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回想 陸
サヤは死んだ。二十歳を迎えることなく死んでしまった。俺に遺されたのは彼女から受け取ったアヤカシだけだった。
「そうですか……サヤが……」
サヤの家に向かい彼女を養育していた親戚に報告すると、親戚は目を伏せた。客間に沈黙が流れた。俺は黙って正座していたが、畳に手をつき頭を下げた。深く、親戚の顔が見えないほどに。
「申し訳ございません。俺は……いえ、私はサヤを守れませんでした。大切な許嫁を守ることができませんでした。そのうえ私自身おめおめと生き残り、言葉もありません」
「顔を上げてください、八雲さん」
親戚の声に、俺は顔を上げた。親戚は少しぎこちないながらも、穏やかな笑顔を浮かべていた。
「あなたと結婚する前に亡くなってしまいとても残念ですが、あなたが見守る中でサヤは息を引き取ったと聞いています。少し安心しました。戦いの中に身を置けば、あなたの知らぬところで亡くなっていてもおかしくなかったのですから。サヤは幸せだったと思います」
「…………」
サヤは、本当に幸せだっただろうか。……いや、俺が疑ってはいけない。きっと幸せだったはずだ。そう思い込み、信じたかった。今でも強く信じている。
「サヤの葬儀はこちらで手配します。ぜひ最期の見送りをお願いします。サヤもきっと、あなたに見送られたいと思っているはずですから」
俺はもっと責められてもおかしくなかった。俺は何も守れなかった。両親も、サヤも。たった一つ守れたのは自分の命だけ。俺は歯噛みしながらはい、と答えることしかできなかった。
サヤの葬儀には多くの者が訪れた。薄い繋がりではあるが血族、サヤの学生時代の友人、ベテル日本支部の職員達。皆一様に沈痛な面持ちで、サヤが生前築いてきた人間関係を感じさせた。
無論、ベテル日本支部長官、越水ハヤオもいた。奴は険しい顔をしていたが、俺に気付くと話しかけてきた。
「彼女が君の婚約者であったことは聞いている。すまない。私の指揮の甘さで彼女を死に追いやった。……償う方法もない」
「謝るな」
俺は拳を握りしめていた。爪が掌に食い込み、ぷつりと皮膚を破った。
越水に並々ならぬ思いがあるのは確かだった。お前のせいでサヤは死んだと責めることは簡単だ。だが越水の責任ではないことも重々承知していた。俺がいながらサヤを守ることができなかった。誰に責任があるかと言われれば、間違いなく俺なのだ。唇を噛み締め俺は言葉を紡いだ。
「サヤは危険だと知りながら、自らベテル日本支部に入った。それは間違いない。あの日戦いに赴いたのも、命令があってのことだがサヤの意思だ。俺はその意思を否定したくない」
「……」
越水は静かに俺の言葉を聞いていた。下手なことを言わぬあたり賢明だった。俺が見つめる先には、サヤの遺影が飾られていた。白い百合に囲まれた写真の中の彼女は、明るく笑っていた。いつ、どこで、どのように撮った写真なのだろうとぼんやり思いながら、サヤと二人で撮った写真の少なさに心の底から後悔した。せめて遺影だけでも欲しいと思った。
葬儀は粛々と進んでいく。棺の中のサヤは生気がないものの美しい状態だった。本当は調子が悪いだけで、すぐにでも起き上がりそうな気がした。ショウヘイくん、とまた呼んでくれるかもしれない、と腑抜けたことを思った。だが俺は知っていた。その胸にはナアマの手に貫かれた空洞がある。もう二度と起き上がることも、俺の名を呼ぶこともない。
葬儀の最中は、不思議と涙は流れなかった。他の参列者の手前、泣くことなどできないと思っていたのだろうか。生前サヤと仲良くしていただろう友人や同僚達の中には、涙を流している者もいたというのに。
サヤの遺体や遺骨は、当然ながら彼女を養育していた親戚が引き取り所定の手続きを済ませた。彼女の遺骨は東雲家の墓に眠ることになった。
四十九日が過ぎ、俺は東雲家に向かった。客間に通され、親戚と顔を合わせた。正座した俺は、アヤカシを机に置き頭を下げた。親戚はきょとんとした顔だった。
「この刀はアヤカシといいます。生前、サヤから譲り受けたものです。代々東雲家の当主に引き継がれるものと聞いています。サヤの夫であれば私が持つ資格もあるのかもしれませんが、サヤを守ることができなかった私が持っているべきではありません」
「顔を上げてください、八雲さん」
顔を上げると、懐かしむような笑顔の親戚と目が合った。
「アヤカシの話はサヤから聞いていました。あなたに譲るとも言っていましたよ。サヤはあなたにこう言ったはずです。東雲家の現当主は私なのだから八雲さんに譲っても構わない、と」
「ええ……それは、そうですが」
サヤの言葉が蘇った。
――現当主の私がいいって言ってるんだから、いいんだよ。
確かにそう言っていた。しかし、あのときとは状況が違うはずだった。正座したまま硬直する俺に、親戚は穏やかに告げた。
「私は何よりもサヤの意思を尊重したいと考えています。それに、アヤカシを私どもが受け取ったところで、活用できる者がおりません。サヤがあなたに渡したいと言い、誰よりも活用できるのがあなたなのであれば、あなたの手元にあるべきものです。……そうだ、八雲さん。あなたにお見せしたいものがあります」
親戚は目に涙を滲ませ、机に何かを置いた。……銀色に輝く指輪だった。
「これはサヤが身につけていたものです。左手薬指にはめておりました。恐らく、あなたとの結婚指輪ではありませんか?」
「はい……間違いありません」
俺の声は震えていた。飾り気のない指輪だが、俺が見間違えるはずもなかった。俺と揃いの大きさ違いの指輪。当然、俺の左手薬指にもはめているものだった。
「墓に入れようか迷ったのですが、あなたの意思を確認しておきたかったのです。もしもあなたがお受け取りいただけるなら、そちらの方がよいと思いまして」
俺は机の上の指輪に手を伸ばした。傍目にはただの銀色の小さな輪だった。特別な装飾が施されたものでも、特段華美なものでもない――言ってしまえば地味な指輪だった。それでも俺には何よりも重要な意味があった。俺の掌の上で、指輪はきらりと輝いていた。サヤはもういないが、彼女が笑いかけてくれるような……そんな気がした。
「俺が……私が、持っていてもよいのですか」
「もちろんです。サヤもあなたと一緒にいる方が嬉しいでしょう」
掌にある指輪は、俺の指には入らなかった。しかしそれでも……それでも、大切な指輪だった。サヤがいなくなってから初めて泣いた。涙が溢れ零れて止まらなかった。
四十九日も過ぎ、人ひとり亡くなったことも過ぎ去り日常生活が戻る頃、俺は東雲家の墓の前に立っていた。霊園の中に佇む灰色の墓石、サヤはこの下の住人となった。彼女は今も、先祖代々の墓の下で両親とともに眠っている。
俺の左手薬指には結婚指輪が光っていた。首には鎖に通したサヤの結婚指輪も身につけていた。首元に触れるとサヤがいるような気がした。……もう二度と、手放したくない。
「……ジョカ、と言ったな」
墓の前で呟くと、背後に悪魔の気配が立ち上った。そいつはふふ、と意味深に笑い、
「そうじゃ。妾はジョカ」
答え、俺の隣に立った。俺は迷いなくアヤカシを抜き、ジョカの喉元に突きつけた。白銀の刃の煌めきは指輪の輝きに似ていた。
「俺の隣に立つな。斬るぞ」
「真に斬りたければ斬るがいい。じゃが妾にはわかるぞ。妾に聞きたいことがあるのじゃろう?」
悪魔すら断ち切る刀を突きつけられているというのに、ジョカは冷静だった。それどころか余裕すら纏っているように見えた。忌々しい……ジョカは、サヤが死んだ日からずっと俺に付き纏っていた。何を言うでもなく、意味深に。俺が自ら話しかけるのを待っている風だった。
「人間だけの世界を創る、お前はそう言った」
「ああ、言ったぞ」
「サヤが生まれ変わる。こうも言ったな」
「言ったのう」
「どういう意味だ」
死者と化したサヤに思いを馳せながらも、憎むべき悪魔の言葉が離れなかった。もしも人間だけの世が創れるとすれば願ってもみないことだ。サヤや両親のように殺される者も、悪魔に大切なものを奪われる者もいなくなる。ベテル日本支部は悪魔に詳しいようだったが、そこでも聞いたことのない話だった。
「人の世ではないところに、宇宙の理を書き換える座があるのじゃ。そこに辿り着けるのは選ばれしナホビノのみ。汝は妾の知恵、汝と妾ならばその座を扱うことができる。さすれば、汝と妾が目指す世界……完全な人の世の創世が成される」
「貴様は悪魔だろう。悪魔が人間だけの世界を創世するとは思えない。……何を企んでいる」
俺はアヤカシを持つ手はそのままに、ジョカを鋭く睨んだ。サヤを死なせる遠因となったベテル日本支部は信用できないが、だからといって突然降って湧いた話をするジョカを信じられるはずもなかった。サヤを餌に俺を利用しようとしている、そう思うのは当然の発想だった。
「疑われるのも仕方ないが、こう見えて妾は人間に好意を抱いておるぞ?愚直で、それゆえに強大な力をも持つ者達……それこそ、今の汝のように」
ジョカはアヤカシの刃の峰に人差し指を滑らせた。いくら斬れぬ部分とはいえ、堂々と触れるその自信は大したものだった。
「汝も秩序の天使どもには嫌気がさしておろう。どうじゃ、妾の話をもっと聞きたいだろう?肝胆相照らしたあの小娘にも関わりがあることじゃぞ」
……たとえ俺を利用するのだとしても。サヤの名が出れば、俺は冷静ではいられなかった。俺はアヤカシを鞘に納めた。刀は向けずとも、視線でジョカを射抜いた。
「いい目じゃ。それでこそ妾の知恵。汝には全てを教えようぞ」
ジョカの不敵な笑みを、俺は睨みながら受け止めていた。
サヤがこの世を去ってから数ヶ月。季節は巡り、再び春がやって来た。春――からたちの花が咲く季節。俺は東雲家を訪れた。春になると東雲家の庭が俺を呼んでいる気がした。
からたちの木は見事な白い花を咲かせていた。和やかな陽気によく似合う、可憐な花。サヤとともに開花を喜ぶと思っていたが、隣にサヤはいなかった。代わりに俺の手にはロックグラス。透明なグラスには氷と黄色い酒が注がれていた。
「八雲さん、二十歳になったのでしょう。もしよければ、からたちの酒を飲んでいってください。あなたと一緒に飲みたい、と常々サヤは言っていましたから」
との親戚の申し出により分けてもらったものだ。この時期、本来なら――サヤが生きていたなら、ともに酒が飲める年齢だった。きっと正式に結婚もしていただろう。俺はロックグラスを握りしめ、酒を一口飲んだ。砂糖と柑橘類の甘みの中に、アルコール特有の苦味が溢れた。昔飲んだからたちのジュースを思い出した。あの懐かしい味とはまた違う、趣のある味だった。
――けっこんするときには、いっしょにからたちのおさけ、飲もうね。
幼いサヤの言葉が蘇った。子供らしい辿々しい言葉、もしもサヤが生きていれば一緒に美味しいね、などと言っていただろうか。……美味かった。が、できればサヤとその味を共有したかった。
「人間は相変わらずよくわからぬものを口にするのう」
一歩引いた場所で俺を見つめるジョカの風情を解さぬ声が聞こえた。……無視した。悪魔の情のない感想など聞いてやる必要もなかった。
「八雲……」
からたちの花の陰からグレムリンが顔を出した。彼女は意気消沈した様子で、口がへの字に曲がっていた。
「サヤ、死んじゃったんだよね」
「そうだ」
「そっか……ホントだったんだ。八雲もサヤも全然来ないからどうしたのかなって思ってたんだけど」
グレムリンの声は落ち込み、深い悲しみを感じさせた。悪魔でも人の死を嘆き悲しむ者もいる。それはわかっているが、サヤを殺したのは他ならぬ悪魔だ。悪魔に対する怒りが堪えられなかった。
「グレムリン、俺はサヤを殺した悪魔を追う。どこまでも地の果てまでも追い詰め、必ず償わせる」
「八雲……」
「お前に会うのもこれきりかもしれない。世話になった、グレムリン」
俺はグラスの酒を飲み干すと、グレムリンに背を向けた。彼女を見ていると斬ってしまいそうになる。ただ、彼女が悪魔であるゆえに。
東雲家を後にし、俺は近くの公園に足を運んだ。穏やかな春風が吹き抜ける中、小さな空き地のような公園に辿り着いた。サヤとよく遊んだ公園だ。ブランコ、低い滑り台、鉄棒は全て錆びつき色褪せていた。
「ジャックフロスト」
茂みに向かって声をかけると、ガサガサと音を立てジャックフロストが現れた。
「ヒホ!八雲クン!」
ジャックフロストは片手を上げて楽しそうな声を上げたが、俺と目が合うとびくりと身を竦めた。子供の頃とは様子が違うことを察したのかもしれなかった。
「八雲クン、久しぶりだホ。東雲クンはいないホ?」
きょろきょろと辺りを見回す彼は無邪気だった。そんな彼に、俺は事実を告げねばならなかった。
「……サヤは死んだ」
「え!?」
ジャックフロストは飛び上がって驚いた。表情は変わらないはずだが、驚き、悲しみ、そんなものが混ざった目で俺を見つめていた。
「……東雲クン、いなくなっちゃったホ?」
「ああ。悪魔に殺された」
ジャックフロストは硬直し、何も言わなくなった。これほど静かなジャックフロストは初めて見た。俺の脳裏には思い出したくもない光景が浮かび上がっていた。
――赤黒い血。微笑むサヤ。赤い中輝く指輪の銀色。ナアマの笑い声……。忘れたいはずだが忘れられず、また忘れてはならないと思っていた。奥歯を噛み締めた。
「ジャックフロスト、お前に別れを言いに来た。もうお前とは会うことはないだろう」
「ヒホ!?な、なんでホ?」
ジャックフロストは慌てた様子で両手足をばたつかせた。その声は純粋な驚きで満ちていた。
「サヤは悪魔に殺された。無論、お前は無関係だとわかっている。だが」
腰に差したアヤカシを強く握りしめた。冷たく硬い鞘の感触は物騒だが、安心できる部分もあった。今となっては数少ないサヤの形見なのだから。
「お前を見ていると斬り捨ててしまいそうになる」
「……オイラが悪魔だからヒホ?」
首を傾げたジャックフロストに、俺は言葉もなく頷いた。ジャックフロストは俯き、寂しそうに言った。
「わかったホ。オイラ、何も言わないホ。でも八雲クン、覚えててほしいヒホ。オイラはずっとここにいるから、会いにきてもいいヒホ」
「……そうか」
俺は最後の理性でジャックフロストに笑いかけることができた。サヤを知り、サヤによくしてくれた悪魔を斬り捨てずに済み安堵していた。
サヤを失いグレムリン、ジャックフロストと決別した俺は、悪魔を滅ぼすことにした。無論悪魔はどこからともなく無限に湧いてくる、完全に駆逐することなど現実的には不可能だが、俺はそのつもりだった。自然とベテル日本支部には近寄らなくなった。サヤが死ぬ遠因となった組織に用はない。元を辿れば天使も悪魔の一種にすぎない、悪魔に従い悪魔を滅ぼすなどおかしな話だ。
戦っている間は――悪魔を斬り捨てている間は、全てを忘れられた。サヤを守れなかったことへの償いになるとも思った。そうして悪魔を狩り続けていればいずれカディシュトゥの耳にも入り、俺を直接狙いに来るかもしれない。そうなれば好都合だった。
忌々しいがジョカの助言にも従い、ベテル日本支部に忍び込み創世に関わる資料も盗み見た。ジョカのいう「創世」について全く同じことが記載されていた。そこでようやく、俺にはサヤのいない世界で生きる理由が生まれた。
ジョカと合一しナホビノになり、悪魔のいない世界を創世する。
ジョカ亡き今叶わぬ理想だが、本気で追い求めていた。そしてその過程で悪魔を可能な限り狩り尽くし、サヤの仇を討つ。二つの指輪とアヤカシ、それだけを頼りに俺は生き延びていた。
創世の王座の場所がようやくわかった頃、ジョカは俺をかばい死んだ。また俺は生き残ってしまった。生きる理由の半分とナホビノになる資格を失った俺は、これからどう生きていくべきなのか。アヤカシを握り、再び考えるときが訪れていた。
サヤは死んだ。二十歳を迎えることなく死んでしまった。俺に遺されたのは彼女から受け取ったアヤカシだけだった。
「そうですか……サヤが……」
サヤの家に向かい彼女を養育していた親戚に報告すると、親戚は目を伏せた。客間に沈黙が流れた。俺は黙って正座していたが、畳に手をつき頭を下げた。深く、親戚の顔が見えないほどに。
「申し訳ございません。俺は……いえ、私はサヤを守れませんでした。大切な許嫁を守ることができませんでした。そのうえ私自身おめおめと生き残り、言葉もありません」
「顔を上げてください、八雲さん」
親戚の声に、俺は顔を上げた。親戚は少しぎこちないながらも、穏やかな笑顔を浮かべていた。
「あなたと結婚する前に亡くなってしまいとても残念ですが、あなたが見守る中でサヤは息を引き取ったと聞いています。少し安心しました。戦いの中に身を置けば、あなたの知らぬところで亡くなっていてもおかしくなかったのですから。サヤは幸せだったと思います」
「…………」
サヤは、本当に幸せだっただろうか。……いや、俺が疑ってはいけない。きっと幸せだったはずだ。そう思い込み、信じたかった。今でも強く信じている。
「サヤの葬儀はこちらで手配します。ぜひ最期の見送りをお願いします。サヤもきっと、あなたに見送られたいと思っているはずですから」
俺はもっと責められてもおかしくなかった。俺は何も守れなかった。両親も、サヤも。たった一つ守れたのは自分の命だけ。俺は歯噛みしながらはい、と答えることしかできなかった。
サヤの葬儀には多くの者が訪れた。薄い繋がりではあるが血族、サヤの学生時代の友人、ベテル日本支部の職員達。皆一様に沈痛な面持ちで、サヤが生前築いてきた人間関係を感じさせた。
無論、ベテル日本支部長官、越水ハヤオもいた。奴は険しい顔をしていたが、俺に気付くと話しかけてきた。
「彼女が君の婚約者であったことは聞いている。すまない。私の指揮の甘さで彼女を死に追いやった。……償う方法もない」
「謝るな」
俺は拳を握りしめていた。爪が掌に食い込み、ぷつりと皮膚を破った。
越水に並々ならぬ思いがあるのは確かだった。お前のせいでサヤは死んだと責めることは簡単だ。だが越水の責任ではないことも重々承知していた。俺がいながらサヤを守ることができなかった。誰に責任があるかと言われれば、間違いなく俺なのだ。唇を噛み締め俺は言葉を紡いだ。
「サヤは危険だと知りながら、自らベテル日本支部に入った。それは間違いない。あの日戦いに赴いたのも、命令があってのことだがサヤの意思だ。俺はその意思を否定したくない」
「……」
越水は静かに俺の言葉を聞いていた。下手なことを言わぬあたり賢明だった。俺が見つめる先には、サヤの遺影が飾られていた。白い百合に囲まれた写真の中の彼女は、明るく笑っていた。いつ、どこで、どのように撮った写真なのだろうとぼんやり思いながら、サヤと二人で撮った写真の少なさに心の底から後悔した。せめて遺影だけでも欲しいと思った。
葬儀は粛々と進んでいく。棺の中のサヤは生気がないものの美しい状態だった。本当は調子が悪いだけで、すぐにでも起き上がりそうな気がした。ショウヘイくん、とまた呼んでくれるかもしれない、と腑抜けたことを思った。だが俺は知っていた。その胸にはナアマの手に貫かれた空洞がある。もう二度と起き上がることも、俺の名を呼ぶこともない。
葬儀の最中は、不思議と涙は流れなかった。他の参列者の手前、泣くことなどできないと思っていたのだろうか。生前サヤと仲良くしていただろう友人や同僚達の中には、涙を流している者もいたというのに。
サヤの遺体や遺骨は、当然ながら彼女を養育していた親戚が引き取り所定の手続きを済ませた。彼女の遺骨は東雲家の墓に眠ることになった。
四十九日が過ぎ、俺は東雲家に向かった。客間に通され、親戚と顔を合わせた。正座した俺は、アヤカシを机に置き頭を下げた。親戚はきょとんとした顔だった。
「この刀はアヤカシといいます。生前、サヤから譲り受けたものです。代々東雲家の当主に引き継がれるものと聞いています。サヤの夫であれば私が持つ資格もあるのかもしれませんが、サヤを守ることができなかった私が持っているべきではありません」
「顔を上げてください、八雲さん」
顔を上げると、懐かしむような笑顔の親戚と目が合った。
「アヤカシの話はサヤから聞いていました。あなたに譲るとも言っていましたよ。サヤはあなたにこう言ったはずです。東雲家の現当主は私なのだから八雲さんに譲っても構わない、と」
「ええ……それは、そうですが」
サヤの言葉が蘇った。
――現当主の私がいいって言ってるんだから、いいんだよ。
確かにそう言っていた。しかし、あのときとは状況が違うはずだった。正座したまま硬直する俺に、親戚は穏やかに告げた。
「私は何よりもサヤの意思を尊重したいと考えています。それに、アヤカシを私どもが受け取ったところで、活用できる者がおりません。サヤがあなたに渡したいと言い、誰よりも活用できるのがあなたなのであれば、あなたの手元にあるべきものです。……そうだ、八雲さん。あなたにお見せしたいものがあります」
親戚は目に涙を滲ませ、机に何かを置いた。……銀色に輝く指輪だった。
「これはサヤが身につけていたものです。左手薬指にはめておりました。恐らく、あなたとの結婚指輪ではありませんか?」
「はい……間違いありません」
俺の声は震えていた。飾り気のない指輪だが、俺が見間違えるはずもなかった。俺と揃いの大きさ違いの指輪。当然、俺の左手薬指にもはめているものだった。
「墓に入れようか迷ったのですが、あなたの意思を確認しておきたかったのです。もしもあなたがお受け取りいただけるなら、そちらの方がよいと思いまして」
俺は机の上の指輪に手を伸ばした。傍目にはただの銀色の小さな輪だった。特別な装飾が施されたものでも、特段華美なものでもない――言ってしまえば地味な指輪だった。それでも俺には何よりも重要な意味があった。俺の掌の上で、指輪はきらりと輝いていた。サヤはもういないが、彼女が笑いかけてくれるような……そんな気がした。
「俺が……私が、持っていてもよいのですか」
「もちろんです。サヤもあなたと一緒にいる方が嬉しいでしょう」
掌にある指輪は、俺の指には入らなかった。しかしそれでも……それでも、大切な指輪だった。サヤがいなくなってから初めて泣いた。涙が溢れ零れて止まらなかった。
四十九日も過ぎ、人ひとり亡くなったことも過ぎ去り日常生活が戻る頃、俺は東雲家の墓の前に立っていた。霊園の中に佇む灰色の墓石、サヤはこの下の住人となった。彼女は今も、先祖代々の墓の下で両親とともに眠っている。
俺の左手薬指には結婚指輪が光っていた。首には鎖に通したサヤの結婚指輪も身につけていた。首元に触れるとサヤがいるような気がした。……もう二度と、手放したくない。
「……ジョカ、と言ったな」
墓の前で呟くと、背後に悪魔の気配が立ち上った。そいつはふふ、と意味深に笑い、
「そうじゃ。妾はジョカ」
答え、俺の隣に立った。俺は迷いなくアヤカシを抜き、ジョカの喉元に突きつけた。白銀の刃の煌めきは指輪の輝きに似ていた。
「俺の隣に立つな。斬るぞ」
「真に斬りたければ斬るがいい。じゃが妾にはわかるぞ。妾に聞きたいことがあるのじゃろう?」
悪魔すら断ち切る刀を突きつけられているというのに、ジョカは冷静だった。それどころか余裕すら纏っているように見えた。忌々しい……ジョカは、サヤが死んだ日からずっと俺に付き纏っていた。何を言うでもなく、意味深に。俺が自ら話しかけるのを待っている風だった。
「人間だけの世界を創る、お前はそう言った」
「ああ、言ったぞ」
「サヤが生まれ変わる。こうも言ったな」
「言ったのう」
「どういう意味だ」
死者と化したサヤに思いを馳せながらも、憎むべき悪魔の言葉が離れなかった。もしも人間だけの世が創れるとすれば願ってもみないことだ。サヤや両親のように殺される者も、悪魔に大切なものを奪われる者もいなくなる。ベテル日本支部は悪魔に詳しいようだったが、そこでも聞いたことのない話だった。
「人の世ではないところに、宇宙の理を書き換える座があるのじゃ。そこに辿り着けるのは選ばれしナホビノのみ。汝は妾の知恵、汝と妾ならばその座を扱うことができる。さすれば、汝と妾が目指す世界……完全な人の世の創世が成される」
「貴様は悪魔だろう。悪魔が人間だけの世界を創世するとは思えない。……何を企んでいる」
俺はアヤカシを持つ手はそのままに、ジョカを鋭く睨んだ。サヤを死なせる遠因となったベテル日本支部は信用できないが、だからといって突然降って湧いた話をするジョカを信じられるはずもなかった。サヤを餌に俺を利用しようとしている、そう思うのは当然の発想だった。
「疑われるのも仕方ないが、こう見えて妾は人間に好意を抱いておるぞ?愚直で、それゆえに強大な力をも持つ者達……それこそ、今の汝のように」
ジョカはアヤカシの刃の峰に人差し指を滑らせた。いくら斬れぬ部分とはいえ、堂々と触れるその自信は大したものだった。
「汝も秩序の天使どもには嫌気がさしておろう。どうじゃ、妾の話をもっと聞きたいだろう?肝胆相照らしたあの小娘にも関わりがあることじゃぞ」
……たとえ俺を利用するのだとしても。サヤの名が出れば、俺は冷静ではいられなかった。俺はアヤカシを鞘に納めた。刀は向けずとも、視線でジョカを射抜いた。
「いい目じゃ。それでこそ妾の知恵。汝には全てを教えようぞ」
ジョカの不敵な笑みを、俺は睨みながら受け止めていた。
サヤがこの世を去ってから数ヶ月。季節は巡り、再び春がやって来た。春――からたちの花が咲く季節。俺は東雲家を訪れた。春になると東雲家の庭が俺を呼んでいる気がした。
からたちの木は見事な白い花を咲かせていた。和やかな陽気によく似合う、可憐な花。サヤとともに開花を喜ぶと思っていたが、隣にサヤはいなかった。代わりに俺の手にはロックグラス。透明なグラスには氷と黄色い酒が注がれていた。
「八雲さん、二十歳になったのでしょう。もしよければ、からたちの酒を飲んでいってください。あなたと一緒に飲みたい、と常々サヤは言っていましたから」
との親戚の申し出により分けてもらったものだ。この時期、本来なら――サヤが生きていたなら、ともに酒が飲める年齢だった。きっと正式に結婚もしていただろう。俺はロックグラスを握りしめ、酒を一口飲んだ。砂糖と柑橘類の甘みの中に、アルコール特有の苦味が溢れた。昔飲んだからたちのジュースを思い出した。あの懐かしい味とはまた違う、趣のある味だった。
――けっこんするときには、いっしょにからたちのおさけ、飲もうね。
幼いサヤの言葉が蘇った。子供らしい辿々しい言葉、もしもサヤが生きていれば一緒に美味しいね、などと言っていただろうか。……美味かった。が、できればサヤとその味を共有したかった。
「人間は相変わらずよくわからぬものを口にするのう」
一歩引いた場所で俺を見つめるジョカの風情を解さぬ声が聞こえた。……無視した。悪魔の情のない感想など聞いてやる必要もなかった。
「八雲……」
からたちの花の陰からグレムリンが顔を出した。彼女は意気消沈した様子で、口がへの字に曲がっていた。
「サヤ、死んじゃったんだよね」
「そうだ」
「そっか……ホントだったんだ。八雲もサヤも全然来ないからどうしたのかなって思ってたんだけど」
グレムリンの声は落ち込み、深い悲しみを感じさせた。悪魔でも人の死を嘆き悲しむ者もいる。それはわかっているが、サヤを殺したのは他ならぬ悪魔だ。悪魔に対する怒りが堪えられなかった。
「グレムリン、俺はサヤを殺した悪魔を追う。どこまでも地の果てまでも追い詰め、必ず償わせる」
「八雲……」
「お前に会うのもこれきりかもしれない。世話になった、グレムリン」
俺はグラスの酒を飲み干すと、グレムリンに背を向けた。彼女を見ていると斬ってしまいそうになる。ただ、彼女が悪魔であるゆえに。
東雲家を後にし、俺は近くの公園に足を運んだ。穏やかな春風が吹き抜ける中、小さな空き地のような公園に辿り着いた。サヤとよく遊んだ公園だ。ブランコ、低い滑り台、鉄棒は全て錆びつき色褪せていた。
「ジャックフロスト」
茂みに向かって声をかけると、ガサガサと音を立てジャックフロストが現れた。
「ヒホ!八雲クン!」
ジャックフロストは片手を上げて楽しそうな声を上げたが、俺と目が合うとびくりと身を竦めた。子供の頃とは様子が違うことを察したのかもしれなかった。
「八雲クン、久しぶりだホ。東雲クンはいないホ?」
きょろきょろと辺りを見回す彼は無邪気だった。そんな彼に、俺は事実を告げねばならなかった。
「……サヤは死んだ」
「え!?」
ジャックフロストは飛び上がって驚いた。表情は変わらないはずだが、驚き、悲しみ、そんなものが混ざった目で俺を見つめていた。
「……東雲クン、いなくなっちゃったホ?」
「ああ。悪魔に殺された」
ジャックフロストは硬直し、何も言わなくなった。これほど静かなジャックフロストは初めて見た。俺の脳裏には思い出したくもない光景が浮かび上がっていた。
――赤黒い血。微笑むサヤ。赤い中輝く指輪の銀色。ナアマの笑い声……。忘れたいはずだが忘れられず、また忘れてはならないと思っていた。奥歯を噛み締めた。
「ジャックフロスト、お前に別れを言いに来た。もうお前とは会うことはないだろう」
「ヒホ!?な、なんでホ?」
ジャックフロストは慌てた様子で両手足をばたつかせた。その声は純粋な驚きで満ちていた。
「サヤは悪魔に殺された。無論、お前は無関係だとわかっている。だが」
腰に差したアヤカシを強く握りしめた。冷たく硬い鞘の感触は物騒だが、安心できる部分もあった。今となっては数少ないサヤの形見なのだから。
「お前を見ていると斬り捨ててしまいそうになる」
「……オイラが悪魔だからヒホ?」
首を傾げたジャックフロストに、俺は言葉もなく頷いた。ジャックフロストは俯き、寂しそうに言った。
「わかったホ。オイラ、何も言わないホ。でも八雲クン、覚えててほしいヒホ。オイラはずっとここにいるから、会いにきてもいいヒホ」
「……そうか」
俺は最後の理性でジャックフロストに笑いかけることができた。サヤを知り、サヤによくしてくれた悪魔を斬り捨てずに済み安堵していた。
サヤを失いグレムリン、ジャックフロストと決別した俺は、悪魔を滅ぼすことにした。無論悪魔はどこからともなく無限に湧いてくる、完全に駆逐することなど現実的には不可能だが、俺はそのつもりだった。自然とベテル日本支部には近寄らなくなった。サヤが死ぬ遠因となった組織に用はない。元を辿れば天使も悪魔の一種にすぎない、悪魔に従い悪魔を滅ぼすなどおかしな話だ。
戦っている間は――悪魔を斬り捨てている間は、全てを忘れられた。サヤを守れなかったことへの償いになるとも思った。そうして悪魔を狩り続けていればいずれカディシュトゥの耳にも入り、俺を直接狙いに来るかもしれない。そうなれば好都合だった。
忌々しいがジョカの助言にも従い、ベテル日本支部に忍び込み創世に関わる資料も盗み見た。ジョカのいう「創世」について全く同じことが記載されていた。そこでようやく、俺にはサヤのいない世界で生きる理由が生まれた。
ジョカと合一しナホビノになり、悪魔のいない世界を創世する。
ジョカ亡き今叶わぬ理想だが、本気で追い求めていた。そしてその過程で悪魔を可能な限り狩り尽くし、サヤの仇を討つ。二つの指輪とアヤカシ、それだけを頼りに俺は生き延びていた。
創世の王座の場所がようやくわかった頃、ジョカは俺をかばい死んだ。また俺は生き残ってしまった。生きる理由の半分とナホビノになる資格を失った俺は、これからどう生きていくべきなのか。アヤカシを握り、再び考えるときが訪れていた。
