秘書として勤務し気がついただろう?隙間時間を活用すればよい。もともと手持ち無沙汰だった時間だ、君と有効活用するのもよいだろう」
「ええと……それは……そうですね」
例えば会議までの待機時間、例えばちょっとした移動時間。これまでただの「時間」として消費していたものは多々見受けられる。思い当たる節があるのだろう、ハルカはカップを持つと微笑んだ。
「ありがとうございます、長官。本当に、お優しいのですね」
優しい。これまで言われることのなかった言葉に、越水の眉が片方かすかに動いた。
「ベテル日本支部長官として当然のことをするまでだ」
「ふふ」
事務的に返した越水にハルカの微笑みが返ってくる。彼女はホットミルクを飲み干すと、穏やかな笑みを浮かべていた。メイドでも秘書でもない、「十六夜ハルカ」としての笑みを初めて見たような気がした。
あの夜以降、越水はハルカと端末を見ながら「勉強」に付き合う時間が飛躍的に増えた。些細な隙間時間を活用し、彼女に秘書として、あるいはベテル日本支部職員として持つべき知識を教え込んでいく。彼女は素直で勤勉、教えたことをスポンジの如く吸収していく。その修得速度は目覚ましいものがあり、ほんの少し前まで何も知らぬ一般人だったとは思えぬ量の知識を頭に叩き込んでいった。
「長官、魔界に行く機会はないのですか?」
ある日の執務室でハルカに尋ねられた。彼女は端末に映る荒涼とした魔界の景色を興味深そうに眺めていた。
「魔界には適宜調査部隊を派遣している。常に誰かが魔界の調査に向かっている状況だ」
越水は答えつつ、頭の中で調査状況を描いていた。ベテル日本支部はお世辞にも魔界の全貌を把握しているとは言えない。凶悪な悪魔が跋扈する危険な場所は通常の調査部隊では探索できず、残念ながら未知の領域が多いと言わざるを得ない状況だ。戦闘能力を持つ者がもっといればよいのだが、生憎神造魔人は先の大戦で失われ、唯一残っているのが内政型の越水のみ、なかなか調査が進まないのも道理だった。
「私が調査に随行してはいけませんか?」
身を乗り出し提案するハルカの目には純粋な知的好奇心が輝いていた。魔界。人間の世界とは全く違う悪魔の世界、時折魅入られてしまう研究員がいるが、彼女もそうなのだろうか。越水はため息をついた。
「君は私の秘書だろう。秘書が私のもとを離れてどうする」
「あ……そういえばそうですね、申し訳ありません、長官」
少しばかり落ち込んだ様子のハルカに越水は咳払いをした。
「それに魔界は悪魔が蔓延る場所だ。戦闘能力のない者を派遣するわけにはいかない。君が調査に随行するなどもってのほかだ」
「そうですか……残念です。あ、では」
ハルカはぽんと手を叩いた。そして明るい声で笑う。
「長官と一緒なら大丈夫ですよね!長官、もしも魔界に行くことがあれば私も連れて行ってくださいね!秘書ですもの!」
……やはり彼女といると噛み合っていた歯車が少しズレるような感覚がある。越水はふう、と呆れたように息を吐きながらも慣れ始めている自分に驚きを隠せなかった。
ある朝越水が目を覚ますと、全身に倦怠感が巻き付くような感覚があった。ベッドの中でぱちりと目を覚ますが、起きることができない。しばしそのまま硬直していると、コンコン、とノックの音が響いた。
「長官、おはようございます。お目覚めでしょうか?」
ハルカの声だった。普段なら越水はリビングダイニングにいる時間だ、様子を見に来たというところか。越水は何とか声を出した。
「ああ、起きている」
「あ、おはようございます。入ってもよろしいですか?」
「構わぬ」
返事を返すと、失礼しますと言いながらハルカが入ってきた。黒のパンツスーツに身を包んだ彼女は、真っ直ぐに越水のもとにやって来た。身をかがめ、心配そうに越水を見下ろしている。
「長官、どうなさいました?あまり顔色がよくないようにお見受けしますが」
「ああ、体が怠く起き上がれないのだ」
ハルカは口元に手を当て、まあ、と声を上げた。
「体調が優れないのですね。今日はお休みしましょう」
「……駄目だ。十六夜君」
越水はハルカの手を掴み、少しばかり目を閉じ集中した。その瞬間、越水の分身が生み出される。ハルカは唐突に現れた分身と越水を交互に見遣り、ただただ言葉を失っていた。
「私の分身とともにベテル日本支部に向かってくれ。今日、君は分身と職務を行うように」
「え、で、ですが……体調が優れない長官をお一人にするのは……」
「ベテル日本支部の職務に穴を空ける方が重大だ。私は一人でも問題ない」
ハルカは困惑した様子だったが、越水の鋭い眼差しに射抜かれやがてため息とともに頷いた。
「わかりました。他ならぬ長官のご命令ですから従います。ですが」
ハルカは越水の手を握り、真剣な様子で言った。
「私の助けが必要であれば、すぐにご連絡ください。すぐに戻りますから」
「十六夜君、行くぞ」
分身に呼ばれ、ハルカは立ち上がり彼とともに部屋を出た。部屋を出る前、越水に会釈をした彼女は心配そうだった。
「ふう……」
ようやく一人になった越水は息をついた。玄関の扉が閉まる音がする。分身はハルカとともにベテル日本支部に向かったようだ。今日一日は分身がうまくことを回してくれるだろう。恐らく今夜はハルカから分身のことで質問を受けるはずだ。それまでにある程度肉体を回復させなくては……越水はようやく起き上がりリビングダイニングに向かった。
リビングダイニングのテーブルには、ハルカが用意した朝食が置き去りにされていた。まだほんのりとあたたかい。越水は小さく感謝しながらゆっくりと朝食を摂った。人間を模した肉体に栄養が染み渡る。食欲が減退する不調でなかったことに感謝すべきだろう。
越水はコーヒーを飲みながら、久しぶりに孤独な朝を迎えていた。少し前にハルカが現れて以降、朝は孤独な時間ではなくなった。彼女の挨拶で始まる朝が存外心地よかったことを思い出し、越水はコーヒー混じりの息をついた。誰かが隣にいる時間を経験した越水に、一人の時間はいささか荷が重かった。頭が重くなるのを感じた。
分身は問題なく責務を果たしているだろうか。ハルカとはどのように過ごしているだろうか。一人きりの時間に考えるのはハルカのこと。隙間時間に彼女の質問を受けともに勉強したことを懐かしく感じてしまう。越水はコーヒーを飲み干し、頭を抱えた。
「……不調というのも困りものだな」
体が睡眠を欲している。越水は大人しく寝室に戻ることにした。ベッドに潜り目を閉じた瞬間、ハルカの顔が脳内に滲んだ。
「えっと……長官……とお呼びすればよいのでしょうか」
ベテル日本支部長官執務室。そこに越水……の分身が鎮座している。ハルカは彼を何と呼べばいいのかわからなかった。分身は顔を上げ、ハルカに答える。
「君の呼びやすい呼び方でよい。私も越水ハヤオであることに間違いないのだから」
「わかりました。長官、あの……質問があるのですが」
「なんだ?魔界に関する質問か?」
ハルカは少し驚いた。越水に質問がある、というとほぼ上記の答えが返ってくる。目の前にいる分身も越水である、というのはあながち間違いではないようだ。
「いえ、違います。その……『分身』と仰っていたことについてです」
「何が聞きたい?」
ノートパソコンのキーボードを叩きながら分身はハルカに目を向けた。その切れ長の瞳、真一文字に結んだ唇は越水にそっくりで区別がつかない。ハルカは素朴極まりない質問を口にした。
「分身って何なのですか?ご自宅にも長官がいらっしゃいますよね?」
「そうだな。文字どおりの理解で構わない。越水ハヤオは一度に最大三体まで分身を作り、活動が可能だ。今日のようにな」
「ええと……あなたは長官の分身で……今ご自宅にいらっしゃるのが……」
「本体だ。私はあくまで分身、本体に吸収される定めだ」
「は、はあ……」
十六夜ハルカ、未知に対する吸収力はそれなりにあると自負していたが、早速頭が混乱していた。越水ハヤオはごく普通の人間だと思っていたがそうではないらしい。
「本体が体調不良等で職務を邁進できぬ場合、このように我ら分身が代わりに出勤することがあった。君を含めベテル日本支部の人間には知らせていない。分身のことを知ったのは君が初めてだ、十六夜君」
「そうなのですね。他の職員さんにはこのことは……」
「秘密にしてくれ」
「わかりました」
分身に頭を下げると、分身は満足そうに頷いた。その様子を見たハルカは思わずくすりと笑ってしまった。分身は怪訝そうな顔をする。
「どうした、十六夜君」
「いえ、長官と私の間で秘密ができるなんて思っていなかったので、つい。何だか特別な関係になったような気がしますね」
「……馬鹿なことを言っていないで、他に質問はないか」
ふう、と分身は呆れたように息をつく。そんな越水を見るのも新鮮で、ハルカは笑ってしまった。
「いいえ、ありません」
微笑みながらもハルカは心配していた。自宅に一人残った越水は問題なく過ごせているだろうか。不器用な分身とたわいもない会話をするのも風流だが、やはり越水本人が気になる。ハルカの脳裏に臥せっている越水がよぎった。
「ただいま戻りました、長官」
越水一人の自宅にハルカの声が響いたのは、夜も更けた頃だった。ひとまずの役目を終えた分身が消え、越水は分身の記憶を受け取った。分身とハルカは滞りなく本日の職務をこなしたようだ。
「長官、入ってもよろしいですか?」
コンコン、と控えめなノックが寝室に響いた。入ってもいい、と返事をすると、失礼しますと応答の後ハルカが入ってきた。
「長官、戻りました。お加減はいかがですか?」
ベッドそばにハルカが駆け寄ってくる。孤独で冷たい部屋にハルカの声がじんわりと沁みていく。越水は半身を起こし、彼女に目を向けた。黒いパンツスーツの彼女だが、その顔は秘書というよりは主人を案ずるメイドのものだった。
「ああ、臥せっていたおかげで随分とよくなった。礼を言う」
「いえ、むしろ長官のお世話ができずすみません」
ぺこりと頭を下げた彼女は穏やかに笑った。その笑顔は越水一人の空間では生まれえない優しいもので、見ていると不思議と心が落ち着く。
「十六夜君、少しいいか」
「はい、なんでしょう?」
「君とホットミルクが飲みたい。作ってくれるか」
そう言うと、ハルカは嬉しそうに手を合わせた。
「はい!お作りします、少々お待ちくださいね」
微笑む彼女は楽しそうな足取りで寝室を後にする。その楽しそうな姿を目で追い、越水は約一日振りにベッドから起き上がった。全身を包んでいた倦怠感が薄れ、本調子とまではいかずともひととおり動けそうではある。リビングに向かうと、蜂蜜と牛乳の甘い香りが漂ってきた。鼻歌を歌いながらマグカップを二つ持つ彼女は、妙に楽しそうに見えた。
「はい、ちょうどホットミルクが出来上がりました。どうぞ」
「ありがとう」
ハルカと向かい合って座り、マグカップに触れた。あたたかいが火傷を負わせる温度ではなく、手に馴染み心地よい。ホットミルクを一口飲むと、優しい味わいと甘味が広がっていく。ハルカはのんびりとホットミルクを飲みながら越水に柔らかな目を向けていた。
「……どうした、十六夜君。私をまじまじと見て」
「長官が私に甘えてくださったようで、とても嬉しいんです」
「私が、君に甘える?」
「ええ」
ハルカはマグカップを両手で大事そうに包み込み、穏やかな口調で語った。
「長官が私に何かしてほしいと言ってくださったの、今回が初めてではありませんか?メイドとして、秘書として、信頼していただけたのかなあと思いまして」
「……そう、だろうか」
越水は破顔するハルカを怪訝に見つめていた。ハルカが言うような考えがあって口にしたわけではないが、彼女が喜んでいるのを見るとそれでいいのではないかと納得する。越水はホットミルクを一口含んだ。あたたかいホットミルクは柔らかな甘味と口触りで安心感があった。