月と花のはざま
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#9 月と花のはざま
ベテル日本支部が悪魔に襲われてからというもの、越水が常にミズキのそばにいるようになった。これまでは公務があるから、とごく自然な理由でたまに医務室を訪れる程度であったが、誇張ではなくミズキの起きている時間はほぼ越水がいる。
「あの、お仕事は大丈夫ですか?」
そう尋ねたところ、
「分身に任せることにした。これまでは神という立場を他の職員には隠していたが、君が襲われてはそうも言ってはいられない」
と返された。越水の声は至って真剣で、「分身」「神」などと非現実的な言葉が聞こえてきたが問いただす気になれなかった。仕事に支障はない、君を守れぬことの方が余程差し障りがある、と灰色の瞳に見つめられて言われたら、ミズキは返す言葉がなかった。
胸から背中に走る痛みが止み、ほぼ寝たきりだったミズキが立ち上がり歩き出そうとしていた。そのとき近くで手を取ってくれるのは越水だった。淑女をダンスに誘う紳士の仕草で手を取られ、おぼつかないミズキに合わせて歩いてくれる。彼の大きな掌に手を乗せていると安心感があった。
今日も医務室を出てベテル日本支部内を二人で歩く。越水に手を握られ歩くと、ほぼ動かしていなかった足の筋肉が悲鳴を上げる。少しふらついたときには、
「大丈夫か」
肩を抱かれ寄りかかる形になる。あまりにも自然な所作は優美で、ミズキはため息をつかざるを得なかった。胸に甘い鼓動が走る。そしてこの鼓動、どこかで覚えがある。私は以前、誰かを好きだったような気がする。でも、一体誰だっただろう?ミズキの脳裏に浮かぶ記憶の水面は揺らめき、はっきりと相手の顔が見えない。ミズキは歯噛みした。今はそんな甘ったるいことを考えている場合じゃない、早く一人でも歩けるようになって魔界を見に行きたいのに。
「ここがアオガミに関する研究室だ。君が所属していた研究室だな」
「ここが……」
ある日、ミズキは越水とともに薄暗い研究室を訪れた。モニターが緑色の不気味な光を放つ機械類、地下に「アオガミ」のメンテナンスを行うポッドが埋め込まれているらしい。いかにも研究室らしい、無機質な空気が漂う部屋だ。
「何だか見覚えがあるような……私、ここで働いていた時期もあるんですよね?」
「そうだ。君はもともとアオガミ……神造魔人のメンテナンス業務に従事していた。かの大戦でアオガミは失われ、長く君の仕事がなくなったことから私の秘書となっていた、ほぼ私の専属秘書といって差し支えない」
「秘書……アオガミ……」
ミズキは越水から貸し出された端末に目を落とした。神造魔人アオガミ。青い髪と金色の瞳、白い服が特徴的な男性だ。彼に見覚えがあるのは、彼の面立ちが越水に似ているから、というだけではなさそうだ。
「私の執務室にも行ってみるか?君がよくいた場所だ」
「はい、行ってみたいです」
真っ暗な記憶の底に手を突っ込んでいるような気分だ。手を動かすと何かが指先に当たるが、暗くて何なのかわからないし引き上げる力もない。記憶を失う前に日常的に見聞きしたものに触れればもっと鮮明に思い出せるかも、とミズキは焦っていた。医務室で目覚めてからそれなりに時間が経過したというのに、肉体の回復以外進展が見られないことにもどかしさを覚えている。
「ここが執務室だ」
越水に続き部屋に入る。明るすぎない照明の中、高級感のある机と椅子、簡易なベッドが置かれている。机の上は書類等置かれているが綺麗に整頓されており、たぶん物を所定の位置から動かしたらすぐに気付くんだろうなあ、と呑気なことを考えた。無駄を削ぎ落とした色気のない部屋、ともあれば息が詰まりそうな生活感のなさだが、ミズキは妙に落ち着いていた。ある意味では、清潔感のある医務室よりも。
「見覚えがあります……えっと……一度……そこのベッドで寝てた、ような……」
頭がくらくらする。脳の奥で揺らめいている景色がある。この部屋で一度体調を崩し、気がついたら眠っていて……どうしてそんなに体調を崩したのだろう、と気になった。脳が軋むような痛みがある。思い出してはいけないと叫んでいるようだ。ミズキは頭を押さえ、ふらついた。すかさず越水が抱き止める。
「大丈夫か。少し座るといい」
「はい……」
部屋の片隅にあるベッドは質素そのもの、医務室のベッドより硬い。それでも座ると少し楽になった。冷や汗が止まらないが。
「越水さん……お願いします。魔界に連れていってください。もう少しで思い出せそうなんです。一刻も早く思い出したいんです」
「……天宮君」
越水はミズキの前に膝をつき、震える手を取った。灰色の瞳は真摯にミズキを見つめている。
「君の願いはできる限り叶えたい。だが、君はまだ本調子ではないはずだ。少なくとも今日は避けた方がいい」
「はい」
真剣な眼差しに頷く。確かに今日は難しいだろう。だが、いずれは……。ミズキは越水の手を握りしめていた。
越水に支えられながら日々を過ごし、ついに魔界を訪れる日がやってきた。越水に頼らずとも自らの足で立っていられるようになった頃、ミズキは越水と魔界に足を踏み入れた。
「君が負傷したのはここ、千代田区だ」
越水の冷静な声を聞きながら、ミズキは辺りを見回した。灰色の空で暗く沈み、今にも崩れ落ちそうなビルと高い崖がランダムにそびえ立つ場所。人の気配はなく、不穏な悪魔が息をひそめている不気味な気配に喉が灼けた。
「以前は龍穴から離れて探索を行っていたが、悪魔に襲われる可能性がある。君を二度も危険に晒すわけにはいかぬ、龍穴付近から離れぬこととしてくれ」
「はい……」
ミズキは端末を手に取り、悪魔全書を開いた。ベテル日本支部が把握している悪魔全てが記録されている。医務室での記憶を頼りに白い悪魔を探した。
「ミシャグジ……」
あるページで手が止まった。細長くのっぺりとした人ならざる白い体躯、手には鉄塊のような剣を握っている。越水も端末に目を落とし、
「……君を傷つけた悪魔だ」
苦々しげに呟いた。彼の辛酸を嘗めたと言わんばかりの顔を見ていると苦しくなってきた。もう傷は塞がり痛みも感じていなかったはずなのに、文字どおり胸に穴が空いた心地がする。その代わり、頭の中の霧は少しずつ晴れていく。越水と魔界の調査を行っている最中ミシャグジに襲われ、咄嗟に越水をかばった。その結果、今に至る。秘書として越水に仕えた日々も、彼が仕事帰りに労ってくれたことも、思い出しつつある。だが何か大切なことが抜け落ちたままだ。越水と魔界を調査する前に重大な出来事があった気がするが、思い出せない。執務室で体調を崩した原因だと思うが閉ざされた記憶の扉は重く、それ以上開きそうにない。
「天宮君。一度帰還するべきだ」
「え……」
いつの間にか頭を抱えていたようで、越水が肩を抱き寄せたことでふと目が覚めた。
「何か思い出そうとしているのだろう。それはよいことだが、魔界で動けなくなるのは命取りだ。一度東京に帰還する」
「はい……ごめんなさい、ご迷惑をかけてしまって……」
「謝ることではない。君の身の安全が第一だ。それに」
一度言葉を区切った越水は、ミズキを見つめた。彼の灰色の瞳は千代田区の空に似た色だが、濁りがなく澄んでいる。
「君が何もかも思い出せなくとも、私の思いは変わらない。君にはただ、息災でいてほしい」
「ミズキさん、最近ずっと越水さんと一緒にいましたよね」
品川駅近くのカフェ、向かい合って座ったヒイラギはぶすっとした顔でコーヒーを口に含んだ。いつも澄ました余裕のある佇まいだったが、こんな顔もするのかと意外だった。
「そうですね。リハビリにずっと付き合ってくださって、魔界にも連れて行ってくれたんです」
「なんで僕に一言もなく……悪魔からミズキさんを守ったのは僕なのに」
唇を尖らせる彼は珍しく年相応に見え、ミズキは笑った。ヒイラギとはリハビリ中もメッセージアプリでやり取りをしていたが、会うのはベテル日本支部が悪魔の襲撃を受けて以来、実に一ヶ月ぶりだ。リハビリが終わるまで過保護なほど丁重に扱ってくれた越水と一緒だった。越水とは全く異なるヒイラギの姿は新鮮だった。
「久しぶりに会えてよかったです。今日、家に帰るんですよ」
「家……ずっと医務室にいましたよね、ミズキさん」
ヒイラギは顎に手を当て、家、家、と何やら意味深に呟いている。なんら不審な話題ではないはずだが、とミズキは不思議に思った。
「家の場所、わかるんですか?」
「越水さんから住所を教えてもらいました。大丈夫ですよ、何とかなります」
「越水さんは一緒じゃないんですか?」
「一緒じゃないです。女性の家だから遠慮する、と仰ってました。それに、家に帰るくらい一人でできますしね」
本当に大丈夫か、とやたら念を押した越水を思い出した。彼がそばにいてくれるのはありがたいが、いくらなんでも頼りすぎた。彼は渋々といった様子ではあるものの、最終的にはミズキの意思を尊重してくれた。
「ふーん……」
ヒイラギは相槌を打ち、斜め上に一瞬視線を向けた。何か思いついたような顔だ。
「ミズキさん、僕も一緒に行きます。ミズキさんの家、二回行ったことありますし、万一迷っても案内できると思います。それに」
ヒイラギが白い箱を見せた。ちょうどケーキが二切れくらい入っていそうな、小さく可愛らしい箱だった。
「美味しいケーキ、買ったんですよ。せっかくですから、ミズキさんの家で食べさせてください」
そう言って笑う彼は子供っぽく、あまつさえウインクを寄越す。断る理由もなく、わかりました、とミズキは微笑んだ。
少しばかり迷いながら、二人はマンションの一室に辿り着く。案内できる、というヒイラギの言葉に偽りなく、的確に導いてくれた。どういう経緯で彼を自宅に招き入れたのか不明だが、以前の自分は頼りになる縁を持ち合わせていたようだ。
扉を開けると、簡素な部屋が出迎えてくれる。キッチンからリビングまで一続きになった典型的なワンルーム、一瞥で部屋のほぼ全てを見回せる。ローテーブルとクッション、シングルベッド。いかにも一人暮らしという部屋だ。ワンルームにしては広いが、それでもヒイラギと二人だと狭く感じる。
「えっと……クッション、ひとつしかないですね……座ってください。何か飲み物を……」
「あ、気を遣わなくて大丈夫ですよ?僕、ここに来るの三回目です。クッションはミズキさんが使ってください」
ヒイラギはにっこり笑ってフローリングに座っている。ミズキは申し訳なさを覚えつつもクッションに座った。客が来ることを想定していない部屋、クッションがもうひとつ必要なのかなあ、とどこか間抜けなことを考えた。
ヒイラギが開けた箱には、ショートケーキとガトーショコラが綺麗に収まっていた。ヒイラギはごく自然にショートケーキをミズキに差し出した。
「ミズキさん、ショートケーキ好きですよね?」
「え、はい……何で知ってるんですか?」
「前に一緒に食べたからですよ。ガトーショコラ、いただきますね」
「…………」
以前の自分は、この美少年とどのような関係だったのだろうか。疑問がよぎるたびに頭が痛くなる。自宅にヒイラギと二人きり……彼の言葉どおり、今回が初めてではない気がしている。何かとても辛いことがあり彼に慰めてもらったような、そんな思い出が蘇ってきた。フォークを持ち、ちらりとヒイラギに目を遣る。ちょうどガトーショコラを小さく切り分け、口に含んでいるところだった。彼の顔が可愛らしく綻んでいる、美味しいんだろうなと微笑ましくなる。ヒイラギは視線に気付き、苦笑いを返した。
「どうしたんですか、ミズキさん」
「いえ……ヒイラギ君って可愛いなと思って」
「……ありがとう、ございます」
純粋に褒めたつもりが、彼は少し唇を尖らせていた。何か気に障ることを言っただろうか。気まずくなり、ミズキはようやくショートケーキを口にした。甘く滑らかなクリーム、ふわりと弾むスポンジ、美味しい。少しずつ思い出してきた。ヒイラギと一緒に食べた味だ。確か、ミズキの方から家で食べようと誘ったのではなかったか。心を殴られるような強烈な出来事から回復してきた頃だった。肉体に大きな傷を負い、そこから回復しつつある現状と似ている。心を深く傷付ける出来事……果たして何だったろうか。まだ靄がかかっているが、白く歪んだ記憶の奥に越水の姿が見えた気がした。まさか越水が原因なのだろうか。
「ミズキさん」
思考の渦に身を委ねていたところ、目の前にヒイラギの顔。心配そうにこちらを覗き込んでいる。きらめく翡翠の瞳に映り込んだミズキが見える至近距離、はっと我に返った。あまりに美しい彼の相貌は、頭に淀みつつあった黒い霧を吹き飛ばしていく。
「どうしました?ぼーっとしてましたよ。何か考え事ですか?」
「少し思い出したことがあって、考え込んでました。ごめんなさい、ヒイラギ君」
申し訳なく呟いた言葉は、ヒイラギに抱きしめられ彼の胸に吸い込まれていった。背中をゆっくり撫でられ、彼の心臓の鼓動がかすかに聞こえる。
「いいんですよ、ミズキさん。僕言いましたよね、あなたの味方ですって。僕には想像しかできないですけど、思い出したくても思い出せないのって、きっと辛いと思います。色々考えてしまうのは当然だと思いますよ。いっぱい考えてください」
「ヒイラギ君……」
そっとヒイラギが離れていく。抱擁は一瞬、名残惜しさを感じてしまう刹那だった。ミズキの胸はあたたかくなる。ヒイラギといい越水といい、ミズキを思いやり大切にしてくれる人ばかりだ。せめて彼らといる間くらいは焦らずにいよう――微笑むミズキを、ヒイラギは柔らかく見つめてくれていた。
ヒイラギが去った夜の自宅。ミズキは一人静かにベッドに寝転がり、悶々と思考を巡らせていた。星屑のように散らばる記憶の断片を、線で結び星座にできる気がして、必死に記憶を手繰り寄せていた。
魔界。白く背の高い悪魔、ミシャグジに胸を貫かれた。彼とは魔界だけでなく、あの執務室や研究室で同じときを過ごした。仕事だけでなく、プライベートでも食事に行くといった交流があった記憶が蘇ってきた。
自宅。ヒイラギを二度――今日も含めれば三度――招き入れた空間。どこからどう見ても学生の彼を自宅に招くなど、通常の状態であれば考えられない。おそらく彼が来たいと言っても断るだろうところ、ミズキから引き入れた事実がある。異常事態だ。何か――何か、ミズキの判断を狂わせる出来事があったはずだ。そう考えるたびに、脳裏に越水がよぎり胸が軋む。彼に関わる何かが起こったに違いない。一体何が、何があった?
「あ……!!」
脳内に眩いまでの稲妻が走った。畏れ多くも越水に告白し、あっさり断られた光景が鮮明に浮かび上がってきた。仕事終わりに越水と食事をし振られ、傷心のミズキをヒイラギが慰めてくれた。一連の流れと当時の衝撃が雪崩れ込んでくる。重大な記憶はミズキに脂汗をもたらし、息ができなくなる苦しみを伴う。胸を押さえて呼吸に集中するうちに少しずつ正常な呼吸を取り戻し、落ち着いてきた。
ようやく全てを思い出した。そして、思い至る。越水、ヒイラギ両方から愛を告げられ、その返事を保留していることに。特にヒイラギは記憶を失う前からだ、相当待たせている。二人ともミズキを慮り返事を急かすどころか話題に上げることもないが、確信した。今こそ、二人の誠実な思いに答えねばなるまい。
ミズキは目を閉じた。瞼の裏の冴えた暗闇に真っ先に思い浮かんだのは、
越水だった。(#10 月とともに輝くへ)
ヒイラギだった。(#10 花とともに咲くへ)
ベテル日本支部が悪魔に襲われてからというもの、越水が常にミズキのそばにいるようになった。これまでは公務があるから、とごく自然な理由でたまに医務室を訪れる程度であったが、誇張ではなくミズキの起きている時間はほぼ越水がいる。
「あの、お仕事は大丈夫ですか?」
そう尋ねたところ、
「分身に任せることにした。これまでは神という立場を他の職員には隠していたが、君が襲われてはそうも言ってはいられない」
と返された。越水の声は至って真剣で、「分身」「神」などと非現実的な言葉が聞こえてきたが問いただす気になれなかった。仕事に支障はない、君を守れぬことの方が余程差し障りがある、と灰色の瞳に見つめられて言われたら、ミズキは返す言葉がなかった。
胸から背中に走る痛みが止み、ほぼ寝たきりだったミズキが立ち上がり歩き出そうとしていた。そのとき近くで手を取ってくれるのは越水だった。淑女をダンスに誘う紳士の仕草で手を取られ、おぼつかないミズキに合わせて歩いてくれる。彼の大きな掌に手を乗せていると安心感があった。
今日も医務室を出てベテル日本支部内を二人で歩く。越水に手を握られ歩くと、ほぼ動かしていなかった足の筋肉が悲鳴を上げる。少しふらついたときには、
「大丈夫か」
肩を抱かれ寄りかかる形になる。あまりにも自然な所作は優美で、ミズキはため息をつかざるを得なかった。胸に甘い鼓動が走る。そしてこの鼓動、どこかで覚えがある。私は以前、誰かを好きだったような気がする。でも、一体誰だっただろう?ミズキの脳裏に浮かぶ記憶の水面は揺らめき、はっきりと相手の顔が見えない。ミズキは歯噛みした。今はそんな甘ったるいことを考えている場合じゃない、早く一人でも歩けるようになって魔界を見に行きたいのに。
「ここがアオガミに関する研究室だ。君が所属していた研究室だな」
「ここが……」
ある日、ミズキは越水とともに薄暗い研究室を訪れた。モニターが緑色の不気味な光を放つ機械類、地下に「アオガミ」のメンテナンスを行うポッドが埋め込まれているらしい。いかにも研究室らしい、無機質な空気が漂う部屋だ。
「何だか見覚えがあるような……私、ここで働いていた時期もあるんですよね?」
「そうだ。君はもともとアオガミ……神造魔人のメンテナンス業務に従事していた。かの大戦でアオガミは失われ、長く君の仕事がなくなったことから私の秘書となっていた、ほぼ私の専属秘書といって差し支えない」
「秘書……アオガミ……」
ミズキは越水から貸し出された端末に目を落とした。神造魔人アオガミ。青い髪と金色の瞳、白い服が特徴的な男性だ。彼に見覚えがあるのは、彼の面立ちが越水に似ているから、というだけではなさそうだ。
「私の執務室にも行ってみるか?君がよくいた場所だ」
「はい、行ってみたいです」
真っ暗な記憶の底に手を突っ込んでいるような気分だ。手を動かすと何かが指先に当たるが、暗くて何なのかわからないし引き上げる力もない。記憶を失う前に日常的に見聞きしたものに触れればもっと鮮明に思い出せるかも、とミズキは焦っていた。医務室で目覚めてからそれなりに時間が経過したというのに、肉体の回復以外進展が見られないことにもどかしさを覚えている。
「ここが執務室だ」
越水に続き部屋に入る。明るすぎない照明の中、高級感のある机と椅子、簡易なベッドが置かれている。机の上は書類等置かれているが綺麗に整頓されており、たぶん物を所定の位置から動かしたらすぐに気付くんだろうなあ、と呑気なことを考えた。無駄を削ぎ落とした色気のない部屋、ともあれば息が詰まりそうな生活感のなさだが、ミズキは妙に落ち着いていた。ある意味では、清潔感のある医務室よりも。
「見覚えがあります……えっと……一度……そこのベッドで寝てた、ような……」
頭がくらくらする。脳の奥で揺らめいている景色がある。この部屋で一度体調を崩し、気がついたら眠っていて……どうしてそんなに体調を崩したのだろう、と気になった。脳が軋むような痛みがある。思い出してはいけないと叫んでいるようだ。ミズキは頭を押さえ、ふらついた。すかさず越水が抱き止める。
「大丈夫か。少し座るといい」
「はい……」
部屋の片隅にあるベッドは質素そのもの、医務室のベッドより硬い。それでも座ると少し楽になった。冷や汗が止まらないが。
「越水さん……お願いします。魔界に連れていってください。もう少しで思い出せそうなんです。一刻も早く思い出したいんです」
「……天宮君」
越水はミズキの前に膝をつき、震える手を取った。灰色の瞳は真摯にミズキを見つめている。
「君の願いはできる限り叶えたい。だが、君はまだ本調子ではないはずだ。少なくとも今日は避けた方がいい」
「はい」
真剣な眼差しに頷く。確かに今日は難しいだろう。だが、いずれは……。ミズキは越水の手を握りしめていた。
越水に支えられながら日々を過ごし、ついに魔界を訪れる日がやってきた。越水に頼らずとも自らの足で立っていられるようになった頃、ミズキは越水と魔界に足を踏み入れた。
「君が負傷したのはここ、千代田区だ」
越水の冷静な声を聞きながら、ミズキは辺りを見回した。灰色の空で暗く沈み、今にも崩れ落ちそうなビルと高い崖がランダムにそびえ立つ場所。人の気配はなく、不穏な悪魔が息をひそめている不気味な気配に喉が灼けた。
「以前は龍穴から離れて探索を行っていたが、悪魔に襲われる可能性がある。君を二度も危険に晒すわけにはいかぬ、龍穴付近から離れぬこととしてくれ」
「はい……」
ミズキは端末を手に取り、悪魔全書を開いた。ベテル日本支部が把握している悪魔全てが記録されている。医務室での記憶を頼りに白い悪魔を探した。
「ミシャグジ……」
あるページで手が止まった。細長くのっぺりとした人ならざる白い体躯、手には鉄塊のような剣を握っている。越水も端末に目を落とし、
「……君を傷つけた悪魔だ」
苦々しげに呟いた。彼の辛酸を嘗めたと言わんばかりの顔を見ていると苦しくなってきた。もう傷は塞がり痛みも感じていなかったはずなのに、文字どおり胸に穴が空いた心地がする。その代わり、頭の中の霧は少しずつ晴れていく。越水と魔界の調査を行っている最中ミシャグジに襲われ、咄嗟に越水をかばった。その結果、今に至る。秘書として越水に仕えた日々も、彼が仕事帰りに労ってくれたことも、思い出しつつある。だが何か大切なことが抜け落ちたままだ。越水と魔界を調査する前に重大な出来事があった気がするが、思い出せない。執務室で体調を崩した原因だと思うが閉ざされた記憶の扉は重く、それ以上開きそうにない。
「天宮君。一度帰還するべきだ」
「え……」
いつの間にか頭を抱えていたようで、越水が肩を抱き寄せたことでふと目が覚めた。
「何か思い出そうとしているのだろう。それはよいことだが、魔界で動けなくなるのは命取りだ。一度東京に帰還する」
「はい……ごめんなさい、ご迷惑をかけてしまって……」
「謝ることではない。君の身の安全が第一だ。それに」
一度言葉を区切った越水は、ミズキを見つめた。彼の灰色の瞳は千代田区の空に似た色だが、濁りがなく澄んでいる。
「君が何もかも思い出せなくとも、私の思いは変わらない。君にはただ、息災でいてほしい」
「ミズキさん、最近ずっと越水さんと一緒にいましたよね」
品川駅近くのカフェ、向かい合って座ったヒイラギはぶすっとした顔でコーヒーを口に含んだ。いつも澄ました余裕のある佇まいだったが、こんな顔もするのかと意外だった。
「そうですね。リハビリにずっと付き合ってくださって、魔界にも連れて行ってくれたんです」
「なんで僕に一言もなく……悪魔からミズキさんを守ったのは僕なのに」
唇を尖らせる彼は珍しく年相応に見え、ミズキは笑った。ヒイラギとはリハビリ中もメッセージアプリでやり取りをしていたが、会うのはベテル日本支部が悪魔の襲撃を受けて以来、実に一ヶ月ぶりだ。リハビリが終わるまで過保護なほど丁重に扱ってくれた越水と一緒だった。越水とは全く異なるヒイラギの姿は新鮮だった。
「久しぶりに会えてよかったです。今日、家に帰るんですよ」
「家……ずっと医務室にいましたよね、ミズキさん」
ヒイラギは顎に手を当て、家、家、と何やら意味深に呟いている。なんら不審な話題ではないはずだが、とミズキは不思議に思った。
「家の場所、わかるんですか?」
「越水さんから住所を教えてもらいました。大丈夫ですよ、何とかなります」
「越水さんは一緒じゃないんですか?」
「一緒じゃないです。女性の家だから遠慮する、と仰ってました。それに、家に帰るくらい一人でできますしね」
本当に大丈夫か、とやたら念を押した越水を思い出した。彼がそばにいてくれるのはありがたいが、いくらなんでも頼りすぎた。彼は渋々といった様子ではあるものの、最終的にはミズキの意思を尊重してくれた。
「ふーん……」
ヒイラギは相槌を打ち、斜め上に一瞬視線を向けた。何か思いついたような顔だ。
「ミズキさん、僕も一緒に行きます。ミズキさんの家、二回行ったことありますし、万一迷っても案内できると思います。それに」
ヒイラギが白い箱を見せた。ちょうどケーキが二切れくらい入っていそうな、小さく可愛らしい箱だった。
「美味しいケーキ、買ったんですよ。せっかくですから、ミズキさんの家で食べさせてください」
そう言って笑う彼は子供っぽく、あまつさえウインクを寄越す。断る理由もなく、わかりました、とミズキは微笑んだ。
少しばかり迷いながら、二人はマンションの一室に辿り着く。案内できる、というヒイラギの言葉に偽りなく、的確に導いてくれた。どういう経緯で彼を自宅に招き入れたのか不明だが、以前の自分は頼りになる縁を持ち合わせていたようだ。
扉を開けると、簡素な部屋が出迎えてくれる。キッチンからリビングまで一続きになった典型的なワンルーム、一瞥で部屋のほぼ全てを見回せる。ローテーブルとクッション、シングルベッド。いかにも一人暮らしという部屋だ。ワンルームにしては広いが、それでもヒイラギと二人だと狭く感じる。
「えっと……クッション、ひとつしかないですね……座ってください。何か飲み物を……」
「あ、気を遣わなくて大丈夫ですよ?僕、ここに来るの三回目です。クッションはミズキさんが使ってください」
ヒイラギはにっこり笑ってフローリングに座っている。ミズキは申し訳なさを覚えつつもクッションに座った。客が来ることを想定していない部屋、クッションがもうひとつ必要なのかなあ、とどこか間抜けなことを考えた。
ヒイラギが開けた箱には、ショートケーキとガトーショコラが綺麗に収まっていた。ヒイラギはごく自然にショートケーキをミズキに差し出した。
「ミズキさん、ショートケーキ好きですよね?」
「え、はい……何で知ってるんですか?」
「前に一緒に食べたからですよ。ガトーショコラ、いただきますね」
「…………」
以前の自分は、この美少年とどのような関係だったのだろうか。疑問がよぎるたびに頭が痛くなる。自宅にヒイラギと二人きり……彼の言葉どおり、今回が初めてではない気がしている。何かとても辛いことがあり彼に慰めてもらったような、そんな思い出が蘇ってきた。フォークを持ち、ちらりとヒイラギに目を遣る。ちょうどガトーショコラを小さく切り分け、口に含んでいるところだった。彼の顔が可愛らしく綻んでいる、美味しいんだろうなと微笑ましくなる。ヒイラギは視線に気付き、苦笑いを返した。
「どうしたんですか、ミズキさん」
「いえ……ヒイラギ君って可愛いなと思って」
「……ありがとう、ございます」
純粋に褒めたつもりが、彼は少し唇を尖らせていた。何か気に障ることを言っただろうか。気まずくなり、ミズキはようやくショートケーキを口にした。甘く滑らかなクリーム、ふわりと弾むスポンジ、美味しい。少しずつ思い出してきた。ヒイラギと一緒に食べた味だ。確か、ミズキの方から家で食べようと誘ったのではなかったか。心を殴られるような強烈な出来事から回復してきた頃だった。肉体に大きな傷を負い、そこから回復しつつある現状と似ている。心を深く傷付ける出来事……果たして何だったろうか。まだ靄がかかっているが、白く歪んだ記憶の奥に越水の姿が見えた気がした。まさか越水が原因なのだろうか。
「ミズキさん」
思考の渦に身を委ねていたところ、目の前にヒイラギの顔。心配そうにこちらを覗き込んでいる。きらめく翡翠の瞳に映り込んだミズキが見える至近距離、はっと我に返った。あまりに美しい彼の相貌は、頭に淀みつつあった黒い霧を吹き飛ばしていく。
「どうしました?ぼーっとしてましたよ。何か考え事ですか?」
「少し思い出したことがあって、考え込んでました。ごめんなさい、ヒイラギ君」
申し訳なく呟いた言葉は、ヒイラギに抱きしめられ彼の胸に吸い込まれていった。背中をゆっくり撫でられ、彼の心臓の鼓動がかすかに聞こえる。
「いいんですよ、ミズキさん。僕言いましたよね、あなたの味方ですって。僕には想像しかできないですけど、思い出したくても思い出せないのって、きっと辛いと思います。色々考えてしまうのは当然だと思いますよ。いっぱい考えてください」
「ヒイラギ君……」
そっとヒイラギが離れていく。抱擁は一瞬、名残惜しさを感じてしまう刹那だった。ミズキの胸はあたたかくなる。ヒイラギといい越水といい、ミズキを思いやり大切にしてくれる人ばかりだ。せめて彼らといる間くらいは焦らずにいよう――微笑むミズキを、ヒイラギは柔らかく見つめてくれていた。
ヒイラギが去った夜の自宅。ミズキは一人静かにベッドに寝転がり、悶々と思考を巡らせていた。星屑のように散らばる記憶の断片を、線で結び星座にできる気がして、必死に記憶を手繰り寄せていた。
魔界。白く背の高い悪魔、ミシャグジに胸を貫かれた。彼とは魔界だけでなく、あの執務室や研究室で同じときを過ごした。仕事だけでなく、プライベートでも食事に行くといった交流があった記憶が蘇ってきた。
自宅。ヒイラギを二度――今日も含めれば三度――招き入れた空間。どこからどう見ても学生の彼を自宅に招くなど、通常の状態であれば考えられない。おそらく彼が来たいと言っても断るだろうところ、ミズキから引き入れた事実がある。異常事態だ。何か――何か、ミズキの判断を狂わせる出来事があったはずだ。そう考えるたびに、脳裏に越水がよぎり胸が軋む。彼に関わる何かが起こったに違いない。一体何が、何があった?
「あ……!!」
脳内に眩いまでの稲妻が走った。畏れ多くも越水に告白し、あっさり断られた光景が鮮明に浮かび上がってきた。仕事終わりに越水と食事をし振られ、傷心のミズキをヒイラギが慰めてくれた。一連の流れと当時の衝撃が雪崩れ込んでくる。重大な記憶はミズキに脂汗をもたらし、息ができなくなる苦しみを伴う。胸を押さえて呼吸に集中するうちに少しずつ正常な呼吸を取り戻し、落ち着いてきた。
ようやく全てを思い出した。そして、思い至る。越水、ヒイラギ両方から愛を告げられ、その返事を保留していることに。特にヒイラギは記憶を失う前からだ、相当待たせている。二人ともミズキを慮り返事を急かすどころか話題に上げることもないが、確信した。今こそ、二人の誠実な思いに答えねばなるまい。
ミズキは目を閉じた。瞼の裏の冴えた暗闇に真っ先に思い浮かんだのは、
越水だった。(#10 月とともに輝くへ)
ヒイラギだった。(#10 花とともに咲くへ)