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シルバームーンドール・エモ
「はぁ〜……」
ミコトは頭をかきながら喧騒の街を歩いていた。最近仕事が上手くいかない。今日は息抜きと称して喜び勇んで外出したはずなのに、仕事の悩みがぐるぐる頭を回り続けている。こういう考えが更なる停滞を生むとはわかっていても思考は無意識、巡り続ける不要な黒い渦が纏わりついてくる。
歩き続けるのも疲れた。かといって休憩できそうなカフェ等も見つからず、人波に逆らいミコトは立ち止まった。立ち並ぶ店舗と店舗の隙間の壁にもたれかかり、息をついた。
「……ん?」
ミコトの前を行き交う無数の人の群れ、その向こうにショーウインドウがあった。人混みに紛れて中身があまり見えないショーウインドウの中、綺麗な人形の頭から肩のあたりが見えた。マネキンとは違う精巧で繊細な人形の顔貌、ミコトの目を惹きつけて離さなかった。ミコトは吸い寄せられるように人波をかき分けて進み、ショーウインドウの真ん前に立った。
すらりと背が高い、青年を模した人形だった。長く青い髪、黒と青を基調とした服に覆われた美しい流線の体躯。その隣には椅子に座った少女の人形もありそちらも可憐で可愛らしかったが、ミコトの視線は青年のみに注がれていた。飾っているのだから売り物のはずだ、入り口はどこだろう。ショーウインドウの隣の細い空間に階段があった。階段の壁には「二階 プランツ・ドールショップ」と書かれている。プランツ・ドール、聞き覚えがある。とんでもない値段だとか、ミルクと砂糖菓子を与えるだけでいいとか噂だけは知っているが、実物を目にするのは初めてだった。俄然興味が湧いた。薄暗く不気味な階段ではあったが、ミコトは迷いなく階段を上った。古めかしい雰囲気が漂う扉に辿り着く。ドアノブは人形のように冷たかった。
「いらっしゃいませ」
扉の先は、アンティークな調度品と美しい人形が出迎える別世界だった。大きな時計が時を刻む音が耳を打つ、静謐な空間。店員の落ち着いた声にミコトは我に返った。
「あ、えっと……プランツ・ドールのお店って書いてあったんですけど」
「ええ、そうです。当店はプランツ・ドールの専門店でございます。多種多様な人形を揃えております。どうぞご覧になってください」
「は、はい。ありがとうございます」
店員の上品な笑顔に背を押され、ミコトは店内を歩き始めた。どこを見ても美しい人形が静かに座している。おとぎ話のお姫様のようなドレスを着た少女の人形が多いが、ところどころ少年の人形も見受けられた。さっきの……あの綺麗な青年はいないのだろうか。
「あっ」
見つけた。あの青い青年と似ている人形だ。多くの人形が飾られた店の中、彼は輝くように目立っていた。ショーウインドウの青年とは違い、今ここにいる彼は眩い白銀の短髪、黒いマスクで顔の下半分を隠している。黒に紫の差し色が入った服が彼の長い手足を彩る。あの青い彼とは少し違う、神秘的で尖った美しさを持つ白銀の人形にミコトは見惚れた。白銀の彼は金色の縁取りがされた臙脂色の椅子に座っており、目を閉じじっと黙しているその姿は高貴な王子のように見える。
「お客様、そちらの人形が気になりますか?」
音もなく隣に立ち声をかけてきた店員に、びくりと体がすくんだ。一連の間抜けな動作をつぶさに見られたと思うと顔が赤くなる。気を取り直し、店員に答えた。
「はい。とても綺麗ですね」
「そうでしょう。最高峰の腕を持つ職人が創り出した傑作です」
「この子、買いたいんですけど」
「申し訳ございません、お客様」
店員は丁寧に頭を下げ、苦笑いを浮かべていた。
「お客様がプランツ・ドールを選ぶのではございません。プランツ・ドールがお客様を選ぶのです。お客様はまだ彼に『選ばれて』いません」
「選ばれる……?」
もう一度白銀の人形を見下ろした。彼は微動だにせず両の目を閉ざしている。何の反応もない、見ようによっては拒絶されているとも言えるだろう。
「人形がお客様を選んだ場合、必ず何らかの反応を示します。まだ彼の心はお客様に向いていないようです。それとこれは大変申し上げにくいのですが、こちらの人形は気難しくてですね……」
店員は顎に手を当て、ふう、とため息をついた。
「彼はこのとおり美しいものですから、お客様のみならず多数の方の目に留まりました。彼に何度も贈り物を試みたお客様もおりましたが、彼が持ち主を選ぶことはありませんでした。彼に選ばれるのは難しいのではないかと」
「そうなんですか……」
苦笑する店員の言葉が耳を通り抜けていく。ミコトの視線は白銀の人形に縫い付けられている。今日彼を迎え入れることはできないらしい、ということだけ理解した。もしも彼を手に入れることができなくとも、こうして足を運んで見に来るだけでもよいのではないか。そんな風に思いつつも、
「ところで、プランツ・ドールっておいくらなんですか?」
「そうですね、お客様が気になっている彼であれば、概ねこんなところです」
尋ねると店員がメモを差し出してきた。無造作に書かれた数字は、想像していたより桁が多かった。一気に現実に引き戻された。彼に選ばれる選ばれない以前に高すぎる。……頑張って働こう。ミコトは人形を横目に見ながら決意した。
「いらっしゃいませ。お客様、また来られましたね」
白銀の人形に魅了されてから数ヶ月。ミコトは幾度となく彼が佇む店を訪れていた。店員にもすっかり覚えられ、顔馴染みになってしまった。
「はい。すみません、何度も」
「諦めないですね、お客様も。この間に他の人形に選ばれなかったのは運がいいですけれども」
「あはは、私モテませんからねぇ」
軽口を叩きながら、今日も定位置に向かう。白銀の彼が座るあの空間へ。彼以外にも魅力的な人形が種々いるものの、ミコトは常に彼に一直線で、他には見向きもしなかった。
仕事は相変わらず上手くいかない。だからここに来ている。それは間違いないが、それだけではないとも確信していた。白色灯に照らされた白銀の髪は相変わらず美しく、気品ある佇まいにため息をついた。
「やっぱり、何回も来るだけじゃ足りないですかね」
「さあ、何とも言えませんね。人形たちは気まぐれですから」
「そうですか……」
やはり今日も彼の心は動かないか。そう諦めて帰ろうとしたとき、白銀の彼が目を開いた。丸く輝く黄金の瞳がミコトを見つめる。繊細な睫毛に縁取られた金色の瞳は蠱惑的で、ミコトの胸を深く鋭く貫いた。夜空にきらめく月に似た澄んだ輝き、この世にあるいかなる宝石よりも美しい。
「おめでとうございます。お客様は選ばれました。まさか彼が持ち主を選ぶとは」
「あ、ありがとうございます……」
店員の声は聞いてはいたが、ようやく開いたその双眸に視線が持っていかれ、ミコトは一瞥もしなかった。
普段なら一人で帰るマンション、白銀の人形を伴って帰路に着く。目を開くまで身じろぎもしなかった彼は、ミコトの少し後ろを無言でついてきた。
「プランツ・ドールは話すことはできませんが、歩いたり着替えたりミルクを飲むといった、必要な動作は躾けておりますから問題なくできます。ご心配なく」
と店員から説明を受けたがそのとおりだった。自分より背の高い青年に見える精巧な人形と歩いている、妙な気分だった。
いつもどおり部屋に入り、大人しくついてきた彼をどこに落ち着かせるべきか迷った。ここはごく一般的な2LDKの部屋で、しがない女性の一人暮らし。ドールショップにあったアンティークな調度品なんてあるわけがない。仕事部屋にいてもらうのもどうかと思うし、とりあえずリビングダイニングのソファーが適当か。彼をソファーに案内するとすとん、と彼は行儀良く座った。白銀の髪に黒いマスク、黒っぽい服の彼がソファーに腰掛けている。生活感しかない一人暮らしの空間では完全に浮いてしまうが、その違和感を上塗りする彼の夢幻のような美しさにため息をついた。
「えーっと……」
ミコトは彼の隣に座り、店員からもらった冊子に目を通した。プランツ・ドールの主食は専用のミルク、一日三回温めて与えること。週に一回程度砂糖菓子を与えると髪や肌の色艶がよくなる。着替えやマスクの取り替え、入浴、トイレ等は人形一人で行える。ひととおり読み終えると、店員の言葉が蘇った。
「こちらの人形には特に名前はございません。お客様が自由に名を決めてください」
「名前かあ……」
ミコトはじっと人形を見つめた。人形はただ静かに佇み、ミコトを見定めるような無機質な視線を向けている。限りなく人間に近い見た目の繊細な人形、名前がないのは不自然だ。しばらく悩んだミコトの頭に閃いた。
「ヒイラギ。ねえ、ヒイラギって名前はどう?」
尋ねると、彼は小さく頷いた。どうやら気に入ってもらえたようだ。
「あなたは今日からヒイラギね。あ、私はミコトっていうの。よろしくね、ヒイラギ」
白銀の人形――ヒイラギは少しだけ首を傾げた。白い月に似た輝く髪が微かに揺れ、ミコトはあまりの美しさに目を奪われた。やっぱり彼を迎えることができてよかった。こんな麗しい彼がいてくれれば、きっと仕事も頑張れるだろう。
「あ、もうこんな時間」
ふと時計を見ると昼時、腹が減ってくる時間帯だ。ちょうどいい、ヒイラギ用のミルクも与えてみよう。ミコトは自らの昼食をテーブルに置き、温かいミルクを入れたマグカップをヒイラギに手渡した。マグカップを受け取ったヒイラギは、じっとミコトを上目で見つめている。幻想的な美しさの彼が庶民的にも程があるシンプルなマグカップを両手で持っている姿は、非現実と子供っぽさが混じり可愛らしかった。見ていて飽きないなあ、と思いつつミコトはテーブルに座り昼食を摂る。在宅仕事で孤独な生活を送っていたところにヒイラギがやって来た。彼は話し相手になってくれる存在ではないものの、誰かがいてくれるだけで人恋しさはかなり薄れる。
ミコトは食事を終えヒイラギのいるソファーに座って様子を見るが、ヒイラギはマグカップを持ったままの姿勢で動かなかった。マグカップの中身は減っていないように見える。
「あれ、お腹空いてなかった?」
ヒイラギが少しだけ頷いたように思えた。プランツ・ドールの食事の時間帯は人間とは異なるのかもしれない。しまった、確認すべきだった。ミコトはマグカップを受け取りどうしたものかと思案した。マグカップからはほんのりいい匂いが漂う。もったいない、飲んでしまおうか。ぐっと一気飲みしたミルクはとろける舌触りと柔らかな甘みで美味しかった。プランツ・ドール用のミルクは人間が飲んでもよいもので、人間にとっても栄養豊富らしいから、もしヒイラギが飲まなくとも無駄にならないのはありがたい。……ただこんなことをずっとしていたら太りそうだ。
「ごめんね、ヒイラギ。今度はちゃんと確認してから作るね」
謝るミコトを澄んだ金色の瞳が眺めていた。
「何でミルクを飲まないのかなぁ……?」
ヒイラギを家に迎え入れてから三日。ヒイラギは温めたミルクを今まで一度も口にしなかった。今日もソファーに座る彼にマグカップを手渡したが、折り目正しく両手でマグカップを持つものの飲もうとしない。さすがに三日間何も口にしないのはおかしい。ここに来た当初はさらさら艶々と輝いていた彼の髪から潤いが失われつつある。与える時間をずらしてみたり、器が気に入らないと飲まないこともあるらしくカップを変えてみたりとしてみたが、彼はただミコトを見つめるだけで、相変わらず手をつけてくれなかった。プランツ・ドールである彼は理由を話す声帯を持たず、ミコトをきらめく金色の瞳で見つめるだけだ。このままだと彼は「枯れて」しまう。
今日もミルクを与えたが彼はマグカップを持つばかり、口をつけない。焦るミコトの耳に派手な着信音が届いた。仕事部屋に置いたスマートフォンが鳴っている。慌てて仕事部屋に向かい、スマートフォンを手に取った。取引中の相手からの電話だ。出ないわけにはいかない。
「はい、月森です」
仕事対応に手早く切り替えて淡々と会話する。用件を確認し必要な対応をしていると、二十分ほど経過していた。無事電話を切る。ふう、と息をつきリビングダイニングへ向かう。また彼が飲まなかったミルクを片付けなきゃなあ、と少し憂鬱に思いながら。
「……あ」
ソファーに座ったヒイラギが、マスクを顎までずらしゆっくりとミルクを口にしていた。両手でマグカップを持ち大切そうに少しずつ飲む様子は、麗しい青年の姿形とは裏腹に可愛らしい。
「よかった、飲んでくれてる!」
声を上げてソファーに駆け寄ると、ミコトに気付いたヒイラギは素早くマスクを元の位置に戻し、マグカップを口から離した。また聞き分けのいい子供のようにミコトを見つめる人形に戻ってしまう。
「あれ、何で飲むのやめちゃうの?もうお腹いっぱい?」
彼の隣に腰掛けマグカップに目を落とした。半分くらいしか減っていない。三日間ミルクを飲んでいないのだから、おかわりを要求されてもおかしくないのに。ヒイラギを覗き込むと、彼は静かに首を横に振った。量が多いわけではないらしい。
「もしかしてご飯食べてるところ、見られたくないとか?」
ミコトが別の部屋に行った途端ミルクを飲んだ。思い返せばミルクを与えるとき、常にミコトはリビングダイニングにいた。ここ数回はちゃんと飲んでくれるか心配で、ソファーに座る彼をまじまじと観察してしまう始末だった。尋ねたミコトに、ヒイラギはゆっくり頷いた。
「そうなの……ごめんね。じゃあ仕事部屋に行ってるから、ゆっくり飲んでね?そうだ、量はそれで足りる?」
ヒイラギはふるふると首を横に振りながらマグカップを差し出してきた。黒いマスクと白銀の前髪のはざまで揺れる金色の瞳は無機質だが、ねだっているように見えた。ミコトはふふ、と笑った。
「足りないのね。わかった、温めてくるからちょっと待っててくれる?」
よかった。やっと彼が食事をしてくれそうだ。気難しいと店員は言っていたが、繊細という方が正しいだろう。彼にとっては久しぶりの食事だ、ゆっくり味わってくれたらいいな、とミコトは微笑んだ。
ヒイラギがミルクを飲まない原因がわかってから四日。ミコトがリビングダイニングにいなければヒイラギはミルクを飲み、砂糖菓子も口にするようになった。かさついた髪も元の白銀の美しさを取り戻していた。
「あ、飲んだ?」
仕事部屋から戻ったミコトがヒイラギに声をかけると、彼はそっと空のマグカップを手渡してくる。ミコトはソファーに座り、
「うん、よかった。全部飲んでくれたね。よしよし」
ヒイラギの頭を優しく撫でた。彼の金色の双眸がくすぐったそうにほんの少しだけ細くなる。黒いマスクに覆われ口元が見えずとも、微細な表情の変化がわかるようになってきた。当初はその幻想的な見た目からクールな性格なのかと思っていたが、いい意味で裏切られている。
大人しく撫でられていたヒイラギが手を伸ばした。ミコトの頭に手を置き、ぎこちなく手を動かした。ミコトの撫でる動作を真似ているのだろうか。人形の掌に熱などないはずだが、ほんのりとぬくもりを感じた。
「ありがとう、ヒイラギ。撫でてくれるのね。嬉しい」
頭を撫でられるなどいつぶりだろうか。在宅仕事で人との接触に乏しい生活の中、優しい潤いで満たされる。
「あ、そうだ。ヒイラギ、マスクを取り替えないと」
口元は食事をする部位、そこを覆っているマスクは時折替えてやる必要がある。彼が身につけているのと同じ黒いマスクを取り出した。彼のマスクを外そうと耳と首の境目に触れると、ヒイラギは思いきり顔を背け後ろに身を引いた。ヒイラギはミコトの手を掴み、そっとソファーに下ろす。驚いたミコトにヒイラギは大きく首を横に振った。ここまで拒絶の意を示されることも珍しい。
「マスクを替えるの嫌なの?」
彼はミコトを見つめ、静かに否定した。ミコトは思考を巡らせた。そういえば初めてヒイラギがミルクを飲んだとき、マスクを外したところをミコトに見られ、慌てて隠していた。もしや。
「マスクを外したところ、見られたくない?」
こくりとヒイラギは首肯した。澄んだガラス玉のような瞳がじっとミコトに訴えかけてくる。ようやく合点がいき、ミコトは笑った。
「そっか、そういうことだったのね。教えてくれてありがとう。じゃあ私向こうに行ってるね」
立ち上がり仕事部屋に向かうミコトの背中を、ヒイラギの視線が追いかけてくる。正直、マスクの下に興味がないわけではない。むしろ見たい。あれだけ美しい瞳と輪郭なのだから、きっと素顔も麗しいに違いない。だが彼があんなに強く拒否するのだから、その意思は尊重するべきだろう。一抹の寂しさを覚えながら、ミコトは仕事部屋のドアを開けた。
「ふう……」
ヒイラギも立ち入らない仕事部屋、ミコトは椅子に座ったまま大きく伸びをした。
ヒイラギを迎え入れてから数ヶ月が経過した。彼との生活は日常となり、彼はミコトが与えたミルクと砂糖菓子で目を見張る輝きを放ち続けている。相変わらず彼のマスクの下を見たことがないが、もうそれは仕方がないと諦めていた。できたらヒイラギと一緒に食事をできたらいいなあ、なんて思うが難しそうだ。
仕事をしながら食べられるように、とパソコンのそばに置いていたサンドイッチはほぼ手付かずだった。停滞期を抜け、仕事が再び軌道に乗ってきた。仕事の依頼が増えてきたことは単純にありがたいが、そろそろ調整しないと厳しくなってきそうだ。没頭しすぎるのもよくないなあとサンドイッチを手に取った。一口齧る。水分が失われぱさついでいるが、うん、まあそれなりに美味しい。
「あ、もうこんな時間!?」
ぼんやりスマートフォンの画面を見て我に返った。キッチンに向かい、ヒイラギ用のミルクを温めた。マグカップに注ぐとほわりと優しい香りが漂う。そういえば最初の頃はヒイラギが飲まなかった分を飲んでたなあ、と懐かしくなった。
「はい、ヒイラギ」
今日もソファーに座っているヒイラギにマグカップを手渡す。彼は大きな金色の瞳でミコトの動きを追い、そっとマグカップを受け取った。いつもどおり両手で大切そうに持つ姿が可愛らしい。
「それじゃ、私また戻るね。ゆっくり飲んでね」
これまたいつもどおり仕事部屋に引っ込む。ミコトはドアを閉め、ふうと息をついた。椅子にもたれかかるように座り、残りのサンドイッチを食べ始めた。少し休憩してまた仕事するか、とメールチェックをしながら考えた瞬間、きいい、と軋むような音とともにドアが開いた。
「……ヒイラギ?」
マグカップを持ったヒイラギが立っていた。彼は忙しなく金色の双眸を動かし、室内を見回している。
「どうしたの?あ、おかわりほしい?」
ヒイラギの白銀の髪が否定の所作とともに揺れた。ふと目を落としたマグカップにはたっぷりのミルク、ほとんど量が減っていないようだ。いつもどおり温めたはずなのに、どうしたのだろうか。
「もしかして期限切れのミルク使っちゃったかな……」
ミコトの独り言にも、ヒイラギは律儀に首を振る。ミコトは困り果てた。彼が一体何を求めているのかわからない。困惑するミコトをよそに、ヒイラギは部屋の壁際にちょこんと正座した。彼の手がミコトの袖口を掴み、くいくいと引っ張ってくる。座れということだろうか。ひとまず彼の真正面に座った。互いに正座してじっと見つめ合っていたが、ヒイラギが机を指差した。
「?机がどうかした?」
ミコトの問いにヒイラギは首を振り、静かに立ち上がった。食べかけのサンドイッチを乗せた皿を取り、ミコトに差し出した。
「?あ、ありがとう」
反射的に礼を言った瞬間、ヒイラギは再びミコトの正面に座り、金色の瞳を優しく細めた。笑っている……ように見える。彼は黒いマスクを顎まで下ろした。今まで見ることのなかった目から下が露わになる。すっと通った鼻筋、整った薄い唇。桜色の潤いのある唇がマグカップからミルクを口に含む。飲み物を飲む日常動作なのに美しく優雅、思わず見惚れてしまった。こくん、とミルクを飲んだヒイラギはマグカップから唇を離し、小首を傾げた。白銀の髪がさらりと雪のように流れて揺れる。子供に似たいとけなさと元来の麗しさが混ざり合い、心を奪われる光景になる。
「ヒイラギ、一緒にご飯食べてくれるの?」
尋ねた声に返ってきたのは、口元を綻ばせた笑顔だった。マスクを取り払った彼はミステリアスな神秘性を失う代わりに、上品で可憐な笑みを見せてくれた。
サンドイッチを一口食べる。一人で食べると味気ない乾燥したサンドイッチも、ヒイラギと一緒に食べると美味しい。黙々と食べていると、ヒイラギがぴたりと動きを止めてこちらを見ていた。
「ヒイラギ?」
何だろう。そう思った瞬間、ヒイラギの指がミコトの目尻に浮かんだ涙を拭っていた。驚いてミコトが目元に触れると、しっとり濡れている。サンドイッチを食べて突然泣き出すなど、さぞ理解に苦しむだろう。ミルクを飲むのをやめて固まっているヒイラギにミコトは笑いかけた。
「ごめんね、急に。悲しいとかじゃないの。ヒイラギと一緒にご飯を食べられて嬉しいの。ありがとう、心配してくれて」
白雪の髪に手を置き、そっと撫でてやる。しばらくすると強張っていたヒイラギの表情が柔らかく溶け、ほんのりと笑みを浮かべた。安心した様子の彼は再度ミルクをちびちびと飲み始める。
「ねえ、ミルク冷めてない?温めてこようか?」
立ち上がろうとしたミコトの手首をヒイラギは柔く掴んだ。彼は大きく首を横に振る。ミコトは彼の意図を汲み、再び向かい合って座った。仕事部屋の冷たいフローリング、今だけはあたたかく感じる。次の食事はヒイラギとともに、ソファーかテーブルでゆっくり楽しみたい。きっと冷めているだろうミルクを飲むヒイラギを、ミコトは微笑み見守った。
「はぁ〜……」
ミコトは頭をかきながら喧騒の街を歩いていた。最近仕事が上手くいかない。今日は息抜きと称して喜び勇んで外出したはずなのに、仕事の悩みがぐるぐる頭を回り続けている。こういう考えが更なる停滞を生むとはわかっていても思考は無意識、巡り続ける不要な黒い渦が纏わりついてくる。
歩き続けるのも疲れた。かといって休憩できそうなカフェ等も見つからず、人波に逆らいミコトは立ち止まった。立ち並ぶ店舗と店舗の隙間の壁にもたれかかり、息をついた。
「……ん?」
ミコトの前を行き交う無数の人の群れ、その向こうにショーウインドウがあった。人混みに紛れて中身があまり見えないショーウインドウの中、綺麗な人形の頭から肩のあたりが見えた。マネキンとは違う精巧で繊細な人形の顔貌、ミコトの目を惹きつけて離さなかった。ミコトは吸い寄せられるように人波をかき分けて進み、ショーウインドウの真ん前に立った。
すらりと背が高い、青年を模した人形だった。長く青い髪、黒と青を基調とした服に覆われた美しい流線の体躯。その隣には椅子に座った少女の人形もありそちらも可憐で可愛らしかったが、ミコトの視線は青年のみに注がれていた。飾っているのだから売り物のはずだ、入り口はどこだろう。ショーウインドウの隣の細い空間に階段があった。階段の壁には「二階 プランツ・ドールショップ」と書かれている。プランツ・ドール、聞き覚えがある。とんでもない値段だとか、ミルクと砂糖菓子を与えるだけでいいとか噂だけは知っているが、実物を目にするのは初めてだった。俄然興味が湧いた。薄暗く不気味な階段ではあったが、ミコトは迷いなく階段を上った。古めかしい雰囲気が漂う扉に辿り着く。ドアノブは人形のように冷たかった。
「いらっしゃいませ」
扉の先は、アンティークな調度品と美しい人形が出迎える別世界だった。大きな時計が時を刻む音が耳を打つ、静謐な空間。店員の落ち着いた声にミコトは我に返った。
「あ、えっと……プランツ・ドールのお店って書いてあったんですけど」
「ええ、そうです。当店はプランツ・ドールの専門店でございます。多種多様な人形を揃えております。どうぞご覧になってください」
「は、はい。ありがとうございます」
店員の上品な笑顔に背を押され、ミコトは店内を歩き始めた。どこを見ても美しい人形が静かに座している。おとぎ話のお姫様のようなドレスを着た少女の人形が多いが、ところどころ少年の人形も見受けられた。さっきの……あの綺麗な青年はいないのだろうか。
「あっ」
見つけた。あの青い青年と似ている人形だ。多くの人形が飾られた店の中、彼は輝くように目立っていた。ショーウインドウの青年とは違い、今ここにいる彼は眩い白銀の短髪、黒いマスクで顔の下半分を隠している。黒に紫の差し色が入った服が彼の長い手足を彩る。あの青い彼とは少し違う、神秘的で尖った美しさを持つ白銀の人形にミコトは見惚れた。白銀の彼は金色の縁取りがされた臙脂色の椅子に座っており、目を閉じじっと黙しているその姿は高貴な王子のように見える。
「お客様、そちらの人形が気になりますか?」
音もなく隣に立ち声をかけてきた店員に、びくりと体がすくんだ。一連の間抜けな動作をつぶさに見られたと思うと顔が赤くなる。気を取り直し、店員に答えた。
「はい。とても綺麗ですね」
「そうでしょう。最高峰の腕を持つ職人が創り出した傑作です」
「この子、買いたいんですけど」
「申し訳ございません、お客様」
店員は丁寧に頭を下げ、苦笑いを浮かべていた。
「お客様がプランツ・ドールを選ぶのではございません。プランツ・ドールがお客様を選ぶのです。お客様はまだ彼に『選ばれて』いません」
「選ばれる……?」
もう一度白銀の人形を見下ろした。彼は微動だにせず両の目を閉ざしている。何の反応もない、見ようによっては拒絶されているとも言えるだろう。
「人形がお客様を選んだ場合、必ず何らかの反応を示します。まだ彼の心はお客様に向いていないようです。それとこれは大変申し上げにくいのですが、こちらの人形は気難しくてですね……」
店員は顎に手を当て、ふう、とため息をついた。
「彼はこのとおり美しいものですから、お客様のみならず多数の方の目に留まりました。彼に何度も贈り物を試みたお客様もおりましたが、彼が持ち主を選ぶことはありませんでした。彼に選ばれるのは難しいのではないかと」
「そうなんですか……」
苦笑する店員の言葉が耳を通り抜けていく。ミコトの視線は白銀の人形に縫い付けられている。今日彼を迎え入れることはできないらしい、ということだけ理解した。もしも彼を手に入れることができなくとも、こうして足を運んで見に来るだけでもよいのではないか。そんな風に思いつつも、
「ところで、プランツ・ドールっておいくらなんですか?」
「そうですね、お客様が気になっている彼であれば、概ねこんなところです」
尋ねると店員がメモを差し出してきた。無造作に書かれた数字は、想像していたより桁が多かった。一気に現実に引き戻された。彼に選ばれる選ばれない以前に高すぎる。……頑張って働こう。ミコトは人形を横目に見ながら決意した。
「いらっしゃいませ。お客様、また来られましたね」
白銀の人形に魅了されてから数ヶ月。ミコトは幾度となく彼が佇む店を訪れていた。店員にもすっかり覚えられ、顔馴染みになってしまった。
「はい。すみません、何度も」
「諦めないですね、お客様も。この間に他の人形に選ばれなかったのは運がいいですけれども」
「あはは、私モテませんからねぇ」
軽口を叩きながら、今日も定位置に向かう。白銀の彼が座るあの空間へ。彼以外にも魅力的な人形が種々いるものの、ミコトは常に彼に一直線で、他には見向きもしなかった。
仕事は相変わらず上手くいかない。だからここに来ている。それは間違いないが、それだけではないとも確信していた。白色灯に照らされた白銀の髪は相変わらず美しく、気品ある佇まいにため息をついた。
「やっぱり、何回も来るだけじゃ足りないですかね」
「さあ、何とも言えませんね。人形たちは気まぐれですから」
「そうですか……」
やはり今日も彼の心は動かないか。そう諦めて帰ろうとしたとき、白銀の彼が目を開いた。丸く輝く黄金の瞳がミコトを見つめる。繊細な睫毛に縁取られた金色の瞳は蠱惑的で、ミコトの胸を深く鋭く貫いた。夜空にきらめく月に似た澄んだ輝き、この世にあるいかなる宝石よりも美しい。
「おめでとうございます。お客様は選ばれました。まさか彼が持ち主を選ぶとは」
「あ、ありがとうございます……」
店員の声は聞いてはいたが、ようやく開いたその双眸に視線が持っていかれ、ミコトは一瞥もしなかった。
普段なら一人で帰るマンション、白銀の人形を伴って帰路に着く。目を開くまで身じろぎもしなかった彼は、ミコトの少し後ろを無言でついてきた。
「プランツ・ドールは話すことはできませんが、歩いたり着替えたりミルクを飲むといった、必要な動作は躾けておりますから問題なくできます。ご心配なく」
と店員から説明を受けたがそのとおりだった。自分より背の高い青年に見える精巧な人形と歩いている、妙な気分だった。
いつもどおり部屋に入り、大人しくついてきた彼をどこに落ち着かせるべきか迷った。ここはごく一般的な2LDKの部屋で、しがない女性の一人暮らし。ドールショップにあったアンティークな調度品なんてあるわけがない。仕事部屋にいてもらうのもどうかと思うし、とりあえずリビングダイニングのソファーが適当か。彼をソファーに案内するとすとん、と彼は行儀良く座った。白銀の髪に黒いマスク、黒っぽい服の彼がソファーに腰掛けている。生活感しかない一人暮らしの空間では完全に浮いてしまうが、その違和感を上塗りする彼の夢幻のような美しさにため息をついた。
「えーっと……」
ミコトは彼の隣に座り、店員からもらった冊子に目を通した。プランツ・ドールの主食は専用のミルク、一日三回温めて与えること。週に一回程度砂糖菓子を与えると髪や肌の色艶がよくなる。着替えやマスクの取り替え、入浴、トイレ等は人形一人で行える。ひととおり読み終えると、店員の言葉が蘇った。
「こちらの人形には特に名前はございません。お客様が自由に名を決めてください」
「名前かあ……」
ミコトはじっと人形を見つめた。人形はただ静かに佇み、ミコトを見定めるような無機質な視線を向けている。限りなく人間に近い見た目の繊細な人形、名前がないのは不自然だ。しばらく悩んだミコトの頭に閃いた。
「ヒイラギ。ねえ、ヒイラギって名前はどう?」
尋ねると、彼は小さく頷いた。どうやら気に入ってもらえたようだ。
「あなたは今日からヒイラギね。あ、私はミコトっていうの。よろしくね、ヒイラギ」
白銀の人形――ヒイラギは少しだけ首を傾げた。白い月に似た輝く髪が微かに揺れ、ミコトはあまりの美しさに目を奪われた。やっぱり彼を迎えることができてよかった。こんな麗しい彼がいてくれれば、きっと仕事も頑張れるだろう。
「あ、もうこんな時間」
ふと時計を見ると昼時、腹が減ってくる時間帯だ。ちょうどいい、ヒイラギ用のミルクも与えてみよう。ミコトは自らの昼食をテーブルに置き、温かいミルクを入れたマグカップをヒイラギに手渡した。マグカップを受け取ったヒイラギは、じっとミコトを上目で見つめている。幻想的な美しさの彼が庶民的にも程があるシンプルなマグカップを両手で持っている姿は、非現実と子供っぽさが混じり可愛らしかった。見ていて飽きないなあ、と思いつつミコトはテーブルに座り昼食を摂る。在宅仕事で孤独な生活を送っていたところにヒイラギがやって来た。彼は話し相手になってくれる存在ではないものの、誰かがいてくれるだけで人恋しさはかなり薄れる。
ミコトは食事を終えヒイラギのいるソファーに座って様子を見るが、ヒイラギはマグカップを持ったままの姿勢で動かなかった。マグカップの中身は減っていないように見える。
「あれ、お腹空いてなかった?」
ヒイラギが少しだけ頷いたように思えた。プランツ・ドールの食事の時間帯は人間とは異なるのかもしれない。しまった、確認すべきだった。ミコトはマグカップを受け取りどうしたものかと思案した。マグカップからはほんのりいい匂いが漂う。もったいない、飲んでしまおうか。ぐっと一気飲みしたミルクはとろける舌触りと柔らかな甘みで美味しかった。プランツ・ドール用のミルクは人間が飲んでもよいもので、人間にとっても栄養豊富らしいから、もしヒイラギが飲まなくとも無駄にならないのはありがたい。……ただこんなことをずっとしていたら太りそうだ。
「ごめんね、ヒイラギ。今度はちゃんと確認してから作るね」
謝るミコトを澄んだ金色の瞳が眺めていた。
「何でミルクを飲まないのかなぁ……?」
ヒイラギを家に迎え入れてから三日。ヒイラギは温めたミルクを今まで一度も口にしなかった。今日もソファーに座る彼にマグカップを手渡したが、折り目正しく両手でマグカップを持つものの飲もうとしない。さすがに三日間何も口にしないのはおかしい。ここに来た当初はさらさら艶々と輝いていた彼の髪から潤いが失われつつある。与える時間をずらしてみたり、器が気に入らないと飲まないこともあるらしくカップを変えてみたりとしてみたが、彼はただミコトを見つめるだけで、相変わらず手をつけてくれなかった。プランツ・ドールである彼は理由を話す声帯を持たず、ミコトをきらめく金色の瞳で見つめるだけだ。このままだと彼は「枯れて」しまう。
今日もミルクを与えたが彼はマグカップを持つばかり、口をつけない。焦るミコトの耳に派手な着信音が届いた。仕事部屋に置いたスマートフォンが鳴っている。慌てて仕事部屋に向かい、スマートフォンを手に取った。取引中の相手からの電話だ。出ないわけにはいかない。
「はい、月森です」
仕事対応に手早く切り替えて淡々と会話する。用件を確認し必要な対応をしていると、二十分ほど経過していた。無事電話を切る。ふう、と息をつきリビングダイニングへ向かう。また彼が飲まなかったミルクを片付けなきゃなあ、と少し憂鬱に思いながら。
「……あ」
ソファーに座ったヒイラギが、マスクを顎までずらしゆっくりとミルクを口にしていた。両手でマグカップを持ち大切そうに少しずつ飲む様子は、麗しい青年の姿形とは裏腹に可愛らしい。
「よかった、飲んでくれてる!」
声を上げてソファーに駆け寄ると、ミコトに気付いたヒイラギは素早くマスクを元の位置に戻し、マグカップを口から離した。また聞き分けのいい子供のようにミコトを見つめる人形に戻ってしまう。
「あれ、何で飲むのやめちゃうの?もうお腹いっぱい?」
彼の隣に腰掛けマグカップに目を落とした。半分くらいしか減っていない。三日間ミルクを飲んでいないのだから、おかわりを要求されてもおかしくないのに。ヒイラギを覗き込むと、彼は静かに首を横に振った。量が多いわけではないらしい。
「もしかしてご飯食べてるところ、見られたくないとか?」
ミコトが別の部屋に行った途端ミルクを飲んだ。思い返せばミルクを与えるとき、常にミコトはリビングダイニングにいた。ここ数回はちゃんと飲んでくれるか心配で、ソファーに座る彼をまじまじと観察してしまう始末だった。尋ねたミコトに、ヒイラギはゆっくり頷いた。
「そうなの……ごめんね。じゃあ仕事部屋に行ってるから、ゆっくり飲んでね?そうだ、量はそれで足りる?」
ヒイラギはふるふると首を横に振りながらマグカップを差し出してきた。黒いマスクと白銀の前髪のはざまで揺れる金色の瞳は無機質だが、ねだっているように見えた。ミコトはふふ、と笑った。
「足りないのね。わかった、温めてくるからちょっと待っててくれる?」
よかった。やっと彼が食事をしてくれそうだ。気難しいと店員は言っていたが、繊細という方が正しいだろう。彼にとっては久しぶりの食事だ、ゆっくり味わってくれたらいいな、とミコトは微笑んだ。
ヒイラギがミルクを飲まない原因がわかってから四日。ミコトがリビングダイニングにいなければヒイラギはミルクを飲み、砂糖菓子も口にするようになった。かさついた髪も元の白銀の美しさを取り戻していた。
「あ、飲んだ?」
仕事部屋から戻ったミコトがヒイラギに声をかけると、彼はそっと空のマグカップを手渡してくる。ミコトはソファーに座り、
「うん、よかった。全部飲んでくれたね。よしよし」
ヒイラギの頭を優しく撫でた。彼の金色の双眸がくすぐったそうにほんの少しだけ細くなる。黒いマスクに覆われ口元が見えずとも、微細な表情の変化がわかるようになってきた。当初はその幻想的な見た目からクールな性格なのかと思っていたが、いい意味で裏切られている。
大人しく撫でられていたヒイラギが手を伸ばした。ミコトの頭に手を置き、ぎこちなく手を動かした。ミコトの撫でる動作を真似ているのだろうか。人形の掌に熱などないはずだが、ほんのりとぬくもりを感じた。
「ありがとう、ヒイラギ。撫でてくれるのね。嬉しい」
頭を撫でられるなどいつぶりだろうか。在宅仕事で人との接触に乏しい生活の中、優しい潤いで満たされる。
「あ、そうだ。ヒイラギ、マスクを取り替えないと」
口元は食事をする部位、そこを覆っているマスクは時折替えてやる必要がある。彼が身につけているのと同じ黒いマスクを取り出した。彼のマスクを外そうと耳と首の境目に触れると、ヒイラギは思いきり顔を背け後ろに身を引いた。ヒイラギはミコトの手を掴み、そっとソファーに下ろす。驚いたミコトにヒイラギは大きく首を横に振った。ここまで拒絶の意を示されることも珍しい。
「マスクを替えるの嫌なの?」
彼はミコトを見つめ、静かに否定した。ミコトは思考を巡らせた。そういえば初めてヒイラギがミルクを飲んだとき、マスクを外したところをミコトに見られ、慌てて隠していた。もしや。
「マスクを外したところ、見られたくない?」
こくりとヒイラギは首肯した。澄んだガラス玉のような瞳がじっとミコトに訴えかけてくる。ようやく合点がいき、ミコトは笑った。
「そっか、そういうことだったのね。教えてくれてありがとう。じゃあ私向こうに行ってるね」
立ち上がり仕事部屋に向かうミコトの背中を、ヒイラギの視線が追いかけてくる。正直、マスクの下に興味がないわけではない。むしろ見たい。あれだけ美しい瞳と輪郭なのだから、きっと素顔も麗しいに違いない。だが彼があんなに強く拒否するのだから、その意思は尊重するべきだろう。一抹の寂しさを覚えながら、ミコトは仕事部屋のドアを開けた。
「ふう……」
ヒイラギも立ち入らない仕事部屋、ミコトは椅子に座ったまま大きく伸びをした。
ヒイラギを迎え入れてから数ヶ月が経過した。彼との生活は日常となり、彼はミコトが与えたミルクと砂糖菓子で目を見張る輝きを放ち続けている。相変わらず彼のマスクの下を見たことがないが、もうそれは仕方がないと諦めていた。できたらヒイラギと一緒に食事をできたらいいなあ、なんて思うが難しそうだ。
仕事をしながら食べられるように、とパソコンのそばに置いていたサンドイッチはほぼ手付かずだった。停滞期を抜け、仕事が再び軌道に乗ってきた。仕事の依頼が増えてきたことは単純にありがたいが、そろそろ調整しないと厳しくなってきそうだ。没頭しすぎるのもよくないなあとサンドイッチを手に取った。一口齧る。水分が失われぱさついでいるが、うん、まあそれなりに美味しい。
「あ、もうこんな時間!?」
ぼんやりスマートフォンの画面を見て我に返った。キッチンに向かい、ヒイラギ用のミルクを温めた。マグカップに注ぐとほわりと優しい香りが漂う。そういえば最初の頃はヒイラギが飲まなかった分を飲んでたなあ、と懐かしくなった。
「はい、ヒイラギ」
今日もソファーに座っているヒイラギにマグカップを手渡す。彼は大きな金色の瞳でミコトの動きを追い、そっとマグカップを受け取った。いつもどおり両手で大切そうに持つ姿が可愛らしい。
「それじゃ、私また戻るね。ゆっくり飲んでね」
これまたいつもどおり仕事部屋に引っ込む。ミコトはドアを閉め、ふうと息をついた。椅子にもたれかかるように座り、残りのサンドイッチを食べ始めた。少し休憩してまた仕事するか、とメールチェックをしながら考えた瞬間、きいい、と軋むような音とともにドアが開いた。
「……ヒイラギ?」
マグカップを持ったヒイラギが立っていた。彼は忙しなく金色の双眸を動かし、室内を見回している。
「どうしたの?あ、おかわりほしい?」
ヒイラギの白銀の髪が否定の所作とともに揺れた。ふと目を落としたマグカップにはたっぷりのミルク、ほとんど量が減っていないようだ。いつもどおり温めたはずなのに、どうしたのだろうか。
「もしかして期限切れのミルク使っちゃったかな……」
ミコトの独り言にも、ヒイラギは律儀に首を振る。ミコトは困り果てた。彼が一体何を求めているのかわからない。困惑するミコトをよそに、ヒイラギは部屋の壁際にちょこんと正座した。彼の手がミコトの袖口を掴み、くいくいと引っ張ってくる。座れということだろうか。ひとまず彼の真正面に座った。互いに正座してじっと見つめ合っていたが、ヒイラギが机を指差した。
「?机がどうかした?」
ミコトの問いにヒイラギは首を振り、静かに立ち上がった。食べかけのサンドイッチを乗せた皿を取り、ミコトに差し出した。
「?あ、ありがとう」
反射的に礼を言った瞬間、ヒイラギは再びミコトの正面に座り、金色の瞳を優しく細めた。笑っている……ように見える。彼は黒いマスクを顎まで下ろした。今まで見ることのなかった目から下が露わになる。すっと通った鼻筋、整った薄い唇。桜色の潤いのある唇がマグカップからミルクを口に含む。飲み物を飲む日常動作なのに美しく優雅、思わず見惚れてしまった。こくん、とミルクを飲んだヒイラギはマグカップから唇を離し、小首を傾げた。白銀の髪がさらりと雪のように流れて揺れる。子供に似たいとけなさと元来の麗しさが混ざり合い、心を奪われる光景になる。
「ヒイラギ、一緒にご飯食べてくれるの?」
尋ねた声に返ってきたのは、口元を綻ばせた笑顔だった。マスクを取り払った彼はミステリアスな神秘性を失う代わりに、上品で可憐な笑みを見せてくれた。
サンドイッチを一口食べる。一人で食べると味気ない乾燥したサンドイッチも、ヒイラギと一緒に食べると美味しい。黙々と食べていると、ヒイラギがぴたりと動きを止めてこちらを見ていた。
「ヒイラギ?」
何だろう。そう思った瞬間、ヒイラギの指がミコトの目尻に浮かんだ涙を拭っていた。驚いてミコトが目元に触れると、しっとり濡れている。サンドイッチを食べて突然泣き出すなど、さぞ理解に苦しむだろう。ミルクを飲むのをやめて固まっているヒイラギにミコトは笑いかけた。
「ごめんね、急に。悲しいとかじゃないの。ヒイラギと一緒にご飯を食べられて嬉しいの。ありがとう、心配してくれて」
白雪の髪に手を置き、そっと撫でてやる。しばらくすると強張っていたヒイラギの表情が柔らかく溶け、ほんのりと笑みを浮かべた。安心した様子の彼は再度ミルクをちびちびと飲み始める。
「ねえ、ミルク冷めてない?温めてこようか?」
立ち上がろうとしたミコトの手首をヒイラギは柔く掴んだ。彼は大きく首を横に振る。ミコトは彼の意図を汲み、再び向かい合って座った。仕事部屋の冷たいフローリング、今だけはあたたかく感じる。次の食事はヒイラギとともに、ソファーかテーブルでゆっくり楽しみたい。きっと冷めているだろうミルクを飲むヒイラギを、ミコトは微笑み見守った。