全年齢向け
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
魔界のエイプリルフール
気持ちいい。ミコトは頭に心地よい硬さを感じて目を開けた。
「あ、ミコトさん。起きた?」
仰向けに寝ているミコトをヒイラギが見下ろしていた。青い髪がきらきらと陽光に輝いて美しい。
「え……?ヒイラギさん……あれ……?」
穏やかな笑顔のヒイラギに見下ろされている状況、体勢と感触から考えて彼に膝枕されている。思い出した。昨日仕事中にヒイラギにお持ち帰りされ、そのまま寝てしまった。ヒイラギは優しく頭を撫でてくれるが、その感触だけではミコトの内側に湧き上がる怒りを抑えることはできない。
「ヒイラギさん!クラブに帰してください!」
「え?どうして?僕と一緒にいてよ」
「だめです!」
ほぼ直角に身を起こし、ミコトはヒイラギに詰め寄った。彼は不思議そうな顔をしている。
「あなたのせいで仕事サボっちゃったんですよ!謝らないと!」
「……そっか、そんなに帰りたい?」
「当たり前です!」
何故か意気消沈したヒイラギに連れられ、ミコトは無事クラブに戻ってきた。見慣れた店の外観にヒイラギのことなど吹き飛び、ミコトは慌てて中に駆け込み、
「戻りました!すみません!」
声を張り上げた。店内ではジャアクフロスト、ディオニュソス、キャスト二人がのんびり掃除をしていた。ミコトの声に全員の視線が集まる。
「あら、ミコトちゃん。青い彼はもういいの?」
「てっきりナホビノのところに行ったと思ってたホー!」
「えぇ……?帰らないとか思われてました……?」
「かけおち、結構聞く話だよ」
ひょこ、と可愛く体を揺らしてアリスが囁く。彼女の幼い見た目と駆け落ちという言葉、どうにもミスマッチだ。
「ミコト、君もあのナホビノのことを好いていたのではないか?だから皆、彼のもとに留まるものだと考えていたよ」
「ディオニュソスさんまで……違います!あれは、ヒイラギさんが勝手にしたことで……!私、これからもここで働きますから!」
「わかったホー。今夜からまたよろしくホー、ミコト!」
ジャアクフロスト、もとい店長にぽんと肩を叩かれミコトは安心した。あまり心配されていなかったのは予想外だったが、まだここに居場所はあるようだから。
「百合川ヒイラギ、浮かない顔ね。『ミコトさん』のこと、そんなに気になるのかしら?」
ミコトを持ち帰り一時だけでも甘い時間を過ごした龍穴、互いに膝枕をした平らな岩の上。場所そのものはホワイトデーのときと変わりないだが、ミコトがいないと寂寥感を覚えてしまう。独り空白を噛み締めていたヒイラギに仲魔の一体、マナナンガルがやって来る。彼女はグロテスクな見た目をしているが、声や発する言葉は落ち着いた大人の女性そのもの。人間と悪魔の違いはあれど、ミコトと同じ女性であるならば、何か有益なことが聞けるかもしれない。
「まあね。僕、嫌われちゃったかもね」
「そうかもしれないわね。あなた、あまりに強引すぎるわ。積極的な男性は魅力的だけど、あくまで相手の意思を尊重した上での話よ」
マナナンガルの顔色の悪い美貌が不気味に笑う。口からはみ出た細長い舌がちろちろと蠢く。
「自分の非を理解して真摯に謝罪できる男性は貴重よ?」
「……そうかな」
ホワイトデーの夜から一週間程度経過している。魔王を倒した後も決して暇ではないはずなのだが、ここのところヒイラギは無為に時間を過ごしていた。創世?三つのカギ?そんなことどうでもいい。
「そうよ。少なくとも気まずくて何もできない男性よりはね」
「う……」
マナナンガルの舌がヒイラギの顎を挑発するように撫で、ヒイラギは自分の胸に巣くうもやもやとした霧を自覚した。そうだ、どうして尻込みしているのだろう。彼女はちゃんとクラブに戻り悪魔たちに謝ったはずだ、ミコトのせいではないのに。元凶のヒイラギが何もしないなど卑怯ではないか。
「マナナンガル」
「何かしら?」
「今夜ミコトさんに会いに行ってくるよ」
「わかったわ。うまくいくといいわね」
「ありがとう」
マナナンガルに笑みを返し、ヒイラギは夜を迎える。夜までの暇つぶしに三つのカギの場所を下見していたら思ったより時間がかかった。開店時間を数時間過ぎてクラブに向かうと、店からミコトと悪魔が出てきた。
「デカラビアさん、今日もご指名いただきありがとうございました」
「うむ。またよき頃合いに来させてもらう」
「はい。お待ちしております」
オフホワイトのドレスを着たミコトがきらめく笑顔で悪魔――デカラビアを見送る。口ぶりからして初めての来店ではなさそうだ。そういえば彼女には常連が何人かいると聞いた、そのひとりがこいつか。そしてヒイラギには、このデカラビアに見覚えがあった。
「デカラビア」
ヒイラギはミコトがクラブに入っていったのを確認し、デカラビアの行く手を阻むように立ち塞がった。気分よくくるくると体を回転させていたデカラビアの動きがぴたりと止まり、硬直した。
「君、いいご身分だね?イシュタルのことを僕にチクってお金取って倒してもらって、お礼もなくクラブ通い?」
ヒイラギはデカラビアの星のように伸びた五本の足、そのうちの一本を掴みぎちぎちと力を込めた。それなりに硬いデカラビアの体に指の跡が残りそうだ。
「だ、だが吾輩の助言のおかげで…、痛い、離さんか!」
「なんで離さなきゃいけないの。腹立つな、こんな奴がミコトさんに会ってるなんてさ」
思えば、イシュタルの情報を聞くとき法外な――魔界に法があるか怪しいが――マッカを請求されたがもしやそういうことか。支払うべき相手を間違えたようだ。ヒイラギはぎりぎりと歯軋りした。せっかく会いに来たのに、冷静に彼女と話せる気がしない。頭を冷やさないと……と思っていたら、ぶちりと強烈な音が鼓膜に響いた。気付くと掴んでいたデカラビアの足を引きちぎっており、デカラビアは白目を剥いていた。あ、この足こんな簡単にちぎれちゃうんだ。あーあ。ヒイラギはデカラビアの足の一部をぽいと捨てた。
「白けちゃったな……さっさと帰りなよ」
「貴様、吾輩の足を傷つけて何を……!!」
「うるさいな、その足全部もいでやろうか。それもいいかもね。そうしたら」
ヒイラギはデカラビアの大きな眼の前で残虐に笑い、
「ミコトさんに会うどころじゃなくなっちゃうねえ?」
無傷の足を掴んだ。デカラビアの体が強張り、流れ星の如く空を駆け逃げていった。ヒイラギはそれを冷静に目で追いつつ、もう興味を失っていた。これであのクラブに嫌な記憶が残って行けなくなった、とかならないかなあ。
ヒイラギはクラブの入り口に目をやった。まだ開店しているはずだが、ヒイラギの心はざわついて落ち着かなかった。だめだ、出直そう。マナナンガルになんて言われるかな。ため息をつきながらも、ヒイラギの双眸には鋭い感情が宿っていた。まごついている場合ではないのだ、と今夜ようやく理解した。
ホワイトデーの夜からおよそ二週間が経過したが、その間ヒイラギはクラブに訪れることはなかった。ミコトの頭にぼんやり浮かぶ、青い髪と金色の目を持つ彼。ホワイトデーの翌日に膝枕をしてくれた彼は穏やかな顔をしていた。またあの瞳に見つめられたい……なんてちょっと考えてしまっている。
「……なんかみんな今日変じゃない?」
サキュバスとアリスは妙に楽しそうで浮ついている。今日何かあったっけ?四月一日……エイプリルフール。嘘をついてもいい日だが、クラブでイベントがあるわけでもなし、そんなに心躍るものではないと思う。
「ふふ、今日は色々と準備をしているのよ」
「うん。楽しみだよ」
「え?私、何にも聞いてないけど……今日何かあるの?」
「ええ、あるわ」
「うん、あるよ」
「なに?教えてよ」
サキュバスとアリスは顔を見合わせ、にんまりと笑った。意地の悪い笑顔だ。
「ミコトちゃんには内緒なの」
「おねえちゃん、たぶんびっくりするよ」
「ええ……?」
一体何なのだろう。この二人が教えてくれないなら、店長やディオニュソスも知っていたとしても教えてくれなさそうだ。ミコトだけに秘密にすること、思い当たる節がない。首を傾げつつも、
「いらっしゃいませ!」
店に客が入ると反射的に声が出る。駆け寄るミコトの目に飛び込んでくる、鮮烈な青い髪。ヒイラギだ。近付くにつれ胸が甘く高鳴る。
「こんばんは、ミコトさん。久しぶり」
「お久しぶりです。今夜は……」
「VIPルームにお願い」
一応尋ねると予想どおりの返答だった。彼を伴いVIPルームに向かい、ソファーに座った。普段どおりのシックで高級感のある佇まいが二人を出迎える。
「ミコトさん」
開口一番名前を呼ばれた。いつもの優しい声ではなくぴりと緊張感のある声で、ミコトの背筋が伸びた。
「ホワイトデーのときはごめん。ミコトさんの気持ちや立場を考えずに勝手なことをして」
ヒイラギは深く頭を下げた。彼の青い髪が肩から滑り落ち、顔が見えなくなる。つむじが見えるほどの謝罪にミコトの方が戸惑ってしまったが、その後に立つ漣は不穏なもの。彼の独断で仕事に穴を空けてしまった、その事実と湧き上がる黒々とした感情を思い出してしまった。
「……本当ですよ。あなたのせいで仕事、サボっちゃったんですから」
「うん。ごめん。本当に申し訳なかった」
「……ヒイラギさんなんて、嫌い」
ちょっとくらい反省してくれればいい。それくらいの軽い言葉に、首を垂れていた彼がハッと顔を上げた。その眼は大きく見開き、呆然とミコトを凝視している。
「……ミコトさん……僕のこと、嫌い?」
唇を尖らせていたミコトだったが、ヒイラギの声があまりにも弱々しいものに聞こえ慌てた。捨てられそうな青い子猫が見せる哀願、ミコトの胸に突き刺さる。
「あ……ええ、と、あの、ほら!今日エイプリルフールですから!嘘!嘘です!」
口をついて出たのは何とも都合のいい言い訳。今日が四月一日でよかった。
「……本当?さっきのは僕をからかったの?」
「そうです!ちょっと怒りはしましたけど、その……嫌いになったりはしてません!」
「そっか……ありがとう、ミコトさん」
ヒイラギは潤んだ瞳を細めて笑った。まなじりに浮かぶ雫は美しく、彼の麗しさを強調する。ヒイラギは優雅にミコトの手を取った。紳士の仕草は彼の美しさによく似合う。
「ミコトさん、今夜よかったら僕とデートしてほしい。店長さんにはもう話をしてて、ミコトさんが承諾すればいいよって許可を取ってる」
「デート……ですか?」
店外デートのことは聞いたことがある。仕事を離れ、キャストと客がプライベートな時間に文字どおりデートをすることだ。今はまだ勤務時間中だが、そんなことを店長が許すとは驚きだ。
「うん。魔界の空中散歩なんてどうかな?ミコトさんの安全は僕が守る。この前は無理矢理お持ち帰りしちゃったから、ちゃんとした手続きを踏みたいんだ」
ね?と手を取られたまま上目遣いで尋ねられ、ミコトは硬直した。彼の瞳はシャンデリアの輝きを反映し、星の煌めきを放つ。あまりに真摯な彼の言葉に心が揺らいだ。
「……一応、店長に確認してきてもいいですか?ヒイラギさんを信用してないわけじゃないですけど、念のため」
「うん、もちろん」
ミコトが店長のもとに駆け寄り事情を聞くと、
「ナホビノの言うとおりホ!店外デートの申し出があったから、ミコトがオッケーならいいって答えておいたホ!」
との答え。ミコトが知らない間に地味な根回しがあったようだ。
「それで、ミコトはどうするホ?」
「私は……店長が許可を出してるなら、デートしてもいいです」
ミコトの答えに、いつの間にか寄ってきていたキャスト二人が沸いた。振り向くと女性二人が興味津々といった顔でミコトを見つめている。
「待ってたわミコトちゃん、さあおめかしの時間よ」
「おでかけなんだから、いつものドレスじゃおかしいよ」
「え、え?ええ?」
キャスト二人にぐいぐいと背を押され、更衣室に押し込まれる。弾んだ声の二人が取り出したのは、何種類かの服。高級クラブにふさわしいドレスではなく、年頃の少女が身に纏いそうな私服だった。パステルカラーの可愛らしい服、スポーティな印象を与えるセット、やや落ち着いたエレガントな印象の服まで取り揃えられている。どれもおあつらえ向きにミコトが着れそうなサイズ感。
「さあ、どれがいいかしら?私はこういう落ち着いた感じがいいと思うけれど」
「おねえちゃんにはこっちの可愛い服が似合うよ」
「えっと……?」
完全についていけないミコトと、友達とショッピングに来たかのような明るい二人の声。二人が勧めてくる服を見ながら、サキュバスとアリスがミコトに秘密にしていた準備とはこれか、と合点がいった。
「ヒイラギさんと私のことなのに、なんで二人ともそんなに楽しそうなの?」
ミコトの言葉に、二人は一様にきょとんとした様子を見せた。どうして今更そんなことを言うのかと言わんばかりの顔だ。
「バレンタインのとき言ったでしょ?ミコトちゃんが青い彼とそういう仲になったら応援するって」
「うん。おにいちゃんとミコトおねえちゃん、お似合いだと思うよ?」
「お、お似合い……!?」
ヒイラギを思い出して顔に熱がこもった。彼は人間離れした綺麗な人で実際に人間ではないようだし、ただの女子高生のミコトと釣り合いが取れているとは到底思えない。二人が何をどう見てそう評価しているのか謎だが、二人は何ら疑問を抱いていないらしい。
しばしの討論の末、アリス推薦の可愛らしいミコトに落ち着いた。先ほどまで身に纏っていた仕事着であるオフホワイトのドレスとは違う、休日の女子高生といった佇まい。きっとディオニュソスが調達したのだろうが、一体どこから仕入れてくるのだろうか。
「ほら、いってらっしゃい。彼が待ってるわ」
背中を押され振り向くと、二人の悪魔が手を振っていた。ミコトも手を振り、店の外で待つヒイラギのもとに向かった。
「ヒイラギさん!店外デート、行きましょう」
「ほんと?よかった、ありがとう」
全身から溢れる喜びを隠しきれないヒイラギは、美麗な外見に似合わないほど可愛らしい。
「ドレスじゃないんだね」
「はい、デートだから着替えた方がいいって言われて」
「そうなんだ。その服も元気な感じでいいね、可愛いよ」
惜しみない賞賛を浴びて照れつつ、ふと気がつく。彼のそばに真紅の鳥が佇んでいる。孔雀に似た豪奢な羽を持つ鳥、青いヒイラギと対をなし美しい。彼は鳥の背中を撫で、
「じゃあ早速デートしよっか。スザクに乗って空中散歩と洒落こもう」
「空中散歩、ですか?」
「うん」
ヒイラギはひょいとスザクの背に乗り、手を差し出した。ミコトが躊躇いながらも手を取ると、ぐいと引かれて彼の前に座らされる。背中にぴったり彼が密着し、ほぼ後ろから抱きしめられている状態。ヒイラギの吐息が耳元を掠め一気に体温が上がった。ミコトの体が強張る。
「ミコトさん」
ヒイラギの右手が腹部を抱きしめ、左手が顎に触れ横向かされた。頭が真っ白のミコトの唇にヒイラギの唇が重なる。刹那に触れ合いもう一度口付けられ、ミコトは至近距離にある麗しい眼をじっと見つめた。
「落ち着いた?」
「は、はい……」
突然キスされても抱きしめられても全身をほんのり甘い熱が駆け抜けていくばかりで、胸の高鳴りが止まらない。
「僕がしっかり支えてるから、大丈夫。ミコトさんはもし余裕があったらスザクの羽を掴んでて……そうそう」
スザクの羽はふわふわした感触で、背に乗っても痛みや不快感はない。まさか悪魔の背に乗ることがあるなんて思いもしなかった。
「スザク、そろそろいいよ。行こう」
「了解ぢゃ」
華麗な見た目とは裏腹な渋い声とともに、スザクが羽を広げ飛び立つ。急激な風が生まれ、ミコトとヒイラギの髪をなびかせる。あっという間に崩れたビルを追い越す高さまで飛び上がり、クラブの位置もよくわからなくなる。
「ミコトさんはあんまり魔界を知らないんだよね?」
「はい、クラブのあたりしかわからないです。魔界ってそんなに広いんですか?」
「うん、元々東京だからね。その様子じゃ全然知らないみたいだね、色々見て回ろうか」
ヒイラギの言葉どおり、はるか高みから魔界の様々な場所を見て回った。コンテナや倉庫が立ち並ぶ景観、明るいが砂に覆われた茫漠とした平地、無機質な白っぽい道路が続くどこか神秘的な区画、魔界はミコトが思っていたよりも広く、多種多様な顔を有していた。いかにもな観光地があるわけでもないが、閉ざされた環境にいたミコトには新鮮だった。大きな鳥の背に乗って空を飛ぶなんてファンタジーも叶っており、頬を撫でる風が心地よかった。見下ろす魔界にはおそらく悪魔がいるはずだが、スザクはかなりの高度を飛んでおり、さすがに悪魔の手も及ばないらしく安全な空の旅だった。背中に伝わるヒイラギの体温や魔界について解説してくれる彼の涼やかな声にも安心する。
「ほら、見て。東京タワーだよ。魔界でも目立つね」
ヒイラギの指さす先を目で追うと、砂漠地帯の真ん中に赤い鉄塔が立ち、天を貫く。三百三十三メートルより高くスザクが飛び、もはや地上にあるものは点より小さい。ぐらりとミコトの頭が揺れた。さすがに高すぎる。高所恐怖症ではないが、外気に生身を晒した状態で見下ろして平気でいられる高さではない。
「大丈夫?」
ヒイラギの声が耳元で聞こえ、ぎゅっと抱きしめられた。ふと横を見ると彼がすぐ近くで覗き込んでいて、その距離の近さに赤面した。
「すみません、ちょっと酔っちゃったみたいです」
――色んな意味で。ミコトの脳内だけでこっそり付け加える。
「そっか、高く上がりすぎたかな。いったん地上に降りよう」
ゆっくり東京タワーの根元に降りると、ヒイラギが鋭い視線を周囲に向けていた。何か不穏な気配が漂っていることはミコトにも察せられた。
「ミコトさん、スザクと一緒に物陰に隠れていて。悪魔がいる。倒してくる」
そう言うとヒイラギは右手に青い刃を出現させ、閃光のように駆けた。思わず手を伸ばしたミコトを、スザクの羽が静止する。
「心配かもしれんが、主の言うとおりぢゃ。大人しく待つがよい」
「は、はい……」
一人と一羽は東京タワーの陰に身を潜め、青い風が悪魔を颯爽と倒していくのを眺めていた。ヒイラギが戦っている姿を初めて見た。ごく普通の人間のミコトには目で追えない部分も多いが、青い髪と青い刃が鋭い軌跡を残し、凛々しい彼の背中を彩る。
「我の体に寄りかかってよいぞ。我が主の認めたおなごぢゃ、遠慮はいらんよ」
「あ、ありがとうございます……」
感情が読み取れない無機質な目をしているスザクだが、渋い声ながらも柔らかさを感じさせる。赤い羽に覆われた体に寄りかかってみる。ふさふさの羽が少しくすぐったいが心地よかった。
「この前会った仲魔の方も私のことを知ってるみたいでした。ヒイラギさん、私のことをしゃべってるんですか?」
「ん?よく話しておるよ。お前さんに会ってからその話でもちきりぢゃ」
「あ、そうなんですか……」
どんな風にヒイラギが話しているのか何となく想像がついてミコトは照れくさくなった。
「我が主は骨のある男よ。お前さんさえよければ、我が主を支えてやってほしいがね」
「支える……私がですか?私、戦えないですよ?」
「お前さんに話を聞いてもらえるだけで嬉しいと言っておったぞ?何も戦うだけが支える手段ではあるまいて」
そういえば彼は話を聞いてくれるのは君だけ、と言っていた気がする。少なくともスザクを含めて三体仲魔がいるのに、誰も話を聞いてくれないなんてあるのだろうか。
そうこう言っているうちに、ヒイラギが戻ってきた。さっきまであんなに激しい戦闘を繰り広げていたにもかかわらず、汗ひとつかいていないし息も乱れていない。
「ただいま、片付けてきたよ。スザク、ちょっと外してくれるかな」
「了解ぢゃ。また我の翼が必要であれば呼んでくれ」
スザクが飛び去っていき、東京タワーの物陰にヒイラギとミコトふたりきりになる。ヒイラギは床に座り、ぽんぽんと膝を叩いた。
「酔っちゃったんでしょ?ちょっと横になりなよ」
「えっと……はい」
当然膝枕するよね?という視線で見つめられたら何も言えない。横になりたかったのは事実だし、遠慮なく彼の膝を借りることにする。頭を乗せごろんと寝転び、仰向けになった。数週間前にも味わった彼の太ももの感触。また頭を撫でられて、ミコトの体を心地いい眠気が包む。
「ごめんね、ちょっと無理させちゃったかな」
「いえ、いいです……休ませてくれてますし」
「今日はありがとう、デートしてくれて」
すっかりいつものヒイラギに戻っており、あの鬼神のような戦闘体勢の彼はいない。優しい掌と穏やかな笑顔でミコトを迎えてくれる。
「あの……ヒイラギさん」
「なに?」
「さっきスザクさんと話してたんです。ヒイラギさんの支えになってほしいって言われたんですけど……私、ヒイラギさんを支えるなんてできるんでしょうか?」
一瞬驚いたヒイラギが、また甘く微笑んだ。
「十分できてるよ。言ったでしょ、僕の話を聞いてくれるのは君だけだって」
「でも……話だけなら、仲魔の方々にだって……」
「仲魔と好きな人は違うよ。君がそばにいてくれるだけで嬉しいよ。でも」
ヒイラギの手がミコトの手を取り、手の甲に口付けた。控えめな口付けに妙に心臓がうるさかった。
「もし君が僕とずっといてくれるなら、もっと嬉しいな。一回君がデカラビアを見送ってるところを見たけど、すごく妬けちゃった。だから……もしクラブを辞めて僕のところに来てくれたらすごく嬉しいよ。君のことは僕が絶対に守る」
「あ……は、はい……う……」
ヒイラギの紳士の笑顔にミコトは言葉に詰まった。ただの雑談くらいの軽い振りだったはずが、熱烈な思いが返され困惑する。
「ヒイラギさん、今日はこれ以上は……ごめんなさい」
「ううん、いいよ。乗り物酔いしたところにこんな話してごめんね。ゆっくり休んでよ」
ミコトは頭を撫でられる優しさに浸りながら目を閉じた。いつか彼のもとに落ち着く未来が見えたような気がしつつ、それならクラブのみんなにちゃんと話さないとなあ、と思いながら。
気持ちいい。ミコトは頭に心地よい硬さを感じて目を開けた。
「あ、ミコトさん。起きた?」
仰向けに寝ているミコトをヒイラギが見下ろしていた。青い髪がきらきらと陽光に輝いて美しい。
「え……?ヒイラギさん……あれ……?」
穏やかな笑顔のヒイラギに見下ろされている状況、体勢と感触から考えて彼に膝枕されている。思い出した。昨日仕事中にヒイラギにお持ち帰りされ、そのまま寝てしまった。ヒイラギは優しく頭を撫でてくれるが、その感触だけではミコトの内側に湧き上がる怒りを抑えることはできない。
「ヒイラギさん!クラブに帰してください!」
「え?どうして?僕と一緒にいてよ」
「だめです!」
ほぼ直角に身を起こし、ミコトはヒイラギに詰め寄った。彼は不思議そうな顔をしている。
「あなたのせいで仕事サボっちゃったんですよ!謝らないと!」
「……そっか、そんなに帰りたい?」
「当たり前です!」
何故か意気消沈したヒイラギに連れられ、ミコトは無事クラブに戻ってきた。見慣れた店の外観にヒイラギのことなど吹き飛び、ミコトは慌てて中に駆け込み、
「戻りました!すみません!」
声を張り上げた。店内ではジャアクフロスト、ディオニュソス、キャスト二人がのんびり掃除をしていた。ミコトの声に全員の視線が集まる。
「あら、ミコトちゃん。青い彼はもういいの?」
「てっきりナホビノのところに行ったと思ってたホー!」
「えぇ……?帰らないとか思われてました……?」
「かけおち、結構聞く話だよ」
ひょこ、と可愛く体を揺らしてアリスが囁く。彼女の幼い見た目と駆け落ちという言葉、どうにもミスマッチだ。
「ミコト、君もあのナホビノのことを好いていたのではないか?だから皆、彼のもとに留まるものだと考えていたよ」
「ディオニュソスさんまで……違います!あれは、ヒイラギさんが勝手にしたことで……!私、これからもここで働きますから!」
「わかったホー。今夜からまたよろしくホー、ミコト!」
ジャアクフロスト、もとい店長にぽんと肩を叩かれミコトは安心した。あまり心配されていなかったのは予想外だったが、まだここに居場所はあるようだから。
「百合川ヒイラギ、浮かない顔ね。『ミコトさん』のこと、そんなに気になるのかしら?」
ミコトを持ち帰り一時だけでも甘い時間を過ごした龍穴、互いに膝枕をした平らな岩の上。場所そのものはホワイトデーのときと変わりないだが、ミコトがいないと寂寥感を覚えてしまう。独り空白を噛み締めていたヒイラギに仲魔の一体、マナナンガルがやって来る。彼女はグロテスクな見た目をしているが、声や発する言葉は落ち着いた大人の女性そのもの。人間と悪魔の違いはあれど、ミコトと同じ女性であるならば、何か有益なことが聞けるかもしれない。
「まあね。僕、嫌われちゃったかもね」
「そうかもしれないわね。あなた、あまりに強引すぎるわ。積極的な男性は魅力的だけど、あくまで相手の意思を尊重した上での話よ」
マナナンガルの顔色の悪い美貌が不気味に笑う。口からはみ出た細長い舌がちろちろと蠢く。
「自分の非を理解して真摯に謝罪できる男性は貴重よ?」
「……そうかな」
ホワイトデーの夜から一週間程度経過している。魔王を倒した後も決して暇ではないはずなのだが、ここのところヒイラギは無為に時間を過ごしていた。創世?三つのカギ?そんなことどうでもいい。
「そうよ。少なくとも気まずくて何もできない男性よりはね」
「う……」
マナナンガルの舌がヒイラギの顎を挑発するように撫で、ヒイラギは自分の胸に巣くうもやもやとした霧を自覚した。そうだ、どうして尻込みしているのだろう。彼女はちゃんとクラブに戻り悪魔たちに謝ったはずだ、ミコトのせいではないのに。元凶のヒイラギが何もしないなど卑怯ではないか。
「マナナンガル」
「何かしら?」
「今夜ミコトさんに会いに行ってくるよ」
「わかったわ。うまくいくといいわね」
「ありがとう」
マナナンガルに笑みを返し、ヒイラギは夜を迎える。夜までの暇つぶしに三つのカギの場所を下見していたら思ったより時間がかかった。開店時間を数時間過ぎてクラブに向かうと、店からミコトと悪魔が出てきた。
「デカラビアさん、今日もご指名いただきありがとうございました」
「うむ。またよき頃合いに来させてもらう」
「はい。お待ちしております」
オフホワイトのドレスを着たミコトがきらめく笑顔で悪魔――デカラビアを見送る。口ぶりからして初めての来店ではなさそうだ。そういえば彼女には常連が何人かいると聞いた、そのひとりがこいつか。そしてヒイラギには、このデカラビアに見覚えがあった。
「デカラビア」
ヒイラギはミコトがクラブに入っていったのを確認し、デカラビアの行く手を阻むように立ち塞がった。気分よくくるくると体を回転させていたデカラビアの動きがぴたりと止まり、硬直した。
「君、いいご身分だね?イシュタルのことを僕にチクってお金取って倒してもらって、お礼もなくクラブ通い?」
ヒイラギはデカラビアの星のように伸びた五本の足、そのうちの一本を掴みぎちぎちと力を込めた。それなりに硬いデカラビアの体に指の跡が残りそうだ。
「だ、だが吾輩の助言のおかげで…、痛い、離さんか!」
「なんで離さなきゃいけないの。腹立つな、こんな奴がミコトさんに会ってるなんてさ」
思えば、イシュタルの情報を聞くとき法外な――魔界に法があるか怪しいが――マッカを請求されたがもしやそういうことか。支払うべき相手を間違えたようだ。ヒイラギはぎりぎりと歯軋りした。せっかく会いに来たのに、冷静に彼女と話せる気がしない。頭を冷やさないと……と思っていたら、ぶちりと強烈な音が鼓膜に響いた。気付くと掴んでいたデカラビアの足を引きちぎっており、デカラビアは白目を剥いていた。あ、この足こんな簡単にちぎれちゃうんだ。あーあ。ヒイラギはデカラビアの足の一部をぽいと捨てた。
「白けちゃったな……さっさと帰りなよ」
「貴様、吾輩の足を傷つけて何を……!!」
「うるさいな、その足全部もいでやろうか。それもいいかもね。そうしたら」
ヒイラギはデカラビアの大きな眼の前で残虐に笑い、
「ミコトさんに会うどころじゃなくなっちゃうねえ?」
無傷の足を掴んだ。デカラビアの体が強張り、流れ星の如く空を駆け逃げていった。ヒイラギはそれを冷静に目で追いつつ、もう興味を失っていた。これであのクラブに嫌な記憶が残って行けなくなった、とかならないかなあ。
ヒイラギはクラブの入り口に目をやった。まだ開店しているはずだが、ヒイラギの心はざわついて落ち着かなかった。だめだ、出直そう。マナナンガルになんて言われるかな。ため息をつきながらも、ヒイラギの双眸には鋭い感情が宿っていた。まごついている場合ではないのだ、と今夜ようやく理解した。
ホワイトデーの夜からおよそ二週間が経過したが、その間ヒイラギはクラブに訪れることはなかった。ミコトの頭にぼんやり浮かぶ、青い髪と金色の目を持つ彼。ホワイトデーの翌日に膝枕をしてくれた彼は穏やかな顔をしていた。またあの瞳に見つめられたい……なんてちょっと考えてしまっている。
「……なんかみんな今日変じゃない?」
サキュバスとアリスは妙に楽しそうで浮ついている。今日何かあったっけ?四月一日……エイプリルフール。嘘をついてもいい日だが、クラブでイベントがあるわけでもなし、そんなに心躍るものではないと思う。
「ふふ、今日は色々と準備をしているのよ」
「うん。楽しみだよ」
「え?私、何にも聞いてないけど……今日何かあるの?」
「ええ、あるわ」
「うん、あるよ」
「なに?教えてよ」
サキュバスとアリスは顔を見合わせ、にんまりと笑った。意地の悪い笑顔だ。
「ミコトちゃんには内緒なの」
「おねえちゃん、たぶんびっくりするよ」
「ええ……?」
一体何なのだろう。この二人が教えてくれないなら、店長やディオニュソスも知っていたとしても教えてくれなさそうだ。ミコトだけに秘密にすること、思い当たる節がない。首を傾げつつも、
「いらっしゃいませ!」
店に客が入ると反射的に声が出る。駆け寄るミコトの目に飛び込んでくる、鮮烈な青い髪。ヒイラギだ。近付くにつれ胸が甘く高鳴る。
「こんばんは、ミコトさん。久しぶり」
「お久しぶりです。今夜は……」
「VIPルームにお願い」
一応尋ねると予想どおりの返答だった。彼を伴いVIPルームに向かい、ソファーに座った。普段どおりのシックで高級感のある佇まいが二人を出迎える。
「ミコトさん」
開口一番名前を呼ばれた。いつもの優しい声ではなくぴりと緊張感のある声で、ミコトの背筋が伸びた。
「ホワイトデーのときはごめん。ミコトさんの気持ちや立場を考えずに勝手なことをして」
ヒイラギは深く頭を下げた。彼の青い髪が肩から滑り落ち、顔が見えなくなる。つむじが見えるほどの謝罪にミコトの方が戸惑ってしまったが、その後に立つ漣は不穏なもの。彼の独断で仕事に穴を空けてしまった、その事実と湧き上がる黒々とした感情を思い出してしまった。
「……本当ですよ。あなたのせいで仕事、サボっちゃったんですから」
「うん。ごめん。本当に申し訳なかった」
「……ヒイラギさんなんて、嫌い」
ちょっとくらい反省してくれればいい。それくらいの軽い言葉に、首を垂れていた彼がハッと顔を上げた。その眼は大きく見開き、呆然とミコトを凝視している。
「……ミコトさん……僕のこと、嫌い?」
唇を尖らせていたミコトだったが、ヒイラギの声があまりにも弱々しいものに聞こえ慌てた。捨てられそうな青い子猫が見せる哀願、ミコトの胸に突き刺さる。
「あ……ええ、と、あの、ほら!今日エイプリルフールですから!嘘!嘘です!」
口をついて出たのは何とも都合のいい言い訳。今日が四月一日でよかった。
「……本当?さっきのは僕をからかったの?」
「そうです!ちょっと怒りはしましたけど、その……嫌いになったりはしてません!」
「そっか……ありがとう、ミコトさん」
ヒイラギは潤んだ瞳を細めて笑った。まなじりに浮かぶ雫は美しく、彼の麗しさを強調する。ヒイラギは優雅にミコトの手を取った。紳士の仕草は彼の美しさによく似合う。
「ミコトさん、今夜よかったら僕とデートしてほしい。店長さんにはもう話をしてて、ミコトさんが承諾すればいいよって許可を取ってる」
「デート……ですか?」
店外デートのことは聞いたことがある。仕事を離れ、キャストと客がプライベートな時間に文字どおりデートをすることだ。今はまだ勤務時間中だが、そんなことを店長が許すとは驚きだ。
「うん。魔界の空中散歩なんてどうかな?ミコトさんの安全は僕が守る。この前は無理矢理お持ち帰りしちゃったから、ちゃんとした手続きを踏みたいんだ」
ね?と手を取られたまま上目遣いで尋ねられ、ミコトは硬直した。彼の瞳はシャンデリアの輝きを反映し、星の煌めきを放つ。あまりに真摯な彼の言葉に心が揺らいだ。
「……一応、店長に確認してきてもいいですか?ヒイラギさんを信用してないわけじゃないですけど、念のため」
「うん、もちろん」
ミコトが店長のもとに駆け寄り事情を聞くと、
「ナホビノの言うとおりホ!店外デートの申し出があったから、ミコトがオッケーならいいって答えておいたホ!」
との答え。ミコトが知らない間に地味な根回しがあったようだ。
「それで、ミコトはどうするホ?」
「私は……店長が許可を出してるなら、デートしてもいいです」
ミコトの答えに、いつの間にか寄ってきていたキャスト二人が沸いた。振り向くと女性二人が興味津々といった顔でミコトを見つめている。
「待ってたわミコトちゃん、さあおめかしの時間よ」
「おでかけなんだから、いつものドレスじゃおかしいよ」
「え、え?ええ?」
キャスト二人にぐいぐいと背を押され、更衣室に押し込まれる。弾んだ声の二人が取り出したのは、何種類かの服。高級クラブにふさわしいドレスではなく、年頃の少女が身に纏いそうな私服だった。パステルカラーの可愛らしい服、スポーティな印象を与えるセット、やや落ち着いたエレガントな印象の服まで取り揃えられている。どれもおあつらえ向きにミコトが着れそうなサイズ感。
「さあ、どれがいいかしら?私はこういう落ち着いた感じがいいと思うけれど」
「おねえちゃんにはこっちの可愛い服が似合うよ」
「えっと……?」
完全についていけないミコトと、友達とショッピングに来たかのような明るい二人の声。二人が勧めてくる服を見ながら、サキュバスとアリスがミコトに秘密にしていた準備とはこれか、と合点がいった。
「ヒイラギさんと私のことなのに、なんで二人ともそんなに楽しそうなの?」
ミコトの言葉に、二人は一様にきょとんとした様子を見せた。どうして今更そんなことを言うのかと言わんばかりの顔だ。
「バレンタインのとき言ったでしょ?ミコトちゃんが青い彼とそういう仲になったら応援するって」
「うん。おにいちゃんとミコトおねえちゃん、お似合いだと思うよ?」
「お、お似合い……!?」
ヒイラギを思い出して顔に熱がこもった。彼は人間離れした綺麗な人で実際に人間ではないようだし、ただの女子高生のミコトと釣り合いが取れているとは到底思えない。二人が何をどう見てそう評価しているのか謎だが、二人は何ら疑問を抱いていないらしい。
しばしの討論の末、アリス推薦の可愛らしいミコトに落ち着いた。先ほどまで身に纏っていた仕事着であるオフホワイトのドレスとは違う、休日の女子高生といった佇まい。きっとディオニュソスが調達したのだろうが、一体どこから仕入れてくるのだろうか。
「ほら、いってらっしゃい。彼が待ってるわ」
背中を押され振り向くと、二人の悪魔が手を振っていた。ミコトも手を振り、店の外で待つヒイラギのもとに向かった。
「ヒイラギさん!店外デート、行きましょう」
「ほんと?よかった、ありがとう」
全身から溢れる喜びを隠しきれないヒイラギは、美麗な外見に似合わないほど可愛らしい。
「ドレスじゃないんだね」
「はい、デートだから着替えた方がいいって言われて」
「そうなんだ。その服も元気な感じでいいね、可愛いよ」
惜しみない賞賛を浴びて照れつつ、ふと気がつく。彼のそばに真紅の鳥が佇んでいる。孔雀に似た豪奢な羽を持つ鳥、青いヒイラギと対をなし美しい。彼は鳥の背中を撫で、
「じゃあ早速デートしよっか。スザクに乗って空中散歩と洒落こもう」
「空中散歩、ですか?」
「うん」
ヒイラギはひょいとスザクの背に乗り、手を差し出した。ミコトが躊躇いながらも手を取ると、ぐいと引かれて彼の前に座らされる。背中にぴったり彼が密着し、ほぼ後ろから抱きしめられている状態。ヒイラギの吐息が耳元を掠め一気に体温が上がった。ミコトの体が強張る。
「ミコトさん」
ヒイラギの右手が腹部を抱きしめ、左手が顎に触れ横向かされた。頭が真っ白のミコトの唇にヒイラギの唇が重なる。刹那に触れ合いもう一度口付けられ、ミコトは至近距離にある麗しい眼をじっと見つめた。
「落ち着いた?」
「は、はい……」
突然キスされても抱きしめられても全身をほんのり甘い熱が駆け抜けていくばかりで、胸の高鳴りが止まらない。
「僕がしっかり支えてるから、大丈夫。ミコトさんはもし余裕があったらスザクの羽を掴んでて……そうそう」
スザクの羽はふわふわした感触で、背に乗っても痛みや不快感はない。まさか悪魔の背に乗ることがあるなんて思いもしなかった。
「スザク、そろそろいいよ。行こう」
「了解ぢゃ」
華麗な見た目とは裏腹な渋い声とともに、スザクが羽を広げ飛び立つ。急激な風が生まれ、ミコトとヒイラギの髪をなびかせる。あっという間に崩れたビルを追い越す高さまで飛び上がり、クラブの位置もよくわからなくなる。
「ミコトさんはあんまり魔界を知らないんだよね?」
「はい、クラブのあたりしかわからないです。魔界ってそんなに広いんですか?」
「うん、元々東京だからね。その様子じゃ全然知らないみたいだね、色々見て回ろうか」
ヒイラギの言葉どおり、はるか高みから魔界の様々な場所を見て回った。コンテナや倉庫が立ち並ぶ景観、明るいが砂に覆われた茫漠とした平地、無機質な白っぽい道路が続くどこか神秘的な区画、魔界はミコトが思っていたよりも広く、多種多様な顔を有していた。いかにもな観光地があるわけでもないが、閉ざされた環境にいたミコトには新鮮だった。大きな鳥の背に乗って空を飛ぶなんてファンタジーも叶っており、頬を撫でる風が心地よかった。見下ろす魔界にはおそらく悪魔がいるはずだが、スザクはかなりの高度を飛んでおり、さすがに悪魔の手も及ばないらしく安全な空の旅だった。背中に伝わるヒイラギの体温や魔界について解説してくれる彼の涼やかな声にも安心する。
「ほら、見て。東京タワーだよ。魔界でも目立つね」
ヒイラギの指さす先を目で追うと、砂漠地帯の真ん中に赤い鉄塔が立ち、天を貫く。三百三十三メートルより高くスザクが飛び、もはや地上にあるものは点より小さい。ぐらりとミコトの頭が揺れた。さすがに高すぎる。高所恐怖症ではないが、外気に生身を晒した状態で見下ろして平気でいられる高さではない。
「大丈夫?」
ヒイラギの声が耳元で聞こえ、ぎゅっと抱きしめられた。ふと横を見ると彼がすぐ近くで覗き込んでいて、その距離の近さに赤面した。
「すみません、ちょっと酔っちゃったみたいです」
――色んな意味で。ミコトの脳内だけでこっそり付け加える。
「そっか、高く上がりすぎたかな。いったん地上に降りよう」
ゆっくり東京タワーの根元に降りると、ヒイラギが鋭い視線を周囲に向けていた。何か不穏な気配が漂っていることはミコトにも察せられた。
「ミコトさん、スザクと一緒に物陰に隠れていて。悪魔がいる。倒してくる」
そう言うとヒイラギは右手に青い刃を出現させ、閃光のように駆けた。思わず手を伸ばしたミコトを、スザクの羽が静止する。
「心配かもしれんが、主の言うとおりぢゃ。大人しく待つがよい」
「は、はい……」
一人と一羽は東京タワーの陰に身を潜め、青い風が悪魔を颯爽と倒していくのを眺めていた。ヒイラギが戦っている姿を初めて見た。ごく普通の人間のミコトには目で追えない部分も多いが、青い髪と青い刃が鋭い軌跡を残し、凛々しい彼の背中を彩る。
「我の体に寄りかかってよいぞ。我が主の認めたおなごぢゃ、遠慮はいらんよ」
「あ、ありがとうございます……」
感情が読み取れない無機質な目をしているスザクだが、渋い声ながらも柔らかさを感じさせる。赤い羽に覆われた体に寄りかかってみる。ふさふさの羽が少しくすぐったいが心地よかった。
「この前会った仲魔の方も私のことを知ってるみたいでした。ヒイラギさん、私のことをしゃべってるんですか?」
「ん?よく話しておるよ。お前さんに会ってからその話でもちきりぢゃ」
「あ、そうなんですか……」
どんな風にヒイラギが話しているのか何となく想像がついてミコトは照れくさくなった。
「我が主は骨のある男よ。お前さんさえよければ、我が主を支えてやってほしいがね」
「支える……私がですか?私、戦えないですよ?」
「お前さんに話を聞いてもらえるだけで嬉しいと言っておったぞ?何も戦うだけが支える手段ではあるまいて」
そういえば彼は話を聞いてくれるのは君だけ、と言っていた気がする。少なくともスザクを含めて三体仲魔がいるのに、誰も話を聞いてくれないなんてあるのだろうか。
そうこう言っているうちに、ヒイラギが戻ってきた。さっきまであんなに激しい戦闘を繰り広げていたにもかかわらず、汗ひとつかいていないし息も乱れていない。
「ただいま、片付けてきたよ。スザク、ちょっと外してくれるかな」
「了解ぢゃ。また我の翼が必要であれば呼んでくれ」
スザクが飛び去っていき、東京タワーの物陰にヒイラギとミコトふたりきりになる。ヒイラギは床に座り、ぽんぽんと膝を叩いた。
「酔っちゃったんでしょ?ちょっと横になりなよ」
「えっと……はい」
当然膝枕するよね?という視線で見つめられたら何も言えない。横になりたかったのは事実だし、遠慮なく彼の膝を借りることにする。頭を乗せごろんと寝転び、仰向けになった。数週間前にも味わった彼の太ももの感触。また頭を撫でられて、ミコトの体を心地いい眠気が包む。
「ごめんね、ちょっと無理させちゃったかな」
「いえ、いいです……休ませてくれてますし」
「今日はありがとう、デートしてくれて」
すっかりいつものヒイラギに戻っており、あの鬼神のような戦闘体勢の彼はいない。優しい掌と穏やかな笑顔でミコトを迎えてくれる。
「あの……ヒイラギさん」
「なに?」
「さっきスザクさんと話してたんです。ヒイラギさんの支えになってほしいって言われたんですけど……私、ヒイラギさんを支えるなんてできるんでしょうか?」
一瞬驚いたヒイラギが、また甘く微笑んだ。
「十分できてるよ。言ったでしょ、僕の話を聞いてくれるのは君だけだって」
「でも……話だけなら、仲魔の方々にだって……」
「仲魔と好きな人は違うよ。君がそばにいてくれるだけで嬉しいよ。でも」
ヒイラギの手がミコトの手を取り、手の甲に口付けた。控えめな口付けに妙に心臓がうるさかった。
「もし君が僕とずっといてくれるなら、もっと嬉しいな。一回君がデカラビアを見送ってるところを見たけど、すごく妬けちゃった。だから……もしクラブを辞めて僕のところに来てくれたらすごく嬉しいよ。君のことは僕が絶対に守る」
「あ……は、はい……う……」
ヒイラギの紳士の笑顔にミコトは言葉に詰まった。ただの雑談くらいの軽い振りだったはずが、熱烈な思いが返され困惑する。
「ヒイラギさん、今日はこれ以上は……ごめんなさい」
「ううん、いいよ。乗り物酔いしたところにこんな話してごめんね。ゆっくり休んでよ」
ミコトは頭を撫でられる優しさに浸りながら目を閉じた。いつか彼のもとに落ち着く未来が見えたような気がしつつ、それならクラブのみんなにちゃんと話さないとなあ、と思いながら。