月夜の夜想曲
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#1 出会いはゆったり歩くように
その日、ベテル日本支部に一人の女性がやって来た。越水の執務室に入ってきた彼女は、越水と向かい合うと優雅な一礼を見せた。
「こんにちは、初めまして。十六夜ハルカと申します」
「私はベテル日本支部長官、越水ハヤオだ。君が今日から私の秘書となる十六夜君だな」
「はい、そうです」
顔を上げた彼女は穏やかに笑い、さらりと重大な発言をした。
「今日からあなたの秘書兼メイドとして務めさせていただきます。よろしくお願いします」
「……秘書兼メイド?」
越水は眉を顰めた。秘書を募集したのは間違いないが、メイドを募った覚えはない。訝しげな越水に、女性――十六夜ハルカは不思議そうな顔をした。
「?どうしたのですか?」
「秘書兼メイド、とはどういう意味かと思ってな」
「え?募集要項にそう書いてありましたよ」
そう言ってハルカはスマートフォンの画面を見せてきた。ベテル日本支部の求人情報、そこには確かに「秘書兼メイド」と書いてあった。越水はスマートフォンの画面を凝視したまま硬直した。秘書を募集するよう研究員に指示し、募集要項はこれでよいかと言われて決裁したが、多忙ゆえ盲判だった。よく確認しておくべきだったか、と越水は反省を済ませ、平静を装い彼女に問う。
「君は職務内容について、どのように聞いている?」
「あ、はい。ベテル日本支部長官のスケジュール管理、身の回りのお世話と聞いています。必要があれば長官宅に通うなり住みこむなりしてくれと。実際にどのように身の回りのお世話をするかはご本人と調整してくださいと言われています」
「……そうか」
越水は自宅の状況を思い浮かべた。一人で暮らすには持て余す広さ、女性一人を新たに住人として迎えてもなんら支障はない。そして正直、家事は滞っている。できることなら誰かの手を借りたいと思っていたところだった。
「では十六夜君、まずは秘書業務の研修からだ。前任者の引き継ぎを受け、私の自宅へ向かうこととしよう」
「わかりました。よろしくお願いします、越水長官」
思いもよらぬこととなったが、慇懃に礼をするハルカには期待が持てた。
ベテル日本支部長官、越水ハヤオの自宅は国家機密に該当するほどの重要な情報だ。強力な結界により越水が指定された者しか立ち入ることができず、存在を認知することもできない。秘書業務の研修を終えたハルカを伴い、越水は自宅に戻った。結界内に越水以外の人間が入るのは初めてだ。
「わあ……とても綺麗なご自宅ですね」
感嘆するハルカの声に、越水の胸はざわついた。これまで自宅は越水一人の孤独な空間だった。ハルカがいることに慣れる必要があるだろう。
空いている部屋をハルカに案内した。家具らしい家具もないが、
「こんな広いお部屋をいただいてもよろしいのですか?ご迷惑になります、通いますよ」
と彼女は恐縮していた。
「この家には結界を張っている。私とともに出入りした方が面倒もなく、防犯上も好ましい。君がどうしても通うというのであれば止めはしないが」
「ここに住んだ方がご都合がいいようですね。わかりました、ではありがたく住まわせていただきます。ありがとうございます」
物分かりのいい彼女は再び丁寧な礼をした。彼女は質素な黒いスーツを着ているが、礼をする仕草は主人に仕えるメイドのようだ。事実越水に仕えるメイドなのだが、どうにも越水は落ち着かなかった。
「長官、もしかしてコーヒーがお好きですか?」
ひととおり自宅を案内している最中、キッチンを見てハルカは言った。ろくに料理もしていない整いすぎたキッチンで、コーヒー豆の入った容器は一際目立つ。自宅でゆっくり苦味を楽しみたかったが生憎そんな時間もなく、ほぼ買った状態のままになっていた。
「ああ」
「では、勝手ながらお淹れしましょうか。少し休憩しませんか?」
「ああ、頼む」
「わかりました」
ハルカは優美な一礼を見せると、キッチンで作業を始めた。手持ち無沙汰になった越水は、リビングダイニングのテーブルに座った。シックな黒いテーブル、座ったのは久しぶりな気がする。ましてや他者が作業をしているのを眺めるなど初めてだ。越水はてきぱきと動くハルカの背中を見つめた。彼女は楽しそうな様子だ。他人の世話を焼くことの何にそんな喜びを感じるのだろうか、疑問だ。
ほどなくして、コーヒーの心落ち着く香りが漂ってきた。この家に来るのは初めて、調理器具の場所等も簡単にしか伝えていないが、もう一人でコーヒーを淹れるとは大したものだ。よい香りだ。どこか懐かしい心地がする。
「お待たせしました。私の分まで淹れてしまいました」
カップとソーサーが二つ、テーブルに置かれた。黒い液体から柔らかな湯気が立つ。鼻を抜けていく苦い香りに越水は息をついた。
「ミルクやお砂糖はどうされますか?」
「砂糖を多めに入れたい」
「わかりました、どうぞ」
そっと差し出されたのは角砂糖が入った小瓶。三個砂糖を入れ、スプーンで溶かす。今日は珍しく甘いコーヒーが飲みたい気分だった。越水はティーカップを持ち、黒い液体を一口。目が覚めるような苦味の中にまろやかな甘さ、疲れた体に染み渡る。
「長官はお砂糖が入ったコーヒーがお好きなのですか?」
「いや、今日はそのような気分だっただけだ」
「なら、普段はブラックで飲まれるのですか?」
「そうだな……その場合が多い」
「わかりました」
そう言って、ハルカは小さなメモ帳を取り出しさらりと書き留めた。
「何を書き留めたのだ?」
「長官のコーヒーの好みについてです」
「何故そのようなことを?」
「私は秘書兼メイドですから。お仕えする方の好みを把握するのは当然だと思っております」
さも当然、と言わんばかりにハルカは微笑む。その笑顔は穏やかだが、職務に対する責任の強さも伺えた。
「長官とお話したいと思っていたんです。ちょうどその時間があって、よかったです」
「私と話?」
「はい。いいお仕事をするためには、相手を理解することが大切ですから。せっかくコーヒーもあるのです。可能な範囲で構いませんから、長官のこと、色々聞かせてください」
「ああ、わかった。何を知りたい?」
「ええと……そうですね……」
ハルカは斜め上をぼんやりと見つめ、あ、と声を上げた。
「そういえば長官、と呼んでおりますが問題はありませんか?メイドですし、ご主人様、と呼ぶ方がよろしいとか……そういったことはございませんか?」
……さしもの越水もコーヒーを吹き出すところだった。ご主人様?今どき聞かない言葉だ。絶滅したと思っていたが、まだ使う機会があるのか。
「長官でいい」
「わかりました。では……」
この調子で彼女から色々と聞かれるのだろうか。早くもうんざりしながらも、少しの照れ臭さがあった。越水個人を知りたいなどという人間は、世界を見渡してもそういないだろうから。
翌日、越水の執務室に荷物が届けられた。秘書であるハルカが受け取り、段ボールを開けた。几帳面に中から荷物を取り出そうとしていた彼女は、ぴたりと凍りついたように動かなくなった。
「長官、これは長官のお好きな服装ということでしょうか?」
不思議な文章が聞こえた。全く理解が及ばなかった越水は、机に座ったまま視線を彼女に向けた。彼女が手にしていたのは、衣服だった。黒い長袖のワンピースの上に白いエプロンドレスを合わせた、いわゆる「メイド服」とでも称されるもの。越水も硬直した。何故このようなものが越水の執務室に届けられたのだろうか。服の見た目やサイズから察するに女性用であり、ますますわけがわからない。
「私はそのようなものを頼んだ記憶はない。君が注文したものではないのか」
「私は特に何も頼んでおりませんが……あ、そういえば」
ハルカはメイド服を体に合わせていた。袖の長さも、足首より少し上くらいの長さのワンピースの丈も、ちょうど彼女に適したものだ。
「昨日研究員の方に、『十六夜さん、メイドさんなんだからそうとわかる服が必要だね』って言われました。もしかしてそのことでしょうか」
「そうとわかる服……?」
越水は頭を抱えた。秘書兼メイドを募集したり、メイド服を取り寄せたり、少し浮ついた考えを持つ者がいるのだろうか。ベテル日本支部内の規律を見直した方がいいのかもしれない、と越水はため息をついた。
越水は改めてハルカを観察した。彼女はいかにも秘書らしい、黒のパンツスーツを着ている。メイドらしい見た目かと言われれば、首を傾げざるを得ないだろう。しかしだからといって、ベテル日本支部に「メイドらしさ」が必要かと言われれば……答えは否。
「この服、可愛らしいとは思うのですが、さすがに執務室で着るのはどうかと思います」
「それは私も同感だ」
「長官」
ハルカは妙にキラキラとした目で越水を見つめた。……何か、嫌な予感がする。
「では、長官のご自宅でなら着ても構いませんか?」
「……?」
越水は見事なまでに困惑した。意図の読めない彼に、ハルカは詰め寄ってくる。
「ご自宅での私は秘書というよりメイドです。そこでなら長官以外誰も見ていませんし、メイド服を着ていても支障はないかと思うのですが」
「……好きにするといい」
「わかりました!ありがとうございます!」
何が嬉しいのか、ハルカはにこにこと機嫌よく笑っていた。
メイド服が届いた夜。執務を終えた越水は、ハルカを伴い自宅に戻った。誰かとともに帰宅する、ということに慣れてきた気がする。
「では長官、着替えてきますね」
着替える?越水は疑問に思いながらもその言葉を聞き流した。何しろ執務から解放された時間だ、越水の集中力は途切れがちだった。
広いリビングダイニング、テーブルに座り越水は息をついた。今日もまた一日が終わった。ベテル日本支部長官としてやるべきことや考えるべきことは山積みだが、今だけは気が抜ける貴重な時間だった。ガチャ、と扉が開く。越水が何気なく視線を向けると、
「長官、今日もお疲れ様でした」
昼間見たメイド服を身に纏ったハルカが立っていた。ワンピースの裾を両手で持ち、雅に一礼する姿はまさしく主人に仕えるメイド。唖然とした越水に、ハルカはにこりと微笑んだ。
「コーヒー、お淹れしましょうか」
「あ、ああ……頼む」
自然な足取りでキッチンに彼女が向かうと、コーヒー豆を挽く音と苦い香りが漂ってくる。何となしに見た彼女の後ろ姿は凛としたメイドそのものだった。黒いワンピースに白いエプロンの蝶結びが映える。よく見ると頭にホワイトブリムもつけていて、完全なるメイドスタイルだった。越水は今日何度目かの困惑に陥った。自宅にメイドがいる。いや、服装が状況に沿っただけなのだが、こうも落ち着かないものだとは。ようやくハルカが自宅にいる状況に慣れてきたところだというのに、これからさらにメイド服にも慣れねばならぬのか。日々是修行なのかもしれない。
「どうぞ、長官」
コーヒーの入ったカップとソーサーをテーブルに置かれた。越水の向かい側にはハルカが座り、同じようにカップとソーサーがある。彼女の指がカップを持ち、一口飲む。ほぅ、と息をついた彼女は不思議そうな顔をしていた。
「長官、どうなさいましたか」
「そんな格好の女性が自宅にいるなど初めてなのだ。見慣れていなくてな」
「この服、やめた方がいいですか?」
そう尋ねる彼女は露骨に寂しそうな顔だった。越水は微かに首を横に振った。
「やめる必要はない。ベテル日本支部内でその格好をしなければ、後は君の好きにしてくれて構わない」
「ありがとうございます、長官。わがままを聞いてくださって」
カップを置いた彼女は穏やかな微笑みを浮かべた。落ち着いた無駄のない仕草、優秀なメイドというものがいるのだとしたら、それは彼女だろうか。秘書がメイドを兼ねることは初めてだが、意外と心地がいいものかもしれない、と越水はコーヒーの香りとともに思った。
その日、ベテル日本支部に一人の女性がやって来た。越水の執務室に入ってきた彼女は、越水と向かい合うと優雅な一礼を見せた。
「こんにちは、初めまして。十六夜ハルカと申します」
「私はベテル日本支部長官、越水ハヤオだ。君が今日から私の秘書となる十六夜君だな」
「はい、そうです」
顔を上げた彼女は穏やかに笑い、さらりと重大な発言をした。
「今日からあなたの秘書兼メイドとして務めさせていただきます。よろしくお願いします」
「……秘書兼メイド?」
越水は眉を顰めた。秘書を募集したのは間違いないが、メイドを募った覚えはない。訝しげな越水に、女性――十六夜ハルカは不思議そうな顔をした。
「?どうしたのですか?」
「秘書兼メイド、とはどういう意味かと思ってな」
「え?募集要項にそう書いてありましたよ」
そう言ってハルカはスマートフォンの画面を見せてきた。ベテル日本支部の求人情報、そこには確かに「秘書兼メイド」と書いてあった。越水はスマートフォンの画面を凝視したまま硬直した。秘書を募集するよう研究員に指示し、募集要項はこれでよいかと言われて決裁したが、多忙ゆえ盲判だった。よく確認しておくべきだったか、と越水は反省を済ませ、平静を装い彼女に問う。
「君は職務内容について、どのように聞いている?」
「あ、はい。ベテル日本支部長官のスケジュール管理、身の回りのお世話と聞いています。必要があれば長官宅に通うなり住みこむなりしてくれと。実際にどのように身の回りのお世話をするかはご本人と調整してくださいと言われています」
「……そうか」
越水は自宅の状況を思い浮かべた。一人で暮らすには持て余す広さ、女性一人を新たに住人として迎えてもなんら支障はない。そして正直、家事は滞っている。できることなら誰かの手を借りたいと思っていたところだった。
「では十六夜君、まずは秘書業務の研修からだ。前任者の引き継ぎを受け、私の自宅へ向かうこととしよう」
「わかりました。よろしくお願いします、越水長官」
思いもよらぬこととなったが、慇懃に礼をするハルカには期待が持てた。
ベテル日本支部長官、越水ハヤオの自宅は国家機密に該当するほどの重要な情報だ。強力な結界により越水が指定された者しか立ち入ることができず、存在を認知することもできない。秘書業務の研修を終えたハルカを伴い、越水は自宅に戻った。結界内に越水以外の人間が入るのは初めてだ。
「わあ……とても綺麗なご自宅ですね」
感嘆するハルカの声に、越水の胸はざわついた。これまで自宅は越水一人の孤独な空間だった。ハルカがいることに慣れる必要があるだろう。
空いている部屋をハルカに案内した。家具らしい家具もないが、
「こんな広いお部屋をいただいてもよろしいのですか?ご迷惑になります、通いますよ」
と彼女は恐縮していた。
「この家には結界を張っている。私とともに出入りした方が面倒もなく、防犯上も好ましい。君がどうしても通うというのであれば止めはしないが」
「ここに住んだ方がご都合がいいようですね。わかりました、ではありがたく住まわせていただきます。ありがとうございます」
物分かりのいい彼女は再び丁寧な礼をした。彼女は質素な黒いスーツを着ているが、礼をする仕草は主人に仕えるメイドのようだ。事実越水に仕えるメイドなのだが、どうにも越水は落ち着かなかった。
「長官、もしかしてコーヒーがお好きですか?」
ひととおり自宅を案内している最中、キッチンを見てハルカは言った。ろくに料理もしていない整いすぎたキッチンで、コーヒー豆の入った容器は一際目立つ。自宅でゆっくり苦味を楽しみたかったが生憎そんな時間もなく、ほぼ買った状態のままになっていた。
「ああ」
「では、勝手ながらお淹れしましょうか。少し休憩しませんか?」
「ああ、頼む」
「わかりました」
ハルカは優美な一礼を見せると、キッチンで作業を始めた。手持ち無沙汰になった越水は、リビングダイニングのテーブルに座った。シックな黒いテーブル、座ったのは久しぶりな気がする。ましてや他者が作業をしているのを眺めるなど初めてだ。越水はてきぱきと動くハルカの背中を見つめた。彼女は楽しそうな様子だ。他人の世話を焼くことの何にそんな喜びを感じるのだろうか、疑問だ。
ほどなくして、コーヒーの心落ち着く香りが漂ってきた。この家に来るのは初めて、調理器具の場所等も簡単にしか伝えていないが、もう一人でコーヒーを淹れるとは大したものだ。よい香りだ。どこか懐かしい心地がする。
「お待たせしました。私の分まで淹れてしまいました」
カップとソーサーが二つ、テーブルに置かれた。黒い液体から柔らかな湯気が立つ。鼻を抜けていく苦い香りに越水は息をついた。
「ミルクやお砂糖はどうされますか?」
「砂糖を多めに入れたい」
「わかりました、どうぞ」
そっと差し出されたのは角砂糖が入った小瓶。三個砂糖を入れ、スプーンで溶かす。今日は珍しく甘いコーヒーが飲みたい気分だった。越水はティーカップを持ち、黒い液体を一口。目が覚めるような苦味の中にまろやかな甘さ、疲れた体に染み渡る。
「長官はお砂糖が入ったコーヒーがお好きなのですか?」
「いや、今日はそのような気分だっただけだ」
「なら、普段はブラックで飲まれるのですか?」
「そうだな……その場合が多い」
「わかりました」
そう言って、ハルカは小さなメモ帳を取り出しさらりと書き留めた。
「何を書き留めたのだ?」
「長官のコーヒーの好みについてです」
「何故そのようなことを?」
「私は秘書兼メイドですから。お仕えする方の好みを把握するのは当然だと思っております」
さも当然、と言わんばかりにハルカは微笑む。その笑顔は穏やかだが、職務に対する責任の強さも伺えた。
「長官とお話したいと思っていたんです。ちょうどその時間があって、よかったです」
「私と話?」
「はい。いいお仕事をするためには、相手を理解することが大切ですから。せっかくコーヒーもあるのです。可能な範囲で構いませんから、長官のこと、色々聞かせてください」
「ああ、わかった。何を知りたい?」
「ええと……そうですね……」
ハルカは斜め上をぼんやりと見つめ、あ、と声を上げた。
「そういえば長官、と呼んでおりますが問題はありませんか?メイドですし、ご主人様、と呼ぶ方がよろしいとか……そういったことはございませんか?」
……さしもの越水もコーヒーを吹き出すところだった。ご主人様?今どき聞かない言葉だ。絶滅したと思っていたが、まだ使う機会があるのか。
「長官でいい」
「わかりました。では……」
この調子で彼女から色々と聞かれるのだろうか。早くもうんざりしながらも、少しの照れ臭さがあった。越水個人を知りたいなどという人間は、世界を見渡してもそういないだろうから。
翌日、越水の執務室に荷物が届けられた。秘書であるハルカが受け取り、段ボールを開けた。几帳面に中から荷物を取り出そうとしていた彼女は、ぴたりと凍りついたように動かなくなった。
「長官、これは長官のお好きな服装ということでしょうか?」
不思議な文章が聞こえた。全く理解が及ばなかった越水は、机に座ったまま視線を彼女に向けた。彼女が手にしていたのは、衣服だった。黒い長袖のワンピースの上に白いエプロンドレスを合わせた、いわゆる「メイド服」とでも称されるもの。越水も硬直した。何故このようなものが越水の執務室に届けられたのだろうか。服の見た目やサイズから察するに女性用であり、ますますわけがわからない。
「私はそのようなものを頼んだ記憶はない。君が注文したものではないのか」
「私は特に何も頼んでおりませんが……あ、そういえば」
ハルカはメイド服を体に合わせていた。袖の長さも、足首より少し上くらいの長さのワンピースの丈も、ちょうど彼女に適したものだ。
「昨日研究員の方に、『十六夜さん、メイドさんなんだからそうとわかる服が必要だね』って言われました。もしかしてそのことでしょうか」
「そうとわかる服……?」
越水は頭を抱えた。秘書兼メイドを募集したり、メイド服を取り寄せたり、少し浮ついた考えを持つ者がいるのだろうか。ベテル日本支部内の規律を見直した方がいいのかもしれない、と越水はため息をついた。
越水は改めてハルカを観察した。彼女はいかにも秘書らしい、黒のパンツスーツを着ている。メイドらしい見た目かと言われれば、首を傾げざるを得ないだろう。しかしだからといって、ベテル日本支部に「メイドらしさ」が必要かと言われれば……答えは否。
「この服、可愛らしいとは思うのですが、さすがに執務室で着るのはどうかと思います」
「それは私も同感だ」
「長官」
ハルカは妙にキラキラとした目で越水を見つめた。……何か、嫌な予感がする。
「では、長官のご自宅でなら着ても構いませんか?」
「……?」
越水は見事なまでに困惑した。意図の読めない彼に、ハルカは詰め寄ってくる。
「ご自宅での私は秘書というよりメイドです。そこでなら長官以外誰も見ていませんし、メイド服を着ていても支障はないかと思うのですが」
「……好きにするといい」
「わかりました!ありがとうございます!」
何が嬉しいのか、ハルカはにこにこと機嫌よく笑っていた。
メイド服が届いた夜。執務を終えた越水は、ハルカを伴い自宅に戻った。誰かとともに帰宅する、ということに慣れてきた気がする。
「では長官、着替えてきますね」
着替える?越水は疑問に思いながらもその言葉を聞き流した。何しろ執務から解放された時間だ、越水の集中力は途切れがちだった。
広いリビングダイニング、テーブルに座り越水は息をついた。今日もまた一日が終わった。ベテル日本支部長官としてやるべきことや考えるべきことは山積みだが、今だけは気が抜ける貴重な時間だった。ガチャ、と扉が開く。越水が何気なく視線を向けると、
「長官、今日もお疲れ様でした」
昼間見たメイド服を身に纏ったハルカが立っていた。ワンピースの裾を両手で持ち、雅に一礼する姿はまさしく主人に仕えるメイド。唖然とした越水に、ハルカはにこりと微笑んだ。
「コーヒー、お淹れしましょうか」
「あ、ああ……頼む」
自然な足取りでキッチンに彼女が向かうと、コーヒー豆を挽く音と苦い香りが漂ってくる。何となしに見た彼女の後ろ姿は凛としたメイドそのものだった。黒いワンピースに白いエプロンの蝶結びが映える。よく見ると頭にホワイトブリムもつけていて、完全なるメイドスタイルだった。越水は今日何度目かの困惑に陥った。自宅にメイドがいる。いや、服装が状況に沿っただけなのだが、こうも落ち着かないものだとは。ようやくハルカが自宅にいる状況に慣れてきたところだというのに、これからさらにメイド服にも慣れねばならぬのか。日々是修行なのかもしれない。
「どうぞ、長官」
コーヒーの入ったカップとソーサーをテーブルに置かれた。越水の向かい側にはハルカが座り、同じようにカップとソーサーがある。彼女の指がカップを持ち、一口飲む。ほぅ、と息をついた彼女は不思議そうな顔をしていた。
「長官、どうなさいましたか」
「そんな格好の女性が自宅にいるなど初めてなのだ。見慣れていなくてな」
「この服、やめた方がいいですか?」
そう尋ねる彼女は露骨に寂しそうな顔だった。越水は微かに首を横に振った。
「やめる必要はない。ベテル日本支部内でその格好をしなければ、後は君の好きにしてくれて構わない」
「ありがとうございます、長官。わがままを聞いてくださって」
カップを置いた彼女は穏やかな微笑みを浮かべた。落ち着いた無駄のない仕草、優秀なメイドというものがいるのだとしたら、それは彼女だろうか。秘書がメイドを兼ねることは初めてだが、意外と心地がいいものかもしれない、と越水はコーヒーの香りとともに思った。
