行き過ぎて後に
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回想 伍
普段どおりベテル日本支部から悪魔を討伐するよう指示を受け、サヤと俺は戦場に向かった。悪魔との戦いは激化しており、戦いに慣れたサヤと俺でも手を焼くことが増えていた。この日も何とか悪魔を全滅させたものの、サヤは肩で息をしていた。
「サヤ」
俺はそっとサヤの肩を抱き寄せた。サヤは俺に気付くと力無く笑っていた。
「どうしたの、ショウヘイくん。泣きそうな顔してるよ」
「……そうか?」
自覚はなかった。が、サヤを抱き寄せる手に妙に力がこもっていた。こうしていないとサヤが消えてしまいそうな――そんな気がしたからだ。
その日はベテル日本支部への報告を終え、二人で俺の家に立ち寄ることにした。少しでもサヤの手を煩わせたくなかった。
「サヤ、少し座っていろ。茶を淹れてくる」
「え、いいの?」
「ああ」
サヤを座敷に通し、俺は茶を淹れることにした。急須に茶葉を入れ、少し温度が低い湯を入れる。茶葉が開くにつれ、落ち着いたよい香りが漂い始める。父親が言っていた。
「ショウヘイ、いついかなるときも冷静さを忘れるな。腹立たしいことや悲しいことがあっても、できる限り自分を保て」
父親が死んでから随分と時間が経ったが、今でも覚えている言葉だった。そのとおりにできているかというと……正直、難しい。そのときも、俺は胸の奥で蠢く嫌な予感を払うために必死だった。茶を淹れている間、俺はずっと深呼吸をしていた。
二人分の茶が入り、座敷に持っていく。サヤは背筋を伸ばした正座で俺を待っており、育ちのよさを感じさせた。
「茶請けは何もないが」
「気にしないで。ありがとう、ショウヘイくん」
サヤは疲れた様子だったが、少し笑顔に余裕が戻ったように見えた。透き通った黄緑の茶を二人で飲む。ほどよい苦味と渋味は心を落ち着かせるには適役だった。
「美味しい。ショウヘイくん、お茶淹れるの上手だね」
「……そうか、ありがとう」
「美味しい……」
サヤは両手で湯呑みを持ち、ほぅ、と息をついた。穏やかな笑顔はサヤによく似合い、可愛らしく上品だった。よかった。ほんの少しでもサヤに肩の荷を下ろしてほしかった。せめて、俺とともにいる間だけでも。
「ありがとう、ショウヘイくん」
「礼はいい。落ち着いたか?」
「え?」
サヤはきょとんとした顔をした。
「私、変な感じだった?」
「ああ、疲れた様子だった。……無理もない。最近の悪魔との戦いは苛烈だ」
「そっか……そうだね」
サヤは湯呑みを置くと、机に視線を落とした。深刻な気配が漂う仕草、俺は警戒した。薄らいだはずの嫌な予感が鎌首をもたげた。少しの間、張り詰めた緊張感が漂った。言葉を発してはならぬと本能的に察し、俺は何も言えなかった。
「確かにね。ちょっと疲れてたかも」
「サヤ、カディシュトゥのことが気になるか」
カディシュトゥ――俺達の仇を含む悪魔の名。俺のみならず、サヤにとっても重い名のはずだった。
「うん……いつそいつらが襲ってくるかと思って、力んでた」
「そうか」
サヤの視線は机に向いていたが、机ではない遠くを見つめているようだった。両親を殺されたあの日を思い出していたのだろうか、その目は不穏だった。俺はそっと立ち上がると、サヤの背後にしゃがんだ。
成長したサヤの背中をまじまじと見つめたのは、このときが恐らく初めてだった。子供の頃とは違う、女性らしさを纏った華奢な背中。少し震えているようだった。俺はその背中をそっと抱きしめた。
「!?ショウヘイくん?」
驚いたサヤが振り返り、揺れる瞳と目が合った。俺を見つめるその瞳は、今までになく不安定に見えた。俺は考える前に口付けていた。サヤの言葉を奪い、瑞々しい唇の感触に触れる。サヤのぬくもりを感じながらの口付けは心地よかった。数秒後に唇を離すと、サヤはやはり驚いた様子だった。
「ショウヘイくん……」
「サヤ、気持ちはわかる。だが、今のサヤは心配だ。無理をするな」
「うん……」
サヤの手が抱きしめる俺の腕に触れた。俺よりも小さく、繊細な手。守らねばと固く誓った、綺麗な手だった。
「カディシュトゥの話を聞いてからずっと落ち着かないの。そうしたら、悪魔の攻撃が激しくなってて……私、焦ってたのかな」
サヤの言葉が静かに響く。サヤが吐いた息は重く、座敷に沈んでいく心地だった。
「サヤ、約束してくれ」
「なに?」
「一人で悪魔討伐に行かないでほしい。できる限り俺も時間を作る。だから……」
俺は警察官、サヤよりも優先せねばならぬことがあると理解はしていた。だが、そんなものサヤの前では大した意味を持たない。俺達は将来を誓い合った間柄、もうすぐ正式に婚姻を結ぶ定めだった。そんな相手より優先すべきことなど、この世にあっただろうか。
「ショウヘイくん」
振り返ったサヤの指が俺の目元を拭っていた。サヤの指が涙で光っている。泣いていた……俺が?もう泣くような歳ではなかったはずなのに。
「ありがとう、私を心配してくれて。でもね、ショウヘイくんも心配だよ。お仕事と悪魔討伐の両立なんて、大変でしょ?」
「最悪仕事なんて辞めてもいい。俺にはサヤ、お前が必要だ」
「せっかく警察官になったんだから、辞めるなんてもったいないよ」
サヤはふふ、と可憐に笑い、俺の腕を撫でてくれた。左手の薬指には銀色の指輪。俺と将来を誓った大切なものだった。
「でも、嬉しい。ショウヘイくん、あなたも死なないで。結婚って、一人じゃできないんだから」
「ああ」
俺は死なない。根拠のない自信とともに、俺は頷いた。
もしも死神がいたとするのなら、懇願するべきだった。サヤではなく俺を殺してくれと。
そして、その日はやって来た。その日、平日だった。俺は朝から職場に出勤し、警察官としての生活を送る。そのはずだった。サヤもその日は討伐の予定がなく、一緒にご飯でも食べようねと言っていた。もうすぐ二十歳になる頃合いだった。
昼食を外で摂っていたとき、店にテレビがあった。ふと見ると、
「こ、これはどういうことでしょうか!品川駅を歩いている人達が、どんどん倒れていきます!」
緊迫した様子の言葉が聞こえた。画面には人でごった返す品川駅、悲鳴を上げて人々が倒れていく。
「人間達よ!マガツヒを捧げるがいい!」
脳内でナアマの声が響いた。テレビには悪魔は映っていないが、確信した。カディシュトゥ、奴らの仕業だと。悪魔の襲撃となれば、まず間違いなくサヤが出撃する。俺は勢いよく立ち上がり、品川駅に向かい駆け出した。
嫌な予感が頭をよぎった。マガツヒを抜かれ、俺の腕の中で息絶えるサヤ。俺を庇って死んだ両親。父親の最期の言葉。
「ショウヘイ、お前だけは、生きて……」
次々と脳裏によぎる忌まわしい記憶を振り払いながら、俺は駆けた。品川駅に近づくにつれ、人々の悲鳴が大きくなる。耳をつんざく音、もう二度と聞きたくない地獄の音だった。
「!」
品川駅のすぐ近くに悪魔がいた。不気味な黒い翼を羽ばたかせる悪魔――ナアマが、人間を襲いマガツヒを奪っていた。ナアマの周囲には小型の悪魔で溢れ、ナアマを守るように付き従っていた。
「サヤ!」
アヤカシを抜き、俺は駆け抜けた。混乱の真っ只中、人々を守るべく戦うサヤ目がけて走った。
「ショウヘイくん!」
サヤの手から魔法が放たれ、俺達を殺そうとする悪魔を消滅させた。ナアマの周りで羽ばたいていたのはダイモーン、一匹一匹は大した力を持たないが数が多すぎた。倒しても倒してもどこからか現れ、黒い渦が蠢いているように見えた。
「あそこにナアマが!絶対に倒さないと……!」
魔法を放ち続けるサヤの瞳は怒りに燃えていた。穏やかなサヤらしくない、憎悪に満ちた目。俺は襲いくる悪魔を切り捨て、叫んだ。
「落ち着け、サヤ!こいつらを片付けてからだ!」
「うん……!!」
俺達は背中合わせに立ち、ダイモーンの群れを迎え撃った。ダイモーンの耳障りな甲高い声と人々の発する悲鳴、マガツヒの赤い光が充満する品川駅は、禍々しい空気に満ちていた。あまりの数の多さに疲弊しそうになったが、逃げるわけにはいかなかった。この三下どもを倒した先には、俺達の両親の仇がいる。俺はアヤカシを振るいながら、ナアマがいる方向を鋭く睨んだ。
「!ショウヘイくん!危ない!」
サヤの鋭い声が聞こえ振り返ると、巨大な影が俺に迫っていた。魔獣グラシャラボラス――鋭い爪を持つそれは、腕を大きく振り上げた。間に合わない!そう思った瞬間、サヤが俺と悪魔の間に割って入り、俺を突き飛ばした。
「サヤ!」
品川駅の床に倒れ込んだ俺は、慌てて起き上がった。グラシャラボラスの爪を受けたのだろう、サヤは右腕から血を流していた。まずい。このままではサヤが殺される!立ち上がった俺が駆け出した瞬間、
「人間、お前はいいマガツヒを持っているな」
グラシャラボラスの前に現れたナアマの腕が、サヤの胸を貫いていた。俺には、サヤの背中からナアマの手が生えてきたように見えた。サヤの血で濡れたナアマの掌が、俺を挑発するように不気味に手招いた。
ずる、とサヤの体からナアマの腕が抜け、サヤが崩れ落ちた。倒れたサヤの体から血が円状に広がっていった。俺は血溜まりを踏み越え、叫びながらナアマに斬りかかった。
「グラシャラボラス」
ナアマが手を振ると、グラシャラボラスが腕を伸ばし俺の刀を受け止めていた。ギリギリと金属が擦れ合う音が響いた。
「何だ?随分といきり立った様子だが、お前も私にマガツヒを捧げたいのか?」
グラシャラボラスに庇われたナアマは、いやらしい笑みを浮かべ俺を見つめていた。サヤの血で濡れたナアマの手に、サヤのマガツヒが集まっていく――
殺す。確実に殺す。惨たらしく殺してやる。
脳が激しく焼け、俺は慟哭のままに刀を振り下ろした。アヤカシは俺の意思に応え、強烈な音とともにグラシャラボラスの腕を落とした。
許さない。絶対に殺す。殺して俺達の両親に償わせてやる。
床を蹴り、ナアマに肉薄した。俺の動きは研ぎ澄まされ、ナアマを斜めに斬り捨てる、そのはずだった。
「残念だったな。お前のその動き、止まって見えるぞ」
俺の一閃は空を裂き、ナアマに届かなかった。優雅に後ろに跳んだナアマは俺ににやにやと笑いかけていた。全身の血が沸騰した。
「うおおおお!!」
絶叫。俺は再度斬りかかったが、やはり寸前でナアマにかわされた。ナアマは片腕を失ったグラシャラボラスの上に座ると、集めたマガツヒの赤い玉を眺めて満足そうだった。
「ふふ、思った以上のマガツヒが集まったようだ。貴様とは縁があったらまた相手をしてやろう」
ナアマとグラシャラボラスは姿を消した。膝から力が抜けそうになったが何とか振り返り、サヤに駆け寄った。
「サヤ!サヤ!!」
抱き上げたサヤの体は妙に軽かった。胸から流れた血は下半身をも濡らし、全身真っ赤に染まっていた。胸に風穴が空いたサヤは、ぼんやりとした目で俺を見つめていた。
「あ……ショウヘイ、くん……?」
「すぐベテルに向かう、治療を!」
抱えようとした俺の手にサヤが触れ、彼女は力無く首を横に振った。サヤの顔は血の気が引き、蒼白いを通り越し土気色だった。
「わたし……たすからない……ほかの、ひとを……」
「サヤ!」
サヤの言葉をかき消すように名前を呼んだ。今にもサヤの目が閉じそうだったのを、何とかして開かせたかった。サヤは弱々しいながらも俺に笑った。
「よかった……ショウヘイくんが無事で……」
「ああ、俺は無事だ」
「ショウヘイくん……」
サヤの左手が俺の頬に触れた。サヤの手は赤黒く染まった指輪よりも冷たかった。俺は必死でその手を握った。少しでも俺の体温であたたかくならないかと願った。
「一緒にいてくれて、ありがとう……結婚、間に合わなくてごめんね……」
サヤはそう呟くと、俺の唇に軽く口付けた。氷のように冷えた唇と触れた直後、サヤは項垂れ動かなくなった。俺の頬に触れていた手から力が抜けた。
「……サヤ?」
目を閉じたサヤは、悲しげではあるものの、笑っていた。サヤの体を揺すったが何の反応もなかった。
「サヤ!!」
理解したくなかったが、理解した。サヤは死んだ。彼女を抱きしめた俺は、動けなかった。品川駅を襲撃した悪魔が去り、俺にはベテル日本支部に戦況を報告する義務があったが、呆然としていた。何も言えなかった。守れなかった。唇を噛みちぎり、俺はサヤを抱きしめたまま硬直していた。
「おや、随分と派手な戦闘があったようじゃな」
背後から女の声が聞こえた。周囲はマガツヒを吸われ倒れた人間で溢れているというのに、随分と余裕のある口調だった。
――人間ではない、悪魔だ。許してはおけない。
俺はサヤの肩を抱き、振り返りつつアヤカシを抜いた。そこには一見すると美しい女にしか見えぬ悪魔、ジョカがいた。俺に睨まれたジョカは、意味深な視線を寄越した。
「ほう、汝は妾の『知恵』か。こんなところにおったのじゃな」
「知恵?何を言っている!」
悪魔にサヤを殺された後、さらに別の悪魔が現れた。俺の身も心も憎悪に燃えていた。腕の中にサヤがいなければ、ナアマのときと同じく斬りかかっていただろう。
「この地……忌々しい天使の匂いがする。汝はどうやら、天使によからぬことを吹き込まれて利用されたようじゃのう。哀れなものよ」
「……天使……」
ジョカの言葉に、ベテル日本支部に感じていた違和感を思い出した。そうだ、何故ベテルは品川駅が襲撃されたというのに天使を寄越さないのだ。人間など捨ておいても構わぬ、そういうことか。俺の喉元から堪えきれぬ感情が血の味を伴って生まれてきた。唾液とともに無理矢理飲み込んでも、喉にこびりついた鉄錆の味は取れなかった。
「どうじゃ、妾とともに来る気はないか。汝は妾の半身、創世を行う資格がある。人間だけの世界を創りたくはないか?さすれば、その小娘も生まれ変わろう」
「サヤが!?」
ジョカの言葉を信じてよいのかはわからなかった。「天使に騙された」と言うジョカも所詮は悪魔なのだから。だがジョカからは敵意を感じない、それどころか俺に対し慈悲を見せ、そして何より、サヤが生まれ変わる……?死んだ者は二度と戻らぬのがこの世の理のはずだ。ベテルが知らぬ理を、この悪魔は知っているかもしれなかった。甘い――何よりも甘い、言葉だった。
「お前の知っていることを、全て教えろ。話はそれからだ」
ジョカを鋭く睨み、サヤを強く抱きしめた。ジョカは満足したように笑っていた。
普段どおりベテル日本支部から悪魔を討伐するよう指示を受け、サヤと俺は戦場に向かった。悪魔との戦いは激化しており、戦いに慣れたサヤと俺でも手を焼くことが増えていた。この日も何とか悪魔を全滅させたものの、サヤは肩で息をしていた。
「サヤ」
俺はそっとサヤの肩を抱き寄せた。サヤは俺に気付くと力無く笑っていた。
「どうしたの、ショウヘイくん。泣きそうな顔してるよ」
「……そうか?」
自覚はなかった。が、サヤを抱き寄せる手に妙に力がこもっていた。こうしていないとサヤが消えてしまいそうな――そんな気がしたからだ。
その日はベテル日本支部への報告を終え、二人で俺の家に立ち寄ることにした。少しでもサヤの手を煩わせたくなかった。
「サヤ、少し座っていろ。茶を淹れてくる」
「え、いいの?」
「ああ」
サヤを座敷に通し、俺は茶を淹れることにした。急須に茶葉を入れ、少し温度が低い湯を入れる。茶葉が開くにつれ、落ち着いたよい香りが漂い始める。父親が言っていた。
「ショウヘイ、いついかなるときも冷静さを忘れるな。腹立たしいことや悲しいことがあっても、できる限り自分を保て」
父親が死んでから随分と時間が経ったが、今でも覚えている言葉だった。そのとおりにできているかというと……正直、難しい。そのときも、俺は胸の奥で蠢く嫌な予感を払うために必死だった。茶を淹れている間、俺はずっと深呼吸をしていた。
二人分の茶が入り、座敷に持っていく。サヤは背筋を伸ばした正座で俺を待っており、育ちのよさを感じさせた。
「茶請けは何もないが」
「気にしないで。ありがとう、ショウヘイくん」
サヤは疲れた様子だったが、少し笑顔に余裕が戻ったように見えた。透き通った黄緑の茶を二人で飲む。ほどよい苦味と渋味は心を落ち着かせるには適役だった。
「美味しい。ショウヘイくん、お茶淹れるの上手だね」
「……そうか、ありがとう」
「美味しい……」
サヤは両手で湯呑みを持ち、ほぅ、と息をついた。穏やかな笑顔はサヤによく似合い、可愛らしく上品だった。よかった。ほんの少しでもサヤに肩の荷を下ろしてほしかった。せめて、俺とともにいる間だけでも。
「ありがとう、ショウヘイくん」
「礼はいい。落ち着いたか?」
「え?」
サヤはきょとんとした顔をした。
「私、変な感じだった?」
「ああ、疲れた様子だった。……無理もない。最近の悪魔との戦いは苛烈だ」
「そっか……そうだね」
サヤは湯呑みを置くと、机に視線を落とした。深刻な気配が漂う仕草、俺は警戒した。薄らいだはずの嫌な予感が鎌首をもたげた。少しの間、張り詰めた緊張感が漂った。言葉を発してはならぬと本能的に察し、俺は何も言えなかった。
「確かにね。ちょっと疲れてたかも」
「サヤ、カディシュトゥのことが気になるか」
カディシュトゥ――俺達の仇を含む悪魔の名。俺のみならず、サヤにとっても重い名のはずだった。
「うん……いつそいつらが襲ってくるかと思って、力んでた」
「そうか」
サヤの視線は机に向いていたが、机ではない遠くを見つめているようだった。両親を殺されたあの日を思い出していたのだろうか、その目は不穏だった。俺はそっと立ち上がると、サヤの背後にしゃがんだ。
成長したサヤの背中をまじまじと見つめたのは、このときが恐らく初めてだった。子供の頃とは違う、女性らしさを纏った華奢な背中。少し震えているようだった。俺はその背中をそっと抱きしめた。
「!?ショウヘイくん?」
驚いたサヤが振り返り、揺れる瞳と目が合った。俺を見つめるその瞳は、今までになく不安定に見えた。俺は考える前に口付けていた。サヤの言葉を奪い、瑞々しい唇の感触に触れる。サヤのぬくもりを感じながらの口付けは心地よかった。数秒後に唇を離すと、サヤはやはり驚いた様子だった。
「ショウヘイくん……」
「サヤ、気持ちはわかる。だが、今のサヤは心配だ。無理をするな」
「うん……」
サヤの手が抱きしめる俺の腕に触れた。俺よりも小さく、繊細な手。守らねばと固く誓った、綺麗な手だった。
「カディシュトゥの話を聞いてからずっと落ち着かないの。そうしたら、悪魔の攻撃が激しくなってて……私、焦ってたのかな」
サヤの言葉が静かに響く。サヤが吐いた息は重く、座敷に沈んでいく心地だった。
「サヤ、約束してくれ」
「なに?」
「一人で悪魔討伐に行かないでほしい。できる限り俺も時間を作る。だから……」
俺は警察官、サヤよりも優先せねばならぬことがあると理解はしていた。だが、そんなものサヤの前では大した意味を持たない。俺達は将来を誓い合った間柄、もうすぐ正式に婚姻を結ぶ定めだった。そんな相手より優先すべきことなど、この世にあっただろうか。
「ショウヘイくん」
振り返ったサヤの指が俺の目元を拭っていた。サヤの指が涙で光っている。泣いていた……俺が?もう泣くような歳ではなかったはずなのに。
「ありがとう、私を心配してくれて。でもね、ショウヘイくんも心配だよ。お仕事と悪魔討伐の両立なんて、大変でしょ?」
「最悪仕事なんて辞めてもいい。俺にはサヤ、お前が必要だ」
「せっかく警察官になったんだから、辞めるなんてもったいないよ」
サヤはふふ、と可憐に笑い、俺の腕を撫でてくれた。左手の薬指には銀色の指輪。俺と将来を誓った大切なものだった。
「でも、嬉しい。ショウヘイくん、あなたも死なないで。結婚って、一人じゃできないんだから」
「ああ」
俺は死なない。根拠のない自信とともに、俺は頷いた。
もしも死神がいたとするのなら、懇願するべきだった。サヤではなく俺を殺してくれと。
そして、その日はやって来た。その日、平日だった。俺は朝から職場に出勤し、警察官としての生活を送る。そのはずだった。サヤもその日は討伐の予定がなく、一緒にご飯でも食べようねと言っていた。もうすぐ二十歳になる頃合いだった。
昼食を外で摂っていたとき、店にテレビがあった。ふと見ると、
「こ、これはどういうことでしょうか!品川駅を歩いている人達が、どんどん倒れていきます!」
緊迫した様子の言葉が聞こえた。画面には人でごった返す品川駅、悲鳴を上げて人々が倒れていく。
「人間達よ!マガツヒを捧げるがいい!」
脳内でナアマの声が響いた。テレビには悪魔は映っていないが、確信した。カディシュトゥ、奴らの仕業だと。悪魔の襲撃となれば、まず間違いなくサヤが出撃する。俺は勢いよく立ち上がり、品川駅に向かい駆け出した。
嫌な予感が頭をよぎった。マガツヒを抜かれ、俺の腕の中で息絶えるサヤ。俺を庇って死んだ両親。父親の最期の言葉。
「ショウヘイ、お前だけは、生きて……」
次々と脳裏によぎる忌まわしい記憶を振り払いながら、俺は駆けた。品川駅に近づくにつれ、人々の悲鳴が大きくなる。耳をつんざく音、もう二度と聞きたくない地獄の音だった。
「!」
品川駅のすぐ近くに悪魔がいた。不気味な黒い翼を羽ばたかせる悪魔――ナアマが、人間を襲いマガツヒを奪っていた。ナアマの周囲には小型の悪魔で溢れ、ナアマを守るように付き従っていた。
「サヤ!」
アヤカシを抜き、俺は駆け抜けた。混乱の真っ只中、人々を守るべく戦うサヤ目がけて走った。
「ショウヘイくん!」
サヤの手から魔法が放たれ、俺達を殺そうとする悪魔を消滅させた。ナアマの周りで羽ばたいていたのはダイモーン、一匹一匹は大した力を持たないが数が多すぎた。倒しても倒してもどこからか現れ、黒い渦が蠢いているように見えた。
「あそこにナアマが!絶対に倒さないと……!」
魔法を放ち続けるサヤの瞳は怒りに燃えていた。穏やかなサヤらしくない、憎悪に満ちた目。俺は襲いくる悪魔を切り捨て、叫んだ。
「落ち着け、サヤ!こいつらを片付けてからだ!」
「うん……!!」
俺達は背中合わせに立ち、ダイモーンの群れを迎え撃った。ダイモーンの耳障りな甲高い声と人々の発する悲鳴、マガツヒの赤い光が充満する品川駅は、禍々しい空気に満ちていた。あまりの数の多さに疲弊しそうになったが、逃げるわけにはいかなかった。この三下どもを倒した先には、俺達の両親の仇がいる。俺はアヤカシを振るいながら、ナアマがいる方向を鋭く睨んだ。
「!ショウヘイくん!危ない!」
サヤの鋭い声が聞こえ振り返ると、巨大な影が俺に迫っていた。魔獣グラシャラボラス――鋭い爪を持つそれは、腕を大きく振り上げた。間に合わない!そう思った瞬間、サヤが俺と悪魔の間に割って入り、俺を突き飛ばした。
「サヤ!」
品川駅の床に倒れ込んだ俺は、慌てて起き上がった。グラシャラボラスの爪を受けたのだろう、サヤは右腕から血を流していた。まずい。このままではサヤが殺される!立ち上がった俺が駆け出した瞬間、
「人間、お前はいいマガツヒを持っているな」
グラシャラボラスの前に現れたナアマの腕が、サヤの胸を貫いていた。俺には、サヤの背中からナアマの手が生えてきたように見えた。サヤの血で濡れたナアマの掌が、俺を挑発するように不気味に手招いた。
ずる、とサヤの体からナアマの腕が抜け、サヤが崩れ落ちた。倒れたサヤの体から血が円状に広がっていった。俺は血溜まりを踏み越え、叫びながらナアマに斬りかかった。
「グラシャラボラス」
ナアマが手を振ると、グラシャラボラスが腕を伸ばし俺の刀を受け止めていた。ギリギリと金属が擦れ合う音が響いた。
「何だ?随分といきり立った様子だが、お前も私にマガツヒを捧げたいのか?」
グラシャラボラスに庇われたナアマは、いやらしい笑みを浮かべ俺を見つめていた。サヤの血で濡れたナアマの手に、サヤのマガツヒが集まっていく――
殺す。確実に殺す。惨たらしく殺してやる。
脳が激しく焼け、俺は慟哭のままに刀を振り下ろした。アヤカシは俺の意思に応え、強烈な音とともにグラシャラボラスの腕を落とした。
許さない。絶対に殺す。殺して俺達の両親に償わせてやる。
床を蹴り、ナアマに肉薄した。俺の動きは研ぎ澄まされ、ナアマを斜めに斬り捨てる、そのはずだった。
「残念だったな。お前のその動き、止まって見えるぞ」
俺の一閃は空を裂き、ナアマに届かなかった。優雅に後ろに跳んだナアマは俺ににやにやと笑いかけていた。全身の血が沸騰した。
「うおおおお!!」
絶叫。俺は再度斬りかかったが、やはり寸前でナアマにかわされた。ナアマは片腕を失ったグラシャラボラスの上に座ると、集めたマガツヒの赤い玉を眺めて満足そうだった。
「ふふ、思った以上のマガツヒが集まったようだ。貴様とは縁があったらまた相手をしてやろう」
ナアマとグラシャラボラスは姿を消した。膝から力が抜けそうになったが何とか振り返り、サヤに駆け寄った。
「サヤ!サヤ!!」
抱き上げたサヤの体は妙に軽かった。胸から流れた血は下半身をも濡らし、全身真っ赤に染まっていた。胸に風穴が空いたサヤは、ぼんやりとした目で俺を見つめていた。
「あ……ショウヘイ、くん……?」
「すぐベテルに向かう、治療を!」
抱えようとした俺の手にサヤが触れ、彼女は力無く首を横に振った。サヤの顔は血の気が引き、蒼白いを通り越し土気色だった。
「わたし……たすからない……ほかの、ひとを……」
「サヤ!」
サヤの言葉をかき消すように名前を呼んだ。今にもサヤの目が閉じそうだったのを、何とかして開かせたかった。サヤは弱々しいながらも俺に笑った。
「よかった……ショウヘイくんが無事で……」
「ああ、俺は無事だ」
「ショウヘイくん……」
サヤの左手が俺の頬に触れた。サヤの手は赤黒く染まった指輪よりも冷たかった。俺は必死でその手を握った。少しでも俺の体温であたたかくならないかと願った。
「一緒にいてくれて、ありがとう……結婚、間に合わなくてごめんね……」
サヤはそう呟くと、俺の唇に軽く口付けた。氷のように冷えた唇と触れた直後、サヤは項垂れ動かなくなった。俺の頬に触れていた手から力が抜けた。
「……サヤ?」
目を閉じたサヤは、悲しげではあるものの、笑っていた。サヤの体を揺すったが何の反応もなかった。
「サヤ!!」
理解したくなかったが、理解した。サヤは死んだ。彼女を抱きしめた俺は、動けなかった。品川駅を襲撃した悪魔が去り、俺にはベテル日本支部に戦況を報告する義務があったが、呆然としていた。何も言えなかった。守れなかった。唇を噛みちぎり、俺はサヤを抱きしめたまま硬直していた。
「おや、随分と派手な戦闘があったようじゃな」
背後から女の声が聞こえた。周囲はマガツヒを吸われ倒れた人間で溢れているというのに、随分と余裕のある口調だった。
――人間ではない、悪魔だ。許してはおけない。
俺はサヤの肩を抱き、振り返りつつアヤカシを抜いた。そこには一見すると美しい女にしか見えぬ悪魔、ジョカがいた。俺に睨まれたジョカは、意味深な視線を寄越した。
「ほう、汝は妾の『知恵』か。こんなところにおったのじゃな」
「知恵?何を言っている!」
悪魔にサヤを殺された後、さらに別の悪魔が現れた。俺の身も心も憎悪に燃えていた。腕の中にサヤがいなければ、ナアマのときと同じく斬りかかっていただろう。
「この地……忌々しい天使の匂いがする。汝はどうやら、天使によからぬことを吹き込まれて利用されたようじゃのう。哀れなものよ」
「……天使……」
ジョカの言葉に、ベテル日本支部に感じていた違和感を思い出した。そうだ、何故ベテルは品川駅が襲撃されたというのに天使を寄越さないのだ。人間など捨ておいても構わぬ、そういうことか。俺の喉元から堪えきれぬ感情が血の味を伴って生まれてきた。唾液とともに無理矢理飲み込んでも、喉にこびりついた鉄錆の味は取れなかった。
「どうじゃ、妾とともに来る気はないか。汝は妾の半身、創世を行う資格がある。人間だけの世界を創りたくはないか?さすれば、その小娘も生まれ変わろう」
「サヤが!?」
ジョカの言葉を信じてよいのかはわからなかった。「天使に騙された」と言うジョカも所詮は悪魔なのだから。だがジョカからは敵意を感じない、それどころか俺に対し慈悲を見せ、そして何より、サヤが生まれ変わる……?死んだ者は二度と戻らぬのがこの世の理のはずだ。ベテルが知らぬ理を、この悪魔は知っているかもしれなかった。甘い――何よりも甘い、言葉だった。
「お前の知っていることを、全て教えろ。話はそれからだ」
ジョカを鋭く睨み、サヤを強く抱きしめた。ジョカは満足したように笑っていた。
