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魔界のトワイライトムーン
バレンタインの夜をヒイラギと過ごしてから少し経ち、ジャアクフロストの経営するクラブに怪しい噂が舞い込んできた。
「え……人や悪魔が塩になる?」
アリスから聞いた非現実的な話に、ミコトはぽかんとして聞き返した。アリスはこくりと頷いた。その顔は神妙なもので、嘘や冗談の類を言っているようには見えなかった。サキュバスも厳しい顔で話の輪に加わる。
「ミコトちゃん、本当よ。人間がたくさんいる方のトウキョウや、妖精の集落で塩の塊になった人間や悪魔がたくさんいるらしいわ」
「怖いよね、おねえちゃん」
更衣室、仕事用のドレスに着替えながら話す世間話としては深刻だった。サキュバスとアリスは顔を見合わせ、大真面目な顔で頷く。
「ミコトちゃん、とりあえず用がないなら店の外には出ない方がいいわ……といっても、出ることはないでしょうけど」
「私一人で外に出たら塩にならなくても殺されちゃうよ」
サキュバスと話していたところ、着替えたアリスが両手を胸の前でだらんとお化けのように構えた。
「塩になるなんて今まで聞いたことないよ、どんなお化けがいるかわからないね……おねえちゃんに近寄ってくる変なお化けがいたら、わたしがころしてあげるから」
「アリス、ありがとう。妖精の集落が変になっちゃってるなら、サキュバスも買い物行けないね」
「そうなの。あの集落は色々といいものを売っているから困るわ。でも私だって塩にはなりたくないもの。仕方ないわね」
二人と何気ない言葉を交わしながらも、ミコトの脳裏に浮かんだのは青い髪の彼だった。もしかしたら彼も塩になってしまうのだろうか。いやいや彼は強そうだからそんなことない、とミコトは首を横に振った。
「ミコトちゃん、あの青い彼が心配よね。バレンタインから来てないもの」
「うん……大丈夫かな」
「ミコトちゃんは彼を心配していたらいいわ。たぶん、彼も喜ぶんじゃないかしら」
「そうかな……?」
サキュバスはそうよ、と言いながらミコトの唇を人差し指でつんとつついた。彼女の仕草は同性のミコトでさえも時々魅了してしまう。先ほどまで燻っていた不安がさらりと薄れていく気がした。
「ミコトー!お客さんホー!」
更衣室の外からジャアクフロストのよく通る声が聞こえた。のんびり話していたが、開店時間だ。開店時間ぴったりに来るお客といえば、と思っていると、
「おねえちゃん、いってらっしゃい」
アリスに背を押され、ひらひらと手を振られた。ミコトは頷き、更衣室を出た。
「……ああ、よかった。ミコトさん、いたね」
店にいたのは、予想どおりヒイラギだった。シャンデリアのもとで青い髪が光の飛沫を散らし輝いている。ミコトが駆け寄ると彼は安心したように笑った。
「こんばんは、ヒイラギさん」
「VIPルームでお願い」
「わかりました」
これも予想どおり。ミコトはヒイラギを伴い二人きりの空間、VIPルームに向かった。最高級の家具と照明できらびやかな部屋に入り、ソファーに二人で腰掛けた。
「よかった。ミコトさんが無事で」
「無事?どういうことですか?」
座るなりヒイラギは安堵し零していた。不穏な言葉にミコトの背筋が自然と伸びた。
「最近、人や悪魔が塩の柱になる変なことが起こってて……まだ原因も解決法もわかってないから、ミコトさんが無事かどうか気になってたんだ」
「あ、その話は聞いてます。このとおり、私は無事ですよ」
「よかった……」
ヒイラギのため息は深く、心底心配してくれたことが伝わってきた。ミコトは思わず笑った。
「私も心配してましたよ。ヒイラギさんも塩になってないかって」
「僕は大丈夫だよ。心配してくれたんだ」
「当たり前じゃないですか」
ミコトの返答を聞くや否や、ヒイラギは顔を輝かせた。少し子供っぽい笑顔だがこの上なく美しかった。
「そっか、ありがとう。嬉しいな。……でも、ミコトさん」
ヒイラギが身を乗り出した。笑顔が影も形もなく引っ込み、真剣な眼差しでミコトを見つめていた。
「本当に気をつけてね。今のところ塩になったら戻す方法がないんだ。塩のまま砕かれでもしたら洒落にならないから」
「わかってます。でも、私はヒイラギさんの方が心配ですよ」
「ふふ、ありがとう。ミコトさんに心配してもらえるのは嬉しいよ。でも僕は大丈夫。むしろ原因をぶっ飛ばしてくるよ」
そう囁くヒイラギは再び眩い莞爾を咲かせた。彼の言葉は力強く、不思議と安心できるまじないのようだった。
バレンタインから一ヶ月余り、ホワイトデーも過ぎたがヒイラギがクラブを訪れることはなかった。その間にも目まぐるしく魔界の事情が変わったらしく、クラブでは不穏な話でもちきりだった。開店時間前、クラブ内でキャスト三人の世間話が始まる。
「ミコトおねえちゃん、シンジュクって知ってる?」
「新宿?知ってるよ」
アリスに尋ねられ反射的に答えたが、彼女の言う「シンジュク」はきっとミコトの思い描く新宿とは違うのだろうなと思い直した。
「でも、魔界のシンジュクは行ったことないな」
「そっか。なんかね、シンジュクの方で大きな悪魔が現れて、あたり一帯を壊しちゃったんだって」
「え……」
アリスの口調は普段の雑談と変わりなかったが、内容はとんでもないものだった。シンジュク一帯が壊される?ミコトのいた東京なら間違いなく連日ニュースで報じられるだろう内容だ。サキュバスも話に加わる。
「ああ、それ友達から聞いたわ。ティアマトという悪魔が復活したそうね。ものすごく大きくて強いらしいわ」
「魔王とは違うの?」
ミコトが聞くと、サキュバスは首を横に振った。
「違うわ。魔王の方は天使たちが倒したみたいよ。だから全然別物ね」
「はあぁ……」
ミコトは嘆息するしかなかった。魔王城ができて滅びたり、人や悪魔が塩の柱になったり、「ものすごく大きくて強い悪魔」が現れたり、やはり魔界の世間話は規模がおかしい。サキュバスとアリスが軽い口調で話すのも相まって、いまいち実感が湧かない。塩の話を聞いてからクラブに引きこもっているミコトは、魔界事情には滅法疎かった。仮に詳しくなったところで、ミコトにできることなど何一つないが。
「それにしても青い彼、来ないわね。ミコトちゃんとしては気になるでしょ?」
「うん……」
彼と最後に会ったのは数週間前。塩になっていない彼を見て安心したものだが、また別の不安材料が襲いかかってくる。ようやくミコトは思い出した。ここは悪魔が蔓延る魔界であることを。
「ミコトー!お客さんだホー!」
ジャアクフロストのよく通る声が響き渡った。はっと我に返る、開店時間だ。開店すると同時にミコトを指名してくるということは?ミコトは慌てて店の入り口に向かった。
「やあ、ミコトさん。久しぶり」
そこにいたのは、見慣れぬ人影だった。白銀の短髪がシャンデリアに輝き、金色の瞳は月のよう。黒っぽい衣装と顔の半分を隠す黒いマスクが印象的で、ともあれば鋭い印象を受ける。初めて見る姿だったがミコトを呼ぶ声はくぐもっているものの聞き覚えがあり、その柔らかな眼差しにも見覚えがあった。
「ヒイラギさん?ヒイラギさんですか?」
「そうだよ」
思わず尋ねたミコトに、白銀の青年――ヒイラギは目を細めた。口元が見えずともあの優雅な笑みを浮かべているのだろうとすぐにわかった。
「VIPルームに連れていって」
「わかりました」
聞きたいことは山ほどある。だがミコトはそれら野暮なものを喉の奥にしまいこみ、VIPルームへの階段を上った。扉を開き二人きりの上質な空間に辿り着いた瞬間、ヒイラギに腕を引かれ強く抱きしめられていた。
「!?ヒイラギさん!?」
「会いたかった……会いたかったよ、ミコトさん」
彼は絞り出すように呟くと、これ以上ないほど体を密着させた。彼の心臓が大きく脈打つ音が聞こえた。彼の細くしなやかな体躯に秘めた思いが伝わってくるようだった。
「あ、あの」
何かを言おうとして口を開くと、はっとした様子のヒイラギが腕の力を緩めた。二人は抱き合ったまま見つめ合う。
「どうしたの?ミコトさん」
ヒイラギの金色の瞳にうっすら涙が浮かんでいた。その雫を見た刹那、ミコトの中に生まれた疑問は全て吹き飛んだ。泣いている彼にすることはたった一つ。ミコトはそっと彼の涙を拭った。
「あ、あれ?僕、泣いてた?」
「ええ、泣きそうな顔してます」
「気がつかなかった」
ヒイラギはミコトから離れ背を向けた。必死に涙を拭っているだろうことが見て取れる。振り向いた彼は目元が少し赤いものの、晴れ晴れと澄んだ瞳をしていた。
「ごめんね、ミコトさん。かっこ悪いところを見せたね」
「いいえ、いいんです。ひとまずお座りください」
二人はいつもどおりソファーに座った。マスクをつけた彼が足を組んで座る姿は、夜の世界の重鎮のようで少し威圧感があった。ミコトは背筋を伸ばし、口を開いた。
「お久しぶりですね、ヒイラギさん」
「うん、本当に久しぶりだね。ミコトさんが無事で本当によかったよ。ほっとした」
「え?私が無事で?」
「うん。ティアマトが目を覚まして魔界に結構な被害が出たからね。ミコトさんが無事か心配してたんだ」
ミコトを見つめるヒイラギの瞳には、再び透明な雫が浮かび始めていた。顔の半分が黒いマスクで覆われているため逆に目立つ。ミコトは微笑み、彼の涙を拭った。
「心配してくれてありがとうございます。私もその話は聞いてましたから、ヒイラギさんが無事か不安でしたよ。ずっとクラブにいらっしゃらなかったですし……でも、今日こうして来てくださって安心しています」
そう告げた瞬間、ミコトはヒイラギに抱き寄せられていた。彼に肩を強く抱かれ、自然と彼にしなだれかかる形になる。
「そういえばヒイラギさん、何だか見た目が変わりましたね。ガラッと姿が変わって……悪魔流のおしゃれなんですか?」
素朴な疑問を口にしたところ、ヒイラギは一瞬きょとんとし、その後吹き出すように笑った。ひとしきり笑った彼は、浮かんだ涙を拭いながらミコトの頭を撫でた。
「この姿になるまで色々あったんだけど、なんだかどうでもよくなっちゃいそうだよ。ミコトさん、ありがとう」
「?は、はい」
「ねえ、それはそうとさ」
ヒイラギがぐっと顔を近づけてきた。鼻や唇が覆われているぶん、とろける黄金の瞳に目が向く。
「この姿の僕はどうかな?」
「とっても綺麗ですよ。マスクがあるからだと思いますけど、神秘的な感じもありますね」
「そうか、マスクか……」
ヒイラギはマスクを撫でると、くいと顎まで下げた。麗しの赤い唇が露わになり、艶やかな吐息の音がはっきり聞こえる。ヒイラギはミコトの耳元に唇を寄せ、
「ふふ……これはどう?」
耳の奥に吐息を流し込むように囁いた。今までくぐもっていた彼の声が明瞭に聞こえ、吐息混じりの艶っぽい声が耳から全身に染み渡るようだった。彼の体温も間近に感じ、ミコトは赤面し硬直した。
「え、え、あ、あの」
「照れちゃって。可愛いね、ミコトさん」
艶めかしい声が鼓膜を震わせた直後、かぷ、と耳たぶを甘噛みされた。耳から全身にかけて鈍い電流が走り、ミコトは思わず体を強張らせた。
「ひゃう!?な、なにするんですかっ」
「あはは、ごめんね。ちょっと悪戯してみようと思っただけだよ。こんなにびっくりされるとは思わなかった」
マスクを戻した彼は、柔和な笑みを浮かべていた。ミコトは噛まれた耳たぶをさすった。少し熱い。
「ミコトさん、今夜はずっとそばにいて。君がいてくれて、本当によかった」
ミコトの肩を抱く彼は、ぽつりと本音を零した。キャストと客という立場からすると度を超えた接触だが、ミコトは振りほどく気にはなれなかった。むしろこの体温が心地よくて離れられない。
「そうだ、ミコトさん。ホワイトデーは過ぎちゃったし何も用意できてないけれど、君の返事を聞かせてほしいな」
膝に置いたミコトの手にヒイラギの手が重なった。ボディスーツ越しでも柔らかな体温を感じる。
「バレンタインのとき、君が好きって伝えたよね。今も君が好きだよ。……君はどう思ってる?」
「わ、わたし……私は……ヒイラギさんのこと、きっと……」
口ごもると、間近にいるヒイラギは「ん?」と言いながら首を傾げていた。神秘的な美しさの彼とはギャップを感じる可愛らしい仕草だ。
「もっと会いたいって思ってます。今回だって、今こうして会えるまで心配でした」
「ふふ、ありがとう。僕のことを好きでいてくれてるってことでいいのかな?」
「……きっと、そうです」
おずおずと、しかし確実に答えると、視界がぐるりと回転した。天井を見たと思った瞬間、そこにヒイラギが被さってくる。ソファーに押し倒されて彼が覆い被さっている、と理解するのに数秒かかった。
「ヒイラギさん!?」
「しー……」
ヒイラギは立てた人差し指をミコトの唇に当てた。彼は愉快そうに笑う。
「驚く君を見たかったんだ。可愛いから」
「だ、だからって、これは」
「そんなに慌てないで。大丈夫、ちょっとからかってみただけだよ。ほら」
優しく笑む彼が手を差し伸べた。そっと握りしめるとゆっくり起こされ、そのまま肩を抱き寄せられた。
「今夜はこのままでいてよ。君を独り占めしたいんだ」
「店長には内緒ですよ?」
彼の胸に寄り添い、こそりと尋ねる。彼はあはは、と笑いマスクをずらした。額にキスをされ、
「二人だけの秘密にするよ」
妖艶な声で囁かれた。白銀の彼は麗しく、金色の瞳は月のように輝いていた。
バレンタインの夜をヒイラギと過ごしてから少し経ち、ジャアクフロストの経営するクラブに怪しい噂が舞い込んできた。
「え……人や悪魔が塩になる?」
アリスから聞いた非現実的な話に、ミコトはぽかんとして聞き返した。アリスはこくりと頷いた。その顔は神妙なもので、嘘や冗談の類を言っているようには見えなかった。サキュバスも厳しい顔で話の輪に加わる。
「ミコトちゃん、本当よ。人間がたくさんいる方のトウキョウや、妖精の集落で塩の塊になった人間や悪魔がたくさんいるらしいわ」
「怖いよね、おねえちゃん」
更衣室、仕事用のドレスに着替えながら話す世間話としては深刻だった。サキュバスとアリスは顔を見合わせ、大真面目な顔で頷く。
「ミコトちゃん、とりあえず用がないなら店の外には出ない方がいいわ……といっても、出ることはないでしょうけど」
「私一人で外に出たら塩にならなくても殺されちゃうよ」
サキュバスと話していたところ、着替えたアリスが両手を胸の前でだらんとお化けのように構えた。
「塩になるなんて今まで聞いたことないよ、どんなお化けがいるかわからないね……おねえちゃんに近寄ってくる変なお化けがいたら、わたしがころしてあげるから」
「アリス、ありがとう。妖精の集落が変になっちゃってるなら、サキュバスも買い物行けないね」
「そうなの。あの集落は色々といいものを売っているから困るわ。でも私だって塩にはなりたくないもの。仕方ないわね」
二人と何気ない言葉を交わしながらも、ミコトの脳裏に浮かんだのは青い髪の彼だった。もしかしたら彼も塩になってしまうのだろうか。いやいや彼は強そうだからそんなことない、とミコトは首を横に振った。
「ミコトちゃん、あの青い彼が心配よね。バレンタインから来てないもの」
「うん……大丈夫かな」
「ミコトちゃんは彼を心配していたらいいわ。たぶん、彼も喜ぶんじゃないかしら」
「そうかな……?」
サキュバスはそうよ、と言いながらミコトの唇を人差し指でつんとつついた。彼女の仕草は同性のミコトでさえも時々魅了してしまう。先ほどまで燻っていた不安がさらりと薄れていく気がした。
「ミコトー!お客さんホー!」
更衣室の外からジャアクフロストのよく通る声が聞こえた。のんびり話していたが、開店時間だ。開店時間ぴったりに来るお客といえば、と思っていると、
「おねえちゃん、いってらっしゃい」
アリスに背を押され、ひらひらと手を振られた。ミコトは頷き、更衣室を出た。
「……ああ、よかった。ミコトさん、いたね」
店にいたのは、予想どおりヒイラギだった。シャンデリアのもとで青い髪が光の飛沫を散らし輝いている。ミコトが駆け寄ると彼は安心したように笑った。
「こんばんは、ヒイラギさん」
「VIPルームでお願い」
「わかりました」
これも予想どおり。ミコトはヒイラギを伴い二人きりの空間、VIPルームに向かった。最高級の家具と照明できらびやかな部屋に入り、ソファーに二人で腰掛けた。
「よかった。ミコトさんが無事で」
「無事?どういうことですか?」
座るなりヒイラギは安堵し零していた。不穏な言葉にミコトの背筋が自然と伸びた。
「最近、人や悪魔が塩の柱になる変なことが起こってて……まだ原因も解決法もわかってないから、ミコトさんが無事かどうか気になってたんだ」
「あ、その話は聞いてます。このとおり、私は無事ですよ」
「よかった……」
ヒイラギのため息は深く、心底心配してくれたことが伝わってきた。ミコトは思わず笑った。
「私も心配してましたよ。ヒイラギさんも塩になってないかって」
「僕は大丈夫だよ。心配してくれたんだ」
「当たり前じゃないですか」
ミコトの返答を聞くや否や、ヒイラギは顔を輝かせた。少し子供っぽい笑顔だがこの上なく美しかった。
「そっか、ありがとう。嬉しいな。……でも、ミコトさん」
ヒイラギが身を乗り出した。笑顔が影も形もなく引っ込み、真剣な眼差しでミコトを見つめていた。
「本当に気をつけてね。今のところ塩になったら戻す方法がないんだ。塩のまま砕かれでもしたら洒落にならないから」
「わかってます。でも、私はヒイラギさんの方が心配ですよ」
「ふふ、ありがとう。ミコトさんに心配してもらえるのは嬉しいよ。でも僕は大丈夫。むしろ原因をぶっ飛ばしてくるよ」
そう囁くヒイラギは再び眩い莞爾を咲かせた。彼の言葉は力強く、不思議と安心できるまじないのようだった。
バレンタインから一ヶ月余り、ホワイトデーも過ぎたがヒイラギがクラブを訪れることはなかった。その間にも目まぐるしく魔界の事情が変わったらしく、クラブでは不穏な話でもちきりだった。開店時間前、クラブ内でキャスト三人の世間話が始まる。
「ミコトおねえちゃん、シンジュクって知ってる?」
「新宿?知ってるよ」
アリスに尋ねられ反射的に答えたが、彼女の言う「シンジュク」はきっとミコトの思い描く新宿とは違うのだろうなと思い直した。
「でも、魔界のシンジュクは行ったことないな」
「そっか。なんかね、シンジュクの方で大きな悪魔が現れて、あたり一帯を壊しちゃったんだって」
「え……」
アリスの口調は普段の雑談と変わりなかったが、内容はとんでもないものだった。シンジュク一帯が壊される?ミコトのいた東京なら間違いなく連日ニュースで報じられるだろう内容だ。サキュバスも話に加わる。
「ああ、それ友達から聞いたわ。ティアマトという悪魔が復活したそうね。ものすごく大きくて強いらしいわ」
「魔王とは違うの?」
ミコトが聞くと、サキュバスは首を横に振った。
「違うわ。魔王の方は天使たちが倒したみたいよ。だから全然別物ね」
「はあぁ……」
ミコトは嘆息するしかなかった。魔王城ができて滅びたり、人や悪魔が塩の柱になったり、「ものすごく大きくて強い悪魔」が現れたり、やはり魔界の世間話は規模がおかしい。サキュバスとアリスが軽い口調で話すのも相まって、いまいち実感が湧かない。塩の話を聞いてからクラブに引きこもっているミコトは、魔界事情には滅法疎かった。仮に詳しくなったところで、ミコトにできることなど何一つないが。
「それにしても青い彼、来ないわね。ミコトちゃんとしては気になるでしょ?」
「うん……」
彼と最後に会ったのは数週間前。塩になっていない彼を見て安心したものだが、また別の不安材料が襲いかかってくる。ようやくミコトは思い出した。ここは悪魔が蔓延る魔界であることを。
「ミコトー!お客さんだホー!」
ジャアクフロストのよく通る声が響き渡った。はっと我に返る、開店時間だ。開店すると同時にミコトを指名してくるということは?ミコトは慌てて店の入り口に向かった。
「やあ、ミコトさん。久しぶり」
そこにいたのは、見慣れぬ人影だった。白銀の短髪がシャンデリアに輝き、金色の瞳は月のよう。黒っぽい衣装と顔の半分を隠す黒いマスクが印象的で、ともあれば鋭い印象を受ける。初めて見る姿だったがミコトを呼ぶ声はくぐもっているものの聞き覚えがあり、その柔らかな眼差しにも見覚えがあった。
「ヒイラギさん?ヒイラギさんですか?」
「そうだよ」
思わず尋ねたミコトに、白銀の青年――ヒイラギは目を細めた。口元が見えずともあの優雅な笑みを浮かべているのだろうとすぐにわかった。
「VIPルームに連れていって」
「わかりました」
聞きたいことは山ほどある。だがミコトはそれら野暮なものを喉の奥にしまいこみ、VIPルームへの階段を上った。扉を開き二人きりの上質な空間に辿り着いた瞬間、ヒイラギに腕を引かれ強く抱きしめられていた。
「!?ヒイラギさん!?」
「会いたかった……会いたかったよ、ミコトさん」
彼は絞り出すように呟くと、これ以上ないほど体を密着させた。彼の心臓が大きく脈打つ音が聞こえた。彼の細くしなやかな体躯に秘めた思いが伝わってくるようだった。
「あ、あの」
何かを言おうとして口を開くと、はっとした様子のヒイラギが腕の力を緩めた。二人は抱き合ったまま見つめ合う。
「どうしたの?ミコトさん」
ヒイラギの金色の瞳にうっすら涙が浮かんでいた。その雫を見た刹那、ミコトの中に生まれた疑問は全て吹き飛んだ。泣いている彼にすることはたった一つ。ミコトはそっと彼の涙を拭った。
「あ、あれ?僕、泣いてた?」
「ええ、泣きそうな顔してます」
「気がつかなかった」
ヒイラギはミコトから離れ背を向けた。必死に涙を拭っているだろうことが見て取れる。振り向いた彼は目元が少し赤いものの、晴れ晴れと澄んだ瞳をしていた。
「ごめんね、ミコトさん。かっこ悪いところを見せたね」
「いいえ、いいんです。ひとまずお座りください」
二人はいつもどおりソファーに座った。マスクをつけた彼が足を組んで座る姿は、夜の世界の重鎮のようで少し威圧感があった。ミコトは背筋を伸ばし、口を開いた。
「お久しぶりですね、ヒイラギさん」
「うん、本当に久しぶりだね。ミコトさんが無事で本当によかったよ。ほっとした」
「え?私が無事で?」
「うん。ティアマトが目を覚まして魔界に結構な被害が出たからね。ミコトさんが無事か心配してたんだ」
ミコトを見つめるヒイラギの瞳には、再び透明な雫が浮かび始めていた。顔の半分が黒いマスクで覆われているため逆に目立つ。ミコトは微笑み、彼の涙を拭った。
「心配してくれてありがとうございます。私もその話は聞いてましたから、ヒイラギさんが無事か不安でしたよ。ずっとクラブにいらっしゃらなかったですし……でも、今日こうして来てくださって安心しています」
そう告げた瞬間、ミコトはヒイラギに抱き寄せられていた。彼に肩を強く抱かれ、自然と彼にしなだれかかる形になる。
「そういえばヒイラギさん、何だか見た目が変わりましたね。ガラッと姿が変わって……悪魔流のおしゃれなんですか?」
素朴な疑問を口にしたところ、ヒイラギは一瞬きょとんとし、その後吹き出すように笑った。ひとしきり笑った彼は、浮かんだ涙を拭いながらミコトの頭を撫でた。
「この姿になるまで色々あったんだけど、なんだかどうでもよくなっちゃいそうだよ。ミコトさん、ありがとう」
「?は、はい」
「ねえ、それはそうとさ」
ヒイラギがぐっと顔を近づけてきた。鼻や唇が覆われているぶん、とろける黄金の瞳に目が向く。
「この姿の僕はどうかな?」
「とっても綺麗ですよ。マスクがあるからだと思いますけど、神秘的な感じもありますね」
「そうか、マスクか……」
ヒイラギはマスクを撫でると、くいと顎まで下げた。麗しの赤い唇が露わになり、艶やかな吐息の音がはっきり聞こえる。ヒイラギはミコトの耳元に唇を寄せ、
「ふふ……これはどう?」
耳の奥に吐息を流し込むように囁いた。今までくぐもっていた彼の声が明瞭に聞こえ、吐息混じりの艶っぽい声が耳から全身に染み渡るようだった。彼の体温も間近に感じ、ミコトは赤面し硬直した。
「え、え、あ、あの」
「照れちゃって。可愛いね、ミコトさん」
艶めかしい声が鼓膜を震わせた直後、かぷ、と耳たぶを甘噛みされた。耳から全身にかけて鈍い電流が走り、ミコトは思わず体を強張らせた。
「ひゃう!?な、なにするんですかっ」
「あはは、ごめんね。ちょっと悪戯してみようと思っただけだよ。こんなにびっくりされるとは思わなかった」
マスクを戻した彼は、柔和な笑みを浮かべていた。ミコトは噛まれた耳たぶをさすった。少し熱い。
「ミコトさん、今夜はずっとそばにいて。君がいてくれて、本当によかった」
ミコトの肩を抱く彼は、ぽつりと本音を零した。キャストと客という立場からすると度を超えた接触だが、ミコトは振りほどく気にはなれなかった。むしろこの体温が心地よくて離れられない。
「そうだ、ミコトさん。ホワイトデーは過ぎちゃったし何も用意できてないけれど、君の返事を聞かせてほしいな」
膝に置いたミコトの手にヒイラギの手が重なった。ボディスーツ越しでも柔らかな体温を感じる。
「バレンタインのとき、君が好きって伝えたよね。今も君が好きだよ。……君はどう思ってる?」
「わ、わたし……私は……ヒイラギさんのこと、きっと……」
口ごもると、間近にいるヒイラギは「ん?」と言いながら首を傾げていた。神秘的な美しさの彼とはギャップを感じる可愛らしい仕草だ。
「もっと会いたいって思ってます。今回だって、今こうして会えるまで心配でした」
「ふふ、ありがとう。僕のことを好きでいてくれてるってことでいいのかな?」
「……きっと、そうです」
おずおずと、しかし確実に答えると、視界がぐるりと回転した。天井を見たと思った瞬間、そこにヒイラギが被さってくる。ソファーに押し倒されて彼が覆い被さっている、と理解するのに数秒かかった。
「ヒイラギさん!?」
「しー……」
ヒイラギは立てた人差し指をミコトの唇に当てた。彼は愉快そうに笑う。
「驚く君を見たかったんだ。可愛いから」
「だ、だからって、これは」
「そんなに慌てないで。大丈夫、ちょっとからかってみただけだよ。ほら」
優しく笑む彼が手を差し伸べた。そっと握りしめるとゆっくり起こされ、そのまま肩を抱き寄せられた。
「今夜はこのままでいてよ。君を独り占めしたいんだ」
「店長には内緒ですよ?」
彼の胸に寄り添い、こそりと尋ねる。彼はあはは、と笑いマスクをずらした。額にキスをされ、
「二人だけの秘密にするよ」
妖艶な声で囁かれた。白銀の彼は麗しく、金色の瞳は月のように輝いていた。
