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魔界のマカロンホワイトデー
バレンタインの夜以降、ヒイラギがクラブを訪れることはなかった。以前は週に数回指名されていたのに――ミコトの頭の片隅にもやもやと不吉な霧が立ち込めてきた。彼は悪魔と戦っていると聞いたし、もしかして何かあったのではないかと気もそぞろだった。
「ミコトー、最近嫌なことでもあるホ?」
「え…どうしてですか」
「ブルーなカオしてるホー」
ジャアクフロストの黒い顔が眼前に迫り、思わずミコトはのけ反った。落ち着かない心地のまま仕事をしていたが、指摘されるほどとは思っていなかった。
「店長、ここは私たちが話をしてくるわ。さ、行きましょミコトちゃん」
サキュバスに背中を押され、キャスト用の更衣室に入る。男子禁制の場、さすがに店長も追ってこない。サキュバスとアリスにミコトはじっと見つめられていた。
「おねえちゃん、店長の言うとおりだよ。変だよ」
「そうね、何だか上の空よ。……やっぱり、青い彼が来ないのが気になる?」
「……うん」
最後に会ったときから二週間近く経っている。こんなに長く彼の姿を見ないのは初めてで、気がかりだったのはミコトだけではなかったようだ。
「前、とんでもないお金払ってたから……破産したのかな」
「ミコトちゃん、面白いこと言うわね」
「噂、聞いたことあるよ。青いおにいちゃん、イシュタルのおねえちゃんとか魔王とかと戦ってるんだって」
「イシュタル……魔王……?」
魔界の情勢に疎い一般的な高校生であるミコトだが、彼が得体の知れないものと戦っているらしいことは理解した。ミコトも魔界に身を置くが、一切の戦闘能力を持たず悪魔たちに匿われている立場なので想像すらできない。
「あら、そんなことになってるの?彼、世界でもひっくり返すつもりなのかしら」
「さあ、わからないけど。とにかく、青いおにいちゃんは忙しいんだよ。たぶん」
「そ、そうなんだ……」
サキュバスとアリスはごく普通に世間話のように話しているが、人間のミコトにはついていけない。が、悪魔の二人がここまで軽く話しているのだから、魔界では大したことではないのだろうか?
「それに彼、ホワイトデーに返事がほしいって言ってたんでしょ?じゃあその日には来るんじゃないかしら」
「うん……」
返事。サキュバスに言われて鮮明に思い出した。バレンタインの夜、彼の人差し指が唇に触れたこと。触れていたのはほんの数秒だったが、彼の指先は優しかった。返事……自分はどう答えたらいいのだろう。ミコトは困惑しながらも、彼を待ち侘びていることに初めて気がついた。
ヒイラギが来店しようがしまいが時間は過ぎ、ホワイトデーの夜が訪れる。結局彼は一度も店に現れなかった。最後に会ってからちょうど一ヶ月、ミコトにとっては長い一ヶ月だった。ホワイトデー当日ではあるが、クラブ内はいつもどおりの内装で高級感のある落ち着いた佇まい。ミコトも内装に合うオフホワイトのワンピースドレス、特にイベントがないときは大体この服だ。地味ではないかと少し不安になるが、サキュバスやアリスは褒めてくれるから変えるつもりはなかった。
開店直後の店内に客はいない。ミコトがぼんやり店の入り口付近を見ていると、扉が開いた。
「……あ」
青い髪を靡かせ、ヒイラギが現れた。彼は真っ先にミコトを見、金色の目を細めて笑った。
「ほら、行ってらっしゃい。店長には言っておくわ」
背中を押され振り返ると、サキュバスがにこにこと笑っている。頷き、ミコトはヒイラギに駆け寄った。
「いらっしゃいませ、久しぶりですね」
「うん、久しぶりだね。今日は白いドレスなんだ、よく似合ってて可愛いよ。ミコトさん、VIPルームに連れてってよ」
「わかりました」
淀みなく笑みを浮かべて呟くヒイラギの言葉は、予想どおりのものと甘いものが混ざっていた。頭に血が上るのを感じつつもミコトは真っ直ぐVIPルームに向かった。二人で座り心地のいいソファーに腰掛けるのも久しぶりだ。すぐ近くでヒイラギと目が合い、自然と笑い合った。
「ごめんね、ミコトさん。だいぶ間が空いちゃったね。魔王を倒すのに時間かかっちゃった」
「あ、はい……噂には聞いてましたけど、本当に魔王と戦ってたんですね」
「噂になってたの?どこで誰が見てるかわからないものだな……まあいいけど」
悪魔がするような世間話をヒイラギとしていることがちょっと可笑しい。彼はとても綺麗な人だが、魔界にいるだけにやっぱり普通の人じゃない。
「ホワイトデーに返事を聞かせてほしいって言ってたからね。僕が約束を破ったらカッコ悪いでしょ」
「律儀ですね。ありがとうございます」
頬をかきながら苦笑いをするヒイラギは人間臭く、さっきまで血生臭い話をしていたとは思えない。数秒ごとに印象が変わる彼は万華鏡に似ている。
「君に会いたいなって思いながら頑張ってた。褒めて?」
「お疲れ様でした。頑張ってたんですね」
ヒイラギはくすぐったそうに笑いながら、頭をミコトの方に傾けた。撫でてほしいということだろうか。ミコトは手を伸ばし、彼の頭をゆっくり撫でた。青い髪は澄んだ水の流れのように透き通り、ミコトの指の間を流れていく。
「ふふ、ありがとう。結構大変だったけど、全部吹き飛んじゃうな」
「そんなに言われたら、こっちが照れますよ」
「照れさせたいんだよ」
大人しく頭を撫でられつつも、ヒイラギは挑戦的な上目遣いを寄越してくる。子供の愛らしさと男性の野心が同居するちぐはぐさ、癒されてもときめいてもおかしくない。
「撫でてくれてありがとう。返事を聞きたいな……と思ったけど、その前に渡したいものがあってさ」
ヒイラギの掌に小さな箱。水色の綺麗な箱に白いリボンが結ばれている。
「ホワイトデーのお返し」
「あ、ありがとうございます」
箱を受け取り開けてみると、マカロンが何個か入っていた。パステルカラーが鮮やかで、美味しそうよりも可愛いと先に思う見た目だった。
「ホワイトデーでマカロンを渡すって、どういう意味か知ってる?」
「え?何か意味があるんですか?」
ヒイラギの指先が水色のマカロンを手に取った。ミコトの口元に近付けながら、彼は妖艶に笑う。
「『あなたは特別な人』って意味だよ」
「〜〜〜!!」
ミコトは息を呑み硬直した。閉じた唇をつんつんとマカロンで刺激される。ほら開けてよ、と言われているみたいで、ミコトはヒイラギの金色の瞳に見惚れながら口を開いた。マカロンが口に押し込まれる。噛むたびに優しい甘さが広がって心が落ち着く。
「ねえミコトさん、今日はちょっとだけお酒飲みたいな。だめ?」
「あれ?前お酒飲めないって言ってませんでした?」
「そんなこと言ったかな?何か飲ませてよ」
「え、あ、はい……」
彼が今までアルコールを頼んだことはなかったが、どういう風の吹き回しだろう。ミコトはキャスト、疑問には思うもののお客様の要望には応えねばなるまい。とはいえミコトはアルコールを飲んだことがなく、何か飲ませてと言われても何がいいのかわからない。少し聞いてきますね、とヒイラギに断りディオニュソスに聞いてみた。
「ほう、あのナホビノがついに酒を?今日という喜ばしい日にとっておきのワインがある。勧めてみてはどうかな?」
と言われ白ワインを渡された。澄んだ金色に輝く、見目麗しいワインだ。ヒイラギに尋ねると綺麗だね、飲んでみたいとの回答。ミコトはいつもどおりぶどうジュースを、ヒイラギには白ワインを注ぐ。とろりと流れ落ちる白いワインから芳しい香りが立ち、酒の味などわからないミコトでさえも興味を惹く。ワイングラスを持つヒイラギは優雅で、白ワインの色も彼によく似合っている。
「ふふ、ありがとう。乾杯」
「はい」
上等なグラスは乾杯の音すら軽やかで美しい。二人きりの空間に響いた上品な音を合図に、二人それぞれ飲み物を口に含む。ふう、とヒイラギがついた吐息に白ワインの芳醇な香りが漂い、ミコトも酔いそうになった。
「美味しいですか?」
「うん、すごく。ふわふわするね」
「ふわふわ……?飲みすぎないように気をつけてくださいね」
「もちろんだよ」
二人で美味しい雫を味わいながら、ヒイラギの話を聞いた。魔王の根城に仲魔と乗り込み、魔王軍を根こそぎ駆逐したとのこと。魔王城には風が吹き荒ぶ罠があり、うろうろ迷い大変だったらしい。そんな危険な場所が魔界にあったなんてとミコトは背筋が凍った。比較的安全な場所にいるからすっかり忘れていたが、そういえばここは悪魔だらけの場所だった。ジャアクフロストに拾われていなかったら本当に死んでいたかもしれない。
「ミコトさん、ありがとう。僕のお話を聞いてくれるのは君だけだよ」
そう語るヒイラギの頭は振り子のように揺れ、顔が赤い。白ワインをグラス二杯分くらいしか飲んでいないが、もしかして結構酔っている?
「あの、ヒイラギさん。大丈夫ですか?」
「なにが?」
「酔ってますよね?」
「酔ってないよ〜……ふふ」
彼の言葉は妙に間延びして聞こえる。普段よりもふにゃりととろけた笑顔を浮かべて可愛らしいが、そうなった原因がはっきりしているだけに心配になる。酒を飲めることを自慢げに語り酔い潰れた客が帰れなくなったこともあったが、彼は無事に帰れるだろうか。
「ミコトさん」
ミコトの膝の上に置かれた水色の箱、そこにあるマカロンを手に取り、ヒイラギは陽気に笑った。
「一緒に食べよ?」
そう言いながらはむ、とヒイラギはマカロンを口に咥え、ミコトの方に咥えていない端を突き出してくる。……丸いお菓子でポッキーゲームをするのは無謀だと思うが、彼はそのままの格好でじっとミコトを凝視している。餌を初めて取ってきた子犬が親犬に尻尾を振っているみたいだ。
「え……っと……いただきます」
戸惑っていると一生青い子犬が待っていそうな予感がしたから、ミコトは控えめにマカロンの端を咥えた。ちょっとでもヒイラギが食べ進めたら唇がくっつきそうだったが、ヒイラギはにこりと笑ってマカロンを噛み切った。……よかった。もしキスすることになったらどうしようかと思った。ヒイラギの赤い唇に目が釘付けになる。彼の青い髪、白い肌、金色の瞳、そのどれとも違う色の赤い唇は鮮やかに映え、妙にいやらしく見えてしまう。
「どうしたの、ミコトさん」
「うぇっ!?な、なんでもないです!」
「ん〜?そう?」
ぐっとヒイラギが身を乗り出し、ミコトの眼前に彼のご尊顔。白ワインの水面に似た揺らめく金色の瞳が甘くミコトを見つめている。形の整った唇が艶やかで呼吸が止まる。何回もこの部屋で彼と接してきたが、あまりにも距離が近いとその麗しさに言葉を失う。
「ん〜〜……」
こてん、とヒイラギがミコトの肩に倒れ込んでくる。慌てて抱き止めた彼の体は熱く、淡く赤らんだ頬ととろけた瞳。完全に「出来上がっている」状態だ。この状態に陥った客が自力で帰れた試しはない、救援を呼ぶ必要がありそうだ。
「ヒイラギさん、大丈夫ですか、ヒイラギさん!」
「ミコトさん……たぶん時間の途中だと思うけど、お金払うから僕のそばに、いて……」
「?えっと、精算してお帰りになるってことですか?」
「そうだよ……」
「わかりました。店長呼んできますね」
酔い潰れたせいで時間いっぱいまでいられなくなった客が途中で帰るなんてよくあることだ。店長に説明するとあっさり納得され、手早く精算を済ませる。後は帰ってもらうだけだが……VIPルームに戻るとソファーにヒイラギが寝転がっていた。目を閉じており、寝ているように見える。
「ヒイラギさん、精算終わりましたよ。大丈夫ですか?」
「うん……ふふ、ミコトさん、一緒に帰ろう」
「そういうわけには……」
薄目を開けたヒイラギに腕を掴まれた。思わず彼を見ると、唇の片方を不自然につり上げる不気味な笑みを浮かべていた。戦慄しミコトの体が強張った瞬間、ヒイラギの掌に何かがきらめく――小さな柱状の宝石に見える。ミコトが困惑している間に宝石が一際輝き、二人の体はVIPルームを離れ遠く知らない場所に飛ばされる。
「えっ!?」
ヒイラギに腕を掴まれたまま、ミコトは見知らぬ場所に座り込んでいた。近くの地面から青っぽい煙のような光が立ち上っている。ごつごつした岩石様の地盤、ずいぶんと久しぶりに見た青い空。ミコトがいたギンザ周辺は暗く淀んだ空に崩れたビルが乱立する場所だったこともあり、眩しい。思わずミコトは目を細めた。
「あ!ヒイラギ、来たヒホ!」
「ずいぶんと待たせたじゃない、失敗したかと思っていたわ」
ミコトのもとに悪魔が二体駆け寄ってきた。一体は白い雪だるまに手足が生えたような見た目で、白くてふたまわり小さな店長といった風体。もう一体は全身土気色の不気味な皮膚の女性に似た姿。上半身と下半身が分かれ断面から赤黒い肉が垂れており、背中に蝙蝠の羽根が生えているという恐怖心を煽る見た目だ。ミコトは戦えないし、ヒイラギもふにゃふにゃでそんな状態じゃない。ミコトは息を呑み、反射的にヒイラギを引き寄せぎゅっと抱きしめた。
「ミコトさん、大丈夫。二人とも僕の仲魔だよ。襲ってこないから」
「……そうなんですか?」
「うん」
雪だるまがミコトの前に立ち、ぶんぶんと手を振った。
「オイラはジャックフロスト、こっちはマナナンガル!オイラたち、今日カワイコちゃんと帰ってくるから待ってろって言われてたホー!」
「カワイコちゃん……?」
何を言われているのか理解に苦しむミコトの鼻先にマナナンガルの顔があった。蛇に似た細い舌が伸び、ミコトを品定めするように不気味に蠢く。
「あなたが『ミコトさん』ね?百合川ヒイラギが入れ込むなんてどんな子かと思っていたけれど……なるほど?こういう子が好みなのね」
「……?ちょっと、何が何だかわからないんですけど……?」
目の前にいる悪魔二体に敵意がないことは理解したが、状況が全く飲み込めない。疑問符が脳内で踊り続ける中、はっとミコトは我に返った。ヒイラギを抱きしめたままだ。慌てて手を離そうとしたところ、逆にヒイラギに抱きしめられた。両腕の中にすっぽり収まってしまい動けない。
「ごめんね、ミコトさん。君をどうしてもお持ち帰りしたかった」
「お持ち帰り……?」
「酔ってるのは本当だよ?」
ミコトが気にしているのはそっちじゃない。仕事をほったらかしにしてヒイラギとよくわからない場所に来てしまった。クラブと今いる場所の位置関係は不明、仮に場所がわかっても戦闘能力のないミコト一人では間違いなく帰れない。……ミコトは大きなため息をついた。
「……ヒイラギさん、なんで私をここに連れてきたんです?」
「君を独占したかった。できたらお店の外で」
ヒイラギはミコトを抱きしめたまま子供っぽい、心底嬉しそうな顔をする。顔が赤いのは酔っているからだろうが、表情自体にお酒は関係なさそうだ。
「そうだ、ジャックフロスト。チョコ持ってきてよ」
「ヒホー!ちゃんと冷やしてたホー!」
ジャックフロストが差し出してきたのは、見覚えのある箱。ミコトが作った生チョコレートが入っている箱だった。
「ありがとう、ジャックフロスト。よく冷えてるね」
「ヒイラギのお願いだからヒホ!ところで、オイラたち見張りに行った方がいいホ?」
「うん、そうだね。万が一があったら困るからよろしく」
「わかったわ。お熱いわね」
悪魔二体が空気を察して離れていく。そうだ、忘れていたがここは魔界だった。この場所では不思議とそこまで邪悪な気配がしないが。
「ミコトさんからたくさんチョコもらったから、一度に食べきれなくて冷やしてもらってたんだ。一緒に食べよう」
ヒイラギに手を引かれ、ちょうど座れそうな平らな岩の上に二人で座る。VIPルームのソファーと比べると硬いし冷たいが、それもたまには悪くない気がした。
「ミコトさん、食べさせて?」
彼のせいで絶賛強制サボタージュ中なのだが、小首を傾げて甘えてくる彼を見ていると怒りがチョコレートのように溶けていく気がした。どのみち彼を振り払ってクラブに戻ることはできないし、せっかくなら彼との時間を楽しんでおく方が得というもの。
「どうぞ」
ミコトが差し出した生チョコレートを遠慮なく口に含み、ヒイラギは愉悦に浸った顔で咀嚼していた。飲み込んだ後の満面の笑みは頬が赤いのも相まって、綺麗というより可愛らしい。
「ありがとう、美味しい。魔王を倒すまで我慢してたんだ。美味しいものは後にとっておいた方がいいよね」
「そ、そうですか」
「ねえ、ミコトさん?」
唇を妖艶に舐めながら、ヒイラギはミコトと距離を詰めた。近くで見つめるには美麗すぎる相貌が、ミコトの目の前にある。
「返事、聞かせてよ。僕のこと、どう思ってる?」
「あ……ええと……その……」
ミコトは俯いた。もじもじと指先を意味もなく動かし、時間が過ぎていくのに身を委ねる。彼は返事を急かすことはないが、そのままの姿勢でじっと待っている。彼の瞳は静かな金色の湖に見えた。いつまでも待ってくれそうだが、逃してはくれなさそうだ。
「……その、お店に来てくれなかったら寂しい、とは思ってました」
「僕の持ってくるお金がないと寂しいってこと?」
「そうじゃないです……ヒイラギさんに会いたいと思ってました」
「そっか。じゃあ、僕のこと好きってことかな?」
「……たぶん……」
俯きがちに呟くと、顎をヒイラギに持たれくいと上向かされた。至近距離で目が合ったヒイラギは穏やかに笑い、生チョコレートを口に放り込むとそのままミコトの唇を奪った。
「んっ!?」
完全に予想外の動作に硬直した隙に、ヒイラギの腕がミコトの腰に回り抱きしめられ逃げられなくなった。好きな人ができるまでと取っておいていたファーストキスは、蠢くヒイラギの舌で生チョコレートが押し込まれ、甘くとろけた味がする。舌の温度でチョコレートが溶けて少し空いた空間に、ほろ苦いワインの香りと渋味が広がる。生チョコレートに酒は使っていない、ヒイラギの飲んだワインの味と香りだと理解して頭がくらくらした。初めてのキスがチョコレートとワインの香り、彼の舌を絡ませながらの濃厚なものになり、息が止まった。不慣れなキスに呼吸の仕方がわからない。このままでは死ぬ、慌ててヒイラギの胸を叩いた。数秒後唇が離れ、ミコトは感じたことのない酸欠に息が荒かった。喉の奥にはうまく飲み込めなかったチョコレートの塊があり、唾液を目一杯飲み込んで何とか流し込んだ。
「ミコトさん、もしかしてキスって初めて?」
「……そうです。死ぬかと思いましたよ……」
「そっか。どうだった?初めてのキスは」
「……甘かったです。あと、お酒の味がしました」
ふいと顔を逸らして答えたが、ヒイラギにまたぎゅうと抱きしめられて、すりすりと顔を肩に擦りつけられた。何がそんなに嬉しいのか、甘える子猫の可愛らしさでヒイラギは笑っている。
「ね、ミコトさん。僕、頑張ったんだ。君との約束を守りたくて、超特急で魔王を倒したんだよ。君の膝、貸して?」
「……魔王と私は全然関係ないですよ?」
「関係ないかもね。じゃあ、頑張った僕のために膝枕して?」
肩に顎を乗せ、ヒイラギがちらりと見上げる視線を寄越す。潤んだ金色の瞳の上目遣い、きっとミコトでなくとも言うことを聞いてしまう魔性がある。黙ってぽんぽんと膝を叩くと、ヒイラギはぱぁっと笑顔の花束を咲かせ、嬉々としてころりと寝転んだ。仰向けになり、ミコトを見上げてにこにこと笑う。
「嬉しいな。ミコトさん、ありがとう」
今夜は彼の策略に嵌められた気がするが、それでもよかった。ミコトは諦めの息をつき、苦笑いを零しながらヒイラギの頭を撫でた。目を細めてくすぐったそうにする彼は、可愛げのある小悪魔に見えた。
バレンタインの夜以降、ヒイラギがクラブを訪れることはなかった。以前は週に数回指名されていたのに――ミコトの頭の片隅にもやもやと不吉な霧が立ち込めてきた。彼は悪魔と戦っていると聞いたし、もしかして何かあったのではないかと気もそぞろだった。
「ミコトー、最近嫌なことでもあるホ?」
「え…どうしてですか」
「ブルーなカオしてるホー」
ジャアクフロストの黒い顔が眼前に迫り、思わずミコトはのけ反った。落ち着かない心地のまま仕事をしていたが、指摘されるほどとは思っていなかった。
「店長、ここは私たちが話をしてくるわ。さ、行きましょミコトちゃん」
サキュバスに背中を押され、キャスト用の更衣室に入る。男子禁制の場、さすがに店長も追ってこない。サキュバスとアリスにミコトはじっと見つめられていた。
「おねえちゃん、店長の言うとおりだよ。変だよ」
「そうね、何だか上の空よ。……やっぱり、青い彼が来ないのが気になる?」
「……うん」
最後に会ったときから二週間近く経っている。こんなに長く彼の姿を見ないのは初めてで、気がかりだったのはミコトだけではなかったようだ。
「前、とんでもないお金払ってたから……破産したのかな」
「ミコトちゃん、面白いこと言うわね」
「噂、聞いたことあるよ。青いおにいちゃん、イシュタルのおねえちゃんとか魔王とかと戦ってるんだって」
「イシュタル……魔王……?」
魔界の情勢に疎い一般的な高校生であるミコトだが、彼が得体の知れないものと戦っているらしいことは理解した。ミコトも魔界に身を置くが、一切の戦闘能力を持たず悪魔たちに匿われている立場なので想像すらできない。
「あら、そんなことになってるの?彼、世界でもひっくり返すつもりなのかしら」
「さあ、わからないけど。とにかく、青いおにいちゃんは忙しいんだよ。たぶん」
「そ、そうなんだ……」
サキュバスとアリスはごく普通に世間話のように話しているが、人間のミコトにはついていけない。が、悪魔の二人がここまで軽く話しているのだから、魔界では大したことではないのだろうか?
「それに彼、ホワイトデーに返事がほしいって言ってたんでしょ?じゃあその日には来るんじゃないかしら」
「うん……」
返事。サキュバスに言われて鮮明に思い出した。バレンタインの夜、彼の人差し指が唇に触れたこと。触れていたのはほんの数秒だったが、彼の指先は優しかった。返事……自分はどう答えたらいいのだろう。ミコトは困惑しながらも、彼を待ち侘びていることに初めて気がついた。
ヒイラギが来店しようがしまいが時間は過ぎ、ホワイトデーの夜が訪れる。結局彼は一度も店に現れなかった。最後に会ってからちょうど一ヶ月、ミコトにとっては長い一ヶ月だった。ホワイトデー当日ではあるが、クラブ内はいつもどおりの内装で高級感のある落ち着いた佇まい。ミコトも内装に合うオフホワイトのワンピースドレス、特にイベントがないときは大体この服だ。地味ではないかと少し不安になるが、サキュバスやアリスは褒めてくれるから変えるつもりはなかった。
開店直後の店内に客はいない。ミコトがぼんやり店の入り口付近を見ていると、扉が開いた。
「……あ」
青い髪を靡かせ、ヒイラギが現れた。彼は真っ先にミコトを見、金色の目を細めて笑った。
「ほら、行ってらっしゃい。店長には言っておくわ」
背中を押され振り返ると、サキュバスがにこにこと笑っている。頷き、ミコトはヒイラギに駆け寄った。
「いらっしゃいませ、久しぶりですね」
「うん、久しぶりだね。今日は白いドレスなんだ、よく似合ってて可愛いよ。ミコトさん、VIPルームに連れてってよ」
「わかりました」
淀みなく笑みを浮かべて呟くヒイラギの言葉は、予想どおりのものと甘いものが混ざっていた。頭に血が上るのを感じつつもミコトは真っ直ぐVIPルームに向かった。二人で座り心地のいいソファーに腰掛けるのも久しぶりだ。すぐ近くでヒイラギと目が合い、自然と笑い合った。
「ごめんね、ミコトさん。だいぶ間が空いちゃったね。魔王を倒すのに時間かかっちゃった」
「あ、はい……噂には聞いてましたけど、本当に魔王と戦ってたんですね」
「噂になってたの?どこで誰が見てるかわからないものだな……まあいいけど」
悪魔がするような世間話をヒイラギとしていることがちょっと可笑しい。彼はとても綺麗な人だが、魔界にいるだけにやっぱり普通の人じゃない。
「ホワイトデーに返事を聞かせてほしいって言ってたからね。僕が約束を破ったらカッコ悪いでしょ」
「律儀ですね。ありがとうございます」
頬をかきながら苦笑いをするヒイラギは人間臭く、さっきまで血生臭い話をしていたとは思えない。数秒ごとに印象が変わる彼は万華鏡に似ている。
「君に会いたいなって思いながら頑張ってた。褒めて?」
「お疲れ様でした。頑張ってたんですね」
ヒイラギはくすぐったそうに笑いながら、頭をミコトの方に傾けた。撫でてほしいということだろうか。ミコトは手を伸ばし、彼の頭をゆっくり撫でた。青い髪は澄んだ水の流れのように透き通り、ミコトの指の間を流れていく。
「ふふ、ありがとう。結構大変だったけど、全部吹き飛んじゃうな」
「そんなに言われたら、こっちが照れますよ」
「照れさせたいんだよ」
大人しく頭を撫でられつつも、ヒイラギは挑戦的な上目遣いを寄越してくる。子供の愛らしさと男性の野心が同居するちぐはぐさ、癒されてもときめいてもおかしくない。
「撫でてくれてありがとう。返事を聞きたいな……と思ったけど、その前に渡したいものがあってさ」
ヒイラギの掌に小さな箱。水色の綺麗な箱に白いリボンが結ばれている。
「ホワイトデーのお返し」
「あ、ありがとうございます」
箱を受け取り開けてみると、マカロンが何個か入っていた。パステルカラーが鮮やかで、美味しそうよりも可愛いと先に思う見た目だった。
「ホワイトデーでマカロンを渡すって、どういう意味か知ってる?」
「え?何か意味があるんですか?」
ヒイラギの指先が水色のマカロンを手に取った。ミコトの口元に近付けながら、彼は妖艶に笑う。
「『あなたは特別な人』って意味だよ」
「〜〜〜!!」
ミコトは息を呑み硬直した。閉じた唇をつんつんとマカロンで刺激される。ほら開けてよ、と言われているみたいで、ミコトはヒイラギの金色の瞳に見惚れながら口を開いた。マカロンが口に押し込まれる。噛むたびに優しい甘さが広がって心が落ち着く。
「ねえミコトさん、今日はちょっとだけお酒飲みたいな。だめ?」
「あれ?前お酒飲めないって言ってませんでした?」
「そんなこと言ったかな?何か飲ませてよ」
「え、あ、はい……」
彼が今までアルコールを頼んだことはなかったが、どういう風の吹き回しだろう。ミコトはキャスト、疑問には思うもののお客様の要望には応えねばなるまい。とはいえミコトはアルコールを飲んだことがなく、何か飲ませてと言われても何がいいのかわからない。少し聞いてきますね、とヒイラギに断りディオニュソスに聞いてみた。
「ほう、あのナホビノがついに酒を?今日という喜ばしい日にとっておきのワインがある。勧めてみてはどうかな?」
と言われ白ワインを渡された。澄んだ金色に輝く、見目麗しいワインだ。ヒイラギに尋ねると綺麗だね、飲んでみたいとの回答。ミコトはいつもどおりぶどうジュースを、ヒイラギには白ワインを注ぐ。とろりと流れ落ちる白いワインから芳しい香りが立ち、酒の味などわからないミコトでさえも興味を惹く。ワイングラスを持つヒイラギは優雅で、白ワインの色も彼によく似合っている。
「ふふ、ありがとう。乾杯」
「はい」
上等なグラスは乾杯の音すら軽やかで美しい。二人きりの空間に響いた上品な音を合図に、二人それぞれ飲み物を口に含む。ふう、とヒイラギがついた吐息に白ワインの芳醇な香りが漂い、ミコトも酔いそうになった。
「美味しいですか?」
「うん、すごく。ふわふわするね」
「ふわふわ……?飲みすぎないように気をつけてくださいね」
「もちろんだよ」
二人で美味しい雫を味わいながら、ヒイラギの話を聞いた。魔王の根城に仲魔と乗り込み、魔王軍を根こそぎ駆逐したとのこと。魔王城には風が吹き荒ぶ罠があり、うろうろ迷い大変だったらしい。そんな危険な場所が魔界にあったなんてとミコトは背筋が凍った。比較的安全な場所にいるからすっかり忘れていたが、そういえばここは悪魔だらけの場所だった。ジャアクフロストに拾われていなかったら本当に死んでいたかもしれない。
「ミコトさん、ありがとう。僕のお話を聞いてくれるのは君だけだよ」
そう語るヒイラギの頭は振り子のように揺れ、顔が赤い。白ワインをグラス二杯分くらいしか飲んでいないが、もしかして結構酔っている?
「あの、ヒイラギさん。大丈夫ですか?」
「なにが?」
「酔ってますよね?」
「酔ってないよ〜……ふふ」
彼の言葉は妙に間延びして聞こえる。普段よりもふにゃりととろけた笑顔を浮かべて可愛らしいが、そうなった原因がはっきりしているだけに心配になる。酒を飲めることを自慢げに語り酔い潰れた客が帰れなくなったこともあったが、彼は無事に帰れるだろうか。
「ミコトさん」
ミコトの膝の上に置かれた水色の箱、そこにあるマカロンを手に取り、ヒイラギは陽気に笑った。
「一緒に食べよ?」
そう言いながらはむ、とヒイラギはマカロンを口に咥え、ミコトの方に咥えていない端を突き出してくる。……丸いお菓子でポッキーゲームをするのは無謀だと思うが、彼はそのままの格好でじっとミコトを凝視している。餌を初めて取ってきた子犬が親犬に尻尾を振っているみたいだ。
「え……っと……いただきます」
戸惑っていると一生青い子犬が待っていそうな予感がしたから、ミコトは控えめにマカロンの端を咥えた。ちょっとでもヒイラギが食べ進めたら唇がくっつきそうだったが、ヒイラギはにこりと笑ってマカロンを噛み切った。……よかった。もしキスすることになったらどうしようかと思った。ヒイラギの赤い唇に目が釘付けになる。彼の青い髪、白い肌、金色の瞳、そのどれとも違う色の赤い唇は鮮やかに映え、妙にいやらしく見えてしまう。
「どうしたの、ミコトさん」
「うぇっ!?な、なんでもないです!」
「ん〜?そう?」
ぐっとヒイラギが身を乗り出し、ミコトの眼前に彼のご尊顔。白ワインの水面に似た揺らめく金色の瞳が甘くミコトを見つめている。形の整った唇が艶やかで呼吸が止まる。何回もこの部屋で彼と接してきたが、あまりにも距離が近いとその麗しさに言葉を失う。
「ん〜〜……」
こてん、とヒイラギがミコトの肩に倒れ込んでくる。慌てて抱き止めた彼の体は熱く、淡く赤らんだ頬ととろけた瞳。完全に「出来上がっている」状態だ。この状態に陥った客が自力で帰れた試しはない、救援を呼ぶ必要がありそうだ。
「ヒイラギさん、大丈夫ですか、ヒイラギさん!」
「ミコトさん……たぶん時間の途中だと思うけど、お金払うから僕のそばに、いて……」
「?えっと、精算してお帰りになるってことですか?」
「そうだよ……」
「わかりました。店長呼んできますね」
酔い潰れたせいで時間いっぱいまでいられなくなった客が途中で帰るなんてよくあることだ。店長に説明するとあっさり納得され、手早く精算を済ませる。後は帰ってもらうだけだが……VIPルームに戻るとソファーにヒイラギが寝転がっていた。目を閉じており、寝ているように見える。
「ヒイラギさん、精算終わりましたよ。大丈夫ですか?」
「うん……ふふ、ミコトさん、一緒に帰ろう」
「そういうわけには……」
薄目を開けたヒイラギに腕を掴まれた。思わず彼を見ると、唇の片方を不自然につり上げる不気味な笑みを浮かべていた。戦慄しミコトの体が強張った瞬間、ヒイラギの掌に何かがきらめく――小さな柱状の宝石に見える。ミコトが困惑している間に宝石が一際輝き、二人の体はVIPルームを離れ遠く知らない場所に飛ばされる。
「えっ!?」
ヒイラギに腕を掴まれたまま、ミコトは見知らぬ場所に座り込んでいた。近くの地面から青っぽい煙のような光が立ち上っている。ごつごつした岩石様の地盤、ずいぶんと久しぶりに見た青い空。ミコトがいたギンザ周辺は暗く淀んだ空に崩れたビルが乱立する場所だったこともあり、眩しい。思わずミコトは目を細めた。
「あ!ヒイラギ、来たヒホ!」
「ずいぶんと待たせたじゃない、失敗したかと思っていたわ」
ミコトのもとに悪魔が二体駆け寄ってきた。一体は白い雪だるまに手足が生えたような見た目で、白くてふたまわり小さな店長といった風体。もう一体は全身土気色の不気味な皮膚の女性に似た姿。上半身と下半身が分かれ断面から赤黒い肉が垂れており、背中に蝙蝠の羽根が生えているという恐怖心を煽る見た目だ。ミコトは戦えないし、ヒイラギもふにゃふにゃでそんな状態じゃない。ミコトは息を呑み、反射的にヒイラギを引き寄せぎゅっと抱きしめた。
「ミコトさん、大丈夫。二人とも僕の仲魔だよ。襲ってこないから」
「……そうなんですか?」
「うん」
雪だるまがミコトの前に立ち、ぶんぶんと手を振った。
「オイラはジャックフロスト、こっちはマナナンガル!オイラたち、今日カワイコちゃんと帰ってくるから待ってろって言われてたホー!」
「カワイコちゃん……?」
何を言われているのか理解に苦しむミコトの鼻先にマナナンガルの顔があった。蛇に似た細い舌が伸び、ミコトを品定めするように不気味に蠢く。
「あなたが『ミコトさん』ね?百合川ヒイラギが入れ込むなんてどんな子かと思っていたけれど……なるほど?こういう子が好みなのね」
「……?ちょっと、何が何だかわからないんですけど……?」
目の前にいる悪魔二体に敵意がないことは理解したが、状況が全く飲み込めない。疑問符が脳内で踊り続ける中、はっとミコトは我に返った。ヒイラギを抱きしめたままだ。慌てて手を離そうとしたところ、逆にヒイラギに抱きしめられた。両腕の中にすっぽり収まってしまい動けない。
「ごめんね、ミコトさん。君をどうしてもお持ち帰りしたかった」
「お持ち帰り……?」
「酔ってるのは本当だよ?」
ミコトが気にしているのはそっちじゃない。仕事をほったらかしにしてヒイラギとよくわからない場所に来てしまった。クラブと今いる場所の位置関係は不明、仮に場所がわかっても戦闘能力のないミコト一人では間違いなく帰れない。……ミコトは大きなため息をついた。
「……ヒイラギさん、なんで私をここに連れてきたんです?」
「君を独占したかった。できたらお店の外で」
ヒイラギはミコトを抱きしめたまま子供っぽい、心底嬉しそうな顔をする。顔が赤いのは酔っているからだろうが、表情自体にお酒は関係なさそうだ。
「そうだ、ジャックフロスト。チョコ持ってきてよ」
「ヒホー!ちゃんと冷やしてたホー!」
ジャックフロストが差し出してきたのは、見覚えのある箱。ミコトが作った生チョコレートが入っている箱だった。
「ありがとう、ジャックフロスト。よく冷えてるね」
「ヒイラギのお願いだからヒホ!ところで、オイラたち見張りに行った方がいいホ?」
「うん、そうだね。万が一があったら困るからよろしく」
「わかったわ。お熱いわね」
悪魔二体が空気を察して離れていく。そうだ、忘れていたがここは魔界だった。この場所では不思議とそこまで邪悪な気配がしないが。
「ミコトさんからたくさんチョコもらったから、一度に食べきれなくて冷やしてもらってたんだ。一緒に食べよう」
ヒイラギに手を引かれ、ちょうど座れそうな平らな岩の上に二人で座る。VIPルームのソファーと比べると硬いし冷たいが、それもたまには悪くない気がした。
「ミコトさん、食べさせて?」
彼のせいで絶賛強制サボタージュ中なのだが、小首を傾げて甘えてくる彼を見ていると怒りがチョコレートのように溶けていく気がした。どのみち彼を振り払ってクラブに戻ることはできないし、せっかくなら彼との時間を楽しんでおく方が得というもの。
「どうぞ」
ミコトが差し出した生チョコレートを遠慮なく口に含み、ヒイラギは愉悦に浸った顔で咀嚼していた。飲み込んだ後の満面の笑みは頬が赤いのも相まって、綺麗というより可愛らしい。
「ありがとう、美味しい。魔王を倒すまで我慢してたんだ。美味しいものは後にとっておいた方がいいよね」
「そ、そうですか」
「ねえ、ミコトさん?」
唇を妖艶に舐めながら、ヒイラギはミコトと距離を詰めた。近くで見つめるには美麗すぎる相貌が、ミコトの目の前にある。
「返事、聞かせてよ。僕のこと、どう思ってる?」
「あ……ええと……その……」
ミコトは俯いた。もじもじと指先を意味もなく動かし、時間が過ぎていくのに身を委ねる。彼は返事を急かすことはないが、そのままの姿勢でじっと待っている。彼の瞳は静かな金色の湖に見えた。いつまでも待ってくれそうだが、逃してはくれなさそうだ。
「……その、お店に来てくれなかったら寂しい、とは思ってました」
「僕の持ってくるお金がないと寂しいってこと?」
「そうじゃないです……ヒイラギさんに会いたいと思ってました」
「そっか。じゃあ、僕のこと好きってことかな?」
「……たぶん……」
俯きがちに呟くと、顎をヒイラギに持たれくいと上向かされた。至近距離で目が合ったヒイラギは穏やかに笑い、生チョコレートを口に放り込むとそのままミコトの唇を奪った。
「んっ!?」
完全に予想外の動作に硬直した隙に、ヒイラギの腕がミコトの腰に回り抱きしめられ逃げられなくなった。好きな人ができるまでと取っておいていたファーストキスは、蠢くヒイラギの舌で生チョコレートが押し込まれ、甘くとろけた味がする。舌の温度でチョコレートが溶けて少し空いた空間に、ほろ苦いワインの香りと渋味が広がる。生チョコレートに酒は使っていない、ヒイラギの飲んだワインの味と香りだと理解して頭がくらくらした。初めてのキスがチョコレートとワインの香り、彼の舌を絡ませながらの濃厚なものになり、息が止まった。不慣れなキスに呼吸の仕方がわからない。このままでは死ぬ、慌ててヒイラギの胸を叩いた。数秒後唇が離れ、ミコトは感じたことのない酸欠に息が荒かった。喉の奥にはうまく飲み込めなかったチョコレートの塊があり、唾液を目一杯飲み込んで何とか流し込んだ。
「ミコトさん、もしかしてキスって初めて?」
「……そうです。死ぬかと思いましたよ……」
「そっか。どうだった?初めてのキスは」
「……甘かったです。あと、お酒の味がしました」
ふいと顔を逸らして答えたが、ヒイラギにまたぎゅうと抱きしめられて、すりすりと顔を肩に擦りつけられた。何がそんなに嬉しいのか、甘える子猫の可愛らしさでヒイラギは笑っている。
「ね、ミコトさん。僕、頑張ったんだ。君との約束を守りたくて、超特急で魔王を倒したんだよ。君の膝、貸して?」
「……魔王と私は全然関係ないですよ?」
「関係ないかもね。じゃあ、頑張った僕のために膝枕して?」
肩に顎を乗せ、ヒイラギがちらりと見上げる視線を寄越す。潤んだ金色の瞳の上目遣い、きっとミコトでなくとも言うことを聞いてしまう魔性がある。黙ってぽんぽんと膝を叩くと、ヒイラギはぱぁっと笑顔の花束を咲かせ、嬉々としてころりと寝転んだ。仰向けになり、ミコトを見上げてにこにこと笑う。
「嬉しいな。ミコトさん、ありがとう」
今夜は彼の策略に嵌められた気がするが、それでもよかった。ミコトは諦めの息をつき、苦笑いを零しながらヒイラギの頭を撫でた。目を細めてくすぐったそうにする彼は、可愛げのある小悪魔に見えた。