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ブルームーンドール・ワルツ
「おはよう、ヒイラギ」
爽やかな朝、ミコトは寝室のカーテンを開けた。外は快晴、眩い朝日が差し込む。寝室にはベッドがふたつ。ミコトが眠るベッドと青い髪のプランツ・ドール――ヒイラギが眠るベッド。足首まで覆うほどの長さの青い髪が、白いシーツの上でランダムな渦を描き輝いている。掛け布団をぎゅっと抱きしめて眠っていたヒイラギは、ぱっちりと目を開き起き上がった。彼は一瞬で覚醒し金色の眼差しが無機質に輝くが、髪は寝起き特有の無造作な乱れ、ともあれば冷徹に見える表情との落差が面白い。
「目、覚めた?髪梳いてあげる。こっちおいで」
寝室にはドレッサーがある。椅子を引き彼に微笑みかけると、ヒイラギはベッドから下り椅子に座った。ドレッサーの鏡にヒイラギの姿が映り込む。ミコトは座った彼の背後に立ち、床に垂れる青い髪を腕で掬い上げた。長さも量もある髪だが羽のように軽く、整える前から朝日を反射しきらめく。
「今日もヒイラギは綺麗ね。こんな長い髪なのにもつれたり絡まったりしないの、羨ましいわ」
ヒイラギ専用の手触りのいい櫛を取り、丁寧に梳いていく。櫛を通すたびに、跳ねたりうねったりと自由だった髪が美しい流れに整っていく。清涼な川の流れに似た質感の髪は心地よく、梳くごとに本来の深い青色に光り透き通った海の色を思わせる。
「さて、こんなものかしら。今日はどうする?このまま下ろしておく?」
髪を梳く静かな音が止み、後には上質な絹糸の輝きを放つ青い髪。ヒイラギに尋ねると、彼はゆるゆると首を振った。
「ん?じゃあどうしたい?」
ヒイラギは自らの髪を掴み、高い位置に持っていく。その体勢で鏡の中のミコトに目で訴えかけてくる。
「そう、今日はポニーテールの気分なのね。じゃあ動かないで、結んであげる」
ミコトはドレッサーに置かれた白いリボンを取り、頭頂部付近で青い髪を一つに結んだ。かなり高い位置で結んだが、それでも毛先はヒイラギの尻付近にある。ヒイラギは鏡に映ったポニーテールの自分を見つめ、唇の端をほんの少しだけ上向けた。小さく微かな表情の違いだが、ミコトまで嬉しくなった。
「うん、よかった。綺麗に結べたわ」
ヒイラギは頷き立ち上がった。束ねた青い髪が流麗な軌跡を描く。髪を下ろしているときとはまた違う美しさ、ミコトは今日も目を奪われた。
ヒイラギに出会ったのは約一年前。プランツ・ドールを買った友人から、
「すっっごく高かったけど、綺麗でさ!男の子の人形もあるの!」
と写真を見せられたのがきっかけだった。友人のプランツ・ドールは白銀の髪にマスクをつけた美麗な青年で、初めて写真を見たとき、あまり興味がなかったミコトですら言葉を失った。それから専門店に向かい、ショーウインドウにいた青い髪の人形に心を射止められ今に至る。プランツ・ドールの値段には目が飛び出るかと思ったが、専用のミルクと砂糖菓子を与えていれば着替えや入浴等は自分でしてくれるため、意外と世話は楽だった。本来なら髪を梳くのもミコトがする必要はないのだが、その長く美しい髪に触れたくて好きでやっている。当初は髪に触れられることを拒否していたヒイラギだったが、今となってはミコトが彼の髪を整えるのが日課となっている。
――あんな綺麗で長い髪、自分じゃできないしなぁ。
ミコトは自らの髪を指に巻き付けて独りごちた。生身の人間が足首近くまで髪を伸ばすのは難しいし、仮に伸ばしたとて手入れが大変だ。ミルクと砂糖菓子をきちんと摂取しているヒイラギの髪は艶々と輝きさらさらと流れる、つい触りたくなってしまう魔性の髪だった。
「ヒイラギ、お風呂入っておいで。浴槽は洗っておいたから」
ソファーでくつろぐヒイラギに声をかけると、静かに彼は頷いた。浴室に向かう彼を見送り、ミコトは空になったソファーに腰掛けた。さて、ちょっと休もうかな。ミコトは風呂上がりの熱を手で扇いで逃しながら、本を読み始めた。浴室の扉が閉まり、シャワーが流れる音が聞こえてきた。ヒイラギは一時間ほど入浴に時間をかける、ゆっくりしよう。そう思って数分経ったとき、耳をつんざく警告音が響いた。聞き慣れない音でとにかくうるさい、異常事態だと本能に訴えかける不穏な音だ。何事かと思いながらミコトは立ち上がった。どうやら浴室で鳴っているようだ。
「ヒイラギ!?」
まさかと浴室に駆けつける。間違いない、音はこの中から聞こえる。無我夢中で引き戸を開けた。
ヒイラギがバスチェアに腰掛けていた。振り向いた彼はいつもどおりの無機質な瞳でミコトを見つめている。その間にも延々と警告音が鳴り響いているが、浴室にもヒイラギ自身にも何か異常があるようには見えない。ミコトは不審に思いながらも浴室の壁に設置されたタッチパネルに目をやった。「呼び出し」のボタンが赤く光っている。押すとようやく音が止んだ。ミコトは安堵の息をついた。
「ヒイラギ、どうしたの?間違えて押しちゃった?」
最も自然な考えを口にしたものの、ヒイラギは目を閉じて首を振り否定した。ヒイラギはシャンプーとコンディショナーを手に取り、ミコトに差し出してきた。いまいち理解ができずミコトはしばらく考えたが、
「もしかして、私に髪を洗ってほしいとか?」
ヒイラギの首肯が返ってきた。今まで髪を梳くことはあっても、洗うことはなかった。ヒイラギは一人で入浴できるからそんな発想が浮かばなかった。戸惑っているミコトをヒイラギは振り返った姿勢のまま凝視している。その瞳はしてくれないの、と非難しているようにも見える。
「わかった、洗ってあげる。でも、こんな長い髪を洗うの初めてだから、うまくいかないかもよ?」
そう言ってもヒイラギは意に介した様子はなく、両手のシャンプーとコンディショナーを押し付けてくる。呼び出しボタンを押すほどの希望だ、よほどしてほしいのだろう。ミコトははいはい、と言いながら彼の背後にしゃがみ、シャワーを長い髪に当てた。まずは満遍なく濡らしてから。浴室の床でうねる髪の先まで、丁寧に湯を当てる。髪を手で撫でつつふと前を見ると、ヒイラギの白い背中が目に入った。当たり前だが、彼は今全裸だ。彼が服を脱いだところを初めて見る。あくまで彼は人形、つるりとした人肌とは違う体だが少し気恥ずかしくなった。ミコトは俯きがちに掌にシャンプーを取り泡立てた。ふわふわの泡をヒイラギの髪全体に撫で付け、丁寧に洗っていく。頭皮の部分を指の腹でぐにぐにと揉みながら洗う際、
「痒いところはありませんか?」
なんてふざけて聞いてみた。バスチェアに座るヒイラギの真正面には鏡、そこに映り込んだヒイラギは無表情で首を傾げていた。やっぱり痒みという概念はないらしい。ミコトはふふ、と笑った。
「ああ、ごめんごめん。意味がわからないわよね。変なところない?洗い残してる感じとか」
ヒイラギはううん、とでも言いたげに首を振る。もこもこと白い泡に包まれた無表情のヒイラギは冷たい雰囲気が薄れ、少し間の抜けた可愛さを纏っている。髪を洗わなければ見ることのできない光景だ、たまにはこういう彼を見るのも楽しいかもしれない。あまりの長さに洗うのは骨が折れるが。彼が入浴に時間をかけるのも納得だ。
泡をしっかり洗い流し、コンディショナーを髪に染み込ませて湯を流す。水を吸って重くなった青い髪はいつも以上に真っ直ぐ垂れ下がり、上品な光沢のあるビロードのよう。惚れ惚れと眺めてしまった。
「うん、できました。どう、綺麗になったかしら」
鏡の中のヒイラギが小さく頷く。口元を少し緩ませ、微笑んでくれる。
「よかったわ。じゃあゆっくりお風呂に入ってね」
ミコトはヒイラギの頭を撫で、浴室を出た。せっかく風呂に入ったのに汗をかいてしまったが、可愛らしいヒイラギの姿を見られたから釣りが出る。ミコトは再度ソファーに座り、今度こそ本を読み始めた。
数十分後、ヒイラギが浴室から出てきた。髪の乾燥も終わらせ、入浴前と変わりない姿で帰ってくる。ただやはり洗いたての髪は格別で、眩いばかりの天使の輪が生まれていた。
「おかえり、ヒイラギ」
声をかけると、ヒイラギはミコトの隣に腰掛けた。青い髪が麗しい流れとなってソファーに色を落とす。ヒイラギの手がミコトの手を取り、自らの髪に触れさせる。さらりと指の間を零れ落ちる青い軌跡、まだ完全に乾き切っていない潤いとともに鮮やかに輝く。
「ふふ、ヒイラギが洗ったときと同じ仕上がりになってよかったわ。たまには私が洗うのもいいかもしれないわね?」
ヒイラギは口角をかすかに上げ、ミコトの手を髪に押し付けている。きっとこれは肯定の意なんだろうなあ、とミコトは微笑んだ。
夏が終わり秋が深まりつつある中、季節外れの肌寒さが襲ってきた。外出していたミコトは肩をすくめ、巻いているストールに顔を埋めた。厚めのストールを持っていてよかった、思っていたよりも風が冷たい。
「ただいまー」
吹き抜ける風に縮こまりながら、ミコトは自宅に戻った。玄関からリビングダイニングに向かうと、いつもどおりヒイラギがソファーに座っている。彼は顔を上げミコトと目が合うと、ほんの少し首を傾げた。
「ただいま、ヒイラギ。留守番ありがとう」
そんな彼の頭に手を置き、ぽんぽんと軽く撫でるように触れた。今日もその髪は手触りがよく、ミコトに安心感を与えてくれる。
ヒイラギは下ろした青い髪を手に取り、ミコトをまじまじと見つめながら首に髪を巻いた。ぐるぐると何度も首に巻いていく。ヒイラギの首元が青く染まり、厚めのマフラーかストールを巻いたような見た目に落ち着いた。ヒイラギは無表情だがどうにも納得がいかないのか、ミコトと自らの首元を交互に見つめていた。
「どうしたの、ヒイラギ。寒い?」
尋ねると、ヒイラギはミコトの巻いているストールを指差した。
「ああ、ストールの真似?首に髪を巻くのは危ないからやめた方がいいわ。髪も痛むでしょうし」
ミコトはヒイラギの隣に座り、彼の首元を彩る髪をほどき始めた。乱雑に巻き付けたせいで妙に絡まりほどきづらい。いくら手入れの行き届いたヒイラギの髪でも首に巻くなどという事態には対応していないらしく、珍しくぼさぼさになっていた。
「ストール、巻いてみたい?」
ヒイラギの視線を感じる。手櫛で青い髪を整えながら尋ねるミコトに、ヒイラギは頷いて答えた。ミコトは身につけていたストールをヒイラギの首にかけると、うーん、と考え込んだ。
「色んな巻き方があるのよ。どういうのがいいかしら?選んでみて」
スマートフォンで検索すると男性向けの巻き方が何種類か出てくる。彼に画面を見せると、ワンループ巻きを指差した。意外だ。表示された巻き方の中では可愛らしく見えるやり方で、美麗だが意外と男性的な体付きをしている彼に果たして似合うかどうか。ものは試しだ、やってみるべし。ミコトはストールを二つ折りにし彼の首にかけ、輪の部分に反対側の端を通し結んだ。首元に大きな結び目ができる、ワンループ巻きの完成だ。
「できたわ。可愛いわね、ヒイラギ」
ミコトが巻いていたストールはくすんだピンクベージュ、青と黒を基調としたヒイラギには縁のない色だ。首元にピンクベージュの彩りが咲く。彼の美しさの中にある冷たさがいくぶん和らぎ、ふわりと柔らかな印象を与える。ヒイラギは首元のストールを興味深げに触りながら、そわそわと落ち着きなく視線を動かしていた。
「あ、そうか。どんな風になってるか気になるわよね。こんな感じよ」
手鏡をヒイラギに手渡した。ヒイラギは小さな手鏡を覗き込み、ストールを触り結び目の形を整えていた。その仕草は新しい服を初めて着た少女のようで、また新たな可愛らしさを醸し出している。
「ストール、気に入った?もしストールが欲しいなら、今度一緒に探しに行く?」
彼はミコトの言葉に顔を上げ数秒硬直した後、ふるふると否定した。肩をすくめてストールに顔を埋め、結び目を大事そうに持ち上げて頬を擦り付けている。
「あ、そのストールがいいの?そっか、じゃあヒイラギにあげるわ」
自然と零したミコトを、ヒイラギは上目遣いでじっと見つめていた。目は口ほどに物を言っている。「本当にいいの?」と。
「ストールはいくらでもあるもの、また買えばいいわ。そのストールじゃないと嫌でしょ?」
こくこくと小刻みに頷くヒイラギの頭を撫でた。彼はよほど気に入ったらしく、ストールの感触を楽しむように撫で、口元をストールで隠している。気に入ったタオルや布団を離そうとしない子供のようだ。彼がこれほど執着するのは珍しく、微笑ましかった。
「ヒイラギとショッピングとか、行ってみたいわね。ヒイラギ、外にはたくさんお店があるのよ。ストールもたくさんあるし、他にもお気に入りが見つかるかもしれないわ。今度出かけましょう。ね?」
彼と一緒に過ごしていると、一人暮らしの生活では生まれ得ない経験を楽しめる。彼を迎え入れて本当によかった。首肯する彼を見ながら、どこに行こうかしら、今週末の天気はどうだったかしら、とミコトは思案した。
「おはよう、ヒイラギ」
爽やかな朝、ミコトは寝室のカーテンを開けた。外は快晴、眩い朝日が差し込む。寝室にはベッドがふたつ。ミコトが眠るベッドと青い髪のプランツ・ドール――ヒイラギが眠るベッド。足首まで覆うほどの長さの青い髪が、白いシーツの上でランダムな渦を描き輝いている。掛け布団をぎゅっと抱きしめて眠っていたヒイラギは、ぱっちりと目を開き起き上がった。彼は一瞬で覚醒し金色の眼差しが無機質に輝くが、髪は寝起き特有の無造作な乱れ、ともあれば冷徹に見える表情との落差が面白い。
「目、覚めた?髪梳いてあげる。こっちおいで」
寝室にはドレッサーがある。椅子を引き彼に微笑みかけると、ヒイラギはベッドから下り椅子に座った。ドレッサーの鏡にヒイラギの姿が映り込む。ミコトは座った彼の背後に立ち、床に垂れる青い髪を腕で掬い上げた。長さも量もある髪だが羽のように軽く、整える前から朝日を反射しきらめく。
「今日もヒイラギは綺麗ね。こんな長い髪なのにもつれたり絡まったりしないの、羨ましいわ」
ヒイラギ専用の手触りのいい櫛を取り、丁寧に梳いていく。櫛を通すたびに、跳ねたりうねったりと自由だった髪が美しい流れに整っていく。清涼な川の流れに似た質感の髪は心地よく、梳くごとに本来の深い青色に光り透き通った海の色を思わせる。
「さて、こんなものかしら。今日はどうする?このまま下ろしておく?」
髪を梳く静かな音が止み、後には上質な絹糸の輝きを放つ青い髪。ヒイラギに尋ねると、彼はゆるゆると首を振った。
「ん?じゃあどうしたい?」
ヒイラギは自らの髪を掴み、高い位置に持っていく。その体勢で鏡の中のミコトに目で訴えかけてくる。
「そう、今日はポニーテールの気分なのね。じゃあ動かないで、結んであげる」
ミコトはドレッサーに置かれた白いリボンを取り、頭頂部付近で青い髪を一つに結んだ。かなり高い位置で結んだが、それでも毛先はヒイラギの尻付近にある。ヒイラギは鏡に映ったポニーテールの自分を見つめ、唇の端をほんの少しだけ上向けた。小さく微かな表情の違いだが、ミコトまで嬉しくなった。
「うん、よかった。綺麗に結べたわ」
ヒイラギは頷き立ち上がった。束ねた青い髪が流麗な軌跡を描く。髪を下ろしているときとはまた違う美しさ、ミコトは今日も目を奪われた。
ヒイラギに出会ったのは約一年前。プランツ・ドールを買った友人から、
「すっっごく高かったけど、綺麗でさ!男の子の人形もあるの!」
と写真を見せられたのがきっかけだった。友人のプランツ・ドールは白銀の髪にマスクをつけた美麗な青年で、初めて写真を見たとき、あまり興味がなかったミコトですら言葉を失った。それから専門店に向かい、ショーウインドウにいた青い髪の人形に心を射止められ今に至る。プランツ・ドールの値段には目が飛び出るかと思ったが、専用のミルクと砂糖菓子を与えていれば着替えや入浴等は自分でしてくれるため、意外と世話は楽だった。本来なら髪を梳くのもミコトがする必要はないのだが、その長く美しい髪に触れたくて好きでやっている。当初は髪に触れられることを拒否していたヒイラギだったが、今となってはミコトが彼の髪を整えるのが日課となっている。
――あんな綺麗で長い髪、自分じゃできないしなぁ。
ミコトは自らの髪を指に巻き付けて独りごちた。生身の人間が足首近くまで髪を伸ばすのは難しいし、仮に伸ばしたとて手入れが大変だ。ミルクと砂糖菓子をきちんと摂取しているヒイラギの髪は艶々と輝きさらさらと流れる、つい触りたくなってしまう魔性の髪だった。
「ヒイラギ、お風呂入っておいで。浴槽は洗っておいたから」
ソファーでくつろぐヒイラギに声をかけると、静かに彼は頷いた。浴室に向かう彼を見送り、ミコトは空になったソファーに腰掛けた。さて、ちょっと休もうかな。ミコトは風呂上がりの熱を手で扇いで逃しながら、本を読み始めた。浴室の扉が閉まり、シャワーが流れる音が聞こえてきた。ヒイラギは一時間ほど入浴に時間をかける、ゆっくりしよう。そう思って数分経ったとき、耳をつんざく警告音が響いた。聞き慣れない音でとにかくうるさい、異常事態だと本能に訴えかける不穏な音だ。何事かと思いながらミコトは立ち上がった。どうやら浴室で鳴っているようだ。
「ヒイラギ!?」
まさかと浴室に駆けつける。間違いない、音はこの中から聞こえる。無我夢中で引き戸を開けた。
ヒイラギがバスチェアに腰掛けていた。振り向いた彼はいつもどおりの無機質な瞳でミコトを見つめている。その間にも延々と警告音が鳴り響いているが、浴室にもヒイラギ自身にも何か異常があるようには見えない。ミコトは不審に思いながらも浴室の壁に設置されたタッチパネルに目をやった。「呼び出し」のボタンが赤く光っている。押すとようやく音が止んだ。ミコトは安堵の息をついた。
「ヒイラギ、どうしたの?間違えて押しちゃった?」
最も自然な考えを口にしたものの、ヒイラギは目を閉じて首を振り否定した。ヒイラギはシャンプーとコンディショナーを手に取り、ミコトに差し出してきた。いまいち理解ができずミコトはしばらく考えたが、
「もしかして、私に髪を洗ってほしいとか?」
ヒイラギの首肯が返ってきた。今まで髪を梳くことはあっても、洗うことはなかった。ヒイラギは一人で入浴できるからそんな発想が浮かばなかった。戸惑っているミコトをヒイラギは振り返った姿勢のまま凝視している。その瞳はしてくれないの、と非難しているようにも見える。
「わかった、洗ってあげる。でも、こんな長い髪を洗うの初めてだから、うまくいかないかもよ?」
そう言ってもヒイラギは意に介した様子はなく、両手のシャンプーとコンディショナーを押し付けてくる。呼び出しボタンを押すほどの希望だ、よほどしてほしいのだろう。ミコトははいはい、と言いながら彼の背後にしゃがみ、シャワーを長い髪に当てた。まずは満遍なく濡らしてから。浴室の床でうねる髪の先まで、丁寧に湯を当てる。髪を手で撫でつつふと前を見ると、ヒイラギの白い背中が目に入った。当たり前だが、彼は今全裸だ。彼が服を脱いだところを初めて見る。あくまで彼は人形、つるりとした人肌とは違う体だが少し気恥ずかしくなった。ミコトは俯きがちに掌にシャンプーを取り泡立てた。ふわふわの泡をヒイラギの髪全体に撫で付け、丁寧に洗っていく。頭皮の部分を指の腹でぐにぐにと揉みながら洗う際、
「痒いところはありませんか?」
なんてふざけて聞いてみた。バスチェアに座るヒイラギの真正面には鏡、そこに映り込んだヒイラギは無表情で首を傾げていた。やっぱり痒みという概念はないらしい。ミコトはふふ、と笑った。
「ああ、ごめんごめん。意味がわからないわよね。変なところない?洗い残してる感じとか」
ヒイラギはううん、とでも言いたげに首を振る。もこもこと白い泡に包まれた無表情のヒイラギは冷たい雰囲気が薄れ、少し間の抜けた可愛さを纏っている。髪を洗わなければ見ることのできない光景だ、たまにはこういう彼を見るのも楽しいかもしれない。あまりの長さに洗うのは骨が折れるが。彼が入浴に時間をかけるのも納得だ。
泡をしっかり洗い流し、コンディショナーを髪に染み込ませて湯を流す。水を吸って重くなった青い髪はいつも以上に真っ直ぐ垂れ下がり、上品な光沢のあるビロードのよう。惚れ惚れと眺めてしまった。
「うん、できました。どう、綺麗になったかしら」
鏡の中のヒイラギが小さく頷く。口元を少し緩ませ、微笑んでくれる。
「よかったわ。じゃあゆっくりお風呂に入ってね」
ミコトはヒイラギの頭を撫で、浴室を出た。せっかく風呂に入ったのに汗をかいてしまったが、可愛らしいヒイラギの姿を見られたから釣りが出る。ミコトは再度ソファーに座り、今度こそ本を読み始めた。
数十分後、ヒイラギが浴室から出てきた。髪の乾燥も終わらせ、入浴前と変わりない姿で帰ってくる。ただやはり洗いたての髪は格別で、眩いばかりの天使の輪が生まれていた。
「おかえり、ヒイラギ」
声をかけると、ヒイラギはミコトの隣に腰掛けた。青い髪が麗しい流れとなってソファーに色を落とす。ヒイラギの手がミコトの手を取り、自らの髪に触れさせる。さらりと指の間を零れ落ちる青い軌跡、まだ完全に乾き切っていない潤いとともに鮮やかに輝く。
「ふふ、ヒイラギが洗ったときと同じ仕上がりになってよかったわ。たまには私が洗うのもいいかもしれないわね?」
ヒイラギは口角をかすかに上げ、ミコトの手を髪に押し付けている。きっとこれは肯定の意なんだろうなあ、とミコトは微笑んだ。
夏が終わり秋が深まりつつある中、季節外れの肌寒さが襲ってきた。外出していたミコトは肩をすくめ、巻いているストールに顔を埋めた。厚めのストールを持っていてよかった、思っていたよりも風が冷たい。
「ただいまー」
吹き抜ける風に縮こまりながら、ミコトは自宅に戻った。玄関からリビングダイニングに向かうと、いつもどおりヒイラギがソファーに座っている。彼は顔を上げミコトと目が合うと、ほんの少し首を傾げた。
「ただいま、ヒイラギ。留守番ありがとう」
そんな彼の頭に手を置き、ぽんぽんと軽く撫でるように触れた。今日もその髪は手触りがよく、ミコトに安心感を与えてくれる。
ヒイラギは下ろした青い髪を手に取り、ミコトをまじまじと見つめながら首に髪を巻いた。ぐるぐると何度も首に巻いていく。ヒイラギの首元が青く染まり、厚めのマフラーかストールを巻いたような見た目に落ち着いた。ヒイラギは無表情だがどうにも納得がいかないのか、ミコトと自らの首元を交互に見つめていた。
「どうしたの、ヒイラギ。寒い?」
尋ねると、ヒイラギはミコトの巻いているストールを指差した。
「ああ、ストールの真似?首に髪を巻くのは危ないからやめた方がいいわ。髪も痛むでしょうし」
ミコトはヒイラギの隣に座り、彼の首元を彩る髪をほどき始めた。乱雑に巻き付けたせいで妙に絡まりほどきづらい。いくら手入れの行き届いたヒイラギの髪でも首に巻くなどという事態には対応していないらしく、珍しくぼさぼさになっていた。
「ストール、巻いてみたい?」
ヒイラギの視線を感じる。手櫛で青い髪を整えながら尋ねるミコトに、ヒイラギは頷いて答えた。ミコトは身につけていたストールをヒイラギの首にかけると、うーん、と考え込んだ。
「色んな巻き方があるのよ。どういうのがいいかしら?選んでみて」
スマートフォンで検索すると男性向けの巻き方が何種類か出てくる。彼に画面を見せると、ワンループ巻きを指差した。意外だ。表示された巻き方の中では可愛らしく見えるやり方で、美麗だが意外と男性的な体付きをしている彼に果たして似合うかどうか。ものは試しだ、やってみるべし。ミコトはストールを二つ折りにし彼の首にかけ、輪の部分に反対側の端を通し結んだ。首元に大きな結び目ができる、ワンループ巻きの完成だ。
「できたわ。可愛いわね、ヒイラギ」
ミコトが巻いていたストールはくすんだピンクベージュ、青と黒を基調としたヒイラギには縁のない色だ。首元にピンクベージュの彩りが咲く。彼の美しさの中にある冷たさがいくぶん和らぎ、ふわりと柔らかな印象を与える。ヒイラギは首元のストールを興味深げに触りながら、そわそわと落ち着きなく視線を動かしていた。
「あ、そうか。どんな風になってるか気になるわよね。こんな感じよ」
手鏡をヒイラギに手渡した。ヒイラギは小さな手鏡を覗き込み、ストールを触り結び目の形を整えていた。その仕草は新しい服を初めて着た少女のようで、また新たな可愛らしさを醸し出している。
「ストール、気に入った?もしストールが欲しいなら、今度一緒に探しに行く?」
彼はミコトの言葉に顔を上げ数秒硬直した後、ふるふると否定した。肩をすくめてストールに顔を埋め、結び目を大事そうに持ち上げて頬を擦り付けている。
「あ、そのストールがいいの?そっか、じゃあヒイラギにあげるわ」
自然と零したミコトを、ヒイラギは上目遣いでじっと見つめていた。目は口ほどに物を言っている。「本当にいいの?」と。
「ストールはいくらでもあるもの、また買えばいいわ。そのストールじゃないと嫌でしょ?」
こくこくと小刻みに頷くヒイラギの頭を撫でた。彼はよほど気に入ったらしく、ストールの感触を楽しむように撫で、口元をストールで隠している。気に入ったタオルや布団を離そうとしない子供のようだ。彼がこれほど執着するのは珍しく、微笑ましかった。
「ヒイラギとショッピングとか、行ってみたいわね。ヒイラギ、外にはたくさんお店があるのよ。ストールもたくさんあるし、他にもお気に入りが見つかるかもしれないわ。今度出かけましょう。ね?」
彼と一緒に過ごしていると、一人暮らしの生活では生まれ得ない経験を楽しめる。彼を迎え入れて本当によかった。首肯する彼を見ながら、どこに行こうかしら、今週末の天気はどうだったかしら、とミコトは思案した。