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Bloody strawberry field
妙に肌寒い日だった。葉桜を濡らす通り雨とともに東京を襲った冷気に、月森ミコトは身を震わせた。
「まだ降ってる……」
ミコトは学生寮の自室、カーテンを少し開けて窓に手を触れた。とても春の夜とは思えない冷たい窓ガラスに雨の雫が叩きつけられ、止めどない涙を流している。空は暗い雲で覆い尽くされ、月の光も届かない。部屋の灯りがなければ、ほぼ完全な暗闇に閉ざされるだろう。
「ふあ……」
ミコトは冷たい空気が漂う部屋であくびをした。開いた口から入り込んでくる空気は冷気で湿り、喉を冷たく潤していく。時計を見ると22時を少し回っている。普段であればまだ眠くなるような時間ではないが、今夜は体が気怠く眠たかった。今日はもう寝よう。ミコトは早々に結論を出し、電気を消してベッドに潜り込んだ。
深い眠りにはあっさり落ちたようだったが、ミコトは何かただならぬ気配を感じて目を覚ました。目を開けてはならない気がして、目は閉じたまま意識だけが明瞭に闇の中覚醒する。動けない。仰向けに寝転がったまま、体がぴくりとも動かない。これがもしや金縛りというものかと、ミコトは妙に冷静な気持ちで動けないまま思案を巡らせた。瞼の裏の暗闇に身を委ねながら部屋の空気を感じる。冷たい夜の空気に、雨が降り続く音が耳を濡らしていく。寝る前よりは幾分静かになった雨の音も、生き物の気配がしない深夜にはうるさく響く。
吸い込む冷たい夜気が先ほど吸い込んだものと少し違うことを感じ、この部屋の中に何かがいることを確信した。部屋の空気を変えてしまうほど異質な何か。ミコトは霊感などないし、幽霊や妖怪を見たこともないが、もしかしたらそういう類のものについに遭遇する日が来てしまったのかもしれない。恐怖はあるが、気配だけ感じ取って姿を見ないことにも恐れがある。これで瞼も開けられない金縛りだと万事休すだったが、目を開けることができた。
「やあ、こんばんは」
目を開いた瞬間飛び込んできたのは、目が覚めるような青い色。ふわりと窮屈そうに宙に浮く青年がいた。青く長い髪が広げた翼のように波を作り、白い肌に金色の双眸、すらりと伸びた手足は青と黒の無機質な素材の衣服に包まれている。ところどころ血液の流れのように青い光の筋が体を這っており、暗い闇の中で目立つ。
「……っ」
声が出ない。唇は動くが、喉の奥から音の波が出てこない。ただ驚きと恐怖の吐息だけが漏れる。
「すごくいいマガツヒの匂いがしたんだ。君だったんだね」
現れた青年はよくわからないことを言いながら自らの唇に人差し指を当て、艶やかに金色の瞳を細めた。宙に浮いた彼は足を組み、夜の空気に腰掛けている。青い髪はさながらゆらゆらと揺れる蝙蝠の羽根。何もかも常識的でなく、今まで一度も見たことがない者の姿に、ミコトは頭がぐらぐらと揺れるのを感じた。どう見ても幽霊には見えない。かといって物怪や妖怪にも見えない。強いて言うなら天使か悪魔といったところだろうか。目の前で微笑む彼は夢の中に浮かぶ月のような神秘的な美しさをたたえているが、さてミコトにとっては天使なのか、悪魔なのか。
「君の血を吸うのは初めてかな?いい匂い。なんで今まで気がつかなかったのかな」
青年はベッドに降り立ち、四つ這いになってミコトにずいっと顔を近づけてくる。鮮烈な青い髪が彼の背中から零れ落ち、ベッドを覆う鉄格子になり、青い鳥籠に囚われる。あまりに美しい顔貌に一瞬思考が飛んだが、雨音に混ざって何か不穏な言葉が聞こえた。血を吸う?
「ああ、怖い?いい顔するね、君」
青年は右手の人差し指でミコトの唇に触れてくる。彼の指先は天色に鮮やかに光り、妖しい指先がはっきりと見える。間近で見る彼の双眸は大胆不敵。その間ミコトは金縛りのままで、彼に唇を触られても何もできない。このわずかな時間に、目の前の青年に逆らえないことを察して、ミコトは恐れ慄き美しい金色を見つめることしかできなかった。
「血は全身を流れているから、どこから吸っても構わないんだけど……」
青年は囁きながら品定めをするように、右手の人差し指でミコトの体をなぞっていく。唇から顎、首筋、鎖骨。パジャマの胸元の細い編み上げリボンの端が引っ張られ、胸元を締めていた部分が緩み、胸元の露出が増える。露わになった胸元もなぞられ、ミコトは背筋に甘い電流が流れたような気がして震えた。
「やっぱり初めては腕がいいかな?」
胸元から肩、長袖の右腕をなぞられる。袖を捲られて素肌が露わになる。青年は露出したミコトの右腕、肘から下を舐めるように見つめて、歯を剥き出して笑った。彼の白い歯列が夜に浮かびあがり、普通の人間より長く存在感のある犬歯が4本。皮膚に突き刺して血を流させることに特化した、不穏な歯。
「……!」
青年がミコトの右腕を取り、顔を近づけてくる。先ほど見えた犬歯が刺さる未来しか見えず、ミコトは思わず目を閉じた。その刹那、右腕に鈍い痛みが走る。青年の歯が皮膚と肉に刺さり、体外に血が流れていくのを感じる。思っていたよりは痛くなかった。それでも視界が見えない状況だと痛みが増す気がして、再び目を開いた。
青年が瞳を閉じてミコトの右前腕に噛みつきながら、傷口に唇を寄せて吸いついている様子が見えた。その顔はこれ以上ないほど恍惚として、最上のドルチェを味わっているようにも見える。時折こちらに寄越す金色の視線は甘く揺れて、噛みつかれて血を吸われているという異常事態なのに、彼の陶酔の眼差しに全てを許してしまいそうになる。
「これ以上吸うと貧血になっちゃうから、このへんにしようか」
じゅるりと最後の赤い一滴を吸い取って、青年がミコトの鼻先に触れるほどの距離で見つめてきた。
「ごちそうさま」
血に濡れた唇に舌を這わせて、青年はミコトに笑った。もう一度彼は宙に浮き、ひらひらと手を振った。瞬きをした一瞬の暗闇のうちに、彼は姿を消していた。そしてそれと同時に、ミコトの金縛りが解けた。数秒前まで硬く強張っていた体の力が抜け、弛緩する。もはや腕を上げることすら気怠くて、噛まれた右腕のことなどすっかり忘れ、再びミコトは眠りの世界に落ちていった。
「うわ……」
翌朝目が覚めたミコトは真っ先に右前腕を確認し、思わず声を上げた。掌側の右前腕、滑らかで肉厚な部分にはっきりと歯型が残っている。特に4つの、おそらくは犬歯が刺さったであろう部分が大きく目立つ。赤黒く変色していて、触ると痛みが走る。制服を着ていれば袖で隠れて見えないが、今日は確か体育の授業があったはずだ。ジャージに着替えるときに見えてしまう。見られたとして言い訳が思いつかない。学園に行く前にどこかで包帯を買って誤魔化そうと考え、朝の支度をする。
昨晩の青い吸血鬼は、もしかしたら夢ではないかと思っていた。彼がいなくなった途端眠くなったし、あまり痛みを感じなかったこともあり、やけにリアルな質感の夢を見たのではないか。そう思っていたが、どうやら現実だったらしい。少しふらつきながらミコトは部屋を出た。血が抜かれていることを実感した。
「あれ、ミコト。腕の包帯、どうしたの?」
案の定、次の体育に備えて着替えているとき、友人に聞かれた。右前腕を覆う白い包帯は嫌でも目につく。ミコトが同じ立場ならどうしたのか尋ねたくなるだろう。ミコトは曖昧に笑いながら、
「あ、うん、寝ぼけてベッドにぶつけちゃって。すごいあざになってたから、恥ずかしくって」
「え、大丈夫なの?痛くない?」
「まだちょっと痛いけど、大丈夫。しばらく包帯することになりそうだけど」
「そっかー。気をつけないとねー」
特に悪気のない質問に馬鹿正直には答えられず嘘をつくと、あの夜に現れた青い彼が頭に浮かぶ。何も抵抗できない状態で血を吸われるという恐怖体験を味わったのだが、ミコトの脳裏に浮かぶ彼は妖艶で、ともすればまた会いたいと思っている。血を吸われるのは嫌だが、あの青い髪のうねりをもう一度見たかった。
百合川ヒイラギが合一神の力を維持するにあたり、マガツヒの補給は欠かせない。マガツヒの補給にはいくつか方法があるが、ヒイラギが好んで行っているのは吸血だった。悪魔の血を吸ってもいいがあまり美味しくないので、自然と対象は人間に落ち着いた。人間は掃いて捨てるほどいるし、ヒイラギに抵抗できる力のある者などおらず、吸血も容易い。特にいいマガツヒを持っている者は匂いでわかるし、夜な夜なヒイラギは匂いに誘われるまま降り立ち、血を吸っていた。
「あー……昨日の血、美味しかったなあ……」
夜の東京、縄印学園学生寮の屋上に佇み、ヒイラギはうっとりと空を見上げた。昨晩降っていた雨は止み、空を覆っていた灰色の雲も退散してどこまでも広がる星空が出迎える。きらめく夜空を見上げると、昨晩初めて血を吸った少女を思い出す。縄印学園の学生寮にいた少女だ。どうやら今まで接点がなかったらしく、ヒイラギは顔も名前も知らなかった。ただ、良質なマガツヒが全身を循環していて、甘美な血を持つ少女だということだけは理解した。吸血を続けて人間の皮膚に突き刺すことに特化した犬歯が、立派に磨いた牙が疼く。昨日飲んだばかりなのに、また飲みたくて仕方がない。それくらい美味だった。人間は脆弱だ、何日も続けて血を吸えば死んでしまう。そうでなくとも傷を複数つけることになるし、何度も自分が降り立つことによる精神的な負担もある。吸血を始めたばかりの頃、あまりにも美味しい血があったので無理矢理傷を治して何度も吸ったら、相手の精神を壊してしまったことがあるだけにヒイラギは慎重だった。
「そろそろ魅了しようかなあ……」
ヒイラギは合一神、自らの体にマガツヒを込めて特殊な力を持たせることも可能だ。たとえば犬歯に魅了の成分を少し混ぜて、傷口から全身に魅了の感情を巡らせるとか。今までそこまでして継続的に吸いたい血はなかったが、あの少女はどうやら特別らしい。今学生寮の屋上に立っているだけでも、甘い蠱惑的なマガツヒの匂いがする。すぐにでも彼女の血を吸いたい衝動を抑えるのは骨が折れるが、我慢のしどころだ。彼女がほんのりヒイラギに魅了されれば、血を吸われる行為に対して好意的な、ともすれば中毒性に似た感情を抱いてくれるはずだ。
「試してみようか」
ヒイラギはくく、と笑ってみせた。今夜は彼女の血を吸うわけにはいかない。魅了するのもいきなり彼女で試すのはリスクが高い。いくらか実験と実証が必要だろう。その結果、他の人間の人生や精神を壊す可能性があるが、そんなことはどうでもいい。ヒイラギは少しばかり夜の旅に出る。今夜の哀れな実験台を見つけるために。
ようやく右前腕の傷口が塞がってきた。一応包帯をして様子を見て、問題がなさそうなら明日から外してもよさそうだ。ミコトは学生寮の自室で包帯を解きながらぼんやりと考えた。謎の吸血鬼に血を吸われてから3週間余り。さすがに抜かれた血も戻ったようだし、傷が治れば元通りだ。ミコトは新しい包帯を巻き、パジャマに着替えた。窓の外には東京の夜空が広がっている。血を吸われた夜は雨が降っていたが、今夜は晴天、尖った三日月が存在感を示す。
予感がした。ぞわりと背筋が寒くなる。あの吸血鬼がまたやって来る。特に根拠はないが、確信していた。来ると思っていても、ミコトの行動は変わらない。いつもと同じ日常を過ごすだけ。眠くなってきたら眠るだけ。ベッドに入って目を閉じれば、安寧の眠りが訪れる。
そしてあの夜と同じように、部屋の空気が変わる瞬間が来る。ミコトは導かれるように目を覚ました。目を閉じていても感じる、異質で異常な何者かの気配。やはりというか、体は動かない。仰向けのまま思い通りに動かせない体に、やっぱりね、と思うだけだった。両目を開く。
「こんばんは」
青い髪の翼を広げて、あの吸血鬼が浮かんでいた。金色の瞳の輝きも同じ。青年はベッドに放り出されたミコトの右腕を見て目を細めた。青年がベッドの端に座り、足を組む。長くすらりとした天色に光る指先が肌を覆う包帯を撫でる。
「まだ治ってないのかな」
言いながら、包帯の端を持たれて解かれていく。ただ包帯を解くという日常動作なのに、服を脱がされて暴かれているような、羞恥を煽る行為に思えてミコトは顔を赤らめた。相変わらず体は動かないし声も出せず、何もできないことがもどかしい。青年は解いた包帯を見せつけるようにひらひらと揺らめかせながら、ミコトの右前腕を手に取ってまじまじと見つめた。生々しい歯型はほぼ薄れているが、犬歯が刺さった痕がまだ残っている。痛みはないが、指先でなぞられるとくすぐったくなる。体を震わせてくすぐったさを逃がすこともできず、ミコトは背中を走る官能的な感覚に浸るよりほかなかった。
「まだ痕が残ってるんだね。じゃあ、ここからまた吸うのは可哀想かな」
青年の瞳がミコトを頭から爪先まで見つめている。動けない状態でじっと凝視されることがこんなに居心地の悪いものだとは知らなかった。青年はふふ、と笑みを漏らした。窓から差し込む三日月の明かりに照らされて、青年の顔が青白く浮かび上がる。
「今夜は吸血鬼らしく、首から吸っちゃおうか」
青年はミコトに覆い被さり、吸血鬼よろしく犬歯を見せつけて笑った。歪んだ恐ろしい笑みだが、恐ろしいほど美しかった。陶器のように滑らかな肌、蠱惑的な金色の双眸、薄い唇から覗く暴力的な犬歯という牙。暴力とは無縁な美しさに、野蛮な牙が異質な存在感を添え、危険な艶やかさを放つ。
青年の顔が首筋に埋められ、青い髪が一筋、ミコトの肌を撫でた。唇が首筋に押しつけられ、冷たい感触。刹那、太い牙が皮膚に刺さった。
「……っ!」
さすがに腕とは異なり、首を傷つけられる痛みは別物だった。杭が打ちつけられ、傷口から血が溢れる。それと同時、体を傷つけられる痛みとは別に、何か甘い陶酔が全身を駆け巡った。今行われている吸血という行為が神聖で好ましいものではないかと認識しながら、吸いついた唇から血を抜かれることに淡い快感を感じている。血を抜かれて体の芯が冷えているのに、刺さった牙からじんわり甘い疼きが広がっていき、体が熱くなる。
唇が離れて青年がミコトを真正面から見下ろす。唇を彩る血化粧、恍惚と歪んだ瞳。美貌の持ち主ではあるが、どこか捻れた危うさを感じさせる。目が離せない。ただ単に綺麗であるだけではない、触れたら飲み込まれそうな麗しさに、金縛りにあって動けないという身体的な理由だけではなく彼を見つめてしまう。
「美味しいね……ねえ、君の名前を教えてよ」
青年がミコトの唇に触れた瞬間、今まで声を出せなかった唇から音が漏れ始める。
「月森ミコト……」
「月森ミコト。いい名前だね。よく覚えておくよ」
紅を引くようにミコトの唇をなぞり、青年は満足そうに笑う。その指先が噛まれた首筋を撫でて、背筋に甘い電流が走る。痛いはずなのに、何の痛覚もない。彼に触れられると頭の中にある理性を溶かされる。本来なら彼に感じて然るべき恐怖が薄れ、別の感情に上書きされてしまう。
「僕は百合川ヒイラギ。君も覚えておいて」
「百合川……ヒイラギ……」
操られるように鸚鵡返しをすると、ヒイラギは優しく笑い、
「いい子。ちゃんと覚えておいてね。君とは、長いお付き合いになるだろうから」
身を翻して宙に舞った。激しく渦巻く青い髪に目を奪われる。
「それじゃあ、またね。君の傷が治る頃に、また会おうね」
そうしてふわりと消える彼を、ミコトは見送ることしかできなかった。首筋から走る、甘い疼きとともに。
妙に肌寒い日だった。葉桜を濡らす通り雨とともに東京を襲った冷気に、月森ミコトは身を震わせた。
「まだ降ってる……」
ミコトは学生寮の自室、カーテンを少し開けて窓に手を触れた。とても春の夜とは思えない冷たい窓ガラスに雨の雫が叩きつけられ、止めどない涙を流している。空は暗い雲で覆い尽くされ、月の光も届かない。部屋の灯りがなければ、ほぼ完全な暗闇に閉ざされるだろう。
「ふあ……」
ミコトは冷たい空気が漂う部屋であくびをした。開いた口から入り込んでくる空気は冷気で湿り、喉を冷たく潤していく。時計を見ると22時を少し回っている。普段であればまだ眠くなるような時間ではないが、今夜は体が気怠く眠たかった。今日はもう寝よう。ミコトは早々に結論を出し、電気を消してベッドに潜り込んだ。
深い眠りにはあっさり落ちたようだったが、ミコトは何かただならぬ気配を感じて目を覚ました。目を開けてはならない気がして、目は閉じたまま意識だけが明瞭に闇の中覚醒する。動けない。仰向けに寝転がったまま、体がぴくりとも動かない。これがもしや金縛りというものかと、ミコトは妙に冷静な気持ちで動けないまま思案を巡らせた。瞼の裏の暗闇に身を委ねながら部屋の空気を感じる。冷たい夜の空気に、雨が降り続く音が耳を濡らしていく。寝る前よりは幾分静かになった雨の音も、生き物の気配がしない深夜にはうるさく響く。
吸い込む冷たい夜気が先ほど吸い込んだものと少し違うことを感じ、この部屋の中に何かがいることを確信した。部屋の空気を変えてしまうほど異質な何か。ミコトは霊感などないし、幽霊や妖怪を見たこともないが、もしかしたらそういう類のものについに遭遇する日が来てしまったのかもしれない。恐怖はあるが、気配だけ感じ取って姿を見ないことにも恐れがある。これで瞼も開けられない金縛りだと万事休すだったが、目を開けることができた。
「やあ、こんばんは」
目を開いた瞬間飛び込んできたのは、目が覚めるような青い色。ふわりと窮屈そうに宙に浮く青年がいた。青く長い髪が広げた翼のように波を作り、白い肌に金色の双眸、すらりと伸びた手足は青と黒の無機質な素材の衣服に包まれている。ところどころ血液の流れのように青い光の筋が体を這っており、暗い闇の中で目立つ。
「……っ」
声が出ない。唇は動くが、喉の奥から音の波が出てこない。ただ驚きと恐怖の吐息だけが漏れる。
「すごくいいマガツヒの匂いがしたんだ。君だったんだね」
現れた青年はよくわからないことを言いながら自らの唇に人差し指を当て、艶やかに金色の瞳を細めた。宙に浮いた彼は足を組み、夜の空気に腰掛けている。青い髪はさながらゆらゆらと揺れる蝙蝠の羽根。何もかも常識的でなく、今まで一度も見たことがない者の姿に、ミコトは頭がぐらぐらと揺れるのを感じた。どう見ても幽霊には見えない。かといって物怪や妖怪にも見えない。強いて言うなら天使か悪魔といったところだろうか。目の前で微笑む彼は夢の中に浮かぶ月のような神秘的な美しさをたたえているが、さてミコトにとっては天使なのか、悪魔なのか。
「君の血を吸うのは初めてかな?いい匂い。なんで今まで気がつかなかったのかな」
青年はベッドに降り立ち、四つ這いになってミコトにずいっと顔を近づけてくる。鮮烈な青い髪が彼の背中から零れ落ち、ベッドを覆う鉄格子になり、青い鳥籠に囚われる。あまりに美しい顔貌に一瞬思考が飛んだが、雨音に混ざって何か不穏な言葉が聞こえた。血を吸う?
「ああ、怖い?いい顔するね、君」
青年は右手の人差し指でミコトの唇に触れてくる。彼の指先は天色に鮮やかに光り、妖しい指先がはっきりと見える。間近で見る彼の双眸は大胆不敵。その間ミコトは金縛りのままで、彼に唇を触られても何もできない。このわずかな時間に、目の前の青年に逆らえないことを察して、ミコトは恐れ慄き美しい金色を見つめることしかできなかった。
「血は全身を流れているから、どこから吸っても構わないんだけど……」
青年は囁きながら品定めをするように、右手の人差し指でミコトの体をなぞっていく。唇から顎、首筋、鎖骨。パジャマの胸元の細い編み上げリボンの端が引っ張られ、胸元を締めていた部分が緩み、胸元の露出が増える。露わになった胸元もなぞられ、ミコトは背筋に甘い電流が流れたような気がして震えた。
「やっぱり初めては腕がいいかな?」
胸元から肩、長袖の右腕をなぞられる。袖を捲られて素肌が露わになる。青年は露出したミコトの右腕、肘から下を舐めるように見つめて、歯を剥き出して笑った。彼の白い歯列が夜に浮かびあがり、普通の人間より長く存在感のある犬歯が4本。皮膚に突き刺して血を流させることに特化した、不穏な歯。
「……!」
青年がミコトの右腕を取り、顔を近づけてくる。先ほど見えた犬歯が刺さる未来しか見えず、ミコトは思わず目を閉じた。その刹那、右腕に鈍い痛みが走る。青年の歯が皮膚と肉に刺さり、体外に血が流れていくのを感じる。思っていたよりは痛くなかった。それでも視界が見えない状況だと痛みが増す気がして、再び目を開いた。
青年が瞳を閉じてミコトの右前腕に噛みつきながら、傷口に唇を寄せて吸いついている様子が見えた。その顔はこれ以上ないほど恍惚として、最上のドルチェを味わっているようにも見える。時折こちらに寄越す金色の視線は甘く揺れて、噛みつかれて血を吸われているという異常事態なのに、彼の陶酔の眼差しに全てを許してしまいそうになる。
「これ以上吸うと貧血になっちゃうから、このへんにしようか」
じゅるりと最後の赤い一滴を吸い取って、青年がミコトの鼻先に触れるほどの距離で見つめてきた。
「ごちそうさま」
血に濡れた唇に舌を這わせて、青年はミコトに笑った。もう一度彼は宙に浮き、ひらひらと手を振った。瞬きをした一瞬の暗闇のうちに、彼は姿を消していた。そしてそれと同時に、ミコトの金縛りが解けた。数秒前まで硬く強張っていた体の力が抜け、弛緩する。もはや腕を上げることすら気怠くて、噛まれた右腕のことなどすっかり忘れ、再びミコトは眠りの世界に落ちていった。
「うわ……」
翌朝目が覚めたミコトは真っ先に右前腕を確認し、思わず声を上げた。掌側の右前腕、滑らかで肉厚な部分にはっきりと歯型が残っている。特に4つの、おそらくは犬歯が刺さったであろう部分が大きく目立つ。赤黒く変色していて、触ると痛みが走る。制服を着ていれば袖で隠れて見えないが、今日は確か体育の授業があったはずだ。ジャージに着替えるときに見えてしまう。見られたとして言い訳が思いつかない。学園に行く前にどこかで包帯を買って誤魔化そうと考え、朝の支度をする。
昨晩の青い吸血鬼は、もしかしたら夢ではないかと思っていた。彼がいなくなった途端眠くなったし、あまり痛みを感じなかったこともあり、やけにリアルな質感の夢を見たのではないか。そう思っていたが、どうやら現実だったらしい。少しふらつきながらミコトは部屋を出た。血が抜かれていることを実感した。
「あれ、ミコト。腕の包帯、どうしたの?」
案の定、次の体育に備えて着替えているとき、友人に聞かれた。右前腕を覆う白い包帯は嫌でも目につく。ミコトが同じ立場ならどうしたのか尋ねたくなるだろう。ミコトは曖昧に笑いながら、
「あ、うん、寝ぼけてベッドにぶつけちゃって。すごいあざになってたから、恥ずかしくって」
「え、大丈夫なの?痛くない?」
「まだちょっと痛いけど、大丈夫。しばらく包帯することになりそうだけど」
「そっかー。気をつけないとねー」
特に悪気のない質問に馬鹿正直には答えられず嘘をつくと、あの夜に現れた青い彼が頭に浮かぶ。何も抵抗できない状態で血を吸われるという恐怖体験を味わったのだが、ミコトの脳裏に浮かぶ彼は妖艶で、ともすればまた会いたいと思っている。血を吸われるのは嫌だが、あの青い髪のうねりをもう一度見たかった。
百合川ヒイラギが合一神の力を維持するにあたり、マガツヒの補給は欠かせない。マガツヒの補給にはいくつか方法があるが、ヒイラギが好んで行っているのは吸血だった。悪魔の血を吸ってもいいがあまり美味しくないので、自然と対象は人間に落ち着いた。人間は掃いて捨てるほどいるし、ヒイラギに抵抗できる力のある者などおらず、吸血も容易い。特にいいマガツヒを持っている者は匂いでわかるし、夜な夜なヒイラギは匂いに誘われるまま降り立ち、血を吸っていた。
「あー……昨日の血、美味しかったなあ……」
夜の東京、縄印学園学生寮の屋上に佇み、ヒイラギはうっとりと空を見上げた。昨晩降っていた雨は止み、空を覆っていた灰色の雲も退散してどこまでも広がる星空が出迎える。きらめく夜空を見上げると、昨晩初めて血を吸った少女を思い出す。縄印学園の学生寮にいた少女だ。どうやら今まで接点がなかったらしく、ヒイラギは顔も名前も知らなかった。ただ、良質なマガツヒが全身を循環していて、甘美な血を持つ少女だということだけは理解した。吸血を続けて人間の皮膚に突き刺すことに特化した犬歯が、立派に磨いた牙が疼く。昨日飲んだばかりなのに、また飲みたくて仕方がない。それくらい美味だった。人間は脆弱だ、何日も続けて血を吸えば死んでしまう。そうでなくとも傷を複数つけることになるし、何度も自分が降り立つことによる精神的な負担もある。吸血を始めたばかりの頃、あまりにも美味しい血があったので無理矢理傷を治して何度も吸ったら、相手の精神を壊してしまったことがあるだけにヒイラギは慎重だった。
「そろそろ魅了しようかなあ……」
ヒイラギは合一神、自らの体にマガツヒを込めて特殊な力を持たせることも可能だ。たとえば犬歯に魅了の成分を少し混ぜて、傷口から全身に魅了の感情を巡らせるとか。今までそこまでして継続的に吸いたい血はなかったが、あの少女はどうやら特別らしい。今学生寮の屋上に立っているだけでも、甘い蠱惑的なマガツヒの匂いがする。すぐにでも彼女の血を吸いたい衝動を抑えるのは骨が折れるが、我慢のしどころだ。彼女がほんのりヒイラギに魅了されれば、血を吸われる行為に対して好意的な、ともすれば中毒性に似た感情を抱いてくれるはずだ。
「試してみようか」
ヒイラギはくく、と笑ってみせた。今夜は彼女の血を吸うわけにはいかない。魅了するのもいきなり彼女で試すのはリスクが高い。いくらか実験と実証が必要だろう。その結果、他の人間の人生や精神を壊す可能性があるが、そんなことはどうでもいい。ヒイラギは少しばかり夜の旅に出る。今夜の哀れな実験台を見つけるために。
ようやく右前腕の傷口が塞がってきた。一応包帯をして様子を見て、問題がなさそうなら明日から外してもよさそうだ。ミコトは学生寮の自室で包帯を解きながらぼんやりと考えた。謎の吸血鬼に血を吸われてから3週間余り。さすがに抜かれた血も戻ったようだし、傷が治れば元通りだ。ミコトは新しい包帯を巻き、パジャマに着替えた。窓の外には東京の夜空が広がっている。血を吸われた夜は雨が降っていたが、今夜は晴天、尖った三日月が存在感を示す。
予感がした。ぞわりと背筋が寒くなる。あの吸血鬼がまたやって来る。特に根拠はないが、確信していた。来ると思っていても、ミコトの行動は変わらない。いつもと同じ日常を過ごすだけ。眠くなってきたら眠るだけ。ベッドに入って目を閉じれば、安寧の眠りが訪れる。
そしてあの夜と同じように、部屋の空気が変わる瞬間が来る。ミコトは導かれるように目を覚ました。目を閉じていても感じる、異質で異常な何者かの気配。やはりというか、体は動かない。仰向けのまま思い通りに動かせない体に、やっぱりね、と思うだけだった。両目を開く。
「こんばんは」
青い髪の翼を広げて、あの吸血鬼が浮かんでいた。金色の瞳の輝きも同じ。青年はベッドに放り出されたミコトの右腕を見て目を細めた。青年がベッドの端に座り、足を組む。長くすらりとした天色に光る指先が肌を覆う包帯を撫でる。
「まだ治ってないのかな」
言いながら、包帯の端を持たれて解かれていく。ただ包帯を解くという日常動作なのに、服を脱がされて暴かれているような、羞恥を煽る行為に思えてミコトは顔を赤らめた。相変わらず体は動かないし声も出せず、何もできないことがもどかしい。青年は解いた包帯を見せつけるようにひらひらと揺らめかせながら、ミコトの右前腕を手に取ってまじまじと見つめた。生々しい歯型はほぼ薄れているが、犬歯が刺さった痕がまだ残っている。痛みはないが、指先でなぞられるとくすぐったくなる。体を震わせてくすぐったさを逃がすこともできず、ミコトは背中を走る官能的な感覚に浸るよりほかなかった。
「まだ痕が残ってるんだね。じゃあ、ここからまた吸うのは可哀想かな」
青年の瞳がミコトを頭から爪先まで見つめている。動けない状態でじっと凝視されることがこんなに居心地の悪いものだとは知らなかった。青年はふふ、と笑みを漏らした。窓から差し込む三日月の明かりに照らされて、青年の顔が青白く浮かび上がる。
「今夜は吸血鬼らしく、首から吸っちゃおうか」
青年はミコトに覆い被さり、吸血鬼よろしく犬歯を見せつけて笑った。歪んだ恐ろしい笑みだが、恐ろしいほど美しかった。陶器のように滑らかな肌、蠱惑的な金色の双眸、薄い唇から覗く暴力的な犬歯という牙。暴力とは無縁な美しさに、野蛮な牙が異質な存在感を添え、危険な艶やかさを放つ。
青年の顔が首筋に埋められ、青い髪が一筋、ミコトの肌を撫でた。唇が首筋に押しつけられ、冷たい感触。刹那、太い牙が皮膚に刺さった。
「……っ!」
さすがに腕とは異なり、首を傷つけられる痛みは別物だった。杭が打ちつけられ、傷口から血が溢れる。それと同時、体を傷つけられる痛みとは別に、何か甘い陶酔が全身を駆け巡った。今行われている吸血という行為が神聖で好ましいものではないかと認識しながら、吸いついた唇から血を抜かれることに淡い快感を感じている。血を抜かれて体の芯が冷えているのに、刺さった牙からじんわり甘い疼きが広がっていき、体が熱くなる。
唇が離れて青年がミコトを真正面から見下ろす。唇を彩る血化粧、恍惚と歪んだ瞳。美貌の持ち主ではあるが、どこか捻れた危うさを感じさせる。目が離せない。ただ単に綺麗であるだけではない、触れたら飲み込まれそうな麗しさに、金縛りにあって動けないという身体的な理由だけではなく彼を見つめてしまう。
「美味しいね……ねえ、君の名前を教えてよ」
青年がミコトの唇に触れた瞬間、今まで声を出せなかった唇から音が漏れ始める。
「月森ミコト……」
「月森ミコト。いい名前だね。よく覚えておくよ」
紅を引くようにミコトの唇をなぞり、青年は満足そうに笑う。その指先が噛まれた首筋を撫でて、背筋に甘い電流が走る。痛いはずなのに、何の痛覚もない。彼に触れられると頭の中にある理性を溶かされる。本来なら彼に感じて然るべき恐怖が薄れ、別の感情に上書きされてしまう。
「僕は百合川ヒイラギ。君も覚えておいて」
「百合川……ヒイラギ……」
操られるように鸚鵡返しをすると、ヒイラギは優しく笑い、
「いい子。ちゃんと覚えておいてね。君とは、長いお付き合いになるだろうから」
身を翻して宙に舞った。激しく渦巻く青い髪に目を奪われる。
「それじゃあ、またね。君の傷が治る頃に、また会おうね」
そうしてふわりと消える彼を、ミコトは見送ることしかできなかった。首筋から走る、甘い疼きとともに。