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雫
その日、海上都市シバに薄く雪が積もっていた。島国に雪が降り積もることは珍しい。滅多に見ない雪景色に、街は寒いながらもどこか楽しそうなふわふわとした空気を纏っていた。
「雪ですわ!ねえ、少し散歩してきます!」
シバの王女ミコトは王城の窓から雪景色を眺め、いてもたってもいられなくなった。侍女に告げ、部屋を飛び出さんばかりに駆けていく。
「姫様、駄目です!お風邪を召してしまいます、ちゃんと防寒してくださいませ」
侍女に手首を掴まれ制止された。今すぐ振りほどいて駆け出したかったが、現在のミコトは外出を想定していない薄着だった。ミコトは唇を尖らせながら立ち止まり、心地いい手触りのマフラーやコートを着込むと、今度こそ走り出した。
王城の廊下もツンと冷たい空気が漂っていた。舞い踊るようにミコトは駆け、裏口から外に出た。王城の裏は美しい浜辺。白波が立つ冬の海にちらちらと白い雪が降り落ち、浜辺はうっすら白い雪に染まっていた。
「わあ……!綺麗ですわ!」
ミコトは軽やかな足取りで浜辺に立ち、両手を広げて空を見上げた。冬特有の高い空は分厚い雲に覆われ、そこから純白の天使が舞い降りてくる。広げた腕にぽつりぽつりと白い結晶が付着し、指で触れると冷たい。初めて味わう感触にミコトは笑んだ。冬はあまり好きではなかったけれど、雪景色が見られるのなら素敵な季節だ。
「あら?」
波音が静かに耳を揺らす中ふと浜に目を遣ると、青い何かが倒れているのが見えた。魚にしては大きい、イルカにしては色鮮やかだ。一体何事か、王女の好奇心をくすぐった。ミコトは臆することなく近付き、見下ろした。
「う……うう……」
「!」
倒れていた何か、否、誰かが呻き声を上げた。間近で見ると、青い髪が美しい青年だった。倒れた彼の背中に雪が降り積もり、浜辺の雪景色の一部になりつつある。見るからに怪しい不審者なのだが、ミコトは彼のそばにしゃがみ込んだ。
「大丈夫ですの?」
青年の肩を揺すり声をかけてみる。青年はぴくりと指先を動かした。生きているが、触れた肩は氷のように冷え切っていた。ここに打ち上げられ相当の時間が経過したものと思われる。
「う……ん……」
青年の指先が拳を作り、目を開いた。その瞳は月のように美しい金色で、ミコトをぼんやりと見つめていた。
「ん……君は……?」
青年の声はか細く、波の音にかき消えそうだった。ミコトは明瞭に答える。
「わたくしはミコトですわ。あなたは?」
「ぼくは……ヒイラギ……」
ヒイラギと名乗った青年はゆっくりと身を起こした。髪を白く染めていた雪がぱらぱらと砂浜に零れ落ちた。
「ヒイラギ、あなたどこから来ましたの?シバの者ではありませんわね?」
「シバ……ここは、シバっていうの?」
「ええ、そうですわ」
ヒイラギはううん、と言いながら頭に手を当てた。彼がゆるゆると頭を振るたびに雪が落ち、彼の長い睫毛を白く飾った。
「僕……色々旅してて……そうだ、船は!?」
ヒイラギが振り返ると、砂浜に小さな船が打ち上げられていた。衝突してしまったらしく船体に大きな穴が空きマストもぼろぼろ、まともに航行できる状態ではなかった。ヒイラギは無惨な船を見、大きく肩を落とした。
「あれがあなたの船ですのね?」
「うん……あれじゃ、動かせないな……修理しないと……」
「では、船の修理が終わるまでしばらくシバにいればいいですわ。ね?」
明るく笑ったミコトに、ヒイラギは困惑しながら目を見開いていた。
海上都市シバは例がないほどの寒波に見舞われ、雪が降り続いていた。活気付く城下町も薄い雪化粧が施され、すっきりと晴れない曇天が続いているものの、見慣れない雪にシバの住民はみな嬉しそうだった。かくいうミコトもその一人で自室の窓辺から手を伸ばし、舞い落ちる雪と戯れていた。あたたかな掌に触れた雪はじわりと水に変わり、儚く溶けていく。何度見ても面白く、ミコトは雪景色に心が躍った。
「姫様、入ってもよろしいでしょうか」
コンコン、と軽やかなノックの音。入りなさい、と返事をした瞬間、侍女が現れた。優雅な一礼とともにミコトに歩み寄る。
「どうしましたの?」
「以前姫様が保護した冒険者が姫様に礼をしたいと申しております。どうされますか?」
「ヒイラギのことかしら?」
「はい、そうです」
ミコトの脳裏に鮮やかな青色の髪と金色の瞳を持つ青年が浮かんだ。シバでは見かけない身なりの青年だった。彼には色々と聞いてみたいことがある。
「わかりましたわ。ここに通しなさい。それと、お茶の準備を」
「わかりました」
侍女を見送り、数分後。ティータイムの準備が整った部屋に再びノックの音が響いた。
「ヒイラギです」
「待っていましたわ。入りなさいな」
「お邪魔します」
静かに開いた扉、そこに現れたのはあの雪降る浜辺で倒れていた青年だった。青い髪が澄んだ海のように美しく揺らめく。彼はミコトの姿を認めると、穏やかに目を細めた。
「初めまして、王女殿下。ヒイラギです」
彼はミコトに跪き、恭しく頭を下げた。海上都市シバの王女に対する至極真っ当な態度だが、ミコトは頬を膨らませた。
「顔を上げなさい」
言葉どおり、ヒイラギが顔を上げる。金色の瞳は見惚れるほど美しく、優美なだけではない力強い輝きを秘めていた。ミコトは膝を折り、できる限り彼と目線を合わせた。
「わたくしと同じ年頃の方々はもっと親しみを込めて話すと聞きます。ですから、ヒイラギ。わたくしは王女ですが、わたくしと二人きりのときに限り、普段どおり接することを許可します」
「え?」
彼の目が大きく見開いた。見るからに困惑したその顔、少し間抜けだ。ミコトはくす、と笑みを漏らした。
「あなたもそんな顔をしますのね。少し意外ですわ」
「普段どおり接するって……ええと……」
「跪くのも辞めなさい。対等な友人として接したいということですわ」
「あ……はい」
はい、と零したヒイラギを睨むと、少し気の抜けたうん、が返ってきた。ヒイラギは立ち上がり、ミコトを見下ろした。彼の方が背が高く、体格もいい。さすがは荒波を乗り越えてきた冒険者といったところか。
「ヒイラギ、今日時間はあるかしら」
「うん、あるよ」
「では」
ミコトは可憐なテーブルに腰掛け、行儀良く座りヒイラギを見つめた。テーブルには一人では食べ切れない茶と菓子、向かい側の席は空いている。
「わたくしとのティータイムに付き合ってください。礼についても聞きますから、ひとまずお座りなさいな」
空いた椅子を指差すと、ヒイラギは見るからに緊張した様子で座った。いつもティータイムは一人きり、誰かいたとしても侍女だった。王城の外の人間、それも自分と同じ年頃の青年と茶を嗜むなど初めての体験だ。ミコトの顔は自然と綻んでいた。二人分の紅茶を淹れると、ティーカップからふわりと湯気が立ち上る。
「あの、お礼を言いに来たんだ。住むところと大工を手配してくれて、ありがとう」
ヒイラギはミコトを真っ直ぐ見据え、深々と頭を下げた。その様子はまさに紳士、礼儀を知らない荒くれではないようだ。
「礼を言われるほどのことではありませんわ。わたくしはただ、お母様に進言しただけですもの」
「君が言ってくれたからだよね。やっぱり、ありがとう」
律儀なヒイラギにミコトは微笑んだ。よかった。ヒイラギもシバの暮らしを満喫……とまではいかないまでも、楽しんでいるようだ。
漂流者のヒイラギには船の修理が済むまでという期間限定で、空き家と大工が手配された。身元不明の不審者のため女王は投獄を考えていたようだが、ミコトが何とか説得した。彼がそこまで怪しい者には見えなかったから、というのもあるが、ミコトとしては彼に恩を売っておきたかった。ミコトは頬杖をつき、ヒイラギに笑いかけた。
「ヒイラギ、あなた、わたくしには頭が上がらないでしょう。少し協力してほしいことがありますわ」
「……何かな?」
ヒイラギの笑顔が引き攣った。ミコトはにんまりと笑い、ヒイラギに人差し指を突きつけた。
「あなた、冒険者ですわね?であれば、今まで様々な国を訪れたことでしょう。その仔細をわたくしに話しなさい」
「……へ?」
ヒイラギのぽかんとした顔が見ものだった。
海上都市シバに聳え立つ王城。そこはごく限られた者しか往来を許されぬ場所だが、青い髪の冒険者が頻繁に訪れるようになった。目的地は王女、ミコトの部屋。彼女の部屋でこれまでの冒険譚を聞かせるのが、彼の新たな日課となった。
「いらっしゃい、ヒイラギ。お待ちしておりましたわ」
今日もヒイラギはミコトの部屋を訪れる。何度見ても豪奢な部屋だ。ミコトに促され、ティータイムを楽しむテーブルに座る。
「ふふ、今日はどんなお話を聞かせてくださるのかしら」
美味しそうな菓子、芳しい香りを振りまく紅茶の向こうで、ミコトはキラキラとした顔でヒイラギの言葉を待っていた。冒険者であればよくある話をここまで楽しみにしてくれる人間がいるとは思いもしなかった。
「じゃあ、そうだな……交易都市の話でもしようか」
ヒイラギが語るのは航海中に見つけた交易都市と、そこに至るまでの苦労話。大海原に潜む魔物たちとの果敢なる戦い、海流に負けぬよう舵を取ることに伴う困難、ようやく陸地に辿り着いたときの歓喜。そのいずれもミコトには刺激的な話のようで、熱心に彼女は聞いていた。「それで、どうなりましたの!?」と尋ねる無垢な言葉は、朴訥なヒイラギをも高揚させた。ただ自分のために行っている旅が、誰かの話の種になるなんて思いもしなかった。
「ふふ、ヒイラギのお話は面白いですわ。交易都市がいくつかあることは本で知っていましたが、やはり本を読むだけではわからないことがたくさんありますわね」
「ミコトはこの国から出たことはないの?」
「ありませんわ」
どおりで。ヒイラギは合点がいった。
「それどころか、王城からも滅多には出られませんのよ。城下町にもほとんど行ったことがありませんわ」
「え、どうして?城下町なんてすぐそこだよね?」
「ええ、そうなのですけれど。お母様は過保護ですから」
ミコトのため息は切実で、言葉以上に重かった。冒険者と一国の王女。立場が違うことは理解していたが、ヒイラギが思うよりその差は大きいようだ。生まれながらにして高貴な身は、王城という世界に縛り付けられるものなのか。あちこち船で駆けずり回るのを至上の喜びとするヒイラギには、その窮屈な暮らしをうまく想像できなかった。
「ねえ、じゃあさ。城下町に行ってみようよ」
「え?」
身を乗り出したヒイラギの提案に、ミコトは唖然としていた。
「いつも君の部屋に招待してもらってるからさ、たまには僕の家においでよ。まあ……こんな綺麗なところじゃないけどさ」
「え、でも……お母様が許すはずがありませんわ」
「大丈夫だよ。僕の様子が心配だから見にいく、とか言ったらいいんじゃない?それって、変な理由じゃないよね」
そう言ってみると、ミコトは腕を組み、「なるほど……」と黙り込んだ。そして笑顔の花を咲かせる。
「ヒイラギ、妙案ですわ!早速お母様に進言してみますわね!」
目の中で星を輝かせながら、ミコトはヒイラギの手を取った。そのぬくもりは、たった一人で旅を続けるヒイラギには新鮮なものだった。
コンコン、と家のドアがノックされた。ヒイラギはテーブルから立ち上がり、ドアを開けた。
「こんにちは、ヒイラギ!」
ドアの向こうにはキラキラと目を輝かせたミコトが立っていた。質素で小さな家にはそぐわぬ仕立てのいい服を着た彼女は、いかにも王女らしい堂々とした振る舞いだった。
「ああ、本当に来てくれたんだ。いらっしゃい。何のおもてなしもできないけど」
「いえ、突然来ましたから、気にしなくてよいですわよ。お邪魔しますわ」
家に入る前にスカートの端をつまみ、ミコトは優雅な一礼を見せた。ヒイラギは彼女をテーブルに座らせ、茶を淹れることにした。彼女が王城で飲んでいるような上等な茶葉ではないのが申し訳ないが、よい香りだ。
「城下町に来たのも久しぶりですわ。大変でしたのよ、ここまで来るのも」
「そうなの?」
ヒイラギが持っているのは本当に簡素なティーカップ。そこにごく普通の茶を注ぐ。ミコトに差し出すと、彼女は「ありがとう」と言いさらりと飲んでくれた。
「ええ。お母様の説得に時間がかかりましたわ。でも、護衛をつけずに来られたのはよかったですわ。あなたとはゆっくりお話したいですから」
「そっか。ありがとう、だいぶ無理をしてくれたんだね」
微笑んだヒイラギに、ミコトは小さな籠を差し出した。綺麗に包装されたクッキーが数枚入っている。
「これはささやかなお礼ですわ。是非召し上がって」
「え?せっかくだから、一緒に食べようよ」
ヒイラギは一枚クッキーを取り、ミコトに手渡した。ミコトはきょとんとしながらも、受け取ってくれる。
「一緒に食べた方が美味しいよね」
「それもそうですわね」
ふふ、と二人は笑い合い、クッキーを手にした。ヒイラギが口に放り込むとさくりと口の中で砕け、ほろほろと甘く崩れていく。美味しい。城下町でもクッキーは売っているが、それよりも格段に美味しい。材料が違うのか、作る人間の腕か、それとも。ヒイラギの口元は自然と綻んでいた。
「最近ずっと雪が降ってるね」
ヒイラギはふと窓の外に視線を移した。ヒイラギがシバに住み始めてからずっと、小雪が降り続いている。薄く積もる程度で生活に大きな支障はないが、寒い。冒険者のヒイラギにとっても雪は物珍しかった。
「シバでこんなに雪が降ることは珍しいですわ。今年は一段と寒いですわね」
「あ、そうなんだ。周りは海だし、やっぱり雪は珍しいんだね」
「ええ。ですから、わたくしも含め雪には慣れていませんの。船の修理も時間がかかってしまって、申し訳ないですわ」
「ううん、いいんだ。僕も雪を見る機会があまりないから楽しいよ。住む場所も修理も手配してくれて、頭が上がらないよ」
ミコトが小さくくしゃみをした。暖炉に火は焚べているものの、今日も寒い。あたたかな王城に慣れた王女には辛い寒さかもしれない。ヒイラギは毛布を手に取ると、彼女の細い肩にかけてやった。
「寒かったね、ごめんね。使っていいよ」
「あ、ありがとうございます……」
ミコトの頬がぽっと赤く染まり、ぎゅっと大事そうに毛布を握りしめた。
ヒイラギの滞在期間は二週間にも及んだ。降り続く雪のおかげで船の修理に遅れが出ている結果だった。ヒイラギは微塵も焦りを感じていなかった。海上都市シバ、活気があり海が美しく、よい場所だ。ヒイラギは自身が打ち上げられた海岸に立ち、遠い水平線を眺めていた。灰色の薄曇りに舞い落ちる白い花、海の波は白い泡を立てている。静かな海に、もうすっかり見慣れた少女が現れた。
「お待たせしましたわ、ヒイラギ」
「やあ、ミコト」
海上都市シバの王女、ミコト。今日はマフラーやコートできっちり防寒対策をしており、くしゃみなどしなさそうな服装だった。鼻や頬が赤い彼女の愛らしさに、ヒイラギは微笑んだ。
「海は広いですわ。この先にどんな国や島があるのか、と考えてばかりですの」
ヒイラギの隣で波打ち際を眺める彼女は、どこか遠い声で呟いた。身を憂う切ない声だった。
「ミコトはシバを出たことがないんだよね」
「ええ。他に国があることは知ってますわよ?本がありますから。でも、本で読むだけでは何もわかりませんわよね」
「うん。実際に見てみたら全然違うと思うよ」
冒険者のヒイラギも、異国の本はいくらも読んだことがある。しかし、やはり目で見て実際に降り立つ大地はずいぶんと違う印象を受けた。新たな街を見つけたときの高揚感、その中でしか感じられない空気、ヒイラギは冒険でしか得られない新鮮な体験が好きでたまらなかった。
「ねえ、ミコト。そこの小舟でちょっと外に出てみない?」
「……えっ?」
ミコトは硬直した。ヒイラギが指差す先には、ちょうど二人で乗れる程度の小舟が停まっている。遠くまで行けるような舟ではないが、少し離れた場所の空気を吸うにはもってこいだ。
「で、でもわたくしは……勝手に外に出るなんて……」
「ちょっとここを離れて小島に行ってみるだけだよ。ほら」
ヒイラギはミコトの手を引いた。あ、とミコトが逡巡する間に、よろめく彼女を引っ張ってしまう。雪は繋いだ二人の手の甲にも落ち、小さな白い花を咲かせる。
「ここに座って?大丈夫、僕が漕ぐからさ」
「ヒイラギ……わかりましたわ。あなたにお任せします」
向かい合って舟に座ったミコトは、観念したように頷き笑った。その姿は美しく、簡素な小舟に麗しの花が咲いたように見えた。
「よし、行ってみよう」
ヒイラギは二本の櫂を持ち、漕ぎ始めた。普段は帆船で旅をしているヒイラギだが、小舟の操縦も慣れたものだ。すいすいと漕いでいく彼を、ミコトは感嘆の眼差しで見つめている。
「すごいですわね、ヒイラギ。このような舟を漕げるなんて」
「慣れれば簡単だよ。ちょっと体力を使うくらい。どう?ちょっとずつ離れていってるけど」
二人を乗せた小舟はシバの浜辺に別れを告げ、水脈を描きながら進んでいく。ミコトは離れていくシバを感慨深く眺めていた。
「ドキドキしますわ。こんな小さな舟で、二人きりでなんて。ありがとう、ヒイラギ」
「ふふ、お礼はちゃんとした小島に着いてから、かな。あ、あの島とかどうだろう?」
ヒイラギが指差す先に、人が住んでいないだろう小島があった。ミコトと二人、静かに小島へ急ぐ。小島は海へと繋がる川から辿っていく。川を進むと、やがて島の中央をくり抜くように佇む湖に辿り着いた。枯れた木々に覆われた湖には当然ながら誰もいない。深々と降り続く雪が湖に落ち波紋となる。二人の小舟はやがて湖の中央で静かに止まった。
「綺麗な場所ですわ……静かで、誰もいない……」
空を見上げるミコトの口元に、白い牡丹雪が咲いた。ヒイラギの口元も白い花が咲いては消え、また咲き誇る。
「少し降りようか」
ヒイラギは汀に小舟を近付け、ぴたりと停めた。二人、名もなき小島に降り立つ。人を失った小舟に雪が薄く積もっていく。澄んだ湖は鏡となり、湖を覆う木々と曇天を写している。舞い落ちる雪は二人を、周囲の木々を白く染め上げていく。
「寒くない?」
「平気ですわ」
そうは言うけれど、ヒイラギはミコトの肩を抱いた。驚いた彼女が見上げてくるが、微笑むと彼女は寄りかかってきた。あたたかい、人の体温。一人で冒険をしている中では得られぬぬくもりに、ヒイラギは目を細めた。
「山紫水明、というのはこういうことを言うのかもしれませんわね」
「そうかもね。とっても綺麗だ」
二人は特に何をするでもなく、自然が織りなす景色を眺めていた。時折木々の上枝から積もった雪が落ちていく。二人寄り添ううちに、自然と二人の手は繋がっていた。ミコトの手は冷たく、ヒイラギはそっと彼女の手に優しく息を吹きかけた。ミコトの顔が赤らんでいく。
「な、何をしますの、ヒイラギ」
「寒いでしょ?」
「……手袋をしてこなくてよかったですわ」
微笑み合う二人の間に、穏やかな沈黙が流れる。ヒイラギは初めて知った。誰かとともに過ごす沈黙が、こんなに心地よいことがあるのだと。
二人は時間を忘れていた。灰色の雲にうっすらと橙が差し始めた頃、ばちゃばちゃと風情のない水を漕ぐ音が響いた。
「姫様!!姫様!!」
「……城の者ですわ!」
海上都市シバの旗を掲げた船が、川を辿り湖にやって来た。甲冑を着込んだ物々しい兵士たちが各々声を上げ、ミコトに呼びかけていた。船は二人の小舟のそばに停まり、慌ただしい物音を立てて兵士たちが上陸する。彼らはミコトの手を取り、またある者たちはヒイラギを取り囲んで槍を喉元に突きつけた。
「姫様を許可なくさらった者はお前か!姫様をシバの外に連れ出すなど、重罪であるぞ!」
「待って!皆、誤解していますわ!ヒイラギはわたくしの希望を聞いてくれたのです!」
ミコトは声を上げるが、兵士たちは聞き入れもしなかった。ヒイラギを地面に押し付けると、両手首を縄で縛り上げてしまう。
「やめて!やめなさい!わたくしの言うことを聞きなさい!」
ミコトの悲痛な声が耳を揺らす中、ヒイラギは思いきり兵士に殴られ意識が遠のいていった。
……寒い。とても、寒い。
ヒイラギが目を覚ましたのは牢獄だった。両手両足を縄で縛られ、動けない。呻き声を上げながらヒイラギは思い返していた。ミコトと離れ小島の景色を楽しんでいたら、兵士に取り囲まれ殴られた。そこまでは覚えている。
「ヒイラギ!」
冷たい牢獄にミコトの声が響いた。後ろには護衛だろうか、兵士が一人ついている。ヒイラギが顔を上げると、必死の形相のミコトと目が合った。
「ミコト……」
「大丈夫ですか!?」
「うん……ちょっと体が痛いけど、無事だよ」
「そうですか……よかった」
現状を素直に告げると、ミコトはほっと胸を撫で下ろした。目尻に涙を浮かべながらも笑ってくれる彼女に、ヒイラギも笑った。少しばかり無理をした笑顔だったが、それでも彼女には辛い顔を見せたくなかった。
「あれから僕はどうなったの?」
「ここは王城の地下牢ですわ。あなたはわたくしを連れ出した罪に問われる予定ですのよ」
「罪……僕、どうなるの?」
「順当に行けばしばらくここに捕えられることになりますわね。あまり遠くに行かなかったですし、短時間ですから、死刑にはならないと思いますわ」
「そっか……」
予想していたとおりのことを言われ、ヒイラギはため息をついた。彼女を連れ出したことは全く後悔していないが、困ったことになった。投獄されるにしてもどの程度の時間になるだろうか?ヒイラギの頭は冷静に思考を進めていた。
「ぐっ!姫様……!?」
ヒイラギが考え込んでいた刹那、呻き声が聞こえた。我に返ると、ミコトが護衛の兵士に手刀を食らわせ気絶させていた。彼女はきょろきょろと辺りを見回し、懐から鍵を取り出した。牢獄の錠を外す音は冷たい。ぎぎぎ、と軋んだ音を立て、扉が開く。ヒイラギは呆然とその様を眺めていた。
「ヒイラギ、逃げなさい。全ての責任は私が負います」
「えっ?」
ヒイラギが戸惑っている間にミコトが小さなナイフを取り出し、両手足を拘束する縄を切断した。あっという間に自由の身になったヒイラギだったが、突然の展開に動けなかった。
「ミコト……こんなことして、問題ないの?」
「問題大ありですわ。でも、あなたには関係のないことです。わたくしが何とかする問題ですわ。あなたはわたくしのわがままに付き合っただけですもの。いいですわね?」
ずいっと身を乗り出し詰め寄る彼女は早口だった。彼女の細い肩が細かく震えていた。ヒイラギは思わず彼女を抱きしめていた。腕の中でミコトが戸惑う気配が伝わる。
「ミコト。僕と一緒に行こうよ。元はと言えば、僕が君を連れ出したんだ。君が背負う問題じゃない」
「…………」
背中を抱きしめ頭を撫でると、ミコトは涙目で睨んできた。確固たる決意が流れる涙とともに揺らいでいる。
「駄目ですわ。今回、城の者たちはわたくしの言い分を全く聞きませんでした。あなたがわたくしを唆したのだと皆信じています。わたくしがあなたと一緒に行ったら、王城総出で探すでしょう。そして捕まれば、今度こそあなたは打首ですわ。わたくし……そんなこと、耐えられません」
「ミコト……」
冷え切った牢獄に冷たい言葉が響いた。そしてその言葉には、これ以上ないほどの説得力がある。それでも、ヒイラギはミコトを強く抱きしめていた。
「ミコト。僕は君と一緒にいたいよ。君はそうじゃないの?」
「わたくしも……わたくしだって……」
ヒイラギを睨むミコトの体は、儚く震えていた。彼女の震えた手がヒイラギの背中を抱きしめる。あたたかい。そのぬくもりがあれば、この真冬の牢獄も乗り越えられるだろう。
「わたくしだって、あなたと一緒にいたいですわ!でも、でも……できないのです……わたくしはシバの王女です。あなたとは一緒にいられません。わかってください」
彼女の手がヒイラギの背中から離れた。ヒイラギの体をそっと押し戻す。明確な拒絶の意。ヒイラギの心に亀裂が入った気がした。思わずヒイラギが力を緩めると、二人の体が離れる。拳一つ分程度の距離だが、両者の間には埋められない溝があった。
「逃げなさい。そしてもう二度とこの国を訪れぬことです。わたくしのことも忘れなさい」
「ミコト」
俯いて告げる彼女を、そのままにしておけなかった。ヒイラギは再度彼女を抱き寄せ、勢いのままに口付けた。
「んっ……!!」
腕の中で暴れそうな彼女の腰と後頭部を抱きしめて、ひとときの夢を見る。しっとりとした唇同士が触れ合う夢に、ほんの数秒溺れる。彼女が胸に縋り付いてくれる喜びを噛み締める。ほんの刹那密着した二人は、再び離れた。
「ミコト……僕は、忘れないからね。ありがとう」
最後の言葉とともに頬に口付け、ヒイラギは駆けていった。その青い後ろ姿を、ミコトはいつまでも見送っていた。
「あら、今年も雪ですのね」
季節は巡り、今年も冬がやって来る。海上都市シバ、その王城でミコトは目を覚ました。部屋の中はひんやりと凍え、窓から眺めた城下町は白く薄化粧を施していた。雪が降ると思い出す――青い髪の彼のことを。
彼がいなくなり一年が過ぎた。空になった牢獄に当時の王城は大騒ぎだったが、いくら探しても罪人が見つからないこと、遠くまで探しに行く余裕はないことから徐々に忘れ去られていった。牢獄の警備だけは厳重になったが。
ミコトはさっとコートを着込み、冬の浜辺を訪れた。彼が現れたあの日のように、空は灰色に曇り純白の雪を降らせている。彼と漕ぎ出した小舟は解体されここにはない。彼と過ごした日々はほんの少しであったが、彼から聞いた冒険譚、彼に会うために訪れた城下町、彼と流れ着いた小島……その全てを鮮明に覚えている。彼には忘れろと言ったが、彼はほんのひとときの交流を、覚えているだろうか。
「……あら?」
ぼんやりと見つめていた波打ち際に、きらりと光る何かを見つけた。駆け寄りしゃがみ込むと、空き瓶に封筒が入っていた。青い蝋封がされており、誰かに宛てた手紙に見えた。瓶を手に取り見てみると、小さく「ミコトへ」と封筒の隅に書かれている。
「わたくし宛ての手紙……?」
それなら王城に届ければいいのに、と疑問に思いながら、ミコトは部屋に戻った。瓶から封筒を取り出す。封筒には「ミコトへ」という文字以外は何も書かれていない。封筒を開くと、紙が二枚入っていた。一枚はどこかの街を描いた絵、もう一枚はごく普通の便箋にこう綴られていた。
ミコトへ。
この手紙が届くといいなと思いながら書いています。
去年は君にお世話になりました。君に家と船の修理をしてもらったこと、ちゃんと覚えてるよ。最後は牢屋から逃してくれて、本当にありがとう。迷惑をかけちゃったね。
君は今どんな風に過ごしているかな。僕は今シバより南の海を旅しています。ウガリートっていう交易都市なんだ。知ってるかな?下手だけど、絵を描いてみたよ。大きな市場があって、すごく活気があるところなんだ。君と一緒に来てみたかったな。
君は忘れてくれって言ってたけど、忘れられるわけないよ。君と一緒にいて楽しかったし、僕に優しくしてくれたね。すごく、すごく楽しかった。
実はね、僕のビーストがシバの場所を覚えててね。手紙を届けてもらうことにしたんだ。たぶんちゃんと届いてると思うけど、大丈夫かな。もしも返事をくれるなら、浜辺に手紙を置いてほしい。またビーストに取りに行ってもらうよ。文通ってやったことないけど、楽しそうだよね。もしミコトが迷惑じゃなかったら、検討してくれると嬉しいな。本当はミコトに会いたいけれど、僕が会いに行ったらきっと、迷惑をかけてしまうから。
ミコト、元気でね。シバはまた雪が降ってるのかな。風邪を引かないように気をつけてね。
ヒイラギより。
「……」
ミコトは便箋に目を落としたまま硬直していた。大きな瞳から液体が溢れるのを感じた。手紙が濡れないよう、何とか目元を拭った。
「もう……ヒイラギったら……」
今すぐに返事は書けそうにない。もう少し、もう少し落ち着いてからペンを取ろう。ミコトは微笑み、丁寧に便箋を畳んだ。ドレッサーに置かれた手紙と瓶は王族の部屋には異質なものだが、ミコトの心に柔らかな明かりを灯すぬくもりを持っていた。
その日、海上都市シバに薄く雪が積もっていた。島国に雪が降り積もることは珍しい。滅多に見ない雪景色に、街は寒いながらもどこか楽しそうなふわふわとした空気を纏っていた。
「雪ですわ!ねえ、少し散歩してきます!」
シバの王女ミコトは王城の窓から雪景色を眺め、いてもたってもいられなくなった。侍女に告げ、部屋を飛び出さんばかりに駆けていく。
「姫様、駄目です!お風邪を召してしまいます、ちゃんと防寒してくださいませ」
侍女に手首を掴まれ制止された。今すぐ振りほどいて駆け出したかったが、現在のミコトは外出を想定していない薄着だった。ミコトは唇を尖らせながら立ち止まり、心地いい手触りのマフラーやコートを着込むと、今度こそ走り出した。
王城の廊下もツンと冷たい空気が漂っていた。舞い踊るようにミコトは駆け、裏口から外に出た。王城の裏は美しい浜辺。白波が立つ冬の海にちらちらと白い雪が降り落ち、浜辺はうっすら白い雪に染まっていた。
「わあ……!綺麗ですわ!」
ミコトは軽やかな足取りで浜辺に立ち、両手を広げて空を見上げた。冬特有の高い空は分厚い雲に覆われ、そこから純白の天使が舞い降りてくる。広げた腕にぽつりぽつりと白い結晶が付着し、指で触れると冷たい。初めて味わう感触にミコトは笑んだ。冬はあまり好きではなかったけれど、雪景色が見られるのなら素敵な季節だ。
「あら?」
波音が静かに耳を揺らす中ふと浜に目を遣ると、青い何かが倒れているのが見えた。魚にしては大きい、イルカにしては色鮮やかだ。一体何事か、王女の好奇心をくすぐった。ミコトは臆することなく近付き、見下ろした。
「う……うう……」
「!」
倒れていた何か、否、誰かが呻き声を上げた。間近で見ると、青い髪が美しい青年だった。倒れた彼の背中に雪が降り積もり、浜辺の雪景色の一部になりつつある。見るからに怪しい不審者なのだが、ミコトは彼のそばにしゃがみ込んだ。
「大丈夫ですの?」
青年の肩を揺すり声をかけてみる。青年はぴくりと指先を動かした。生きているが、触れた肩は氷のように冷え切っていた。ここに打ち上げられ相当の時間が経過したものと思われる。
「う……ん……」
青年の指先が拳を作り、目を開いた。その瞳は月のように美しい金色で、ミコトをぼんやりと見つめていた。
「ん……君は……?」
青年の声はか細く、波の音にかき消えそうだった。ミコトは明瞭に答える。
「わたくしはミコトですわ。あなたは?」
「ぼくは……ヒイラギ……」
ヒイラギと名乗った青年はゆっくりと身を起こした。髪を白く染めていた雪がぱらぱらと砂浜に零れ落ちた。
「ヒイラギ、あなたどこから来ましたの?シバの者ではありませんわね?」
「シバ……ここは、シバっていうの?」
「ええ、そうですわ」
ヒイラギはううん、と言いながら頭に手を当てた。彼がゆるゆると頭を振るたびに雪が落ち、彼の長い睫毛を白く飾った。
「僕……色々旅してて……そうだ、船は!?」
ヒイラギが振り返ると、砂浜に小さな船が打ち上げられていた。衝突してしまったらしく船体に大きな穴が空きマストもぼろぼろ、まともに航行できる状態ではなかった。ヒイラギは無惨な船を見、大きく肩を落とした。
「あれがあなたの船ですのね?」
「うん……あれじゃ、動かせないな……修理しないと……」
「では、船の修理が終わるまでしばらくシバにいればいいですわ。ね?」
明るく笑ったミコトに、ヒイラギは困惑しながら目を見開いていた。
海上都市シバは例がないほどの寒波に見舞われ、雪が降り続いていた。活気付く城下町も薄い雪化粧が施され、すっきりと晴れない曇天が続いているものの、見慣れない雪にシバの住民はみな嬉しそうだった。かくいうミコトもその一人で自室の窓辺から手を伸ばし、舞い落ちる雪と戯れていた。あたたかな掌に触れた雪はじわりと水に変わり、儚く溶けていく。何度見ても面白く、ミコトは雪景色に心が躍った。
「姫様、入ってもよろしいでしょうか」
コンコン、と軽やかなノックの音。入りなさい、と返事をした瞬間、侍女が現れた。優雅な一礼とともにミコトに歩み寄る。
「どうしましたの?」
「以前姫様が保護した冒険者が姫様に礼をしたいと申しております。どうされますか?」
「ヒイラギのことかしら?」
「はい、そうです」
ミコトの脳裏に鮮やかな青色の髪と金色の瞳を持つ青年が浮かんだ。シバでは見かけない身なりの青年だった。彼には色々と聞いてみたいことがある。
「わかりましたわ。ここに通しなさい。それと、お茶の準備を」
「わかりました」
侍女を見送り、数分後。ティータイムの準備が整った部屋に再びノックの音が響いた。
「ヒイラギです」
「待っていましたわ。入りなさいな」
「お邪魔します」
静かに開いた扉、そこに現れたのはあの雪降る浜辺で倒れていた青年だった。青い髪が澄んだ海のように美しく揺らめく。彼はミコトの姿を認めると、穏やかに目を細めた。
「初めまして、王女殿下。ヒイラギです」
彼はミコトに跪き、恭しく頭を下げた。海上都市シバの王女に対する至極真っ当な態度だが、ミコトは頬を膨らませた。
「顔を上げなさい」
言葉どおり、ヒイラギが顔を上げる。金色の瞳は見惚れるほど美しく、優美なだけではない力強い輝きを秘めていた。ミコトは膝を折り、できる限り彼と目線を合わせた。
「わたくしと同じ年頃の方々はもっと親しみを込めて話すと聞きます。ですから、ヒイラギ。わたくしは王女ですが、わたくしと二人きりのときに限り、普段どおり接することを許可します」
「え?」
彼の目が大きく見開いた。見るからに困惑したその顔、少し間抜けだ。ミコトはくす、と笑みを漏らした。
「あなたもそんな顔をしますのね。少し意外ですわ」
「普段どおり接するって……ええと……」
「跪くのも辞めなさい。対等な友人として接したいということですわ」
「あ……はい」
はい、と零したヒイラギを睨むと、少し気の抜けたうん、が返ってきた。ヒイラギは立ち上がり、ミコトを見下ろした。彼の方が背が高く、体格もいい。さすがは荒波を乗り越えてきた冒険者といったところか。
「ヒイラギ、今日時間はあるかしら」
「うん、あるよ」
「では」
ミコトは可憐なテーブルに腰掛け、行儀良く座りヒイラギを見つめた。テーブルには一人では食べ切れない茶と菓子、向かい側の席は空いている。
「わたくしとのティータイムに付き合ってください。礼についても聞きますから、ひとまずお座りなさいな」
空いた椅子を指差すと、ヒイラギは見るからに緊張した様子で座った。いつもティータイムは一人きり、誰かいたとしても侍女だった。王城の外の人間、それも自分と同じ年頃の青年と茶を嗜むなど初めての体験だ。ミコトの顔は自然と綻んでいた。二人分の紅茶を淹れると、ティーカップからふわりと湯気が立ち上る。
「あの、お礼を言いに来たんだ。住むところと大工を手配してくれて、ありがとう」
ヒイラギはミコトを真っ直ぐ見据え、深々と頭を下げた。その様子はまさに紳士、礼儀を知らない荒くれではないようだ。
「礼を言われるほどのことではありませんわ。わたくしはただ、お母様に進言しただけですもの」
「君が言ってくれたからだよね。やっぱり、ありがとう」
律儀なヒイラギにミコトは微笑んだ。よかった。ヒイラギもシバの暮らしを満喫……とまではいかないまでも、楽しんでいるようだ。
漂流者のヒイラギには船の修理が済むまでという期間限定で、空き家と大工が手配された。身元不明の不審者のため女王は投獄を考えていたようだが、ミコトが何とか説得した。彼がそこまで怪しい者には見えなかったから、というのもあるが、ミコトとしては彼に恩を売っておきたかった。ミコトは頬杖をつき、ヒイラギに笑いかけた。
「ヒイラギ、あなた、わたくしには頭が上がらないでしょう。少し協力してほしいことがありますわ」
「……何かな?」
ヒイラギの笑顔が引き攣った。ミコトはにんまりと笑い、ヒイラギに人差し指を突きつけた。
「あなた、冒険者ですわね?であれば、今まで様々な国を訪れたことでしょう。その仔細をわたくしに話しなさい」
「……へ?」
ヒイラギのぽかんとした顔が見ものだった。
海上都市シバに聳え立つ王城。そこはごく限られた者しか往来を許されぬ場所だが、青い髪の冒険者が頻繁に訪れるようになった。目的地は王女、ミコトの部屋。彼女の部屋でこれまでの冒険譚を聞かせるのが、彼の新たな日課となった。
「いらっしゃい、ヒイラギ。お待ちしておりましたわ」
今日もヒイラギはミコトの部屋を訪れる。何度見ても豪奢な部屋だ。ミコトに促され、ティータイムを楽しむテーブルに座る。
「ふふ、今日はどんなお話を聞かせてくださるのかしら」
美味しそうな菓子、芳しい香りを振りまく紅茶の向こうで、ミコトはキラキラとした顔でヒイラギの言葉を待っていた。冒険者であればよくある話をここまで楽しみにしてくれる人間がいるとは思いもしなかった。
「じゃあ、そうだな……交易都市の話でもしようか」
ヒイラギが語るのは航海中に見つけた交易都市と、そこに至るまでの苦労話。大海原に潜む魔物たちとの果敢なる戦い、海流に負けぬよう舵を取ることに伴う困難、ようやく陸地に辿り着いたときの歓喜。そのいずれもミコトには刺激的な話のようで、熱心に彼女は聞いていた。「それで、どうなりましたの!?」と尋ねる無垢な言葉は、朴訥なヒイラギをも高揚させた。ただ自分のために行っている旅が、誰かの話の種になるなんて思いもしなかった。
「ふふ、ヒイラギのお話は面白いですわ。交易都市がいくつかあることは本で知っていましたが、やはり本を読むだけではわからないことがたくさんありますわね」
「ミコトはこの国から出たことはないの?」
「ありませんわ」
どおりで。ヒイラギは合点がいった。
「それどころか、王城からも滅多には出られませんのよ。城下町にもほとんど行ったことがありませんわ」
「え、どうして?城下町なんてすぐそこだよね?」
「ええ、そうなのですけれど。お母様は過保護ですから」
ミコトのため息は切実で、言葉以上に重かった。冒険者と一国の王女。立場が違うことは理解していたが、ヒイラギが思うよりその差は大きいようだ。生まれながらにして高貴な身は、王城という世界に縛り付けられるものなのか。あちこち船で駆けずり回るのを至上の喜びとするヒイラギには、その窮屈な暮らしをうまく想像できなかった。
「ねえ、じゃあさ。城下町に行ってみようよ」
「え?」
身を乗り出したヒイラギの提案に、ミコトは唖然としていた。
「いつも君の部屋に招待してもらってるからさ、たまには僕の家においでよ。まあ……こんな綺麗なところじゃないけどさ」
「え、でも……お母様が許すはずがありませんわ」
「大丈夫だよ。僕の様子が心配だから見にいく、とか言ったらいいんじゃない?それって、変な理由じゃないよね」
そう言ってみると、ミコトは腕を組み、「なるほど……」と黙り込んだ。そして笑顔の花を咲かせる。
「ヒイラギ、妙案ですわ!早速お母様に進言してみますわね!」
目の中で星を輝かせながら、ミコトはヒイラギの手を取った。そのぬくもりは、たった一人で旅を続けるヒイラギには新鮮なものだった。
コンコン、と家のドアがノックされた。ヒイラギはテーブルから立ち上がり、ドアを開けた。
「こんにちは、ヒイラギ!」
ドアの向こうにはキラキラと目を輝かせたミコトが立っていた。質素で小さな家にはそぐわぬ仕立てのいい服を着た彼女は、いかにも王女らしい堂々とした振る舞いだった。
「ああ、本当に来てくれたんだ。いらっしゃい。何のおもてなしもできないけど」
「いえ、突然来ましたから、気にしなくてよいですわよ。お邪魔しますわ」
家に入る前にスカートの端をつまみ、ミコトは優雅な一礼を見せた。ヒイラギは彼女をテーブルに座らせ、茶を淹れることにした。彼女が王城で飲んでいるような上等な茶葉ではないのが申し訳ないが、よい香りだ。
「城下町に来たのも久しぶりですわ。大変でしたのよ、ここまで来るのも」
「そうなの?」
ヒイラギが持っているのは本当に簡素なティーカップ。そこにごく普通の茶を注ぐ。ミコトに差し出すと、彼女は「ありがとう」と言いさらりと飲んでくれた。
「ええ。お母様の説得に時間がかかりましたわ。でも、護衛をつけずに来られたのはよかったですわ。あなたとはゆっくりお話したいですから」
「そっか。ありがとう、だいぶ無理をしてくれたんだね」
微笑んだヒイラギに、ミコトは小さな籠を差し出した。綺麗に包装されたクッキーが数枚入っている。
「これはささやかなお礼ですわ。是非召し上がって」
「え?せっかくだから、一緒に食べようよ」
ヒイラギは一枚クッキーを取り、ミコトに手渡した。ミコトはきょとんとしながらも、受け取ってくれる。
「一緒に食べた方が美味しいよね」
「それもそうですわね」
ふふ、と二人は笑い合い、クッキーを手にした。ヒイラギが口に放り込むとさくりと口の中で砕け、ほろほろと甘く崩れていく。美味しい。城下町でもクッキーは売っているが、それよりも格段に美味しい。材料が違うのか、作る人間の腕か、それとも。ヒイラギの口元は自然と綻んでいた。
「最近ずっと雪が降ってるね」
ヒイラギはふと窓の外に視線を移した。ヒイラギがシバに住み始めてからずっと、小雪が降り続いている。薄く積もる程度で生活に大きな支障はないが、寒い。冒険者のヒイラギにとっても雪は物珍しかった。
「シバでこんなに雪が降ることは珍しいですわ。今年は一段と寒いですわね」
「あ、そうなんだ。周りは海だし、やっぱり雪は珍しいんだね」
「ええ。ですから、わたくしも含め雪には慣れていませんの。船の修理も時間がかかってしまって、申し訳ないですわ」
「ううん、いいんだ。僕も雪を見る機会があまりないから楽しいよ。住む場所も修理も手配してくれて、頭が上がらないよ」
ミコトが小さくくしゃみをした。暖炉に火は焚べているものの、今日も寒い。あたたかな王城に慣れた王女には辛い寒さかもしれない。ヒイラギは毛布を手に取ると、彼女の細い肩にかけてやった。
「寒かったね、ごめんね。使っていいよ」
「あ、ありがとうございます……」
ミコトの頬がぽっと赤く染まり、ぎゅっと大事そうに毛布を握りしめた。
ヒイラギの滞在期間は二週間にも及んだ。降り続く雪のおかげで船の修理に遅れが出ている結果だった。ヒイラギは微塵も焦りを感じていなかった。海上都市シバ、活気があり海が美しく、よい場所だ。ヒイラギは自身が打ち上げられた海岸に立ち、遠い水平線を眺めていた。灰色の薄曇りに舞い落ちる白い花、海の波は白い泡を立てている。静かな海に、もうすっかり見慣れた少女が現れた。
「お待たせしましたわ、ヒイラギ」
「やあ、ミコト」
海上都市シバの王女、ミコト。今日はマフラーやコートできっちり防寒対策をしており、くしゃみなどしなさそうな服装だった。鼻や頬が赤い彼女の愛らしさに、ヒイラギは微笑んだ。
「海は広いですわ。この先にどんな国や島があるのか、と考えてばかりですの」
ヒイラギの隣で波打ち際を眺める彼女は、どこか遠い声で呟いた。身を憂う切ない声だった。
「ミコトはシバを出たことがないんだよね」
「ええ。他に国があることは知ってますわよ?本がありますから。でも、本で読むだけでは何もわかりませんわよね」
「うん。実際に見てみたら全然違うと思うよ」
冒険者のヒイラギも、異国の本はいくらも読んだことがある。しかし、やはり目で見て実際に降り立つ大地はずいぶんと違う印象を受けた。新たな街を見つけたときの高揚感、その中でしか感じられない空気、ヒイラギは冒険でしか得られない新鮮な体験が好きでたまらなかった。
「ねえ、ミコト。そこの小舟でちょっと外に出てみない?」
「……えっ?」
ミコトは硬直した。ヒイラギが指差す先には、ちょうど二人で乗れる程度の小舟が停まっている。遠くまで行けるような舟ではないが、少し離れた場所の空気を吸うにはもってこいだ。
「で、でもわたくしは……勝手に外に出るなんて……」
「ちょっとここを離れて小島に行ってみるだけだよ。ほら」
ヒイラギはミコトの手を引いた。あ、とミコトが逡巡する間に、よろめく彼女を引っ張ってしまう。雪は繋いだ二人の手の甲にも落ち、小さな白い花を咲かせる。
「ここに座って?大丈夫、僕が漕ぐからさ」
「ヒイラギ……わかりましたわ。あなたにお任せします」
向かい合って舟に座ったミコトは、観念したように頷き笑った。その姿は美しく、簡素な小舟に麗しの花が咲いたように見えた。
「よし、行ってみよう」
ヒイラギは二本の櫂を持ち、漕ぎ始めた。普段は帆船で旅をしているヒイラギだが、小舟の操縦も慣れたものだ。すいすいと漕いでいく彼を、ミコトは感嘆の眼差しで見つめている。
「すごいですわね、ヒイラギ。このような舟を漕げるなんて」
「慣れれば簡単だよ。ちょっと体力を使うくらい。どう?ちょっとずつ離れていってるけど」
二人を乗せた小舟はシバの浜辺に別れを告げ、水脈を描きながら進んでいく。ミコトは離れていくシバを感慨深く眺めていた。
「ドキドキしますわ。こんな小さな舟で、二人きりでなんて。ありがとう、ヒイラギ」
「ふふ、お礼はちゃんとした小島に着いてから、かな。あ、あの島とかどうだろう?」
ヒイラギが指差す先に、人が住んでいないだろう小島があった。ミコトと二人、静かに小島へ急ぐ。小島は海へと繋がる川から辿っていく。川を進むと、やがて島の中央をくり抜くように佇む湖に辿り着いた。枯れた木々に覆われた湖には当然ながら誰もいない。深々と降り続く雪が湖に落ち波紋となる。二人の小舟はやがて湖の中央で静かに止まった。
「綺麗な場所ですわ……静かで、誰もいない……」
空を見上げるミコトの口元に、白い牡丹雪が咲いた。ヒイラギの口元も白い花が咲いては消え、また咲き誇る。
「少し降りようか」
ヒイラギは汀に小舟を近付け、ぴたりと停めた。二人、名もなき小島に降り立つ。人を失った小舟に雪が薄く積もっていく。澄んだ湖は鏡となり、湖を覆う木々と曇天を写している。舞い落ちる雪は二人を、周囲の木々を白く染め上げていく。
「寒くない?」
「平気ですわ」
そうは言うけれど、ヒイラギはミコトの肩を抱いた。驚いた彼女が見上げてくるが、微笑むと彼女は寄りかかってきた。あたたかい、人の体温。一人で冒険をしている中では得られぬぬくもりに、ヒイラギは目を細めた。
「山紫水明、というのはこういうことを言うのかもしれませんわね」
「そうかもね。とっても綺麗だ」
二人は特に何をするでもなく、自然が織りなす景色を眺めていた。時折木々の上枝から積もった雪が落ちていく。二人寄り添ううちに、自然と二人の手は繋がっていた。ミコトの手は冷たく、ヒイラギはそっと彼女の手に優しく息を吹きかけた。ミコトの顔が赤らんでいく。
「な、何をしますの、ヒイラギ」
「寒いでしょ?」
「……手袋をしてこなくてよかったですわ」
微笑み合う二人の間に、穏やかな沈黙が流れる。ヒイラギは初めて知った。誰かとともに過ごす沈黙が、こんなに心地よいことがあるのだと。
二人は時間を忘れていた。灰色の雲にうっすらと橙が差し始めた頃、ばちゃばちゃと風情のない水を漕ぐ音が響いた。
「姫様!!姫様!!」
「……城の者ですわ!」
海上都市シバの旗を掲げた船が、川を辿り湖にやって来た。甲冑を着込んだ物々しい兵士たちが各々声を上げ、ミコトに呼びかけていた。船は二人の小舟のそばに停まり、慌ただしい物音を立てて兵士たちが上陸する。彼らはミコトの手を取り、またある者たちはヒイラギを取り囲んで槍を喉元に突きつけた。
「姫様を許可なくさらった者はお前か!姫様をシバの外に連れ出すなど、重罪であるぞ!」
「待って!皆、誤解していますわ!ヒイラギはわたくしの希望を聞いてくれたのです!」
ミコトは声を上げるが、兵士たちは聞き入れもしなかった。ヒイラギを地面に押し付けると、両手首を縄で縛り上げてしまう。
「やめて!やめなさい!わたくしの言うことを聞きなさい!」
ミコトの悲痛な声が耳を揺らす中、ヒイラギは思いきり兵士に殴られ意識が遠のいていった。
……寒い。とても、寒い。
ヒイラギが目を覚ましたのは牢獄だった。両手両足を縄で縛られ、動けない。呻き声を上げながらヒイラギは思い返していた。ミコトと離れ小島の景色を楽しんでいたら、兵士に取り囲まれ殴られた。そこまでは覚えている。
「ヒイラギ!」
冷たい牢獄にミコトの声が響いた。後ろには護衛だろうか、兵士が一人ついている。ヒイラギが顔を上げると、必死の形相のミコトと目が合った。
「ミコト……」
「大丈夫ですか!?」
「うん……ちょっと体が痛いけど、無事だよ」
「そうですか……よかった」
現状を素直に告げると、ミコトはほっと胸を撫で下ろした。目尻に涙を浮かべながらも笑ってくれる彼女に、ヒイラギも笑った。少しばかり無理をした笑顔だったが、それでも彼女には辛い顔を見せたくなかった。
「あれから僕はどうなったの?」
「ここは王城の地下牢ですわ。あなたはわたくしを連れ出した罪に問われる予定ですのよ」
「罪……僕、どうなるの?」
「順当に行けばしばらくここに捕えられることになりますわね。あまり遠くに行かなかったですし、短時間ですから、死刑にはならないと思いますわ」
「そっか……」
予想していたとおりのことを言われ、ヒイラギはため息をついた。彼女を連れ出したことは全く後悔していないが、困ったことになった。投獄されるにしてもどの程度の時間になるだろうか?ヒイラギの頭は冷静に思考を進めていた。
「ぐっ!姫様……!?」
ヒイラギが考え込んでいた刹那、呻き声が聞こえた。我に返ると、ミコトが護衛の兵士に手刀を食らわせ気絶させていた。彼女はきょろきょろと辺りを見回し、懐から鍵を取り出した。牢獄の錠を外す音は冷たい。ぎぎぎ、と軋んだ音を立て、扉が開く。ヒイラギは呆然とその様を眺めていた。
「ヒイラギ、逃げなさい。全ての責任は私が負います」
「えっ?」
ヒイラギが戸惑っている間にミコトが小さなナイフを取り出し、両手足を拘束する縄を切断した。あっという間に自由の身になったヒイラギだったが、突然の展開に動けなかった。
「ミコト……こんなことして、問題ないの?」
「問題大ありですわ。でも、あなたには関係のないことです。わたくしが何とかする問題ですわ。あなたはわたくしのわがままに付き合っただけですもの。いいですわね?」
ずいっと身を乗り出し詰め寄る彼女は早口だった。彼女の細い肩が細かく震えていた。ヒイラギは思わず彼女を抱きしめていた。腕の中でミコトが戸惑う気配が伝わる。
「ミコト。僕と一緒に行こうよ。元はと言えば、僕が君を連れ出したんだ。君が背負う問題じゃない」
「…………」
背中を抱きしめ頭を撫でると、ミコトは涙目で睨んできた。確固たる決意が流れる涙とともに揺らいでいる。
「駄目ですわ。今回、城の者たちはわたくしの言い分を全く聞きませんでした。あなたがわたくしを唆したのだと皆信じています。わたくしがあなたと一緒に行ったら、王城総出で探すでしょう。そして捕まれば、今度こそあなたは打首ですわ。わたくし……そんなこと、耐えられません」
「ミコト……」
冷え切った牢獄に冷たい言葉が響いた。そしてその言葉には、これ以上ないほどの説得力がある。それでも、ヒイラギはミコトを強く抱きしめていた。
「ミコト。僕は君と一緒にいたいよ。君はそうじゃないの?」
「わたくしも……わたくしだって……」
ヒイラギを睨むミコトの体は、儚く震えていた。彼女の震えた手がヒイラギの背中を抱きしめる。あたたかい。そのぬくもりがあれば、この真冬の牢獄も乗り越えられるだろう。
「わたくしだって、あなたと一緒にいたいですわ!でも、でも……できないのです……わたくしはシバの王女です。あなたとは一緒にいられません。わかってください」
彼女の手がヒイラギの背中から離れた。ヒイラギの体をそっと押し戻す。明確な拒絶の意。ヒイラギの心に亀裂が入った気がした。思わずヒイラギが力を緩めると、二人の体が離れる。拳一つ分程度の距離だが、両者の間には埋められない溝があった。
「逃げなさい。そしてもう二度とこの国を訪れぬことです。わたくしのことも忘れなさい」
「ミコト」
俯いて告げる彼女を、そのままにしておけなかった。ヒイラギは再度彼女を抱き寄せ、勢いのままに口付けた。
「んっ……!!」
腕の中で暴れそうな彼女の腰と後頭部を抱きしめて、ひとときの夢を見る。しっとりとした唇同士が触れ合う夢に、ほんの数秒溺れる。彼女が胸に縋り付いてくれる喜びを噛み締める。ほんの刹那密着した二人は、再び離れた。
「ミコト……僕は、忘れないからね。ありがとう」
最後の言葉とともに頬に口付け、ヒイラギは駆けていった。その青い後ろ姿を、ミコトはいつまでも見送っていた。
「あら、今年も雪ですのね」
季節は巡り、今年も冬がやって来る。海上都市シバ、その王城でミコトは目を覚ました。部屋の中はひんやりと凍え、窓から眺めた城下町は白く薄化粧を施していた。雪が降ると思い出す――青い髪の彼のことを。
彼がいなくなり一年が過ぎた。空になった牢獄に当時の王城は大騒ぎだったが、いくら探しても罪人が見つからないこと、遠くまで探しに行く余裕はないことから徐々に忘れ去られていった。牢獄の警備だけは厳重になったが。
ミコトはさっとコートを着込み、冬の浜辺を訪れた。彼が現れたあの日のように、空は灰色に曇り純白の雪を降らせている。彼と漕ぎ出した小舟は解体されここにはない。彼と過ごした日々はほんの少しであったが、彼から聞いた冒険譚、彼に会うために訪れた城下町、彼と流れ着いた小島……その全てを鮮明に覚えている。彼には忘れろと言ったが、彼はほんのひとときの交流を、覚えているだろうか。
「……あら?」
ぼんやりと見つめていた波打ち際に、きらりと光る何かを見つけた。駆け寄りしゃがみ込むと、空き瓶に封筒が入っていた。青い蝋封がされており、誰かに宛てた手紙に見えた。瓶を手に取り見てみると、小さく「ミコトへ」と封筒の隅に書かれている。
「わたくし宛ての手紙……?」
それなら王城に届ければいいのに、と疑問に思いながら、ミコトは部屋に戻った。瓶から封筒を取り出す。封筒には「ミコトへ」という文字以外は何も書かれていない。封筒を開くと、紙が二枚入っていた。一枚はどこかの街を描いた絵、もう一枚はごく普通の便箋にこう綴られていた。
ミコトへ。
この手紙が届くといいなと思いながら書いています。
去年は君にお世話になりました。君に家と船の修理をしてもらったこと、ちゃんと覚えてるよ。最後は牢屋から逃してくれて、本当にありがとう。迷惑をかけちゃったね。
君は今どんな風に過ごしているかな。僕は今シバより南の海を旅しています。ウガリートっていう交易都市なんだ。知ってるかな?下手だけど、絵を描いてみたよ。大きな市場があって、すごく活気があるところなんだ。君と一緒に来てみたかったな。
君は忘れてくれって言ってたけど、忘れられるわけないよ。君と一緒にいて楽しかったし、僕に優しくしてくれたね。すごく、すごく楽しかった。
実はね、僕のビーストがシバの場所を覚えててね。手紙を届けてもらうことにしたんだ。たぶんちゃんと届いてると思うけど、大丈夫かな。もしも返事をくれるなら、浜辺に手紙を置いてほしい。またビーストに取りに行ってもらうよ。文通ってやったことないけど、楽しそうだよね。もしミコトが迷惑じゃなかったら、検討してくれると嬉しいな。本当はミコトに会いたいけれど、僕が会いに行ったらきっと、迷惑をかけてしまうから。
ミコト、元気でね。シバはまた雪が降ってるのかな。風邪を引かないように気をつけてね。
ヒイラギより。
「……」
ミコトは便箋に目を落としたまま硬直していた。大きな瞳から液体が溢れるのを感じた。手紙が濡れないよう、何とか目元を拭った。
「もう……ヒイラギったら……」
今すぐに返事は書けそうにない。もう少し、もう少し落ち着いてからペンを取ろう。ミコトは微笑み、丁寧に便箋を畳んだ。ドレッサーに置かれた手紙と瓶は王族の部屋には異質なものだが、ミコトの心に柔らかな明かりを灯すぬくもりを持っていた。
