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Ru-Ru-Ru
僕の庭においで。
一生覚めない夢の中に、君を閉じ込めてあげるから。
「ん?あれ……?」
月森ミコトは気がつくと見知らぬ場所にいた。空が暗く沈む夜、真白の満月が冴えた光を放っている。コンクリートの冷たい地面がどこまでも真っ直ぐ続き、その両側に背が高い灰色のビルが立ち並んでいる。背高のっぽのビルたちは月明かりに照らされ地面に黒く長い影を刻む。夜の闇も相まって閉塞感と圧迫感の強い空間だった。辺りを見回しても誰もいない、空き缶を転がして駆けていく黒猫が見えたくらいだった。
前進、後退、停滞。ミコトには三つの道が示されている。前方は終着点が見えない蒼白い薄暗がりの道、後方も同じ風景。ビルの深い闇から何か飛び出してきそうな嫌な予感がして、立ち止まるのは得策ではないと本能的に察した。ゆえにミコトは歩き始めた。体を縮こめ、恐る恐る周囲を警戒しながら歩く。まさに牛歩、進みたくも止まりたくもない気持ちに背を押され、おっかなびっくり歩を進める。辺りにはミコトの足音と、自身の少し早い呼吸音しか聞こえない。こんな不安は初めてだ。
ただただ直線の道が続く前方に、誰かが立っていた。おかしい、数秒前まで何もいなかったはずだ。ミコトは思わず立ち止まり目を擦ったが、やっぱり人影がいる。背が低く小柄だ。子供だろうか。
「お姉ちゃん、こっち」
やや平坦だが可愛らしい少女の声がした。人影――金髪に紺色のワンピースの可憐な少女――がミコトを手招きする。あれは本当にミコトに対するご招待だろうか?ふと不安になりミコトは三百六十度見渡すが、ミコト以外誰もいない。おそらく自分を呼んでいるのだろう。……たぶん。人っ子一人いないはずの夜の闇に少女が一人いるのは妙な状況だが、自分以外の誰かに縋りつきたくなった。小走りで少女に近付く。
「こっちだよ」
少女はミコトを流し目で見、すいと滑るように移動していった。小さくなる背中に、
「待って!」
思わず叫んでミコトは駆け出した。少女は振り返ることなく進んでいく。追いつけない。一定の距離が保たれ、見失いはしないが手が届かない。
華奢な背中を追いかけていくと、少女が左の曲がり角に入っていった。ミコトも迷わず同じ角を曲がる。曲がり角の先も背の高いビルとビルの隙間、細い路地が続いている。眩い月光により落ちる影がますます深く、暗くなる。
「あれ、いない……?」
確かにこの角を曲がったはずだが、少女が見当たらない。道しるべとしていたものが消え、途端に不安が襲ってきた。立ち尽くすミコトの影は長く伸び、きょろきょろと辺りを見回している。
「どこいったの……」
とにかく、あの少女を探そう。ミコトは再び歩き始めた。先ほどまでの全力疾走による疲れは溢れる不安に塗りつぶされ、今度は冷や汗を流した。この暗く静かな世界で、自分以外に誰もいないのは恐ろしい。
コンクリートのある一点を踏みしめたとき、地面が軋む強烈な音が響いた。聴覚を唐突に刺激する不穏な音に体が強張った瞬間、ミコトの立っている地面ががらりと崩れた。
「――っ!!」
ミコトにはどうすることもできない。落下する。底が見えない暗闇に体が放り出され、ミコトは思わず目を閉じた。死を、痛みを覚悟した。重力に従った数秒後、ミコトは硬い感触の何かにぶつかり、ごろごろと坂を転がり地面に倒れた。
「痛っ……!!」
全身が痛い。ミコトはうずくまりながらも目を開いた。
「ひ……!!」
視界に飛び込んできたのは、頭蓋骨の山。ピラミッド状にうずたかく積まれている。天辺の頭蓋骨がころころと斜面を転がり、ミコトのすぐそばに落ちてきた。からからに乾いた骨の硬い感触、眼球のない空洞と目が合いミコトは身をすくめた。どうやら自分は頭蓋骨の山に着地し、現在無様に地面に倒れ伏しているらしい。起きなきゃ……いつまでも頭蓋骨と目を合わせているのも嫌だ。そう思い一度目を閉じ、全身に力を入れて、
月森ミコトは目を覚ました。
「――!!」
ばちり、と両目を開く。ミコトはじっとりと嫌な汗をかいているのを感じながら、半身を起こした。縄印学園学生寮、ミコトの部屋、ベッドの上。部屋も窓の外も真っ暗だ。枕元のスマートフォンを確認すると、午前三時過ぎ。当然ながら起床には早すぎる。
「はぁ……」
頭を抱えた。夢だった。だが脳裏には、あの白く不気味な死の山がこびりついている。汗でべたべたと不快、意識は完全に眠りから覚めてしまった。今日の授業は居眠り確定だ。ミコトは深いため息をつき、もう一度ベッドに倒れ目を閉じる。たとえ眠れなくとも、いっときの休息を得るために。
「はー、疲れたぁ……」
ミコトは今日も無事に学園生活を終え、学生寮に戻る。あの変な夢のせいでろくに眠れず、今日はずっとぼんやりしていた。友人のタオに、
「どうしたの、ミコト。すっごく眠そう」
と心配される始末だった。そのとき何と返したか思い出せないくらい眠い。気怠い夕暮れ、ミコトはベッドに倒れ込んだ。そのまま、
ミコトの意識は夢の中に放り出される。
「!?え、あ、え……?」
あの夢で見た景色と同じ、夜闇に背の高いビルが乱立している不気味な空間だった。見たことのない場所のはずなのに、何故か夢の中では何度も登場する。夢にはありがちなことだが、この空間もそういう類のものだろうか。前回の白い頭蓋骨の山を思い出し、ミコトは嘔気を催した。夢の中でくらい、楽しい感情に浸りたいところだが、どうやら今回もそうは問屋が卸さないらしい。張り詰めた冷たい空気にミコトは震えた。
夢の中のミコトに提示されるのは、やはり前進、後退、停滞。そのいずれかを選ばねばならない。前回は前進しろくでもない目に遭った、では後退してみてはどうか。ミコトは振り返り、最初見つめていた方向とは逆方向に歩き始めた。振り向いてもコンクリートの道は変わらず、地面に長い影を落とすビルが並んでいるのも変わらない。
があがあとうるさい声が頭上から聞こえた。立ち止まり見上げると、あるビルの屋上の手すりにカラスがとまっていた。鬱蒼と茂る蒼白い闇の中、漆黒の羽が際立っていた。白い満月に照らされた羽は艶々と輝き、濡れた美しさをたたえている。
「……ん?」
よく見ると、カラスの他に人影が見えた。ビルの屋上に設置された手すりの外側、あと一歩踏み出せば地面と強烈な接吻を可能とするところに立っている。彼、あるいは彼女はカラスと同じく真っ黒で、顔も髪も服も、全てが塗り潰されたように黒い。冷静に考えなくとも不気味な影なのだが、ミコトは素通りできなかった。ここは孤独な夢の中、そこで人と思しきものを見たら近寄りたくなる。昨日、金髪の少女を追いかけたときと同じように。ミコトはビルに近寄り、どこかに階段や入り口はないかと探し始めた、その刹那、
どちゃ。
ミコトの足元に何かが落ちてきた。赤い液体がじわじわと円状に広がり、ミコトの靴を濡らす。
「へ、えっ……?」
ミコトは凍りついた。足が動かない。それどころか顔も動かせない。一体何が足元に転がっているのか見たいのに、杭でも刺さったかのように動けない。何とか眼球だけ動かして足元を見やると、少女が倒れていた。
「ひっ!?」
ミコトは腰を抜かし尻餅をついた。その拍子に靴に付着した血が頬に飛び散り、生温かい気持ち悪さを感じた。ぞわりと肌が粟立つ。
近くでよくよく見ると、倒れている少女はタオにそっくりだった。タオの水色のジャージが赤黒く染まっていく。ひ、と小さく呻きミコトが後退りすると、靴底についた血が赤黒い爪痕に似た不穏な直線を描いた。
「な、なんなのよ……!やめてよ!」
夢ならさっさと醒めろと心から願い、両目を見開いたタオの亡骸から目を逸らした瞬間、
月森ミコトは目を覚ました。
ばちり、と両目を開く。全身を不快な汗が苛んでいる。視界に入る部屋は暗く、枕元のスマートフォンを見ると午後九時を過ぎたところだった。帰ってすぐに寝てしまい、また妙な時間に起きてしまった。それも、奇妙な恐ろしい夢を見て。
「うう……」
今日はちゃんと寝たいと思っていたのに、気持ち悪い。これ以上ないほど目が冴えてしまい、眠れそうにない。かといって読書など生産的な暇潰しをする気分にもなれない。ミコトは吐き気を抑えながら布団にくるまり目を閉じた。眠れなくてもいい。ただ時間が過ぎ、悪夢を見なければいい。何かに縋り、祈る心地だった。
「ミコト、大丈夫?目の下に隈ができてる」
「え……?」
翌日の休み時間、机に突っ伏して寝ようかと思っていたらタオに声をかけられた。こちらを覗き込む彼女は純粋に心配した様子だ。大丈夫、と返そうとして、
――どちゃ。
脳裏によぎったのは夢の中で身投げした彼女。割れた頭、広がる血、靴にこびりついた赤い血痕。
「……!!」
耐えられない。ミコトは口元を押さえ駆け出した。タオの声が背後から聞こえるが構っていられない。ミコトは最も近いトイレに駆け込み、個室の鍵をかけると思いきり嘔吐した。朝食べたものが全て逆流する。鮮明に浮かぶタオの死がミコトを苦しめる。気持ち悪い。止まらない。あれは夢だとわかっていても、それでも止まらない。
チャイムが鳴った。休み時間が終わってしまったとどこか冷静に思いながら、ミコトは吐き続けた。もう吐くものがない。強烈な酸っぱさが喉を焼き、ミコトは咳き込んだ。そして急激な眠気に襲われる。吐瀉物を流さないと。その義務感で何とか水を流し、ミコトの意識が遠くに薄れ、
ミコトは此度もあの夢に誘われる。
「……っ、やだ……!!」
自分よりはるかに高いビルに囲まれた真っ直ぐな道、白い月が形作る蒼白い闇。この場所を訪れるのは三度目だ。選択を迫られるのも三度目。
前進、後退、停滞。前門に進めば頭蓋骨の山、後門を叩けば友人の死体。どちらもろくでもなかった、ではもう動かない方がいい。ミコトはうずくまり頭を抱えた。このままじっとしていれば、いつか何事もなく夢が覚める。根拠はないがそんな気がした。その瞬間、
「ッ!?」
足首を何かに掴まれた。ひんやりとした感触に怖気が走る。見るべきか、見ざるべきか。何とも知れぬものに掴まれているのを耐える苦痛も、一体何なのか確認する恐怖もどちらも嫌だが、選ばなければならない。ミコトは恐る恐る立ち上がり、唾を呑みながら足元に目を落とした。
血色の悪い蒼白の両手が、ミコトの両足首を掴んでいた。その手は地面から生えており、白い植物が芽を出したように見えた。
「離してよ!」
ミコトは叫びながら振りほどこうと足に力を入れるが、両手はしっかと足首を掴み、びくともしない。そうこうしているうちにミコトの視界にある地面という地面から似たような手が生え、ぞわぞわと蠢きミコトに群がってきた。
「いや、なに!?やめて、やめてぇ!!」
全身大量の手に捉えられ、ミコトの体がずぶずぶと冷たい地面に引きずりこまれていく。蜘蛛の糸を求めミコトは天に手を伸ばすが、不気味なほど白く輝く月を掠めるだけで、何も掴めない。さらにはその手首を別の手に掴まれ、全身に押し付けられた冷たさに心までも凍りつく。
「う、ぶっ……」
全身奇妙な手にもみくちゃにされた挙句、ぺたんと尻餅をついた。昼間に感じた嘔気とは異なる気持ち悪さに泣きそうになるが、ミコトは目を開いた。
青みがかった暗闇に、吊るされた人間の体が数え切れぬほど並んでいた。縄で首を括った死体がミコトを取り囲んでいる。事切れてから時間が経ったと思われ、死体はいずれも生気を感じられない青紫色に染まっている。先ほどまでのビルは消え、代わりに首吊り死体がずらり。空を見上げたが、吸い込まれそうな先が見えない暗闇に、縄がどこまでも伸びている。天辺がない。
「な、なによこれ……!」
ミコトは怯えた声を上げながら、三百六十度ぐるりと見回した。どこを見ても死体、死体、死体。個性のない首吊り死体に囲まれている。ミコトの首筋は恐ろしいほど冷たく凍り、息苦しくなった。目を閉じても脳裏に首吊り死体がこびりつき、逃げ場がない。
「月森さん」
気味の悪い静寂を破る声が聞こえた。ミコトの前方に誰かが立っている。青く長い髪が緩やかにうねり、金色の双眸がミコトを真っ直ぐ見つめている。この生気のない空間ではきらめいて見える、地に足をつけた人間だ。ミコトが一歩踏み出した瞬間、彼は悪戯っぽく微笑み、闇の奥へと駆け出した。輝く青い髪が美しい波を描き、彼の後ろ姿が遠ざかっていく。
「待って、置いてかないで!」
こんな空間にたった一人取り残されるなど正気の沙汰ではない。宙に浮かぶ蒼白い足の間を縫ってミコトは走った。時折死体に触れてしまい、その尖った冷たさに顔を顰めつつも駆け抜ける。金髪の少女も、カラスに呼ばれて見上げた人影も、追い求めていいことなど何一つなかった。それでもミコトはあの青い何者かを追いかけていた。彼はこの不気味な空間の出口を知っているような気がした。
一心不乱に駆けるうちに、いつの間にかあの首吊り死体たちはいなくなっていた。代わりにミコトを出迎えるのは暗闇。上下左右全てが黒く塗りつぶされた空間、月も星もない真の暗闇だった。そして前方には、追いかけ続けた青い髪の彼がいる。彼はミコトに手を伸ばし、微笑んでいた。こっちにおいでよ。そう言っている。言葉はなくともミコトにはわかった。ミコトがふらふらと彼に向かっていきその手を取ろうとしたとき、
月森ミコトは目を覚ました。
「……!」
トイレの個室、便器に突っ伏し座り込んでいた。顔を上げる。遠くでチャイムの音が聞こえた。ぼんやりしながらスマートフォンを見ると、今日最後の授業が終わったところだった。学園のトイレで今まで眠りこけていたらしい。不自然な体勢で硬直していたせいで、少し動いただけで関節が軋む。
ミコトは深いため息をついた。何はともあれ、もう帰ろう。立ち上がりスカートの裾を整えトイレを出る頃には、優しく微笑む青い髪の彼が思い浮かんだ。
ミコトが悪夢に苛まれるようになってから二週間。就寝時以外のうたた寝やまどろみの際も血生臭い悪夢にうなされ、ミコトは自分が寝ているのか起きているのか区別がつかなくなっていた。穏やかな光が差し込む縄印学園高等科、教室。たぶんこれは夢じゃない……はず。友人のタオは、
「ねえ、本当に大丈夫?最近顔色悪いし、よく眠れてないんでしょ?」
とありがたい心配をしてくれるが、その言葉もどこか夢現で聞いている。ぐらぐらと頭が揺れる。眠い。常に眠気が襲ってくる。
結局タオの勧めもあり、今日は保健室で休むことにした。保健室の先生もミコトを見た途端すぐに休みなさい、と顔色を変えていた。それから先生と二言三言話した気がするが、何を話しただろう。ミコトは真っ白なベッドに横になった。ぎしりと軋む音、ふわりとした感触。ああ……また、きっと、わたし、
ミコトは眠りにつき、あの夢の世界に誘われる。
「……!」
全身を冷やす冴えた空気、蒼白い薄闇、どこまでも立ち並ぶ高層ビル。見慣れてしまった光景だった。
前進、後退、停滞。どの選択をしてもろくでもない凄惨な状況に陥ると理解してしまっている。ミコトはただため息をついた。睡眠が人間にとって不可欠な行為であることを、これほど呪ったことはない。
「やあ、月森さん」
涼やかな声が響いた。反射的に声のした方を見上げると、天を貫くビルの天辺、屋上の手すりに足を組んで腰掛ける人影があった。白い満月を背負った彼は、長く青い髪を纏っていた。青い髪がゆらゆらと不気味な風に蠢く。彼はにこ、と笑ってみせた。月の白さに縁取られ輝く彼は神秘的で、つくりものではないかと疑ってしまうほど美しい。
「なんだか疲れてるみたいだね?大丈夫?」
青い彼は自身の長い髪を掌にすくい、戯れにさらさらと流しながら尋ねた。その仕草は天上で水と遊ぶ天女のようで、あまりの麗しさに呼吸が止まる。ミコトは思わず一歩踏み出していた。
「月森さん、おいで」
彼はミコトを見下ろし、手を差し出した。無論届く距離ではないのだが、ミコトは無意識に手を伸ばしながら駆け出した。ほとんど本能的に走り出す。
「……!!」
ミコトの背後に不穏な気配が生まれ、迫ってくるのを感じた。思わず振り返ると、ミコトの後方の地面から次々と無数の手が生え、ミコトの足首を捕えようと追いかけていた。いつだったか、夢の中で足首を掴まれた感触が鮮明に蘇った。その後ろくでもない目に遭ったが、今回の手に捕まったらあれでは済まないだろうと確信した。走りながらもう一度見上げると、青い彼は悠然とミコトを見下ろし微笑んでいる。差し出した手はそのままだ。あの手を掴みたい。
息を切らしながらも、彼が佇むビルに辿り着いた。入り口の自動ドアは開かず、叩いてみるがビクともしない。そうしている間にもミコトに向かって一直線に手が生え迫ってくる。ミコトは早々にドアを諦め、ビルの外周を走った。
「!」
外階段を見つけた。何度も直角に折り返された、無骨な階段。見上げても彼の姿は見えないしかなりの段数だが、行くしかない。ミコトは手すりを握りしめ駆け抜けた。通常なら何度か休憩を挟みながら上るところだが、止まらず上りきった。
「は、はぁ……っ」
何分階段を上っただろう。息は切れ足も震える中、屋上に辿り着いた。四角く平らな色気のない屋上の片隅、手すりに座る後ろ姿が見えた。流麗な青い流れが目を引き、その髪には天使の輪が輝いていた。
「お疲れさま」
彼はひょいと手すりから下り、ミコトに向かって歩いた。目の前で立ち止まった彼は金色の瞳を細め、柔らかく微笑む。その笑顔は神々しく、ミコトは心から安堵した。疲れきって力が入らないミコトの手を、彼は優雅に取ってくれる。
「ふふ、やっと来てくれたね。月森さん」
「あ、ありがとう……」
乱れた呼吸が整いまともに頭が回るようになった頃、ミコトの脳裏にごく自然な疑問が浮かんだ。
――彼は一体何者だ?
青い彼はミコトの手の甲に口付け、唇の端を歪めた。美しい相貌に優しい笑み、見惚れてしまう麗しさだが、ミコトの背中にぞわりと寒気が走った。
「余計なことを考えなくていいんだよ。おいで。僕の庭に」
ぎゅっと握られた手を振りほどくことができない。風が吹き、彼の青い髪が波のように広がった。しゅるしゅるとミコトの目を覆い隠すように髪が巻きつき、視界を奪われる。
「な、なに!?」
叫んだ唇に、柔い感触。おそらく彼の指に触れられている。突如訪れた暗闇にミコトは体がすくんだ。
「安心して。もう怖い夢は見なくていいから」
ミコトの視覚を奪った髪が離れていくと、スカートの裾をふわりと浮かせる風が吹いた。蒼白い闇は消え、うららかな日差しが差し込む花畑が広がっていた。色とりどりの花が咲き乱れる、天国に似た光景。体を撫でる風が花を揺らし、一斉に波となって花びらが舞う。ミコトの手を取る彼は花びらを従えるように立ち、穏やかな笑みで佇んでいた。青い髪が蒼穹になびき、美しい弧を描く。
「月森さん、これからは僕と楽しい夢を見よう。ずっと、一緒」
二人を歓迎するかのようにあたたかい風が吹く中、ミコトは彼に抱きしめられていた。やっとあの悲惨な夢から逃れられる。ミコトは彼の胸に顔を埋め、ぎゅっと抱きついた。二人の周囲を蝶が羽ばたき、祝福していた。
「ミコト、もう体調は大丈夫?」
縄印学園高等部、保健室。放課後のざわめきの中、磯野上タオはがらりと扉を開けた。
友人の月森ミコトは、二週間ほど前から体調が優れない様子だった。目の下に目立つ隈ができ、話しかけてもうつらうつらとして心ここに在らずといった様子だった。もし彼女が起きていたら一緒に帰ろうと思っていた。
保健室に先生はいなかった。部屋の奥に衝立で区切られたベッドがある、きっとそこにいるだろう。タオが衝立を動かすと、ミコトがベッドに横たわっていた。仰向けのお行儀のいい姿勢で眠っている。
「ミコト」
声をかけてみる。全くの無反応で、心地よさそうな寝息が聞こえてくる。少し肩を揺さぶってみるが、起きる気配がない。熟睡しているようだ。寝顔は穏やかで、寝苦しそうでもない。起こそうか迷ったが、あまりに気持ちよさそうに眠っている、起こすのも憚られる。タオは近くの椅子に座った。先生が戻ってくるまでは寝かせておき、先生が来たら一緒に帰ることにしよう。保健室のカーテンが爽やかな風に揺れる。いくぶん顔色がよくなったように見えるミコトを眺めながら、タオは流れていく時間に身を任せた。きっと目を覚ました彼女は、昨日より具合がよくなるじゃないかと思いながらも、
――ミコト、起きるかな……?
心のどこかに不安も燻っていた。
