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修羅と迷い子
東京都内にある水族館、休日は客が多く混雑する。その中を月森ミコトはクラスメイトの間薙シンとともに歩いていた。順路に沿ってひととおり水槽を見てまわり、なんならイルカショーだって見た。もう出口が近い。ミコトは焦っていた。もうすぐ今日のデートはお開きになってしまう。薄暗い水槽のエリアを通り抜け、明るい売店エリアに辿り着く。これだ。ミコトは振り返った。
「ねえ、間薙くん。売店寄ってもいいかな?お土産見たい」
「わかった」
彼の言葉は淡白に聞こえるが、否定はされない。ミコトは年甲斐もなくはしゃぎたくなるのを何とか抑え、シンとともに売店に立ち寄った。売店といっても大きな水族館の一角、広い。イルカやジンベイザメ等人気者のぬいぐるみやお土産の定番のお菓子の詰め合わせ、キーホルダーやハンカチといった雑貨類、「お土産」と聞いて思いつくものがぎっしりと詰まった楽しい空間だった。
彼は、と思ってふと隣を見ると、ごく当たり前にシンがいて驚いた。こういうものにあまり興味を示しそうにないから、下手したら外で待っているのではないかと思っていた。彼は彩り鮮やかなキーホルダーを見ながら、
「色々あるんだな」
と呟いた。その声は少し弾んで聞こえ、ミコトは嬉しくなった。
「本当だね。キーホルダーだったら買えそう」
「何かほしいものがあるのか?」
「うん。これ、可愛くない?」
ミコトが手に取ったのはイルカのキーホルダー。透き通ったピンクのイルカが光を反射しきらめいている。掌に収まる大きさ、カバンや財布につけたらきっと可愛い。何種類か色違いのキーホルダーがある、一つ思いついたことがあった。
「ねえ間薙くん。今日のこれって、デートだよね?」
「……?」
意を決して尋ねると、彼は目を細めた。一体何を言っているんだ、という眼差し。
「違うのか?」
「いや、違わない!デートです!これはデート!」
認識に相違はなかったらしい。今日はミコトが彼を誘ったのだが、本当に安心した。
「デート記念に!」
ミコトは水色のイルカのキーホルダーを手に取り、彼に差し出した。シンはキーホルダーを数秒見つめた後、ミコトに視線を移した。疑問を呈されている。
「せっかくだから、間薙くんと色違いのキーホルダーを持っていたいの。水色が嫌だったら別の色でもいいから!」
「なるほど」
シンは頷き、ふ、と唇の端を緩めた。ミコトの手から二つのキーホルダーを受け取り、さっさとレジに向かってしまう。
「え、ちょっと、私が買うよ!」
言っている間に会計を済ませた彼が、ピンクのイルカを手渡してきた。シンは水色のキーホルダーのリング部分に人差し指を通し、くるくると回している。
「今日お前が誘ってくれただろ。だから、これくらいはオレが払う」
「え、でも、入館料は割り勘だし……」
「いいから。オレも気に入ってるから気にするな」
「……わかった。ありがとう、間薙くん」
もうデートも終わりが見えている、最後の最後でくだらないことで不愉快になるなど愚の骨頂。ミコトはとびきりの笑顔でキーホルダーを受け取った。どうしよう、どこにつけようかな。せっかくなら目につきやすいところにつけたいけど、何かの拍子に外れちゃっても嫌だな。等々考えながら、ミコトはひとまずキーホルダーをポケットにしまった。
名残惜しいがもう水族館に用はない。二人で最寄り駅に歩いていく。まだもう少しだけ、彼といられる。ミコトが内心静かに噛み締めていると、シンが口を開いた。
「月森。来週の土曜空いてるか?」
「来週?どうしたの?」
「高尾先生の見舞いに行くんだ。お前も一緒に行かないか?」
そういえば、担任の高尾先生は少し前から入院していた。せっかくのお誘いだ。行く、と即答しそうになったが思い出してしまった。
「ごめん、来週は部活があって」
「そうか、なら仕方ないな」
さらりと話が流れてしまった。ミコトは勿体無いなあ、と思いつつため息をついた。まあお見舞いなんて何回行ってもいいんだし、また後日でもいいよね。そう気軽に思っていた。
――「後日」なんて二度と訪れないことを、このときの二人は知らなかった。
訪れた運命の土曜日。間薙シンは見舞いに向かった病院で、未曾有の大異変に巻き込まれた。その結果間薙シンは「人修羅」となり、人間の身とは別れを告げた。彼の頭から離れないのは月森ミコト。彼女は見舞いに来なかった。このおかしくなったトウキョウのどこかに、彼女はいるのだろうか。
「くそ、どこにいる……そもそも生きてるのか……?」
東京は終わり、これまでとは異なる丸い世界が生まれた。今までシンがごく当たり前に見ていた「普通の人間」がどこにも見当たらない。どいつもこいつも人に似た何かだったり、ただの思念体だったり、悪魔だったりとろくでもない。だがこの二本の足で歩いた範囲は限られている。探さねば。隅から隅まで、迫り来る悪魔どもを蹴散らしながら。まだどこかで「普通の人間」として生きている彼女を脳裏に浮かべつつ、人修羅はトウキョウを彷徨っていた。
「……あれ?」
月森ミコトは見知らぬ天井に出迎えられ、目を覚ました。体は少し硬めのベッドの上。どこを見ても白く、病室のような空間だった。
「目を覚ましたか」
低く冷静な声が聞こえた。ミコトが横たわるベッドの近くに男性がいた。足を組んで椅子に座るその佇まいは優雅で、鋭い灰色の瞳には隙がない。ミコトはごくりと息を呑んだ。
「あ、はい……」
「体調はどうだ。話せるか」
「はい」
ミコトは半身を起こし、改めて男性を眺めた。艶やかな黒髪に黒のスーツ、精悍な体つきの男性だ。見知らぬ大人の男性、少しばかり緊張する。
「私は越水ハヤオだ。君には聞きたいことがある。起きたばかりですまないが、答えられる範囲で構わない、答えてくれ」
「はい」
「君の名前は?」
「月森ミコトです」
「月森君か。では月森君、教えてくれ。君はこの近くで倒れていた。一体何があった?」
「え……っと……」
男性――越水ハヤオの疑問は至極もっともだ。だが、それはミコト自身が一番知りたい情報だった。頭に手を当ててしばし思案してみるものの、この部屋で目覚めるまでのことが思い出せない。かろうじて自分の名前だけは答えられたが、それ以外に確信を持って伝えられる事柄がない。
「すみません、何も思い出せないです。わからないです」
「何も思い出せない?それでは、君の家がどこかということも?」
「はい。わかりません」
「そうか」
越水は顎に手を当て、ふむ、と漏らした。横に視線を流しつつ考え事をする彼は優美だが、妙に緊張感があった。
「体調に問題がないようであれば、家に送り届けようと考えていたが……。見たところ君は高校生か?」
「はい、たぶん」
「そうか。この近くに縄印学園という学校がある、幸い私の目が届く場所だ。記憶が戻るまでそちらに通い、しかるべきときに君の元いた場所に戻る。君が落ち着くまで私――ベテル日本支部が支援する、というのはどうだ?あくまでも君が望むのであれば、だが」
「…………」
ミコトは黙り込んだ。彼の提案をそのまま飲んでいいかは何とも言えないが、かといってここがどこかもわからない状況下で辞退する勇気はなかった。ミコトは静かに頷いた。
ミコトがベテル日本支部に保護されてから数ヶ月が経過した。ミコトは中途半端な時期にやってきた転校生という形で処理され、当初は不安だったがようやく馴染んできた。百合の花が咲くセーラー服も最初は驚いたが、着慣れると可愛いと素直に思えるようになってきた。今日も授業が終わり、放課後がやって来る。担任の気怠いホームルームが終わると、生徒はそれぞれ教室を出たり友達と話したり好き好きに過ごし始める。
「お疲れ、ミコト」
「あ、タオ。お疲れ」
クラスメイトの磯野上タオが親しみやすい笑顔とともにぽん、と肩を叩いてくる。これもいつものことだ。ミコトは立ち上がり、学生カバンを肩にかけた。二人で廊下を歩いていく途中、ミコトはタオに話しかける。
「ねえタオ。タオは何か大切なことを忘れてる、って感じとかない?」
「大切なことを忘れてる感じ?うーん、私はないかな。どうしたの、ミコト」
「うん……」
ミコトはスカートのポケットからキーホルダーを取り出した。ピンクのイルカが可愛らしいキーホルダーだ。これを見るたび、胸の辺りでぞわぞわと何かが蠢く感覚がある。
「このキーホルダー、誰かと一緒に買ったと思うんだけど……その人のことは思い出せないけど、とても大切な人のような気がして」
「そっか……ミコトって、今も全然思い出せないんだよね」
「うん。何にもわからない」
何も思い出せないミコトを、越水やタオが気遣ってくれているのはわかる。特にタオと同じクラスでなければ友達ゼロからのスタートだった、本当にありがたい。恵まれている実感はありながらも記憶は戻らないもどかしさ、ミコトはぎゅっとキーホルダーを握りしめた。いつかは「大切な人」を思い出せるだろうか。
タオと話しているうちに校門に辿り着き、敦田兄妹、見慣れない黒髪の男子生徒とともに品川駅に向かう。今日はホームルームで「物騒な事件が多いから集団で帰るように」と言われているからか、ミコトたちの他にも複数人で帰路に着く生徒を多く見かける。
「あ、そうだ。タオ、今日私ちょっと寄るところがあるの。先帰ってて」
「うん、わかった。一人で大丈夫?私も行こうか?」
「ううん、いいの。みんなで帰ってて。じゃあ」
ミコトはタオらと別れ、高輪トンネルに向かった。いつ通っても薄暗く人通りが少ない、怖い場所だ。だがここを通らないと目的地に行けない。ここを通るのは初めてではないのだが、毎回深呼吸をしている。……よし、行こう。
高輪トンネルは天井が低く、足音が必要以上に反響する。乾いた靴音が四方八方から聴覚を刺激する。今日も恐怖を覚えるが、ごく普通に通り抜けるはずだった。
「!?」
強烈な地鳴りとともにトンネル全体が揺れた。とても立っていられるような揺れではなく、倒れ込んでしまう。頭上で低い天井が軋む音が響き、ミコトを押し潰す瓦礫が襲来する。視界を覆う瓦礫を見たのが最後、ミコトは意識を失った。
「う……」
月森ミコトはまた見慣れない場所で覚醒した。全身にじゃりじゃりと砂が絡みついて不快だが、何とか立ち上がる。
「うわ……何ここ……」
周りが黄色っぽく見えるほど砂で満ちている。砂に塗れているが道路と歩道橋があったり、荒廃したビルがあったりとどこかに人間がいるような空気も感じる。ふと自らに目を落とすと、紺色のセーラー服が黄色く汚れている。叩いて砂を落とし、冷静に辺りを観察した。誰もいない、静寂の砂だらけの空間。
「ん?なんだろ」
遠くで紫色の光の柱が空に向かって伸びているのが見えた。砂の黄色、道路やビルの濁った灰色とは全く異なる、派手で目を引く色彩だ。何も手がかりがない中、ひとまずの目的地とするには十分なものだった。ミコトは腹を括り歩き始めた。歩くたびに砂を踏みしめ、足音を立てる。
「何あれ……」
ミコトの行く先に不気味な生き物がいた。腹が異様に突き出た紫色の子供のような生き物、緑色の濁ったゼリーのような生き物……というか、生き物なんだろうか?一応動き回っているが……ミコトはビルの影からこっそり様子を窺っていたが、とりあえず関わり合いにならない方が無難だろうと結論付けた。窓が割れ砂まみれのビルの中を通り、できる限りあのよくわからない生物たちの目に触れないように歩いていく。何故ただの女子高生がこんなこそこそと隠れながら砂に塗れなくてはいけないんだろう……と恨み言の一つも溢れそうになる。謎の生き物たちの近くを通り過ぎる際、ギギギ、と軋んだ笑い声や呻き声が聞こえ、ミコトは息を呑んだ。集団での小競り合いも発生しているようで、とかく恐ろしい。見つかったら一巻の終わりだ。かつてない恐怖に震えながらもミコトは物陰に隠れ歩き続けた。
何とか怪しい生き物たちの目をかいくぐり、求めていた光の柱に辿り着いた。地面から伸び真っ直ぐ天を突き刺す紫の光は、目が覚めるような輝きを放っている。このよくわからない景色に負けず劣らず奇妙な光だ。得体の知れないものだが、この光に呼ばれているような気がした。ミコトは逡巡したが手を伸ばし、紫の蠱惑に触れた。
「……え?」
気がつくとミコトは、異空間に立っていた。周囲は赤と黒に染まる不穏な空間、そしてミコトの前方には不気味な人影がいる。
「メノラーを持たぬ者がここに来るとは、貴公は一体何者だ?」
サーベルと赤い布を携えた闘牛士を思わせる服を着た骸骨が、ミコトに問いかけてくる。ミコトは硬直した。どう見ても人間ではない上に、サーベルの刀身がきらりと輝いている。刃物など包丁くらいしか見たことのないミコトにとって、その輝きは恐ろしいとともに美しかった。
「め、メノラー?何のこと?」
「メノラーを持たぬ、さらには知らぬと?悪魔の匂いがしない、純粋な人間……もしや貴公が『月森ミコト』か?」
「どうして私の名前を!?」
名前を呼ばれ心底驚いた。あいにく骸骨の知り合いなどいないが、どういうことだろう。ただでさえよくわからないことが続いているのだから、これ以上事態をややこしくしないでほしい。
「貴公が『月森ミコト』か。では丁重に案内せねばならぬ。混沌王のもとへ」
「こんとん……?ええと……何の話?」
「貴公を探していた者がいる。これから貴公を連れていく。お手を拝借」
骸骨は恭しく礼をしサーベルを鞘に納め、手を差し出した。白い手袋に覆われた骸骨の手。ミコトは彼に一歩近付き、間近で骸骨の顔を見やった。恐ろしい外見ではあるものの、凶器を持つのをやめミコトを急かすことなく待ってくれる、誠意を感じるといっても差し支えないだろう。この空間から逃げることもできそうにない。ミコトは大きく息を吸い、吐く。やっと手を握る覚悟ができた。彼の手を取ると、骸骨はミコトを連れてどこかへ歩みを進める。ミコトに配慮したゆっくりとした足取り、手触りのいい手袋の向こうはやはり骨で安心できる感触ではないが、少し話をしてみたくなった。
「あの……どうして私のことを知ってるの?」
「混沌王より話は聞いている。どうしても貴公に会わねばならぬと言っていた」
「その、混沌王っていうのは……?」
「文字通り、混沌の王。最強の悪魔にして至高の存在である」
「は、はぁ……」
二人が空間の端に辿り着いた瞬間、黒い階段が現れた。はるか空の果てまで届きそうな先が見えない上り階段を、謎の骸骨に導かれて上っていく。何だろうこの状況、とミコトは冷静になってしまったが、骸骨の歩みは止まらない。骸骨の言葉は基本的に理解できないとわずかなやり取りで理解してしまい、話す気も失せてしまった。黙々と階段を上り続ける。
やがて黒い扉の前に立った。そこで骸骨の手が離れた。思わず振り返ると、骸骨は丁寧な一礼を見せた。
「これより先は混沌王の空間。貴公が行かれよ。我などが足を踏み入れてよい場所ではない」
「……あ、ありがとう。連れてきてくれて」
急にはしごを下ろされた気分だが、骸骨は深々と頭を下げるばかりでついてくる気配はない。混沌王。聞き慣れない上に説明を受けてもさっぱりわからなかったが、ミコトは扉の先に進んだ。
「……暗い……」
骸骨といた空間は赤と黒の鮮烈な色彩が目を引いたが、新たに訪れた場所は暗く沈んだ無機質な空間、ところどころぼんやりと光を通す窓や明かりがかろうじて道を示している。左右対称の下り階段が続く空間をミコトは歩いた。今日は階段を歩いてばかりだ。風も吹き抜けない密閉空間、慎重な足音が冷たく響き息が詰まる。
「人修羅、誰か来たよ!」
場違いなほど明るい女性の声が響いた。階段を下りきった先に、二つの人影があった。一つはふわりと宙に浮く青い服の女性。人の肩に座れそうな小ささと背中に輝く蝶に似た羽根、妖精ティンカーベルのようだ。もう一つは、
「……やっと見つけたな」
黒い髪の少年だった。半裸の上半身から顔にかけて黒いタトゥーのような模様が走り、模様が緑色の光に縁取られ薄暗い空間で目立つ。金色の瞳が鋭くミコトを見据えていた。
「お前を探していた。やはり『こちら』に来ていたんだな」
「え?えっと……」
「ダメだよー、人修羅!わからないよ、そんな説明じゃ」
「それもそうだな」
女性と言葉を交わしていた少年がミコトに向き直った。一歩踏み出してくる。彼の金色の瞳が近くなり、体が強張った。先ほどの骸骨に比べればよほど親近感の湧く見た目の少年だが、どこか威圧感があり恐ろしいことに変わりなかった。
「オレは間薙シン。わかるよな、月森」
「間薙……シン……?」
少年をよくよく熟視する。一部が外側に跳ねた少し無造作な黒髪、意思の強さを感じさせる鋭い瞳、どこかで見た覚えがあるような……?ミコトの脳裏にノイズ混じりの映像が浮かび上がる。誰かとあのキーホルダーを買った……薄暗い空間を二人で歩いた……大切な人……。蘇る記憶の断片がちくりちくりと脳を刺す。
「月森、オレがわからないのか」
「あなたは……あなたは、誰……?」
頭を抱えながら呟いた言葉に、少年は眉を顰めた。あーらら、と悪戯っぽく女性が笑う。
「だって人修羅、人間だった頃と姿が違うんでしょ?わからなくても仕方ないんじゃない?」
「……そうか」
少年はさらにミコトに近付いた。彼はポケットから何かを取り出しミコトに見せた。水色のイルカのキーホルダーだった。
「これを見てもわからないか。オレだ。間薙シンだ」
「え、これ……!」
ミコトもキーホルダーを取り出し、彼のものと並べてみる。全く同じデザインの色違い、誰かと一緒に買った思い出がふわりと浮かぶ。色々なものを売っている広い場所で、誰かと隣り合って買おうか迷った記憶。ほんの少しでも長く一緒にいたかった「大切な人」は、目の前の彼なのだろうか。
「ああ、よかった。お前も持っていてくれたんだな。あの日から色々変わった。でも、これだけでもそのままで……お前も変わらなくて安心した」
「変わらない?私が?」
「ああ。お前はあのときと変わってない。見たことない服着てるけどな」
彼は優しく金色の目を細めた。口元も柔らかく綻んでいる。その微笑みは慎ましいが、彼の無機質な空気を和らげ安心させる。ミコトが知らない、正確には思い出せないことを知っていそうな少年。ベテル日本支部で目を覚まして以来、ミコトの心が初めて揺れた。心臓が少しだけ早く鼓動を打つ。
「えっと……間薙シンくん……だっけ。さっき『混沌王が探していた』って言われたんだけど……あなたが混沌王なの?」
「ああ、そうだ。気がついたらそう呼ばれてた」
重々しい肩書きとは裏腹に、シンの口調はどうでもよさそうだった。シンは肩をすくめると、ミコトの手を引き抱き寄せた。そのまま背中に腕が回り、優しく背中を撫でられた。
「やっと会えた。ずっと探してた」
ミコトにとっては初対面……と思われるシンに抱きしめられていても、不思議と不快感はなかった。彼のぬくもりは穏やかで、ミコトの孤独まで柔らかく包んでくれる気がする。
「ねえ、どうして私のことを知ってるの?」
「……?」
シンは抱きしめる力を緩め、不思議そうにミコトを見つめた。
「どうして?何でそんなこと聞くんだ?同じクラスだっただろ」
「同じクラス……?えっと、ごめんね。私、色んなことを忘れちゃってるみたいで……」
そう伝えた瞬間、シンに再び抱きしめられた。先ほどより強く。彼の大きな掌が後頭部、髪と戯れ撫でていく。
「話が噛み合わないと思っていたら、お前、忘れてるのか。『こちら』に来る前のこと」
「うん……そうみたい」
「そうか」
彼の声が耳元で聞こえる抱擁、ミコトはおずおずと両手を彼の背中に添えた。何も身につけていない素肌に触れる。しなやかな筋肉と硬い背骨の逞しさにどきりとした。
「月森、色々話してやる。ここにいろ。ここなら安全だ。万一悪魔が来てもオレが倒す」
「悪魔……」
不穏な単語に、砂だらけの世界で見た奇妙な生物を思い出した。確かにここには彼とあの妖精のような女性しかいない、安心していいのかもしれない。
「ありがとう。えっと……間薙、くん?」
「そうだ」
彼と向かい合った。混沌王と呼ばれるよりも、間薙くん、と呼ばれたときの方が嬉しそうだった。
東京都内にある水族館、休日は客が多く混雑する。その中を月森ミコトはクラスメイトの間薙シンとともに歩いていた。順路に沿ってひととおり水槽を見てまわり、なんならイルカショーだって見た。もう出口が近い。ミコトは焦っていた。もうすぐ今日のデートはお開きになってしまう。薄暗い水槽のエリアを通り抜け、明るい売店エリアに辿り着く。これだ。ミコトは振り返った。
「ねえ、間薙くん。売店寄ってもいいかな?お土産見たい」
「わかった」
彼の言葉は淡白に聞こえるが、否定はされない。ミコトは年甲斐もなくはしゃぎたくなるのを何とか抑え、シンとともに売店に立ち寄った。売店といっても大きな水族館の一角、広い。イルカやジンベイザメ等人気者のぬいぐるみやお土産の定番のお菓子の詰め合わせ、キーホルダーやハンカチといった雑貨類、「お土産」と聞いて思いつくものがぎっしりと詰まった楽しい空間だった。
彼は、と思ってふと隣を見ると、ごく当たり前にシンがいて驚いた。こういうものにあまり興味を示しそうにないから、下手したら外で待っているのではないかと思っていた。彼は彩り鮮やかなキーホルダーを見ながら、
「色々あるんだな」
と呟いた。その声は少し弾んで聞こえ、ミコトは嬉しくなった。
「本当だね。キーホルダーだったら買えそう」
「何かほしいものがあるのか?」
「うん。これ、可愛くない?」
ミコトが手に取ったのはイルカのキーホルダー。透き通ったピンクのイルカが光を反射しきらめいている。掌に収まる大きさ、カバンや財布につけたらきっと可愛い。何種類か色違いのキーホルダーがある、一つ思いついたことがあった。
「ねえ間薙くん。今日のこれって、デートだよね?」
「……?」
意を決して尋ねると、彼は目を細めた。一体何を言っているんだ、という眼差し。
「違うのか?」
「いや、違わない!デートです!これはデート!」
認識に相違はなかったらしい。今日はミコトが彼を誘ったのだが、本当に安心した。
「デート記念に!」
ミコトは水色のイルカのキーホルダーを手に取り、彼に差し出した。シンはキーホルダーを数秒見つめた後、ミコトに視線を移した。疑問を呈されている。
「せっかくだから、間薙くんと色違いのキーホルダーを持っていたいの。水色が嫌だったら別の色でもいいから!」
「なるほど」
シンは頷き、ふ、と唇の端を緩めた。ミコトの手から二つのキーホルダーを受け取り、さっさとレジに向かってしまう。
「え、ちょっと、私が買うよ!」
言っている間に会計を済ませた彼が、ピンクのイルカを手渡してきた。シンは水色のキーホルダーのリング部分に人差し指を通し、くるくると回している。
「今日お前が誘ってくれただろ。だから、これくらいはオレが払う」
「え、でも、入館料は割り勘だし……」
「いいから。オレも気に入ってるから気にするな」
「……わかった。ありがとう、間薙くん」
もうデートも終わりが見えている、最後の最後でくだらないことで不愉快になるなど愚の骨頂。ミコトはとびきりの笑顔でキーホルダーを受け取った。どうしよう、どこにつけようかな。せっかくなら目につきやすいところにつけたいけど、何かの拍子に外れちゃっても嫌だな。等々考えながら、ミコトはひとまずキーホルダーをポケットにしまった。
名残惜しいがもう水族館に用はない。二人で最寄り駅に歩いていく。まだもう少しだけ、彼といられる。ミコトが内心静かに噛み締めていると、シンが口を開いた。
「月森。来週の土曜空いてるか?」
「来週?どうしたの?」
「高尾先生の見舞いに行くんだ。お前も一緒に行かないか?」
そういえば、担任の高尾先生は少し前から入院していた。せっかくのお誘いだ。行く、と即答しそうになったが思い出してしまった。
「ごめん、来週は部活があって」
「そうか、なら仕方ないな」
さらりと話が流れてしまった。ミコトは勿体無いなあ、と思いつつため息をついた。まあお見舞いなんて何回行ってもいいんだし、また後日でもいいよね。そう気軽に思っていた。
――「後日」なんて二度と訪れないことを、このときの二人は知らなかった。
訪れた運命の土曜日。間薙シンは見舞いに向かった病院で、未曾有の大異変に巻き込まれた。その結果間薙シンは「人修羅」となり、人間の身とは別れを告げた。彼の頭から離れないのは月森ミコト。彼女は見舞いに来なかった。このおかしくなったトウキョウのどこかに、彼女はいるのだろうか。
「くそ、どこにいる……そもそも生きてるのか……?」
東京は終わり、これまでとは異なる丸い世界が生まれた。今までシンがごく当たり前に見ていた「普通の人間」がどこにも見当たらない。どいつもこいつも人に似た何かだったり、ただの思念体だったり、悪魔だったりとろくでもない。だがこの二本の足で歩いた範囲は限られている。探さねば。隅から隅まで、迫り来る悪魔どもを蹴散らしながら。まだどこかで「普通の人間」として生きている彼女を脳裏に浮かべつつ、人修羅はトウキョウを彷徨っていた。
「……あれ?」
月森ミコトは見知らぬ天井に出迎えられ、目を覚ました。体は少し硬めのベッドの上。どこを見ても白く、病室のような空間だった。
「目を覚ましたか」
低く冷静な声が聞こえた。ミコトが横たわるベッドの近くに男性がいた。足を組んで椅子に座るその佇まいは優雅で、鋭い灰色の瞳には隙がない。ミコトはごくりと息を呑んだ。
「あ、はい……」
「体調はどうだ。話せるか」
「はい」
ミコトは半身を起こし、改めて男性を眺めた。艶やかな黒髪に黒のスーツ、精悍な体つきの男性だ。見知らぬ大人の男性、少しばかり緊張する。
「私は越水ハヤオだ。君には聞きたいことがある。起きたばかりですまないが、答えられる範囲で構わない、答えてくれ」
「はい」
「君の名前は?」
「月森ミコトです」
「月森君か。では月森君、教えてくれ。君はこの近くで倒れていた。一体何があった?」
「え……っと……」
男性――越水ハヤオの疑問は至極もっともだ。だが、それはミコト自身が一番知りたい情報だった。頭に手を当ててしばし思案してみるものの、この部屋で目覚めるまでのことが思い出せない。かろうじて自分の名前だけは答えられたが、それ以外に確信を持って伝えられる事柄がない。
「すみません、何も思い出せないです。わからないです」
「何も思い出せない?それでは、君の家がどこかということも?」
「はい。わかりません」
「そうか」
越水は顎に手を当て、ふむ、と漏らした。横に視線を流しつつ考え事をする彼は優美だが、妙に緊張感があった。
「体調に問題がないようであれば、家に送り届けようと考えていたが……。見たところ君は高校生か?」
「はい、たぶん」
「そうか。この近くに縄印学園という学校がある、幸い私の目が届く場所だ。記憶が戻るまでそちらに通い、しかるべきときに君の元いた場所に戻る。君が落ち着くまで私――ベテル日本支部が支援する、というのはどうだ?あくまでも君が望むのであれば、だが」
「…………」
ミコトは黙り込んだ。彼の提案をそのまま飲んでいいかは何とも言えないが、かといってここがどこかもわからない状況下で辞退する勇気はなかった。ミコトは静かに頷いた。
ミコトがベテル日本支部に保護されてから数ヶ月が経過した。ミコトは中途半端な時期にやってきた転校生という形で処理され、当初は不安だったがようやく馴染んできた。百合の花が咲くセーラー服も最初は驚いたが、着慣れると可愛いと素直に思えるようになってきた。今日も授業が終わり、放課後がやって来る。担任の気怠いホームルームが終わると、生徒はそれぞれ教室を出たり友達と話したり好き好きに過ごし始める。
「お疲れ、ミコト」
「あ、タオ。お疲れ」
クラスメイトの磯野上タオが親しみやすい笑顔とともにぽん、と肩を叩いてくる。これもいつものことだ。ミコトは立ち上がり、学生カバンを肩にかけた。二人で廊下を歩いていく途中、ミコトはタオに話しかける。
「ねえタオ。タオは何か大切なことを忘れてる、って感じとかない?」
「大切なことを忘れてる感じ?うーん、私はないかな。どうしたの、ミコト」
「うん……」
ミコトはスカートのポケットからキーホルダーを取り出した。ピンクのイルカが可愛らしいキーホルダーだ。これを見るたび、胸の辺りでぞわぞわと何かが蠢く感覚がある。
「このキーホルダー、誰かと一緒に買ったと思うんだけど……その人のことは思い出せないけど、とても大切な人のような気がして」
「そっか……ミコトって、今も全然思い出せないんだよね」
「うん。何にもわからない」
何も思い出せないミコトを、越水やタオが気遣ってくれているのはわかる。特にタオと同じクラスでなければ友達ゼロからのスタートだった、本当にありがたい。恵まれている実感はありながらも記憶は戻らないもどかしさ、ミコトはぎゅっとキーホルダーを握りしめた。いつかは「大切な人」を思い出せるだろうか。
タオと話しているうちに校門に辿り着き、敦田兄妹、見慣れない黒髪の男子生徒とともに品川駅に向かう。今日はホームルームで「物騒な事件が多いから集団で帰るように」と言われているからか、ミコトたちの他にも複数人で帰路に着く生徒を多く見かける。
「あ、そうだ。タオ、今日私ちょっと寄るところがあるの。先帰ってて」
「うん、わかった。一人で大丈夫?私も行こうか?」
「ううん、いいの。みんなで帰ってて。じゃあ」
ミコトはタオらと別れ、高輪トンネルに向かった。いつ通っても薄暗く人通りが少ない、怖い場所だ。だがここを通らないと目的地に行けない。ここを通るのは初めてではないのだが、毎回深呼吸をしている。……よし、行こう。
高輪トンネルは天井が低く、足音が必要以上に反響する。乾いた靴音が四方八方から聴覚を刺激する。今日も恐怖を覚えるが、ごく普通に通り抜けるはずだった。
「!?」
強烈な地鳴りとともにトンネル全体が揺れた。とても立っていられるような揺れではなく、倒れ込んでしまう。頭上で低い天井が軋む音が響き、ミコトを押し潰す瓦礫が襲来する。視界を覆う瓦礫を見たのが最後、ミコトは意識を失った。
「う……」
月森ミコトはまた見慣れない場所で覚醒した。全身にじゃりじゃりと砂が絡みついて不快だが、何とか立ち上がる。
「うわ……何ここ……」
周りが黄色っぽく見えるほど砂で満ちている。砂に塗れているが道路と歩道橋があったり、荒廃したビルがあったりとどこかに人間がいるような空気も感じる。ふと自らに目を落とすと、紺色のセーラー服が黄色く汚れている。叩いて砂を落とし、冷静に辺りを観察した。誰もいない、静寂の砂だらけの空間。
「ん?なんだろ」
遠くで紫色の光の柱が空に向かって伸びているのが見えた。砂の黄色、道路やビルの濁った灰色とは全く異なる、派手で目を引く色彩だ。何も手がかりがない中、ひとまずの目的地とするには十分なものだった。ミコトは腹を括り歩き始めた。歩くたびに砂を踏みしめ、足音を立てる。
「何あれ……」
ミコトの行く先に不気味な生き物がいた。腹が異様に突き出た紫色の子供のような生き物、緑色の濁ったゼリーのような生き物……というか、生き物なんだろうか?一応動き回っているが……ミコトはビルの影からこっそり様子を窺っていたが、とりあえず関わり合いにならない方が無難だろうと結論付けた。窓が割れ砂まみれのビルの中を通り、できる限りあのよくわからない生物たちの目に触れないように歩いていく。何故ただの女子高生がこんなこそこそと隠れながら砂に塗れなくてはいけないんだろう……と恨み言の一つも溢れそうになる。謎の生き物たちの近くを通り過ぎる際、ギギギ、と軋んだ笑い声や呻き声が聞こえ、ミコトは息を呑んだ。集団での小競り合いも発生しているようで、とかく恐ろしい。見つかったら一巻の終わりだ。かつてない恐怖に震えながらもミコトは物陰に隠れ歩き続けた。
何とか怪しい生き物たちの目をかいくぐり、求めていた光の柱に辿り着いた。地面から伸び真っ直ぐ天を突き刺す紫の光は、目が覚めるような輝きを放っている。このよくわからない景色に負けず劣らず奇妙な光だ。得体の知れないものだが、この光に呼ばれているような気がした。ミコトは逡巡したが手を伸ばし、紫の蠱惑に触れた。
「……え?」
気がつくとミコトは、異空間に立っていた。周囲は赤と黒に染まる不穏な空間、そしてミコトの前方には不気味な人影がいる。
「メノラーを持たぬ者がここに来るとは、貴公は一体何者だ?」
サーベルと赤い布を携えた闘牛士を思わせる服を着た骸骨が、ミコトに問いかけてくる。ミコトは硬直した。どう見ても人間ではない上に、サーベルの刀身がきらりと輝いている。刃物など包丁くらいしか見たことのないミコトにとって、その輝きは恐ろしいとともに美しかった。
「め、メノラー?何のこと?」
「メノラーを持たぬ、さらには知らぬと?悪魔の匂いがしない、純粋な人間……もしや貴公が『月森ミコト』か?」
「どうして私の名前を!?」
名前を呼ばれ心底驚いた。あいにく骸骨の知り合いなどいないが、どういうことだろう。ただでさえよくわからないことが続いているのだから、これ以上事態をややこしくしないでほしい。
「貴公が『月森ミコト』か。では丁重に案内せねばならぬ。混沌王のもとへ」
「こんとん……?ええと……何の話?」
「貴公を探していた者がいる。これから貴公を連れていく。お手を拝借」
骸骨は恭しく礼をしサーベルを鞘に納め、手を差し出した。白い手袋に覆われた骸骨の手。ミコトは彼に一歩近付き、間近で骸骨の顔を見やった。恐ろしい外見ではあるものの、凶器を持つのをやめミコトを急かすことなく待ってくれる、誠意を感じるといっても差し支えないだろう。この空間から逃げることもできそうにない。ミコトは大きく息を吸い、吐く。やっと手を握る覚悟ができた。彼の手を取ると、骸骨はミコトを連れてどこかへ歩みを進める。ミコトに配慮したゆっくりとした足取り、手触りのいい手袋の向こうはやはり骨で安心できる感触ではないが、少し話をしてみたくなった。
「あの……どうして私のことを知ってるの?」
「混沌王より話は聞いている。どうしても貴公に会わねばならぬと言っていた」
「その、混沌王っていうのは……?」
「文字通り、混沌の王。最強の悪魔にして至高の存在である」
「は、はぁ……」
二人が空間の端に辿り着いた瞬間、黒い階段が現れた。はるか空の果てまで届きそうな先が見えない上り階段を、謎の骸骨に導かれて上っていく。何だろうこの状況、とミコトは冷静になってしまったが、骸骨の歩みは止まらない。骸骨の言葉は基本的に理解できないとわずかなやり取りで理解してしまい、話す気も失せてしまった。黙々と階段を上り続ける。
やがて黒い扉の前に立った。そこで骸骨の手が離れた。思わず振り返ると、骸骨は丁寧な一礼を見せた。
「これより先は混沌王の空間。貴公が行かれよ。我などが足を踏み入れてよい場所ではない」
「……あ、ありがとう。連れてきてくれて」
急にはしごを下ろされた気分だが、骸骨は深々と頭を下げるばかりでついてくる気配はない。混沌王。聞き慣れない上に説明を受けてもさっぱりわからなかったが、ミコトは扉の先に進んだ。
「……暗い……」
骸骨といた空間は赤と黒の鮮烈な色彩が目を引いたが、新たに訪れた場所は暗く沈んだ無機質な空間、ところどころぼんやりと光を通す窓や明かりがかろうじて道を示している。左右対称の下り階段が続く空間をミコトは歩いた。今日は階段を歩いてばかりだ。風も吹き抜けない密閉空間、慎重な足音が冷たく響き息が詰まる。
「人修羅、誰か来たよ!」
場違いなほど明るい女性の声が響いた。階段を下りきった先に、二つの人影があった。一つはふわりと宙に浮く青い服の女性。人の肩に座れそうな小ささと背中に輝く蝶に似た羽根、妖精ティンカーベルのようだ。もう一つは、
「……やっと見つけたな」
黒い髪の少年だった。半裸の上半身から顔にかけて黒いタトゥーのような模様が走り、模様が緑色の光に縁取られ薄暗い空間で目立つ。金色の瞳が鋭くミコトを見据えていた。
「お前を探していた。やはり『こちら』に来ていたんだな」
「え?えっと……」
「ダメだよー、人修羅!わからないよ、そんな説明じゃ」
「それもそうだな」
女性と言葉を交わしていた少年がミコトに向き直った。一歩踏み出してくる。彼の金色の瞳が近くなり、体が強張った。先ほどの骸骨に比べればよほど親近感の湧く見た目の少年だが、どこか威圧感があり恐ろしいことに変わりなかった。
「オレは間薙シン。わかるよな、月森」
「間薙……シン……?」
少年をよくよく熟視する。一部が外側に跳ねた少し無造作な黒髪、意思の強さを感じさせる鋭い瞳、どこかで見た覚えがあるような……?ミコトの脳裏にノイズ混じりの映像が浮かび上がる。誰かとあのキーホルダーを買った……薄暗い空間を二人で歩いた……大切な人……。蘇る記憶の断片がちくりちくりと脳を刺す。
「月森、オレがわからないのか」
「あなたは……あなたは、誰……?」
頭を抱えながら呟いた言葉に、少年は眉を顰めた。あーらら、と悪戯っぽく女性が笑う。
「だって人修羅、人間だった頃と姿が違うんでしょ?わからなくても仕方ないんじゃない?」
「……そうか」
少年はさらにミコトに近付いた。彼はポケットから何かを取り出しミコトに見せた。水色のイルカのキーホルダーだった。
「これを見てもわからないか。オレだ。間薙シンだ」
「え、これ……!」
ミコトもキーホルダーを取り出し、彼のものと並べてみる。全く同じデザインの色違い、誰かと一緒に買った思い出がふわりと浮かぶ。色々なものを売っている広い場所で、誰かと隣り合って買おうか迷った記憶。ほんの少しでも長く一緒にいたかった「大切な人」は、目の前の彼なのだろうか。
「ああ、よかった。お前も持っていてくれたんだな。あの日から色々変わった。でも、これだけでもそのままで……お前も変わらなくて安心した」
「変わらない?私が?」
「ああ。お前はあのときと変わってない。見たことない服着てるけどな」
彼は優しく金色の目を細めた。口元も柔らかく綻んでいる。その微笑みは慎ましいが、彼の無機質な空気を和らげ安心させる。ミコトが知らない、正確には思い出せないことを知っていそうな少年。ベテル日本支部で目を覚まして以来、ミコトの心が初めて揺れた。心臓が少しだけ早く鼓動を打つ。
「えっと……間薙シンくん……だっけ。さっき『混沌王が探していた』って言われたんだけど……あなたが混沌王なの?」
「ああ、そうだ。気がついたらそう呼ばれてた」
重々しい肩書きとは裏腹に、シンの口調はどうでもよさそうだった。シンは肩をすくめると、ミコトの手を引き抱き寄せた。そのまま背中に腕が回り、優しく背中を撫でられた。
「やっと会えた。ずっと探してた」
ミコトにとっては初対面……と思われるシンに抱きしめられていても、不思議と不快感はなかった。彼のぬくもりは穏やかで、ミコトの孤独まで柔らかく包んでくれる気がする。
「ねえ、どうして私のことを知ってるの?」
「……?」
シンは抱きしめる力を緩め、不思議そうにミコトを見つめた。
「どうして?何でそんなこと聞くんだ?同じクラスだっただろ」
「同じクラス……?えっと、ごめんね。私、色んなことを忘れちゃってるみたいで……」
そう伝えた瞬間、シンに再び抱きしめられた。先ほどより強く。彼の大きな掌が後頭部、髪と戯れ撫でていく。
「話が噛み合わないと思っていたら、お前、忘れてるのか。『こちら』に来る前のこと」
「うん……そうみたい」
「そうか」
彼の声が耳元で聞こえる抱擁、ミコトはおずおずと両手を彼の背中に添えた。何も身につけていない素肌に触れる。しなやかな筋肉と硬い背骨の逞しさにどきりとした。
「月森、色々話してやる。ここにいろ。ここなら安全だ。万一悪魔が来てもオレが倒す」
「悪魔……」
不穏な単語に、砂だらけの世界で見た奇妙な生物を思い出した。確かにここには彼とあの妖精のような女性しかいない、安心していいのかもしれない。
「ありがとう。えっと……間薙、くん?」
「そうだ」
彼と向かい合った。混沌王と呼ばれるよりも、間薙くん、と呼ばれたときの方が嬉しそうだった。