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Bloody fang slurping blood
首筋に牙を立てられた痛みが癒える頃、青い吸血鬼の彼が夜の部屋に降り立った。彼が来るのは三度目になる。これまでは前兆として金縛りに遭っていたが、今夜はそれがなく、ミコトは普段どおり体を起こすことができた。瞼を閉じて眠っていても、あの吸血鬼の気配を感じると強制的に目が覚める。明かりの消えた部屋の中、窓際に目をやると、青い髪の翼を広げた彼――百合川ヒイラギが立っていた。窓の外に浮かぶ月の光を浴びて、青白く縁取られている。漆黒の闇の中でも金色の双眸は月と似た蠱惑的な輝きを放ち、ミコトの視線を惹きつける。
「こんばんは、月森ミコトさん」
名前を呼ばれ、そういえば首から血を吸われたとき名前を教えたな、と思い出した。彼と会っている間は頭がふわふわして記憶が曖昧な部分があるが、それだけははっきり覚えていた。ミコトが半身を起こして座っているベッドに、ヒイラギが歩いてくる。一歩ごとに青く輝く髪が水流のように揺れる。その揺らめきに目を奪われている間に、ヒイラギがミコトのすぐ近くに迫っていた。薄く笑みを浮かべながら、ヒイラギはミコトを見下ろしている。ミコトは金縛りに遭っていないのにまるで動けなかった。ヒイラギが歩いてくるのをじっと目で追うことしかできず、彼が立ち止まった今は、その金色の眼差しを見つめ返すことしかできない。
「首の傷はどう?」
ヒイラギの手がミコトの首筋に伸び、髪のカーテンを手の甲に流して首筋に視線を落としながら、顔を近づけてきた。ヒイラギは痛みを伴う口付けができる距離で、ミコトの首筋を凝視している。ヒイラギの吐息が首を撫でてくすぐったいが、やはりミコトは動けず、彼の仕草を横目で見つめているのみだった。口から漏れるのは吐息のみで、声すら出ない。
「……もうだいぶ治ったみたいだね。うーん、どうしようかな?」
ヒイラギの顔が首筋から離れたが、今度はその指先が首筋から鎖骨をなぞって品定めをされる。ミコトを撫でる手つきそのものは優しいものの、
「ねえ、どこがいい?どこから吸われたい?」
血を吸われることは確定事項のようだ。彼に言われなくともわかっていたが。吸血鬼がわざわざやって来て、雑談だけして帰っていくとは考え難い。過去に二度自らに噛み付き血を吸った相手が目の前におり、どこに牙を立てようか思案している状況だというのに、ミコトに恐怖はなかった。ただ隠しやすい部分だったらいいな、とどこか間の抜けたことを考えている。彼に触れられた首筋が、ほんのりと甘い疼きを持つ。
「確か最初は右腕から吸ったよね?じゃあ、今日は左腕にしようかな?」
囁きながらヒイラギはベッドの上を這い、狼に似た四つ足でミコトに接近する。眼前にヒイラギの顔、金色に輝く双眸が迫った。
「ねえ、いいよね?」
黄金の輝きが妖しく細められ、牙に似た犬歯を見せつけながら、ヒイラギが咲う。月明かりが差し込む暗闇の中、ヒイラギの血に濡れたような赤い舌と不自然なまでに白い犬歯が、異様に目立つ。これからミコトの皮膚を裂き血を吸う凶器をこれでもかと見せつけられているのに、ミコトは喉を鳴らしていた。それが恐怖からではないことを、誰に言われるまでもなく理解している。あまりに妖美なヒイラギの笑みを見つめながら、ミコトはゆっくりと頷いた。ヒイラギは満足そうに笑っている。
「いい子だね……」
ベッドに投げ出した左腕、それをヒイラギの両手が掬い上げる。上等なベルベットを扱うような繊細な所作だ。が、夜闇に浮かび上がる白い左前腕を見つめるヒイラギの視線は、獲物を前に舌なめずりをする獣のもの。ヒイラギは左前腕に唇を寄せ、撫でるように肘から手首までキスをした。恋人にするような甘い口付けに頭が混乱する。
唇で肌の感触を味わうヒイラギが、左前腕から唇を離さないまま流し目だけをミコトに寄越してきた。挑発的な、見つめられると痺れる視線に、ミコトは意を決した。血を吸われる。その瞬間、ヒイラギが大きく口を開き、何の躊躇もなくミコトの左前腕に噛み付いた。鋭い歯が皮膚に刺さり肉を裂き、ずぶずぶと沈んでいく。白い歯が刺さった箇所から搾り取られるように血が滲む。滲んだ赤い雫をヒイラギの唇、舌が吸い上げていく。痛みはなかった。噛みつかれた傷口から溢れるのは紅玉の血と、脳を痺れさせる甘い刺激。この青い吸血鬼に血を吸われたい、血を捧げたいとまで錯覚する、背筋が震える快感。
「ん……」
夢中で血に溺れるヒイラギの唇から、湿った吐息が漏れる。じゅるじゅると液体を啜る音、艶やかな吐息の音だけを聞けば、何か卑猥なことをしているようだが、実際にはまごうことなき暴行を受けている。ああ、でも……もっと吸われたい。
肉に刺さった歯が抜け、ヒイラギの白かった歯が真っ赤に染まっているのが見えた。一際鋭い犬歯からぼたぼたと涙のように雫が垂れ、シーツに落ちて血痕になる。ミコトに陶酔した顔を見せながら、ヒイラギは唇についた血を艶かしく舐め取った。青く輝く髪、口元に付着した赤い血液、金色に煌めく双眸。この甘い夜にこの上なく似合う、麗しくも妖しい姿だった。
「ありがとう。この前より美味しくなったね」
「……そう、なの?」
「そうだよ」
ヒイラギは赤い歯型が残る左前腕を愛おしげに眺め、ミコトに笑いかけた。とても噛み付いて血を吸った相手に見せるものではない、慈悲の笑顔。
「また来るよ」
ミコトの耳元で優しく響くヒイラギの声を聞くと、急速に眠気が襲ってきた。血がついたまま寝たらシーツが汚れる、と思ったが、自然と落ちる瞼の重みに耐えられなかった。ミコトは薄れゆく意識の中、ヒイラギが手を振って別れを告げていることを何とか認識し、やがて眠りに堕ちていった。
月森ミコトに三度目の吸血を行ってから一週間が過ぎた。ミコトの血から溢れる甘美なマガツヒと血の味を夜毎に思い出し、ヒイラギの舌は飢えていた。芳醇な香り、舌の上に広がる甘くとろけた血の感触と味。鮮明に思い出せるが故に苦しかった。血を吸うためにはそれなりに相手の体を傷つけねばならず、人間にとって一定以上の血を失うことは命に関わる。彼女は特別な身の上ではない、ただの少女。傷の治癒や抜かれた血の生成にかかる時間は、ごく一般的な人間のものと同等だろう。たかだか一週間程度では、もう一度血を吸える状態にはならない。彼女の血をいただくときに魅了の成分を適量混ぜているためだろう、ミコトがヒイラギを見つめる視線は熱を帯び、吸血を待ち侘びたものに見えた。吸血に対する精神的な障壁を取り払うことはできても、人間の治癒能力を上げることはできない。また傷を癒すことはできても、抜かれた血をすぐに生成させることは不可能だ。継続してミコトの血を吸いたいのであればこそ、彼女が回復するまで待たねばならない。それは重々わかってはいるものの、ヒイラギの研ぎ澄ました牙が、あの甘い血を欲しがって疼いている。ヒイラギですら制御するのに苦労する、初めて感じる飢えと疼き。体内を巡るマガツヒの量は十分で、現在特に補給する必要はないのだが、単純にあの血が欲しくてたまらない。ここまで焦がれる血の味に出会ったのは初めてで、ヒイラギ自身困惑している。
ああもう我慢できない。だがミコトの血を啜るわけにはいかない。他の血の持ち主のところへ行こう。
……不味い。何とか飲み込んだが、とてもではないが飲めたものではない。ヒイラギは滞りなく吸血を終え、ミコトのマガツヒの匂いが漂う縄印学園学生寮の屋上に降り立った。口元についた血を手で拭う。手の甲についた血液から、生臭い匂いがする。吐き気さえ催す不快な味と匂いに嗚咽を漏らした。おかしい。この血は、ミコトの血を知るまで十分に美味だと思っていたのに。ミコトの血液の味を覚えた後だと、泥水の方がまだ飲めるのではないかと思ってしまう。鼻を刺す鉄錆の生臭さ、舌にへばりつく腐った液体の味、喉にこびりつく粘着質な気持ち悪さ。何一つ褒めるところがなく、ミコトの血に対する渇望がますます強まるばかりだった。こんな血、飲むんじゃなかった。心の底から後悔した。そこそこ美味しい血を飲めば誤魔化せると思っていたが、そもそも「そこそこ美味しい血」など、もう何処にもないのかもしれない。
「僕の方がおかしくなっちゃうかもしれないね……」
血を吸われることに恐怖を抱かなくなったミコトと、その血に耽溺し他の血では満足できなくなったヒイラギ。異常な者同士、どこまで我慢できるのだろう。ヒイラギは尖った牙が血を求めているのを、唇を噛み締めて何とか堪えた。噛み締めた自らの唇から流れる血など、味わう気も起こらなかった。
「うーん……」
ミコトは左前腕に巻いた包帯を解きながら小さく唸った。百合川ヒイラギと名乗る吸血鬼に噛み付かれた後は、毎日包帯を巻いて夜に取り替えている。今夜も包帯を解き、様子を見ていた。約二週間前に噛み付かれた左前腕には、どす黒く変色した歯型が残っている。前回首から血を吸われたときより、傷の治りが遅い気がする。何故か噛まれても痛みはない――むしろ背筋がざわめく快い電流が走ったが、こうして傷跡を見ていると、痛いと感じない自分が異常に思えてくる。
前回首を噛まれたときは、包帯を巻いている理由を考えるのに苦労した。腕や足なら怪我をしやすい箇所で言い訳もしやすいから、できれば首はもうやめてほしい。……そもそも血を吸われたくないと思わない時点でおかしいのだが、当のミコトは気付いていない。
ベッドに座り傷跡を撫でていると、ぞわりと背筋に強烈な違和感が走った。背を向けている窓際に、部屋の空気を丸ごと変える異質な存在感を察知した。彼が来た。右前腕を噛まれた最初の夜、その次に彼が訪れたのは三週間以上経ってのことだったが、今回は前回の吸血から二週間程度しか経っていない。随分と早い。
「月森さん……」
背後から声が聞こえ、腕を引かれた。また腕から血を吸うのかと思ったが、何故かベッドに押し倒されていた。背中に柔らかなベッドの感触を感じた瞬間、百合川ヒイラギが馬乗りになっていた。
「え?」
随分と色っぽい体勢になった。が、ミコトに覆い被さって見下ろすヒイラギは、荒い呼吸をしながら唇を噛み締めており、その瞳は蜂蜜のようにゆらゆらととろけている。初めて見る、余裕のない表情だった。
「いい匂い……」
ミコトに聞かせるでもなくヒイラギは呟き、首筋に顔を埋めた。長く湿った舌で首筋を舐められ、反射的に体が震えた。
「君がいけないんだよ……こんなにいい匂いをさせてるから……」
ヒイラギの独白とともに、首筋に牙が食い込む。ミコトを気遣ったやわやわとした力ではなく、骨までしゃぶり尽くすような容赦のない力で、牙が皮膚と肉を押し潰すように裂いていく。尋常ではない力で食らいつかれているにもかかわらず、ミコトの首筋から脳髄に至る稲妻が走った。ミコトは性的絶頂の経験がないが、それに近いのではないかと本能的に悟った。びりびりと体が痺れ、両手両足の指先が意思に反して痙攣している。傷口から流れる血液を根こそぎ唇で吸われて、また頭が灼けた。こんな未経験の刺激を与えられ続けたら、きっと狂ってしまう。だがミコトに覆い被さる吸血鬼は一向にやめる気配がない。刺激によるものか貧血によるものかわからないが、視界がぼやける。うっすら涙が浮かぶ。
全身の血を吸い尽くされるような永遠に近い十数分の後、ようやくヒイラギが唇を離した。首に刺さった歯が抜ける。首筋が寒い。結構な量の血が失われたようだが、寒いのは首筋だけで、全身熱く火照っている。ヒイラギは金色の瞳を恍惚と細め、赤く染め上げた歯を惜しみなく見せて笑った。尖った歯の先から赤い糸のように血液が滴り落ちて止まらない。
「美味しい……ふふ……」
ヒイラギの右掌がミコトの胸に触れた。乳房の間、硬い肋骨を押すように触れてくる。
「君の心臓、食べたいなあ……きっと血でいっぱいなんだろうなあ……」
歯や唇についた血を舌で舐め取りながら、そんな不穏なことを呟く。ミコトに聞かせるためではなく、完全に自己完結した独り言のようだが、さすがにミコトの背筋が冷えた。むしろ凍りついた。ここに来て初めて、「死」が振りまく狂おしいほど芳しい香りを嗅ぎとった。
「ああ、怖い……?だいじょうぶ……そんなことしたら、君死んじゃうものね?君の血、飲めなくなっちゃうからね……」
おそらくはミコトの心臓の鼓動を感じていた右掌が、ミコトの頬に触れる。その手は黒い無機質な素材で覆われて冷たい。突然押し当てられた冷たさに、ミコトはただ硬直することしかできなかった。
「ふふ……またね」
頬、首筋、鎖骨、肋骨を右掌で名残惜しそうに撫でると、ヒイラギはふわりと夜闇に浮き、何事もなかったかのように消えた。ミコトの心臓は人生で一、二を争う勢いで拍動していた。これまではミコトにある程度の配慮を見せていたヒイラギだったが、今夜は冗談ではなく死ぬかもしれないと感じた。戦慄きながらも、ミコトはその中に違う感覚があることに気づいていた。人間にとって最も根元的な「死」という恐怖――それが、あまりにも甘美な誘惑に思えてならなかった。死ぬまで血を吸われたら、きっと死ぬほどの刺激の渦の中で命を失うことができるだろう。生命活動に影響する量の血液を失ったにもかかわらず、ミコトは笑っていた。いつかまた彼がやってくる日を、心焦がれ背筋を凍らせながらも、待ち侘びていた。
首筋に牙を立てられた痛みが癒える頃、青い吸血鬼の彼が夜の部屋に降り立った。彼が来るのは三度目になる。これまでは前兆として金縛りに遭っていたが、今夜はそれがなく、ミコトは普段どおり体を起こすことができた。瞼を閉じて眠っていても、あの吸血鬼の気配を感じると強制的に目が覚める。明かりの消えた部屋の中、窓際に目をやると、青い髪の翼を広げた彼――百合川ヒイラギが立っていた。窓の外に浮かぶ月の光を浴びて、青白く縁取られている。漆黒の闇の中でも金色の双眸は月と似た蠱惑的な輝きを放ち、ミコトの視線を惹きつける。
「こんばんは、月森ミコトさん」
名前を呼ばれ、そういえば首から血を吸われたとき名前を教えたな、と思い出した。彼と会っている間は頭がふわふわして記憶が曖昧な部分があるが、それだけははっきり覚えていた。ミコトが半身を起こして座っているベッドに、ヒイラギが歩いてくる。一歩ごとに青く輝く髪が水流のように揺れる。その揺らめきに目を奪われている間に、ヒイラギがミコトのすぐ近くに迫っていた。薄く笑みを浮かべながら、ヒイラギはミコトを見下ろしている。ミコトは金縛りに遭っていないのにまるで動けなかった。ヒイラギが歩いてくるのをじっと目で追うことしかできず、彼が立ち止まった今は、その金色の眼差しを見つめ返すことしかできない。
「首の傷はどう?」
ヒイラギの手がミコトの首筋に伸び、髪のカーテンを手の甲に流して首筋に視線を落としながら、顔を近づけてきた。ヒイラギは痛みを伴う口付けができる距離で、ミコトの首筋を凝視している。ヒイラギの吐息が首を撫でてくすぐったいが、やはりミコトは動けず、彼の仕草を横目で見つめているのみだった。口から漏れるのは吐息のみで、声すら出ない。
「……もうだいぶ治ったみたいだね。うーん、どうしようかな?」
ヒイラギの顔が首筋から離れたが、今度はその指先が首筋から鎖骨をなぞって品定めをされる。ミコトを撫でる手つきそのものは優しいものの、
「ねえ、どこがいい?どこから吸われたい?」
血を吸われることは確定事項のようだ。彼に言われなくともわかっていたが。吸血鬼がわざわざやって来て、雑談だけして帰っていくとは考え難い。過去に二度自らに噛み付き血を吸った相手が目の前におり、どこに牙を立てようか思案している状況だというのに、ミコトに恐怖はなかった。ただ隠しやすい部分だったらいいな、とどこか間の抜けたことを考えている。彼に触れられた首筋が、ほんのりと甘い疼きを持つ。
「確か最初は右腕から吸ったよね?じゃあ、今日は左腕にしようかな?」
囁きながらヒイラギはベッドの上を這い、狼に似た四つ足でミコトに接近する。眼前にヒイラギの顔、金色に輝く双眸が迫った。
「ねえ、いいよね?」
黄金の輝きが妖しく細められ、牙に似た犬歯を見せつけながら、ヒイラギが咲う。月明かりが差し込む暗闇の中、ヒイラギの血に濡れたような赤い舌と不自然なまでに白い犬歯が、異様に目立つ。これからミコトの皮膚を裂き血を吸う凶器をこれでもかと見せつけられているのに、ミコトは喉を鳴らしていた。それが恐怖からではないことを、誰に言われるまでもなく理解している。あまりに妖美なヒイラギの笑みを見つめながら、ミコトはゆっくりと頷いた。ヒイラギは満足そうに笑っている。
「いい子だね……」
ベッドに投げ出した左腕、それをヒイラギの両手が掬い上げる。上等なベルベットを扱うような繊細な所作だ。が、夜闇に浮かび上がる白い左前腕を見つめるヒイラギの視線は、獲物を前に舌なめずりをする獣のもの。ヒイラギは左前腕に唇を寄せ、撫でるように肘から手首までキスをした。恋人にするような甘い口付けに頭が混乱する。
唇で肌の感触を味わうヒイラギが、左前腕から唇を離さないまま流し目だけをミコトに寄越してきた。挑発的な、見つめられると痺れる視線に、ミコトは意を決した。血を吸われる。その瞬間、ヒイラギが大きく口を開き、何の躊躇もなくミコトの左前腕に噛み付いた。鋭い歯が皮膚に刺さり肉を裂き、ずぶずぶと沈んでいく。白い歯が刺さった箇所から搾り取られるように血が滲む。滲んだ赤い雫をヒイラギの唇、舌が吸い上げていく。痛みはなかった。噛みつかれた傷口から溢れるのは紅玉の血と、脳を痺れさせる甘い刺激。この青い吸血鬼に血を吸われたい、血を捧げたいとまで錯覚する、背筋が震える快感。
「ん……」
夢中で血に溺れるヒイラギの唇から、湿った吐息が漏れる。じゅるじゅると液体を啜る音、艶やかな吐息の音だけを聞けば、何か卑猥なことをしているようだが、実際にはまごうことなき暴行を受けている。ああ、でも……もっと吸われたい。
肉に刺さった歯が抜け、ヒイラギの白かった歯が真っ赤に染まっているのが見えた。一際鋭い犬歯からぼたぼたと涙のように雫が垂れ、シーツに落ちて血痕になる。ミコトに陶酔した顔を見せながら、ヒイラギは唇についた血を艶かしく舐め取った。青く輝く髪、口元に付着した赤い血液、金色に煌めく双眸。この甘い夜にこの上なく似合う、麗しくも妖しい姿だった。
「ありがとう。この前より美味しくなったね」
「……そう、なの?」
「そうだよ」
ヒイラギは赤い歯型が残る左前腕を愛おしげに眺め、ミコトに笑いかけた。とても噛み付いて血を吸った相手に見せるものではない、慈悲の笑顔。
「また来るよ」
ミコトの耳元で優しく響くヒイラギの声を聞くと、急速に眠気が襲ってきた。血がついたまま寝たらシーツが汚れる、と思ったが、自然と落ちる瞼の重みに耐えられなかった。ミコトは薄れゆく意識の中、ヒイラギが手を振って別れを告げていることを何とか認識し、やがて眠りに堕ちていった。
月森ミコトに三度目の吸血を行ってから一週間が過ぎた。ミコトの血から溢れる甘美なマガツヒと血の味を夜毎に思い出し、ヒイラギの舌は飢えていた。芳醇な香り、舌の上に広がる甘くとろけた血の感触と味。鮮明に思い出せるが故に苦しかった。血を吸うためにはそれなりに相手の体を傷つけねばならず、人間にとって一定以上の血を失うことは命に関わる。彼女は特別な身の上ではない、ただの少女。傷の治癒や抜かれた血の生成にかかる時間は、ごく一般的な人間のものと同等だろう。たかだか一週間程度では、もう一度血を吸える状態にはならない。彼女の血をいただくときに魅了の成分を適量混ぜているためだろう、ミコトがヒイラギを見つめる視線は熱を帯び、吸血を待ち侘びたものに見えた。吸血に対する精神的な障壁を取り払うことはできても、人間の治癒能力を上げることはできない。また傷を癒すことはできても、抜かれた血をすぐに生成させることは不可能だ。継続してミコトの血を吸いたいのであればこそ、彼女が回復するまで待たねばならない。それは重々わかってはいるものの、ヒイラギの研ぎ澄ました牙が、あの甘い血を欲しがって疼いている。ヒイラギですら制御するのに苦労する、初めて感じる飢えと疼き。体内を巡るマガツヒの量は十分で、現在特に補給する必要はないのだが、単純にあの血が欲しくてたまらない。ここまで焦がれる血の味に出会ったのは初めてで、ヒイラギ自身困惑している。
ああもう我慢できない。だがミコトの血を啜るわけにはいかない。他の血の持ち主のところへ行こう。
……不味い。何とか飲み込んだが、とてもではないが飲めたものではない。ヒイラギは滞りなく吸血を終え、ミコトのマガツヒの匂いが漂う縄印学園学生寮の屋上に降り立った。口元についた血を手で拭う。手の甲についた血液から、生臭い匂いがする。吐き気さえ催す不快な味と匂いに嗚咽を漏らした。おかしい。この血は、ミコトの血を知るまで十分に美味だと思っていたのに。ミコトの血液の味を覚えた後だと、泥水の方がまだ飲めるのではないかと思ってしまう。鼻を刺す鉄錆の生臭さ、舌にへばりつく腐った液体の味、喉にこびりつく粘着質な気持ち悪さ。何一つ褒めるところがなく、ミコトの血に対する渇望がますます強まるばかりだった。こんな血、飲むんじゃなかった。心の底から後悔した。そこそこ美味しい血を飲めば誤魔化せると思っていたが、そもそも「そこそこ美味しい血」など、もう何処にもないのかもしれない。
「僕の方がおかしくなっちゃうかもしれないね……」
血を吸われることに恐怖を抱かなくなったミコトと、その血に耽溺し他の血では満足できなくなったヒイラギ。異常な者同士、どこまで我慢できるのだろう。ヒイラギは尖った牙が血を求めているのを、唇を噛み締めて何とか堪えた。噛み締めた自らの唇から流れる血など、味わう気も起こらなかった。
「うーん……」
ミコトは左前腕に巻いた包帯を解きながら小さく唸った。百合川ヒイラギと名乗る吸血鬼に噛み付かれた後は、毎日包帯を巻いて夜に取り替えている。今夜も包帯を解き、様子を見ていた。約二週間前に噛み付かれた左前腕には、どす黒く変色した歯型が残っている。前回首から血を吸われたときより、傷の治りが遅い気がする。何故か噛まれても痛みはない――むしろ背筋がざわめく快い電流が走ったが、こうして傷跡を見ていると、痛いと感じない自分が異常に思えてくる。
前回首を噛まれたときは、包帯を巻いている理由を考えるのに苦労した。腕や足なら怪我をしやすい箇所で言い訳もしやすいから、できれば首はもうやめてほしい。……そもそも血を吸われたくないと思わない時点でおかしいのだが、当のミコトは気付いていない。
ベッドに座り傷跡を撫でていると、ぞわりと背筋に強烈な違和感が走った。背を向けている窓際に、部屋の空気を丸ごと変える異質な存在感を察知した。彼が来た。右前腕を噛まれた最初の夜、その次に彼が訪れたのは三週間以上経ってのことだったが、今回は前回の吸血から二週間程度しか経っていない。随分と早い。
「月森さん……」
背後から声が聞こえ、腕を引かれた。また腕から血を吸うのかと思ったが、何故かベッドに押し倒されていた。背中に柔らかなベッドの感触を感じた瞬間、百合川ヒイラギが馬乗りになっていた。
「え?」
随分と色っぽい体勢になった。が、ミコトに覆い被さって見下ろすヒイラギは、荒い呼吸をしながら唇を噛み締めており、その瞳は蜂蜜のようにゆらゆらととろけている。初めて見る、余裕のない表情だった。
「いい匂い……」
ミコトに聞かせるでもなくヒイラギは呟き、首筋に顔を埋めた。長く湿った舌で首筋を舐められ、反射的に体が震えた。
「君がいけないんだよ……こんなにいい匂いをさせてるから……」
ヒイラギの独白とともに、首筋に牙が食い込む。ミコトを気遣ったやわやわとした力ではなく、骨までしゃぶり尽くすような容赦のない力で、牙が皮膚と肉を押し潰すように裂いていく。尋常ではない力で食らいつかれているにもかかわらず、ミコトの首筋から脳髄に至る稲妻が走った。ミコトは性的絶頂の経験がないが、それに近いのではないかと本能的に悟った。びりびりと体が痺れ、両手両足の指先が意思に反して痙攣している。傷口から流れる血液を根こそぎ唇で吸われて、また頭が灼けた。こんな未経験の刺激を与えられ続けたら、きっと狂ってしまう。だがミコトに覆い被さる吸血鬼は一向にやめる気配がない。刺激によるものか貧血によるものかわからないが、視界がぼやける。うっすら涙が浮かぶ。
全身の血を吸い尽くされるような永遠に近い十数分の後、ようやくヒイラギが唇を離した。首に刺さった歯が抜ける。首筋が寒い。結構な量の血が失われたようだが、寒いのは首筋だけで、全身熱く火照っている。ヒイラギは金色の瞳を恍惚と細め、赤く染め上げた歯を惜しみなく見せて笑った。尖った歯の先から赤い糸のように血液が滴り落ちて止まらない。
「美味しい……ふふ……」
ヒイラギの右掌がミコトの胸に触れた。乳房の間、硬い肋骨を押すように触れてくる。
「君の心臓、食べたいなあ……きっと血でいっぱいなんだろうなあ……」
歯や唇についた血を舌で舐め取りながら、そんな不穏なことを呟く。ミコトに聞かせるためではなく、完全に自己完結した独り言のようだが、さすがにミコトの背筋が冷えた。むしろ凍りついた。ここに来て初めて、「死」が振りまく狂おしいほど芳しい香りを嗅ぎとった。
「ああ、怖い……?だいじょうぶ……そんなことしたら、君死んじゃうものね?君の血、飲めなくなっちゃうからね……」
おそらくはミコトの心臓の鼓動を感じていた右掌が、ミコトの頬に触れる。その手は黒い無機質な素材で覆われて冷たい。突然押し当てられた冷たさに、ミコトはただ硬直することしかできなかった。
「ふふ……またね」
頬、首筋、鎖骨、肋骨を右掌で名残惜しそうに撫でると、ヒイラギはふわりと夜闇に浮き、何事もなかったかのように消えた。ミコトの心臓は人生で一、二を争う勢いで拍動していた。これまではミコトにある程度の配慮を見せていたヒイラギだったが、今夜は冗談ではなく死ぬかもしれないと感じた。戦慄きながらも、ミコトはその中に違う感覚があることに気づいていた。人間にとって最も根元的な「死」という恐怖――それが、あまりにも甘美な誘惑に思えてならなかった。死ぬまで血を吸われたら、きっと死ぬほどの刺激の渦の中で命を失うことができるだろう。生命活動に影響する量の血液を失ったにもかかわらず、ミコトは笑っていた。いつかまた彼がやってくる日を、心焦がれ背筋を凍らせながらも、待ち侘びていた。