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鬼姫
千代田区の空は暗い。ヒイラギは目当ての神社が見え、ふうと一息をついた。
ベテル日本支部の天使よりとある悪魔の討伐依頼を受けたのは数日前。エンジェルによると、
「その者は千代田区のとある神社に幽閉されていると聞きます。強い呪いの力を持つといい、国津神たちもいつまで抑えておけるものかわかりません。必要ならば国津神もろとも殺してしまって構いませんので、不穏な鬼を討伐してください」
ということらしい。幽閉されているのならば討伐する必要はないのでは、と尋ねてみたものの、ベテルに仇なす恐れのある不穏分子は残らず排除せねばならない、と実に天使らしい回答だった。魔王軍が結成され彼らとベテルは全面戦争を行っているところだ、魔王軍に加わる可能性のある者は潰しておきたい。つまりそういうことだろう。
「さて……」
ヒイラギが見つめる先には、朱塗りが美しい鳥居と小さな社があった。敷地の奥の方に倉のようなものが見えるが、そこに幽閉しているのだろうか。鳥居にはオオクニヌシとタケミナカタが立っている。おそらくは見張りだろうが、正直なところ寂れた小さな神社で見張りを立てる必要があるものには見えない。それこそ――ベテルが危険視する「鬼」でもいない限り。目に見える範囲では悪魔は鳥居のところにしかいないが、交戦するとわらわらと湧いてくる予感がある。どこか裏口を探し、忍び込んだ方がよいだろう。ヒイラギは素早く決断すると、青い髪をなびかせ歩き始めた。
ヒイラギは見張りの目をかいくぐり、神社境内に設けられた座敷牢に辿り着いた。人目につかぬ片隅にひっそりと佇む座敷牢の廊下はひやりと冷たく、窓が少なく差し込む光は少ない。いくつか牢が並んでいるが、その一つが強烈な気配を発していた。できる限り足音をさせぬよう、ヒイラギは慎重に歩いていく。
「……誰?」
目的の牢まであと一歩、といったところで女性の声が響いた。涼やかだがどこか硬い声音だった。端的な一言が、静寂の中でやたらと響く。ヒイラギは息を呑み、一歩踏み出した。気配を感じた牢の前に立ち、格子を覗いた。
「来ないで」
女性の声が耳に届いた瞬間ヒイラギの首に強烈な圧力がかかり、ぐいと後ろに引っ張られた。思わず首に手をやると、透明な縄状のものが巻きついているようだった。思いきり後ろに引きずられる中右手に天色の剣を出現させ、首の後ろの虚空を裂いた。鈍い、縄を断ち切った感触とともにヒイラギは膝をついた。牢から数メートル引きずられ離れてしまった。鋭く牢を見据えながら、ゆっくり近付く。
「あら、効きが悪いわね。あなた、よほど力のある悪魔なのね」
座敷牢の中には、女性が座っていた。赤く長い二本の角が額から生えており、彼女が標的の「鬼」であることはすぐにわかった。両手足を注連縄で縛られた彼女は、ヒイラギをじっとりと訝しげな眼差しで見つめている。
「あなた、国津神ではないようね。おおかた私を殺すように言われたのかしら」
「よくわかったね」
「すぐわかるわ。何回か似たようなことがあったから」
ふう、と女性は諦観のため息をつき、両目を閉じ折目正しい正座に両手を重ねた。その姿はまさしく牡丹の花、美しい所作だった。
「誰から言われたのかわからないけれど、どうせやるならひと思いにしてほしいわ。痛いのは嫌ですもの」
ヒイラギは目を閉じた彼女を数秒見つめていたが、天色の刃で彼女と自分を隔てる格子を切り裂いた。耳に痛い金属音が響き、格子が切断面に沿って滑り落ちる。
ヒイラギは彼女に近付き、両手足の自由を奪う注連縄を切り裂いた。彼女は大きく目を見開いた。彼女の驚いた視線を受けながら、ヒイラギは手を差し伸べた。
「今から君は自由の身だ。もし行くところがなければ、僕の仲魔にならない?人手不足なんだ」
「……あなた、こんなことしていいの?私を殺すよう言われているのでしょう?」
「言われてるよ。でも、君を助けたくなった」
「私を逃したら国津神に追われる身になるわ。それでもいいの?」
「いいよ。来たら倒せばいいだけだし」
ヒイラギの口調は重く軽くもない、淡々と事実を告げる。彼女は数秒押し黙っていたが、廊下の奥から聞こえてきた足音に眉を顰めた。
「封印が解かれたことに気付いたようね。このままだと見張りが来るわ。あなた、名前は?」
「ヒイラギ」
「そう、ヒイラギね。私はミコトよ。今はとりあえずあなたについていくわ。落ち着いたら色々話しましょう」
鬼の女性――ミコトは、ヒイラギの手を握った。
「ふう。なかなかしつこかったな」
千代田区の神社で起こった国津神とヒイラギの戦いは、ヒイラギの勝利で無事幕を閉じた。並いる国津神を倒し、ようやく悪魔の裏庭に腰を落ち着けた。その間ずっとミコトの手を握り駆け抜けていた、名残惜しいが手を離した。彼女はベンチに座り、ヒイラギを不思議そうな目で眺めている。
「あなた、強いのね。私を殺すなんて赤子の手を捻るより簡単でしょうに、何故生かしたのかしら」
「さあ、何でだろうね」
ヒイラギは彼女の隣に腰を下ろし、ベンチの背もたれにもたれかかった。
「殺したくなかったんだ。理由なんてそれだけで十分じゃない?」
ミコトの瞳を見つめて明瞭に伝えると、彼女ははぁ、と呆けていた。
「そう……ずいぶんと単純なのね」
「ねえ、よかったら僕の仲魔にならない?」
「そうね……私には行くところなんてないわ。だから、責任を取ってもらえるとありがたいわね」
「そうか、わかった。じゃあ今から君は僕の仲魔だ。今後ともよろしく」
「よろしく」
親交のために差し出したヒイラギの手を、柔くミコトは握ってくれた。そこであ、とヒイラギは思い出した。
「あー、ベテルにはなんて言おうか……」
「ベテル?」
「うん。君を殺すよう天使から言われたんだ。そうだな……命乞いをされてどうしてもと言われたから、仲魔に加えた。僕がちゃんと監視する。そんな感じでどうかな?」
少し考えた末の提案に、彼女はじとっとした目でヒイラギを睨んだ。
「『そんな感じで』と言われても困るわね。あなたの都合のいいようにすればいいわ」
「わかった。うまく誤魔化しておくよ」
ヒイラギは苦笑いしつつ、ミコトを観察した。座敷牢に囚われていた彼女だが見なりはとても囚人には見えず、むしろどこかの姫君のような仕立てのいい服を着ている。両手足を拘束され外には出られなかったと思われるが、丁重に扱われていた様子だ。一体どんな事情がありそんなことになっていたのか、ヒイラギには想像がつかなかった。
「ところで、私を殺すように言われていたのでしょう。私のことは何と説明されていたのかしら」
「強い呪いの力を持つ鬼、って聞いたよ。ミコトはどうしてあそこに幽閉されていたの?」
「そう、割とざっくりした説明なのね、天使らしいわ。それじゃ、説明してあげるわ。ちょっと長くなるけれど」
ミコトは息を吐き、語り始めた。
私が幽閉されていた神社の近くに、鬼の集落があるのよ。私はそこで生まれたわ。私、角が二本でしょう。鬼は大きな角が一本、小さな角が二本あるのだけれど、長い角が二本の者は霊力が強かったり、特殊な力を持っているから、特別扱いされるの。
私?私はね、縊鬼(くびりおに)といって、首を括らせる能力を持つの。あなたが来たとき、首が後ろに引っ張られる感覚があったでしょう。あれが私の力よ。別に首に限らないけど、霊力で作った縄で絞めたり吊るしたりできるわ。あなたみたいに力が強い者が相手だと、せいぜい首を引っ張って離すくらいしかできないんだけどね。
何の話だったかしら……ああそうそう、集落の話をしていたわね。
私は二本角の縊鬼で女だから、「鬼姫」と呼ばれていたのよ。いずれはあの集落の長になるなんて言われていたわ。平和に鬼が集まって暮らしていたんだけれど、あるとき近くにいた国津神の怒りを買ったの。何があったか詳しくは知らないわ、でも国津神は大層お怒りだったそうよ?それで、国津神から一人生贄を捧げよ、そうすれば手打ちにしてやると言われたそうね。そのとき一番霊力が強い鬼を、と言われて私が選ばれたってわけ。それから私は国津神の社に幽閉され、代わりに鬼の集落とは関わり合いにならない不可侵条約を結んだらしいわ。多分集落では私のことは触れちゃいけない話題になってるでしょうし、「霊力の強い鬼が幽閉されている」がいつの間にか「強い呪いを持つ鬼を国津神が飼い慣らしている」みたいになっていったのでしょうね。噂は尾ひれがつくものだから。
「……といったところよ。どうかしら、理解できた?」
「なるほど、つまり君は人質だったんだね」
「そういうことね」
ミコトは顎に手を当て、思案する素振りを見せた。
「あなたが私を連れ出して国津神をあらかた倒してしまったけれど、生き残りがいるでしょうから、鬼の集落がどうなるか少し心配ではあるわね」
「もし気になるなら、集落に行ってみる?」
ヒイラギが何ともなしに行った言葉に、ミコトは首を横に振った。
「生贄の私が行ったら、恐れ慄くでしょうね。国津神を倒して怒りを買ったなんて聞いたら卒倒してしまうわ。やめておきましょう。少なくとも今は行くべきではないわ」
「そうか……わかった。ミコト、僕と一緒に来てくれてありがとう。色々大変だったみたいだけど、僕と一緒にいるなら面倒は起こらないはずだよ。最悪何かあったら蹴散らせばいい」
ヒイラギの言葉に、ミコトは手で口元を押さえ笑った。
「あら、なかなか過激ね。最近の神様は過激派なのかしら」
「ふふ……そうかもね」
ミコトの手を取り微笑むヒイラギに、ミコトも微笑みを返した。
ミコトがヒイラギの仲魔になってから数週間が過ぎた。彼は魔王を滅ぼすとの壮大な目標を掲げ、ミコトら仲魔を伴い魔王城を攻略してみせた。千代田区に巣食う邪悪な魔王はヒイラギの刃の前に沈み、彼の名と力が魔界中に轟くこととなった。
悪魔の裏庭。ミコトはベンチに座り息をついた。そばにはヒイラギがやって来る。微笑みを交わし、ヒイラギが隣に座った。
「お疲れ様、ヒイラギ。本当に魔王軍を滅ぼしてしまうなんて思わなかったわ」
「うん、やると決めたら僕はやる男だからね。どう、見直した?」
得意げな彼にミコトは苦笑した。
「見直すもなにも、最初からあなたのことは信頼しているわ。私を助けてくれた恩人ですもの」
「そうか、それはよかったよ。仲魔の前で格好悪いところを見せられないからね」
「ふふ、そう……あなたも大変ね。虚勢を張らなくてはいけないときもありそうね」
「うん、そうなんだ。……ねえ、ミコト」
「何かしら?」
じっとヒイラギがそばで見つめていた。丸く輝く金色の月に似た瞳は、何やら甘い懇願を漂わせている。
「少し寄りかかってもいいかな?できたら膝枕とかしてほしいんだけど」
「…………」
ミコトは周囲を見回した。ここは悪魔の裏庭。敵意を持った悪魔はいないものの、思い思いに過ごす他の仲魔がいる。特にこちらを注視している仲魔がいるわけではないが、仲魔のいる空間で甘えてもよいのだろうか。
「さっき仲魔の前で格好悪いところは見せられない、って言ってなかったかしら」
「言ったね」
「私に寄りかかるのは格好悪いところではないの?」
尋ねると、本気で不思議そうな顔をしたヒイラギと目が合った。
「どうして?頼れる仲魔にしっかり頼るのも大事なことだよ。格好悪いなんて思わない」
「……そう……じゃあ、寄りかかっていいわよ。膝枕でも構わないわ」
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて膝を借りちゃおうか」
ヒイラギは言葉どおりミコトの太ももに頭を乗せ、ベンチに寝転がった。青い髪が太ももからベンチに零れ落ち、青い線を描く。見下ろした彼は無邪気な表情で、とても魔王軍を滅ぼした神には見えない。
――面白いひとだ。
ミコトはそう思いながら、ここにいるのも何かの運命かもしれないな、と苦笑した。
ヒイラギが用意した悪魔の裏庭、そのベンチはミコトの定位置になりつつあった。ヒイラギの仲魔はミコト以外にも多種多様な者がいるが、その中でもカハクには何か通ずるものがあった。カハクがベンチに腰掛けるミコトにふわりと近付く。
「あなたがミコトね?なんだかあなたとはオトモダチになれそうな気がするの」
「あら、私もよ。どうしてかしら」
「ヒイラギから聞いたの。ミコトは首をくくらせる、つらせることができるんでしょう?」
「ええ、そうよ」
珍しくミコトの能力が正しく伝わっている。それだけでヒイラギの誠意を感じた。カハクは鱗粉を散らしながら、背中の翅をざわめかせる。
「わたしはね、首をつったニンゲンがいた木からうまれたの!だからあなたとはオトモダチになれそうな気がしたのね!」
「そうなのね。なるほど、カハクがいるだけ首を吊った人間がいるということね」
「そういうこと〜!」
人間からすれば物騒極まりない話だが、悪魔にとってはたわいもない話に過ぎない。二人はくすくすと笑った。鬼の集落出身で長く国津神の社に監禁されていた身、鬼や国津神以外との交流は初めてだった。年頃の少女のように笑い合える日が来るなど思いもしなかった。
「姫様!!」
カハクと話していた折、仲魔の一人、オニがミコトのもとに現れ滑り込むように土下座をした。あまりに突然のことで呆然としつつ、ミコトは思わずカハクを見た。彼女も事態をよく飲み込めないらしく、「?」と首を傾げている。
「よもや姫様ではないかと思っておりましたが、やはりあなたはあの集落の姫様……!オレ……いえ、私は、集落の者でございます!」
オニは土下座の体勢のまままくし立てた。なるほど、とミコトは納得した。監禁されていた社近くの鬼の集落――ミコトの生まれ故郷のオニか。正直ミコトには目の前の彼が集落の誰かなど見分けがつかないしどうでもいい。ふう、とミコトが息をつくと、オニはびくりと肩を竦ませた。
「顔を上げ、立ちなさい」
「いえ、姫様を見下ろすなど……!!」
「あなたは誰かと話すときに目も合わさないの?立って、私を見なさい」
ミコトの凛とした声音に、オニはおずおずと顔を上げ立ち上がった。ミコトよりよほど背が高く体格もいい、いかにもな「鬼」だった。ミコトを見下ろす彼は縮こまり、体格の割にしょぼくれた風情を漂わせている。
「私はもうあの集落の姫などではないわ。私はヒイラギの仲魔、それ以上でもそれ以下でもない。そうでしょう?」
「し、しかし……私たちは姫様を国津神の生贄とし、暮らしていました。今後どう償えばよいか……」
「私が生贄となったのは昔のことよ。それに、ヒイラギに助けられ今ここにいる。償うというのなら、ヒイラギに礼を言うのが先よ。あなたと私はヒイラギの仲魔、なら私たちは対等でしょう。敬語を使う必要も、姫様なんて呼ぶ必要もないわ」
「……!そ、そう、ですね」
オニは深々と頭を下げ、ヒイラギの元に去っていった。律儀に礼を言いに行くのだろう。ミコトはあの集落について思うところはない。自らが生まれ、今はもう離れた場所。ただそれだけだ。オニとヒイラギが何事かを話しているのを眺めていると、やがてヒイラギがベンチに近付き、ミコトの隣に腰掛けた。
「ミコト、さっきのオニから何か言われた?」
「ええ。私に償いたいとか言っていたわ。それなら助けてくれたヒイラギに礼を言うのが先だと言ったところよ」
「ああ、なるほどね。だからいきなりお礼を言われたのか。びっくりしたよ、何かあったのかと思った」
ヒイラギは飄々として、ミコトを助けたことを重く考えていない風だった。彼のその態度は、ミコトにとってもありがたい。
「ヒイラギ、改めて私からも礼を言うわ。あの社から助けてくれてありがとう」
「ミコトまでどうしたの?急に言われると照れるよ」
そう言って頬を掻く彼は、子供っぽい苦笑いを浮かべている。強大な力を持つ彼だが、自然体で羨ましい。
「助けられたのだから、礼くらい言うわ。それに……この恩は、これから返していくつもりよ。あなたを守るつもりでついていくわ」
魔王軍を殲滅しても、ヒイラギの戦いは終わらなかった。悪魔に襲われ、退け、また悪魔に襲われ――永遠に続く戦いの円環、その中に彼は身を投じていた。
「ヒイラギ、危ない!」
ヒイラギが目の前にいる悪魔を斬り伏せた瞬間、背後からミコトの声が響いた。振り返った瞬間、ヒイラギに剣を振り下ろそうとしていたミシャグジが見えない何かに引っ張られ、宙に首を吊り絶命しているのが見えた。その白く長い手から剣が滑り落ち、どちゃり、と骸が崩れ落ちた。その傍らには、ミコトが立っている。彼女の霊的な縄を用いた能力――幾度となく助けられてきた。ヒイラギは悪魔の気配が消えたことを確認し、彼女に歩み寄った。
「ありがとう、ミコト。助けてくれて」
「いいえ、いいのよ。でも、何だか最近のあなたは変よ。戦いに集中できてないみたいね」
「そんなこと……」
ない、と言いそうになって言葉が濁り途切れた。ないとは言い切れない。最近のヒイラギには頭を悩ます種があった。
「どうしたの、何かあるなら話を聞くわよ。仲魔に頼ることは格好悪いことではないのでしょう?」
以前彼女に言った言葉が自らに返ってくる。ヒイラギは苦笑した。
「うん、そうだね、そうなんだけど……ちょっと一人で考えたいんだ」
怪訝な顔をするミコトに罪悪感が湧いたものの、ヒイラギはこれ以上語るつもりはなかった。
創世――ヒイラギの頭にはその二文字がぐるぐると巡っていた。
ダアト、上野区。冴えた空気に覆われたこの場所には、消えゆく東京を救う鍵となる創世の王座に続く場所がある。アブディエル、越水、ジョカ。それぞれのナホビノ候補がそれぞれの思惑をもって蠢く中、ヒイラギは思い悩んでいた。
ヒイラギ以外のナホビノはいずれも創世を目標としている。それぞれの理想を掲げて新たな世界を創世したとき、魔界とそこに暮らす悪魔たちは――もっといえばミコトは、どうなってしまうのだろう。
創世。それを果たせば、崩れていく東京は救われるだろう。では魔界は?ミコトは?仮にもう一度魔界が形作られるとしても、そこにミコトがいたとしても、「今ヒイラギの隣にいるミコト」とは別の存在ではないか?
「ヒイラギ、どうしたの?」
悪魔の裏庭、ベンチ。隣に座っているミコトは、瞳にわずかな翳りを見せた。彼女には笑顔が似合う。だから……「今隣にいる彼女」に笑っていてほしい。
「いや、何でもないよ」
ヒイラギは答えた。その何でもない言葉の裏に、決意が滲んでいた。
「ミコト」
至高天、その先に創世の王座がある。それを知ったヒイラギは、悪魔の裏庭でミコトを呼び止めた。彼女は普段どおりベンチに腰掛け、ヒイラギを見上げた。
「あら、どうしたの?険しい顔をしているわね」
「君に聞いてほしいことがあるんだ」
「珍しく神妙ね。ほら、座ったら」
ミコトはベンチの座面を掌で叩いた。ヒイラギは笑い、遠慮なく彼女の隣に座る。息を吸うと、ふわりと不思議な匂いがした。人間の女性が纏うような柔らかな香りだった。
「これから、僕は至高天に向かう。君にはここで待っていてほしいんだ」
「ここで?どういうことかしら」
彼女は不審がった。当然だろう。彼女は仲魔になってからずっと、ヒイラギとともに魔界を駆け抜けてきた。打ち明けるヒイラギとしても、心に重い鉛が沈んでいく心地だった。
「これから向かう場所には僕以外のナホビノが集まる。厳しい戦いになると思う。だから……君を連れていきたくないんだ」
「これまでもあなたと一緒に戦ってきたわよね、あなたの助けになっていると思っていたのだけど……私がそんなに信用できないかしら」
「違うんだ……そうじゃない」
ヒイラギは首を横に振り、ミコトの膝に置かれた手に自らの手を重ねた。柔い白魚のような手には、艶めかしいぬくもりが宿っている。その優しいぬくもりに触れると心が躍る。
「君だけは失いたくないんだ。もし君を失ったら、僕が至高天に行く理由がなくなってしまうから。だから、ここで待っていてほしい。必ず帰ってくる」
「…………」
身を乗り出して見据えたミコトは、ヒイラギの金色の瞳から目を逸らした。わなないた唇から、彼女にしては珍しいあえかな声が漏れた。
「私を国津神に引き渡すとき、両親も同じことを言っていたわ。必ず迎えに来るからって……でも、あなたが来るまで結局助けられることはなかった。……ここで待っていれば必ず帰ってくると、そう思っていいのかしら」
「もちろん。僕は今まですると言ったら、絶対そうしてきたでしょ?」
「……それもそうね」
百の言葉よりも、一の実績が全てを物語っていた。君を仲魔にすると言えば本当に仲魔にした。魔王を倒すから力を貸してほしい、と言えば必ず魔王を滅ぼした。彼は有言実行を重ねてきた。今回だけ不実行にするとは思えない。
「わかったわ。ここであなたを待つ。その代わり必ず帰ってきて」
「よかった、わかってくれて。大丈夫、必ず迎えに来るから」
ヒイラギは愛おしい鬼姫を見つめ頷いた。彼女も穏やかに微笑みを返してくれた。
至高天での戦闘は、ヒイラギが思っていたよりも激しく厳しいものだった。アブディエル、ツクヨミ、ジョカ。それぞれの理想を掲げ創世を目指した者たちが競り合ったが、最終的に地を踏み立っていたのはヒイラギだった。創世の王座――ナホビノのみが辿り着ける神秘を、ヒイラギが自由にする権利を得た。まだ触れぬ奇跡を受け、青い髪が不可思議な模様を描いてなびいた。
創世の女神と化したタオは言った。あなたの理想とする世界を創世してほしいと。ヒイラギは目を閉じた。真っ先に思い浮かぶのは二本角を持つ鬼姫、ミコト。彼女はこれまで長く国津神のもとで監禁され、ようやく自由の身となりヒイラギの仲魔となってくれた。願わくば彼女と過ごす日々を残したい。
そのために、この王座は邪魔だった。新たに創世した世界で、ミコトや彼女が日々を過ごしていく魔界がどうなってしまうのかわからない。これからも彼女と変わりなく生きていくためにどうすべきか、ヒイラギは誰に言われるまでもなく理解していた。
「叢雲!」
ヒイラギの叫びとともに、右手に旋風が宿った。右腕を上げると、尖った風の刃が纏わりつく。創世の王座。現在の尊き世界を破壊するものが残っていれば、これから先もいずれ創世をなさんとするナホビノが生まれるだろう。そうなれば元の木阿弥だ。こんなもの――完膚なきまでに叩き壊す必要がある。
ヒイラギは右腕を王座に叩きつけた。鮮烈な破壊音が響き、「創世の王座」という概念が崩れ去る。視界が明滅する。脳に直接声が届いた。
――ああ、なんてことを……!!これでは、創世が……!!
創世の女神が嘆こうがどうでもいい。ヒイラギには破壊こそが正義だった。天叢雲剣で壊したものは二度と元に戻らぬだろう。これでいい。ヒイラギは王座の破片を爪先で蹴り飛ばし、至高天を後にした。彼の帰りを待っている者がいる。
悪魔の裏庭のベンチでミコトは一人佇んでいた。暇だ。他の仲魔たちはヒイラギとともに至高天に行ってしまったから、話相手もいない。せめてカハクだけでも残していってくれたらとヒイラギを恨んだ。
かつて国津神の社に囚われていたときを思い出した。こんな快適な空間ではなかったが、あのときも一人でただ時が過ぎるのを待っていた。あの頃は希望も何もなくただ無為に過ごしていただけだったが、今は違う。ヒイラギの帰りを待つ。まさかミコトに「待つ」対象ができるなどとは思っていなかった。しかしそれも悪くない。時間を持て余すことだけが唯一の不満だが。
「ミコト」
声が響いた。弾かれたように立ち上がると、ヒイラギが威風堂々と歩いてきた。その佇まいは神々しく自信に満ち溢れ、何事か大きな目標を達成したのだろうことが見て取れた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
言うが否や、ミコトはヒイラギの腕の中に収まっていた。彼の胸板は逞しく、あまり意識していなかったが一人の男性であることを感じさせる。
「ミコト、やるべきことは終わったよ。僕、頑張ったんだ」
「そんな感じね、お疲れ様」
「ありがとう」
ヒイラギの手がミコトの頬に伸び、愛おしそうに撫でてくる。ミコトはその手に自らの手を重ねた。ヒイラギの掌は大きく指が長い、ミコトの手では覆いきれない。
「ああ、疲れちゃった。ちょっと休もうかな……」
ヒイラギの声から力が抜けたと思った瞬間、彼は膝から崩れ落ちた。慌てて支えると、寝息が聞こえてきた。すやすやと眠る彼はさながら赤子のようで、先ほどまでの逞しさが消え失せ、ただあどけない少年に見える。
「しょうがないわね」
ミコトは苦笑しながら彼をベンチに寝かせ、膝枕をしてやった。ううん、とむにゃむにゃと口元を動かす彼は稚い。安心しきった顔は間抜けだが、凛々しさとの乖離が大きく愛おしい。
「今はゆっくりおやすみなさいな」
頭を撫でてやると、眠っているはずの彼はふふ、と笑った。青い髪がミコトの指に親しげに絡んでくる。
――これはしばらく起きないわね。
やっと彼が帰ってきたと思ったのに、また待つことになるのか。それもまた一興。ミコトは顔を綻ばせた。
東京はもうとうの昔に滅んでいるかもしれない。ヒイラギは創世の王座を破壊してから一度も東京に戻らなかった。人の世に未練などない、自分にはミコトがいればそれでいい。
「ミコト」
今日も悪魔の裏庭で、ヒイラギはミコトを呼ぶ。彼女はいつもどおりベンチに座っていた。その居住まいは優美で、見慣れていてもたまに言葉を失うときがある。
「何かしら?」
「ねえ、僕って君のいた集落に挨拶に行かなくていいのかな?」
そう尋ねると、ミコトは不思議そうに首を傾げた。
「あら、どうして?」
「だって、君とずっと一緒にいるんだよ。僕は君と結婚したいくらいなんだ。人間ならお互いの家族に挨拶に行ったりするけど、悪魔……というか、鬼だとどうなのかな」
「……あなた、たまに妙なことを言うわね」
呆れたミコトの声が聞こえた。はは、と笑いながらヒイラギはミコトの隣に腰掛ける。裏庭のベンチ、彼女の隣はヒイラギのものだ。誰にも譲る気はない。
そうね、とミコトは虚空を見ながら呟いた。
「鬼同士なら、家族同士引き合わせてはいたようね。私とあなたは異種族だし、どうすればいいのかよくわからないわ。それに、私たちは鬼の集落で暮らすつもりはないでしょう?」
「そうだね。でも、ちゃんと伝えておいた方がいいのかなって。生贄だったミコトをお嫁さんにもらいますって」
「たぶんあなたのことは噂になっていると思うわよ?だからわざわざ波風立てなくてもいいんじゃないかしら」
「そっかあ……」
鬼の姫を囚えていた社の国津神が全滅し、鬼姫は行方不明である。魔王軍の壊滅程度にはセンセーショナルな内容だろうか。ミコトを見た悪魔たちもいるだろうし、知られていても不思議ではないな、とヒイラギは納得した。しかし、それを抜きにしても気になることがあった。
「ミコト、悪魔に結婚とか恋人とか、そういうのはあるの?」
「家族があるのだから、あると思うわよ。少なくとも鬼の集落はそうだったわね」
「じゃあ」
ヒイラギはミコトの手を取り、その滑らかな手の甲に口付けた。口付け自体は軽いものだったが、そこに秘めた想いは軽いものではない。ミコトの頬に薄く紅がさした。
「僕は君と恋人同士に、結婚できるなら結婚したい。君とこれからずっと魔界で暮らしていくって決めたんだ」
ミコトは黙り込んだ。半開きの唇からは、空気が抜ける音しかしない。ヒイラギに視線が固定され硬直している。
「珍しいね、ミコトがこんなに黙っちゃうなんて」
「……驚くに決まってるじゃない。私に求婚する物好きがいるなんて」
「僕は真面目に言ってるよ?君を殺すよう依頼を受けたのも、君と出会うためだったんだ。きっとね」
再び静寂が訪れた。二人の間に流れる沈黙は心地よく、張り詰めた緊張感はない。ミコトは口ごもっていたが、やがて意を決し言葉を紡ぐ。
「正直、私には断る理由がないわ。あなたには助けてもらったし、悪い人ではないからずっと仲魔でいるのだし。……本当に、よくしてもらっているもの」
「ふふ、じゃあ結婚しようか」
ヒイラギはミコトを抱きしめ、ほんの刹那唇を奪った。彼女の唇は柔らかく、きっと人間と変わらない感触だろうと思った。ミコトは困ったように笑い、息をついた。
「ああ……だから集落に挨拶、とか言っていたのね?」
「そうだよ。でもいらないならいいんだ。単に僕が気になってるだけだからね。僕は君と、ミコトと一緒にいられるならなんでもいいから」
「私も……あなたと一緒なら、それでいいわ」
ミコトは知らない。彼女と魔界を残すために、世界を一つ壊していることを。これからも伝えるつもりはない。彼女にはいつまでも笑っていてほしかった。ヒイラギの隣で、この心地よい裏庭で。
千代田区の空は暗い。ヒイラギは目当ての神社が見え、ふうと一息をついた。
ベテル日本支部の天使よりとある悪魔の討伐依頼を受けたのは数日前。エンジェルによると、
「その者は千代田区のとある神社に幽閉されていると聞きます。強い呪いの力を持つといい、国津神たちもいつまで抑えておけるものかわかりません。必要ならば国津神もろとも殺してしまって構いませんので、不穏な鬼を討伐してください」
ということらしい。幽閉されているのならば討伐する必要はないのでは、と尋ねてみたものの、ベテルに仇なす恐れのある不穏分子は残らず排除せねばならない、と実に天使らしい回答だった。魔王軍が結成され彼らとベテルは全面戦争を行っているところだ、魔王軍に加わる可能性のある者は潰しておきたい。つまりそういうことだろう。
「さて……」
ヒイラギが見つめる先には、朱塗りが美しい鳥居と小さな社があった。敷地の奥の方に倉のようなものが見えるが、そこに幽閉しているのだろうか。鳥居にはオオクニヌシとタケミナカタが立っている。おそらくは見張りだろうが、正直なところ寂れた小さな神社で見張りを立てる必要があるものには見えない。それこそ――ベテルが危険視する「鬼」でもいない限り。目に見える範囲では悪魔は鳥居のところにしかいないが、交戦するとわらわらと湧いてくる予感がある。どこか裏口を探し、忍び込んだ方がよいだろう。ヒイラギは素早く決断すると、青い髪をなびかせ歩き始めた。
ヒイラギは見張りの目をかいくぐり、神社境内に設けられた座敷牢に辿り着いた。人目につかぬ片隅にひっそりと佇む座敷牢の廊下はひやりと冷たく、窓が少なく差し込む光は少ない。いくつか牢が並んでいるが、その一つが強烈な気配を発していた。できる限り足音をさせぬよう、ヒイラギは慎重に歩いていく。
「……誰?」
目的の牢まであと一歩、といったところで女性の声が響いた。涼やかだがどこか硬い声音だった。端的な一言が、静寂の中でやたらと響く。ヒイラギは息を呑み、一歩踏み出した。気配を感じた牢の前に立ち、格子を覗いた。
「来ないで」
女性の声が耳に届いた瞬間ヒイラギの首に強烈な圧力がかかり、ぐいと後ろに引っ張られた。思わず首に手をやると、透明な縄状のものが巻きついているようだった。思いきり後ろに引きずられる中右手に天色の剣を出現させ、首の後ろの虚空を裂いた。鈍い、縄を断ち切った感触とともにヒイラギは膝をついた。牢から数メートル引きずられ離れてしまった。鋭く牢を見据えながら、ゆっくり近付く。
「あら、効きが悪いわね。あなた、よほど力のある悪魔なのね」
座敷牢の中には、女性が座っていた。赤く長い二本の角が額から生えており、彼女が標的の「鬼」であることはすぐにわかった。両手足を注連縄で縛られた彼女は、ヒイラギをじっとりと訝しげな眼差しで見つめている。
「あなた、国津神ではないようね。おおかた私を殺すように言われたのかしら」
「よくわかったね」
「すぐわかるわ。何回か似たようなことがあったから」
ふう、と女性は諦観のため息をつき、両目を閉じ折目正しい正座に両手を重ねた。その姿はまさしく牡丹の花、美しい所作だった。
「誰から言われたのかわからないけれど、どうせやるならひと思いにしてほしいわ。痛いのは嫌ですもの」
ヒイラギは目を閉じた彼女を数秒見つめていたが、天色の刃で彼女と自分を隔てる格子を切り裂いた。耳に痛い金属音が響き、格子が切断面に沿って滑り落ちる。
ヒイラギは彼女に近付き、両手足の自由を奪う注連縄を切り裂いた。彼女は大きく目を見開いた。彼女の驚いた視線を受けながら、ヒイラギは手を差し伸べた。
「今から君は自由の身だ。もし行くところがなければ、僕の仲魔にならない?人手不足なんだ」
「……あなた、こんなことしていいの?私を殺すよう言われているのでしょう?」
「言われてるよ。でも、君を助けたくなった」
「私を逃したら国津神に追われる身になるわ。それでもいいの?」
「いいよ。来たら倒せばいいだけだし」
ヒイラギの口調は重く軽くもない、淡々と事実を告げる。彼女は数秒押し黙っていたが、廊下の奥から聞こえてきた足音に眉を顰めた。
「封印が解かれたことに気付いたようね。このままだと見張りが来るわ。あなた、名前は?」
「ヒイラギ」
「そう、ヒイラギね。私はミコトよ。今はとりあえずあなたについていくわ。落ち着いたら色々話しましょう」
鬼の女性――ミコトは、ヒイラギの手を握った。
「ふう。なかなかしつこかったな」
千代田区の神社で起こった国津神とヒイラギの戦いは、ヒイラギの勝利で無事幕を閉じた。並いる国津神を倒し、ようやく悪魔の裏庭に腰を落ち着けた。その間ずっとミコトの手を握り駆け抜けていた、名残惜しいが手を離した。彼女はベンチに座り、ヒイラギを不思議そうな目で眺めている。
「あなた、強いのね。私を殺すなんて赤子の手を捻るより簡単でしょうに、何故生かしたのかしら」
「さあ、何でだろうね」
ヒイラギは彼女の隣に腰を下ろし、ベンチの背もたれにもたれかかった。
「殺したくなかったんだ。理由なんてそれだけで十分じゃない?」
ミコトの瞳を見つめて明瞭に伝えると、彼女ははぁ、と呆けていた。
「そう……ずいぶんと単純なのね」
「ねえ、よかったら僕の仲魔にならない?」
「そうね……私には行くところなんてないわ。だから、責任を取ってもらえるとありがたいわね」
「そうか、わかった。じゃあ今から君は僕の仲魔だ。今後ともよろしく」
「よろしく」
親交のために差し出したヒイラギの手を、柔くミコトは握ってくれた。そこであ、とヒイラギは思い出した。
「あー、ベテルにはなんて言おうか……」
「ベテル?」
「うん。君を殺すよう天使から言われたんだ。そうだな……命乞いをされてどうしてもと言われたから、仲魔に加えた。僕がちゃんと監視する。そんな感じでどうかな?」
少し考えた末の提案に、彼女はじとっとした目でヒイラギを睨んだ。
「『そんな感じで』と言われても困るわね。あなたの都合のいいようにすればいいわ」
「わかった。うまく誤魔化しておくよ」
ヒイラギは苦笑いしつつ、ミコトを観察した。座敷牢に囚われていた彼女だが見なりはとても囚人には見えず、むしろどこかの姫君のような仕立てのいい服を着ている。両手足を拘束され外には出られなかったと思われるが、丁重に扱われていた様子だ。一体どんな事情がありそんなことになっていたのか、ヒイラギには想像がつかなかった。
「ところで、私を殺すように言われていたのでしょう。私のことは何と説明されていたのかしら」
「強い呪いの力を持つ鬼、って聞いたよ。ミコトはどうしてあそこに幽閉されていたの?」
「そう、割とざっくりした説明なのね、天使らしいわ。それじゃ、説明してあげるわ。ちょっと長くなるけれど」
ミコトは息を吐き、語り始めた。
私が幽閉されていた神社の近くに、鬼の集落があるのよ。私はそこで生まれたわ。私、角が二本でしょう。鬼は大きな角が一本、小さな角が二本あるのだけれど、長い角が二本の者は霊力が強かったり、特殊な力を持っているから、特別扱いされるの。
私?私はね、縊鬼(くびりおに)といって、首を括らせる能力を持つの。あなたが来たとき、首が後ろに引っ張られる感覚があったでしょう。あれが私の力よ。別に首に限らないけど、霊力で作った縄で絞めたり吊るしたりできるわ。あなたみたいに力が強い者が相手だと、せいぜい首を引っ張って離すくらいしかできないんだけどね。
何の話だったかしら……ああそうそう、集落の話をしていたわね。
私は二本角の縊鬼で女だから、「鬼姫」と呼ばれていたのよ。いずれはあの集落の長になるなんて言われていたわ。平和に鬼が集まって暮らしていたんだけれど、あるとき近くにいた国津神の怒りを買ったの。何があったか詳しくは知らないわ、でも国津神は大層お怒りだったそうよ?それで、国津神から一人生贄を捧げよ、そうすれば手打ちにしてやると言われたそうね。そのとき一番霊力が強い鬼を、と言われて私が選ばれたってわけ。それから私は国津神の社に幽閉され、代わりに鬼の集落とは関わり合いにならない不可侵条約を結んだらしいわ。多分集落では私のことは触れちゃいけない話題になってるでしょうし、「霊力の強い鬼が幽閉されている」がいつの間にか「強い呪いを持つ鬼を国津神が飼い慣らしている」みたいになっていったのでしょうね。噂は尾ひれがつくものだから。
「……といったところよ。どうかしら、理解できた?」
「なるほど、つまり君は人質だったんだね」
「そういうことね」
ミコトは顎に手を当て、思案する素振りを見せた。
「あなたが私を連れ出して国津神をあらかた倒してしまったけれど、生き残りがいるでしょうから、鬼の集落がどうなるか少し心配ではあるわね」
「もし気になるなら、集落に行ってみる?」
ヒイラギが何ともなしに行った言葉に、ミコトは首を横に振った。
「生贄の私が行ったら、恐れ慄くでしょうね。国津神を倒して怒りを買ったなんて聞いたら卒倒してしまうわ。やめておきましょう。少なくとも今は行くべきではないわ」
「そうか……わかった。ミコト、僕と一緒に来てくれてありがとう。色々大変だったみたいだけど、僕と一緒にいるなら面倒は起こらないはずだよ。最悪何かあったら蹴散らせばいい」
ヒイラギの言葉に、ミコトは手で口元を押さえ笑った。
「あら、なかなか過激ね。最近の神様は過激派なのかしら」
「ふふ……そうかもね」
ミコトの手を取り微笑むヒイラギに、ミコトも微笑みを返した。
ミコトがヒイラギの仲魔になってから数週間が過ぎた。彼は魔王を滅ぼすとの壮大な目標を掲げ、ミコトら仲魔を伴い魔王城を攻略してみせた。千代田区に巣食う邪悪な魔王はヒイラギの刃の前に沈み、彼の名と力が魔界中に轟くこととなった。
悪魔の裏庭。ミコトはベンチに座り息をついた。そばにはヒイラギがやって来る。微笑みを交わし、ヒイラギが隣に座った。
「お疲れ様、ヒイラギ。本当に魔王軍を滅ぼしてしまうなんて思わなかったわ」
「うん、やると決めたら僕はやる男だからね。どう、見直した?」
得意げな彼にミコトは苦笑した。
「見直すもなにも、最初からあなたのことは信頼しているわ。私を助けてくれた恩人ですもの」
「そうか、それはよかったよ。仲魔の前で格好悪いところを見せられないからね」
「ふふ、そう……あなたも大変ね。虚勢を張らなくてはいけないときもありそうね」
「うん、そうなんだ。……ねえ、ミコト」
「何かしら?」
じっとヒイラギがそばで見つめていた。丸く輝く金色の月に似た瞳は、何やら甘い懇願を漂わせている。
「少し寄りかかってもいいかな?できたら膝枕とかしてほしいんだけど」
「…………」
ミコトは周囲を見回した。ここは悪魔の裏庭。敵意を持った悪魔はいないものの、思い思いに過ごす他の仲魔がいる。特にこちらを注視している仲魔がいるわけではないが、仲魔のいる空間で甘えてもよいのだろうか。
「さっき仲魔の前で格好悪いところは見せられない、って言ってなかったかしら」
「言ったね」
「私に寄りかかるのは格好悪いところではないの?」
尋ねると、本気で不思議そうな顔をしたヒイラギと目が合った。
「どうして?頼れる仲魔にしっかり頼るのも大事なことだよ。格好悪いなんて思わない」
「……そう……じゃあ、寄りかかっていいわよ。膝枕でも構わないわ」
「ありがとう。じゃあ、お言葉に甘えて膝を借りちゃおうか」
ヒイラギは言葉どおりミコトの太ももに頭を乗せ、ベンチに寝転がった。青い髪が太ももからベンチに零れ落ち、青い線を描く。見下ろした彼は無邪気な表情で、とても魔王軍を滅ぼした神には見えない。
――面白いひとだ。
ミコトはそう思いながら、ここにいるのも何かの運命かもしれないな、と苦笑した。
ヒイラギが用意した悪魔の裏庭、そのベンチはミコトの定位置になりつつあった。ヒイラギの仲魔はミコト以外にも多種多様な者がいるが、その中でもカハクには何か通ずるものがあった。カハクがベンチに腰掛けるミコトにふわりと近付く。
「あなたがミコトね?なんだかあなたとはオトモダチになれそうな気がするの」
「あら、私もよ。どうしてかしら」
「ヒイラギから聞いたの。ミコトは首をくくらせる、つらせることができるんでしょう?」
「ええ、そうよ」
珍しくミコトの能力が正しく伝わっている。それだけでヒイラギの誠意を感じた。カハクは鱗粉を散らしながら、背中の翅をざわめかせる。
「わたしはね、首をつったニンゲンがいた木からうまれたの!だからあなたとはオトモダチになれそうな気がしたのね!」
「そうなのね。なるほど、カハクがいるだけ首を吊った人間がいるということね」
「そういうこと〜!」
人間からすれば物騒極まりない話だが、悪魔にとってはたわいもない話に過ぎない。二人はくすくすと笑った。鬼の集落出身で長く国津神の社に監禁されていた身、鬼や国津神以外との交流は初めてだった。年頃の少女のように笑い合える日が来るなど思いもしなかった。
「姫様!!」
カハクと話していた折、仲魔の一人、オニがミコトのもとに現れ滑り込むように土下座をした。あまりに突然のことで呆然としつつ、ミコトは思わずカハクを見た。彼女も事態をよく飲み込めないらしく、「?」と首を傾げている。
「よもや姫様ではないかと思っておりましたが、やはりあなたはあの集落の姫様……!オレ……いえ、私は、集落の者でございます!」
オニは土下座の体勢のまままくし立てた。なるほど、とミコトは納得した。監禁されていた社近くの鬼の集落――ミコトの生まれ故郷のオニか。正直ミコトには目の前の彼が集落の誰かなど見分けがつかないしどうでもいい。ふう、とミコトが息をつくと、オニはびくりと肩を竦ませた。
「顔を上げ、立ちなさい」
「いえ、姫様を見下ろすなど……!!」
「あなたは誰かと話すときに目も合わさないの?立って、私を見なさい」
ミコトの凛とした声音に、オニはおずおずと顔を上げ立ち上がった。ミコトよりよほど背が高く体格もいい、いかにもな「鬼」だった。ミコトを見下ろす彼は縮こまり、体格の割にしょぼくれた風情を漂わせている。
「私はもうあの集落の姫などではないわ。私はヒイラギの仲魔、それ以上でもそれ以下でもない。そうでしょう?」
「し、しかし……私たちは姫様を国津神の生贄とし、暮らしていました。今後どう償えばよいか……」
「私が生贄となったのは昔のことよ。それに、ヒイラギに助けられ今ここにいる。償うというのなら、ヒイラギに礼を言うのが先よ。あなたと私はヒイラギの仲魔、なら私たちは対等でしょう。敬語を使う必要も、姫様なんて呼ぶ必要もないわ」
「……!そ、そう、ですね」
オニは深々と頭を下げ、ヒイラギの元に去っていった。律儀に礼を言いに行くのだろう。ミコトはあの集落について思うところはない。自らが生まれ、今はもう離れた場所。ただそれだけだ。オニとヒイラギが何事かを話しているのを眺めていると、やがてヒイラギがベンチに近付き、ミコトの隣に腰掛けた。
「ミコト、さっきのオニから何か言われた?」
「ええ。私に償いたいとか言っていたわ。それなら助けてくれたヒイラギに礼を言うのが先だと言ったところよ」
「ああ、なるほどね。だからいきなりお礼を言われたのか。びっくりしたよ、何かあったのかと思った」
ヒイラギは飄々として、ミコトを助けたことを重く考えていない風だった。彼のその態度は、ミコトにとってもありがたい。
「ヒイラギ、改めて私からも礼を言うわ。あの社から助けてくれてありがとう」
「ミコトまでどうしたの?急に言われると照れるよ」
そう言って頬を掻く彼は、子供っぽい苦笑いを浮かべている。強大な力を持つ彼だが、自然体で羨ましい。
「助けられたのだから、礼くらい言うわ。それに……この恩は、これから返していくつもりよ。あなたを守るつもりでついていくわ」
魔王軍を殲滅しても、ヒイラギの戦いは終わらなかった。悪魔に襲われ、退け、また悪魔に襲われ――永遠に続く戦いの円環、その中に彼は身を投じていた。
「ヒイラギ、危ない!」
ヒイラギが目の前にいる悪魔を斬り伏せた瞬間、背後からミコトの声が響いた。振り返った瞬間、ヒイラギに剣を振り下ろそうとしていたミシャグジが見えない何かに引っ張られ、宙に首を吊り絶命しているのが見えた。その白く長い手から剣が滑り落ち、どちゃり、と骸が崩れ落ちた。その傍らには、ミコトが立っている。彼女の霊的な縄を用いた能力――幾度となく助けられてきた。ヒイラギは悪魔の気配が消えたことを確認し、彼女に歩み寄った。
「ありがとう、ミコト。助けてくれて」
「いいえ、いいのよ。でも、何だか最近のあなたは変よ。戦いに集中できてないみたいね」
「そんなこと……」
ない、と言いそうになって言葉が濁り途切れた。ないとは言い切れない。最近のヒイラギには頭を悩ます種があった。
「どうしたの、何かあるなら話を聞くわよ。仲魔に頼ることは格好悪いことではないのでしょう?」
以前彼女に言った言葉が自らに返ってくる。ヒイラギは苦笑した。
「うん、そうだね、そうなんだけど……ちょっと一人で考えたいんだ」
怪訝な顔をするミコトに罪悪感が湧いたものの、ヒイラギはこれ以上語るつもりはなかった。
創世――ヒイラギの頭にはその二文字がぐるぐると巡っていた。
ダアト、上野区。冴えた空気に覆われたこの場所には、消えゆく東京を救う鍵となる創世の王座に続く場所がある。アブディエル、越水、ジョカ。それぞれのナホビノ候補がそれぞれの思惑をもって蠢く中、ヒイラギは思い悩んでいた。
ヒイラギ以外のナホビノはいずれも創世を目標としている。それぞれの理想を掲げて新たな世界を創世したとき、魔界とそこに暮らす悪魔たちは――もっといえばミコトは、どうなってしまうのだろう。
創世。それを果たせば、崩れていく東京は救われるだろう。では魔界は?ミコトは?仮にもう一度魔界が形作られるとしても、そこにミコトがいたとしても、「今ヒイラギの隣にいるミコト」とは別の存在ではないか?
「ヒイラギ、どうしたの?」
悪魔の裏庭、ベンチ。隣に座っているミコトは、瞳にわずかな翳りを見せた。彼女には笑顔が似合う。だから……「今隣にいる彼女」に笑っていてほしい。
「いや、何でもないよ」
ヒイラギは答えた。その何でもない言葉の裏に、決意が滲んでいた。
「ミコト」
至高天、その先に創世の王座がある。それを知ったヒイラギは、悪魔の裏庭でミコトを呼び止めた。彼女は普段どおりベンチに腰掛け、ヒイラギを見上げた。
「あら、どうしたの?険しい顔をしているわね」
「君に聞いてほしいことがあるんだ」
「珍しく神妙ね。ほら、座ったら」
ミコトはベンチの座面を掌で叩いた。ヒイラギは笑い、遠慮なく彼女の隣に座る。息を吸うと、ふわりと不思議な匂いがした。人間の女性が纏うような柔らかな香りだった。
「これから、僕は至高天に向かう。君にはここで待っていてほしいんだ」
「ここで?どういうことかしら」
彼女は不審がった。当然だろう。彼女は仲魔になってからずっと、ヒイラギとともに魔界を駆け抜けてきた。打ち明けるヒイラギとしても、心に重い鉛が沈んでいく心地だった。
「これから向かう場所には僕以外のナホビノが集まる。厳しい戦いになると思う。だから……君を連れていきたくないんだ」
「これまでもあなたと一緒に戦ってきたわよね、あなたの助けになっていると思っていたのだけど……私がそんなに信用できないかしら」
「違うんだ……そうじゃない」
ヒイラギは首を横に振り、ミコトの膝に置かれた手に自らの手を重ねた。柔い白魚のような手には、艶めかしいぬくもりが宿っている。その優しいぬくもりに触れると心が躍る。
「君だけは失いたくないんだ。もし君を失ったら、僕が至高天に行く理由がなくなってしまうから。だから、ここで待っていてほしい。必ず帰ってくる」
「…………」
身を乗り出して見据えたミコトは、ヒイラギの金色の瞳から目を逸らした。わなないた唇から、彼女にしては珍しいあえかな声が漏れた。
「私を国津神に引き渡すとき、両親も同じことを言っていたわ。必ず迎えに来るからって……でも、あなたが来るまで結局助けられることはなかった。……ここで待っていれば必ず帰ってくると、そう思っていいのかしら」
「もちろん。僕は今まですると言ったら、絶対そうしてきたでしょ?」
「……それもそうね」
百の言葉よりも、一の実績が全てを物語っていた。君を仲魔にすると言えば本当に仲魔にした。魔王を倒すから力を貸してほしい、と言えば必ず魔王を滅ぼした。彼は有言実行を重ねてきた。今回だけ不実行にするとは思えない。
「わかったわ。ここであなたを待つ。その代わり必ず帰ってきて」
「よかった、わかってくれて。大丈夫、必ず迎えに来るから」
ヒイラギは愛おしい鬼姫を見つめ頷いた。彼女も穏やかに微笑みを返してくれた。
至高天での戦闘は、ヒイラギが思っていたよりも激しく厳しいものだった。アブディエル、ツクヨミ、ジョカ。それぞれの理想を掲げ創世を目指した者たちが競り合ったが、最終的に地を踏み立っていたのはヒイラギだった。創世の王座――ナホビノのみが辿り着ける神秘を、ヒイラギが自由にする権利を得た。まだ触れぬ奇跡を受け、青い髪が不可思議な模様を描いてなびいた。
創世の女神と化したタオは言った。あなたの理想とする世界を創世してほしいと。ヒイラギは目を閉じた。真っ先に思い浮かぶのは二本角を持つ鬼姫、ミコト。彼女はこれまで長く国津神のもとで監禁され、ようやく自由の身となりヒイラギの仲魔となってくれた。願わくば彼女と過ごす日々を残したい。
そのために、この王座は邪魔だった。新たに創世した世界で、ミコトや彼女が日々を過ごしていく魔界がどうなってしまうのかわからない。これからも彼女と変わりなく生きていくためにどうすべきか、ヒイラギは誰に言われるまでもなく理解していた。
「叢雲!」
ヒイラギの叫びとともに、右手に旋風が宿った。右腕を上げると、尖った風の刃が纏わりつく。創世の王座。現在の尊き世界を破壊するものが残っていれば、これから先もいずれ創世をなさんとするナホビノが生まれるだろう。そうなれば元の木阿弥だ。こんなもの――完膚なきまでに叩き壊す必要がある。
ヒイラギは右腕を王座に叩きつけた。鮮烈な破壊音が響き、「創世の王座」という概念が崩れ去る。視界が明滅する。脳に直接声が届いた。
――ああ、なんてことを……!!これでは、創世が……!!
創世の女神が嘆こうがどうでもいい。ヒイラギには破壊こそが正義だった。天叢雲剣で壊したものは二度と元に戻らぬだろう。これでいい。ヒイラギは王座の破片を爪先で蹴り飛ばし、至高天を後にした。彼の帰りを待っている者がいる。
悪魔の裏庭のベンチでミコトは一人佇んでいた。暇だ。他の仲魔たちはヒイラギとともに至高天に行ってしまったから、話相手もいない。せめてカハクだけでも残していってくれたらとヒイラギを恨んだ。
かつて国津神の社に囚われていたときを思い出した。こんな快適な空間ではなかったが、あのときも一人でただ時が過ぎるのを待っていた。あの頃は希望も何もなくただ無為に過ごしていただけだったが、今は違う。ヒイラギの帰りを待つ。まさかミコトに「待つ」対象ができるなどとは思っていなかった。しかしそれも悪くない。時間を持て余すことだけが唯一の不満だが。
「ミコト」
声が響いた。弾かれたように立ち上がると、ヒイラギが威風堂々と歩いてきた。その佇まいは神々しく自信に満ち溢れ、何事か大きな目標を達成したのだろうことが見て取れた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
言うが否や、ミコトはヒイラギの腕の中に収まっていた。彼の胸板は逞しく、あまり意識していなかったが一人の男性であることを感じさせる。
「ミコト、やるべきことは終わったよ。僕、頑張ったんだ」
「そんな感じね、お疲れ様」
「ありがとう」
ヒイラギの手がミコトの頬に伸び、愛おしそうに撫でてくる。ミコトはその手に自らの手を重ねた。ヒイラギの掌は大きく指が長い、ミコトの手では覆いきれない。
「ああ、疲れちゃった。ちょっと休もうかな……」
ヒイラギの声から力が抜けたと思った瞬間、彼は膝から崩れ落ちた。慌てて支えると、寝息が聞こえてきた。すやすやと眠る彼はさながら赤子のようで、先ほどまでの逞しさが消え失せ、ただあどけない少年に見える。
「しょうがないわね」
ミコトは苦笑しながら彼をベンチに寝かせ、膝枕をしてやった。ううん、とむにゃむにゃと口元を動かす彼は稚い。安心しきった顔は間抜けだが、凛々しさとの乖離が大きく愛おしい。
「今はゆっくりおやすみなさいな」
頭を撫でてやると、眠っているはずの彼はふふ、と笑った。青い髪がミコトの指に親しげに絡んでくる。
――これはしばらく起きないわね。
やっと彼が帰ってきたと思ったのに、また待つことになるのか。それもまた一興。ミコトは顔を綻ばせた。
東京はもうとうの昔に滅んでいるかもしれない。ヒイラギは創世の王座を破壊してから一度も東京に戻らなかった。人の世に未練などない、自分にはミコトがいればそれでいい。
「ミコト」
今日も悪魔の裏庭で、ヒイラギはミコトを呼ぶ。彼女はいつもどおりベンチに座っていた。その居住まいは優美で、見慣れていてもたまに言葉を失うときがある。
「何かしら?」
「ねえ、僕って君のいた集落に挨拶に行かなくていいのかな?」
そう尋ねると、ミコトは不思議そうに首を傾げた。
「あら、どうして?」
「だって、君とずっと一緒にいるんだよ。僕は君と結婚したいくらいなんだ。人間ならお互いの家族に挨拶に行ったりするけど、悪魔……というか、鬼だとどうなのかな」
「……あなた、たまに妙なことを言うわね」
呆れたミコトの声が聞こえた。はは、と笑いながらヒイラギはミコトの隣に腰掛ける。裏庭のベンチ、彼女の隣はヒイラギのものだ。誰にも譲る気はない。
そうね、とミコトは虚空を見ながら呟いた。
「鬼同士なら、家族同士引き合わせてはいたようね。私とあなたは異種族だし、どうすればいいのかよくわからないわ。それに、私たちは鬼の集落で暮らすつもりはないでしょう?」
「そうだね。でも、ちゃんと伝えておいた方がいいのかなって。生贄だったミコトをお嫁さんにもらいますって」
「たぶんあなたのことは噂になっていると思うわよ?だからわざわざ波風立てなくてもいいんじゃないかしら」
「そっかあ……」
鬼の姫を囚えていた社の国津神が全滅し、鬼姫は行方不明である。魔王軍の壊滅程度にはセンセーショナルな内容だろうか。ミコトを見た悪魔たちもいるだろうし、知られていても不思議ではないな、とヒイラギは納得した。しかし、それを抜きにしても気になることがあった。
「ミコト、悪魔に結婚とか恋人とか、そういうのはあるの?」
「家族があるのだから、あると思うわよ。少なくとも鬼の集落はそうだったわね」
「じゃあ」
ヒイラギはミコトの手を取り、その滑らかな手の甲に口付けた。口付け自体は軽いものだったが、そこに秘めた想いは軽いものではない。ミコトの頬に薄く紅がさした。
「僕は君と恋人同士に、結婚できるなら結婚したい。君とこれからずっと魔界で暮らしていくって決めたんだ」
ミコトは黙り込んだ。半開きの唇からは、空気が抜ける音しかしない。ヒイラギに視線が固定され硬直している。
「珍しいね、ミコトがこんなに黙っちゃうなんて」
「……驚くに決まってるじゃない。私に求婚する物好きがいるなんて」
「僕は真面目に言ってるよ?君を殺すよう依頼を受けたのも、君と出会うためだったんだ。きっとね」
再び静寂が訪れた。二人の間に流れる沈黙は心地よく、張り詰めた緊張感はない。ミコトは口ごもっていたが、やがて意を決し言葉を紡ぐ。
「正直、私には断る理由がないわ。あなたには助けてもらったし、悪い人ではないからずっと仲魔でいるのだし。……本当に、よくしてもらっているもの」
「ふふ、じゃあ結婚しようか」
ヒイラギはミコトを抱きしめ、ほんの刹那唇を奪った。彼女の唇は柔らかく、きっと人間と変わらない感触だろうと思った。ミコトは困ったように笑い、息をついた。
「ああ……だから集落に挨拶、とか言っていたのね?」
「そうだよ。でもいらないならいいんだ。単に僕が気になってるだけだからね。僕は君と、ミコトと一緒にいられるならなんでもいいから」
「私も……あなたと一緒なら、それでいいわ」
ミコトは知らない。彼女と魔界を残すために、世界を一つ壊していることを。これからも伝えるつもりはない。彼女にはいつまでも笑っていてほしかった。ヒイラギの隣で、この心地よい裏庭で。
